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東電の勝俣恒久会長の厚顔無恥な弁明に仰け反る [原発問題]
東京電力福島第1原発事故を検証する国会の事故調査委員会は5月14日、東電の勝俣恒久会長を参考人として招き、公開で事情聴取した。そこで、同会長は菅直人前首相が事故直後、第1原発の吉田昌郎前所長に携帯電話で直接指示していたことについて、「所長は復旧に全力を尽くすのが一番大事。時間を取られるのは芳しいことではない」と批判したそうだ。
さらに、事故直後に菅直人首相(当時)が、ヘリコプターで同原発の視察に訪れた際、吉田昌郎所長が対応したことについては、「吉田は事故復旧に全力を尽くすべきで、対応したのは芳しいものではない。反省材料だ」とも述べたそうだ。
いやあ、凄いね、この勝俣会長。盗人猛々しい、というか、あそこで菅元首相が対応しなかったら、おそらくより酷い被害が生じていたというのは、ドイツなどのテレビ報道などを見るにつけ、国際的には共通した認識であると思われるのに、この後に及んで菅批判。さらに、「原子炉への海水注入の判断は、官邸から「中断」の指示があったという認識を前提に「いやしくも日本の総理。私が注水を継続しようというのは難しかった」とまで言い放った。
この官邸からの海水注入の「中断」指令というのは、まったくのガセネタであることはもう既に検証済みかとも思われていたので、今更ながらこのような発言が出てくる厚顔無恥には仰け反るしかないが、そのソースは安部国会議員であることも既知の事実であると思う(この件を知らない方は、参考までに、http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-558.htmlなどを参照して下さい)。何を今更、言っているだ。偽証罪とかはないのかね。
大鹿靖明の『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』では、次のような描写がある。
『清水がそれを持って菅に「かなりまずい状況なので退避させてほしい」と申し出た』が、 菅は「ありえない。いまの注水を続けてくれ」と一蹴した。清水は「あ、はい」と言った。
東電のドンである勝俣に対しては、菅が痺れを切らしたように 「ひとつのことばかりをやっていないで最低限2系列をつくって並行して作業して欲しい」と言った。 勝俣は「はい。ありがとうございます」と答えた。菅が言う。「ありがとうじゃなくて……。できないんですか!」
引用終わり
勝俣会長が同調査委員会で言っていることが本当であれば、この本の著者を名誉毀損で訴えるべきであろう。勝俣や清水が対応できなかったから、官邸がわざわざ指示をしなくてはならなくなったことは、この本だけでなく、朝日新聞の「プロメテウスの罠」でもしっかりと描写されている。おたおたして撤退などと言っていたのを恫喝した菅元首相の功績は、私は以前から指摘をしていたが、今では多くの取材等から明らかとなっている。しかし、これらを全て間違いであると主張するような発言をするとは、さすが、東電だけの会長だ。その面の皮の厚さはただものではない。
このような会長が牛耳っていれば組織は腐敗し、あのような事故をもたらしてしまうことも致し方ないかと改めて納得するのと同時に、あのような日本国民だけでなく世界中(福島原発で放たれた放射能の2%はアメリカ国土に落ちたそうだ)に被害を及ぼした事故を起こしてから1年。まったく反省もかけらもない会長の姿勢をみて、東京電力は潰して国有化。電気事業法も大幅に改訂して、電気事業の独占を許可しないようにするしかないかな、と思ったりもする。
さらに、事故直後に菅直人首相(当時)が、ヘリコプターで同原発の視察に訪れた際、吉田昌郎所長が対応したことについては、「吉田は事故復旧に全力を尽くすべきで、対応したのは芳しいものではない。反省材料だ」とも述べたそうだ。
いやあ、凄いね、この勝俣会長。盗人猛々しい、というか、あそこで菅元首相が対応しなかったら、おそらくより酷い被害が生じていたというのは、ドイツなどのテレビ報道などを見るにつけ、国際的には共通した認識であると思われるのに、この後に及んで菅批判。さらに、「原子炉への海水注入の判断は、官邸から「中断」の指示があったという認識を前提に「いやしくも日本の総理。私が注水を継続しようというのは難しかった」とまで言い放った。
この官邸からの海水注入の「中断」指令というのは、まったくのガセネタであることはもう既に検証済みかとも思われていたので、今更ながらこのような発言が出てくる厚顔無恥には仰け反るしかないが、そのソースは安部国会議員であることも既知の事実であると思う(この件を知らない方は、参考までに、http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-558.htmlなどを参照して下さい)。何を今更、言っているだ。偽証罪とかはないのかね。
大鹿靖明の『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』では、次のような描写がある。
『清水がそれを持って菅に「かなりまずい状況なので退避させてほしい」と申し出た』が、 菅は「ありえない。いまの注水を続けてくれ」と一蹴した。清水は「あ、はい」と言った。
東電のドンである勝俣に対しては、菅が痺れを切らしたように 「ひとつのことばかりをやっていないで最低限2系列をつくって並行して作業して欲しい」と言った。 勝俣は「はい。ありがとうございます」と答えた。菅が言う。「ありがとうじゃなくて……。できないんですか!」
引用終わり
勝俣会長が同調査委員会で言っていることが本当であれば、この本の著者を名誉毀損で訴えるべきであろう。勝俣や清水が対応できなかったから、官邸がわざわざ指示をしなくてはならなくなったことは、この本だけでなく、朝日新聞の「プロメテウスの罠」でもしっかりと描写されている。おたおたして撤退などと言っていたのを恫喝した菅元首相の功績は、私は以前から指摘をしていたが、今では多くの取材等から明らかとなっている。しかし、これらを全て間違いであると主張するような発言をするとは、さすが、東電だけの会長だ。その面の皮の厚さはただものではない。
このような会長が牛耳っていれば組織は腐敗し、あのような事故をもたらしてしまうことも致し方ないかと改めて納得するのと同時に、あのような日本国民だけでなく世界中(福島原発で放たれた放射能の2%はアメリカ国土に落ちたそうだ)に被害を及ぼした事故を起こしてから1年。まったく反省もかけらもない会長の姿勢をみて、東京電力は潰して国有化。電気事業法も大幅に改訂して、電気事業の独占を許可しないようにするしかないかな、と思ったりもする。
電力会社が原発再稼働に拘るのは、核廃棄物が資産であるという出鱈目な会計システムを採用しているからだ [原発問題]
大飯原発の再稼働をおおい町議会が容認した。まあ、これは想定内なので何も驚くことはない。さて、しかし、関電などがなぜ、原発の再稼働にここまで固執するのか。その理由の一つとして、核廃棄物が資産であるとみなしていることがあることを最近、知った。
これは電力会社は総括原価方式を採っているためであり、これによって、燃料等だけでなくその電力会社の持っている施設を資産とみなし、その資産に対しての3%を報酬として電力会社が受け取ることができるのだが、その資産の中には核廃棄物も含まれているからである。すなわち、原発を再稼働させて、ゴミである核廃棄物を出せば出すほど儲かる仕組みになっているのである。
ゴミを出せば出すほど、負債ではなく資産として計上できるという会計方式。あまりの馬鹿らしさ、でたらめさ加減にもう開いた口がふさがらない。こんなことをしていて、国が滅びないと考える方がおかしい。この国はこのままでは、確実に滅びるであろう。第二次世界大戦だって、下手したら国が滅びてもおかしいような状況であったのが、米ソの対立等でどうやら存続できたのに、このような歴史の失敗から私の母国は何も学ばずに、また同じ愚を繰り返そうとしている。
これは電力会社は総括原価方式を採っているためであり、これによって、燃料等だけでなくその電力会社の持っている施設を資産とみなし、その資産に対しての3%を報酬として電力会社が受け取ることができるのだが、その資産の中には核廃棄物も含まれているからである。すなわち、原発を再稼働させて、ゴミである核廃棄物を出せば出すほど儲かる仕組みになっているのである。
ゴミを出せば出すほど、負債ではなく資産として計上できるという会計方式。あまりの馬鹿らしさ、でたらめさ加減にもう開いた口がふさがらない。こんなことをしていて、国が滅びないと考える方がおかしい。この国はこのままでは、確実に滅びるであろう。第二次世界大戦だって、下手したら国が滅びてもおかしいような状況であったのが、米ソの対立等でどうやら存続できたのに、このような歴史の失敗から私の母国は何も学ばずに、また同じ愚を繰り返そうとしている。
青葉台に(おそらく)生まれて初めて行く [都市デザイン]
田園都市線の青葉台を訪れる。おそらく、生まれて初めてだと思われる。もしかしたら、以前、高校時代とかに訪れたことがあったかもしれない。しかし、そうだとしても30年ぐらい前の話だ。今の青葉台とは全然、様子は違うであろう。
私は豊島区で生まれ、途中、アメリカで過ごしたが、中学の時に目黒区に引っ越して、高校の途中でまた豊島区に戻り、社会人になって大学院に留学した後は杉並区に住んだ。ということで、三浦展さん風に言えば、東京では第三山手の環状七号線のそばに住んできたと言えるであろう。
田園都市線は中学一年の時に、渋谷と二子玉川が開通したので、よく覚えている。開通した日に、記念スタンプを押すために、すべての駅に降りたりした。駅がすべて違う色でデザインされていたのがお洒落だなと思ったことを覚えている。
さて、しかし多摩川の先はまったく関心がなかった。多摩川の先はなんか、すべて同じ東急が開発した金太郎飴的な住宅地が展開しているだけであろう、という印象を抱いていたし、実際、沿線の車窓は西武池袋線、中央線、小田急線などと比べると遙かに凡庸でつまらないという感想しか抱いていなかった。これは西武池袋線が飯能を越えて、秩父へ向かうことや、小田急が丹沢を右に見ながら箱根に向かうこと、さらには東武日光線が日光へ向かうといった旅情を刺激するのに対して、田園都市線はつきみ野というなんか中途半端なところにしか行かず、興味を惹かなかったからである。まだ京急に乗った方が楽しいぐらいだと思っていた。私は、そこそこ鉄道に乗るのが好きだったが、それは風光明媚な地方へ連れて行ってくれるといった旅の魅力に惹かれていたからであって、そのような魅力に乏しい田園都市線に乗ったとしても駅に降りようと思ったこともなければ、地理的な関心を抱くようなこともなかった。
ということで、青葉台が田園都市線の中でも高級住宅地であると一般的に認知されているとは迂闊にも気づかなかったのである。それに気づかされたのは、東浩紀と北田暁大の『東京から考える』を読んだからで、そこで主に東が青葉台を持ち上げまくっているので、へえ、それは見ないといけないと思って訪問したのである。
東浩紀は1982年、すなわち彼が11歳の頃、この青葉台に引っ越してきてそれから15年ほどここに住んだそうだ。青葉台の開発は1966年。その頃に駅前のニュータウンもできたそうである。東は同書でこう述べている。
「住民は高級住宅地のイメージに惹かれて住宅を買い、そのイメージが実際にロケされてドラマに登場する、そしてまたそのイメージが街に再導入されて、店や住宅のデザインが決まっていく、みたいな再帰的な強化の構造がある」(p.86)。
「渋谷がオンライン・ロールプレイングゲームの世界だとすれば、青葉台こそテーマパークの世界。汚いもの、古いものが徹底して隠されているという感じがする」(p.88)。
「僕の青葉台の体験では、むしろ郊外は裂け目がないがゆえに快適なんですよ。「窒素しそう」なのは外部に見えて、にもかかわらず閉じ込められているからですよね。そういう状態ではないのです」(p.92)
結構、これは東急の郊外住宅地の中では、そうとうしっかりと作り込まれた街なのではないか、と大いに期待して訪れたのである。
青葉台には246で行く。私は多摩川を越えた後(いや、よく考えたら渋谷から二子玉までの高速道路の下も嫌いだが)の246に展開する光景が本当に嫌いだ。この醜さは何なのだろうと思う。そもそも、建物と道路の配置がめちゃくちゃである。あたかも既存の都市を246が文脈をも考慮せずにぶったぎったかのような印象を与える。国道16号などの景観も好きではないが、この246ほど醜くはない。国道6号も大学時代によく通ったが、246に比べればずっと詩情がある。
こんな246の先に、上記のような快適でテーマパーク的な住宅地がつくられているのも変な感じだが、まあ、そういうこともあるのかなと思っていると、青葉台に着く。さて、青葉台は、私が期待していたものとはまったく異なる、どちらかというと計画がしっかりとされていないだらしない郊外住宅地であった。裂け目的な場所はすぐ目についたが、特に違和感を覚えたのは駅前の雑居ビルに多くのキャバクラ的なソフトな風俗店が入っていたことである。私が今、住んでいる都立大学にはない業態である。全然、テーマパークの世界とは縁遠く、むしろ、私の家のそばにある桜新町の方が、街の文脈としてはテーマ性を持って、かつ空間デザインもされていると思うくらいだ。ここを高級住宅地として思えるというのは、よっぽどの楽天家か自意識が強くないと難しいのではないかと思わせられた。いくら、ここのそばで「金妻」のロケがされたとしても、ちょっと、この空間で暮らしていて、自分達はセレブであると思えるとしたら、相当お目出度いであろうし、ここで暮らしていて「窒息しそう」と思えなかったのは、私からしたら羨ましい。
私がここで中学時代、高校時代を暮らしたら、確実にロック音楽とかに猛進するか親殺しをするか、自殺をすることになるのではないかと思わせられる。そういう禍々しさを私はこの地で感じたのである。しかし、この空虚さは何かをうまく説明することはできない。
私が高校時代、住んでいた豊島区の東長崎は、汚くてずっと嫌いであったが、それでもこの青葉台よりは快適で落ち着くものがある。それは、おそらく神社や千川上水の名残の桜並木的なものや、なんか訳の分からない店などが集まっていた商店街などであったと思われるのである。そのようなものが、私が歩いた範囲の青葉台には見られなかった。そして、青葉台は圧倒的に自動車が幅を利かせている。青葉台とかだと自然は豊かなのではないかというイメージを持つと思うのだが、実際、訪れると、住宅開発されたところは恐ろしく緑が少ない。高級住宅地でのイメージで住宅を売ろうとしている割には、家と家の間隔が狭すぎる。はっきりいって貧相である。貧相であるくせに、自由な呼吸を高校生にさせないような、綿で首を絞めるような嫌らしさを、私は直感的にここで感じ取ってしまったのである。それは、この土地の地霊と分断させた開発をさせたためなのではないかと思ったりもする。センス・オブ・プレイスが、大規模開発、大企業による利益重視の開発のために看過されたことの代償ともいえるであろうか。この禍々しさは、子供の国の辺りの林にいくとすっと消えたことからも、そういうことなのかもしれない。

