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大雪だからって、人々を一斉に帰宅させようとするのは東京のような大都市だと逆に無理があるのではないか [サステイナブルな問題]

東京は大雪である。私が奉職する明治学院大学の白金校舎は、雪が降るとことさら歴史建築物が美しく映える。特に、屋根が雪化粧すると、ちょっとヨーロッパのような雰囲気である。ヨーロッパがよいという訳ではないが、まあ、そういう佇まいがして、私は心が洗われる。さて、しかし、大学は18時で事務はすべて閉鎖、ということで、研究室で仕事をし続けるのも何か迷惑をかけているような気になり、18時30分頃に帰路に着く。さて、いつもは目黒駅まで2キロほど歩いてそこからバスなのだが、ちょっとその道のりは降雪時には辛いな、と思えたので一番最寄りの高輪台駅から地下鉄に乗って中延駅まで行き、そこから大井町線で自由が丘まで出ようと考えた。さて、高輪台駅に着いた西馬込駅の地下鉄をみて驚いた。超ギュウギュウなのである。地下鉄浅草線は、高輪台から終点西馬込駅までわずか5駅しかない。なんでこんなに乗客が多いのだ。と思いつつも、しょうがないので満車の浅草線に乗車する。次の五反田で乗客は降りるだろう、と思っていたら、なんと五反田駅にはホームから溢れるほど人がいた。そして、降りる人よりはるかに多くの人が列車に乗ろうとしてきた。何なんだ、この現象は。これは、京浜東北線が不通になったとか、大井町線が大井町駅と中延駅の間で不通になったとか、何かとんでもない事態が生じたのではないかと考える。中延駅は、もはや駅から出口に出る階段で長蛇の列。カタツムリのようにのろのろと人は上がっていく。そして、大井町線の中延駅にも多くの人がホームに溢れていた。そこにやってきた大井町線も大量の人でとても乗れるような状況にはない。私はここで合点した。
 つまり、ニュースとかで人々に早く帰宅しろ、と促したことで、通常は17時から24時に分散されていた帰宅需要が一挙に19時前に集中したのである。東京は世界一の人口を有しており、その公共交通の処理量も世界一である。それがゆえに、これだけの人口を有していながら、何とか機能させることができている。しかし、なぜ、そういうことが出来ているのかというと、恐ろしく高頻度・高容量のサービスが提供できていることに加え、殺人的で非人間的なラッシュアワーを老若男女が黙って耐え、さらには交通需要が集中しないように、良心あるおじさんが家庭の平和を犠牲にしても赤提灯で時間を潰してから帰宅するようなことをしてくれているからだ。
 そういう極めて微妙なバランスで成立している東京の都市交通事情を、雪で大変だ!とパニックするような報道をして、結局、非常に悲惨な混雑状況に人々を押しやっているのが行政の杓子定規的な考え方である。私は、中延駅の状況があまりにも腹立たしくなったので、家内に電話して、お茶でもしてから帰るわ、と中延駅を降りてそばのドトールで時間を潰して、ついでのこのブログのこの原稿を書いているのである。ちなみに、東急の駅のおじさんに、あんな列車に乗ったら骨折しちゃうよ(私は骨が細いのである)と言ったら、ちゃんと初乗り分、パスもからチャージされた分は返金してもらった。

その後・・・


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『エクス・マキナ』 [映画批評]

久しぶりに凄い映画を観た、というのがとりあえずの感想。2015年に公開されたイギリス映画。人間とAIとの騙し合い、というか相手の心(AIに心があればだが)の裏を読み合う、という展開が非常にスリリングで画面に強烈に引き寄せられる。まるで、チェスのように相手の真意を探り合い、また相手を騙すように誘導する会話群。これは、第一級の心理サスペンス映画である。さらに、この映画を傑出したものとしているのは、その素晴らしい映像美である。AIのエヴァ(アリシア・ヴィキャンデル)のセクシーさは、空山基が描くサイボーグのようである。アカデミー賞の視覚効果賞を受賞したのも納得させられる。ガーランド監督は、「登場した瞬間、他の映画に登場する他のロボットを思い浮かべない外見にすることを先ず重要視した」と話したそうだが、確かにとても斬新な外見であり、そしてとても魅力的でもある。これは、それを演じるアリシア・ヴィキャンデルの魅力とも繋がるであろう。映像美という点では、ネイサン社長の召使いをしているキョーコ(ソノヤ・ミズノ)というAIも大変美しく、その優雅な動きなどもヴィキャンデルとともに、AIという存在感の凄みを感じさせるような描写に繋がっている。2人の女優とも元バレリーナであるが、気弱そうな青年を演じる主人公といいキャスティングも絶妙である。また、映像美という点ではロケ地であるノルウェーのフィヨルド地域の自然美も素晴らしい。そして、何よりエンディングが痛快で、納得が行く。まあ、よく考えると不安な気持ちにはなるが、映画単体として観た場合、ストーリーは説得力があって読後感的なものは爽快である。私的には、『ブレードランナー2049』をも越えるほど面白かった。こういう作品にたまに出会ってしまうから映画は止められない。


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ブレードランナーのデッカードはレプリカントであることを知って、ちょっとがっかりする [映画批評]

ブレードランナーのデッカードはレプリカントかどうか。これは、「ブレードランナー」が1982年に公開されてからずっと映画ファンの間では議論となっていたテーマである。私は個人的に、いや、デッカードがレプリカントだとちょっと面白くないよな、という考えから人間でしょうと思っていた。人間がレプリカントのレイチェルに恋して逃避行、というシナリオは、話として魅力的であったからである。しかし、この映画界の大きなディベート・テーマについて、監督のリドリー・スコットはあっけらかんにレプリカントだよ、と次の動画で述べている。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=340&v=jMG3fOsIBgA

しかも、この動画では、彼がレプリカントであることを視聴者に伝えるような工夫もしていることを述べている(ユニコーンの夢や折り紙を手にするときの描写で伝えようとしたようだ)。

そうだったのか。しかし、そうすると「ブレードランナー2049」で登場するデッカードとレイチェルの子供というのは、人間とレプリカントの混血ではなく、純粋にレプリカント同士の子供、ということになる。それはそれで衝撃的ではあるが、人間とレプリカントの子供というほうが、人間文明的にはインパクトが大きいと思われる。これまでの議論に終止符が打たれたのはいいが、ちょっとだけ落胆している自分もいる。



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菊次郎の夏 [映画批評]

1999年の北野武の作品。久石譲の作曲するメインテーマの「Summer」が非常に印象深い作品である。映画は前半部分こそストーリーもしっかりしていて、9歳の子供と、彼の母親探しを付き合うチンピラでハチャメチャの中年男性との珍道中で興味を引かれるが、母親との辛い再会の後は、グレート義太夫と井出らっきょというたけし軍団の中でも超いじられ役がひたすらたけし演じる主人公にサディスティックにいじられるという、テレビのバラエティ番組と同じような演出が延々と続き、面白くないとは言わないが、ストーリー性はない。完璧な内輪ノリであり、これでカンヌ国際映画祭に参加したということにちょっと驚く。映画としての構成力に関しては弱い作品であるのと、こういう情緒的な作品とたけし映画のバイオレンス性はあまり似合わないということにも気づかせられた。偽悪者を演じたらたけしは、相当いけると思うのだが、後半の部分の遊びがむしろ映画の質を落としてしまい、たけしの味までも殺してしまっている印象を受ける。


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タグ:菊次郎の夏
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ブレードランナー2049 [映画批評]

 ほとんど映画館に行かない私であるが、この作品は流石に映画館で観るべきであろうとわざわざ映画館にまで出向いて観た。いつもコンピューターの15インチの画面で観ているのと比べると、集中して映画の世界に没頭されるので有り難い。さて、映画に関してであるが、2019年(というか現在より1年後!)のブレードランナーの30年後の世界が舞台である。前作では、デッカードがレプリカントのレイチェルと逃避行へと旅立ったところで終わっている。
 ブレードランナー2049は、この2人の存在が非常に重要な、というか人間とレプリンカントとの関係を大きく変えるような役割を担っている話になっていた。前作にはなかったニュータイプのキャラとしてホログラムのヴァーチャルなジョイという女性?が出てくる。このジョイを演じるキューバ女優アナ・デ・アルマスはアニメ系の美少女で、相当魅力的である。
 そして新たなブレードランナーKとデッカードとのやり取り、ウォレス社で働くレプリカント、ラブとKとの壮絶な格闘、さらにデッカードとレイチェルの子供の存在など、続編は前編を収束させるどころか、一つの疑問の答えが見えると新たな疑問が提示されるようなストーリーになっている。ということで、確実に続々編がつくられることになると思う。あまり、感想にはなっていないが、この作品は次の続編を観ないと、最終的な感想を述べるのを躊躇させる。ある意味、中途半端であるともいえるかもしれない。

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「ダイレクトに風が当たる」というニュース・レポーターの発言に違和感を覚える [英語関連]

