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ヘルプ! [宇宙団]

最新作の「それなりのつよがり」のトップを飾るということで、バンドとしても相当、自信を持っているのではないかと思われるのだが、私はこれを下北沢ベースメント・バーで初めて聴いた時は、ちょっとムムムムと思ってしまったのである。そして、「それなりのつよがり」全体を通して聴いてみても、圧倒的な存在感のある「ラブリー・チューン」や素晴らしいメロディが頭に刻まれる「夏に寄せて」、さらにはさびのフレーズが印象的な「日本のヒーロー」に比べると、なんか今一つ感を覚えていたのである。しかし、先日のライブで演奏した時は、私も凄い高揚感を覚えたし、周りの観客の盛り上がりも凄かった。

この曲は、ティーンの女の子達が共感するような秀逸な歌詞が特徴である。「私は強い・・嘘です」という出だしの切なさに共感をする女子中学生・女子高校生は多いだろう。さびから入る展開が、唐突感を与えるのかもしれないが、この曲を聞き慣れるとそのようなことがなくなる。また、宇宙団の他の曲にも見られることだが、何しろ、展開が激しい。バスケットボールの選手でいえば、ベン・シモンズのような変幻自在のポイントガードのように、次にどう展開するかが分からない。ヘルプは特にそのような傾向が強いので、初めて聴くと、曲の全体像が分からなくて、うまくのることが出来ないのかもしれない。しかし、逆に聴けば聴くほど味が出てくる。そういう曲なのかもしれない。と書いていて、だからこそ一曲目に持ってくるような曲じゃあないんじゃないか、と確信したりもするのだが、まあ、そこらへんの予測不能な行動も宇宙団のご愛敬かもしれない。ちなみに、この曲での望月のギターは素晴らしいと思う。テーマで歌いながらのカッティングも絶妙であるし、そしてソロも素晴らしい。女の子であるのに、重いレスポールを弾き続けるのは、音への拘りかと思うのだが、そういう姿勢立派だ。まだまだ若いので、これからも望月のギターは上達するであろう。そういうことを感じさせるぐらい、この曲のギター・プレイは優れている。


それなりのつよがり

それなりのつよがり

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



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緑の美しさを考察する [サステイナブルな問題]

仕事場が京都なので、毎週、京都を訪れる。というか、通勤している。さて、新緑のシーズンなので京都の山々は目に優しく、心洗われる。というか、新幹線からの車窓の緑も美しい。日本の自然は本当に美しいと思わせられる。新緑は、春紅葉とも言われたりするが、その美しさというのは緑のグラデーションにあるかとも思われる。それは、また生物多様性の美しさでもある。
 一方で、林野庁が杉植林を一生懸命やったところは、単調な緑で全然、美しくない。それは、愚かなる公共事業の醜さを表している。ただ、このような単調な針葉樹の緑の森でも美しいと思う人がいる。こういう人がなぜ、それらを美しいというのかはちょっと不思議だ。例えば、新緑の森の絵を描け、という課題をもらったら、単調な緑の森を描く人は絵心がない人か、よほどのひねくれ者に限られると思われる。もしかしたら、単調な緑を美しいと思う人は、美しい緑や森をあまり見たことがないのではないか、と思ったりもする。そして、そのような人は京都にはほとんどいないと思われるのである。もっと緑を見ることが、東京の人などは必要ではないか、と自分を含めて思ったりする。
 

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「玉川上水と生物多様性」の講演に、あまりに多くの人が聞きに行ったので驚く。 [サステイナブルな問題]

「玉川上水と生物多様性」の講演を武蔵小金井に聞きに行く。「小金井玉川上水の自然を守る会」が主催での講演である。私はちょっと遅れて訪れたのだが、驚いたのは、その参加者数の多さである。250人以上は入っているだろう。生物多様性について、一般市民の強い関心が伺える。ほぼ高齢者であるが、なかには若者もいる。
 講演者は3名。最初は東京学芸大学名誉教授の小泉武栄先生の話である。玉川上水の生態系についての講演であったが、小平駅を南北に通り、玉川上水を分断する道路について、強い懸念を示していることを話して、私は目が覚める。私はこの道路に関しては、むしろコミュニティ分断といった点、生活アメニティの悪化という点から懸念を抱いていたが、生態系的にも大変深刻なダメージを与えることを専門家は考えていることが分かった。
 また、小泉先生が話されたことで、私が興味を抱いたのは、東京都には自然史博物館がなくて、恥ずかしいという指摘であった。科学博物館はあるが、それは国のものだけで東京のものは展示していない。伊豆諸島や奥多摩だけではなく。武蔵野台地にも都心にも調べれば面白いものがあるのだが、そういうものがない。先生はオリンピックの記念事業でそのようなものをつくるべきだと述べていたが、私は、それこそ築地市場跡地につくるべきものではないかと思ったりした。現在は、食のテーマパークをつくるような計画を考えており、隣接する市場外の民間企業が強く反発していたりする。和食博物館、みたいなものや料理学校のようなものであればまだしも、テーマパークという発想が本当、センスがない。そもそも、築地市場のようなオーセンティックな施設のあとに、偽のテーマパークを公共用地の跡地につくるという発想を、そこらへんの素人が出すならともかく、東京都庁が出すというのは根源的に行政の役割を分かっていないのではないか。都庁の職員達はエリート集団である。どうして、こんな発想が出てくるのかが不思議だ。
 閑話休題。話が横にそれたが、そんなテーマパークをつくるよりかは、この浜離宮に隣接し、東京湾という素晴らしい自然に隣接する、この築地市場跡地に自然史博物園をつくるのは、なかなかいいアイデアなのではないだろうか。
 次は明治神宮の自然に詳しい新里達也先生の講演である。明治神宮の豊かな自然がよく分かる講演が為されていたが、このような話も前述の自然史博物館で展示されたりすると、国民だけではなく、インバウンドの観光客が日本の理解を深めるうえでも役に立つであろう。
 三番目は、国連生物多様性の 10 年市民ネットワーク代表である坂田昌子氏である。琵琶湖の生態系がどんどんと貧相になっている、という話をされた。生物多様性とは、命の循環がうまく回っている状態、であると言う。また、生物多様性と人との関わりとが重要であると言う。さらには、地域絶滅という概念の話も私の興味を惹いた。ツキノワグマは九州では絶滅、四国でもほぼ絶滅したそうである。そうすると、ツキノワグマの遺伝子の多様性は随分と脆弱になっているようだ。その種が例え、絶滅していなくても、九州ツキノワグマは本州ツキノワグマと同じようで全く同じという訳ではないようなのだ。そういうことは、私は勉強不足でもあり、知らなかった。
 なかなか勉強になった。資料代ということで300円支払ったが、もっとお金を取ってもいいのじゃないか、という有意義さである。というか、立ち見も出たので、それはちょっとだけ運営側としては問題であったかもしれない。これを料金を取ることで調整できるのであれば、特に私のように地元以外での人からはとってもよかったかとも思う。
 それにしても、こんなに人々は生物多様性とかに関心を持っていたのだな。これは驚きと同時に、民主主義的なパワーも感じる。というのも、行政が自然や生態系を維持できない時、それらを守ろうと動き始めるのは市民であるからだ。それはイギリスでもアメリカでもそうである。

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宇宙団のライブ@渋谷LUSH(4月22日、2018年) [宇宙団]

宇宙団のライブを渋谷LUSHで観る。なかなか最近、観るチャンスがなかったので二ヶ月ぶりである。さて、これまで宇宙団のライブの観客は私のような中年男性の割合が高くて、これは問題だなと自分のことは棚に上げて心配をしていたのだが、今日は圧倒的に若者が多く、また、若い女性も増えていた。若い女性が増えてくれば宇宙団は大丈夫だと思っていたので、大変、喜ばしい。

一曲目は私は初めて聴いた新曲。というか、レコ発記念コンサートの一曲目に新曲を持ってくるという感覚が私には理解不能。とはいえ、この新曲はとてつもなくレベルが高く、まあ、そのうち重要なライブ・レパートリーになることは間違いない。とんでもない才能ではあるが、でも、ちょっと出し惜しみをしてもいいと思うのだが。そして、「恋は宇宙」。これも新譜に入っている曲ではない。そして、ようやく「文明鎮座」、「しあわせ宣言」と新譜の曲をやる。しかし、その後も新曲を演奏したりして、これもいい曲だったが、新譜を売る気があるのか、とちょっと説教をしたくもなる。そして、「ラブリー・チューン」。この時の観客の盛り上がりは凄い。「ラブリー・チューン」が宇宙団の人気を一段上げたというのはおそらく間違いない。続けて、「夏に寄せて」、「ヘルプ」。アンコールでは「日本のヒーロー」。結局、新譜からは8曲中6曲を演奏したので、それなりにレコ発記念コンサートという形にはなっていたのかもしれない。今日はたくさん演奏してくれたので、来た甲斐があった。

バンドは実は、ちょっと演奏ミスとかがあったり、キーボードとヴォーカル、コーラスなどがずれた曲もあったりして(「しあわせ宣言」)、必ずしもベストのパフォーマンスではなかったかもしれないが、ノリは素晴らしいものがあった。そして観客もたいへん盛り上がっており、まあ、そういう意味ではよいライブであると言えるであろう。

私はうまく一番前に陣取れたので、いい写真も撮影できた。そういう点でも嬉しい限りだ。さて、宇宙団は3人がこの3月で卒業した。うまく本当、プロとしてやっていけるように頑張ってもらいたいと心から思う。

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ドナルド・トランプの若い時の詐欺手法が明らかになると同時に、彼がとんでもない悪人(犯罪人)であることも明らかとなった [トランプのアメリカ]

米45代大統領のドナルド・トランプの人格破壊状態は驚くべきものがある。まず、事実に基づかず、自分の妄想で世の中を再編集する。そして、事実に基づいて報道をするメディアを「偽メディア」と指摘し、アメリカ国民の敵であるとまで言い放つ。

トランプは大統領選に出ていた時も、大統領になった後も、徹底的に「納税申告書」の公示を拒否してきた。それに関しては、脱税隠しなのではないかとの指摘もあったが、MSNBCのローレンス・オドナルは、おそらくトランプ自らが自慢しているほどお金持ちでないことがバレることを恐れているからだと指摘していた。

ドナルド・トランプは億万長者というキャラクターで、多くの不動産プロジェクトを具体化させ、また、アプレンティスというテレビ番組のホスト役を獲得して、これを見事に務めた。さて、しかし、その前提である億万長者というキャラクターは見せかけであったことを明らかにするようなネタが明らかになった。それは、トランプが本人ではなくて、広報部長のジョン・バロンという人間になりすまして、経営誌Fortuneの富豪リストにランクインするように、Fortuneの記者と電話取材をしていたときの録音テープが、その記者によって公開されたからである。この録音テープがこれまで公開されていなかったのは、最近になってようやく見つかったからだそうだが、セクハラ問題の渦中にある財務省の福田次官ではないが、声はトランプ本人のものと考えて間違いないそうだ。(出所:
https://www.youtube.com/watch?v=bO-s7sss0vg