(まったくもって青葉台の風土性とは関係性のない、地中海風デザインの安普請の一戸建て住宅。確かにショッピング・モール的なイメージ消費的なコンセプトでつくられた住宅ではある)

(下北沢よりずっとバリアフリーで歩きやすいと東浩紀はその著書で述べていたが、この歩道というか、車道だけのぎりぎりのスペースしかないこの道路のどこがバリアフリーなのであろうか)

(自動車が幅を利かせている住宅地のどこがテーマパーク的なのだろうか。テーマパークの一つの特徴は自動車が入り込まないことであると認識する私としては納得できにくい)

(計画的につくられたといったイメージがあったが、実態は駅前のそばでも農地と高級そうなマンションと最低クラスのアパートとが混在するような状況にある)

(高級住宅地との噂とは違い、家の間隔が恐ろしく狭い。まったく空間的な余裕をつくる経済的な豊かさが感じられない住宅のつくり。郊外だから土地が豊かに使える訳ではないことを知る)

(駅前には熟女クラブが雑居ビルに入っていたりして、どこが汚れたものを排除していると指摘できるのかは不思議)

(高級住宅地としてのイメージづくりからか、明治屋やスーパー成城が出店していたりするが、雑居ビルにはサイゼリヤ、笑笑などのチープ感溢れるテナントが出店していたりもする)。

(高圧線は成城などにも走っているが、この郊外との景観に悪い意味で妙にマッチしている)

(建物の色規制はどうもされていないようですな)