 家内がテレビニュースを観ていたので、たまたまちょっと私も一緒に観た。天気予報の番組のようだったが、そこで現地にいたレポーターが「ダイレクトに風が当たるので実際の気温より寒く感じます」と発言したので、ちょっと違和感を覚えた。
 ダイレクトはdirectの日本語読みであるが、アメリカ英語であれば、それはディレクトになる。実際、この言葉から派生したdirectorはディレクターと日本ではアメリカ英語読みをしている。しかし、じゃあ、directというのをダイレクトと読むのは間違いかというと、そうではない。なぜなら、イギリス英語であれば、ディレクトと書くよりもダイレクト(レにアクセント)と書いた方が実際の発音に近いからだ。ちなみに、イギリス英語だとdirectorはダイレクターと表記した方が近い発音になる。
 なぜ、このニュース・レポーターの発言に違和感を覚えたのかというと、日本人はディレクターというカタカナ語からも分かるように、directはアメリカ英語読みをしているのが慣習であると思うからだ。Directはダイレクトというイギリス英語で発音し、directorはディレクターというアメリカ英語で発音するというような混在は、外国語として英語をカタカナ表記する日本語という立場からは明確にして、間違った使い方をさせないようにする方がいいと考える。というか、そういうことも出来ないのであれば、発音問題とかアクセント問題を入試問題に出す資格はないと思う。
 まあ、そんなに事を大袈裟にする気持ちもないのだが、全般的に、英語教育に関して、日本は非常に適当であり、問題意識も希薄であると思う。英語が必要であると声高に謳っていても、そういう当人の英語がいい加減であるから、これはトランプ政権のように馬鹿げた事態であるな、と私は思っているのだ。このニュース・レポーターのダイレクト発言は、まさに、この適当英語が跋扈している日本を象徴しているような印象を受けたので、ちょっと書かせてもらった。というか、「直接、風が当たるので実際の気温より寒く感じます」となぜ、言えないのだろうか。よくよく考えたら、ここでドイツ語でdirekt(この場合の発音はアメリカ英語と同じディレクト)とか、スペイン語でdirecto(この場合もデイレクトですね)とかは絶対、言わないので、このレポーターはダイレクトが日本語化している英語であると捉えているから使ったのであろう。そう考えると、やっぱり問題だ。こういうのは、五月蠅いかもしれないがしっかりと整理すべきことだと思われる。

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「規制」を変えれば電気も足りる [書評]

もと経産省の役人が、日本を駄目にする役所がつくる「馬鹿なルール」を多面的に紹介する。日本がなぜ迷走するのか、なぜ非合理的なことが罷り通るのか。その根源的な背景がよく分かる。日本人であれば、是非とも一読をお勧めする。目から鱗が落ちるとは、まさにこの新書の読後感を表現している言葉である。それにしても、本当、お役人は何で仕事をしているのであろうか?。いらない規制で雁字搦めにしつつ、規制すべきことはまったく規制されていない、というこの三流国に果たして未来はあるのか。ちょっと暗くはなるが、どこを改善すべきか、ということも見えてくる。トンネルの先の光はわずかではあるが、見えない訳ではない。必読である。


「規制」を変えれば電気も足りる (小学館101新書)

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  • 作者: 原 英史
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2011/08/01
  • メディア: 新書



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『眺めのいい部屋』 [映画批評]

1986年のイギリス映画。この映画の見所はフィレンツェ、そして南東イングランドの田園地帯の風景の美しさであろう。特に前半のフィレンツェの映像は、その都市の魅力を見事に描き出している。主演のヘレナ・ボナム・カーターは、現在ではハリー・ポッターの超ヒールであるベラトリックス・レストレンジや、レ・ミゼラブルのテナルディエ夫人、さらにはティム・バートンの作品群でのあっち側に行ってしまったような役が多いので、そのようなイメージが強烈だが、この作品では初々しいお嬢さん役を見事に演じている。しかし、そもそも出自は銀行頭取のお嬢さんなので、昔はこれが彼女の地に近かったのであろう。そういう点でも興味深い作品である。あと、この映画の一つのハイライトとして男性群が聖なる湖(池)で裸になって戯れるというシーンがあるのだが、イギリス人も日本人の温泉のようなカルチャーがあるのかということを知った。もちろん、一般的ではそれほどないのでこのような映画のシーンになったのであろうが、裸で温泉などに入るということはもしかしたら、それほど文化的に外れていないような印象を受けたりもした。ただ、このシーンは、公開当時は倫理的な観点からカットされ、ジョージの開放的で素直な性格を表現した重要な場面が飛ばされてしまったので、その後のストーリー展開が分からなくなってしまったと思う。この点は残念である。あとDVD的には、日本語訳でコンスタンチノープルをトルコと訳しているのだが、コンスタンチノープルとトルコはちょっと違うのではないか、と違和感を覚えた。コンスタンチノープルは、東西文化の交流都市であり、トルコとはイメージが全然、異なる。日本で言えば、京都に行く、というのを日本に行く、と訳してしまったようなものなのではないか。他にも字幕の訳は、ちょっとエッと思う点が少なくはなかった。この点も残念。


眺めのいい部屋 HDニューマスター版 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: アネック
  • メディア: DVD



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カルガリーはスティーフン・アヴェニューの都市デザインによって、その中心性をしっかりと確保することに成功する [都市デザイン]

カルガリーのダウンタウンにあるスティーフン・アヴェニューは、まさにカルガリーの中心であり、銀座通り的位置づけの道路である。それは、19世紀の終わり頃から、常にカルガリーの都心部でも最も賑わいのある場所であった。そして、さらにその中心性を高めるために、そこを歩行者専用道路にするプロジェクトが考案され、1968年に設計者が選定され、その工事は1970年に完成した。
 その設計は、アルバータ州生まれの建築家では最初のマッシー・メダル(カナダ王立建築家協会授与)を1967年に受賞した地元出身のゴードン・アトキンスが担当することになった。当時、アトキンスは31歳という若さであった。
 アトキンスは、スティーフン・アヴェニューのセンター・ストリートから2ストリート・サウスウエストの2ブロック間を歩行者専用空間とすることであった。彼の野心的な計画では、地上レベルでの暖房、噴水、時計塔、幼児の遊びようの囲い(プレイペン)、装飾を施した休憩所、そして意匠を凝らした電灯の設置などが提案された。しかし、この計画は予算不足という理由で多くが実現されなかったが、歩行者専用空間自体は1970年につくられた。1973年には、歩行者空間はセンター・ストリートから1ストリート・サウスイーストまで延長され、1978年にはさらに2ストリート・サウスウエストから3ストリート・サウスウエストまで延長された。そして、1987年のオリンピック・プラザの完成と合わせて、1ストリート・サウスイーストから2ストリート・サウスイーストまでもが歩行者空間として整備された。その結果、オリンピック・プラザのある2ストリート・サウスイーストから3ストリート・サウスウエストまでの5ブロックが歩行者専用空間として整備されたのである。
 ただし、1990年には歩行者専用空間化した道路は欧州の都市の似たような試みやブラジルのクリチバ、さらには同じ北米大陸のバーリントンやボルダーのような成功をみることはなかった。これは、人口密度の低さということや、都心での夜間活動の少なさ、さらには厳しい寒さ、などが要因であったのに加え、アトキンスが描いたデザイン要素のほとんどが予算不足という理由で具体化されなかったからだ(実現されたのは噴水と時計塔のみ)。確かに、現在のスティーフン・アヴェニューでも、例えば人口は遙かにカルガリーより少ないボルダーのパール・ストリートやバーリントンのチャーチストリートの方が、まだ沿道での土地利用が平面的には高密度化されている印象を受ける。どこか、スティーフン・アヴェニューの方が空間は大味なのである。私はしっかりと調べてはいないのであまり無責任なことは書けないが、同じように集客に失敗したペデストリアン・モールのフレスノのフルトン・モールや、カラマズーのカラマズー・モールも似たような状況であったのではないか、と思われる。すなわち、沿道の商業空間が人を惹きつけるだけ魅力あるものとして設計できなかったということである。
 話をスティーフン・アヴェニューに戻すと、このように想定したほど集客が図れなかったこと、冬季には早く暗くなるため、沿道のレストランでは店の前まで車でアクセスすることが集客には重要であったこともあり、歩行者専用空間というコンセプトを1990年に変更することになった。ただし、カラマズーやフレスノとは異なり、その空間を自動車が通行できるようにするのではなく(カラマズーは一部の区画のみ自動車の通行を許可した)、その通行を夜だけに限定し、昼はこれまでと同様に歩行者専用道路空間として維持したのである。そして、それに合わせて空間も再設計される。
 具体的にはアトキンスのデザインで設置されたコンクリート製のプランターや椅子といったストリート・ファーニチャーや作り付けの照明器具などが撤去された。そして、それに代わるストリート・ファーニチャーが設置され、また昼間に自動車が走行できないための装置などが付け加えられた。
 自動車が交通手段の主役である都市において、歩行者専用空間を整備することだけで、都心に人を呼び戻すことは難しい。それにはその空間づくりや沿道だけでなく周辺の土地利用なども配慮することが求められるからだ。しかし、例え自動車が主役であるような都市でも、昼間は歩行者空間としてそれなりに上手く使われる。問題となるのは、日が暮れて治安への不安が高まる夕方から夜の時間帯である。その時間帯で人々を歩かせるためには、よほどの都市活動が行われていることが必要だが、カルガリーのような100万都市であっても、それを24時間確保させることは難しい。それなら、それで夜だけ自動車を通せばいいと考えたカルガリー市民の柔軟性は合理的であると同時に、なかなか賢い。なぜ、フレスノがこのような柔軟な発想に至らなかったのかはちょっと調べる価値があると思う(そのうち是非とも調べてみたい)。
 スティーフン・アヴェニューのリデザインは、カルガリー市とカルガリー・ダウンタウン協会(旧ダウンタウン・ビジネス協会)との共同事業として遂行された。市と協会は建設費と維持費を折半している。カルガリー・ダウンタウン協会は、イベントを企画し、その空間の利用許可を発行し、また管理維持を担当している。幟の設置やサイン計画、ストリート・ファーニチャーの新設・改修なども同協会が行っている。これらの二つの組織に加えて、スティーフン・アヴェニューの歴史的重要性を主張し、人々への同アベニューへの関心を高めることに貢献したカルガリー建築資源保全協会(Society for the Preservation of the Architectural Resources of Calgary (SPARC))やスティーフン・アヴェニュー・モール同盟が、現在の同アベニューを実現することに貢献したとカルガリー市の職員アラスター・ポロック氏は私の取材に回答した。
 さらに、スティーフン・アヴェニュー歴史地区プログラムが1991年に制定され、官民協働で沿道の歴史的建築物を保全し改修していった。その成果として、同アベニューは2002年に国家歴史地区として指定された。
 このようにスティーフン・アヴェニューは空間的にもカルガリーの中心として設計、位置づけられると同時に、カルガリーという都市の歴史的アイデンティティの有する場所としてもお墨付きを得るわけであるが、空間的デザインが先行したという点がちょっと興味深い。
 アメリカ人のランドスケープ・アーキテクトであるランディ・ヘスターは、21世紀の都市デザインの大書(となる可能性が高い)である『エコロジカル・デモクラシー』において、都市やコミュニティにおける中心性をしっかりとつくることの重要性を強調しているが、カルガリーはまさにこのスティーフン・アヴェニューをその中心として位置づけることに空間という横軸と歴史という縦軸とにおいて成功した。
 中心市街地が空洞化して、そのアイデンティティが溶解している日本の中心都市にとっても極めて示唆が多い事例であるのと同時に、歩行者専用空間が失敗したフレスノなどの事例を得意に取り上げ、その有効性に疑問を投げかけている日本の都市デザイナーに再考を促すいい事例でもある。