トランプはこのように幾つかの架空の人物になりすまして、いろいろと電話などで交渉をしてきたらしい。ジョン・バロン以外にもジョン・ミラー、デイビッド・デニソンという人物になりすまして、マスコミに対して、トランプのことを褒めたり、金持ちであることをほのめかしたりしていたそうだ。もちろん、顔は出さずにである。

トランプはCon Man(詐欺師)であるとよくテレビ番組でもコメンターに指摘されていたりしたが、それはイメージとかではなく、本当に詐欺師であるということが、この録音テープによって明らかになった。もう、これはひたすら唖然とするしかない。

ストーミー・ダニエルというポルノ女優にトランプが不倫をしたことの口封じは法律的に無効であると訴えられたり、銃規制をしなくてはと言った直後に前言を翻したり、政敵や批判的なマスコミ関係者や芸能人・有名人に対してツイートで根拠のない罵詈雑言を浴びせたりと、いろいろと恥ずかしいことをしてきたトランプであるが、自らが会社の広報部長のようなふりをして、適当な嘘をいいふらすというのは、それらとも一線を画すような悪人の振るまいであると思う。

そして、そのようなことを考えて、さらに行動できるというのは、社会人としても不適であり、悪人というか犯罪人である。そのような人間をのさばらしただけでなく、大統領にまでしてしまったアメリカ合衆国という国が、いかに病んでいるか、というのをトランプの存在は我々に知らしめる。それに対して、しっかりと対応しないと、民主主義が崩壊していく。心あるアメリカ人も「民主主義の危機である」と警鐘を鳴らしているが、その崩壊は日本にもとてつもない影響を及ぼすであろう。

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4月20日、東京国際フォーラムの椎名林檎のコンサート [ロック音楽]

 東京国際フォーラムにて4月20日の椎名林檎のコンサートを観に行った。ひょっとしてレコ発、ということなので新しいアルバムが出るのかもしれないと思ったりしたが、結果的には新曲はなく、全てCDで既発表のものであった。レコ発、というのは『逆輸入〜航空局〜』のアルバム発表という意味だったのかもしれない。というのも、最新作である『逆輸入〜航空局〜』からの選曲が多かったからだ。
 さて、コンサートは3分にセットされた時計のカウントダウンによって始まった。最初の曲は、「人生は思い通り」。これは、「カーネーション」のシングルに入っていた曲で、おそらく知名度は相当、低い曲であろう。とはいえ、ほとんど捨て曲がない椎名林檎のレパートリーである。優れた映像とともに林檎ワールドに引き込まれる。そして「おいしい季節」(航空局)、「色恋沙汰」 (三文ゴシップ)と続き、「ギブス」(勝訴)。もう20年近く前につくった曲であるにも関わらず、まったく色褪せない。そして「意識」(カルキ)。「嘘つくなよ」の歌詞は、初めて聴いた時にも背筋が凍るような感じで怖かったけど、今でも相変わらず怖い。このロックのメロディーと日本語の歌詞をここまで融合して総合芸術として昇華させられるミュージシャンはそうそういない。彼女の類いまれな日本語能力を感じさせる名曲だ。その次は「JL005便で 」(日出処)と最近に戻ってきたかなと思ったら、「弁解ドビュッシー 」(勝訴)を演奏し始めた。いやあ、凄い曲だ。というか、椎名林檎は本当に器用なので歌謡曲、ジャズ、ハード・ロックといろいろな分野にまたがるアレンジ調の曲をつくれてしまうが、本質は「弁解ドビュッシー 」のようなパンク・ロックなんじゃないか、と思ったりもする。
 そして、「少女ロボット」 (航空局)。これは、東京事変バージョンではなく、航空局に入っているともさかりえバージョン。そして、また昔に戻って「浴室」(勝訴)。と思ったら、航空局から心中曲2曲(「薄ら氷心中」、「暗夜の心中立て」)。ピアフの「枯葉」カバーを挟んで「眩暈」。これは、「ここでキスして」のシングルに入っていた曲で、隠れた名曲という位置づけであると思われるが、まさか今日、ここで聞けるとは思わなかった。ちょっと嬉しくなる。
 さらに「おとなの掟」、「重金属製の女」、「静かなる逆襲  」、「華麗なる逆襲」、「孤独のあかつき」、「自由へ道連れ」、「人生は夢だらけ」と『航空局』と 『日出処』という最新アルバム2枚からの選曲で、一応、コンサートは終了。この間、MCはほとんど無し。ひたすら演奏を続けるといった格好。ある意味、相当、格好はいい。
 随分と時間を空けた後、アンコール。まあ、アンコールをしない訳はないと思ったが、周りの客は拍手をしないものも多く、ちょっと最低限のマナーというか礼儀ぐらい守れよ、と心の中でちょっと怒る。
 さて、アンコールでも挨拶をしたのは、ギターで林檎は一切、しゃべらない。一曲目はなんと「丸の内サディスティック」。「丸の内サディスティック」は、以前は、東京事変でもほとんどのライブで演奏されていたと思うのだが、デビュー10周年記念の林檎エキスポ以降、東京事変の解散コンサートの最終日である武道館公演を除くと演奏していなかったと思うので(少なくとも私は聞いたことがなかった)、これは本当、個人的には嬉しい。そして、「NIPPON」、「野生の同盟」で林檎のMCがほとんどなかったコンサートは終わったのであった。

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生まれて初めて竹の塚を訪れる [都市デザイン]

生まれて初めて竹の塚を訪れる。私事であるが、三ヶ月に一度、埼玉県の越谷市にある獨協医科大学の付属病院に通っている。ということで、竹の塚はそのたびに通っていた。とはいえ、それほど関心を持っていなかったのだが、4日前、知り合いの広告代理店の人達と下北沢に飲みに行った時に、竹の塚は治安が悪くて有名なのだ、という話を聞かされ、「えっ!そうなの」と驚いたので、早速、今日、獨協医科大学での定期検診の後、竹の塚で途中下車をしたのである。

竹の塚という名前は前から知っていた。というのも、中学時代、私は東横線の学芸大学に住んでいて、その頃、日比谷線が東横線と東武伊勢崎線の直通乗り入れをしており、東横線側は日吉まで、東武伊勢崎線は竹の塚にまで乗り入れをしていたので、私が乗る日比谷線は北千住か竹の塚行きであったからである。さらに、高校時代の同級生が竹の塚出身であったことも、その名前を記憶させるきっかけとなった。確か、竹の塚中学出身であったと思う。彼の家に遊びに行ったことはなかったが、団地に住んでいると言っていた気がする。あと、大学時代の友人が柏の方に住んでおり、よく車で送っていたことがあったのだが、竹の塚の有名な開かずの踏切を何回か横断した記憶がある。その後、この開かずの踏切では人身事故などもあったりして、ニュースでも取り上げられたのは覚えている。

とはいえ、これくらいの記憶である。今回も、てっきり西新井より北千住側だろうと思っていたら、草加側であったので驚いたぐらいである。竹の塚の駅は工事中であった。これは、どうも踏切事故に対応しての高架化、ホーム大工事の一環のようである。とりあえず東口に降りると、目の前には大きなバスターミナルがあった。まるでJRの駅のようである。そして、目の前には大きな団地が聳え立っている。しかし、高層ビルはこの団地だけであり、新越谷や北千住の駅前にあるような高層の商業ビルは一切無い。とてもフラットな感じの駅前である。おそらく、ここに駅が出来た時は、この一帯は田んぼであったのだろう。

そして、多摩ニュータウンや田園都市線沿線のような郊外の臭いはしない。おそらく、昔から人々がここで農業などに営んできたからではないか。山や谷を無理矢理、開発した暴力性のような匂いは、お昼に訪れたからかもしれないが、私はあまり感じなかった。とはいえ、自然的な感じもせず、工業地区のような人工的な印象は受ける。練馬や板橋に感じる武蔵野らしさはまったく感じられない。むしろ、葛飾や江戸川といった千葉、利根川的な風土を感じる。

気づいたのは物価の安さであり、ランチ定食が500円で提供されている。大学の生協より安いのではないだろうか。さらに驚いたのは不動産の価格で、3LDKの70㎡ぐらいの集合住宅が1800万円ぐらいで買うことができる。23区内でこの安さは驚愕である。東京は不動産が高いと言われたりしているが、なんてことはない、東に行けば相当、安い。逆にいえば、ここで1800万円の値段で買わずに他で買いたがる消費者心理とは一体、どのようなものなのだろうか。駅の周辺だけをぐるぐる回っただけであったが、珈琲焙煎屋はあるし、比較的美味しい個店系のラーメン屋もあるし(ここで、昼食をした)、多くのチェーン店もあるし、スーパーは西友である。銀行も三菱東京UFJ銀行がある。すなわち、生活利便性という点だけでは、むしろ田園都市線沿線の駅に比べても何ら遜色はないように思えるのだ。やはり、治安が悪いということが、この物価の安さと関係があるのだろうか。とはいえ、定年退職後、お金に不安であれば、退職金でここらへんの安マンションに入ったら生き延びることはおそらくできるだろう。同じ23区ではあっても、目黒区に住んでいると不安になるが、竹の塚に行けば生き延びられるような気がする。

竹の塚は「足立区のマニラ」と呼ばれているらしい。実際、急行も停車しない私鉄駅であるにも関わらず、多くのフィリピン・パブが集積していた。ホスト・クラブもあった(これはフィリピン男性ではなく、日本男性が働いているような印象を与えたが、実態はどうかは不明だ)。とはいえ、乱立するこれらの水商売系のお店の看板はちょっと不快感を覚えさせはするが、治安が悪いといった印象までは与えない。まあ昼に訪れたからかもしれない。

とはいえ、私が勝手にイメージをしていた竹の塚と、実際、体験した竹の塚とは大きな乖離があった。もう少し、東武板橋のような町並みをイメージしていたので、その団地的景観、バスターミナルの大きさ、土地利用密度の低さ、フィリピン・パブなどが集積している乾きなどは、想像外であった。そして、何より、不動産をはじめとした物価の安さは感動的ですらあった。北千住も最近、注目されているし、そのうち、この値段の安さから考えると竹の塚の人気も上がるのではないかとさえ思った。その時、ジェントリフィケーションが起きて、フィリピン人が追い出されないといいのと、そうなると私が貧乏老人になった時に竹の塚にレヒュジーできなくなると困るな、と思ったりもした。まあ、そんな心配はいらないか。東京オリンピックが終わり、消費税が10%になったら、人口減少トレンドにある日本は、東京を含めて不動産大不況になることは間違いないと思われるからだ。

