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日大のリスク管理のなさは、日大アメフト部ではなくて、教育組織としての日大の妥当性を疑わせる [教育論]

5月6日にあったアメリカンフットボールの日本大学と関西学院大学との定期戦で、日大の選手がプレー後に悪質なタックルをして関学のクォーターバックの選手を負傷させた問題は、日大にとって最悪の状態へと、内田監督そして日大のリスク管理のなさから突入している。日大は危機管理学部という学部があるそうだが、もはや皮肉というよりかは冗談で笑い飛ばすしかないような状況である。

分岐点は19日にあったかと思う。この日、内田監督は負傷した選手や保護者に遅まきながら謝罪し、その後、「日大の監督を辞任する」との会見を行った。会見では、「全て私の責任」といいつつ、反則をした日大の選手に「反則を指示していない」と言い放った。その前から、アメフト関係者が「あのようなタックルをすることは指示なくしてはまずしない」、「もし、あのようなタックルを指示なくしたら厳しく叱咤され、試合に出られなくなる」と指摘していたことから、「反則を指示していない」と言ったことで、内田監督は「全て私の責任」といいつつ、本質的に自分が教育者として監督して守るべき日大の選手にすべての責任を押しつけたのである。この対応は不味かった。

これによって、信頼していた監督に裏切られた日大の宮川選手が22日、単独で会見にのぞみ「反則行為の指示があった」と述べた。このようなことを一学生に言わせるまで追い込む日本大学という教育組織は、もうここでまともに機能していないと思わせるのだが、それを受けて23日、再び日大本部で内田監督と井上コーチが会見に臨む。そこで、そのような指示を否定した。この対応は本当に不味い。宮川選手に会見をさせてしまった時点でもうチェックメイトされているのだ。基本、宮川選手に会見をさせないよう誠意を示す対応を事前にしなくてはならなかっただろうに、19日の会見での誠意のなさが、宮川選手を表舞台に出させてしまった。もう、ここで堪忍して、日大も内田監督ではなく、理事長が出てきて収拾を図るような対応をしなくてはならなかったのに、また、ここで内田監督が会見をして、火に油を注いでしまった。

宮川選手は日本を代表する選手であった。彼が辞めることを受けて、内田監督は「こんなにも(アメリカンフットボールを)嫌いになってしまうのか」と会見で述べたが、彼が嫌いになったのはアメリカンフットボールではなくて、日大のアメリカンフットボール、内田監督のアメリカンフットボールである。この発言を知り、私は、まだ内田監督はこの一件がこれほどまでも世間の耳目を集めている本質を理解していないような感想を抱いた。

そして、私を含む知り合いの大学関係者も、もはや日大のアメリカンフットボール部ではなくて、日大という教育組織へ不信の目を向けている。というか、自らの学生を自己保身のために切り捨てることを、これだけ世間が注目されている中でよくやるな、ともう呆れかえるしかない。親としては、そのような大学には子供を預けたくないし、同じ教育関係者としては許せない気落ちを抱かせる。良心をもって教育や大学校務、研究などに勤しんでいる日大の教職員には同情するが、そのような良心も吹っ飛んでしまうようなとんでもない状況に日大はおかれていると思うし、そういう危機意識をもって対応しないと日大のブランドは地に落ちると思う。

23日の会見で司会をした職員が会見を打ち切ろうとしたところ、報道陣が「あなたの発言で日大のブランドが落ちますよ!」と言われると、それに対し、「ブランドは落ちません」とクールに言い返したそうだが、もう日大のブランドは失墜している。というか、ブランドというレベルではなくて、果たして教育組織なのか、と問われるぐらいの失言を23日にはしてしまったのではないか、と私は思っている。

いろいろと不愉快な思いも多いが、私も教育者の端くれとして、「他山の石以て玉を攻むべし」と気持ちを新たに、自らの大学教員としての仕事に励もうと思う。今日は、新たなゼミ生の選考日である。14人定員のところ23人ほどが応募してくれた。しっかりと、うちのゼミを選んだことを後悔させないように指導すると同時に、彼ら、彼女らを守らなくてはいけないなとも思う。

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宇宙団の下北沢のモナ・レコードでのライブ(2018/05/13) [宇宙団]

宇宙団のライブを下北沢のモナ・レコードで観ました。モナ・レコードには以前も行ったことがあり、どこでライブをするのだろうと思ったら、喫茶店の上にライブ用のスペースがあったのですね。さて、昼のライブだったからかもしれないが、60人ぐらいいた客のなんとほとんどが男。本当、女性は少人数しかいなかったです。宇宙団がブレークスルーするには、若い女性ファンを獲得するのが重要だと読んでいる私としては、なんか不安なライブでありました。と、自分も中年男なのですが、そのことを棚に上げて思いました。ししゃもとかと違って、なまじっか美形なので(特にドラムとか)、それでヘンなファン層を築きあげてしまったのかもしれません。とはいえ、この状況はほとんどアイドルのライブのようなので、若い女性が逆に来にくいかもしれない。ううむ、今度、女子限定ライブとかするといいんじゃないかな。

もう一点、気づいたのは確実に演奏テクニックは向上している。そもそもベースは既にセッション・ミュージシャンとして仕事が来ているレベルにあるので、もう上手いのは当然なのですが、それにしても、今日の演奏レベルは高くてちょっと圧倒されました。というか、手に汗握るような感じ。まあ、これだけテクニックがあれば、この道で生きていけるでしょう。望月のボーカルも今日は、とてもよかった。とはいえ、ギターでトラブルがあったのは残念でしたが、そのフォローも完全にプロの対応でしたね。恋は宇宙、文明鎮座、ポンポンガール、夏に寄せて、ヘルプ!。ううむ、超キラーチューンのラブリー・チューンをやらないのは何だろう、と思ったりしましたが、ガチの男性ファン相手だったら、敢えてやらなくてもよかったかもしれません。

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(ここからステージまでの観客は全員、男。私の後ろの方には女性が少しだけいたけどほとんど男。このままじゃあ、あかん)

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「働き方改革」よりも必要なのは「中央集権改革」である [サステイナブルな問題]

政府は「働き方改革」を進めている。厚生労働省のホームページでは、働き方改革の背景として、「「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」に直面しているので、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題」が挙げられ、そのために「働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています」ということだそうだ。
 多様な働き方を選択できる社会の実現・・目標は素晴らしい。しかし、そのための政策はこの目標を実現させるためにどれほど有効なのだろうか。個人レベルで考えると、「多様な働き方」も重要かもしれないが、その仕事をすることで、その道のプロフェッショナルになれるような働き方が望ましいと思う。働いている方の多くの不満は、自分が雇用されている立場にあることだろうと私は捉えている。実際、社会人になった卒業生の不満のほとんどが「雇用されている立場」にあることに起因している。また、個人で仕事をもらっている場合は、報酬の交渉ができないほど仕事の質がプロフェッショナルではないことが、長時間労働や低報酬の大きな要因となっている場合が多い。これは自分にもあてはまることなので書いていてちょっと辛いが、例えば、私がよく仕事をお願いしていたビデオカメラマンに、2年振りに仕事の見積もりをお願いしたら、それまでの3倍以上の見積もり額を出されて戸惑ったことがある。これは、その2年間で、彼はNHKの仕事なども来るようになり売れっ子になってしまい、市場の需要価値が高まったためである。私は多少、値切りをお願いしたが、これまでの2倍程度の金額で彼にお願いをした。それは、彼の価値はそれだけの金額に相当すると思うからである。
 要するに、多くの働いている人の不満は「雇用されていること」にある(いや、雇用されていてハッピーな人もたくさんいると思うが、彼らは逆に働き方改革は必要ない)ので、「雇用されない」働き方を模索することも必要であると思う。そもそも、「雇用される」ということはそんなに望ましい状態にはなれない。なぜなら、お金をもらっているからであり、お金というのは相当、正直だからである。それでは「雇用されない」働き方、すなわち独立すればハッピーになるかと言うと、そうでもなく、そのような状態で仕事を回していくためには、プロフェッショナルとしての市場価値を有していなくてはならない。美味しい料理を出すレストランであれば高い値段をつけても商売はできるが、美味しくない料理しか出せないレストランであれば安さで勝負するしかなく、また安くてもファストフードやチェーン店には負けてしまうかもしれない。前者は給料も高くなるだろうから、働く時間も自分でコントロールできるし、やり甲斐も感じられるだろうが、後者は生き延びるのに必死だろうし、「雇用されている」方がまだましと思うかもしれない。
 このように考えると、自分が「美味しい料理」をつくれるようになることが何しろ肝要となる。
 私は民間会社から大学、さらに大学でもより自分の能力が発揮でき、給料も高くなる大学に最近移ったので二度転職したことになる。民間会社から最初の大学に移る時は、大学教員のハードルというのが大変高くて、大学教員になろうと思ってから3年以上はかかった。当時は博士号がないというのが、極めて不利に働いたのである。その3年間で大学教員になるために私がやったことは、目の前の仕事に没頭して、しっかりとやるということであった。これは、民間会社とはいえ、私の働いていたところは研究所であったので、その点は普通の民間会社に比べると大学教員の転職という点では有利であったかもしれないが、とにかく会社の仕事のアウトプットの質を高めることに注力した。そのため、会社でも家でもほとんど仕事漬けの日々を送った。これが、結果的に研究者としての私の価値を高めて、首尾良く大学に移ることができた。振り返ると、ここで、会社の仕事は最低限にして、大学に入るためのアリバイづくりの研究などにうつつを抜かしていたら、おそらく転職することはできなかったであろう。
 そして、再び今の大学から「誘い」があって、転職することになるのだが、それを知り合いの教員に報告すると「徳を積んできたからね」と言っていただいた。自分では「徳を積む」というような意識はなかったのだが、プロフェッショナルとしての市場価値を少しでも高めようとしていたことが、このような縁を生んだのかなとは思ったりする。仕事人として「徳」を積む、そのために精一杯仕事に勤しむ。そのような環境をつくることが重要であり、そうすると長時間労働も場合によってはプラスになったりもする。私が会社時代で理不尽を感じたのは、労働時間の長さではなく、年間ノルマの受注額(私のいた会社は研究所であったが受注ノルマがあった)をクリアしたのに、さらに受注しろと言われた時である。私はその時、クライアントにこの額を出してくれたら他の仕事を受注せずに、これに専心できます、といってその額をもらったにも関わらず、上司は平気で私がクライアントに嘘をつくようなことをさせようとしたのである。
 私のプロフェッショナルとしての市場価値は大したものではまだまだないが、そのように日々精進できるような働き場を確保できることは重要なことだと思うし、プロフェッショナルとしての市場価値があれば自分が職場に不満を持っていたら辞めることができる。このいつでも辞めることができる、という状態に自分を持って行くようにすること、しかして、そのように持って行けるような環境を社会にてつくることが重要である。
 しかし、そのような社会をつくろうとしている肝心の厚労省の人達が、プロフェッショナルとしての市場価値を自ら、問うこともなく、国家公務員という高給の体系に守られているというのは皮肉だなと思う。20代での試験の結果によって、その安泰とした職業に就くことができた人が、厳しい市場の中で自分の市場価値を磨こうとしている人達に余計なアドバイスをするな、と私は生意気にも思ったりもする。また、大学こそ、自らの市場価値を高めるための人間の幅を大きく広げるチャンスであるにも関わらず、文科省の指導はまったく逆に、既存のフレームワークでの勉強を強いるような、創造性がまったく感じられないシステムを大学側に押しつけている(特に、アクティブ・ラーニングの指導要綱などは冗談以外の何ものでもない)。
「働き方改革」とかを考える前に、財務省をはじめとして「中央官庁改革」を誰かが考えるべきではないだろうか。経済が成熟し、また人口も縮小していくような状況下で、これだけの大国であるにも関わらず、あまりにも中央集権である。「働き方改革」などは、国が旗を振ってやるようなものではなく、地方ごとに考えるべきことであろう。いや、本当、連邦制の道州制を導入することを真剣に検討すべきではないだろうか。それこそが、一億総活躍社会が必要とする基礎的インフラストラクチャーであると考える。

タグ:働き方改革
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荒島岳(日本百名山29座登頂) [日本百名山]