(崖につくられたからか、歩道沿いはコンクリートが連なる。歩いていて楽しくなく、また防災面でも心配させられる。余計なお世話かもしれないが)
この程度の住宅地が高級住宅地としてマーケティングできてしまうことに、東京の貧しさをつくづく感じてしまい、私は随分と沈んだ気持ちで青葉台を後にした。
私は豊島区で生まれ、途中、アメリカで過ごしたが、中学の時に目黒区に引っ越して、高校の途中でまた豊島区に戻り、社会人になって大学院に留学した後は杉並区に住んだ。ということで、三浦展さん風に言えば、東京では第三山手の環状七号線のそばに住んできたと言えるであろう。
田園都市線は中学一年の時に、渋谷と二子玉川が開通したので、よく覚えている。開通した日に、記念スタンプを押すために、すべての駅に降りたりした。駅がすべて違う色でデザインされていたのがお洒落だなと思ったことを覚えている。
さて、しかし多摩川の先はまったく関心がなかった。多摩川の先はなんか、すべて同じ東急が開発した金太郎飴的な住宅地が展開しているだけであろう、という印象を抱いていたし、実際、沿線の車窓は西武池袋線、中央線、小田急線などと比べると遙かに凡庸でつまらないという感想しか抱いていなかった。これは西武池袋線が飯能を越えて、秩父へ向かうことや、小田急が丹沢を右に見ながら箱根に向かうこと、さらには東武日光線が日光へ向かうといった旅情を刺激するのに対して、田園都市線はつきみ野というなんか中途半端なところにしか行かず、興味を惹かなかったからである。まだ京急に乗った方が楽しいぐらいだと思っていた。私は、そこそこ鉄道に乗るのが好きだったが、それは風光明媚な地方へ連れて行ってくれるといった旅の魅力に惹かれていたからであって、そのような魅力に乏しい田園都市線に乗ったとしても駅に降りようと思ったこともなければ、地理的な関心を抱くようなこともなかった。
ということで、青葉台が田園都市線の中でも高級住宅地であると一般的に認知されているとは迂闊にも気づかなかったのである。それに気づかされたのは、東浩紀と北田暁大の『東京から考える』を読んだからで、そこで主に東が青葉台を持ち上げまくっているので、へえ、それは見ないといけないと思って訪問したのである。
東浩紀は1982年、すなわち彼が11歳の頃、この青葉台に引っ越してきてそれから15年ほどここに住んだそうだ。青葉台の開発は1966年。その頃に駅前のニュータウンもできたそうである。東は同書でこう述べている。
「住民は高級住宅地のイメージに惹かれて住宅を買い、そのイメージが実際にロケされてドラマに登場する、そしてまたそのイメージが街に再導入されて、店や住宅のデザインが決まっていく、みたいな再帰的な強化の構造がある」(p.86)。
「渋谷がオンライン・ロールプレイングゲームの世界だとすれば、青葉台こそテーマパークの世界。汚いもの、古いものが徹底して隠されているという感じがする」(p.88)。
「僕の青葉台の体験では、むしろ郊外は裂け目がないがゆえに快適なんですよ。「窒素しそう」なのは外部に見えて、にもかかわらず閉じ込められているからですよね。そういう状態ではないのです」(p.92)
結構、これは東急の郊外住宅地の中では、そうとうしっかりと作り込まれた街なのではないか、と大いに期待して訪れたのである。
青葉台には246で行く。私は多摩川を越えた後(いや、よく考えたら渋谷から二子玉までの高速道路の下も嫌いだが)の246に展開する光景が本当に嫌いだ。この醜さは何なのだろうと思う。そもそも、建物と道路の配置がめちゃくちゃである。あたかも既存の都市を246が文脈をも考慮せずにぶったぎったかのような印象を与える。国道16号などの景観も好きではないが、この246ほど醜くはない。国道6号も大学時代によく通ったが、246に比べればずっと詩情がある。
こんな246の先に、上記のような快適でテーマパーク的な住宅地がつくられているのも変な感じだが、まあ、そういうこともあるのかなと思っていると、青葉台に着く。さて、青葉台は、私が期待していたものとはまったく異なる、どちらかというと計画がしっかりとされていないだらしない郊外住宅地であった。裂け目的な場所はすぐ目についたが、特に違和感を覚えたのは駅前の雑居ビルに多くのキャバクラ的なソフトな風俗店が入っていたことである。私が今、住んでいる都立大学にはない業態である。全然、テーマパークの世界とは縁遠く、むしろ、私の家のそばにある桜新町の方が、街の文脈としてはテーマ性を持って、かつ空間デザインもされていると思うくらいだ。ここを高級住宅地として思えるというのは、よっぽどの楽天家か自意識が強くないと難しいのではないかと思わせられた。いくら、ここのそばで「金妻」のロケがされたとしても、ちょっと、この空間で暮らしていて、自分達はセレブであると思えるとしたら、相当お目出度いであろうし、ここで暮らしていて「窒息しそう」と思えなかったのは、私からしたら羨ましい。
私がここで中学時代、高校時代を暮らしたら、確実にロック音楽とかに猛進するか親殺しをするか、自殺をすることになるのではないかと思わせられる。そういう禍々しさを私はこの地で感じたのである。しかし、この空虚さは何かをうまく説明することはできない。
私が高校時代、住んでいた豊島区の東長崎は、汚くてずっと嫌いであったが、それでもこの青葉台よりは快適で落ち着くものがある。それは、おそらく神社や千川上水の名残の桜並木的なものや、なんか訳の分からない店などが集まっていた商店街などであったと思われるのである。そのようなものが、私が歩いた範囲の青葉台には見られなかった。そして、青葉台は圧倒的に自動車が幅を利かせている。青葉台とかだと自然は豊かなのではないかというイメージを持つと思うのだが、実際、訪れると、住宅開発されたところは恐ろしく緑が少ない。高級住宅地でのイメージで住宅を売ろうとしている割には、家と家の間隔が狭すぎる。はっきりいって貧相である。貧相であるくせに、自由な呼吸を高校生にさせないような、綿で首を絞めるような嫌らしさを、私は直感的にここで感じ取ってしまったのである。それは、この土地の地霊と分断させた開発をさせたためなのではないかと思ったりもする。センス・オブ・プレイスが、大規模開発、大企業による利益重視の開発のために看過されたことの代償ともいえるであろうか。この禍々しさは、子供の国の辺りの林にいくとすっと消えたことからも、そういうことなのかもしれない。

(まったくもって青葉台の風土性とは関係性のない、地中海風デザインの安普請の一戸建て住宅。確かにショッピング・モール的なイメージ消費的なコンセプトでつくられた住宅ではある)

(下北沢よりずっとバリアフリーで歩きやすいと東浩紀はその著書で述べていたが、この歩道というか、車道だけのぎりぎりのスペースしかないこの道路のどこがバリアフリーなのであろうか)

(自動車が幅を利かせている住宅地のどこがテーマパーク的なのだろうか。テーマパークの一つの特徴は自動車が入り込まないことであると認識する私としては納得できにくい)

(計画的につくられたといったイメージがあったが、実態は駅前のそばでも農地と高級そうなマンションと最低クラスのアパートとが混在するような状況にある)

(高級住宅地との噂とは違い、家の間隔が恐ろしく狭い。まったく空間的な余裕をつくる経済的な豊かさが感じられない住宅のつくり。郊外だから土地が豊かに使える訳ではないことを知る)

(駅前には熟女クラブが雑居ビルに入っていたりして、どこが汚れたものを排除していると指摘できるのかは不思議)

(高級住宅地としてのイメージづくりからか、明治屋やスーパー成城が出店していたりするが、雑居ビルにはサイゼリヤ、笑笑などのチープ感溢れるテナントが出店していたりもする)。

(高圧線は成城などにも走っているが、この郊外との景観に悪い意味で妙にマッチしている)

(建物の色規制はどうもされていないようですな)