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(駅を降りて東口に出ると目の前に巨大な団地のような建物が屹立している)

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(やたら立派なバスターミナル)

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(駅周辺の商店街)

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(巨大な団地のような建物の裏には広大な駐車場が広がる)

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(駅の北口の踏切)

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(感動的に安い不動産)

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(これが悪名高い開かずの踏切。上下線で踏み切りのシステムが分かれているのは、なかなか鋭いアイデアだと思った)

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(フィリピンパブ多し。またホスト・クラブもあった。そういうニーズがある街なのかとも思うが、フィリピン・ホステスもこの不動産の安さだと住みやすいかと思う。)

タグ:竹の塚
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東横線の渋谷駅があまりにも不便になったので、初めてバスで帰ってしまった [都市デザイン]

東横線沿線に住んでいる。しかし、渋谷には最近、めっきり行かなくなった。これは、東横線の渋谷駅が地下化して地上に出るのが億劫になったからだ。それまでは山手線に乗り換えるのも渋谷駅を利用していたが、最近では恵比寿駅を利用することが多くなった。これは、渋谷駅の乗り換え抵抗が私にとっては160円以上あるという証明になっている(恵比寿駅で乗り換えるとメトロ分、160円余計にかかる)。というか、そもそも山手線を使わずに副都心線をなるべく利用するようになっている。どちらにしろ渋谷駅には行かない。特に飲みに行ったり、食事をしに行ったりはしなくなった。
 さて、しかし、それでもたまに渋谷駅に行かなくてはいけない時がある。その理由は大きく3つある。一つ目はギターの弦とかピック類を買いに行くときである。渋谷はギター屋が集積している。他には都内だとお茶の水にも集積しているが、流石に渋谷駅が地下化して不便だとはいってもわざわざお茶の水に行くよりは便利である。ということで、そのようなニーズがある時には渋谷駅に行く。同じようにギターの修理に行く時も渋谷駅に行く。私は、ギターの修理は渋谷のESPと決めているので、そこに持って行く。二つ目はアップルストアに行くときである。銀座の方がサービスはいいが、流石に渋谷と銀座だと渋谷の方が近い。そして三つ目であるが、CDを買いたい時には渋谷のタワーレコードに行く。タワーレコードのメンバーズ・カードの効果が結構あるのかもしれない。
 また、時折、コンサートでオーチャード・ホールやらNHKホールとかにも行ったりするが、まあそれぐらいである。特別な「買回品」を購入するような時にしか渋谷には行かなくなっている。東横線沿線に住んでいても、渋谷駅は地下化によって随分と遠くなった。これは私が年を取ったこととも多少、関係があるかもしれない。
 今日、また渋谷に訪れた。ギター関連の小物を購入しなくてはならなかったからである。そして、帰路につこうとした時、東横線の渋谷駅まで行くのがとても面倒な気分になったので、生まれて初めて渋谷駅から田園調布駅のバスに乗ることにした。時間はおそろしくかかるが、なんか東横線に乗るのがとても億劫になったからである。
 東急は渋谷駅を地下化することで、高層ビルが建設されるようになってほくそ笑んでいるのかもしれないが、渋谷駅に行く気持ちを沿線住民からこれだけ削いでいるということに気づいた方がいいかもしれない。まあ、結局、バスに乗っても、それは東急バスなので東急は私のこのような不平も痛くもかゆくもないだろうが。まさに蛙の面に小便をしているような虚しさを覚えなくもないが、とりあえず不平をここに書いておく。

タグ:渋谷駅
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オールスタンディングでのライブで、ドリンクを強制的に売るのは止めて欲しい [ロック音楽]

最近、くるりのコンサートに行った。ゼップ東京である。このゼップ東京は、入場する時に500円を支払ってドリンク・コインを購入しなくてはならない。このシステムは非常に馬鹿げていると私は思う。まず、ドリンクをもらうために長蛇の列に並ばなくてはならない。私は30分ぐらい前に入場したが、この長蛇の列に並んだらろくな場所で見られないと思ったので、無視をしてそのまま観客席に入った。ど真ん中の15列目ぐらいで見ることができた。ドリンクをもらうために並んだら、おそらくずっと後ろで端っこになってしまったであろう。そのような場所で見ることと比べれば、余裕で500円以上の価値がある場所で観ることができた。ということで、経済的に私が取った行為は合理的であったと思われる。ちなみに、コンサートが終わった後でも、このコインは有効であったこともあり、終了後にも長蛇の列ができた。しかし、そこらへんで買えば250円もしないようなドリンクのために、なぜ並ばなくてはならないのだろうか。というか、ちょっと自分の時間価値を考えれば、それにまったく見合わないことが分かると思うのだが、なんかもったいない精神が出てしまうのであろう。しかし、本当にもったいないのは並ぶことで失われる機会費用である。
 さて、このドリンクが経済的にはまったく意味がない、というだけでなく、コンサート的にも迷惑な代物である。今回のコンサートはオール・スタンディングであったのだが、私の隣にいた女性は、ビールを飲んでいた。どうも、この人はアルコールに強くないらしく、ゆっくりと飲んでいる。というか、コンサート開始までほとんど減っていないのである。私は彼女がビールを持っている片手を動かすたびに、こぼさないでくれよ、と心の中で祈っていた。当日は革ジャンを着ていたので、本当に、こぼされると困ったからである。
 座ってみるのであればまだしも、オール・スタンディングでのドリンクは周りにとってはありがた迷惑であるし、飲んでいる本人も別にアルコールを飲みたくないのに、お金を払わされたので、そして、何となくノリでビールとかを注文してしまってちょっと後悔している、という感じを受けなくもない。ちなみに、私はシモキタザワのライブハウスとかでも、あのドリンク制は嫌いだし、大抵、飲まない、というか注文しない。まあ、消費税のような気分で支払っている。
 そして、私のような人も少なくないと思うのだ。むしろ、ドリンク代を含んだ料金を徴収して、ドリンク代を多少、安くして提供するぐらいの方が店側も利益が出るだろうし、客も喜ぶであろう。せこく、そんなドリンク代で儲けようとかいう根性が、長期的にはライブに来る客を減らすような気もしないでもない。いや、絶対観たいアーティストにはそれでも行くだろうが、行こうかどうか迷っている人は、敢えて行かなくてもいいかな、と思うかも知れない。どちらにしろ、改善を検討した方がいいと個人的には考える。

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都市政策と地域政策を考える [地域興し]

私はカリフォルニア大学バークレイ校のDepartment of City and Regional Planning の大学院を卒業している。これを日本語に訳すと都市および地域計画学科になるであろう。このようにわざわざ都市および地域という名称にしているのは、都市計画と地域計画は異なるものであるからだ。都市計画は、自治体レベルでの計画であるのに対し、地域計画はより広域的な複数の自治体にまたがるような計画というものになる。

さて、しかし日本ではこの都市と地域というのがどうも曖昧のようだ。計画ではないが、政策という観点からは都市政策と地域政策の違いが必ずしもはっきりしていないようなのである。すなわち、地域政策は幾つかの自治体にまたがる「地域」を対象とした政策という意味ではなく、地方自治体の「地域」として捉えられているような印象を受ける。関連文献などを読むとそのように捉えた書き方が為されている。そうすると、都市・地域政策といった場合、都市の方がむしろ曖昧ということになってしまう。都市は一般的には自治体単位で捉えられるべきものである。京都といえば京都市であるし、小田原といえば小田原市であるし、弘前といえば弘前市である。しかし、それらは地方自治体であるので、それらの政策も地域政策として捉えられてしまう。地域政策学部という名称が大学で使われているのに、都市政策学部という名称が使われていないのは、政策学的に捉えると地方自治体のイメージを喚起させる地方という名詞の方が都市より通りやすいということがあるのかもしれない。

一方で計画だと都市が使われる。都市計画学科はあるが、地域計画学科はない。地域計画の英語訳であるRegional Planningがアメリカとかでは跋扈しているのとは対照的である。

この政策と計画とによって、用語の使われ方が違うということは、都市政策や地域政策の議論を曖昧模糊としているような気がする。ここらへんに関しては、これからも問題意識をもって考察していきたい。とりあえず、今日は備忘録というか、思いつきレベルのことを書かせてもらった。

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地域政策に関して考える [地域興し]