長浜のホテルにチェックインし、元会社の同僚と翌日の天気をチェックする。元同僚は「てんきとくらす」という優れたアプリをみながら、翌日の14時頃には荒島岳の山頂は晴れそうだとする。ということで、せっかくここまで来たということもあり、朝の5時にロビー−集合という予定を立てる。
 朝の5時に自動車に乗り込んで荒島岳に向かう。北陸自動車道は雨がパラパラと降っている。同僚は「てんきとくらす」によると荒島岳はEという。ちなみに、「てんきとくらす」の評価はA〜Cであり、Aは「登山に適切」、Bは「登山にやや適していない」、Cは「適していない」であり、Eという評価が何かもよく分からない。私は職業が大学教員なので、それから類推すると、登山を考えること自体、非常識というようなことか。どうも、その日の明け方は荒島岳には雪が降ったそうである。
 とはいえ、荒島岳の登山口には向かった。荒島岳には大きく4つの登山ルートがある。最も人気があるのはJRの勝原駅を起点とする勝原コースである。ただし、これは非常に急登で厳しいという情報がウェブサイトに書かれていたので、中出(なかんで)コースを選んだ。これは、歩行距離は長いが、標高差もほぼ同じで、時間も10分ぐらい余計にかかるぐらいである。途中、コンビニで食料を購入する。中出コースの登山口の駐車場には7時ちょっと過ぎに着く。雨はパラパラとは降っているが、青空のようなものも見える。元同僚は、前線の雨雲が断続的に動いているが、そのうちなくなると指摘する。そして、14時頃には山頂も晴れそうだ、と言う。そのような状況なので8時30分まで逸る気持ちを抑えて、8時30分まで登山口の駐車場で仮眠を取ることにする。小雨が時折、車のフロントグラスに降る。その音を聞きつつ、前途多難かもしれないと思うが、とりあえず急いては事をし損じると自分に言い聞かせる。さて、とはいえ二人とも8時20分ぐらいにはいてもたってもいられない気持ちになり準備をし始めるような感じになる。念入りにチェックをすると、9時頃にはどうも空も明るくなってきた。ということで、登山を開始する。中出コースは途中までは林道を歩いて行く。そして、途中で分岐する。登りはまあまあきついが、驚くほどの急登ではなく、このコースを選んで正解だと思う。歩いて1時間30分ぐらい経つと、西側に雪山が見えてくる。なかなか美しいと思いつつ、あそこの山に雪が積もっているのであれば荒島岳の山頂も間違いなく雪が積もっているなと、不安な気持ちが首をもたげる。

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(登山開始時の駐車場の様子。まだ空は曇っている)

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(しばらく歩くと、素晴らしい山並みの展望を時折、見ることができる)

 ここらへんからはブナの森の中を通っていくのだが、これが非常に気持ちよい。元同僚が言うには、このブナの森を目的にここに来る人もいるようなのだが、それも納得だ。改めて本州の風土の美しさをつくる重要な要素はブナの森であるなと思う。高度が上がるにつれて、雪が目立つようになり、遂に登山道が雪でみえなくなっているようなところも現れた。靴の足跡を辿って行くと、その靴跡をつけた人も道を間違えていたようで、どこにも行けなくなっている。後ろを歩いていた元同僚が、どうにか正しい道を見つけたので事なきを得たが、単独登山だと下手したら道に迷ったかもしれない。雪の怖さを思い知る。

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(中出コースは素晴らしいブナ林の中を歩いて行く)

 さて、2時間30分ぐらい経つと、小荒島岳との分岐点に到着する。この分岐点から1分で小荒島岳には行ける。私は体力もないため、10秒でも寄り道をするのを躊躇するタイプなのだが、元同僚は当然、行くでしょうという感じで向かっていく。私はしょうがないな、とついていったのだが、ここからは360度の展望だけでなく、荒島岳の素晴らしい山容を目の前にすることができる。今回の登山は、素晴らしい景色を十二分に堪能したが、小荒島岳からの展望が最も優れていた。荒島岳に登る人は是非ともここに登って欲しい。というか、ここにアクセスできるという事実だけで、勝原コースではなくて、中出コースを選ぶべきではないかと考えるくらいである。

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(小荒島岳から見る荒島岳の見事な山容)

 そこから勝原コースとの分岐点であるしゃくなげ平までは30分ちょっと。5月ということで、シャクナゲはもちろんのこと登山道沿いには白木蓮のような花も咲いていて楽しませてくれる。さて、しゃくなげ平から荒島岳の山頂までは1時間ぐらいだそうだが、途中、もちが壁という難所を通る。普通の状態でも雪が積もっていたらさらに大変だ、と戦々恐々とした気分で登り始める。ただ、幸い、もちが壁のロープがあるような急斜面では雪は積もってなく、雨が降った直後で泥濘んでおり、泥まみれにはなったが、どうにか登ることはできた。しかし、もちが壁の後に登山道が雪で完全に被われているところがあった。ここは下ってくる登山者達が異口同音に、「大変なところがある。とはいえ、アイゼンは必要はない」と言っていたところだ。この難所は、登山道が急に1メートルぐらい積もった雪に被われて壁のようになっており、その雪の部分にまではい登らなくてならないような状況になっていた。私よりも度胸がある元同僚がここを登ろうとしたら、足をひっかけ損ねて酷い状態で雪のない泥の道を滑ってしまった。私はそれをみて、これは雪というよりかは、泥の部分を歩くためにアイゼンが必要だと考え、ここでアイゼンを着ける。アイゼンを着け終わって顔を上げると元同僚の姿はなくなっていた。どうやったのかは分からないが、アイゼンを着けずに登ったようである。さて、私はアイゼンを着けたこともあり、滑らずにここをクリアすることができた。雪の壁の場所を通り過ぎても、しばらくアイゼンを着けて歩いていたが、結局、アイゼンが必要だったのはこの部分だけであった。


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(シャクナゲ平を過ぎたところに生えていた白木蓮(だと思われる花))

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(登山道の前に立ちはだかる雪の壁)

 この難所を過ぎると、それほど苦労せずに荒島岳の山頂に登ることができた。時間は13時40分。登り始めてから4時間40分ちょっとである。さて、展望は素晴らしかったが、風が強いこともあり、降りてしゃくなげ平で食事をすることにする。下りでは、私だけでなく元同僚もアイゼンをつけて例の難所を通り抜けることにする。アイゼンをつけると、やはり雪の上での安定性は格段に向上する。

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(山頂そばの登山道から見た白山の山々)

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(山頂での証拠写真)

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(山頂から能郷白山方面を望む)

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(山頂から見た白山の山々)

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(山頂から越前大野市街を望む)

 下りはなかなか太股、足首、膝に来たが、幸い、痛みを伴うこともなく、無事に17時30分には駐車場に着くことができた。
 その後、郡上を経由して、新東名で家路へと急いだが、結局、その日のうちには帰宅できず、家に着いた時は1時を回っていた。これは、荒島岳と伊吹山を登る順番を変えたからだが、伊吹山はともかく、荒島岳は素晴らしい登山を体験することができて、たいへんよかった。

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(戻ったら駐車場には西日が差していた)
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伊吹山(日本百名山28座登頂) [日本百名山]

昨年の8月にアイスランドで捻挫をして以来、登山をしたのは一度だけである。それも吾妻山と大して難しい山ではなかった。捻挫をしてからほぼ9ヶ月。まだ本調子ではないが、五月の連休であり、これはチャンスということで荒島岳と伊吹山に5月3日と4日の二日連続でチャレンジすることにした。元会社の同僚に付き合ってもらった。
 さて、初日は行程も長く、東京からも離れている荒島岳にチャレンジしようと計画し、越前大野にある旅館に宿を取ることにした。そこでお弁当をつくってもらい、朝の6時前に出発しようと思ったのだが、越前大野は雨が降っていた。翌日も雨がひどく、とても登山をするようなコンディションではない。ということで、荒島岳の登山は諦め、伊吹山も雨がひどいようなので、とりあえず比叡山にでも登山し、そのまま伊吹山登山の拠点として予約した長濱のホテルに行こうかと思い、眠りにつく。
 3日はゆっくりと7時30分に食事を取り、宿は8時30分ごろに出発する。宿のおばさんも前日に荒島岳に登山した人が散々な目に遭ったという話をしてくれる。「今日はとても無理だろう、残念ですね」と慰められ、宿を後にする。さて、そして北陸自動車道で比叡山に向かう。彦根IC経由でのルートだ。10時頃、賤ヶ岳サービスエリアで休憩をすると、どうも天気は快方に向かっている。そして、なんと伊吹山の全容が姿をみせた。これは、比叡山ではなくて今日、伊吹山に登ってしまおうと相談し、そのまま長濱インターチェンジで降りて、伊吹山の登山口へ向かう。途中、コンビニで食料と水を購入する。
 さて、伊吹山の登山口は10時40分頃に着く。駐車場に行くと、おばさんが我々に話しかけてきて500円で家の駐車場に停まらせてやる、と言ってくる。登山口のリフト乗り場の駐車場代も500円だったので、そのまま停まらせてもらう。500円を支払うとお煎餅と飴を二粒ほどくれた。さて、伊吹山はマイカーは通行禁止なのだが、タクシーであれば3合目まで行くことができる。久しぶりの登山で足首に不安があり、また、大きく出遅れていたこともあり、このおばさんにタクシーを呼んでもらうようにお願いする。15分くらいは待つよ、と言われたが、大丈夫と回答する。さて、しかし、タクシーは呼んだらあっという間に来た。どうも、他の客を3合目まで送ってきた帰りに電話を受けたようである。
 タクシーは狭くてくねくねとした道路を上っていく。その途中、300円の有料駐車場が多くあることに気づく。さきほどの駐車場の煎餅と飴は、この200円差の埋め合わせかと思ったりもした。
 3合目までは15分ぐらいで着いた。料金は2430円。高いといえば高いが、これで時間でいえば1時間30分、標高差で570メートルを稼いだと思えば安いものだ。二人で割ったので一人の負担は1200円ちょっとだし。さて、山頂にかかっている雲は気になるが、少なくとも雨は降っていない。3合目は2010年に閉業した伊吹山スキー場のゴンドラの山頂駅があったところである。2011年までは登山客のためにゴンドラは操業していたのだが、これも中止された。3合目にはスキー客のためのレストハウスの廃屋が二軒ほどあり、なんか寂寥感が漂う。

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(三合目にあるスキー場のレストハウスの廃屋)

三合目を出発したのは11時ちょっと過ぎ。気持ちよく、この石灰岩の登っていく。三合目の標高は770メートル。山頂は1377メートル。およそ600メートルの登山である。木がほとんど生えていない登山道からは琵琶湖の素晴らしい景観を楽しむことができ、気持ちよい登山ができる。30分後には5合目に着く。ここには自販機があり、ベンチもある。ただし、自販機の飲料水のペットボトルは240円となかなかの値段だ。3合目から1時間弱で6合目。ここらへんから雨が降り始めたので、カメラをリュックにしまい、ひたすら登山に専念する。途中からは、ほとんど這うようにして岩山を登っていく。雨が降った後で泥は滑りやすくて注意が必要だ。山頂近くは雲に被われ、視界はほとんど得られない。

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(五合目)

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(五合目にある自販機。ペットボトルは240円)

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(登山道から展望した琵琶湖の長浜の街並み)

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(米原市方面の展望)

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(山頂の周遊道路と合流する。山頂まではあと少しだ)

 山頂に着いたのは三合目を出発してから2時間弱経った13時ちょっと前。伊吹山頂は歩いて30分ぐらいのところまで道路が通じていることもあり、山頂には結構の人がいた。そういうこともあり、山頂には多くのレストハウスがあり、わざわざ食事を持って登ってきたのがちょっと馬鹿らしい。山頂は視界がないのに加え、なかなか風も強く寒かったこともあり、レストハウスに入り、コンビニで買ったサンドイッチを頬張る。レストハウスには申し訳なかったのでお味噌汁を注文するが、店の人は気にしなくてもいいと言ってくれる。なかなか優しい店員であった。とはいえ、このレストハウス群は登山の詩情をまったく喪失させる。ここまで風情がない百名山もなかなか珍しい。筑波山並みの情緒がない山頂である。

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(山頂での証拠写真。霧で視界はまったく得られない。そして、風が強く寒い)

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(レストハウスで休憩する)

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(レストハウスの外観。サービスはとてもよかった)