(崖につくられたからか、歩道沿いはコンクリートが連なる。歩いていて楽しくなく、また防災面でも心配させられる。余計なお世話かもしれないが)
この程度の住宅地が高級住宅地としてマーケティングできてしまうことに、東京の貧しさをつくづく感じてしまい、私は随分と沈んだ気持ちで青葉台を後にした。
タグ:青葉台
本を読むのに何でエネルギーを遣う必要があるのか、と電子書籍の普及に対して思う [サステイナブルな問題]
電子書籍が普及し始めている。古本屋で目当ての本を探すのに苦労した人などにとっては朗報であろう。しかし、文藝春秋も電子ブックの形式で売り出しているような状況になったりすると、ちょっと考えさせられてしまうことも少なくない。それは、本や雑誌を読むために、わざわざエネルギーを消費することもないだろうということだ。まあ、その消費エネルギーは大したことはないだろうし、本をつくるのにもエネルギーはかかると言われればその通りなのだが、それでも読むのに電気を浪費するというのは無駄なことだと思うのである。
さらに、これはエネルギーとは直接、関係ないかもしれないが私が気になるのは、飛行機の発着時においてである。飛行機の発着時においても、iPadで電子書籍を読み続ける人が多いことは結構、気になる。これに関しては日本人は比較的お行儀がよいが、アメリカ人はマナーがなっていない人が多すぎる。電気機器は電気を落とせとアナウンスされていても、まったく無視して、iPadで電子書籍を読んでいる。私が注意をしたりすると、平気で逆ギレされたりして、本当、アメリカ人は野蛮であるなと思わさせられる。私は飛行機の中では、普通に本を読んでいるので誰にも迷惑をかけていないのだが、なんで飛行機でもあえて電子書籍を周りの人達にまで迷惑をかけて読まなくてはいけないのか理解に苦しむ。本当、電子書籍はエネルギーを使うし、無駄な行為ではないかと思う。
電子書籍が好きな人は、一生懸命、「自炊」という行為で本を裁断してスキャニング(これもエネルギーを消費する)して、本が軽くなったと得意に吹聴したりするが、私ははっきりいって愚行そのものだなと思ったりする。私は、蔵書が多い。これはこれで問題だとは思うが、本の背表紙は私の記憶の外部装置である。本の背表紙をみながら思考をしたりする。これは、iPadのBookreaderや、コンピューターのウィンドウ機能では決して代替できないものだ。そして、私は本やCDやDVDに囲まれている空間によって癒されるのである。これは本屋やレコード屋でも感じられることで、確かにamazonで購入することは多いが、それでも時折、本屋やレコード屋に行くのは、そこで自分が想像もしなかった興味深い本や、以前、欲しかったけど購入し忘れたCDと出会ったりすることを楽しみにしているからだ。
まあ、物体としての本の価値、さらにはそれらを鑑賞することに電気エネルギーを使わないことを考えると、電子書籍はそんな有り難い存在ではないし、私的には古本など「物体としての本」が得られないもの、もしくは「物体としての本としての価値もないもの(例えば、週刊ポストや週刊マガジン)」を入手する以外に使い道は大してないなと思ったりする。
さらに、これはエネルギーとは直接、関係ないかもしれないが私が気になるのは、飛行機の発着時においてである。飛行機の発着時においても、iPadで電子書籍を読み続ける人が多いことは結構、気になる。これに関しては日本人は比較的お行儀がよいが、アメリカ人はマナーがなっていない人が多すぎる。電気機器は電気を落とせとアナウンスされていても、まったく無視して、iPadで電子書籍を読んでいる。私が注意をしたりすると、平気で逆ギレされたりして、本当、アメリカ人は野蛮であるなと思わさせられる。私は飛行機の中では、普通に本を読んでいるので誰にも迷惑をかけていないのだが、なんで飛行機でもあえて電子書籍を周りの人達にまで迷惑をかけて読まなくてはいけないのか理解に苦しむ。本当、電子書籍はエネルギーを使うし、無駄な行為ではないかと思う。
電子書籍が好きな人は、一生懸命、「自炊」という行為で本を裁断してスキャニング(これもエネルギーを消費する)して、本が軽くなったと得意に吹聴したりするが、私ははっきりいって愚行そのものだなと思ったりする。私は、蔵書が多い。これはこれで問題だとは思うが、本の背表紙は私の記憶の外部装置である。本の背表紙をみながら思考をしたりする。これは、iPadのBookreaderや、コンピューターのウィンドウ機能では決して代替できないものだ。そして、私は本やCDやDVDに囲まれている空間によって癒されるのである。これは本屋やレコード屋でも感じられることで、確かにamazonで購入することは多いが、それでも時折、本屋やレコード屋に行くのは、そこで自分が想像もしなかった興味深い本や、以前、欲しかったけど購入し忘れたCDと出会ったりすることを楽しみにしているからだ。
まあ、物体としての本の価値、さらにはそれらを鑑賞することに電気エネルギーを使わないことを考えると、電子書籍はそんな有り難い存在ではないし、私的には古本など「物体としての本」が得られないもの、もしくは「物体としての本としての価値もないもの(例えば、週刊ポストや週刊マガジン)」を入手する以外に使い道は大してないなと思ったりする。
タグ:電子書籍
EXILEの東京のオリンピック招致ポスターは、イメージ戦略的には失敗ではないか [グローバルな問題]
EXILEが東京のオリンピック招致を応援し、広報にも協力している。
http://www.koho.metro.tokyo.jp/koho/2012/04/olympic2020.htm
結構、街中でもポスターが貼られているので目にした人も多いと思われる。
このポスターを見て、私はちょっと違和感を覚えたのである。その違和感はあまりうまく言語化できなかったのだが、これじゃあ今回もオリンピック招致は失敗だなと思わせるようなものであった。
(出所:東京都ホームページ)
さて、その理由を先日、アメリカ人の留学生と話をしていて理解できた。それは、彼がEXILEの風貌は「やくざやギャングみたい」だと指摘したからだ。確かに、その通りなのだ。EXILEの芸術性はともかくとして、その風貌は、欧米からみると映画『ライジング・サン』で描かれている、ちょっと理解不能な日本人を想起させるようなものなのだ。共感というより、むしろ反感を覚えるようなイメージである。
もちろん、中にはタランティーノのように、そういうものに惹かれる外国人も少なくないだろうが、オリンピック招致という肯定的なイメージを内外の人に与えるのには、人選ミスなのではないかと思ってしまうのである。これはEXILEが世界的にはあまり認知されていない、ということもあるかもしれない。
またEXILEの音楽はヒップ・ホップの分野に属すると思われるのだが、これは極めて日本的ではなく、アフリカ系アメリカ人の音楽である。アメリカ人であっても、白人がやると馬鹿にされるというか、オーセンティックではないと思われるのに、それを日本人、そして黄色人種がやっている。それは日本人にはOKなことだが、海外においては模倣としか思われないであろう。そういうグループを国内での候補地の選考でならともかくとして、国際的な競争において持ってくることは賢明ではないと思われるのである。というのは、このような国際的な選考争いにおいては、その国のアイデンティティ、それも他国が認識するアイデンティティを強烈に訴えていくことが重要であるからだ。ここでの、アイデンティティとはオリジナル性が強く求められる。そういう意味で、国際的に通用しているイメージ、イコンを用いることが極めて重要であるのだが、残念ながら、EXILEはその条件を満たしていないだけでなく、彼ら自体はともかくとして、風貌等のイメージが日本にとっては国際的にマイナスである「やくざ・ギャング」的なものを想起させるという点でさらにミスであると思うのである。
これは、ナポリやローマがオリンピック招致をしようとした時、マフィアをイメージさせるアーティストを利用したらマイナスであることと同じである。
EXILEに対しては、特に何の感情も持っていないが、また100億円に近い広報費を使うのであるのだから、ちょっと賢明に国際的な視点ということを考えてもらいたいと一都民として思う。大阪の時も前回の東京の時も、オリンピックの広報の担当とお話をさせてもらったことがあるが、失礼な言い方ではあるが国際的な視点が欠けていた。前回は東京都の委員をさせてもらったので、ある程度、私の意見を伝えることはできたが、今回はそういう立場にはない。しかし、ちょっとEXILEのポスターは外していると思うので、このブログで書かせてもらう。このような問題意識を持ってしまうのは、3月にマドリッドを訪れたこととも関係あるかもしれない。どうやって、マドリッドに勝てるのか、そのシナリオが描けないからだ。唯一の弱点といえば、経済不況であるかもしれないが、東京は放射能汚染という超マイナス・イメージもあるからなあ。石原さんを選んでしまった都民の責任といえばそれまでだが(もちろん、私は投票していないが)、それにしてもどうせ金を無駄にするにしても、ちょっとは考えてお金を使って貰いたいと思うのである。
EXILEファンにとっては面白くないコメントで恐縮だが、これは私だけでなく、おそらく多くのEXILEをあまり知らない外国人が抱くイメージであるということを理解してもらえればと思うのである。
http://www.koho.metro.tokyo.jp/koho/2012/04/olympic2020.htm
結構、街中でもポスターが貼られているので目にした人も多いと思われる。
このポスターを見て、私はちょっと違和感を覚えたのである。その違和感はあまりうまく言語化できなかったのだが、これじゃあ今回もオリンピック招致は失敗だなと思わせるようなものであった。
(出所:東京都ホームページ)さて、その理由を先日、アメリカ人の留学生と話をしていて理解できた。それは、彼がEXILEの風貌は「やくざやギャングみたい」だと指摘したからだ。確かに、その通りなのだ。EXILEの芸術性はともかくとして、その風貌は、欧米からみると映画『ライジング・サン』で描かれている、ちょっと理解不能な日本人を想起させるようなものなのだ。共感というより、むしろ反感を覚えるようなイメージである。
もちろん、中にはタランティーノのように、そういうものに惹かれる外国人も少なくないだろうが、オリンピック招致という肯定的なイメージを内外の人に与えるのには、人選ミスなのではないかと思ってしまうのである。これはEXILEが世界的にはあまり認知されていない、ということもあるかもしれない。
またEXILEの音楽はヒップ・ホップの分野に属すると思われるのだが、これは極めて日本的ではなく、アフリカ系アメリカ人の音楽である。アメリカ人であっても、白人がやると馬鹿にされるというか、オーセンティックではないと思われるのに、それを日本人、そして黄色人種がやっている。それは日本人にはOKなことだが、海外においては模倣としか思われないであろう。そういうグループを国内での候補地の選考でならともかくとして、国際的な競争において持ってくることは賢明ではないと思われるのである。というのは、このような国際的な選考争いにおいては、その国のアイデンティティ、それも他国が認識するアイデンティティを強烈に訴えていくことが重要であるからだ。ここでの、アイデンティティとはオリジナル性が強く求められる。そういう意味で、国際的に通用しているイメージ、イコンを用いることが極めて重要であるのだが、残念ながら、EXILEはその条件を満たしていないだけでなく、彼ら自体はともかくとして、風貌等のイメージが日本にとっては国際的にマイナスである「やくざ・ギャング」的なものを想起させるという点でさらにミスであると思うのである。
これは、ナポリやローマがオリンピック招致をしようとした時、マフィアをイメージさせるアーティストを利用したらマイナスであることと同じである。
EXILEに対しては、特に何の感情も持っていないが、また100億円に近い広報費を使うのであるのだから、ちょっと賢明に国際的な視点ということを考えてもらいたいと一都民として思う。大阪の時も前回の東京の時も、オリンピックの広報の担当とお話をさせてもらったことがあるが、失礼な言い方ではあるが国際的な視点が欠けていた。前回は東京都の委員をさせてもらったので、ある程度、私の意見を伝えることはできたが、今回はそういう立場にはない。しかし、ちょっとEXILEのポスターは外していると思うので、このブログで書かせてもらう。このような問題意識を持ってしまうのは、3月にマドリッドを訪れたこととも関係あるかもしれない。どうやって、マドリッドに勝てるのか、そのシナリオが描けないからだ。唯一の弱点といえば、経済不況であるかもしれないが、東京は放射能汚染という超マイナス・イメージもあるからなあ。石原さんを選んでしまった都民の責任といえばそれまでだが(もちろん、私は投票していないが)、それにしてもどうせ金を無駄にするにしても、ちょっとは考えてお金を使って貰いたいと思うのである。
EXILEファンにとっては面白くないコメントで恐縮だが、これは私だけでなく、おそらく多くのEXILEをあまり知らない外国人が抱くイメージであるということを理解してもらえればと思うのである。
関電は、原発なしで電力を供給する責任を果たすか、地域独占の権利を放棄するか、白黒つけるべきだ [原発問題]
大飯原発が再稼働なら関電の電力不足は解決と政府委員会で報告があったことを産経新聞のウェブニュースが伝えている(http://sankei.jp.msn.com/life/news/120510/trd12051010080005-n1.htm)。
以下、引用。
政府は10日、今夏の電力不足の状況について協議する「需給検証委員会」の5回目の会合で、関西電力大飯原子力発電所(福井県おおい町)3、4号機が再稼働された場合、今夏の関電管内の電力不足がゼロまで改善するとの試算を公表した。
試算によると、原発再稼働がない場合、需給逼迫時に電力供給を止められる随時調整契約の効果を見込んでも、関電管内の電力不足は445万キロワットとなる。電力需要に対する供給余力を示す予備率はマイナス14・9%となる見通しだ。
一方、大飯原発3、4号機が再稼働すれば、供給力は合計236万キロワット上積みされる。また夜間にくみ上げた水で水力発電を行う揚水発電の効果も210万キロワット分増すため、電力需給は1万キロワットの余裕が生じ、予備率は0%まで改善する。
引用終わり。
電力会社は電気事業法で名目上はともかく実質的には地域独占が許されている。一応、自由化が謳われているが、2003年の電気事業法改正においても、「電気の安定供給確保のための発送電一貫体制の堅持」が図られたので、送電を押さえている電気事業を独占していた会社と競争することはほとんど不可能であったからだ。発送電分離が強く、求められる所以である。
このように極めて不公平に電力事業を営める権利を有している電力会社は、当然、電力をしっかりと供給する責任を負う。この責任を原子力発電が稼働できないことを理由に放棄するような態度は許されるものではない。そもそも、この原子力発電が稼働できなくなっているのは、あの程度の状況で爆発を許した電力会社の原発管理の甘さと無責任さにあるのだ。電力会社は自分で自分の首を絞めているのに、何を関電はいい加減なことを言っているのだと思わずにはいられない。
しかも、他電力会社から電力融通する余裕があるのに、それをろくに検討しない。その理由は、「他社が顧客に節電を頼むのは心苦しい」からだと関電幹部は述べたりしているそうだ。そんなことをしなくても、国民はせっせと節電していますよ。というか、本当、このブログでも何回も書いているのだが、外国に比べると、日本は電力を無駄に遣いすぎである。ドイツなんか、そういう意味で節電は徹底している。アメリカは相当、無駄に電力を使う国ではあるが、それでも、震災後においても東京や大阪の夜はマンハッタンのそれよりも明るい(タイムズ・スクエアだけをみればそれほど違いはないかもしれないが、地区全体ではそうだ)。つまり、節電する余地が大いにあるということだ。その分、関西の人が困っていれば、当然、融通する人がほとんどであろう。
関電は、原発なしでも、しっかりと電力を供給する責任を果たすか、それができなければ、地域独占の権利を放棄するか(すなわち、発送電分離をする)のどちらかを選ぶべきであろう。
東日本がこれだけやられている状況においては、西日本が頑張ってくれるしかないのだが、こういう姑息で馬鹿な取引をやっていると、やっぱり西日本が引っ張る日本は駄目じゃん、ということになりかねない。
以下、引用。
政府は10日、今夏の電力不足の状況について協議する「需給検証委員会」の5回目の会合で、関西電力大飯原子力発電所(福井県おおい町)3、4号機が再稼働された場合、今夏の関電管内の電力不足がゼロまで改善するとの試算を公表した。
試算によると、原発再稼働がない場合、需給逼迫時に電力供給を止められる随時調整契約の効果を見込んでも、関電管内の電力不足は445万キロワットとなる。電力需要に対する供給余力を示す予備率はマイナス14・9%となる見通しだ。
一方、大飯原発3、4号機が再稼働すれば、供給力は合計236万キロワット上積みされる。また夜間にくみ上げた水で水力発電を行う揚水発電の効果も210万キロワット分増すため、電力需給は1万キロワットの余裕が生じ、予備率は0%まで改善する。
引用終わり。
電力会社は電気事業法で名目上はともかく実質的には地域独占が許されている。一応、自由化が謳われているが、2003年の電気事業法改正においても、「電気の安定供給確保のための発送電一貫体制の堅持」が図られたので、送電を押さえている電気事業を独占していた会社と競争することはほとんど不可能であったからだ。発送電分離が強く、求められる所以である。
このように極めて不公平に電力事業を営める権利を有している電力会社は、当然、電力をしっかりと供給する責任を負う。この責任を原子力発電が稼働できないことを理由に放棄するような態度は許されるものではない。そもそも、この原子力発電が稼働できなくなっているのは、あの程度の状況で爆発を許した電力会社の原発管理の甘さと無責任さにあるのだ。電力会社は自分で自分の首を絞めているのに、何を関電はいい加減なことを言っているのだと思わずにはいられない。
しかも、他電力会社から電力融通する余裕があるのに、それをろくに検討しない。その理由は、「他社が顧客に節電を頼むのは心苦しい」からだと関電幹部は述べたりしているそうだ。そんなことをしなくても、国民はせっせと節電していますよ。というか、本当、このブログでも何回も書いているのだが、外国に比べると、日本は電力を無駄に遣いすぎである。ドイツなんか、そういう意味で節電は徹底している。アメリカは相当、無駄に電力を使う国ではあるが、それでも、震災後においても東京や大阪の夜はマンハッタンのそれよりも明るい(タイムズ・スクエアだけをみればそれほど違いはないかもしれないが、地区全体ではそうだ)。つまり、節電する余地が大いにあるということだ。その分、関西の人が困っていれば、当然、融通する人がほとんどであろう。
関電は、原発なしでも、しっかりと電力を供給する責任を果たすか、それができなければ、地域独占の権利を放棄するか(すなわち、発送電分離をする)のどちらかを選ぶべきであろう。
東日本がこれだけやられている状況においては、西日本が頑張ってくれるしかないのだが、こういう姑息で馬鹿な取引をやっていると、やっぱり西日本が引っ張る日本は駄目じゃん、ということになりかねない。
郊外はこれからどうなる [書評]
本書の「はじめに」で、著者は東浩紀と北田暁大の『東京から考える- 格差・郊外・ナショナリズム』を引き合いに出し、「ところがよく読んでいくと、(東浩紀と北田暁大が)基本的なことを知らずに議論している点が目について、「これで読者が東京を考えた気になられても困るな」とも思いました」と述べ、「東京郊外を考えるための最低限の基礎知識が身につく、入門書を書こうと思ってつくったのが本書です」としている。私も、東浩紀と北田暁大の同書は、北田はともかく東は、基礎的な郊外理解ができていないな、と思っていたので、著者の指摘は非常に納得がいった。そして、実際、本書の内容は、最近でこそ「下流社会」の著者として知られているが、雑誌『アクロス』の編集長時代から、現在までに30年近くにも及ぶ郊外研究者としての著者の集大成的な内容となっており、まさに東京郊外の入門書として極めて有益な内容となっている。本書を読んで思うのは、著者の三浦展は類い希なる編集能力の持ち主であるということだ。まあ、20代後半であの伝説的なマーケティング雑誌『アクロス』の編集長となり、「大いなる迷走」、「東京の侵略」といった名著を生み出したことを考えれば、編集能力があるのは当たり前なのであるが、本書は、三浦が三浦自身の郊外研究のキャリア・ヒストリーを見事に編集した内容となっていて、見事にコンパクトに、しかも分かりやすく東京の郊外の変遷が理解できるものとなっている。本書はページ数こそ少ないが、三浦展という郊外研究者そして編集者の凄みが伝わってくる名著であると思われる。
タグ:三浦展 郊外はこれからどうなる
岡崎京子「PINK」 [書評]
内閣府原子力委員会が「(原子力と)地域社会との共生」を議案から外した疑惑 [原発問題]
今日付け(5月8日)の毎日新聞のウェブ記事のよれば、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)再稼働の妨げになるとして、内閣府原子力委員会が4月、有識者によって長期的な原子力政策を決める原子力委の「新大綱策定会議」(議長・近藤駿介原子力委員長)の議案の一つから「(原子力と)地域社会との共生」を外していたそうだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120508-00000012-mai-soci
ううむ、これでは、まるで自民党政権の時と同じではないか。まあ、要するにそういうことなのだな。いや、どういうことかといえば、原子力と地域社会は共生できないということである。まあ、原子力と地域社会が共生できないことなどは、映画「祝の島」を観るとよく分かるが、それを政府も認め、そのような無理難題は無視してしまおうということだ。原発立地で得するのは、立地する自治体だけ。いや、この得をするというのも短期的に金を貰うというだけで、メフィストテレスに魂を売るような行為。しかし、ファウストは自業自得で自分だけが悲惨な最期を遂げるが、原発の場合はその周囲をも悲惨な目に遭わせる。飯舘村などがその最たるものであろう。周辺社会が意見を言う権利があるのは当然であろう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120508-00000012-mai-soci
ううむ、これでは、まるで自民党政権の時と同じではないか。まあ、要するにそういうことなのだな。いや、どういうことかといえば、原子力と地域社会は共生できないということである。まあ、原子力と地域社会が共生できないことなどは、映画「祝の島」を観るとよく分かるが、それを政府も認め、そのような無理難題は無視してしまおうということだ。原発立地で得するのは、立地する自治体だけ。いや、この得をするというのも短期的に金を貰うというだけで、メフィストテレスに魂を売るような行為。しかし、ファウストは自業自得で自分だけが悲惨な最期を遂げるが、原発の場合はその周囲をも悲惨な目に遭わせる。飯舘村などがその最たるものであろう。周辺社会が意見を言う権利があるのは当然であろう。
タグ:祝の島
松山市はエコシティという観点からは日本の中でも先端に位置づけられるであろう [都市デザイン]
四国で一番大きな都市は高松市だと思っていたのだが、実は松山市であった。松山市の人口は51万を越えている。それに比して、高松市は42万人弱。市町村合併等でいつの間にか抜かれたのかとも思ったが、そうではなく常に松山市が四国最大であった。これは私だけの誤解かもしれないが、高松市の方が大きいと思ってしまうのは、多くの支店や国の支所が高松市に立地していることとが私の誤解を招いてしまったのかもしれない。
松山市の高台にある松山城に上ると、松山市内が展望できる。とても美しい構造をしていることがわかる。松山市はコンパクトシティを目指しているようだが、大通り沿いに建物や文化施設が集中して立地しており、そこに都市空間を形成させようとする意図がうかがえる。この都市空間の調和を乱すような高層ビルが乱立するようなこともなく、日本の都市においては珍しく、そこに計画的な意図を読み取れる。細かい点をみれば、問題もあるのだろうが、少なくとも松山城から望む松山市は、結構、美しい。50万人という規模の都市で、このような印象を持ったことはほとんどないかもしれない。しかも、都市を包み込むように周縁部は緑で覆われている。まるでグリーンベルトが都市を囲いこんでいるかのようだ。