新しく奉職した大学では「都市・地域政策総論」という講義を担当することになった。これまでも前任校で「都市政策論」という講義を担当していたので楽勝だろうと思っていたのだが、都市政策だけではなく地域政策とも講義名で掲げられているので、地域政策論も多少は教えなくてはならない。そこで、講義資料をまとめ始めて、はたと気づいたのは、地域政策って何じゃらほい、ということである。日本は基本的には国土政策で地域政策まで網羅している。アメリカやドイツの連邦制を有している国においては、しっかりとした地域政策もあり得るが、日本において地域政策って「首都圏整備計画」のようなものだろうか。しかし、これも中央政府がつくっている。中央政府がつくっている広域計画は、アメリカのTVAを含めて地域政策で括ることは難しいよな、ということで自分で考えても分からないので教科書的なものを注文した。
 その名も『地域政策』という中央経済社から出ている本と『地域政策を考える』という勁草書房が出している高崎経済大学付属地域政策研究センターが編集したものである。後者は地域政策学部というファカルティまで擁しているので、参考なるだろうと思ったのである。
 さて、しかし、何ということであろうか。これらの本を読んでもほとんど役に立たなかったのである。前書は、「地域経済、地域政策、国土計画を学ぶ初歩の初歩、最初の1冊として、本書を活用していただければと思います」と書いているにもかかわらず、地域経済の勉強になっても地域政策の参考にはほとんどならなかったからである。というのも、「地域政策とは」という章を開くと、いきなり「地域政策とは何かを定義することは、簡単ではありません。地域政策という本をかいておきな柄、それはないだろうと思われるでしょう。」などと書いてある(96ページ)。それはないだろう!それが知りたくて購入したのだから。そして、その数ページ後に「歴史的にみると、地域を意識した政策を実施した背景には①民族問題、②問題地域の発生、③新しい領土の開発問題がありました。」と書いている。これは、地域政策とは何じゃラホイ、と思っている私でもずれているということが分かる。こりゃ、駄目だ、ということで後者の本を読むことにした。
 しかし、これも序文を読んでがっくりと来た。そこではこう書かれていたのである。
「(前略)地域間格差の解消を目指す古典的な地域政策から、広域ブロックごとに発展を目指す新たな地域政策が模索されるようになった。そのために地方自らが策定する地域産業政策に大きな権限と財源を与え、自律的に企業誘致を戦略的に展開し、立地に関する行政サービスをワンストップで行うことが求められている。
 さらに、今後に向けては、多重・多層型パートナーシップの形成による自律型経済システム創造を目指して、個々の主体では対応できない事態への機動的即応、波及的なインパクトを含む相乗効果の発揮が期待される」(pp.3-4)。
 この文章で言っていることは正しいかもしれないが、その語尾に注目してもらいたい。「求められている」「期待される」である。つまり、そのような地域政策が求められていたり、期待されていたりするが、現実の日本においてはほとんど為されていない、ということだ。
 また、同じ序文では次のようにも書かれている。
「地域政策学のアプローチは、多面的に地域を考え、内発的な地域づくりに参画していく地域における官民諸分野の人材の養成と、その人材を活かすことのできる地域社会システムの構築と、地域政策に関わる総合的な視野を持った学問体系の形成によって達成されるものである。」
 この文章自体は、しっかりとした問題意識を有しており、地域の課題を直視し、その解決法を考えようとの提案であり、それについての異論はない。しかし、「考え」、「養成」といった動詞が使われている内容は取り組めるが、「構築」というのはそうそうできるものではない。というかハードルが高すぎるとも思われる。そもそも、地域社会システムが構築されて始めて、その地域政策が意味を持つのであって、そのようなシステムが構築されるような制度がない現状において地域政策を論じることに虚しさを覚えるのは私だけではないであろう。これが地域「政策」でなければ、まだ希望が持てる。例えば、地域「活性化策」とか、地域「再生策」、もしくは地域「方策」でもいい。しかし、「政策」といった時点で、その主体というか主語は、政府もしくは行政体に限定されてしまう。そして、そのような地域政策をしっかりと遂行できる行政体があるようでない状況下で、そのようなことを論じるのは違和感を覚えてしまうのである。
 これらの本からも分かったことは、都市政策(自治体政策)と地域政策がごちゃ混ぜになっているということである。敢えて、講義を進めるうえでは、実はごちゃ混ぜにしてしまって議論を進めるというのは好都合である。ただし、それでは学生もこんがらがるだけだ。したがって、私がここで勝手に地域政策についての仮説を設定する。
 それは、自治体だけでは解決できない公害問題などを含む環境問題、交通問題など複数の広域的自治体で対応しなくてはならない政策的課題に対して、広域的に関係する自治体が連携することで、策定される政策のことを「地域政策」とする。これだと、アメリカでいうところのRegional Policyともほぼ合致する。そして、その政策を遂行する組織のイメージとしては、アメリカであれば、ポートランド広域都市圏のMetroやミネアポリス・セントポール大都市圏のメトロポリタン・カウンシル、サンフランシスコ大都市圏のSCAGなどであるし、ドイツであればルール地方のルール・リージョナル・アソシエーション(Regionalverband Ruhr)などになるだろう。
 そのような主体が策定するのが地域政策であり、それは自治体が策定する自治体政策(都市政策)とは一線を画すべきであると思うのである。
 少なくとも、私はそのような理解で講義を進めていきたいと思っているし、そのうち、そのような地域政策論の考えをまとめたいとも思っている。ということで、講義を受けることになる学生から質問が来る前に自分のスタンスをここで明らかにしておく。

タグ:地域政策
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ランディ・ヘスターとエコロジカル・デモクラシー [都市デザイン]

ランディ・ヘスターが著した都市デザインの大著『エコロジカル・デモクラシー』の出版記念イベントに参加した。ランディ・ヘスターはバークレイ時代の先生であるのと、私はランディ・ギャングといわれる強烈な女子学生グループになぜか白一点で入っており、セミナーに参加し、彼が行く学会に同行してたりしていた。ということで、あまりにも近いので、彼はいい先生ではあるが、現状の日本での高評価には正直、違和感を覚えている。親戚のおじさんが大スターになってしまったような感覚である。
 さて、しかし、この『エコロジカル・デモクラシー』は凄い本である。私も流石に多少、公式の場で、「元学生の分際でこのようなことを述べるのは不遜ではあるが、この本はジェイン・ジェイコブスの『The Death and Life of Great American Cities』やケビン・リンチの『The Good City Form』と同じレベルにあると思います。ジェイコブスやリンチは伝説的な人でありますが、まさか、こんなに近くの人がそのような伝説的な仕事をされたのは光栄です」と伝えた。ヘスター先生は近かったこともあり、その必ずしも立派ではないようなところも知っている。都市デザインのアプローチでも問題がない訳ではない。しかし、そういうことを踏まえても『エコロジカル・デモクラシー』を書き上げたという偉業の前では、そんなことは些少である。
 また、この本はエコロジカル・デモクラシー・デザインという手法の運用指南という位置づけも有している。そして、エコロジカル・デモクラシーというアプローチこそが、トランプ大統領によって生じている民主主義の危機、環境破壊の惨事を回避できる極めて有効なものとなるであろう。これに関しては、雑誌『ビオシティ』にちょっと書いているので、関心のある方は読んでもらえればと思っている。

http://bookend.co.jp/biocity-ビオシティno-74-エコロジカル・デモクラシーのデ/

出版イベントでのランディ・ヘスターはスピーチで次のように語っていた。
「エコロジカル・デモクラシーは10年後には、ヴァーチャルなコーポレイト・デモクラシーを凌駕するであろう」。
 ちょっと楽観的であるかもしれないが、しっかりとエコロジカル・デモクラシー的なアプローチ、すなわちエコロジーを意識した民主主義的アプローチでのコミュニティ・デザイン、都市計画、国土計画を継続し続ければ、長期的には大きく社会を変革することも可能ではないかと思わせられた。

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労働組合は自由加入であるべきだ [その他]

4月から新しい職場で働くことになった。龍谷大学政策学部である。さて、いろいろとオリエンテーションなどがあったのだが、そのうちの一つに組合の説明があった。私の前々職である三菱総合研究所にも、前職の明治学院大学にも組合はあった。前々職では若かったこともあり、プロフェッショナルなのだから職場が嫌なら辞めればいいじゃないか、という気概で仕事をしていたので組合というのが職種的にもまったく納得できなかった。しかし、強制加入であったので無理矢理入れさせられた。前職の明治学院大学も強制加入であり、いやいや入って、ろくに組合活動をせずに、転職できるように研究活動と教育活動に力を入れていた。置換え可能でない人的資源であれば、組合に頼らずに生きていけるのだ、というある意味、傲慢不遜な考えを持っていたので、組合的な活動に意味を見出さなかったのである。
 さて、そのような非組合的な考えを持っているので、龍谷大学は強制加入でないこともあり、組合に入るつもりはなかった。しかし、説明を聞いていたらなかなかいいのである。組合の成果などがしっかりと説明されたパンフレットなども配布されたのだが、組合頑張っているじゃないか、というのがオリエンテーションの説明とともに伝わってくる。このような組合なら入っていいな、と思いつつ、前々職と前職との違いは何があるのかと考え、それは強制加入ではないからだということに気づいた。強制加入は組合として仕事をしてもしなくても、組合費は入ってくる。むしろ、仕事をするだけ大変だ。仕事をするモチベーションがないため、御用組合的になり、会社の経営陣や大学の執行部などにもなめられる。一方、強制加入ではないと必然、組合の仕事をしないと誰も入らないし、どんどんと辞めていく。組合としての仕事の成果を上げるというのが、その組織を維持するためにも不可欠なのだ。そういうことで、強制加入の組合は辞めたい、辞めたいと思っていた私が、強制でないと入ろうとしている。組織の運営のあり方を考えるうえでは有効な知見を与えてくれるような経験をした。
 
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宇沢弘文『ゆたかな国をつくる』 [書評]

 日本の戦後の混迷をもたらした最大の要因は官僚が公益をないがしろにして暴走したからだ、という著者の考えをまとめた本。そして、その結果、どのような悲惨な結果を日本にもたらしているのかということを、水俣病をはじめとした公害、荒廃する教育、絶望的な状況にある農業などの事例を紹介しつつ論じている。そして、この諸悪の根源である官僚専権をいかに克服して、真の意味でゆたかな、住みやすい、そして文化的水準の高い国をつくればいいのかを、断片的ではあるが述べている。
 20世紀の日本を代表する経済学者、宇沢弘文氏の本であることもあり、当然、論理的で(一部、事実誤認と思われる箇所がないわけではない)、すこぶる説得力はあるのだが、この本が出された1999年から20年近く経って、日本はより悲惨な状況になっている。現在の日本の状況をみたら、宇沢先生も憤死してしまうのではないか、と本書を読んで思ったりした。官僚専権という点からみても、財務省の佐川宣寿氏の公文書改ざん事件などは、宇沢先生の想像の外にあるのではないだろうか。当然、福島原発の事故なども彼からすれば卒倒するほどの出鱈目さ加減であろう。ということで、本書で書かれた状況から20年、日本はさらに泥沼状態に喘いでいて、そして、20年前に比べても状況を打破する光明さえ見えない。
 ということに気づき、暗澹たる気持ちになってしまった。


ゆたかな国をつくる―官僚専権を超えて

ゆたかな国をつくる―官僚専権を超えて

  • 作者: 宇沢 弘文
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/03/05
  • メディア: 単行本



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くるりのコンサートをゼップ東京で観る [ロック音楽]

くるりのコンサートをゼップ東京で観る(3月30日)。ドリンクを無視して、30分ぐらい前に入ったので二ブロック目のほぼ真ん中を陣取ることができた。19時15分の開演を10分ぐらい回ったところで、くるりが登場。一曲目は「東京レレレのレ」。テレキャスで岸田が延々とギターソロを続ける。なんかブルージーである。そして「東京」、「飴色の部屋」、「ハイウェイ」。「ワンダーフォーゲル」といった往年のくるりファンが驚喜しそうな曲を演奏する。というか、実際、後ろにいた客は「ああ、私の青春だあ」と興奮状態であった。あと編成であるが、ギターが3本、それにキーボード。ファンファンというトランペッターもいるし、7人編成である。

その後、「東京オリンピック」という変拍子だらけのインスト・ナンバーなどを演奏する。新曲が続き、ちょっと興奮状態が醒めてきたところで、「ばらの花」。さらに数曲、挟んで「魔法のじゅうたん」、「虹」そして「ロックンロール」。「ロックンロール」は改めて名曲であることを再確認する。

そして、アンコール。アンコールの一曲目は「ブレーメン」。ファンファンのトランペットの音色が美しい。その後は新曲、「琥珀色の街、上海蟹の朝」。この曲は絶対、ボビー・コールドウェルのWhat you won’t do for love だよなと思う。盗作で訴えられたら負けるだろう、と他人事ながら心配になる。

そして、最後は「その線は水平線」。新譜からの代表曲でしっかりと締めたという感じである。ギターが3本で結構、うるさいな、というのが大まかな印象。そして、せっかくファンファンがいるのに、ファンファンのトランペットがフィーチャーされた曲は少なかった。私としては、ロックンロール・ハネムーンはやって欲しかった。この点は残念ですが、総じて、まあ滑らない良好なコンサートであったと思う。