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(山頂にあるレストハウス。山頂の風情はまったくなく、ちょっと脱力する)

 「てんきとせいかつ」のアプリによれば15時ぐらいになると霧は晴れるという情報であったが、15時まで待っていると下山をすると17時30分になってしまう。流石にそれは遅すぎるだろうということと、レストハウスのおじさんが「これからは天気は悪くなる一方だ」と言うので13時30分には下山を開始した。しばらくは霧の中であったが、7合目ぐらいでまた視界が広がる。琵琶湖や関ヶ原、そして鈴鹿山脈の山容が美しい。登っている時にはそれほど気にはならなかったが、なかなか勾配はきつく、下りは結構足首に負担が大きい。足首を捻らないように気をつけて高度を下げていく。15時頃になると、伊吹山の山頂がくっきりと見える。ちょっと悔しい気持ちにもなるが、そのまま帰路を急ぐ。三合目に戻ったのが15時40分。伊吹山のずっしりとした山容が綺麗に見えて、悔しさが再びぶり返す。駐車場にもどったのは17時ちょっと前であった。駐車場のおばさんは、ブラシを貸してくれる靴を洗うといいよ、と言ってくれた。泥んこ遊びをしたように靴とズボンは泥だらけだったのだ大変助かった。200円の差額以上のサービスを得られたような気分であった。

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(15時ぐらいには山頂が姿を現す)

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(三合目に戻った時には、山頂だけでなく青空も見られた)
 

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ヘルプ! [宇宙団]

最新作の「それなりのつよがり」のトップを飾るということで、バンドとしても相当、自信を持っているのではないかと思われるのだが、私はこれを下北沢ベースメント・バーで初めて聴いた時は、ちょっとムムムムと思ってしまったのである。そして、「それなりのつよがり」全体を通して聴いてみても、圧倒的な存在感のある「ラブリー・チューン」や素晴らしいメロディが頭に刻まれる「夏に寄せて」、さらにはさびのフレーズが印象的な「日本のヒーロー」に比べると、なんか今一つ感を覚えていたのである。しかし、先日のライブで演奏した時は、私も凄い高揚感を覚えたし、周りの観客の盛り上がりも凄かった。

この曲は、ティーンの女の子達が共感するような秀逸な歌詞が特徴である。「私は強い・・嘘です」という出だしの切なさに共感をする女子中学生・女子高校生は多いだろう。さびから入る展開が、唐突感を与えるのかもしれないが、この曲を聞き慣れるとそのようなことがなくなる。また、宇宙団の他の曲にも見られることだが、何しろ、展開が激しい。バスケットボールの選手でいえば、ベン・シモンズのような変幻自在のポイントガードのように、次にどう展開するかが分からない。ヘルプは特にそのような傾向が強いので、初めて聴くと、曲の全体像が分からなくて、うまくのることが出来ないのかもしれない。しかし、逆に聴けば聴くほど味が出てくる。そういう曲なのかもしれない。と書いていて、だからこそ一曲目に持ってくるような曲じゃあないんじゃないか、と確信したりもするのだが、まあ、そこらへんの予測不能な行動も宇宙団のご愛敬かもしれない。ちなみに、この曲での望月のギターは素晴らしいと思う。テーマで歌いながらのカッティングも絶妙であるし、そしてソロも素晴らしい。女の子であるのに、重いレスポールを弾き続けるのは、音への拘りかと思うのだが、そういう姿勢立派だ。まだまだ若いので、これからも望月のギターは上達するであろう。そういうことを感じさせるぐらい、この曲のギター・プレイは優れている。


それなりのつよがり

それなりのつよがり

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



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緑の美しさを考察する [サステイナブルな問題]

仕事場が京都なので、毎週、京都を訪れる。というか、通勤している。さて、新緑のシーズンなので京都の山々は目に優しく、心洗われる。というか、新幹線からの車窓の緑も美しい。日本の自然は本当に美しいと思わせられる。新緑は、春紅葉とも言われたりするが、その美しさというのは緑のグラデーションにあるかとも思われる。それは、また生物多様性の美しさでもある。
 一方で、林野庁が杉植林を一生懸命やったところは、単調な緑で全然、美しくない。それは、愚かなる公共事業の醜さを表している。ただ、このような単調な針葉樹の緑の森でも美しいと思う人がいる。こういう人がなぜ、それらを美しいというのかはちょっと不思議だ。例えば、新緑の森の絵を描け、という課題をもらったら、単調な緑の森を描く人は絵心がない人か、よほどのひねくれ者に限られると思われる。もしかしたら、単調な緑を美しいと思う人は、美しい緑や森をあまり見たことがないのではないか、と思ったりもする。そして、そのような人は京都にはほとんどいないと思われるのである。もっと緑を見ることが、東京の人などは必要ではないか、と自分を含めて思ったりする。
 

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「玉川上水と生物多様性」の講演に、あまりに多くの人が聞きに行ったので驚く。 [サステイナブルな問題]

「玉川上水と生物多様性」の講演を武蔵小金井に聞きに行く。「小金井玉川上水の自然を守る会」が主催での講演である。私はちょっと遅れて訪れたのだが、驚いたのは、その参加者数の多さである。250人以上は入っているだろう。生物多様性について、一般市民の強い関心が伺える。ほぼ高齢者であるが、なかには若者もいる。
 講演者は3名。最初は東京学芸大学名誉教授の小泉武栄先生の話である。玉川上水の生態系についての講演であったが、小平駅を南北に通り、玉川上水を分断する道路について、強い懸念を示していることを話して、私は目が覚める。私はこの道路に関しては、むしろコミュニティ分断といった点、生活アメニティの悪化という点から懸念を抱いていたが、生態系的にも大変深刻なダメージを与えることを専門家は考えていることが分かった。
 また、小泉先生が話されたことで、私が興味を抱いたのは、東京都には自然史博物館がなくて、恥ずかしいという指摘であった。科学博物館はあるが、それは国のものだけで東京のものは展示していない。伊豆諸島や奥多摩だけではなく。武蔵野台地にも都心にも調べれば面白いものがあるのだが、そういうものがない。先生はオリンピックの記念事業でそのようなものをつくるべきだと述べていたが、私は、それこそ築地市場跡地につくるべきものではないかと思ったりした。現在は、食のテーマパークをつくるような計画を考えており、隣接する市場外の民間企業が強く反発していたりする。和食博物館、みたいなものや料理学校のようなものであればまだしも、テーマパークという発想が本当、センスがない。そもそも、築地市場のようなオーセンティックな施設のあとに、偽のテーマパークを公共用地の跡地につくるという発想を、そこらへんの素人が出すならともかく、東京都庁が出すというのは根源的に行政の役割を分かっていないのではないか。都庁の職員達はエリート集団である。どうして、こんな発想が出てくるのかが不思議だ。
 閑話休題。話が横にそれたが、そんなテーマパークをつくるよりかは、この浜離宮に隣接し、東京湾という素晴らしい自然に隣接する、この築地市場跡地に自然史博物園をつくるのは、なかなかいいアイデアなのではないだろうか。
 次は明治神宮の自然に詳しい新里達也先生の講演である。明治神宮の豊かな自然がよく分かる講演が為されていたが、このような話も前述の自然史博物館で展示されたりすると、国民だけではなく、インバウンドの観光客が日本の理解を深めるうえでも役に立つであろう。
 三番目は、国連生物多様性の 10 年市民ネットワーク代表である坂田昌子氏である。琵琶湖の生態系がどんどんと貧相になっている、という話をされた。生物多様性とは、命の循環がうまく回っている状態、であると言う。また、生物多様性と人との関わりとが重要であると言う。さらには、地域絶滅という概念の話も私の興味を惹いた。ツキノワグマは九州では絶滅、四国でもほぼ絶滅したそうである。そうすると、ツキノワグマの遺伝子の多様性は随分と脆弱になっているようだ。その種が例え、絶滅していなくても、九州ツキノワグマは本州ツキノワグマと同じようで全く同じという訳ではないようなのだ。そういうことは、私は勉強不足でもあり、知らなかった。
 なかなか勉強になった。資料代ということで300円支払ったが、もっとお金を取ってもいいのじゃないか、という有意義さである。というか、立ち見も出たので、それはちょっとだけ運営側としては問題であったかもしれない。これを料金を取ることで調整できるのであれば、特に私のように地元以外での人からはとってもよかったかとも思う。
 それにしても、こんなに人々は生物多様性とかに関心を持っていたのだな。これは驚きと同時に、民主主義的なパワーも感じる。というのも、行政が自然や生態系を維持できない時、それらを守ろうと動き始めるのは市民であるからだ。それはイギリスでもアメリカでもそうである。

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宇宙団のライブ@渋谷LUSH(4月22日、2018年) [宇宙団]

宇宙団のライブを渋谷LUSHで観る。なかなか最近、観るチャンスがなかったので二ヶ月ぶりである。さて、これまで宇宙団のライブの観客は私のような中年男性の割合が高くて、これは問題だなと自分のことは棚に上げて心配をしていたのだが、今日は圧倒的に若者が多く、また、若い女性も増えていた。若い女性が増えてくれば宇宙団は大丈夫だと思っていたので、大変、喜ばしい。

一曲目は私は初めて聴いた新曲。というか、レコ発記念コンサートの一曲目に新曲を持ってくるという感覚が私には理解不能。とはいえ、この新曲はとてつもなくレベルが高く、まあ、そのうち重要なライブ・レパートリーになることは間違いない。とんでもない才能ではあるが、でも、ちょっと出し惜しみをしてもいいと思うのだが。そして、「恋は宇宙」。これも新譜に入っている曲ではない。そして、ようやく「文明鎮座」、「しあわせ宣言」と新譜の曲をやる。しかし、その後も新曲を演奏したりして、これもいい曲だったが、新譜を売る気があるのか、とちょっと説教をしたくもなる。そして、「ラブリー・チューン」。この時の観客の盛り上がりは凄い。「ラブリー・チューン」が宇宙団の人気を一段上げたというのはおそらく間違いない。続けて、「夏に寄せて」、「ヘルプ」。アンコールでは「日本のヒーロー」。結局、新譜からは8曲中6曲を演奏したので、それなりにレコ発記念コンサートという形にはなっていたのかもしれない。今日はたくさん演奏してくれたので、来た甲斐があった。

バンドは実は、ちょっと演奏ミスとかがあったり、キーボードとヴォーカル、コーラスなどがずれた曲もあったりして(「しあわせ宣言」)、必ずしもベストのパフォーマンスではなかったかもしれないが、ノリは素晴らしいものがあった。そして観客もたいへん盛り上がっており、まあ、そういう意味ではよいライブであると言えるであろう。

私はうまく一番前に陣取れたので、いい写真も撮影できた。そういう点でも嬉しい限りだ。さて、宇宙団は3人がこの3月で卒業した。うまく本当、プロとしてやっていけるように頑張ってもらいたいと心から思う。

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ドナルド・トランプの若い時の詐欺手法が明らかになると同時に、彼がとんでもない悪人(犯罪人)であることも明らかとなった [トランプのアメリカ]

米45代大統領のドナルド・トランプの人格破壊状態は驚くべきものがある。まず、事実に基づかず、自分の妄想で世の中を再編集する。そして、事実に基づいて報道をするメディアを「偽メディア」と指摘し、アメリカ国民の敵であるとまで言い放つ。

トランプは大統領選に出ていた時も、大統領になった後も、徹底的に「納税申告書」の公示を拒否してきた。それに関しては、脱税隠しなのではないかとの指摘もあったが、MSNBCのローレンス・オドナルは、おそらくトランプ自らが自慢しているほどお金持ちでないことがバレることを恐れているからだと指摘していた。

ドナルド・トランプは億万長者というキャラクターで、多くの不動産プロジェクトを具体化させ、また、アプレンティスというテレビ番組のホスト役を獲得して、これを見事に務めた。さて、しかし、その前提である億万長者というキャラクターは見せかけであったことを明らかにするようなネタが明らかになった。それは、トランプが本人ではなくて、広報部長のジョン・バロンという人間になりすまして、経営誌Fortuneの富豪リストにランクインするように、Fortuneの記者と電話取材をしていたときの録音テープが、その記者によって公開されたからである。この録音テープがこれまで公開されていなかったのは、最近になってようやく見つかったからだそうだが、セクハラ問題の渦中にある財務省の福田次官ではないが、声はトランプ本人のものと考えて間違いないそうだ。(出所:
https://www.youtube.com/watch?v=bO-s7sss0vg