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(スティーフン・アヴェニュー。中心から西を望む)

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(沿道の砂岩からつくられた歴史建築物は修築されている)

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(夜に人通りがなくなるからといって、昼に歩行者専用空間として機能していない訳では決してない)

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(昼の時間帯に自動車を通さないのは、このような踏切のようなものを設置するだけで対処できる)

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(アトキンスの計画案を工事している時の写真。カルガリー市役所提供。Courtesy of City of Calgary)

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(アトキンスの計画案の工事が完成したところ。ただ、アトキンスの案の多くは予算不足を理由に具体化されなかった。カルガリー市役所提供。Courtesy of City of Calgary)
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おせち料理をつくって正月を迎える [グローバルな問題]

明けましておめでとうございます。さて、正月は皆さん、おせち料理を食べられましたでしょうか。おせち料理に関して、自分はごく平均的な日本人のようなこだわりしか有していないと思っていたのですが、結婚してそうではないことに気づきました。例えば、正月三が日はおせち料理を作り置きし、台所に立たない、など三が日のタブーは実家では守られていましたが、結婚したら必ずしも、そういうことにこだわりをそれほど持たない人もいることを知りました。
 さて、しかし、おせち料理に関して正月早々、喧嘩をすることは避けたいので、今年は自らつくることにしました。28日から買い出しをし始め、28日には尾山台の八百屋に行き、海老芋、ゴボウ、大根、黒豆、今日人参、レンコン、栗の瓶詰めなどを仕入れ、29日には築地に行き、いくら、海老、タコ、蒲鉾と佃煮屋の佃茂で田作り、昆布巻き、卵焼きを購入しました。そして30日は地元の肉屋でローストビーフを購入しようとしたら売り切れており困惑したのですが、31日の開店直後に来れば出せるかもと言われて、そうしたらどうにかゲットできました。
 そして、つくったものが写真のようなおせち料理です。とはいえ、卵焼き、昆布巻き、田作りは築地の佃茂の商品です。あと蒲鉾と伊達巻き、黒豆は市販のもので、一番手間がかかる栗きんとんは女房殿がつくっています。私がつくったのは、海老のうま煮、たこのうま煮、数の子(一の重)、ローストビーフ、筑前煮、菊花蕪(二の重)、そして膾とイクラのみぞれ和え(三の重)です。

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(一の重)

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(二の重)

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(三の重)

 ということで娘達も満足してくれたのと、私もおせち料理に関しては正月から喧嘩をせずにすみ、どうにか平和な正月を迎えることができました。
 ただ、改めて考えてみると、今回のメインであるローストビーフですが、正月三が日のタブーの一つとして四本足の動物は食べないというものがあります。いつから、このタブーが破られて、ローストビーフをおせち料理に出すようになったのか。ちょっと気になります。
タグ:おせち料理
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現代語訳福翁自伝 [書評]

本書は、1898年、福沢諭吉が65歳の時に著したエッセイを齋藤孝が現代語訳をしたものである。明治維新前後を生きた稀代の思想家である福沢諭吉の考え方が読み取れて、たいへん興味深い。読んでいて気づいたのだが、職業的には私も福沢諭吉氏と似ている。いや、そのように論じることで批判の総攻撃を受けそうだし、その成果は天と地ほどあるかもしれないが、大学で教鞭を執っているし、本も著せば、翻訳もするし、講演もする。もちろん、野球選手でいえば福沢諭吉はイチローで、私は一応、プロ野球には所属しているが、打者でいえば打率2割前後、投手で言えば防御率5ぐらいのペーペーであるが、やっていることは似ている。ということで、この本の最後の文章をこれからの人生の指針にしようと思ったりもした。こういうことを書いて、人に伝えようとしている時点で、もう福沢諭吉とはエラい差のある小物であることを晒しているようなものだが、備忘録も兼ねてということで許していただければ有り難い。

「(前略)さて自分にできる仕事は三寸の舌、一本の筆より他に何もないから、身体の健康を頼みにしてひたすら塾の仕事を勉め、また筆を弄んで、種々様々の事を書き散らしたのが『西洋事情』以後の著訳です。一方には大勢の学生を教育し、また演説などして思うところを伝え、また一方には著者翻訳、ずいぶん忙しいことでしたが、これもごくわずかながら自分でやれることをやったものです。」


現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

  • 作者: 福澤 諭吉
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2011/07/07
  • メディア: 新書



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『ワーク・シフト』リンダ・グラットン [書評]

イギリス人のビジネス評論家であり、ビジネス・スクールの大学教授であるリンダ・グラットンの2011年の著書。2025年の働く環境を豊富なデータから予測し、そのような状況変化にどのように対応すべきかのアドバイスをしている。経済のグローバル化、インターネットやSNSの発展、テクノロジーの進化による環境変化は、仕事の内容、仕事の方法、仕事をする意味や価値などを大きく変化させていく。そして、自分としっかりと対峙し、仕事を主体的に、人生を豊かなにするために選択していくことの重要性を説いている。時代がどのように変化しているかを多くのデータ、事例としっかりとした分析とから描き出している大変、読み応えのある本である。2013年にビジネス書大賞を受賞したのも納得する。多くの若者に読んでもらいたい。


ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2012/07/31
  • メディア: Kindle版



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71歳でドイツ語を始められた方のお話にちょっと感動する [教育論]

実は上智大学の社会人講座で「ドイツ語」の講義を受講しています。これまで飲みの誘いを何回か受けていたのですが、ずっと断っていました。しかし、流石に何回も断るのも申し訳ない気分になったので昨日、忘年会に参加しました。講師の先生も出席されていましたが、1人を除くと皆、先生よりも年輩、というか最高齢は83歳です。彼は71歳でドイツ語を習い始め、もう1人の方も65歳で始められたそうです。私は実は45歳から初めて、なんて無駄なことをしているのだ、と自分に呆れるところがない訳ではありませんでしたが、全然、若いじゃん、ということに気づきました。

83歳の方はヤクザの世界にも足を突っ込んだことがあったそうですが、現在はドイツ語検定の2級にチャレンジしています。そして、「勉強をすることが楽しいことを知ったのが嬉しい」と言います。ちょっと感動しました。こういうことを若かった自分に言い聞かせたいと思うし、学生にも伝えたいと思うのですが、なかなかうまくいきません。しかし、勉強する動物は人間だけですし、また、勉強することは大学以外にも多く存在しますが、勉強をすることを存在目的にしている機関は大学ですよね。そう思うと、大学って貴重です。ただ、私が学生の時はそういうこと、全然、気づかなかったですし、勉強つまんなかったですが。
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宇宙団の下北沢のLiveholicへライブを観に行く [宇宙団]