これは素晴らしい。伊予鉄道によって、公共交通もそれなりのサービスを提供できている。これをより強化することによって、コンパクトシティのメリットをより享受することができるようになるだろう。ドイツのフライブルクは松山市の姉妹都市である。人口が20万人ちょっとのフライブルクとなぜ、松山市が姉妹都市になったのかは不明だが、しかし、コンパクトシティを指向しているフライブルク市のように、50万人規模の松山市がコンパクトシティを指向することは興味深いし、それなりに意義のある試みであると思われる。
しかし、松山市は四国でも数少ない人口増加傾向にある。これはコンパクトシティを指向することによって、それなりの都市アメニティが確保できているからかもしれないと考えたりもするが、人口増加に対応するのはコンパクトシティという考え方はそれほど有益ではない。むしろ、公共交通軸に沿って、都市の成長を誘導するリニア・シティのコンセプトの方が有効である。そうすることによって、コンパクトな市街地を維持しつつ、秩序だった都市成長を促すことが可能となる。
まだ熊本市や長崎市などとしっかりと比較しないといけないが、私が日本の50万都市クラスでエコシティはどこですか、と外国人に聞かれたら、現時点では松山市が一番、それに近いでしょうと回答するであろう。間違っても青森市や富山市ではない(富山の森市長は陰ながら応援しているので、こういうのはちょっと申し訳ないのであるが、施策面はともかく、実態としては松山市の方がずっとエコシティの条件を満たしていると思われる)。いやはや、松山市を訪れ、日本の都市もそれほど悪くもないな、と思い、ちょっと勇気づけられた。
松山市の高台にある松山城に上ると、松山市内が展望できる。とても美しい構造をしていることがわかる。松山市はコンパクトシティを目指しているようだが、大通り沿いに建物や文化施設が集中して立地しており、そこに都市空間を形成させようとする意図がうかがえる。この都市空間の調和を乱すような高層ビルが乱立するようなこともなく、日本の都市においては珍しく、そこに計画的な意図を読み取れる。細かい点をみれば、問題もあるのだろうが、少なくとも松山城から望む松山市は、結構、美しい。50万人という規模の都市で、このような印象を持ったことはほとんどないかもしれない。しかも、都市を包み込むように周縁部は緑で覆われている。まるでグリーンベルトが都市を囲いこんでいるかのようだ。