トランプはこのように幾つかの架空の人物になりすまして、いろいろと電話などで交渉をしてきたらしい。ジョン・バロン以外にもジョン・ミラー、デイビッド・デニソンという人物になりすまして、マスコミに対して、トランプのことを褒めたり、金持ちであることをほのめかしたりしていたそうだ。もちろん、顔は出さずにである。

トランプはCon Man(詐欺師)であるとよくテレビ番組でもコメンターに指摘されていたりしたが、それはイメージとかではなく、本当に詐欺師であるということが、この録音テープによって明らかになった。もう、これはひたすら唖然とするしかない。

ストーミー・ダニエルというポルノ女優にトランプが不倫をしたことの口封じは法律的に無効であると訴えられたり、銃規制をしなくてはと言った直後に前言を翻したり、政敵や批判的なマスコミ関係者や芸能人・有名人に対してツイートで根拠のない罵詈雑言を浴びせたりと、いろいろと恥ずかしいことをしてきたトランプであるが、自らが会社の広報部長のようなふりをして、適当な嘘をいいふらすというのは、それらとも一線を画すような悪人の振るまいであると思う。

そして、そのようなことを考えて、さらに行動できるというのは、社会人としても不適であり、悪人というか犯罪人である。そのような人間をのさばらしただけでなく、大統領にまでしてしまったアメリカ合衆国という国が、いかに病んでいるか、というのをトランプの存在は我々に知らしめる。それに対して、しっかりと対応しないと、民主主義が崩壊していく。心あるアメリカ人も「民主主義の危機である」と警鐘を鳴らしているが、その崩壊は日本にもとてつもない影響を及ぼすであろう。

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4月20日、東京国際フォーラムの椎名林檎のコンサート [ロック音楽]

 東京国際フォーラムにて4月20日の椎名林檎のコンサートを観に行った。ひょっとしてレコ発、ということなので新しいアルバムが出るのかもしれないと思ったりしたが、結果的には新曲はなく、全てCDで既発表のものであった。レコ発、というのは『逆輸入〜航空局〜』のアルバム発表という意味だったのかもしれない。というのも、最新作である『逆輸入〜航空局〜』からの選曲が多かったからだ。
 さて、コンサートは3分にセットされた時計のカウントダウンによって始まった。最初の曲は、「人生は思い通り」。これは、「カーネーション」のシングルに入っていた曲で、おそらく知名度は相当、低い曲であろう。とはいえ、ほとんど捨て曲がない椎名林檎のレパートリーである。優れた映像とともに林檎ワールドに引き込まれる。そして「おいしい季節」(航空局)、「色恋沙汰」 (三文ゴシップ)と続き、「ギブス」(勝訴)。もう20年近く前につくった曲であるにも関わらず、まったく色褪せない。そして「意識」(カルキ)。「嘘つくなよ」の歌詞は、初めて聴いた時にも背筋が凍るような感じで怖かったけど、今でも相変わらず怖い。このロックのメロディーと日本語の歌詞をここまで融合して総合芸術として昇華させられるミュージシャンはそうそういない。彼女の類いまれな日本語能力を感じさせる名曲だ。その次は「JL005便で 」(日出処)と最近に戻ってきたかなと思ったら、「弁解ドビュッシー 」(勝訴)を演奏し始めた。いやあ、凄い曲だ。というか、椎名林檎は本当に器用なので歌謡曲、ジャズ、ハード・ロックといろいろな分野にまたがるアレンジ調の曲をつくれてしまうが、本質は「弁解ドビュッシー 」のようなパンク・ロックなんじゃないか、と思ったりもする。
 そして、「少女ロボット」 (航空局)。これは、東京事変バージョンではなく、航空局に入っているともさかりえバージョン。そして、また昔に戻って「浴室」(勝訴)。と思ったら、航空局から心中曲2曲(「薄ら氷心中」、「暗夜の心中立て」)。ピアフの「枯葉」カバーを挟んで「眩暈」。これは、「ここでキスして」のシングルに入っていた曲で、隠れた名曲という位置づけであると思われるが、まさか今日、ここで聞けるとは思わなかった。ちょっと嬉しくなる。
 さらに「おとなの掟」、「重金属製の女」、「静かなる逆襲  」、「華麗なる逆襲」、「孤独のあかつき」、「自由へ道連れ」、「人生は夢だらけ」と『航空局』と 『日出処』という最新アルバム2枚からの選曲で、一応、コンサートは終了。この間、MCはほとんど無し。ひたすら演奏を続けるといった格好。ある意味、相当、格好はいい。
 随分と時間を空けた後、アンコール。まあ、アンコールをしない訳はないと思ったが、周りの客は拍手をしないものも多く、ちょっと最低限のマナーというか礼儀ぐらい守れよ、と心の中でちょっと怒る。
 さて、アンコールでも挨拶をしたのは、ギターで林檎は一切、しゃべらない。一曲目はなんと「丸の内サディスティック」。「丸の内サディスティック」は、以前は、東京事変でもほとんどのライブで演奏されていたと思うのだが、デビュー10周年記念の林檎エキスポ以降、東京事変の解散コンサートの最終日である武道館公演を除くと演奏していなかったと思うので(少なくとも私は聞いたことがなかった)、これは本当、個人的には嬉しい。そして、「NIPPON」、「野生の同盟」で林檎のMCがほとんどなかったコンサートは終わったのであった。

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生まれて初めて竹の塚を訪れる [都市デザイン]

生まれて初めて竹の塚を訪れる。私事であるが、三ヶ月に一度、埼玉県の越谷市にある獨協医科大学の付属病院に通っている。ということで、竹の塚はそのたびに通っていた。とはいえ、それほど関心を持っていなかったのだが、4日前、知り合いの広告代理店の人達と下北沢に飲みに行った時に、竹の塚は治安が悪くて有名なのだ、という話を聞かされ、「えっ!そうなの」と驚いたので、早速、今日、獨協医科大学での定期検診の後、竹の塚で途中下車をしたのである。

竹の塚という名前は前から知っていた。というのも、中学時代、私は東横線の学芸大学に住んでいて、その頃、日比谷線が東横線と東武伊勢崎線の直通乗り入れをしており、東横線側は日吉まで、東武伊勢崎線は竹の塚にまで乗り入れをしていたので、私が乗る日比谷線は北千住か竹の塚行きであったからである。さらに、高校時代の同級生が竹の塚出身であったことも、その名前を記憶させるきっかけとなった。確か、竹の塚中学出身であったと思う。彼の家に遊びに行ったことはなかったが、団地に住んでいると言っていた気がする。あと、大学時代の友人が柏の方に住んでおり、よく車で送っていたことがあったのだが、竹の塚の有名な開かずの踏切を何回か横断した記憶がある。その後、この開かずの踏切では人身事故などもあったりして、ニュースでも取り上げられたのは覚えている。

とはいえ、これくらいの記憶である。今回も、てっきり西新井より北千住側だろうと思っていたら、草加側であったので驚いたぐらいである。竹の塚の駅は工事中であった。これは、どうも踏切事故に対応しての高架化、ホーム大工事の一環のようである。とりあえず東口に降りると、目の前には大きなバスターミナルがあった。まるでJRの駅のようである。そして、目の前には大きな団地が聳え立っている。しかし、高層ビルはこの団地だけであり、新越谷や北千住の駅前にあるような高層の商業ビルは一切無い。とてもフラットな感じの駅前である。おそらく、ここに駅が出来た時は、この一帯は田んぼであったのだろう。

そして、多摩ニュータウンや田園都市線沿線のような郊外の臭いはしない。おそらく、昔から人々がここで農業などに営んできたからではないか。山や谷を無理矢理、開発した暴力性のような匂いは、お昼に訪れたからかもしれないが、私はあまり感じなかった。とはいえ、自然的な感じもせず、工業地区のような人工的な印象は受ける。練馬や板橋に感じる武蔵野らしさはまったく感じられない。むしろ、葛飾や江戸川といった千葉、利根川的な風土を感じる。

気づいたのは物価の安さであり、ランチ定食が500円で提供されている。大学の生協より安いのではないだろうか。さらに驚いたのは不動産の価格で、3LDKの70㎡ぐらいの集合住宅が1800万円ぐらいで買うことができる。23区内でこの安さは驚愕である。東京は不動産が高いと言われたりしているが、なんてことはない、東に行けば相当、安い。逆にいえば、ここで1800万円の値段で買わずに他で買いたがる消費者心理とは一体、どのようなものなのだろうか。駅の周辺だけをぐるぐる回っただけであったが、珈琲焙煎屋はあるし、比較的美味しい個店系のラーメン屋もあるし(ここで、昼食をした)、多くのチェーン店もあるし、スーパーは西友である。銀行も三菱東京UFJ銀行がある。すなわち、生活利便性という点だけでは、むしろ田園都市線沿線の駅に比べても何ら遜色はないように思えるのだ。やはり、治安が悪いということが、この物価の安さと関係があるのだろうか。とはいえ、定年退職後、お金に不安であれば、退職金でここらへんの安マンションに入ったら生き延びることはおそらくできるだろう。同じ23区ではあっても、目黒区に住んでいると不安になるが、竹の塚に行けば生き延びられるような気がする。

竹の塚は「足立区のマニラ」と呼ばれているらしい。実際、急行も停車しない私鉄駅であるにも関わらず、多くのフィリピン・パブが集積していた。ホスト・クラブもあった(これはフィリピン男性ではなく、日本男性が働いているような印象を与えたが、実態はどうかは不明だ)。とはいえ、乱立するこれらの水商売系のお店の看板はちょっと不快感を覚えさせはするが、治安が悪いといった印象までは与えない。まあ昼に訪れたからかもしれない。

とはいえ、私が勝手にイメージをしていた竹の塚と、実際、体験した竹の塚とは大きな乖離があった。もう少し、東武板橋のような町並みをイメージしていたので、その団地的景観、バスターミナルの大きさ、土地利用密度の低さ、フィリピン・パブなどが集積している乾きなどは、想像外であった。そして、何より、不動産をはじめとした物価の安さは感動的ですらあった。北千住も最近、注目されているし、そのうち、この値段の安さから考えると竹の塚の人気も上がるのではないかとさえ思った。その時、ジェントリフィケーションが起きて、フィリピン人が追い出されないといいのと、そうなると私が貧乏老人になった時に竹の塚にレヒュジーできなくなると困るな、と思ったりもした。まあ、そんな心配はいらないか。東京オリンピックが終わり、消費税が10%になったら、人口減少トレンドにある日本は、東京を含めて不動産大不況になることは間違いないと思われるからだ。

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(駅を降りて東口に出ると目の前に巨大な団地のような建物が屹立している)

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(やたら立派なバスターミナル)

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(駅周辺の商店街)

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(巨大な団地のような建物の裏には広大な駐車場が広がる)

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(駅の北口の踏切)

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(感動的に安い不動産)

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(これが悪名高い開かずの踏切。上下線で踏み切りのシステムが分かれているのは、なかなか鋭いアイデアだと思った)

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(フィリピンパブ多し。またホスト・クラブもあった。そういうニーズがある街なのかとも思うが、フィリピン・ホステスもこの不動産の安さだと住みやすいかと思う。)

タグ:竹の塚
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東横線の渋谷駅があまりにも不便になったので、初めてバスで帰ってしまった [都市デザイン]