新譜発売まであと1ヶ月を切った宇宙団。下北沢のLiveholicへライブを観に行きました。「ラブリーチューンXX」、「ヘルプ」、「夏に寄せて」、「日本のヒーロー」と新譜に収められた4曲と最後は「恋は宇宙」。「ラブリーチューンXX」のさびのメロディのクオリティはもう絶対的です。これは、AKBが歌ったら大ヒット間違いなしだと思います。
 久しぶりのライブということもあってか、前回に比べてずっと演奏のレベルも高くて終始、安心して聴いていられました。今日は早めに行った甲斐があってほぼ最前列だったので写真もうまく撮影できました。ところで、宇宙団はリーダーの望月はもちろんですが、他の3人もとてもいい味出している。ベースはヘルプではコーラスも入れているが、なかなか歌の幅を広げるいい効果を出していると思います。くるりの佐藤君のようです。ベースは5弦だし、そのしっかりとしたリズムキープもそうですが、宇宙団の音楽に欠くことのできない存在になっているかと思います。前のベースには申し訳ないですが、現在のベースになってレベルアップしたのは誰も異論はないでしょう。そして、キーボードがいい。高校から音楽系の学校に通っているだけあり、そのテクニックはもちろんですが、アレンジのセンスもとてもよく、この宇宙団の不可思議な音楽をつくりあげている要的存在ではないでしょうか。そして、ドラム。宇宙団随一の美形であるだけでなく、リズムの刻みもしっかりしていて安心して聴いていられます。あたかもビートルズとかクイーンのようです。今日のライブは5曲と短かったけどとてもよかった。新譜発売を控えて、ちょっといい波に乗っている感じです。

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(「恋は宇宙」での望月の白熱のギターソロ)

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(宇宙団はバンドとしてのバランスも素晴らしくよいと思う)
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高島平に生まれて初めて訪れ、その歩行者動線の悪さに愕然とする [都市デザイン]

 高島平にこれまで行ったことがないので、突如、思い立って行くことにした。正確には初めてではない。大学時代に四ツ谷のライブハウスで演奏した時、タイバンの人達と飲んで、そのまま彼らが住んでいた高島平の家に泊まらせてもらったことがある。しかし、それは終電がなくなってタクシーに乗って行き、朝になったら電車に乗って帰っただけなので、実質的に行ったことにはならない。
 高島平は板橋区にある。私は豊島区で生まれ育ち、文京区の高校に通った。高島平に住んでいた同級生もいたので、行ったことがないのは不思議といえば不思議だが、まあ、行かなかったのである。縁がなかったということであろう。
 都営三田線で高島平駅まで行って降りる。高島平駅はなんと島型のホームが二つあり、4番線まであった。各駅停車しか走っていないのに全くの無駄ではないか。いや、これをつくった時には何か他の考えがあったのかもしれない。ここから支線を出すような・・・。
 さて、駅から降りて周辺をぶらぶら歩く。駅の周辺の区画割は横に長い長方形。歩道がない道路なのだが、道路の幅が結構あるので、どこを歩いていいかがよく分からない。これって、歩行環境としては相当、悪いような気がするのだ。いや、私の家の周辺もそうなのだが、住宅地だとそれほど抵抗感は覚えないのだが、商店街だと景観的にもアメニティ的にも劣悪であると思うのだ。錦糸町の北側を行ったところでも感じたことだ。これが、下北沢や下高井戸、学芸大学のように圧倒的に歩行者が多くて、自動車が入ってくる余地がないような状況だと商店街でも問題はない。しかし、歩行者が少なくて、歩道もなくて、そして自動車が結構のスピードで走れる(幅があるので)ような状況なのは、なんかおちおち歩けない不安を覚えさせられて、本当、嫌悪感を覚える。こういうのを設計した人は、こういうのがOKなのかな、と改めて不思議に思う。

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(こういう自動車移動が前提の空間を、歩行者が歩くのって、そもそもの道路設計の仕方に問題があるような気がしてしょうがない。基本、歩行者と自動車のシェアスペースなのだから、そのように設計すべきであると思うのだが、あまりにも歩行者がないがしろにされている)

 駅から、ちょっと北に行くと新河岸川とぶつかる。新河岸川の堤防の歩道に上がる場所がない。いや、あるのだが、その間隔がすこぶる長いのだ。高齢者だったらたまらないな、と思いつつ、そこまで行って堤防の歩道に上がると、今度は新河岸川を渡る橋がない。いや、あるのだが、これまた間隔が長いのだ。

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(堤防の歩道に上がることができない。これってフラストレーションがたまると思うのだが)

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(新河岸川から秩父方面を望む)

 そして、高島平といえば団地群ということで南に向かう。面白いことに(いや、実際は面白くはないのだが)、高架となった三田線を南北に歩行者が通れる場所がない。高架下がタクシーの駐車場やレンタカーの事務所などに使われてしまっているからだ。どこで通り抜けるかも分からなかったので、タクシーの事務所の横を通るが、これはおそらく違法であろう。とはいえ、私鉄ならまだしも、なぜ都営の地下鉄の高架下の土地を貸さなくてはいけないのだろうか。都営地下鉄の経営状況が悪いのは分かるが、街の利便性をよくするために税金を使っているのに、これでは悪くしているだけだ。

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(地下鉄三田線の高架化をくぐり抜けるところがない!このように街の空間に壁のようなものをあまりにも設けすぎているのではないか。かのケビン・リンチは優れた都市の条件の一つとしてアクセシビリティを挙げたが、この街をつくった人はアクセシビリティということをほとんど考えていなかったのではとさえ思わせる)

 高架下を抜けると、今度は高島通りという片側二車線の大通りだ。そして、ここもやはり道を渡ることができない。しかも、中央分離帯にガードレールのような柵が設置されているので、物理的にも渡ることができない。仕方がないので、西高島平の駅まで行き、そこに設置されている歩道橋を渡って団地群に行った。

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(高架を違法にくぐり抜けると、今度は高島通りのガードレールに行く手を阻まれた。まるで障害ゲームをしているような気分になる)

初めてみた団地群は、ドイツのライプツィヒの郊外ニュータウンであるグリュナウのプラッテンバウ団地を思い出すほど巨大であり、ちょっと感動した。プラッテンバウ団地とは、旧東ドイツの社会主義時代に多くの都市でつくられたパネル工法の団地なのだが、そのスケールの大きさはヒューマン・スケールを逸脱しており、さすが社会主義は効率重視だと驚いたりしていたのだが、なんてことはない、東京にもそういうものがあったのだ。この旧東ドイツの団地を彷彿させるような巨大建物の横には、5階建てのよりヒューマン・スケールな団地群が幾つも建っていた。こちらは、そんなに悪い感じはせず、計画的な配慮が伺える。

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(社会主義国家のパネル工法の団地を彷彿させる巨大団地)

 ただ、この団地内も歩道と車道との間にガードレールが連続して設置されており、交通量がほとんどないにも関わらず、渡れない。この歩行を強制的に管理しようとする計画的意図は何なのだろうか。動物的な移動の本能に反する行動をさせようとして、何を達成しようとしているのだろうか。

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(なんと、団地内にも無駄なガードレール)

 この団地内だけでなく、高島平全般に言えることは、極めて歩き勝手が悪い街であるということだ。1972年に高島平の団地はオープンしたこともあり、その高齢化率は49%と高い。これからも高くなっていくであろう。しかし、こんなに歩きにくい環境では、高齢者からすれば大変であろう。というのは、高齢者は基本、歩いて移動することが重要になる。自動車での移動は安全面での問題が増すし、面倒だ。自転車も若い時ほどは乗りたくはなくなる。そうすると、歩くのが極めて重要になる。歩き+公共交通だ。しかし、歩くのも若い時よりずっとしんどくはなるので、なるべく最短距離で、しかも階段などは極力使いたくない。
 高島平の団地内には商業施設や郵便局もあるので、そこで買物をすればいいという話もある。ただ、その内側からちょっと外に出ようとすると、その歩行者動線は極めて限定されている。この街を高齢者に優しい、という人もいたりするが、私はまったくそのような印象を受けなかった。歩行者動線に対しての配慮が不足している街であるという印象を強く抱いた高島平の視察であった。

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『まちづくりの経済学』 [書評]