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なぜ、日本人は食べる時に音を立てるのか [グローバルな問題]

 日本人の多く、特におじさんは食べる時に音を立てる。これは、欧米では完全に御法度である。私もドイツ人の友人を連れて日本を旅行した時、ラーメン屋に入ったら、周りの人がラーメンを啜って食べているのに対して「申し訳ないけど、ドイツではとても下品で、許されない食べ方だ」と言われた。その時、私は「いや、これは日本での食べ方だから郷に入っては郷に従え、我慢しろ」と言ったのを覚えている。というか、ラーメンを啜って食べるのは、熱いラーメンを食べるうえでは比較的合理的であり、下品か舌を火傷するか、という選択肢しかなければ、ほとんどの人は前者を取るであろう。ちなみに、ドイツ人はどうするか、というと熱いラーメンを食べないという選択肢を取る。したがって、ドイツのラーメン屋のラーメンはぬるい。そして、当然だが不味い。
 とはいえ、逆も真なりで、日本人がドイツや欧州に行ったら、啜って食べることは慎むべきである。なぜなら、ドイツや欧州では、啜ったり、音を立ててたベたりするのは「とても下品で、許されない食べ方」であるからだ。日本人は忖度が得意だし、周りに異常なほど気を遣うのに、食べ方だけは変えない。だから、私は日本人の人達と欧州で食事をした時、「スパゲッティを注文するな!」と心の中で念じている時が多い。しかし、私が念じれば念じるほど、「今日はスパゲッティが食べたい」と言って、スパゲッティをラーメンを食べるがごとき、啜って音を立てて食べるのである。私も日本人なので、そこで指摘をして相手に恥をかかせるのは申し訳ないので、我慢をしているのだが、なかなか辛いものがある。というのも、海外で8年間生活していたこともあって、そこらへんのセンスが欧米人と近くなってしまっているからかもしれない。
 先ほど熱いラーメンは啜った方がいい、と私の屁理屈を紹介したが、この屁理屈はスパゲッティには通用しない。スパゲッティを啜って食べるというのは、下品であるとしか形容しようがない。しかし、多くの日本人がそれを是としている。『あぶない刑事』で二枚目の柴田恭兵がスパゲッティを音を立てて啜って食べているシーンがあって、愕然としたのだが、それだけ、日本の一般社会では許容されているのであろう。
 私はこれは立ち小便をするとか、鼻くそを人前でほじくる、並みの下品さだと感じるので、この彼我の違いは愕然とするしかない。というか、それを不快に感じるような感性を有して日本で暮らしている不運は、まあ嘆くしかないが、欧州にいる時はせめて是正してもらいたいと思う。おじさん達、お願いします。と言っている私も既におじさんであるが・・・。

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『ラ・ラ・ランド』 [映画批評]

『ラ・ラ・ランド』は一度、機内で観ようとしたのだが、ちょっと10代向けという感じが強かったので、5分ほど観ただけで挫折していた。しかし、私が最近きになっているソノヤ・ミズノも出演していることを知ったのと、また、私が敬愛する60代半ばの建築家の先生が「面白いよ」と言ったので最後まで頑張って観てみた。ソノヤ・ミズノは前半においてエマ・ストーン演じる主人公とシェアルームしている役で出て、4人で踊るのだが、4人の中で一番、スタイルがよくて、しかも踊りもキレキレであった。本当、日本人の血が半分入っていると思えないほどの格好良さである。
 話の展開はちょっとペーソス溢れていて、思ったよりは楽しめた。とはいえ、完全な娯楽作品であり、まあ漫画のような感じのミュージカル映画である。ただ、このべたべたになりがちなロマンス映画をどうにか観られるようにしているのは、エマ・ストーンの爽やかさというか、清潔さであるかと思う。ジョディ・フォスターをちょっと柔らかにした感じのキャラクターはなかなか大器な印象を与える。
 あと、『ラ・ラ・ランド』とタイトルにしているだけあって、ロスアンジェルスの魅力を映画で表現しようと意図されているのが分かる。ロスアンジェルスという都市への愛に溢れているが、ロスアンジェルスは都市としては相当、出来損ないなので、この映画のように感じよく描くのは相当、至難の業なのではないかなと思う。グリフィス・パーク、サンタ・モニカ・ピア、ワッツ・タワーなどロスアンジェルスのランドマークをしっかりと抑えているが、逆にダウンタウンはまったく出てこない。いかに、ロスの住民がダウンタウンなしで暮らしているか、ということを逆に示している。
 また、重箱の隅を突くような指摘で恐縮だが、セバスチャンがミアを実家のボルダーにまで朝の8時に自宅に迎えに行き、その日の17時30分にロスアンジェルスで行われるオーディションに届ける話があるが、ボルダーからロスアンジェルスまではどんなに車を飛ばしても9時間30分で着くことはできない。ということは、自分の車でデンバーに行き、そこから飛行機でロスアンジェルスにまで飛んだということだろうか。こういうのが気になると、映画のストーリーに集中できなくなってしまうので、そこらへんは筋を通して貰えるとよかった。


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『ソフィーの選択』 [映画批評]

 トランプ大統領がメリル・ストリープのことを「史上最高に過大評価された女性」とツイッターで批判したので、これまで観たことのなかった彼女の傑作の一つである『ソフィーの選択』を観た。というか、これを観ると素人でもメリル・ストリープが天才としか形容できないような女優であることが分かる。背筋が寒くなるほどの演技力である。こりゃ大した大女優である。少なくとも『ソフィーの選択』のメリル・ストリープは、どんな絶賛も過大評価になることはない。というか、この映画の主人公であるソフィーという地獄を見させられた女性の複雑な多面性を演技できる女優がこの世にいるというだけで驚きである。ソフィーは潔癖であると同時に官能的であり、ユーモラスであると同時に悲しみに溢れ、そして圧倒的に絶望的である。第二次世界大戦におけるドイツのユダヤ虐殺が、いかに多くの人生を狂わせることになったのか。それは観る者の心を大きく揺さぶるであろう。
 最近は日本を含めて世界中で人種差別的な動きが活発化しているが、そのような考えがどれほど人の醜悪さを晒し、無実の人を崩壊させるか。トランプを支持する3割ちょっとのアメリカ人も、トランプのいい加減なツイートを信じるより、この映画でも観て、生きることや人種差別の負の側面について、ちょっと立ち止まって考えるべきであろう。そして、このような女優を「大根女優」のようにしか捉えることができないバカな大統領を選んだ自分達の愚かしさを反省するといい。


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大雪によるドイツ鉄道のダイヤの乱れの日に、東京の交通システムの脆弱性について考察した [サステイナブルな問題]

 3月中旬のドイツは大雪に見舞われた。この日はライプツィヒからマンハイムまで移動しなくてはならない。ライプツィヒの中央駅に行くと、案の定、大混乱状態であった。指定席を取っていないので、列車が遅れても特に問題はない。ライプツィヒからマンハイムまでは乗り換え無しで行くICEが2時間に1本の割合で走っているのだが、もう、とりあえずマンハイム方面に行った方がいいだろうということで、中央駅に着いたフランクフルト中央駅に向かうICEに乗り込む。列車は定時から2時間遅れで出発したが、私が列車に乗り込んでから出発するまでに待っていた時間は1時間ぐらいであった。列車が出発したら、座席から拍手が起きた。ところどころ止まりつつ、列車は走行していったが、17時20分にはフランクフルト中央駅に着いた。ダイヤ的には3時間ぐらいの遅れかもしれないが、実際の走行時間的には30分ぐらいの遅れにしか過ぎない。
 しかし、そこからマンハイムへ行く列車がない。ICEは皆、150分遅れとか、訳の分からない数字を電光掲示板に示している。ということで、急いで各停のローカル列車を調べて、そちらに乗ることにした。ちょうど上手い具合にマンハイム行きの列車が18:06に出るのでそれに乗り込む。これは、6分遅れの18:12に出発した。ライプツィヒのあたりは一面、白い世界であったが、フランクフルトは雪が降った形跡もない。ローカル列車がそんなに遅れる理由はあまりない筈である。ICEはドイツ全国土にネットワークを拡張しているので、雪が降った地域を走っている列車は悉く遅れている。そして、その遅れがドミノ倒しのように、他の列車にも波及していっているのである。混乱が混乱を招くというような状況だ。そもそも正常な状況でも、ドイツ鉄道はICEを定刻で走らせることが困難である。雪がこれだけ降ったら、ほとんど麻痺状況になるのも致し方ない。
 東京も雪が降ると、結構、交通が麻痺してしまう。大学の同僚の先生が、これはどうにかならないのか、と聞いてきたことがあるのだが、ある程度、雪が降ってもまともに交通が機能するようにするのには、とてつもない経費がかかるであろう。というか、そもそも、山手線の駅周辺にどんどん商業ビルを建設して交通需要を集中させるような都市開発を促進させたり、東横線が西武池袋線や東武東上線と接続して運行し、リスクマネジメントができないほどシステムを拡張させたりしていることこそが問題をより深刻化させているのである。
 つまり、東急東横線でいえば、ダイヤの乱れを収束させることを可能にした渋谷駅というターミナルを喪失し、より脆弱なシステムへと移行させてしまった。しかも、そうでなくてもキャパオーバーの渋谷駅にさらに商業ビルの床面積を増やすような開発をして、リスクをさらに高めている。それが降雪とかに対して東京の交通システムをより脆弱化させている大きな要因であり、そのようなことを放置して、降雪に対してレジリエンスを高めるようなことをしようとしても、放火犯を放置しておいて、消火活動を強化しようとしているようなものであり、無駄であると思われる。
 などということを、ドイツのダイヤの大乱れの日に考えた。

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(雪景色のライプツィヒ中央駅)
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ベルリンでアンペル・マンのグッズを購入し、都市のシンボルとしての商品についてちょっと考えてみた [都市デザイン]