東横線沿線に住んでいる。しかし、渋谷には最近、めっきり行かなくなった。これは、東横線の渋谷駅が地下化して地上に出るのが億劫になったからだ。それまでは山手線に乗り換えるのも渋谷駅を利用していたが、最近では恵比寿駅を利用することが多くなった。これは、渋谷駅の乗り換え抵抗が私にとっては160円以上あるという証明になっている(恵比寿駅で乗り換えるとメトロ分、160円余計にかかる)。というか、そもそも山手線を使わずに副都心線をなるべく利用するようになっている。どちらにしろ渋谷駅には行かない。特に飲みに行ったり、食事をしに行ったりはしなくなった。
 さて、しかし、それでもたまに渋谷駅に行かなくてはいけない時がある。その理由は大きく3つある。一つ目はギターの弦とかピック類を買いに行くときである。渋谷はギター屋が集積している。他には都内だとお茶の水にも集積しているが、流石に渋谷駅が地下化して不便だとはいってもわざわざお茶の水に行くよりは便利である。ということで、そのようなニーズがある時には渋谷駅に行く。同じようにギターの修理に行く時も渋谷駅に行く。私は、ギターの修理は渋谷のESPと決めているので、そこに持って行く。二つ目はアップルストアに行くときである。銀座の方がサービスはいいが、流石に渋谷と銀座だと渋谷の方が近い。そして三つ目であるが、CDを買いたい時には渋谷のタワーレコードに行く。タワーレコードのメンバーズ・カードの効果が結構あるのかもしれない。
 また、時折、コンサートでオーチャード・ホールやらNHKホールとかにも行ったりするが、まあそれぐらいである。特別な「買回品」を購入するような時にしか渋谷には行かなくなっている。東横線沿線に住んでいても、渋谷駅は地下化によって随分と遠くなった。これは私が年を取ったこととも多少、関係があるかもしれない。
 今日、また渋谷に訪れた。ギター関連の小物を購入しなくてはならなかったからである。そして、帰路につこうとした時、東横線の渋谷駅まで行くのがとても面倒な気分になったので、生まれて初めて渋谷駅から田園調布駅のバスに乗ることにした。時間はおそろしくかかるが、なんか東横線に乗るのがとても億劫になったからである。
 東急は渋谷駅を地下化することで、高層ビルが建設されるようになってほくそ笑んでいるのかもしれないが、渋谷駅に行く気持ちを沿線住民からこれだけ削いでいるということに気づいた方がいいかもしれない。まあ、結局、バスに乗っても、それは東急バスなので東急は私のこのような不平も痛くもかゆくもないだろうが。まさに蛙の面に小便をしているような虚しさを覚えなくもないが、とりあえず不平をここに書いておく。

タグ:渋谷駅
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オールスタンディングでのライブで、ドリンクを強制的に売るのは止めて欲しい [ロック音楽]

最近、くるりのコンサートに行った。ゼップ東京である。このゼップ東京は、入場する時に500円を支払ってドリンク・コインを購入しなくてはならない。このシステムは非常に馬鹿げていると私は思う。まず、ドリンクをもらうために長蛇の列に並ばなくてはならない。私は30分ぐらい前に入場したが、この長蛇の列に並んだらろくな場所で見られないと思ったので、無視をしてそのまま観客席に入った。ど真ん中の15列目ぐらいで見ることができた。ドリンクをもらうために並んだら、おそらくずっと後ろで端っこになってしまったであろう。そのような場所で見ることと比べれば、余裕で500円以上の価値がある場所で観ることができた。ということで、経済的に私が取った行為は合理的であったと思われる。ちなみに、コンサートが終わった後でも、このコインは有効であったこともあり、終了後にも長蛇の列ができた。しかし、そこらへんで買えば250円もしないようなドリンクのために、なぜ並ばなくてはならないのだろうか。というか、ちょっと自分の時間価値を考えれば、それにまったく見合わないことが分かると思うのだが、なんかもったいない精神が出てしまうのであろう。しかし、本当にもったいないのは並ぶことで失われる機会費用である。
 さて、このドリンクが経済的にはまったく意味がない、というだけでなく、コンサート的にも迷惑な代物である。今回のコンサートはオール・スタンディングであったのだが、私の隣にいた女性は、ビールを飲んでいた。どうも、この人はアルコールに強くないらしく、ゆっくりと飲んでいる。というか、コンサート開始までほとんど減っていないのである。私は彼女がビールを持っている片手を動かすたびに、こぼさないでくれよ、と心の中で祈っていた。当日は革ジャンを着ていたので、本当に、こぼされると困ったからである。
 座ってみるのであればまだしも、オール・スタンディングでのドリンクは周りにとってはありがた迷惑であるし、飲んでいる本人も別にアルコールを飲みたくないのに、お金を払わされたので、そして、何となくノリでビールとかを注文してしまってちょっと後悔している、という感じを受けなくもない。ちなみに、私はシモキタザワのライブハウスとかでも、あのドリンク制は嫌いだし、大抵、飲まない、というか注文しない。まあ、消費税のような気分で支払っている。
 そして、私のような人も少なくないと思うのだ。むしろ、ドリンク代を含んだ料金を徴収して、ドリンク代を多少、安くして提供するぐらいの方が店側も利益が出るだろうし、客も喜ぶであろう。せこく、そんなドリンク代で儲けようとかいう根性が、長期的にはライブに来る客を減らすような気もしないでもない。いや、絶対観たいアーティストにはそれでも行くだろうが、行こうかどうか迷っている人は、敢えて行かなくてもいいかな、と思うかも知れない。どちらにしろ、改善を検討した方がいいと個人的には考える。

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都市政策と地域政策を考える [地域興し]

私はカリフォルニア大学バークレイ校のDepartment of City and Regional Planning の大学院を卒業している。これを日本語に訳すと都市および地域計画学科になるであろう。このようにわざわざ都市および地域という名称にしているのは、都市計画と地域計画は異なるものであるからだ。都市計画は、自治体レベルでの計画であるのに対し、地域計画はより広域的な複数の自治体にまたがるような計画というものになる。

さて、しかし日本ではこの都市と地域というのがどうも曖昧のようだ。計画ではないが、政策という観点からは都市政策と地域政策の違いが必ずしもはっきりしていないようなのである。すなわち、地域政策は幾つかの自治体にまたがる「地域」を対象とした政策という意味ではなく、地方自治体の「地域」として捉えられているような印象を受ける。関連文献などを読むとそのように捉えた書き方が為されている。そうすると、都市・地域政策といった場合、都市の方がむしろ曖昧ということになってしまう。都市は一般的には自治体単位で捉えられるべきものである。京都といえば京都市であるし、小田原といえば小田原市であるし、弘前といえば弘前市である。しかし、それらは地方自治体であるので、それらの政策も地域政策として捉えられてしまう。地域政策学部という名称が大学で使われているのに、都市政策学部という名称が使われていないのは、政策学的に捉えると地方自治体のイメージを喚起させる地方という名詞の方が都市より通りやすいということがあるのかもしれない。

一方で計画だと都市が使われる。都市計画学科はあるが、地域計画学科はない。地域計画の英語訳であるRegional Planningがアメリカとかでは跋扈しているのとは対照的である。

この政策と計画とによって、用語の使われ方が違うということは、都市政策や地域政策の議論を曖昧模糊としているような気がする。ここらへんに関しては、これからも問題意識をもって考察していきたい。とりあえず、今日は備忘録というか、思いつきレベルのことを書かせてもらった。

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地域政策に関して考える [地域興し]

新しく奉職した大学では「都市・地域政策総論」という講義を担当することになった。これまでも前任校で「都市政策論」という講義を担当していたので楽勝だろうと思っていたのだが、都市政策だけではなく地域政策とも講義名で掲げられているので、地域政策論も多少は教えなくてはならない。そこで、講義資料をまとめ始めて、はたと気づいたのは、地域政策って何じゃらほい、ということである。日本は基本的には国土政策で地域政策まで網羅している。アメリカやドイツの連邦制を有している国においては、しっかりとした地域政策もあり得るが、日本において地域政策って「首都圏整備計画」のようなものだろうか。しかし、これも中央政府がつくっている。中央政府がつくっている広域計画は、アメリカのTVAを含めて地域政策で括ることは難しいよな、ということで自分で考えても分からないので教科書的なものを注文した。
 その名も『地域政策』という中央経済社から出ている本と『地域政策を考える』という勁草書房が出している高崎経済大学付属地域政策研究センターが編集したものである。後者は地域政策学部というファカルティまで擁しているので、参考なるだろうと思ったのである。
 さて、しかし、何ということであろうか。これらの本を読んでもほとんど役に立たなかったのである。前書は、「地域経済、地域政策、国土計画を学ぶ初歩の初歩、最初の1冊として、本書を活用していただければと思います」と書いているにもかかわらず、地域経済の勉強になっても地域政策の参考にはほとんどならなかったからである。というのも、「地域政策とは」という章を開くと、いきなり「地域政策とは何かを定義することは、簡単ではありません。地域政策という本をかいておきな柄、それはないだろうと思われるでしょう。」などと書いてある(96ページ)。それはないだろう!それが知りたくて購入したのだから。そして、その数ページ後に「歴史的にみると、地域を意識した政策を実施した背景には①民族問題、②問題地域の発生、③新しい領土の開発問題がありました。」と書いている。これは、地域政策とは何じゃラホイ、と思っている私でもずれているということが分かる。こりゃ、駄目だ、ということで後者の本を読むことにした。
 しかし、これも序文を読んでがっくりと来た。そこではこう書かれていたのである。
「(前略)地域間格差の解消を目指す古典的な地域政策から、広域ブロックごとに発展を目指す新たな地域政策が模索されるようになった。そのために地方自らが策定する地域産業政策に大きな権限と財源を与え、自律的に企業誘致を戦略的に展開し、立地に関する行政サービスをワンストップで行うことが求められている。
 さらに、今後に向けては、多重・多層型パートナーシップの形成による自律型経済システム創造を目指して、個々の主体では対応できない事態への機動的即応、波及的なインパクトを含む相乗効果の発揮が期待される」(pp.3-4)。
 この文章で言っていることは正しいかもしれないが、その語尾に注目してもらいたい。「求められている」「期待される」である。つまり、そのような地域政策が求められていたり、期待されていたりするが、現実の日本においてはほとんど為されていない、ということだ。
 また、同じ序文では次のようにも書かれている。
「地域政策学のアプローチは、多面的に地域を考え、内発的な地域づくりに参画していく地域における官民諸分野の人材の養成と、その人材を活かすことのできる地域社会システムの構築と、地域政策に関わる総合的な視野を持った学問体系の形成によって達成されるものである。」
 この文章自体は、しっかりとした問題意識を有しており、地域の課題を直視し、その解決法を考えようとの提案であり、それについての異論はない。しかし、「考え」、「養成」といった動詞が使われている内容は取り組めるが、「構築」というのはそうそうできるものではない。というかハードルが高すぎるとも思われる。そもそも、地域社会システムが構築されて始めて、その地域政策が意味を持つのであって、そのようなシステムが構築されるような制度がない現状において地域政策を論じることに虚しさを覚えるのは私だけではないであろう。これが地域「政策」でなければ、まだ希望が持てる。例えば、地域「活性化策」とか、地域「再生策」、もしくは地域「方策」でもいい。しかし、「政策」といった時点で、その主体というか主語は、政府もしくは行政体に限定されてしまう。そして、そのような地域政策をしっかりと遂行できる行政体があるようでない状況下で、そのようなことを論じるのは違和感を覚えてしまうのである。
 これらの本からも分かったことは、都市政策(自治体政策)と地域政策がごちゃ混ぜになっているということである。敢えて、講義を進めるうえでは、実はごちゃ混ぜにしてしまって議論を進めるというのは好都合である。ただし、それでは学生もこんがらがるだけだ。したがって、私がここで勝手に地域政策についての仮説を設定する。
 それは、自治体だけでは解決できない公害問題などを含む環境問題、交通問題など複数の広域的自治体で対応しなくてはならない政策的課題に対して、広域的に関係する自治体が連携することで、策定される政策のことを「地域政策」とする。これだと、アメリカでいうところのRegional Policyともほぼ合致する。そして、その政策を遂行する組織のイメージとしては、アメリカであれば、ポートランド広域都市圏のMetroやミネアポリス・セントポール大都市圏のメトロポリタン・カウンシル、サンフランシスコ大都市圏のSCAGなどであるし、ドイツであればルール地方のルール・リージョナル・アソシエーション(Regionalverband Ruhr)などになるだろう。
 そのような主体が策定するのが地域政策であり、それは自治体が策定する自治体政策(都市政策)とは一線を画すべきであると思うのである。
 少なくとも、私はそのような理解で講義を進めていきたいと思っているし、そのうち、そのような地域政策論の考えをまとめたいとも思っている。ということで、講義を受けることになる学生から質問が来る前に自分のスタンスをここで明らかにしておく。

タグ:地域政策
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ランディ・ヘスターとエコロジカル・デモクラシー [都市デザイン]