建築学科を出た先生による経済学の教科書的な本。前半はDCF法とCBA法について丁寧に解説しており、不動産経済学の教科書のような内容であり、地価に関する内容も含まれているが、後半部は「逆都市化」の話や、「高齢社会」の話なども出てきて、著者のまちづくりに対する熱い想いのようなものが書かれている。そして、著者がまちづくりの理想とする「美しいまち」は経済学者ではつくれないと最後に主張している点も参考になる。そして、その理由も書いている。しかし、まちづくりをするうえでは経済学の基礎を知らないと、経済学者が相手にしないので、この本を読むべきである、というようなことも書かれている。なかなか、そういう意味ではいい本ではないのだろうか。確かに、建築をしたりする人はあまり経済を勉強しないような印象を受ける。でも、経済学者はどう考えているか分からないが、経済学はそれほど難しくはない。いや、数式がうじゃうじゃ出てくるとなかなか分からなくなるが、基本的な考え方はそんなに難しくない。そのような経済コンプレックスを払拭して、まちづくりを考えていくうえの素養として経済学を学ぶうえでは、この本だけでは十分ではないかもしれないが、一つのきっかけにはなると思う。
 あと、この本が出されたのは2001年であるが、当時は確かにヨーロッパでもみられた逆都市化現象が、今ではまったく逆の再都市化現象がロンドンとかでもみられているのはちょっと驚きである。逆都市化論の何か前提に間違いがあったのだろうか。これは、私も時間があればチェックをしてみたい興味深いテーマである。


まちづくりの経済学―知っておきたい手法と考え方

まちづくりの経済学―知っておきたい手法と考え方

  • 作者: 井上 裕
  • 出版社/メーカー: 学芸出版社
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: 単行本



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最近、外食で肉を食べることがなくなった理由 [B級グルメ雑感]

最近、外食で肉を食べることがほとんどなくなった。焼き鳥屋には行く。しかし、焼肉屋やステーキとかは食べない。イタリアンでもメインの肉は基本、頼まないようにしている。なぜか。それは、私の家のそばにある肉屋の肉があまりにも美味しくて、なおかつ、外食とではあまりにも値段差があるからだ。特に違いが出るのはステーキである。100グラム1300円のぐらいの肉でも(フィレやサーロインではない)、そこらへんのステーキ屋より遙かに美味しいのだ。同じ美味しさを楽しもうと思ったら、もう10000円ぐらいは払わないと無理であろう。最近はスペアリブをつくってみた。スペアリブとかだと骨があるが、100グラム250円とかそういう値段である。しかし、それでもとても美味しい。私の家のそばにはちょっと美味しくて有名なスペアリブ屋があるのだが、私が調理したスペアリブの方が美味しいと思う。もちろん、手間暇はかかるので、調理を機会費用とみると調理の2時間は多少もったいないという見方はあるかもしれないが、それを含めても家でつくった方がお得であると思う。しっかりとしたお肉屋が家のそばにあることの有り難みを最近、痛感している。

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(家でも美味しいスペアリブをつくることができる。クックパッドのおかげでもある)
タグ: 外食
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望ましい下北沢像は「チェーン店ではなくて個店がある街」のようだが、これらの個店は絶滅危惧種であるので保全活動が必要だ [都市デザイン]

 下北沢編集部という、住民主体のまちづくりのグループが「100人100色」という下北沢で働く人、住む人に対してアンケート調査を実施しているのだが、その中間報告を聞いた。そこで、望ましい下北沢像として「チェーン店ではなくて個店がある街」と回答した人が最も多かった。
 改めて、下北沢の魅力は「個店」であるということが裏付けられた。なんせ下北沢駅周辺で1200店ほども店が密集しているのだ。その多様性が下北沢の魅力であることは間違いないであろう。私も最近ではほとんど1人で飲むのは下北沢であるが、それは下北沢のお店群がユニークで「特別」だからだ。
 さて、しかし、このようなご時世で、下北沢で個店を維持するのはほとんど不可能に近いほど難しくなっている。それは家賃が高いからだ。私が行く個店も、ほとんど経営難である。下北沢はおよそ3年間で店舗が3割置き換わるといわれるほど、ビジネス環境は悪い。さらに、現在、下北沢は道路整備が進行中であり、この道路は貴重な個店を立ち退きさせるだけでなく、道路ができることで沿道の建物の容積率を向上させることになる。その結果、家賃はまた上がる。というか、ここで家賃が上がるのは、チェーン店が高くなっても、支払ってしまうからだ。個店が支払うことは難しい。しかし、チェーン店が高い値段を払うのは、「下北沢」というブランドに惹かれているからだが、このブランドをつくりあげているのは、これらチェーン店が追い出している個店なのである。つまり、蛸が自分の足を食べているような状況が生じているのが下北沢なのである。
 もし、本当に個店に価値を見出しているなら、間違ってもチェーン店では買い物をしないぐらいの覚悟を持たないと、下北沢の個店は早晩、消えて行くであろう。もちろん、王将のようにチェーン店であっても下北沢のシンボル的なところもあるので、チェーン店は皆、駄目といっているわけではないが、特に居酒屋チェーンに入るぐらいなら、わざわざ下北沢で飲む必要もないと思われる。そういう消費による支持活動をしないと、下北沢の個店は絶滅危惧種のように消えていっていくものが多いことを自覚することが必要である。ニーズがあっても提供できない、少なくとも今の下北沢の料金では提供できなくなることは、「個店があって欲しい」と回答した人には理解してもらいたいと思う。

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東京から館山に列車で行くと遠い [地域興し]

千葉の館山まで電車で行った。ヤフーの路線情報で検索すると、バスで行けと出てくる。バスはあまり好きではない。というのも、ずっと席に座らされて移動中は動けないからだ。列車だと立ったりできるし、トイレに行きたければ最悪、途中下車できる。キオスクとかもあるし、列車がいい。ということで、時間は余計にかかるが、列車で行くことにした。さて、しかし、内房線に走っていると私が思っていた特急列車は走っていなかった。どうも通勤用の列車になっているようで、19時に館山に戻ろうという時間帯にはまったく走っていないようなのだ。しょうがないので各停で行ったが、なんと東京の都立大学からだと3時間ほどかかることが分かった。3時間だと新幹線を使えば都立大学からだと京都まで行けてしまう。千葉なんて、すぐそばだけど安房半島の先端までは遠いことが分かった。そして、18時に館山に着く列車に乗ったので車窓は真っ暗で東京湾は全然、観られなかった。なんのために列車に乗ったのか、少しだけ後悔する。次回はバスで行くことを考えよう。

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「サンダードーム」 [映画批評]

マッドマックスの「サンダードーム」を今さらながら観た。メル・ギブソンがマックスを主演した最後の作品として位置づけられるのかもしれないが、最新作の四作目の方が遙かに優れていると思う。ハラハラさせられるところもなければ、物語の展開に引き込まれるようなところもない。ティナ・ターナーは相当、魅力を放っていて、それに関してはプラス評価であったが、それ以外は、バギー・カーのデザインぐらいかな。オッと思ったのは。ということで、マッドマックスのシリーズの中では相当、今ひとつの作品なのではないでしょうか。というか、むしろ4作目の素晴らしさを再確認させるような作品である。それだけ駄作であるとも言えるかもしれない。

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国連英検特A級に不合格となる [英語関連]

英語のブラッシュアップのために、国連英検特A級を先月受験したのだが、その結果が先日届いた。不合格であった。合格のボーダーラインが100点満点中66点で、私は65点であった。その結果には、項目ごとの評価点があったのだが「国連に対する知識」と「国際常識」といったものが図抜けて低かった。ということで、ここらへんの勉強をしなかったのが落ちた要因ではあるが、こんなレベルで仮に通ったとしても、面接試験で落ちたであろうから、そういう意味ではむしろ落ちてよかったと負け惜しみではなく思っている。そもそも、肝心の英語に関しても10点評価のうち10点という項目はなく、皆、8点であった。ということで、まだまだ改善の余地が英語にもある、ということで、これは英語をブラッシュアップさせるインセンティブになるので、むしろよいぐらいだ。現在、英語教育の研究をしようと思っている私としては、自らも試験勉強をしつつ、そちらの考察をすることができるので、今後もこのブログでも思ったことを報告したいと考えている。不合格はちょっと恥ずかしいことではあるが、受験したことをこのブログでも書いたので、その結果をここに記しておきたいと思う。

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トランプが来日した時に、日本政府がハンバーガーを出したことを呆れるアメリカ人と私 [トランプのアメリカ]

トランプが今月の頭に来日した。その時、港区の虎ノ門にあるマンチズバーガースタンドがつくるハンバーガーが供された。このことで、マンチズバーガースタンドは行列ができるほどの人気店になったのだが、この出来事は、アメリカではトランプ政権の御用テレビ局に堕したフォックス・ニュースを除けば、どこも極めて批判的に捉えてあり、たいていトランプを馬鹿にした内容の報道をしている(例えば、トレヴァー・ノアのデイリーショーでは、どこの国に行ってもマクドナルドに入る多文化に理解を示さないタイプとしてトランプを馬鹿にしている。https://www.youtube.com/watch?v=YOfhjDDJUPM)が、なかにはジミー・キンメルのように、せめて肉が日本産なら分かるが、肉もアメリカ産でチーズもアメリカ産で、日本には食文化がないのか、といって日本側を揶揄した発言をしている番組もあった。
 もちろん、ロスアンジェルスに住んでいるジミー・キンメルが日本に食文化がないとは思っていないだろうから、これは痛烈な皮肉かもしれない。確かに、トランプはハンバーガーが好きである。しかも、ケチャップを大量にかけて食べる。ハンバーガー以外だと、ケンタッキーフライドチキンも好きなようだ。要するに、ファストフード好きなのである。ステーキも彼のブランド名を冠したものを出していたことがあったが、すぐに頓挫した。彼はステーキもケチャップをつけて食べる。まあ、ケチャップをつけてステーキを食べることが好きな人がよいステーキと悪いステーキの区別がつく訳がない。そういうことで、何を出しても分からないだろうし、あまりにも豚に真珠なのでお寿司や天麩羅を出したくないのは分かる。しかし、せめて和牛でのハンバーグとかを出せなかったものだろうか。
 この出来事を通じて見られるのは、安倍政権のあまりにも丸出しの植民地根性である。トランプに犬のように尻尾を振って、そのまったく貧相な食の好みまで合わせて媚びて、自国のアイデンティティというか誇りとかを全くみせることもできない、卑屈な姿は、首相が訴える「美しい国」のトップ像からはかけ離れている。
 それに比して、中国は立派であった。トランプの虚栄心を絶妙にくすぐるような演出をしつつ、それはトランプの弱みをつけ込んでいる見事な戦略であることが分かるような、つまりトランプの上をいっていることも周りが理解できる(理解できないのはトランプだけ)ような対応をした。
 そして、食事に関してもしっかりと中国料理をも出している。サウス・チャイナ・モーニング・ポストは、日本がハンバーガーを出したことを引き合いに出し、次のように述べている。