ライプツィヒからベルリンに日帰りで行く。テンペルホーフ空港の跡地を訪れ、プリンツィシンネン庭園を行き、KaDeWeへ寄って戻ってきた。さて、KaDeWeにせっかく寄ったのでお土産でも買おうと考えた。ベルリンには、有名な熊の置物があり、私は3体ほど買っている、ベルリンという名前は熊に由来していることや、ちょっとこの熊が可愛かったりするので、私は、これをなかなか優れたベルリン土産として気に入っているのである。しかし、ちょっと大きい。というので、代わりにアンペル・マン・グッズを購入した。
 アンペル・マンとは旧東ドイツの歩行者用の信号機に使われたキャラクターで、そのキャラクターを商品化したグッズは、広く旧東ドイツの都市で売られていて、日本でも白金高輪でそれを専門に売っているお店もあったりする。旧東ドイツの数少ない旧西ドイツより優れたものとも言われている、なかなかチャーミングなキャラクターで私も結構、好きである。
 さて、アンペル・マンは旧東ドイツ中にあるし、現在ではシュツットガルトやリューベックでも用いられている。なんで、ベルリン土産なのかというと、最初に設置されたのが旧東ベルリンであるからだそうだ。ということで、アンペル・マンはベルリンにふさわしい土産になるかもしれないが、よく考えればKaDeWeは旧西ベルリンに位置しており、そういう意味では旧東ドイツの中で唯一といっていいほど、アンペル・マンと関係がないような場所である。まあ、旧西ベルリンも広義で捉えればベルリンなので、そういうのはただの難癖ということになるかもしれない。少なくとも、そこにはベルリンのストーリーが含まれているからである。また、アンペル・マンのグッズを販売している会社もベルリンに拠点を置いている。
 さて、しかし、そういうことを考えていて気づいたのは、アンペル・マンというのは旧東ドイツが共有するゆるキャラのようなものだな、ということである。それほどゆるくはないが、それでもある程度のゆるいところもあり(青信号の男の子にちょっと得意げに上を向いているところや、赤信号の女の子の妙に潔癖な感じのするところ)、そこがドイツ人を始めとした人々の心をくすぐっているような気がする。
 ゆるキャラというと、日本人の専売特許のように捉えられているし、それ故に日本人は奇妙な民族だといった、見方も為されていたりするが、なんてことはない、ベルリンにもしっかりとゆるキャラのような地域と関係性の高いキャラクターが存在して、また多くの人に愛され、関連グッズも販売されているという訳だ。
 いや、逆にいうと、アンペル・マンのような、その都市のストーリーを包含するようなキャラクターがあればいいが、なければゆるキャラでもいいからつくっちまえ、というのはあるかもしれない。
 また、その都市を象徴するようなシンボル的なキャラクターは何かと考えた時、サンフランシスコはケーブル・カーや金門橋、ニューヨークは自由の女神、フランスはエッフェル塔か凱旋門、ロンドンはロンドン・タワーやギュルクといった建築、バルセロナはガウディのギュエル公園にあるとかげ、京都であれば舞妓はん、大阪であればたこ焼き、などがすぐに浮かぶ。
 逆にいえば、このようなシンボル的なキャラクターがすぐに浮かばない都市、というのは都市マーケティングの時代においては、相当、マイナスであり、それを改善することが望ましい。しかし、名古屋市や豊島区のように、都市イメージが悪いからといって、自らのアイデンティティと関係ないお洒落な公園を整備したり、とりあえずニュース性のあるようなことのために税金を浪費したりするのはまったく効果がないどころか、さらに状況を悪化させていくことは理解しておいた方がいいであろう。
 貴重な資源を活かすことが必要であるが、それはつくろうと思ってつくるのではなく、それまでの都市政策の歴史・蓄積の中から滲み出てくるようなものであるべきだ。名古屋市がダサイのは、そのような都市文化を理解しないで、とりあえず効率性・経済性だけを追求してきたからではないだろうか。最近では、B級グルメで勝負しようとしているが、それは200万を越える人口を擁しながら、A級グルメを育てることが出来なかったという文化醸成力の無さの裏返しではないだろうか。タモリに揶揄されたからといっていちいち、センシティブな中学男子のように反応するのではなく、もっと長期的な視点でその都市をつくっていこうという姿勢を継続することで、都市のブランドは築かれると思うのである。そのような姿勢は、ヨーロッパではミュンスター、ハンブルク、リューベック、バルセロナ、ボローニャなどで見られるが、日本でも弘前市、金沢市などは参考に値する。
 そして、そういう姿勢を継続させることで初めて、都市のブランドは醸成されていくのであろう。ということを、アンペル・マンをベルリン土産で買いつつ、考えたりした。

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都市研究におけるケース・スタディの基礎(4) [都市デザイン]

さて、都市研究におけるケース・スタディの留意点の4つ目は、ヒアリングをあまり信用するな、ということである。ヒアリングは都市研究において極めて重要である。特に文献資料などがない都市政策を検証するうえで、担当者へのヒアリングは実情を理解するうえで不可欠といってもいいだろう。
 ただ、ヒアリング者がすべての事実を知っている訳ではない。たまには間違ったことを言っているかもしれない、と失礼のない範囲で疑いの目を持っておくことは重要だ。これは、しかしなかなか難しい。というのも、ヒアリングに対応してくれている人の方が、ヒアリングをしている研究者より、そのことについて遙かに詳しいから、どうしてもそれが事実であると思ってしまうし、その真偽を検証することも難しいからである。それを防ぐためには、数多くのヒアリングをこなすことである。
 私自身、ヒアリングをもとに原稿を書いて、まさに出稿する直前に、他の文献資料と私の書いていた内容が矛盾していることに気づいたことがある。その事実誤認を確認する時間もなかったので、私はその矛盾する文章を削除することで対応したが、その文献資料を読んだ時は冷や汗をかいたものである。ヒアリングで情報を収集することは重要であるが、その裏付けをすることが必要である。これがなかなか為されていない場合が、自分のことをちょっと棚上げして、多いような印象を受ける。
 そして、ヒアリングほどではないが、文献が必ずしも正しい事実を伝えていないことも留意することが必要である。都市デザインの「都市伝説」として、デンマーク人のヤン・ゲールがストロイエを設計したというものがある。これは日本の文献でもアメリカの文献でもそのように書かれているのだが、これは事実ではない。ヤン・ゲールとは取材をしたことがあるが、彼はこのことを強く否定していた。そもそも、ヤン・ゲールがストロイエを設計したとしたら、20代の時になる。それを考えても、これは事実ではないと分かるのだが、なぜか、そのように紹介されてきたし、私もヤン・ゲールに会うまではそうなのかな、と思っていた。したがって、自分が文章化する時には、それについては真実かどうかを謙虚に検証することが必要であろう。
 これは私も含めて、ケース・スタディをするうえでは留意しなくてはいけない点であると思われる。

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都市研究におけるケース・スタディの基礎(3) [都市デザイン]

 都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点をこれまで2つ述べていた。一つ目は、比較する対象の特徴をしっかりと捉える、出来れば科学実験のように、比較する指標以外の条件をなるべく同一のものすることである。二つ目は、ケース・スタディをするうえで用いられている言葉の定義を誤解しないでしっかりと理解するということであった。
 そして、このブログで述べたい3点目は、拙速に結論を導かないということである。ケース・スタディの対象を研究するということは、自分が無知であったことを知るということでもある。それは、学習する過程でもあるのだ。したがって、それまでの自分の知識・経験等でその対象をしっかりと理解することは、実は不可能に近かったりするのだが、安易に結論を導いてしまいたがる人が多い。それは、あくまで結論ではなく、むしろ研究の端緒にあたる仮説設定に過ぎないのだが、この仮説を検証しないで、印象論だけで結論的な判断を下してしまう人が本当に多いのだ。ケース・スタディというのは仮説設定→検証→大抵、ここで仮説が間違っているので再び仮説設定→検証→・・・という作業が続いて、だんだんと真実が見えてくるのだが、それは大変であるので、自分の大雑把でいい加減な知識を動員して、自分の眼鏡でみえるストーリーをつくってしまう。例えば、ドイツは市民参加が絶対的にやられている、とかドイツは計画なくて開発なし、などと言われているが、実際、ケース・スタディをするとそうではない場合もあったりする。連邦制をとっているドイツは、日本のように都市計画法が国の法律ではないので、様々な状況があるのだが、自分の知っている事例(大抵の場合、極めて優れている事例)をもとに、ドイツの都市計画のあり方を一般化して理解してしまい、例外的な事例を受け入れないのだ。
 事例研究に意味はあるが、それは知らないことを知るためにむしろされるべきであり、安易な一般化された結論を導くためにすることは慎むべきであり、それは長期的な取り組みを研究者に要求する方法論であると思われる。
 私もクリチバの成功の最大要因がレルネルさんであった、ことはクリチバを初めて訪れた1997年から数えて、20年以上経って、確信を持って言えるようになったが、『人間都市クリチバ』の本を出した2004年時では、まだそれは仮説の範疇をでていなかった。今は確信を持っている。

タグ:事例研究
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都市研究におけるケース・スタディの基礎(2) [都市デザイン]

 前回に続いて、今回も都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点を述べたいと思う。それは、しっかりと言葉の定義を理解していることである。日本人がドイツに来て、その言葉の意味をしっかりと理解していない故に誤解するものとして「難民」(refugee)が挙げられる。多くの日本人が学識者を含めて「難民」と「移民」の違いが分からず、ごっちゃにしている場合が多い。そして、いわゆる「移民」問題というものを「難民」問題として捉えてしまい、結論として「難民」を受け入れるのは政治的には間違っているといった誤解が誤解を生むような結論を導いてしまう。そして、ドイツ国内にて「難民」と出会ったりすると、ドイツ人に気を遣ってか、あからさまに嫌な顔というか困った顔をしたりする日本人も驚くことにいるのだ。そして、それが日本の一流企業の社員であったりするから、二度驚く。
 「難民」と「移民」は定義からしてまったく違う。国連の説明を引用しよう。
「難民とは、迫害のおそれ、紛争、暴力の蔓延など、公共の秩序を著しく混乱させることによって、国際的な保護の必要生を生じさせる状況を理由に、出身国を逃れた人々を指します」。
 なんか、国連とは思えない分かりにくい日本語であるが、すなわち、民族紛争や戦争、自国の政治が暴走したことによって、生きていくことが難しくなり、生き延びるために(死から免れるために)自分の国を捨てざるを得ないような人々のことである。
 そして、現在の国際法では、弾圧や迫害を受けて難民かした者に対する救済・支援が義務づけられている。
 つまり、難民を救済・支援するのは国際法的には国の義務であり、それらを排除するのはその国が有する権利ではない。したがって、ドイツが多くの難民を受け入れているのは、国際法を律儀に遵守しているからに過ぎない。というか、島国であったり日本語という難解な言語を有しているために暮らしにくいということで、難民があまり来たがらないということで、難民の受け入れに極めて消極的であるという日本の方が国際的には恥ずかしい。ということを、あまりにも日本人は理解しなさすぎではないだろうか。
 ちなみに、移民に関しては国連は定義はしていないが、次のように解説している(http://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/22174/)。
「移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなす。」
 ううむ、この解説も分かりにくい。まあ、特に必然的な理由がなく、自分が生活していた国を他の国に移って変える人である。したがって、その人を受け入れるかどうかは国の判断に因るであろう。国際法的に移民を保護する必要性もない。
 したがって、移民に関しての政治的問題を議論することは極めて健全であると思われるが、難民に関しての受け入れはそもそも議論する以前の問題である。
 このような誤解が生じるのは、その言葉の定義をしっかりと理解していないことに起因しており、それは事例研究をするうえで常に留意しなくてはいけない点である。