ランディ・ヘスターが著した都市デザインの大著『エコロジカル・デモクラシー』の出版記念イベントに参加した。ランディ・ヘスターはバークレイ時代の先生であるのと、私はランディ・ギャングといわれる強烈な女子学生グループになぜか白一点で入っており、セミナーに参加し、彼が行く学会に同行してたりしていた。ということで、あまりにも近いので、彼はいい先生ではあるが、現状の日本での高評価には正直、違和感を覚えている。親戚のおじさんが大スターになってしまったような感覚である。
 さて、しかし、この『エコロジカル・デモクラシー』は凄い本である。私も流石に多少、公式の場で、「元学生の分際でこのようなことを述べるのは不遜ではあるが、この本はジェイン・ジェイコブスの『The Death and Life of Great American Cities』やケビン・リンチの『The Good City Form』と同じレベルにあると思います。ジェイコブスやリンチは伝説的な人でありますが、まさか、こんなに近くの人がそのような伝説的な仕事をされたのは光栄です」と伝えた。ヘスター先生は近かったこともあり、その必ずしも立派ではないようなところも知っている。都市デザインのアプローチでも問題がない訳ではない。しかし、そういうことを踏まえても『エコロジカル・デモクラシー』を書き上げたという偉業の前では、そんなことは些少である。
 また、この本はエコロジカル・デモクラシー・デザインという手法の運用指南という位置づけも有している。そして、エコロジカル・デモクラシーというアプローチこそが、トランプ大統領によって生じている民主主義の危機、環境破壊の惨事を回避できる極めて有効なものとなるであろう。これに関しては、雑誌『ビオシティ』にちょっと書いているので、関心のある方は読んでもらえればと思っている。

http://bookend.co.jp/biocity-ビオシティno-74-エコロジカル・デモクラシーのデ/

出版イベントでのランディ・ヘスターはスピーチで次のように語っていた。
「エコロジカル・デモクラシーは10年後には、ヴァーチャルなコーポレイト・デモクラシーを凌駕するであろう」。
 ちょっと楽観的であるかもしれないが、しっかりとエコロジカル・デモクラシー的なアプローチ、すなわちエコロジーを意識した民主主義的アプローチでのコミュニティ・デザイン、都市計画、国土計画を継続し続ければ、長期的には大きく社会を変革することも可能ではないかと思わせられた。

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労働組合は自由加入であるべきだ [その他]

4月から新しい職場で働くことになった。龍谷大学政策学部である。さて、いろいろとオリエンテーションなどがあったのだが、そのうちの一つに組合の説明があった。私の前々職である三菱総合研究所にも、前職の明治学院大学にも組合はあった。前々職では若かったこともあり、プロフェッショナルなのだから職場が嫌なら辞めればいいじゃないか、という気概で仕事をしていたので組合というのが職種的にもまったく納得できなかった。しかし、強制加入であったので無理矢理入れさせられた。前職の明治学院大学も強制加入であり、いやいや入って、ろくに組合活動をせずに、転職できるように研究活動と教育活動に力を入れていた。置換え可能でない人的資源であれば、組合に頼らずに生きていけるのだ、というある意味、傲慢不遜な考えを持っていたので、組合的な活動に意味を見出さなかったのである。
 さて、そのような非組合的な考えを持っているので、龍谷大学は強制加入でないこともあり、組合に入るつもりはなかった。しかし、説明を聞いていたらなかなかいいのである。組合の成果などがしっかりと説明されたパンフレットなども配布されたのだが、組合頑張っているじゃないか、というのがオリエンテーションの説明とともに伝わってくる。このような組合なら入っていいな、と思いつつ、前々職と前職との違いは何があるのかと考え、それは強制加入ではないからだということに気づいた。強制加入は組合として仕事をしてもしなくても、組合費は入ってくる。むしろ、仕事をするだけ大変だ。仕事をするモチベーションがないため、御用組合的になり、会社の経営陣や大学の執行部などにもなめられる。一方、強制加入ではないと必然、組合の仕事をしないと誰も入らないし、どんどんと辞めていく。組合としての仕事の成果を上げるというのが、その組織を維持するためにも不可欠なのだ。そういうことで、強制加入の組合は辞めたい、辞めたいと思っていた私が、強制でないと入ろうとしている。組織の運営のあり方を考えるうえでは有効な知見を与えてくれるような経験をした。
 
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宇沢弘文『ゆたかな国をつくる』 [書評]

 日本の戦後の混迷をもたらした最大の要因は官僚が公益をないがしろにして暴走したからだ、という著者の考えをまとめた本。そして、その結果、どのような悲惨な結果を日本にもたらしているのかということを、水俣病をはじめとした公害、荒廃する教育、絶望的な状況にある農業などの事例を紹介しつつ論じている。そして、この諸悪の根源である官僚専権をいかに克服して、真の意味でゆたかな、住みやすい、そして文化的水準の高い国をつくればいいのかを、断片的ではあるが述べている。
 20世紀の日本を代表する経済学者、宇沢弘文氏の本であることもあり、当然、論理的で(一部、事実誤認と思われる箇所がないわけではない)、すこぶる説得力はあるのだが、この本が出された1999年から20年近く経って、日本はより悲惨な状況になっている。現在の日本の状況をみたら、宇沢先生も憤死してしまうのではないか、と本書を読んで思ったりした。官僚専権という点からみても、財務省の佐川宣寿氏の公文書改ざん事件などは、宇沢先生の想像の外にあるのではないだろうか。当然、福島原発の事故なども彼からすれば卒倒するほどの出鱈目さ加減であろう。ということで、本書で書かれた状況から20年、日本はさらに泥沼状態に喘いでいて、そして、20年前に比べても状況を打破する光明さえ見えない。
 ということに気づき、暗澹たる気持ちになってしまった。


ゆたかな国をつくる―官僚専権を超えて

ゆたかな国をつくる―官僚専権を超えて

  • 作者: 宇沢 弘文
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/03/05
  • メディア: 単行本



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くるりのコンサートをゼップ東京で観る [ロック音楽]

くるりのコンサートをゼップ東京で観る(3月30日)。ドリンクを無視して、30分ぐらい前に入ったので二ブロック目のほぼ真ん中を陣取ることができた。19時15分の開演を10分ぐらい回ったところで、くるりが登場。一曲目は「東京レレレのレ」。テレキャスで岸田が延々とギターソロを続ける。なんかブルージーである。そして「東京」、「飴色の部屋」、「ハイウェイ」。「ワンダーフォーゲル」といった往年のくるりファンが驚喜しそうな曲を演奏する。というか、実際、後ろにいた客は「ああ、私の青春だあ」と興奮状態であった。あと編成であるが、ギターが3本、それにキーボード。ファンファンというトランペッターもいるし、7人編成である。

その後、「東京オリンピック」という変拍子だらけのインスト・ナンバーなどを演奏する。新曲が続き、ちょっと興奮状態が醒めてきたところで、「ばらの花」。さらに数曲、挟んで「魔法のじゅうたん」、「虹」そして「ロックンロール」。「ロックンロール」は改めて名曲であることを再確認する。

そして、アンコール。アンコールの一曲目は「ブレーメン」。ファンファンのトランペットの音色が美しい。その後は新曲、「琥珀色の街、上海蟹の朝」。この曲は絶対、ボビー・コールドウェルのWhat you won’t do for love だよなと思う。盗作で訴えられたら負けるだろう、と他人事ながら心配になる。

そして、最後は「その線は水平線」。新譜からの代表曲でしっかりと締めたという感じである。ギターが3本で結構、うるさいな、というのが大まかな印象。そして、せっかくファンファンがいるのに、ファンファンのトランペットがフィーチャーされた曲は少なかった。私としては、ロックンロール・ハネムーンはやって欲しかった。この点は残念ですが、総じて、まあ滑らない良好なコンサートであったと思う。

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なぜ、日本人は食べる時に音を立てるのか [グローバルな問題]

 日本人の多く、特におじさんは食べる時に音を立てる。これは、欧米では完全に御法度である。私もドイツ人の友人を連れて日本を旅行した時、ラーメン屋に入ったら、周りの人がラーメンを啜って食べているのに対して「申し訳ないけど、ドイツではとても下品で、許されない食べ方だ」と言われた。その時、私は「いや、これは日本での食べ方だから郷に入っては郷に従え、我慢しろ」と言ったのを覚えている。というか、ラーメンを啜って食べるのは、熱いラーメンを食べるうえでは比較的合理的であり、下品か舌を火傷するか、という選択肢しかなければ、ほとんどの人は前者を取るであろう。ちなみに、ドイツ人はどうするか、というと熱いラーメンを食べないという選択肢を取る。したがって、ドイツのラーメン屋のラーメンはぬるい。そして、当然だが不味い。
 とはいえ、逆も真なりで、日本人がドイツや欧州に行ったら、啜って食べることは慎むべきである。なぜなら、ドイツや欧州では、啜ったり、音を立ててたベたりするのは「とても下品で、許されない食べ方」であるからだ。日本人は忖度が得意だし、周りに異常なほど気を遣うのに、食べ方だけは変えない。だから、私は日本人の人達と欧州で食事をした時、「スパゲッティを注文するな!」と心の中で念じている時が多い。しかし、私が念じれば念じるほど、「今日はスパゲッティが食べたい」と言って、スパゲッティをラーメンを食べるがごとき、啜って音を立てて食べるのである。私も日本人なので、そこで指摘をして相手に恥をかかせるのは申し訳ないので、我慢をしているのだが、なかなか辛いものがある。というのも、海外で8年間生活していたこともあって、そこらへんのセンスが欧米人と近くなってしまっているからかもしれない。
 先ほど熱いラーメンは啜った方がいい、と私の屁理屈を紹介したが、この屁理屈はスパゲッティには通用しない。スパゲッティを啜って食べるというのは、下品であるとしか形容しようがない。しかし、多くの日本人がそれを是としている。『あぶない刑事』で二枚目の柴田恭兵がスパゲッティを音を立てて啜って食べているシーンがあって、愕然としたのだが、それだけ、日本の一般社会では許容されているのであろう。
 私はこれは立ち小便をするとか、鼻くそを人前でほじくる、並みの下品さだと感じるので、この彼我の違いは愕然とするしかない。というか、それを不快に感じるような感性を有して日本で暮らしている不運は、まあ嘆くしかないが、欧州にいる時はせめて是正してもらいたいと思う。おじさん達、お願いします。と言っている私も既におじさんであるが・・・。

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『ラ・ラ・ランド』 [映画批評]

『ラ・ラ・ランド』は一度、機内で観ようとしたのだが、ちょっと10代向けという感じが強かったので、5分ほど観ただけで挫折していた。しかし、私が最近きになっているソノヤ・ミズノも出演していることを知ったのと、また、私が敬愛する60代半ばの建築家の先生が「面白いよ」と言ったので最後まで頑張って観てみた。ソノヤ・ミズノは前半においてエマ・ストーン演じる主人公とシェアルームしている役で出て、4人で踊るのだが、4人の中で一番、スタイルがよくて、しかも踊りもキレキレであった。本当、日本人の血が半分入っていると思えないほどの格好良さである。
 話の展開はちょっとペーソス溢れていて、思ったよりは楽しめた。とはいえ、完全な娯楽作品であり、まあ漫画のような感じのミュージカル映画である。ただ、このべたべたになりがちなロマンス映画をどうにか観られるようにしているのは、エマ・ストーンの爽やかさというか、清潔さであるかと思う。ジョディ・フォスターをちょっと柔らかにした感じのキャラクターはなかなか大器な印象を与える。
 あと、『ラ・ラ・ランド』とタイトルにしているだけあって、ロスアンジェルスの魅力を映画で表現しようと意図されているのが分かる。ロスアンジェルスという都市への愛に溢れているが、ロスアンジェルスは都市としては相当、出来損ないなので、この映画のように感じよく描くのは相当、至難の業なのではないかなと思う。グリフィス・パーク、サンタ・モニカ・ピア、ワッツ・タワーなどロスアンジェルスのランドマークをしっかりと抑えているが、逆にダウンタウンはまったく出てこない。いかに、ロスの住民がダウンタウンなしで暮らしているか、ということを逆に示している。
 また、重箱の隅を突くような指摘で恐縮だが、セバスチャンがミアを実家のボルダーにまで朝の8時に自宅に迎えに行き、その日の17時30分にロスアンジェルスで行われるオーディションに届ける話があるが、ボルダーからロスアンジェルスまではどんなに車を飛ばしても9時間30分で着くことはできない。ということは、自分の車でデンバーに行き、そこから飛行機でロスアンジェルスにまで飛んだということだろうか。こういうのが気になると、映画のストーリーに集中できなくなってしまうので、そこらへんは筋を通して貰えるとよかった。