In Tokyo, probably much to his delight, Trump was served a hamburger made from US beef. China was unlikely to be quite so informal as it would want to showcase the best of its cuisine, the source said.

 簡単に訳すと、日本はアメリカ産の牛肉を出したが、中国はそんなにインフォーマルにはできない。なぜなら、中国料理の真髄をお見せしたいからだ。つまり、中国のプライド的なものが、アメリカ産のハンバーグを出すことを許さないということだろう。さすが、「世界の中心」を国名にするだけある。そこには、アメリカの方が上であるという意識はまったく感じられない。

サウス・チャイナ・モーニング・ポストは、次のようにも続ける。

“By serving the best food a country has, the host can make guests more relaxed before they go to the negotiating table.”

 おそらく、日本政府もトランプの三流に合わせず、料理はそれが豚に真珠であっても、最高のものを出せばよかったのである。そして、それをトランプが食べられなかったり、不味い、と言ったりしたら、それはトランプが日本料理を食べるにも値しない人間である、というだけのことである。そして、それは日本料理の価値はまったく損なうことなく、トランプの三流さを世界が再確認するだけである。堂々としていればいいのである。
 トランプはおそらく、日本にはアメリカのハンバーグやチーズ以上の最高の食材はないのだろうな、という認識を持ったであろう。いや、そんなことはない、と思った人はトランプをまだ理解していないのだ。私は、トランプが大統領になってから、一日2時間はMSNBCやCNNを見ているという生活を1年間も続けたので、トランプの世界観のおそろしい矮小さを驚きとともに知っている(そして、貴重な人生の時間を無駄にしている)。
 そして、そのような認識を持ったアメリカ大統領は、ベストな食文化がアメリカのハンバーグであるという風に認識している国に一目置くわけがない。そういう、とんでもない対応を日本政府はしてしまったのではないか、と思うのである。
 現在、マーケティング業界では、オーセンティシティのブランディングが大きなテーマになっているが、日本政府は日本のオーセンティシティの発信のチャンスを大きく損なったどころか、むしろマイナスになるような行動を今回のトランプへのハンバーグ提供でしでかしてしまったのではないだろうか。別に料理でないところで、媚びればよかったのである。料理とか芸術とか、文化面で相手に合わせたというのは政治的にも愚の骨頂であり、さすが中国はそういうことをよく理解している。
 なんか、日本人として情けない気持ちでいっぱいである。
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増田寛也編著の『地方消滅』 [書評]

増田寛也編著の『地方消滅』をようやく読んだ。何、今さら、と指摘されると答えに窮する。新書で、あっという間に読めるのに、今まで読まなかったのは、単につまらなさそう、というのと、読むと苛立つだろうな、というのが予見されたからである。ちょっと、このところ苛立つ余裕もないほど忙しいような状況だったということもある。最近、その状況が少し、変化したので、一気に読んだ。そして、やはり苛立った。その苛立ちの理由を整理しなくてはならないが、大きく4つあると思う。
 まず、この「地方消滅」というタイトルに苛立つ。そもそも、地方は「消滅」するのか。「消滅」という定義はどのようにされているのか。ある集落が消滅するということはあり得る。例えば、軍艦島と呼ばれた端島。ここは最盛期には5000人はいたが、今で誰も住まない廃墟になっている。あまりにも見事な廃墟になっているので、世界遺産になった。そして、旧阿寒町の雄別炭鉱。ここは隣町と含めて12000人ぐらいは住んでいたが、今は500人にまで減った。ある意味、消滅といってもいいかもしれない。さて、しかし、それで「地方」が消滅するとは言わない。福島原発の双葉町のようなケースであれば、消滅といってもいいかもしれない。チェルノブイリの周辺も消滅した地方かもしれない。しかし、軍艦島も雄別炭鉱も石炭という産業が興って人が集まり、それがなくなったので去っていったのである。それほど悲惨な事態であるとは思わない。夕張は石炭産業がなくなり、最盛期に比べれば9割の人が減ったが、メロン農家は豊かであるし、これらの農家は今後も夕張で暮らしていくであろう。夕張は「消滅」しなかったのである。大きく人口は減少したが「消滅」ではない。この本の巻末には多くの消滅可能性都市が上げられているが、それらのほとんどは、人口は減らしても消滅はしないであろう。集落はなくなっても、農業などの一次産業を行うことができれば(そういう点では双葉町は致命的である)、人は住む。また、現在はカナダやインドネシアからの輸入材に押されてしまっているが、林業も完全に日本が放棄することにはならないだろう。日本の7割は森なのである。
 次に、この「地方消滅」都市を選ぶうえでの計算の仕方が納得できない。この本では20~39歳の女性の流出を気にしているが、この子供を産む世代が出て行っても、その後、戻ってくれば人口は減らないのである。このことを考えないから豊島区を消滅可能性都市に挙げるなどのトンチンカンな結果を出してしまうのである。つまり、その自治体で子供を産まなくても、他で里帰りのようにして産み、40歳以降に子供連れで戻ってきたりすれば、その自治体は消滅しないのだ。それなのに、それを受けて豊島区がパニックになって、緊急対策本部をつくったりするなどは、ドタバタ劇を見るようで、本当に苛立ってしまうのである。
 3つめは、「地域が活きる6モデル」という章があるのだが、そのモデルを選出するうえで20~39歳の女性人口の変化率をみている点である。変化率というのは、それ以前と大きく地域特性が変わっていれば上がるし、どんなにいい事例でも前からやっていると変化率は変わらない。重要なのは「変化率」ではなくて、絶対数である!と憤怒していたら、なんと、その後の増田氏と藻谷氏との対談で、まさに同じことを藻谷氏は指摘していた。
「マクロ経済学は基本的に率ではなく絶対数というのが、日本を除く世界の共通認識です」(p.149)。
 その発言を受けて、増田氏はまさにその通り、というようなことを述べていたが、この本の内容は絶対数ではなくて率を見過ぎている。
 そして、最後に思うのは、人間は地域や国のために生きているのではなく、自分の幸せを最大限にすることを目的として生きているということである。したがって、例えば北海道の猿払村のように東京より給料が高い仕事があれば、中学卒業して村を出ても(高校がないので)、また高校を卒業したら戻るのである。夕張のメロン農家だって、世帯年収が高いので皆、やっているのである。まあ、増田氏はこの本の中では、生き方を押しつけることができないというのを対談で述べており、それほど傲慢ではない印象は受けるが、それでも地方に人間を定住することをあまりにも是として捉えすぎていると思うのである。人間と地域のどちらが大切かといえば、それは人間であり、同じことを私は国にも言えると思う。そのように考えると、逆に人が豊かになる地域や国づくりが見えてくるのではないだろうか。極端な言い方になってしまうかもしれないが、人を豊かにしない地域や国はなくなってもいいのである。そのような地方は人に見放されたからだ。といいつつ、私はすべての人に見放されるような地方や土地は日本にはほとんどないと思う。日本の国土は、それだけ恵まれているし、美しく豊かであるとは思っている。そのような美しさや豊かさを大切にしようとしたら、原発の再稼働はとてもできないと思うのである。根源的な地方の豊かさを追求し、その土地の豊かさを軸に置いた産業で地方の経済を回せば、地方が消滅するなどということはあり得ないと思う。
 このブログで書いたことは納得できない人もいるかもしれないが、残りの人生を使って、このような論を発展させていければと思う。

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宇宙団@下北沢ベースメント [宇宙団]