これは素晴らしい。伊予鉄道によって、公共交通もそれなりのサービスを提供できている。これをより強化することによって、コンパクトシティのメリットをより享受することができるようになるだろう。ドイツのフライブルクは松山市の姉妹都市である。人口が20万人ちょっとのフライブルクとなぜ、松山市が姉妹都市になったのかは不明だが、しかし、コンパクトシティを指向しているフライブルク市のように、50万人規模の松山市がコンパクトシティを指向することは興味深いし、それなりに意義のある試みであると思われる。
しかし、松山市は四国でも数少ない人口増加傾向にある。これはコンパクトシティを指向することによって、それなりの都市アメニティが確保できているからかもしれないと考えたりもするが、人口増加に対応するのはコンパクトシティという考え方はそれほど有益ではない。むしろ、公共交通軸に沿って、都市の成長を誘導するリニア・シティのコンセプトの方が有効である。そうすることによって、コンパクトな市街地を維持しつつ、秩序だった都市成長を促すことが可能となる。
まだ熊本市や長崎市などとしっかりと比較しないといけないが、私が日本の50万都市クラスでエコシティはどこですか、と外国人に聞かれたら、現時点では松山市が一番、それに近いでしょうと回答するであろう。間違っても青森市や富山市ではない(富山の森市長は陰ながら応援しているので、こういうのはちょっと申し訳ないのであるが、施策面はともかく、実態としては松山市の方がずっとエコシティの条件を満たしていると思われる)。いやはや、松山市を訪れ、日本の都市もそれほど悪くもないな、と思い、ちょっと勇気づけられた。
石鎚山に登頂する [日本百名山]
無謀とも思われる日本百名山への挑戦を今でも続けている私であるが、今回は、中国・四国地方の最高峰である石鎚山にチャレンジした。前日に国民宿舎石鎚に泊まり、当日は朝の6時30分に出発した。ちなみに、この国民宿舎石鎚からだと、バス停留所で石鎚山登山のトレイル・ヘッドである土子屋より数百メートル石鎚山に近い。なんか得した気分である。


さて、天候は霧雨。とはいえ、宿舎を出発した時点では、特に帽子をしなくても気にしないほどのものであった。宿舎からのトレイルはよく整備されており、またアップダウンも少なくとても歩きやすい。快適だな、と思っていたら、雪渓が出てくる。一部、雪渓がトレイルの上まで覆ってしまい、この雪の棚はいつかは落ちるであろうと思いつつも、自分の時に落ちることはあるまい、と雪の上を歩く。さて、このトレイルは石鎚山ロープウェイのトレイルと合流する。その合流点には鳥居がある。そして、その先には、これまでの平坦で快適なトレイルの分を相殺して、さらに請求するかのごとく、恐ろしい鎖場が我々を待ち受けていた。しかも、距離が半端ではない。60メートルはあるだろう。こんなところを私は上った経験はまったくない。おそらく、一人で来たら引き返したと思うのだが、今回は実は5人のチームでこの石鎚山に来ていた。そのうちの一人は石鎚山に60回以上は登っている、石鎚山の仙人のような人である。彼は、「大丈夫、大丈夫、できる、できる」とびびる私を後押ししてくれる。しかし、その後、「滑ったら死ぬから気をつけて下さい」の一言。

まあ、しかし、ここで死んでも本望だ、と最近、投げやりな私は、この鎖場にチャレンジした。その崖はおそらく70度はあるだろう。しかも、強くなってきた雨は、花崗岩の岩壁を濡らし、すこぶる滑りやすくしている。「三点確保」と頭の中で輪唱しつつ、ゆっくりと登っていく。10メートル上がると、もう息が上がる。休憩をして、息を整え、さらに次の10メートルを上がっていく。落ちたら死ぬという緊張感が、アドレナリンを私の体内からフルに出させ、なんとか上までたどり着く。さて、その達成感もつかの間、次の鎖場が出現した。しかも、今度の鎖場は80度ぐらい、というかほとんど壁のような岸壁を、60メートルはある距離、登らせられる。鎖の継ぎ目の空間に足を入れようとするのだが靴が大きくて出来ない。仕方ないので、腕力で登っていく。とはいえ、自分にはそんな腕力がないので、それは相当の難行なのであるが、諦めることもできず、最後まで登り切った。いやはや、その達成感は凄まじいものがある。
この第三の鎖場を越えれば、すぐ石鎚神社。しかし、ここで納得せず、30分ほど歩いて行く天狗岳にまで行く。恐ろしいほどの断崖絶壁を眼下にしつつ、天狗岳にたどり着く。本来なら360度の展望が得られる筈なのだが、生憎、ガスに覆われていてほとんど何も見られない。雨足はさらに強くなっていく。石鎚神社にまで戻り、そこでトマト鍋をつくる。板を横にして風除けにし、上から降る雨は防ぎようがないので、そのままにした状態でつくる。鶏肉とソーセージ、キャベツ、タマネギ、人参など具沢山のトマト鍋はとても美味しい。まあ、これは山の上で食べているからかもしれない。その後、ご飯と卵を入れ、雑炊とする。しかし、雨は強く、二つ目の手袋もずぶ濡れになり寒い。鍋を早々に片付けて、下山する。下山ルートは鎖場の迂回路を通る。この鎖場は下山路もあるが、どんな物好きがそれを試すのであろうか。私はやるメリットはまったく感じられない。


雨の中、下山をするが、下山自体は楽であった。2時間ほどで国民宿舎に戻る。戻った時間は13時ぐらいである。そこから自動車で木の香温泉に寄って、西条駅に着く。西条駅に到着したのは15時30分頃であった。足の裏がちょっと筋肉痛になったが、私のアキレス腱でもある膝、そして太ももの筋肉はまったく大丈夫であった。階段の上り下りをしてきたことが少しは効果があったということであろうか。


さて、天候は霧雨。とはいえ、宿舎を出発した時点では、特に帽子をしなくても気にしないほどのものであった。宿舎からのトレイルはよく整備されており、またアップダウンも少なくとても歩きやすい。快適だな、と思っていたら、雪渓が出てくる。一部、雪渓がトレイルの上まで覆ってしまい、この雪の棚はいつかは落ちるであろうと思いつつも、自分の時に落ちることはあるまい、と雪の上を歩く。さて、このトレイルは石鎚山ロープウェイのトレイルと合流する。その合流点には鳥居がある。そして、その先には、これまでの平坦で快適なトレイルの分を相殺して、さらに請求するかのごとく、恐ろしい鎖場が我々を待ち受けていた。しかも、距離が半端ではない。60メートルはあるだろう。こんなところを私は上った経験はまったくない。おそらく、一人で来たら引き返したと思うのだが、今回は実は5人のチームでこの石鎚山に来ていた。そのうちの一人は石鎚山に60回以上は登っている、石鎚山の仙人のような人である。彼は、「大丈夫、大丈夫、できる、できる」とびびる私を後押ししてくれる。しかし、その後、「滑ったら死ぬから気をつけて下さい」の一言。