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『ソフィーの選択』 [映画批評]

 トランプ大統領がメリル・ストリープのことを「史上最高に過大評価された女優」とツイッターで批判したので、これまで観たことのなかった彼女の傑作の一つである『ソフィーの選択』を観た。というか、これを観ると素人でもメリル・ストリープが天才としか形容できないような女優であることが分かる。背筋が寒くなるほどの演技力である。こりゃ大した大女優である。少なくとも『ソフィーの選択』のメリル・ストリープは、どんな絶賛も過大評価になることはない。というか、この映画の主人公であるソフィーという地獄を見させられた女性の複雑な多面性を演技できる女優がこの世にいるというだけで驚きである。ソフィーは潔癖であると同時に官能的であり、ユーモラスであると同時に悲しみに溢れ、そして圧倒的に絶望的である。第二次世界大戦におけるドイツのユダヤ虐殺が、いかに多くの人生を狂わせることになったのか。それは観る者の心を大きく揺さぶるであろう。
 最近は日本を含めて世界中で人種差別的な動きが活発化しているが、そのような考えがどれほど人の醜悪さを晒し、無実の人を崩壊させるか。トランプを支持する3割ちょっとのアメリカ人も、トランプのいい加減なツイートを信じるより、この映画でも観て、生きることや人種差別の負の側面について、ちょっと立ち止まって考えるべきであろう。そして、このような女優を「大根女優」のようにしか捉えることができないバカな大統領を選んだ自分達の愚かしさを反省するといい。


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大雪によるドイツ鉄道のダイヤの乱れの日に、東京の交通システムの脆弱性について考察した [サステイナブルな問題]

 3月中旬のドイツは大雪に見舞われた。この日はライプツィヒからマンハイムまで移動しなくてはならない。ライプツィヒの中央駅に行くと、案の定、大混乱状態であった。指定席を取っていないので、列車が遅れても特に問題はない。ライプツィヒからマンハイムまでは乗り換え無しで行くICEが2時間に1本の割合で走っているのだが、もう、とりあえずマンハイム方面に行った方がいいだろうということで、中央駅に着いたフランクフルト中央駅に向かうICEに乗り込む。列車は定時から2時間遅れで出発したが、私が列車に乗り込んでから出発するまでに待っていた時間は1時間ぐらいであった。列車が出発したら、座席から拍手が起きた。ところどころ止まりつつ、列車は走行していったが、17時20分にはフランクフルト中央駅に着いた。ダイヤ的には3時間ぐらいの遅れかもしれないが、実際の走行時間的には30分ぐらいの遅れにしか過ぎない。
 しかし、そこからマンハイムへ行く列車がない。ICEは皆、150分遅れとか、訳の分からない数字を電光掲示板に示している。ということで、急いで各停のローカル列車を調べて、そちらに乗ることにした。ちょうど上手い具合にマンハイム行きの列車が18:06に出るのでそれに乗り込む。これは、6分遅れの18:12に出発した。ライプツィヒのあたりは一面、白い世界であったが、フランクフルトは雪が降った形跡もない。ローカル列車がそんなに遅れる理由はあまりない筈である。ICEはドイツ全国土にネットワークを拡張しているので、雪が降った地域を走っている列車は悉く遅れている。そして、その遅れがドミノ倒しのように、他の列車にも波及していっているのである。混乱が混乱を招くというような状況だ。そもそも正常な状況でも、ドイツ鉄道はICEを定刻で走らせることが困難である。雪がこれだけ降ったら、ほとんど麻痺状況になるのも致し方ない。
 東京も雪が降ると、結構、交通が麻痺してしまう。大学の同僚の先生が、これはどうにかならないのか、と聞いてきたことがあるのだが、ある程度、雪が降ってもまともに交通が機能するようにするのには、とてつもない経費がかかるであろう。というか、そもそも、山手線の駅周辺にどんどん商業ビルを建設して交通需要を集中させるような都市開発を促進させたり、東横線が西武池袋線や東武東上線と接続して運行し、リスクマネジメントができないほどシステムを拡張させたりしていることこそが問題をより深刻化させているのである。
 つまり、東急東横線でいえば、ダイヤの乱れを収束させることを可能にした渋谷駅というターミナルを喪失し、より脆弱なシステムへと移行させてしまった。しかも、そうでなくてもキャパオーバーの渋谷駅にさらに商業ビルの床面積を増やすような開発をして、リスクをさらに高めている。それが降雪とかに対して東京の交通システムをより脆弱化させている大きな要因であり、そのようなことを放置して、降雪に対してレジリエンスを高めるようなことをしようとしても、放火犯を放置しておいて、消火活動を強化しようとしているようなものであり、無駄であると思われる。
 などということを、ドイツのダイヤの大乱れの日に考えた。

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(雪景色のライプツィヒ中央駅)
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ベルリンでアンペル・マンのグッズを購入し、都市のシンボルとしての商品についてちょっと考えてみた [都市デザイン]

ライプツィヒからベルリンに日帰りで行く。テンペルホーフ空港の跡地を訪れ、プリンツィシンネン庭園を行き、KaDeWeへ寄って戻ってきた。さて、KaDeWeにせっかく寄ったのでお土産でも買おうと考えた。ベルリンには、有名な熊の置物があり、私は3体ほど買っている、ベルリンという名前は熊に由来していることや、ちょっとこの熊が可愛かったりするので、私は、これをなかなか優れたベルリン土産として気に入っているのである。しかし、ちょっと大きい。というので、代わりにアンペル・マン・グッズを購入した。
 アンペル・マンとは旧東ドイツの歩行者用の信号機に使われたキャラクターで、そのキャラクターを商品化したグッズは、広く旧東ドイツの都市で売られていて、日本でも白金高輪でそれを専門に売っているお店もあったりする。旧東ドイツの数少ない旧西ドイツより優れたものとも言われている、なかなかチャーミングなキャラクターで私も結構、好きである。
 さて、アンペル・マンは旧東ドイツ中にあるし、現在ではシュツットガルトやリューベックでも用いられている。なんで、ベルリン土産なのかというと、最初に設置されたのが旧東ベルリンであるからだそうだ。ということで、アンペル・マンはベルリンにふさわしい土産になるかもしれないが、よく考えればKaDeWeは旧西ベルリンに位置しており、そういう意味では旧東ドイツの中で唯一といっていいほど、アンペル・マンと関係がないような場所である。まあ、旧西ベルリンも広義で捉えればベルリンなので、そういうのはただの難癖ということになるかもしれない。少なくとも、そこにはベルリンのストーリーが含まれているからである。また、アンペル・マンのグッズを販売している会社もベルリンに拠点を置いている。
 さて、しかし、そういうことを考えていて気づいたのは、アンペル・マンというのは旧東ドイツが共有するゆるキャラのようなものだな、ということである。それほどゆるくはないが、それでもある程度のゆるいところもあり(青信号の男の子にちょっと得意げに上を向いているところや、赤信号の女の子の妙に潔癖な感じのするところ)、そこがドイツ人を始めとした人々の心をくすぐっているような気がする。
 ゆるキャラというと、日本人の専売特許のように捉えられているし、それ故に日本人は奇妙な民族だといった、見方も為されていたりするが、なんてことはない、ベルリンにもしっかりとゆるキャラのような地域と関係性の高いキャラクターが存在して、また多くの人に愛され、関連グッズも販売されているという訳だ。
 いや、逆にいうと、アンペル・マンのような、その都市のストーリーを包含するようなキャラクターがあればいいが、なければゆるキャラでもいいからつくっちまえ、というのはあるかもしれない。
 また、その都市を象徴するようなシンボル的なキャラクターは何かと考えた時、サンフランシスコはケーブル・カーや金門橋、ニューヨークは自由の女神、フランスはエッフェル塔か凱旋門、ロンドンはロンドン・タワーやギュルクといった建築、バルセロナはガウディのギュエル公園にあるとかげ、京都であれば舞妓はん、大阪であればたこ焼き、などがすぐに浮かぶ。
 逆にいえば、このようなシンボル的なキャラクターがすぐに浮かばない都市、というのは都市マーケティングの時代においては、相当、マイナスであり、それを改善することが望ましい。しかし、名古屋市や豊島区のように、都市イメージが悪いからといって、自らのアイデンティティと関係ないお洒落な公園を整備したり、とりあえずニュース性のあるようなことのために税金を浪費したりするのはまったく効果がないどころか、さらに状況を悪化させていくことは理解しておいた方がいいであろう。
 貴重な資源を活かすことが必要であるが、それはつくろうと思ってつくるのではなく、それまでの都市政策の歴史・蓄積の中から滲み出てくるようなものであるべきだ。名古屋市がダサイのは、そのような都市文化を理解しないで、とりあえず効率性・経済性だけを追求してきたからではないだろうか。最近では、B級グルメで勝負しようとしているが、それは200万を越える人口を擁しながら、A級グルメを育てることが出来なかったという文化醸成力の無さの裏返しではないだろうか。タモリに揶揄されたからといっていちいち、センシティブな中学男子のように反応するのではなく、もっと長期的な視点でその都市をつくっていこうという姿勢を継続することで、都市のブランドは築かれると思うのである。そのような姿勢は、ヨーロッパではミュンスター、ハンブルク、リューベック、バルセロナ、ボローニャなどで見られるが、日本でも弘前市、金沢市などは参考に値する。
 そして、そういう姿勢を継続させることで初めて、都市のブランドは醸成されていくのであろう。ということを、アンペル・マンをベルリン土産で買いつつ、考えたりした。

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都市研究におけるケース・スタディの基礎(4) [都市デザイン]

さて、都市研究におけるケース・スタディの留意点の4つ目は、ヒアリングをあまり信用するな、ということである。ヒアリングは都市研究において極めて重要である。特に文献資料などがない都市政策を検証するうえで、担当者へのヒアリングは実情を理解するうえで不可欠といってもいいだろう。
 ただ、ヒアリング者がすべての事実を知っている訳ではない。たまには間違ったことを言っているかもしれない、と失礼のない範囲で疑いの目を持っておくことは重要だ。これは、しかしなかなか難しい。というのも、ヒアリングに対応してくれている人の方が、ヒアリングをしている研究者より、そのことについて遙かに詳しいから、どうしてもそれが事実であると思ってしまうし、その真偽を検証することも難しいからである。それを防ぐためには、数多くのヒアリングをこなすことである。
 私自身、ヒアリングをもとに原稿を書いて、まさに出稿する直前に、他の文献資料と私の書いていた内容が矛盾していることに気づいたことがある。その事実誤認を確認する時間もなかったので、私はその矛盾する文章を削除することで対応したが、その文献資料を読んだ時は冷や汗をかいたものである。ヒアリングで情報を収集することは重要であるが、その裏付けをすることが必要である。これがなかなか為されていない場合が、自分のことをちょっと棚上げして、多いような印象を受ける。
 そして、ヒアリングほどではないが、文献が必ずしも正しい事実を伝えていないことも留意することが必要である。都市デザインの「都市伝説」として、デンマーク人のヤン・ゲールがストロイエを設計したというものがある。これは日本の文献でもアメリカの文献でもそのように書かれているのだが、これは事実ではない。ヤン・ゲールとは取材をしたことがあるが、彼はこのことを強く否定していた。そもそも、ヤン・ゲールがストロイエを設計したとしたら、20代の時になる。それを考えても、これは事実ではないと分かるのだが、なぜか、そのように紹介されてきたし、私もヤン・ゲールに会うまではそうなのかな、と思っていた。したがって、自分が文章化する時には、それについては真実かどうかを謙虚に検証することが必要であろう。
 これは私も含めて、ケース・スタディをするうえでは留意しなくてはいけない点であると思われる。

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都市研究におけるケース・スタディの基礎(3) [都市デザイン]