久しぶりに宇宙団のライブを観に下北沢へ。受付がのろのろしていたので、一曲目はもう始まっていた。セトリは、ラブリーチューンXX、文明鎮座、恋は宇宙、日本のヒーロー、夏に寄せて、ヘルプ!。1月に発売するCDからの曲が5曲。まあ、時節柄致し方ないのかもしれないが、傑作「日本のヒーロー」はともかく、他の曲はあまりよさが分からない。まあ、聞き込んだら分かるのかもしれないが、それまでの宇宙団の曲はほとんど一目惚れならぬ、一耳惚れするような印象に残るメロディーを紡いでいたので、このメロディーが記憶に残らないというのは、ちょっと問題なんじゃないか、とちょっと心配する。まあ、その中では「夏に寄せて」は悪くないかもしれないが、二枚目のジンクスにならないといい、とちょっと老婆心がむくむくと首をもたげている。とりあえず頑張れ、宇宙団。

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都市資源が既に不足している渋谷で開発をするのは賢明ではないだろう [都市デザイン]

宮本憲一は『都市政策の思想と現実』において、「資本の都市問題」に関して述べている。そこでは、それは「生産の社会化がすすみ社会的一般生産手段の需要が大きくなったにもかかわらず、公共経済が対応できず、あるいは資本の過集積のために都市の資源が不足する問題」であると述べている。そして、それは「都市問題」というよりかは「都市経済の問題」であると言及している。そして、都市経済と都市問題を混同させてしまうと、都市政策も混乱したり不完全になったりすると指摘する(p.37-38)。
 さすがに都市の置かれた状況を鋭く突いている。東京が抱えている問題は、資本の過集積である。既に飽和しており、また経済が成熟化し、国としても人口というマーケットが減少しているにも関わらず、さらに投資が進んでいる。先日、渋谷に降りて、その発展途上国のようなビル開発の進み具合に愕然とした。なぜなら、このようなビルを開発するだけの公共経済が不足していることが明らかであるからだ。上下水などのインフラも不足しているだろうが、目に見えて分かりやすいのは交通であろう。これだけのビルが建設されることで、発生集中する交通需要は相当のものがあるだろう。それであるにも関わらず、新しくつくられた東横線の渋谷駅のホームの処理能力は現時点でも既に危機的な状況にあるほど飽和している。私は次女が渋谷の高校に通っているので、東横線の渋谷駅のホームの狭さと処理能力の不足が本当に心配なのだ。これ以上、交通需要を増やしたら、朝のラッシュアワー時にちょっとダイヤが乱れただけで、ホームに立っていられずに落ちる人が出るだろう。
 ビルを建設している人は、そんなことは知ったことがないのだろうが、渋谷駅の資本不足は既に多くの不利益をもたらしている。私は、池袋以北に行く時はそれまでは渋谷駅で乗り換えていたが、現在は160円余計に払って恵比寿駅で乗り換えるようにしている。それは前述したように渋谷駅を利用することの不安と、ホームでのエレベーター待ちの時間や新駅が出来たことで乗り換え時間が増えたので、160円払っても恵比寿駅で乗り換えた方が、効用が相対的に高いと考えているからだ。
 そのような不便な場所に、渋谷というブランドだけで開発をして、さらに渋谷の資源不足を顕在化させてどうするのであろうか。そのような開発をしている人は一度、この宮本憲一氏の著書でも読んで再考するといいと思う。


都市政策の思想と現実 (立命館大学叢書政策科学 (1))

都市政策の思想と現実 (立命館大学叢書政策科学 (1))

  • 作者: 宮本 憲一
  • 出版社/メーカー: 有斐閣
  • 発売日: 2011/05
  • メディア: 単行本



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オリンピックと商業主義 [書評]

スポーツライター小川勝氏が、東京オリンピックが決まる前の2012年に出された新書。オリンピックがいかに商業主義に侵されていったのかが、資料から丁寧に分析されている。興味深かったのは、ロスアンジェルスの黒字化のポイントは商業主義を導入したのではなく、支出を抑制したからだ、と分析していることである。私もそうだが、一般的にモントリオールの大赤字を克服できたのは、ロスアンジェルスで商業主義の導入を許したから、商業主義の勝利だ、との印象を抱いていたのだが、むしろ超ケチケチの運営をしたからだ、ということを同書から学ぶことができた。ただ、一方で超ケチケチでやったこともあり、1984年のロスは何のレガシーも残っていないに等しい。
 また、商業主義の導入が極めてアメリカに有利なシステムで、それ以降のオリンピックを運営させることになったかということも本書を読むと分かる。IOCという怪しげな組織も、この本を読むとある程度見えてくる。
 同書はあとがきで、東京が夏季オリンピックに立候補していることを踏まえて、もし開始されたら「選手を第一に考え、なおかつ赤字を出さない」ことを提案している。ただ、2020年の東京オリンピックは、アメリカのテレビ局を意識して、8月に開催することが決定されている(1964年は10月に開催した)。新たな施設も、国立競技場を含めてつくり直しており、せっかくこのような本が開催決定以前に出されているにも関わらず、それが反映されていないのは残念というしかない。
 また、「オリンピックに期待すること」という国民へのアンケート調査が2012年6月に日本リサーチセンター調査が実施したが、トップは「経済効果が見込める」の73%であって、次点の「日本人選手の活躍を期待している」の40%を大きく引き離していた。
 しかし、本書を読んでも分かるように、多くのオリンピックは赤字であり、モントリオールのようにオリンピックで経済が失速して、衰退してしまった(ようやく最近、復活しつつあるがトロントにカナダ第一の座を譲って、その差はもう埋めようもなくなっている)都市があることが分かるように、オリンピックをやれば経済効果がでるというのはあまりにも早計であり、その楽観主義には驚くしかない。一部の経済学者も高らかに経済効果を謳っていたりするが、What have you been smoking? とそういう先生達には私は思わず、聞きたくなっている。

オリンピックと商業主義 (集英社新書)

オリンピックと商業主義 (集英社新書)

  • 作者: 小川 勝
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2012/06/15
  • メディア: 新書





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英単語を学ぶということと『TOEFLテスト英単語3800』の書評 [英語関連]

最近、英語教育にちょっと関心を持っている。これは、次女が高校一年生になって英語がまったく出来ないので、これじゃあ、英語で大学入試に落ちると心配しているのと、世の中、国際社会が進んでいくと、全般的に英語が理解できるのが重要じゃないか、という風潮になっているからである。

その風潮に私は一貫して疑問を呈してきていた。英語をしゃべれることが別に国際人になれる訳ではない。そして、国際人というか、英語でコミュニケーションをできるための英語力を養うのは尋常の努力ではできない。人生のうち8年間も海外で暮らし、アメリカの大学院で3年間勉強した私でも、英語力が今ひとつなので、外国人に過小評価されることで悔しい思いをしたことがある。今度、英語の本で一章を書いたのだが、プロのプルーフ・ライターにお願いしたら、結構、間違いを指摘された。まあ、間違いはほとんど二つの分野に集中していたのだが、こんなに英語をやっても、ここは今ひとつなのか、と思うとがっかりする。その二つの分野とは、冠詞、そして現在完了か過去か、という点である。冠詞は相当、意識をしているのだが、まだ自然と自分のものになれていない。そして、現在完了と過去を使い分けるニュアンスを私はしっかりと修得していなかったのだ、ということが分かった。

そういうことで、英語でコミュニケーションをする能力を獲得するためには、並大抵の努力をしなくてはならず、そんなことをする必然性が果たしてあるのか、私は大いに疑問なのである。例えば、私が奉職している大学の国際センター長は世界銀行で勤められていたこともあり、英語も堪能ではあるが、留学生のパーティーでは英語ではなく日本語で話す。先日、私も参加させていただいた国連大学の国際会議で、英語がほぼパーフェクトな某東大名誉教授も、パネル・ディスカッションではすべて英語で話したが、講演は日本語で話されていた(同時通訳)。私も、ここぞという議論では、英語ではなく日本語で話したいという衝動に駆られる。こういう場では語学力は権力であると本当に感じる。

さて、そのような思いがある一方で、次女のこともあったりするのと、そんなに英語を勉強したいなら、英語を効率的に学習する方法を考えてみよう、と考えたのである。そして、英語を教える講義を大学内で設置させてもらった。

英語を効率的に学習する方法は、まだ検証してはないのだが、取り急ぎの単語力の増強、ということを考えている。というのは、英語の単語力というのは綴りも含めれば、日本語での漢字力である。そして、文法を100%理解しても、単語が一つ分からなければその文意がつかめなくなってしまうことがある。これは日本語でも同様である。

また、日本は文法を教えるのが好きだが、初期学習において、あの文法を理解させようとすることほど馬鹿らしいことはない。私は中学でこの訳の分からない文法や、文法の例外事例などを教えられたが、そもそも本質的な文章構造が分からないのに、そんな例外事例など覚える必要はない。というか、例外を知る前に、とりあえず文章を書けるようになるべきだろう。この文章を書けるというのは、これまた大変な労力を要するが、文法的な些末なことを覚える前に、自動詞・他動詞の区別とかを知ることの方がずっと重要である。

そして、文法というのは語学が包括的に理解できそうな時になって初めてスムーズに理解ができる。私は45歳からドイツ語を学習しているので、そういうことがよく分かる。ドイツ語の文法が理解できるのは、ドイツ語検定でいえば3級を合格した後ぐらいである。その前は、とりあえず動詞の過去形と、名詞の性などを覚えておけばいいのである。前置詞の格支配などは3級に受かった後から、文法書で読めばいい。