まあ、しかし、ここで死んでも本望だ、と最近、投げやりな私は、この鎖場にチャレンジした。その崖はおそらく70度はあるだろう。しかも、強くなってきた雨は、花崗岩の岩壁を濡らし、すこぶる滑りやすくしている。「三点確保」と頭の中で輪唱しつつ、ゆっくりと登っていく。10メートル上がると、もう息が上がる。休憩をして、息を整え、さらに次の10メートルを上がっていく。落ちたら死ぬという緊張感が、アドレナリンを私の体内からフルに出させ、なんとか上までたどり着く。さて、その達成感もつかの間、次の鎖場が出現した。しかも、今度の鎖場は80度ぐらい、というかほとんど壁のような岸壁を、60メートルはある距離、登らせられる。鎖の継ぎ目の空間に足を入れようとするのだが靴が大きくて出来ない。仕方ないので、腕力で登っていく。とはいえ、自分にはそんな腕力がないので、それは相当の難行なのであるが、諦めることもできず、最後まで登り切った。いやはや、その達成感は凄まじいものがある。
この第三の鎖場を越えれば、すぐ石鎚神社。しかし、ここで納得せず、30分ほど歩いて行く天狗岳にまで行く。恐ろしいほどの断崖絶壁を眼下にしつつ、天狗岳にたどり着く。本来なら360度の展望が得られる筈なのだが、生憎、ガスに覆われていてほとんど何も見られない。雨足はさらに強くなっていく。石鎚神社にまで戻り、そこでトマト鍋をつくる。板を横にして風除けにし、上から降る雨は防ぎようがないので、そのままにした状態でつくる。鶏肉とソーセージ、キャベツ、タマネギ、人参など具沢山のトマト鍋はとても美味しい。まあ、これは山の上で食べているからかもしれない。その後、ご飯と卵を入れ、雑炊とする。しかし、雨は強く、二つ目の手袋もずぶ濡れになり寒い。鍋を早々に片付けて、下山する。下山ルートは鎖場の迂回路を通る。この鎖場は下山路もあるが、どんな物好きがそれを試すのであろうか。私はやるメリットはまったく感じられない。


雨の中、下山をするが、下山自体は楽であった。2時間ほどで国民宿舎に戻る。戻った時間は13時ぐらいである。そこから自動車で木の香温泉に寄って、西条駅に着く。西条駅に到着したのは15時30分頃であった。足の裏がちょっと筋肉痛になったが、私のアキレス腱でもある膝、そして太ももの筋肉はまったく大丈夫であった。階段の上り下りをしてきたことが少しは効果があったということであろうか。
タグ:石鎚山
「マドリッドの地下鉄と郊外鉄道網は東京並みに充実している」という記述に憤怒して、ちょっと調べてみた [都市デザイン]
あるデベロッパーのシンクタンクのホームページで「マドリッドの地下鉄と郊外鉄道網は東京並みに充実している」という記述をみた。そんな訳ないだろう、と立腹して調べてみた。
東京の営団地下鉄と都営地下鉄の乗客数は年間31億人で、次点のソウルの24億人を凌駕して圧倒的に世界一である(データは2010年)。ちなみにヨーロッパではパリが15億人で最も多く、マドリッドは6億3450万人。5分の1の乗客数では「東京並みに充実している」というのは過大評価であろう。
しかし、そのような錯覚を覚えるほど、マドリッドの地下鉄のサービスは運行頻度はよい。車両数は少ないのだが、あまり待たずに移動できる。確かにアメリカはもちろんであるが、ヨーロッパの都市でも相当、サービスがいいとは言えるであろう。とはいえ、輸送実績でいえば、第一位のパリはもちろん、次点のロンドンにも遠く及ばない。
東京の営団地下鉄と都営地下鉄の乗客数は年間31億人で、次点のソウルの24億人を凌駕して圧倒的に世界一である(データは2010年)。ちなみにヨーロッパではパリが15億人で最も多く、マドリッドは6億3450万人。5分の1の乗客数では「東京並みに充実している」というのは過大評価であろう。
しかし、そのような錯覚を覚えるほど、マドリッドの地下鉄のサービスは運行頻度はよい。車両数は少ないのだが、あまり待たずに移動できる。確かにアメリカはもちろんであるが、ヨーロッパの都市でも相当、サービスがいいとは言えるであろう。とはいえ、輸送実績でいえば、第一位のパリはもちろん、次点のロンドンにも遠く及ばない。
宮崎駿が構想した阿佐ヶ谷の小公園を訪れる [都市デザイン]
杉並区阿佐谷北に宮崎駿が構想した小公園がある。「Aさんの庭」と命名されたこの公園は、宮崎駿が著した『トトロの住む家』で紹介された家が建てられていた敷地につくられたのである。不運にも、この家は焼失してしまったのが、その跡地に宮崎駿が杉並区に小公園をつくることを提案したことで実現された。杉並区役所も粋なことをしたものである。なかなか霞ヶ関の中央官庁では、こういう血の通うような施策は実現できない。地域と関わる区役所であるから、小規模であるが実現できた人々に喜ばれる公共施策であると思われる。
その「Aさんの庭」を訪れた。早稲田通りから一本入ったところにあるが、なかなか分かりにくい。とはいえ、「薔薇の家」と呼ばれていた通り、薔薇の木が多く植わっているのを始めとして、多くの花々がこの空間を素敵な花園としている。宮崎駿はこの家を「たからもの・・・そう表現するのが一番ふさわしい」と『トトロの住む家』で述べていたが、確かに、このような自然豊かなスポットが東京という大都市にあることは、「たからもの」であると思われる。家は焼失してしまったが、その面影を残した公衆便所が併設されているので、家がある時の雰囲気も多少は想像できるように公園は設計されている。
『トトロの住む家』では、宮崎駿のこの小公園のスケッチが描かれているが、まさにその通りにつくられていたので、ちょっとした感動を覚える。個人的には、園内の通路の狭さが大変気に入った。人一人しか通れない幅であるが、その幅の狭さに、ここがもと個人の家の庭園であったことを思い出させる。そして、公園のスケールの小ささとこの歩道の幅の狭さが絶妙にマッチするのである。おそらく、通常の公園設計では許可されないような狭さであると思われるのだが、ここらへんにも杉並区役所の良心を感じるのである。これは、公共事業が個の思い、そして地区住民の情熱を汲み取った、珍しい成功事例なのではないかと思われる。




その「Aさんの庭」を訪れた。早稲田通りから一本入ったところにあるが、なかなか分かりにくい。とはいえ、「薔薇の家」と呼ばれていた通り、薔薇の木が多く植わっているのを始めとして、多くの花々がこの空間を素敵な花園としている。宮崎駿はこの家を「たからもの・・・そう表現するのが一番ふさわしい」と『トトロの住む家』で述べていたが、確かに、このような自然豊かなスポットが東京という大都市にあることは、「たからもの」であると思われる。家は焼失してしまったが、その面影を残した公衆便所が併設されているので、家がある時の雰囲気も多少は想像できるように公園は設計されている。
『トトロの住む家』では、宮崎駿のこの小公園のスケッチが描かれているが、まさにその通りにつくられていたので、ちょっとした感動を覚える。個人的には、園内の通路の狭さが大変気に入った。人一人しか通れない幅であるが、その幅の狭さに、ここがもと個人の家の庭園であったことを思い出させる。そして、公園のスケールの小ささとこの歩道の幅の狭さが絶妙にマッチするのである。おそらく、通常の公園設計では許可されないような狭さであると思われるのだが、ここらへんにも杉並区役所の良心を感じるのである。これは、公共事業が個の思い、そして地区住民の情熱を汲み取った、珍しい成功事例なのではないかと思われる。