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ケムニッツを16年ぶりぐらいに訪れる [都市デザイン]

 ケムニッツという都市がドイツのザクセン州にある。ザクセン州の中では、ドレスデン、ライプツィヒに次ぐ第三の都市である。人口は約25万人。東西ドイツが再統一される直前の1988年時点の人口はベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンに次ぐ人口31万7千人。4番目に大きな都市であった。ということで、それなりの存在感を有してもいいと思うのだが、どうもドイツの国土政策的には鬼っ子のような扱いを受けている印象を受けていた。
 というのもケムニッツは高速鉄道のネットワークから完全に外されているからだ。2002年にケムニッツを訪れた時、ケムニッツはICでドレスデン、ニュンベルグと結ばれていた。ケルンと結ばれるICも走っていた。しかし2006年以降、ケムニッツは、ICEはもちろんのことICも走っていない。
 このように国土政策的には看過されている印象を受けるケムニッツであるが、人口減少は改善している。1988年から24%ほど人口が減少したが、そのトレンドは反転しつつあり、2016年に比べて2017年は500人弱だが人口は増加している。それでも、ケムニッツはどうも印象が薄くて、今一つのイメージを拭えていなかった。2002年に訪れた時も、色でいえば灰色。社会主義時代のこう陰鬱な雰囲気が都市を覆っている感じであり、街の中心も存在感溢れる市役所と都心部にある公園を除けば、記憶に残るようなものもなかった。日本でいえば水戸市のようなイメージである。
 さて、しかし、ドイツ人の知り合いが誕生日なので、パーティに顔を出して、ケムニッツの話をしたら、ケムニッツは素晴らしいと言う人が多数であった。知り合いは、ケムニッツに仕事があったら、エアフルトの仕事を捨ててケムニッツに引っ越すとまで言う。え!。エアフルトは相当、魅力溢れる都市だ。日本でいえば松江のようなイメージである。歴史的建築物もあり、旧市街地も賑やかで色彩豊かである。少なくとも、灰色といった都市のイメージはまったくない。その知り合いだけでなく、シュヴェリーン出身の2人もケムニッツはいいという。いや、悪いけどシュヴェリーンの方が人口は少なくても、はるかにケムニッツよりいいと思うけど。お城はゴージャスだし、湖はあるし、少なくとも都市のイメージが灰色ということはない。何を言っているんだ、とも思ったが、これは私がケムニッツを誤解しているからかもしれない、と思い、その翌々日にケムニッツに日帰りで訪れた。
 ケムニッツは現在、まともな鉄道との接続はライプツィヒとドレスデンとのRE(いわゆる特別料金がいらない快速列車)のみである。しかも、一時間に一本のみである。エアフルトはドイツ国土を東西に結ぶ線と南北に結ぶ線の結節点にある。シュヴェリーンもベルリン、ハンブルクとICEで結ばれている。ドイツ人はこのような高速鉄道のネットワークが都市の魅力というか、都市のアセットとして評価しないのであろうか。それとも、そのようなハンディがあっても跳ね返すだけの魅力がケムニッツにはあるのだろうか。
 ケムニッツの中央駅は、いわゆるターミナル型であった。駅舎のデザインは極めて今一つであり、ちょっと憂鬱になる。駅を降りても状況は似たようなものであり、活力のある都市の駅前という感じではない。トラムに乗って、中心市街地に行く。中心市街地は、結構大きなデパートがあったり、中心部は自動車が入れない歩行者空間(ペデストリアン・プレシンクト)になっていたり、そういう意味では悪くはない。市役所は本当に立派な建物であり、その貫禄はなかなかのものだ。とはいえ、エアフルトの中心市街地と比べれば、はるかにエアフルトの方が個性的で、色鮮やかで楽しい。私のエアフルトで働くドイツ人の知り合いは、エアフルトはイタリアのマフィアに支配された二流都市のように批判していたが、ケムニッツも社会主義時代は、社会主義マフィアに支配されていて、なんとカール・マルクス・シュタットと命名されていた。どっちが悪いかは一概には比較できないのでは、と思ったりした。そして、今でもカール・マルクスの巨大な銅像が街には置かれている。
 中心市街地だけでは分からないものもあるだろう、と郊外に出かけた。フットホルツという郊外ニュータウンである。人口が6万人も減っただけあって、この郊外ニュータウン(プラッテンバウ団地)においても建物倒壊の痕跡がみられた。しかし、老人用の介護サービス付きの住宅が新設もされていた。人口が増加し始めていること、高齢化が進んでいること、などから、そのような住宅の需要が増えているのかもしれない。
 フットホルツは高台に立地しており、そこから展望する南ザクセンの丘陵地のランドスケープはなかなか綺麗ではあったが、大きな川もなく、自然の変化もそれほどないこの都市のどこに魅力があるのかは、再訪しても分からなかった。帰りに中心市街地にあるレストランで食事をしたが、今回のドイツ旅行でも最も今一つの味であり、サービスはドイツという基準で照らしても相当、酷いレベルであった。
 ということで、イメージを改めようと思って訪れたケムニッツであったが、全然、イメージは改善しなかった。多少、その理解は増したかも知れないが、その人口規模に相当する魅力のようなものは感じられなかった。とはいえ、縮小政策を研究する私にとっては、ちょっと研究対象としては魅力がある都市であることは確かである。惨めなほど魅力が増すので。

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(旅情がほとんど感じられない中央駅)

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(旧市街地はなかなか魅力がある。ちょうど市場が開かれていた)

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(市役所の建物は立派で存在感溢れる)

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(トラムが縦横に走っている。後ろは再開発でつくられたビル)

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(郊外のニュータウン、フットホルツ)

タグ:ケムニッツ
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都市研究におけるケース・スタディ(事例研究)の基礎(1) [都市デザイン]

 都市研究において事例研究という手法を利用することは、結構、簡単そうだが留意点も多くある。事例研究をするうえで重要な点は、その事例を自分のよく知っている都市(事例)と比較することで、それを相対化させて、その優れた点、劣った点を客観的に評価することである。そのために有効なのは統計的な数字だったりするが、そのざっとした特徴を掴むうえでは都市観察をすることが重要である。それによって、その都市の特徴を捉えて、研究のための仮説を設定することができたりするからである。
 しかし、観察をするうえで重要な点は、その比較する都市が基本、共通の条件を有していることである。林檎とオレンジを比較しても、それは仮説の設定が間違ったり、誤った結論を導いたりしかねない。
 例えば、オランダのデルフトからベルギーのブリュッセルに鉄道で移動したのだが、一緒に行った大学の先生が「ベルギーは外国人が多いなあ、やはりオランダとは移民政策が違うのだろうな」と述べたのだが、彼のこの仮説(という感想)は正しいのであろうか。
 これは、デルフトとブリュッセルという二つの都市が、オランダとベルギーという国が違うことより、より大きな違いがあることを看過していることによって生じる誤謬である。その違いとは都市規模である。デルフトという人口10万人の都市とブリュッセルという一国の首都である人口117万人の都市を比較観察することで導かれるのは、国の違いというよりかは、都市規模の違いである。つまり、大都市は小都市より移民が多いという結論である。すなわち、オランダとベルギーとの移民政策を都市観察によって知ろうとするのであれば、ブリュッセルと比較すべきオランダの都市はアムステルダムであるべきであり、デルフトと比較すべき都市はデルフトと同様の大学都市であるルーヴェン(人口9万人ちょっと)であるべきだ。
 このように、事例研究をするうえで重要なのは、林檎とオレンジを比較することでの誤謬を避けることであり、そのためにも比較対象の特徴を予めある程度、知っておくことである。都市研究をするうえでは、人口、人口密度といった指標をある程度知っておくことは不可欠であり、そのようなデータ無しに都市をいたずらに比較しても、間違った結論を導く可能性があるので要注意である。

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「日本のヒーロー」 [宇宙団]

宇宙団2枚目の「それなりのつよがり」の最後を飾るこの曲は凄まじいベースのイントロから始まる。宇宙団らしいジェットコースターのような目まぐるしい展開をみせ、もう聴く者を引きずりまわすような迫力に溢れる佳曲である。静と動、混乱と統制、攻撃性と哀愁、4拍子と変拍子が見事に4分ちょっとの間に共存している。この曲は、圧倒的な応援歌であり、望月志保の生きていることを肯定的に捉えようとする気持ちに溢れている。こういう曲が同世代の女性の支持を得られることに成功すると、宇宙団もビッグになるのではと期待をさせるような曲だ。あと、この曲を聴くと、改めてベースとキーボードのテクニックの高さ、そして編曲でみられる偏差値の高さが再確認できる。個人的には「ヘルプ」ではなく、この曲をアルバムのトップに持ってきてもよかったかな、と思うほどの存在感を有する曲である。


それなりのつよがり

それなりのつよがり

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  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



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しあわせ宣言 [宇宙団]

「それなりのつよがり」の3曲目。宇宙団のリーダーである望月志保の曲の歌詞は、ほとんど望月が「もてない」「可愛い女のことは得だ(可愛くない私は損だ)」「(私は)出来ない女」という駄目女のアイデンティティを前面に押し出したものが多いが、この「しあわせ宣言」はそれら駄目女の望月というのとはまったく正反対な、自立した自我がしっかりと確立された女性による元彼氏への強烈な三行半ソングである。そういう意味でも新鮮で、望月のあまり目立たない人間性がこの曲からも垣間見られる。この曲を喰らったら、まあ3年間ほど立ち直れないほどの破壊力があるだろう。しかし、それを美しい聞きやすいメロディに乗っけているから質が悪い。「はあ、はあはあはあはあ ため息カウント3回目」、「だだこねたいのはこっちだつうの」という耳に残る歌詞、そして、間奏そして最後のギターソロ、また途中でのキーボードソロも秀逸。ライブで初めて聴いた時はそれほど印象に残らなかったが、聞けば聞くほど中毒性が増す、鮒寿司のような曲である(最近、鮒寿司に嵌まっているので)。


それなりのつよがり

それなりのつよがり

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  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



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ワルツ [宇宙団]

 アルバム『星眠る島』は本当に佳曲揃いの名アルバムであるが、その中でもこの「ワルツ」は歌詞の秀逸さ、情緒性に溢れるメロディと、望月志保のミュージシャンの魅力が濃縮されている名曲である。「毎日はまるでワルツ、似たメロディ・・・それでもいつまでも聴いていられるのは、少しづつ何かが違うからでしょう・・・繰り返すはずの日々の中で、突然別れはやってきて・・・」。時の流れをワルツのメロディの中に見出すその感性、そしてそれを美しいメロディにて歌い上げる才能。私はこれを聴くと涙が出そうになってしまう。
 極めて私的な話であるが、私は3月に明治学院大学を辞めて他の大学に移るのであるが、その送別会にて、私は我が儘を言って、望月にワルツを歌ってもらった。その動画を少しだけ、アップしたので宜しければ観てもらいたい。この曲の尋常ではないクオリティの高さが感じられるかと思う。望月もこの3月で明治学院大学を卒業する。音楽家として生活していけるようになることを切に願っているし、世の中に認めてもらえればと強く祈っている。

https://youtu.be/gqeHH21tm4Q

 全曲、聴きたい人は是非CDを購入して貰えればと思う。


星眠る島

星眠る島

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  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2017/01/11
  • メディア: CD