また、私がこのように文法での学習ができるのは、年を取っていることと、英語ができるので類推がきくことと、何しろ学習意欲があるからだ。若い時は、とりあえず記憶力はあるのだから、どんどんと単語を覚えさせればいい。我々だって日本語の文法を知らないでしゃべっているし、アメリカ人だって文法の解説などは普通の人はできない。仮定法とか、高校の時は何を説明しているのかがまったく分からなかったが、日本語だって使っていることである。「明日、行ったらいいのに」でなぜ、「行けば」ではなく「行ったら」と過去形なのか。それは、「行った」と過去の表現をするときは、相手が行かないという意志があることを前提としているからだ。「行けば」はもっとニュートラルである。私は文法学者ではないが、こういう説明を高校とかで誰かしてくれたら、私をはじめとして多くの仮定法恐怖症を生み出さなくても済んだのである。もしかしたら、中学もそうだが高校の先生は、わざと分からなくして、英語を難しい学問であると思わせたかったのかもしれない。そう、邪推したくもなる説明の下手さであったと思う。

随分と前置きが長くなってしまったが、それで英単語をいかに増強するか、という効率的な方法論を学生に教えることで検証しようと思ったのだ。まずは単語帳、ということで、私がとりあえず選んだのは「TOEFLテスト英単語3800」である。なぜTOEFLかというと大学がTOEFLのテストの補助をしていたからで、テストを受けるのが安かったからである。これは、すぐに学生の英語力をみて失敗だと分かったが、英単語帳を買ってしまったので、これでいくことにしたのである。そして、なぜ、この本にしたのかというと、単にアマゾンで一番、売れていたから。

さて、しかし、この単語帳はひどい代物であった。というか、こんな単語帳がベストセラーであるなら、私はちょっと時間があったら自分で出そうと強く思っているところだ。何が悪いのか。TOEFLはアカデミックな内容の英文が多く出る。これらのアカデミックな内容の英文の英単語まで覚えていたら、大変なことになってしまう。また、これは頻出順でどうもカテゴライズされているようなのだが、名詞も動詞も形容詞もごちゃごちゃである。私であったら、当然、これらは分類させて、グループで覚えさせるし(それらのグループを頻出順でまとめるのはいいと思う。ただ、それは頻出順とは違った尺度での重要度・難易度で分けた方がさらにいいだろう)、動詞であれば自動詞・他動詞(両方のものが多いが)まで分けて覚えさせる。

例えばRank2においてpeninsula, accord, Neolithicと続く。また唐突にSaturnが出てくるが、Saturn を覚えさせたら一挙にMercury, Venus, Mars, Jupiterと一挙に覚えさせてしまえばいいのである。問題でSaturnしか出てこないということはあり得ないだろう。こういう英単語帳でしこしこ勉強できる人は立派だ。ただ、そういう立派な人も、このような機械的な学習ではなく、もっと単語世界が連携しあって、英語世界を脳みその中でつくりあげられるようなボキャブラリーを構築させることが望ましいであろう。そして、そもそも、そういう勉強ができない人は、この単語帳ではないもので勉強することを勧める。そのうち、私がそういう本を出してみたいと強く思う。


タグ:英単語
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はだしのゲンはピカドンを忘れない [書評]

 『はだしのゲン』が少年ジャンプに連載された時、私は小学校高学年であった。きら星のように楽しい漫画群の中で、唯一、この漫画は気味が悪く、また画筆もあまり好きではなく、なんか楽しい少年ジャンプにそぐわない漫画だな、と当時は思ったりしていた。
 さて、しかし、この漫画のおかげで私は原爆の悲惨さや戦争の不条理を知ることになった。そして、それは今となっては私の人格形成というか戦争への見方などにも資することになった貴重で有り難い作品であると思っている。著者の中沢氏は奇跡的に原爆から助かったが、もし彼がこの時、亡くなっていたら、私の世代の戦争への理解はずっと疎いものになってしまったであろう。
 2013年8月、島根県松江市の教育委員会がこの『はだしのゲン』を市内の全小中学校に対し、児童に貸し出さないよう閉架扱いにすることを要請し、それにより、市内の小中学校49校のうちゲンを全巻保有していた39校全てが閉架措置を取ったという事件があった。
 これはちょっと不味い動きではないか、と思い私は慌てて『はだしのゲンはピカドンを忘れない』を購入した。なぜなら、私も「ピカドンを忘れない」ようにしないと不味いと思ったのと、下手したら『はだしのゲン』も発禁になるような状況になるかもしれないと思ったりしたからである。そして、中沢氏のエッセイを改めて読み、原爆がどのような被害をもたらすのかを再確認した。北朝鮮に核戦争をほのめかすアメリカ人にも本当、読んでもらいたい。
 さて、それにしても広島県に隣接する島根県でのこの事件は興味深い。それは、他人への苦しみ、他人への情がないからこそ出来る非情な行動だと思う。原爆の被害者はほとんどが罪のない人々であった。その死に様はむごく、それを子供達に読ませるのは不適切であると考えることよりも、そのようなむごい死に様を二度と将来の子供達にさせないような社会を構築することを、将来の日本を背負う子供達に教えることが重要であると考えるべきであろう。そして、『はだしのゲン』よりも、その悲惨さ、その虚しさを伝えられる作品を私は寡聞にして知らない。

はだしのゲンはピカドンを忘れない (岩波ブックレット NO. 7)

はだしのゲンはピカドンを忘れない (岩波ブックレット NO. 7)

  • 作者: 中沢 啓治
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1982/07/23
  • メディア: 単行本



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札幌市はスープカレーこそがガストロミー的にはキラーコンテンツだと思う [B級グルメ雑感]

下北沢はカレーで売り出している。2012年に開始したカレー・フェスティバルはとても成功したボトムアップ型のイベントだ(http://www.hilife.or.jp/cities/?p=1412)。そして、下北沢には実際、多くのカレー屋があり、駅から800メートル圏内のカレー店の数は、中央線の高円寺・中野や同じ世田谷区の三軒茶屋などのサブカル・シティのライバルに比べても多い。さて、しかし、下北沢の人気カレー店はあまり下北沢発ではない。もちろんムーナとか茄子オヤジといった下北発のカレーの名店もあるが、例えば、サムライ、マジック・スパイス、心などのスープカレー系は札幌発のカレー店である。ということで、せっかく札幌にいるのでスープカレーを食べに行くことにした。せっかくなので下北沢というか東京にはないカレー屋ということで、ピカンティというお店に行く。ここは北12条駅のそばにあるお店である。食べログによれば、札幌市内にはカレー店が560件ある。これは、ほぼ同じ規模の福岡市が373件であることを考えると、相当の数字であろう。ちなみに、人口では札幌よりずっと多い名古屋市でも508件で及ばない。仙台市はわずか207件にしか過ぎない。つまり、札幌市はなかなかのカレー都市なのである。ピカンティはそれらの中で食べログの評価では10番目。これは期待できる。
 日曜日の17時前という時間にも関わらず、結構、店は混んでいた。とはいえ、並ぶほど混んでいた訳でもない。さて、ここはスープ、具、辛さを自分で選ぶことができる。スープは4種から選ぶ。私はアーユルヴェーダのスープにした。これは薬膳系であるようだ。具はサクッとピカチキン。これはフライドチキンが中心となる。値段は1130円である。さらに、ブロッコリーと半熟卵の天麩羅をオプションでつける。そして、辛さである。辛さは1〜5まであるが、私は無料の範疇の2にする。これは最近、お腹の調子が悪いからである。さて、出てきたカレーは、野菜が固まりのような感じで出てきた。これは素材の旨さを殺さないためであろう。実際、食べてみたら野菜は別格のように美味しい。チキンも美味しい。そして、カレースープは抜群に美味しい。というよりか、スープカレーという範疇でいえば、人生で最も美味しいスープカレーかもしれない。サフランライスもよく、これは北海道の食材を使っているからなのかもしれないが、何しろ料理の素材の味がよい。それにスープの複雑でいて嵌まる味。札幌市はやはり、スープカレーこそがガストロミー的にはキラーコンテンツなんじゃないか、と思ったりもした。

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日本の在留外国人数 [グローバルな問題]

 2016年12月時点において日本で生活する在留外国人の数は238万人である。これは、日本人全体の2%にしか過ぎず、相変わらず日本には外国人が少ないなと思う。さらに国籍別にみると、一番多いのは中国人で69万人(29%)。次いで、韓国人の45万人(19%)、フィリピン人の24万人(10%)、ベトナム人の20万人(8%)、ブラジル人の18万人(8%)ということで、上位5ヶ国で全体の74%を占める。6位から10位まではネパール人(3%)、米国人(2%)、台湾人(2%)、ペルー人(2%)、タイ人(2%)である。上位10ヶ国で86%を占めている。絶対数が少ないということもあるが、多様性にも乏しい。
 その是非はともかくとして、インド人よりネパール人が多いことや、北朝鮮がベスト10に入っていないことなど結構、興味深い。まあ、ただ興味本位で調べただけだが、情報共有ということでちょっとブログにアップする。

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