 都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点をこれまで2つ述べていた。一つ目は、比較する対象の特徴をしっかりと捉える、出来れば科学実験のように、比較する指標以外の条件をなるべく同一のものすることである。二つ目は、ケース・スタディをするうえで用いられている言葉の定義を誤解しないでしっかりと理解するということであった。
 そして、このブログで述べたい3点目は、拙速に結論を導かないということである。ケース・スタディの対象を研究するということは、自分が無知であったことを知るということでもある。それは、学習する過程でもあるのだ。したがって、それまでの自分の知識・経験等でその対象をしっかりと理解することは、実は不可能に近かったりするのだが、安易に結論を導いてしまいたがる人が多い。それは、あくまで結論ではなく、むしろ研究の端緒にあたる仮説設定に過ぎないのだが、この仮説を検証しないで、印象論だけで結論的な判断を下してしまう人が本当に多いのだ。ケース・スタディというのは仮説設定→検証→大抵、ここで仮説が間違っているので再び仮説設定→検証→・・・という作業が続いて、だんだんと真実が見えてくるのだが、それは大変であるので、自分の大雑把でいい加減な知識を動員して、自分の眼鏡でみえるストーリーをつくってしまう。例えば、ドイツは市民参加が絶対的にやられている、とかドイツは計画なくて開発なし、などと言われているが、実際、ケース・スタディをするとそうではない場合もあったりする。連邦制をとっているドイツは、日本のように都市計画法が国の法律ではないので、様々な状況があるのだが、自分の知っている事例(大抵の場合、極めて優れている事例)をもとに、ドイツの都市計画のあり方を一般化して理解してしまい、例外的な事例を受け入れないのだ。
 事例研究に意味はあるが、それは知らないことを知るためにむしろされるべきであり、安易な一般化された結論を導くためにすることは慎むべきであり、それは長期的な取り組みを研究者に要求する方法論であると思われる。
 私もクリチバの成功の最大要因がレルネルさんであった、ことはクリチバを初めて訪れた1997年から数えて、20年以上経って、確信を持って言えるようになったが、『人間都市クリチバ』の本を出した2004年時では、まだそれは仮説の範疇をでていなかった。今は確信を持っている。

タグ:事例研究
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都市研究におけるケース・スタディの基礎(2) [都市デザイン]

 前回に続いて、今回も都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点を述べたいと思う。それは、しっかりと言葉の定義を理解していることである。日本人がドイツに来て、その言葉の意味をしっかりと理解していない故に誤解するものとして「難民」(refugee)が挙げられる。多くの日本人が学識者を含めて「難民」と「移民」の違いが分からず、ごっちゃにしている場合が多い。そして、いわゆる「移民」問題というものを「難民」問題として捉えてしまい、結論として「難民」を受け入れるのは政治的には間違っているといった誤解が誤解を生むような結論を導いてしまう。そして、ドイツ国内にて「難民」と出会ったりすると、ドイツ人に気を遣ってか、あからさまに嫌な顔というか困った顔をしたりする日本人も驚くことにいるのだ。そして、それが日本の一流企業の社員であったりするから、二度驚く。
 「難民」と「移民」は定義からしてまったく違う。国連の説明を引用しよう。
「難民とは、迫害のおそれ、紛争、暴力の蔓延など、公共の秩序を著しく混乱させることによって、国際的な保護の必要生を生じさせる状況を理由に、出身国を逃れた人々を指します」。
 なんか、国連とは思えない分かりにくい日本語であるが、すなわち、民族紛争や戦争、自国の政治が暴走したことによって、生きていくことが難しくなり、生き延びるために(死から免れるために)自分の国を捨てざるを得ないような人々のことである。
 そして、現在の国際法では、弾圧や迫害を受けて難民かした者に対する救済・支援が義務づけられている。
 つまり、難民を救済・支援するのは国際法的には国の義務であり、それらを排除するのはその国が有する権利ではない。したがって、ドイツが多くの難民を受け入れているのは、国際法を律儀に遵守しているからに過ぎない。というか、島国であったり日本語という難解な言語を有しているために暮らしにくいということで、難民があまり来たがらないということで、難民の受け入れに極めて消極的であるという日本の方が国際的には恥ずかしい。ということを、あまりにも日本人は理解しなさすぎではないだろうか。
 ちなみに、移民に関しては国連は定義はしていないが、次のように解説している(http://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/22174/)。
「移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなす。」
 ううむ、この解説も分かりにくい。まあ、特に必然的な理由がなく、自分が生活していた国を他の国に移って変える人である。したがって、その人を受け入れるかどうかは国の判断に因るであろう。国際法的に移民を保護する必要性もない。
 したがって、移民に関しての政治的問題を議論することは極めて健全であると思われるが、難民に関しての受け入れはそもそも議論する以前の問題である。
 このような誤解が生じるのは、その言葉の定義をしっかりと理解していないことに起因しており、それは事例研究をするうえで常に留意しなくてはいけない点である。

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ケムニッツを16年ぶりぐらいに訪れる [都市デザイン]

 ケムニッツという都市がドイツのザクセン州にある。ザクセン州の中では、ドレスデン、ライプツィヒに次ぐ第三の都市である。人口は約25万人。東西ドイツが再統一される直前の1988年時点の人口はベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンに次ぐ人口31万7千人。4番目に大きな都市であった。ということで、それなりの存在感を有してもいいと思うのだが、どうもドイツの国土政策的には鬼っ子のような扱いを受けている印象を受けていた。
 というのもケムニッツは高速鉄道のネットワークから完全に外されているからだ。2002年にケムニッツを訪れた時、ケムニッツはICでドレスデン、ニュンベルグと結ばれていた。ケルンと結ばれるICも走っていた。しかし2006年以降、ケムニッツは、ICEはもちろんのことICも走っていない。
 このように国土政策的には看過されている印象を受けるケムニッツであるが、人口減少は改善している。1988年から24%ほど人口が減少したが、そのトレンドは反転しつつあり、2016年に比べて2017年は500人弱だが人口は増加している。それでも、ケムニッツはどうも印象が薄くて、今一つのイメージを拭えていなかった。2002年に訪れた時も、色でいえば灰色。社会主義時代のこう陰鬱な雰囲気が都市を覆っている感じであり、街の中心も存在感溢れる市役所と都心部にある公園を除けば、記憶に残るようなものもなかった。日本でいえば水戸市のようなイメージである。
 さて、しかし、ドイツ人の知り合いが誕生日なので、パーティに顔を出して、ケムニッツの話をしたら、ケムニッツは素晴らしいと言う人が多数であった。知り合いは、ケムニッツに仕事があったら、エアフルトの仕事を捨ててケムニッツに引っ越すとまで言う。え!。エアフルトは相当、魅力溢れる都市だ。日本でいえば松江のようなイメージである。歴史的建築物もあり、旧市街地も賑やかで色彩豊かである。少なくとも、灰色といった都市のイメージはまったくない。その知り合いだけでなく、シュヴェリーン出身の2人もケムニッツはいいという。いや、悪いけどシュヴェリーンの方が人口は少なくても、はるかにケムニッツよりいいと思うけど。お城はゴージャスだし、湖はあるし、少なくとも都市のイメージが灰色ということはない。何を言っているんだ、とも思ったが、これは私がケムニッツを誤解しているからかもしれない、と思い、その翌々日にケムニッツに日帰りで訪れた。
 ケムニッツは現在、まともな鉄道との接続はライプツィヒとドレスデンとのRE(いわゆる特別料金がいらない快速列車)のみである。しかも、一時間に一本のみである。エアフルトはドイツ国土を東西に結ぶ線と南北に結ぶ線の結節点にある。シュヴェリーンもベルリン、ハンブルクとICEで結ばれている。ドイツ人はこのような高速鉄道のネットワークが都市の魅力というか、都市のアセットとして評価しないのであろうか。それとも、そのようなハンディがあっても跳ね返すだけの魅力がケムニッツにはあるのだろうか。
 ケムニッツの中央駅は、いわゆるターミナル型であった。駅舎のデザインは極めて今一つであり、ちょっと憂鬱になる。駅を降りても状況は似たようなものであり、活力のある都市の駅前という感じではない。トラムに乗って、中心市街地に行く。中心市街地は、結構大きなデパートがあったり、中心部は自動車が入れない歩行者空間(ペデストリアン・プレシンクト)になっていたり、そういう意味では悪くはない。市役所は本当に立派な建物であり、その貫禄はなかなかのものだ。とはいえ、エアフルトの中心市街地と比べれば、はるかにエアフルトの方が個性的で、色鮮やかで楽しい。私のエアフルトで働くドイツ人の知り合いは、エアフルトはイタリアのマフィアに支配された二流都市のように批判していたが、ケムニッツも社会主義時代は、社会主義マフィアに支配されていて、なんとカール・マルクス・シュタットと命名されていた。どっちが悪いかは一概には比較できないのでは、と思ったりした。そして、今でもカール・マルクスの巨大な銅像が街には置かれている。
 中心市街地だけでは分からないものもあるだろう、と郊外に出かけた。フットホルツという郊外ニュータウンである。人口が6万人も減っただけあって、この郊外ニュータウン(プラッテンバウ団地)においても建物倒壊の痕跡がみられた。しかし、老人用の介護サービス付きの住宅が新設もされていた。人口が増加し始めていること、高齢化が進んでいること、などから、そのような住宅の需要が増えているのかもしれない。
 フットホルツは高台に立地しており、そこから展望する南ザクセンの丘陵地のランドスケープはなかなか綺麗ではあったが、大きな川もなく、自然の変化もそれほどないこの都市のどこに魅力があるのかは、再訪しても分からなかった。帰りに中心市街地にあるレストランで食事をしたが、今回のドイツ旅行でも最も今一つの味であり、サービスはドイツという基準で照らしても相当、酷いレベルであった。
 ということで、イメージを改めようと思って訪れたケムニッツであったが、全然、イメージは改善しなかった。多少、その理解は増したかも知れないが、その人口規模に相当する魅力のようなものは感じられなかった。とはいえ、縮小政策を研究する私にとっては、ちょっと研究対象としては魅力がある都市であることは確かである。惨めなほど魅力が増すので。

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(旅情がほとんど感じられない中央駅)

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(旧市街地はなかなか魅力がある。ちょうど市場が開かれていた)

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(市役所の建物は立派で存在感溢れる)

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(トラムが縦横に走っている。後ろは再開発でつくられたビル)

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(郊外のニュータウン、フットホルツ)

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都市研究におけるケース・スタディ(事例研究)の基礎(1) [都市デザイン]

 都市研究において事例研究という手法を利用することは、結構、簡単そうだが留意点も多くある。事例研究をするうえで重要な点は、その事例を自分のよく知っている都市(事例)と比較することで、それを相対化させて、その優れた点、劣った点を客観的に評価することである。そのために有効なのは統計的な数字だったりするが、そのざっとした特徴を掴むうえでは都市観察をすることが重要である。それによって、その都市の特徴を捉えて、研究のための仮説を設定することができたりするからである。
 しかし、観察をするうえで重要な点は、その比較する都市が基本、共通の条件を有していることである。林檎とオレンジを比較しても、それは仮説の設定が間違ったり、誤った結論を導いたりしかねない。
 例えば、オランダのデルフトからベルギーのブリュッセルに鉄道で移動したのだが、一緒に行った大学の先生が「ベルギーは外国人が多いなあ、やはりオランダとは移民政策が違うのだろうな」と述べたのだが、彼のこの仮説(という感想)は正しいのであろうか。
 これは、デルフトとブリュッセルという二つの都市が、オランダとベルギーという国が違うことより、より大きな違いがあることを看過していることによって生じる誤謬である。その違いとは都市規模である。デルフトという人口10万人の都市とブリュッセルという一国の首都である人口117万人の都市を比較観察することで導かれるのは、国の違いというよりかは、都市規模の違いである。つまり、大都市は小都市より移民が多いという結論である。すなわち、オランダとベルギーとの移民政策を都市観察によって知ろうとするのであれば、ブリュッセルと比較すべきオランダの都市はアムステルダムであるべきであり、デルフトと比較すべき都市はデルフトと同様の大学都市であるルーヴェン(人口9万人ちょっと)であるべきだ。
 このように、事例研究をするうえで重要なのは、林檎とオレンジを比較することでの誤謬を避けることであり、そのためにも比較対象の特徴を予めある程度、知っておくことである。都市研究をするうえでは、人口、人口密度といった指標をある程度知っておくことは不可欠であり、そのようなデータ無しに都市をいたずらに比較しても、間違った結論を導く可能性があるので要注意である。

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