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イギリス最南端のリザード岬を訪れ、イギリス政府の野蛮さと政府を信頼しないイギリスの底力を知る [サステイナブルな問題]

 イギリスの西南端にあるコーンウォール地方に来ている。「コンパクトシティ」という著書を編集したマイク・ジェンクス氏の家がこちらにあり、そこに日本版『コンパクトシティ』を執筆した海道先生と訪れ、二泊ほどさせていただいているからだ。中日にジェンクス氏が運転する車で、イギリス最南端のリザード岬に連れて行ってもらった。リザード岬はなかなか急峻な崖の上にあり、風光明媚な場所であった。昨年の夏に訪れたウェールズのアングルシー島の西端であるサウス・スタックに比べると、ちょっとスケールは小さいが、それでもなかなか見事な光景に心、奪われる。
 この日はまさに晴天で、海は美しいコバルト・ブルーに輝いていた。ここは岩が多く、多くの船が座礁したようだ。そのために、民間の救援隊が昔、組織されたのだが、これはヴォランティアだそうである。なんで、こういう大切な公共的な仕事に税金が使われないのか不思議であるが、それはサッチャー政権以前から民間がやってきたそうである。その組織の運営費は、救助された人の家族から払われたりするそうだが、結構、国として野蛮な印象を受ける。
 野蛮な印象といえば、このリザード岬への歩道は、すべてナショナル・トラストが整備、管理しているようである。ナショナル・トラストが存在しなければ、このような風光明媚な自然観光資源に歩道で行くことはできない。イギリスはライト・オブ・ウェイという概念があり、そのような公共的な権利に関しての考え方はしっかりしていると思われるが、車道だけで歩道がなければ、実質的には危なくて安心して歩けないし、自動車がいつ現れるかと思うと歩いていても楽しくない。そういうことで、イギリスにおいて自然や歴史遺産などをしっかりと鑑賞し、アプリシエイトするうえでナショナル・トラストの存在というのは大きいな、ということを認識したのだが、その運営にあたっては、会費に因っているそうだ。会員になると、例えば歴史建築物の入場料が無料になるとかの特典があるそうなのだが、それを支持して、結構、高い会費を払う人々が存在しないと成り立たない。民度が問われる、ということだ。
 日本でもナショナル・トラストと似たような組織があるが、あまり活動していることを寡聞ながら知らない。どうしてイギリスではナショナル・トラストがしっかりと機能していて、日本では今一つなのか。ちょっと興味が湧く。その一つの理由として、日本人はイギリス人に比べて、国家を盲目的に信用し過ぎているのではないだろうか。自分のことは自分でやる。国がやらなければ、自分達でやる。そういう動きが求められているような気がする。もちろん、日本でもそのような動きをしているNPOが多く存在したりするが、現状の日本政府や地方政府の駄目さ加減を考えると、これらNPOがより活発に活動していくことが今後、さらに求められるのではないか、というようなことをイギリスの最南端で考えた。

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(ナショナル・トラストによって歩道が整備されている)

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(コバルト・ブルーの美しい海)

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(昔、ヴォランティアの救助隊の基地であった建物の廃墟)

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(多くの船がここで座礁した)

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(イギリスの南端は風光明媚な絶壁であった)

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(周辺は羊の放牧地)
タグ:リザード岬
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ジェイン・ジェイコブスの映画『Citizen Jane』の試写会を観に行く [映画批評]

 ジェイン・ジェイコブスの映画『Citizen Jane』の試写会を観に渋谷に行く。Citizen Janeというとジェーン・フォンダの伝記を思い出す人もいるかもしれないが、この映画はジャーナリストで作家であるジェイン・ジェイコブスがニューヨークの街並みを道路開発や都市再開発事業から守った話である。
 ロバート・モーゼスが完全なヒール役として描かれている。巨大な都市計画の悪、それを仕切るロバート・モーゼスという悪人に、ジェイン・ジェイコブスは知恵と庶民を味方につけてやっつけるという勧善懲悪的なストーリーである。それは、それで面白かったが、この映画のコピーである「もしもジェイコブスがいなかったら、世界で一番エキサイティングな都市・ニューヨークは、きっとずっと退屈だった」という文章は、ジェイコブスの代わりにモーゼスを置き換えてもいえなくもない。いや、エキサイティングかどうかは分からないが、ニューヨークというアメリカ合衆国において極めて特異で、唯一都市らしい都市(強いていえばサンフランシスコとシアトルは入れられるかもしれない。ポートランドも入れたい気はするが、ちょっと厳しいかも)の骨格をつくったのはまさにモーゼスである。モーゼスがトライボロー橋を架けた。国連のヘッドクォーターをマンハッタンに招致するのに成功させたのもモーゼスである。映画では酷評されていたが、クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイをはじめとした高速道路、リンカーンセンターやメッツの本拠地であるシェア・スタジアムもそれらをつくるうえで彼は多大なる貢献した。つまり、何が言いたいかというと、ジェイン・ジェイコブスはニューヨークの魅力が壊されるのを守りはしたが、新しい都市の基盤をつくるようなことはしなかった。確かにモーゼスはやり過ぎの感はあったし、モーゼスのやり方を続けていたら、ニューヨークはより退屈な都市になったかもしれないが、私は両方が必要であったように思われるのだ。ジェイコブスというカウンターがいたことの効果は過小評価できないが、モーゼスがいなければハードとしての都市であるニューヨークは、現在のようにある程度、公共交通が充実し、飛行場へのアクセスもそれほど悪くないような機能的な都市にはならなかったような気がする。ジャカルタのような状況になってしまった可能性もあるかもしれない。いや、それはそれで面白い、と言われてしまえばそれだけの話なのだが。
 モーゼスがあまりにも悪く描かれていたので、私は、しかし、その当時の時代背景としては、こういう方向に皆が向いていたのにな、と不満を感じたところ、しっかりと、このような都市自体をスクラップ・アンド・ビルドすることを唱道した張本人ル・コルビュジエが出てきて、相当、批判的に描かれていたのでしっかりとコンテクストを抑えているな、と安心した。そもそも、日本ではジェイコブスを称賛するのと同時にル・コルビュジエも称賛するという、巨人ファンであると同時に阪神ファンでもあると主張する変な輩があまりにも多いが(特に建築関係者や都市計画関係者)、この2人の「都市論」は到底、共存することはできない。まあ、ジェイコブスの場合は、反モーゼスであったルイス・マンフォードでさえ批判的であったので、相当、難しい。というか、ジェイコブスの側に立つということは、土木的な都市計画を真っ向から否定するということにあることを、にわかジェイコブス支持者は自覚をした方がいいと思う。
 この映画は、多少、モーゼスに比べてル・コルビュジエには甘い見方をしている印象は受けたが、そもそもモーゼスのようなタイプの人間を生んだ大きな背景にはル・コルビュジエと彼のタブラ・ラサを理想とするような都市像があったことは間違いない。タブラ・ラサにするには、クリアランスをするしかないからね。しかし、そのことを映画を観た後、映画館内で知り合いに会ったのでその話で盛り上がっていると、関係者が「いや、でもコルビジェを誤解した、と映画では解説しましたよね」と言ってきた。確かに高層ビルがオフィスであって、住宅ではなかったという言い訳はできるかもしれないが、あのような距離を置いて高層ビルを林立させ、間に広幅員の道路をつくるというル・コルビュジエの都市のコンセプトはまったく誤解していない。プルイット・イーゴーなんてコルビジェの「輝く都市」そのものではないか。それにフランスでも、パリのラ・デファンスはコルビジェの延長線上にあるのは明らかでしょう。
 ちなみに、私はモダニズムはそれほど好きではないが、いいところもたくさんあると思っている。ブラジリアに行くと、コルビジェ的なモダニズムの理論のもとに丁寧につくった住宅街の方が、勝手に不法占拠でつくられたファヴェラ街よりもはるかにいいと思うし、前川国男の世田谷区役所を壊すのは反対である。とはいえ、日本の東京に住んでいて、まさに東京のグリニッチ・ヴィレッジとニューヨーク・タイムスのライターが形容する下北沢にとんでもない26メートル道路が、区民が必死になって反対しても結局つくられてしまうことや、他にも明大前、小平、調布などで住民が反対しても道路がつくられてしまいそうな状況や、立石のような個性的な街区が再開発によって無個性化しそうなことをみるにつけ、どうして、これだけ成熟化して、さらにアーバンな魅力を放ちつつある東京を道路や再開発で壊してしまおうと今でもするのか。まったくもって分からない。そして、二子玉川や湾岸に立つまさにプルイット・アイゴーのような高層マンションに多くの人が高いお金を払って住みたがるのかも全然、分からない。
 ニューヨークはモーゼスというフェデラル・ブルドーザーのようなキャラが立っている人物がいたおかげで反対運動も展開しやすかったが、東京は誰が進めているかが本当、分かりにくい。というか、三宅都議員は高い確率でそうだが、彼がそのような東京を破壊する張本人の1人であると理解したり、報道したりする人は少ない。そして、ジェイン・ジェイコブスを気取った人が出てきたりもするが、協調性のないプライドの高い人で、ジェイコブスが示したカリスマ性や戦略性などを見ることはできない。まあ、私もそういう点では人より劣っているので、あまりそういう指摘をするのは気が引けるが。
 とはいえ、ジェイコブスの都市論の骨格である「人が都市をつくる」というのはまさにその通りであり、人が豊かになるために都市はあるのであって、都市が豊かになるために人が犠牲になるのはおかしいし、そもそも都市が豊って何?(土地が金を生み出すということでしょうが)ということである。ただ、この映画をみると勇気づけられるし、インフラがある程度整備された後は、ハードではなく、このような保全とか人の行動をベースにしたソフトな都市空間づくりが求められることになるのであろう。
 ちょっと宣伝になってしまうが、私は「都市の魅力を構成する要素は何か?」というテーマで内外の有識者(ヤン・ゲールやらジャイメ・レルネルやらトーマス・ジーバーツやら隈研吾さんやら陣内秀信さんやら)に取材をしたのだが、彼らはほぼ異口同音に「人」と答えていた。もし、宜しかったら、下記から見ることができるので見てみて下さい。

http://www.hilife.or.jp/wmca/?p=7

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