放射性物質の食料品の基準以上の安全基準を勝手に設定するな、という農水省の傲慢 [原発問題]
農水省は放射性物質の食料品の基準以上の安全基準を勝手に設定するな、と通知した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120421-00000027-mai-soci
これは、勝手にそれ以上安全にするな、という通知で通常の基準に対する考え方と大きく違う。つまり、通常は国が基準を設けると、それを守れ、ということになるのだが、この場合は、守ったとしても、それ以上は守るな、というちょっと変わった通知なのである。自動車の制限速度でいえば、時速50kmであれば、勝手に時速40kmでゆっくりとは走るな、というような通知である。しかし、この制限速度であっても道路がガタガタしてたり、眼鏡を落として壊してしまった場合は40km以下で走りたいと思う時もあるだろう。
問題なのは原発事故とその後の対応で、国をまったく我々は信用できない状況にあることで、それは国の責任であるにもかかわらず、信頼させるように法的に無理強いさせようとしているところである。まるで治安維持法が制定された戦時中を彷彿させる役所の傲慢ぶりだ。とんでもない話だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120421-00000027-mai-soci
これは、勝手にそれ以上安全にするな、という通知で通常の基準に対する考え方と大きく違う。つまり、通常は国が基準を設けると、それを守れ、ということになるのだが、この場合は、守ったとしても、それ以上は守るな、というちょっと変わった通知なのである。自動車の制限速度でいえば、時速50kmであれば、勝手に時速40kmでゆっくりとは走るな、というような通知である。しかし、この制限速度であっても道路がガタガタしてたり、眼鏡を落として壊してしまった場合は40km以下で走りたいと思う時もあるだろう。
問題なのは原発事故とその後の対応で、国をまったく我々は信用できない状況にあることで、それは国の責任であるにもかかわらず、信頼させるように法的に無理強いさせようとしているところである。まるで治安維持法が制定された戦時中を彷彿させる役所の傲慢ぶりだ。とんでもない話だ。
仙石由人の「集団自殺発言」に不快を覚えたので、小出裕章氏の参議院・行政監視委員会での原発批判を復習する [都市デザイン]
仙石由人の「集団自殺発言」に不快を覚えたので、小出裕章氏の参議院・行政監視委員会での原発批判の動画を久しぶりに見直す。改めて、原発はとんでもないことを理解した。下記で見ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=CEUxUdlJP0k&feature=related
原発推進派は、これらの小出さんの意見をも馬耳東風なんだろうが、国民はそうそう知らないふりは出来ないと思う。といいつつ、御前崎市民とかは知らないふりをしているのだろうか?
http://www.youtube.com/watch?v=CEUxUdlJP0k&feature=related
原発推進派は、これらの小出さんの意見をも馬耳東風なんだろうが、国民はそうそう知らないふりは出来ないと思う。といいつつ、御前崎市民とかは知らないふりをしているのだろうか?
タグ:小出裕章
『東京から考える』 [書評]
本書は気鋭の社会学者二人が、東京の街並みを歩きながら、都市論、郊外論、格差論、さらには国家論までをも対談したものをまとめたものである。なかなか読み応えがあるし、論理展開はさすが現代日本を代表する若手論客二人なので隙がないのだが、看過できない誤認識がある。東浩紀は次のように言う。「そもそも僕が知るかぎり、東急の住宅地だけでなく、都筑区のニュータウンまで含め、横浜北部ではあまり猟奇的な犯罪が起きていないと思うんです。(中略)ニュータウン的な土地が心の歪みを生み出し、猟奇的な犯罪を生み出すという指摘がありますね。しかしこの一帯には、そういう記憶はないはずです」。(p.87)
1980年11月29日、神奈川県川崎市にある東急田園都市線宮前平駅周辺のベッドタウンに住む20歳の予備校生の男が、両親を金属バットで殴り殺した事件が起きた。世に言う神奈川金属バット殺人事件である。いわゆる金属バット殺人事件のはしりである。私などは、この事件はむしろ田園都市線の異常性、猟奇性を象徴した出来事であると捉えていたので、東がそう捉えていないのは興味深いし、現状認識にずれがあると思う。この事件だけでなく、港北ニュータウンの親爺狩りやホームレス狩りなどは、私は結構、猟奇的であると捉えていたので、このような認識はちょっと理解し難い。
そうそう、村上龍の『テニスボーイの憂鬱』も田園都市線が舞台だ。ここにも、なにか消費者としてしか社会と接しない人間の空虚さが描かれていたが、そのような人間が生活する虚飾的な消費空間として田園都市線沿線はしっくりくるな、と思っていたことがある。そのような認識のずれを覚えてしまったため、東浩紀がそれ以降、「ファスト風土的日常を生きよ」との主張を展開しても受け入れ難い。
受け入れがたいといえば下北沢への見解もまったく私とは異なっていて、「バリアフリーとセキュリティを考えたら、個性ある都市風景は作れないんですよ。実際、旧秋葉原にしても下北沢にしても子供連れで行くのは厳しそうだ」(p.196)と述べているが、下北沢ほど歩行者にとってバリアフリーで安全な空間はそうそうないと思う私とは、まったく真逆のことを述べている。下北沢駅周辺は、まったく交通信号がない。これは信号がないくらい、歩行者は安全に歩行できるから。この歩行者には子供も含まれている。都市を見る視座がまったく私とは違うし、私的には受け入れがたい基礎認識のずれである。一方で北田の主張はしっくりと入ってくる。
まあ、個人的にはそのような不満があるとはいえ、この東浩紀という対談相手を迎え、北田暁大の知性のモーターが加速し始めるのが、会話を通じて理解できる。そういった意味では結構スリリングな内容であり、興味深い本ではあった。

1980年11月29日、神奈川県川崎市にある東急田園都市線宮前平駅周辺のベッドタウンに住む20歳の予備校生の男が、両親を金属バットで殴り殺した事件が起きた。世に言う神奈川金属バット殺人事件である。いわゆる金属バット殺人事件のはしりである。私などは、この事件はむしろ田園都市線の異常性、猟奇性を象徴した出来事であると捉えていたので、東がそう捉えていないのは興味深いし、現状認識にずれがあると思う。この事件だけでなく、港北ニュータウンの親爺狩りやホームレス狩りなどは、私は結構、猟奇的であると捉えていたので、このような認識はちょっと理解し難い。
そうそう、村上龍の『テニスボーイの憂鬱』も田園都市線が舞台だ。ここにも、なにか消費者としてしか社会と接しない人間の空虚さが描かれていたが、そのような人間が生活する虚飾的な消費空間として田園都市線沿線はしっくりくるな、と思っていたことがある。そのような認識のずれを覚えてしまったため、東浩紀がそれ以降、「ファスト風土的日常を生きよ」との主張を展開しても受け入れ難い。
受け入れがたいといえば下北沢への見解もまったく私とは異なっていて、「バリアフリーとセキュリティを考えたら、個性ある都市風景は作れないんですよ。実際、旧秋葉原にしても下北沢にしても子供連れで行くのは厳しそうだ」(p.196)と述べているが、下北沢ほど歩行者にとってバリアフリーで安全な空間はそうそうないと思う私とは、まったく真逆のことを述べている。下北沢駅周辺は、まったく交通信号がない。これは信号がないくらい、歩行者は安全に歩行できるから。この歩行者には子供も含まれている。都市を見る視座がまったく私とは違うし、私的には受け入れがたい基礎認識のずれである。一方で北田の主張はしっくりと入ってくる。
まあ、個人的にはそのような不満があるとはいえ、この東浩紀という対談相手を迎え、北田暁大の知性のモーターが加速し始めるのが、会話を通じて理解できる。そういった意味では結構スリリングな内容であり、興味深い本ではあった。

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)
- 作者: 東 浩紀
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2007/01
- メディア: 単行本
石原慎太郎の尖閣諸島購入に、違和感を覚える [グローバルな問題]
石原慎太郎東京都知事が、尖閣諸島を東京都が買い取ることで調整を進めているらしい。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/senkaku/?1334671950
ヤフー調査のアンケートでは、それに賛成する人は92%。しかし、この都知事の行動に一都民としてはめちゃくちゃ違和感を覚える。まず、なぜ東京都?尖閣諸島はあまりにも東京からは遠くないか。いや、石原慎太郎氏が国会議員であって、国としてその買い取りをするというのであれば納得するし、私も賛成したと思う。ただ、都民だけが一人当たり3000円も負担して実施するようなことなのだろうか。明らかなる一自治体の首長の権限を逸脱した越権行為ではないか。受益者負担になっていない。国が負担すれば300円のところを、なぜ、都民だけが負担をしなければならないのか?
まあ、ヤフー調査のアンケートは都民以外も含まれるのだろうが、都民で賛成する人はあまりにも気前がよいというか、ちょっと理解しにくい。しかも92%という高率。この頃、世論とずれを感じる私。私がおかしいのか、世論がおかしいのか。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/senkaku/?1334671950
ヤフー調査のアンケートでは、それに賛成する人は92%。しかし、この都知事の行動に一都民としてはめちゃくちゃ違和感を覚える。まず、なぜ東京都?尖閣諸島はあまりにも東京からは遠くないか。いや、石原慎太郎氏が国会議員であって、国としてその買い取りをするというのであれば納得するし、私も賛成したと思う。ただ、都民だけが一人当たり3000円も負担して実施するようなことなのだろうか。明らかなる一自治体の首長の権限を逸脱した越権行為ではないか。受益者負担になっていない。国が負担すれば300円のところを、なぜ、都民だけが負担をしなければならないのか?
まあ、ヤフー調査のアンケートは都民以外も含まれるのだろうが、都民で賛成する人はあまりにも気前がよいというか、ちょっと理解しにくい。しかも92%という高率。この頃、世論とずれを感じる私。私がおかしいのか、世論がおかしいのか。
新東名高速道路の一部開通を考える [道路整備事業の大罪]
新東名高速道路の一部、静岡県の御殿場から三ヶ日ジャンクション間の約162キロメートルの区間が14日に開業した。私は『道路整備事業の大罪』といった私個人的には極めて不本意で下品なタイトル(私個人は『道路は地方を救えるか?』にしたかったのだが、出版社サイドの強気な姿勢で妥協させられた)の本を出したこともあり、この新東名高速道路の動向には注目していた。さて、法政大学の五十嵐先生などと異なり、実は、私は、この新東名高速道路に対してはあまり反対していない。というのは、その整備を必要とするような交通需要が少なからずあるからだ。私が疑問を呈している道路整備とは、ほとんど誰も住んでいないし、交通需要もないような地区に整備される道路である。そういう道路と比べると、新東名高速道路はまだ需要があるし、整備する妥当性があるのではないかと考えている。片道三車線だけの自動車需要はないとの指摘には、真ん中の車線を1本ずつ削って、貨物用の高速鉄道を走らせられるようにするなどの対応をすればいいと思う。社会資本としては、是が非でもつくらなくてはならないものではないかもしれないが、まあ、税金をどぶに捨てるような、例えば離島とを結ぶ橋などの整備に比べれば費用対効果もあるのではないかと考えている。
しかし、問題は、この道路規格が基本的には設計速度140キロを担保した構造となっていることだ。140キロであるなら、規制速度も上げればいいのに、規制速度は100キロだ。なんでこんな馬鹿なことが起きえるのか。これは、設計速度140キロにした方が、遙かに道路工事費が高くなるからだろうと私は邪推している。すなわち、そういう道路構造にすることで、より事業費が高くなり、道路族や道路利権者にメリットが生じるからだ。当然、その予算を牛耳る役人にとっても美味しい。その結果、総事業費は約7兆円に跳ね上がっている。そういうことをやっている一方で、消費税を上げると言う。消費税を上げなくてはならないような国家財政であることは分かるが、このような法律にもないような(道路構造例には140キロ道路の整備は考えられていない)超高規格の道路を整備することは控えるか、法律を改定して140キロで走行できるように対応すべきだと思う。単に、事業費を高騰させるための超高規格道路を整備するのは控えてもらえると有り難いと思うのは私だけではないだろう。
しかし、問題は、この道路規格が基本的には設計速度140キロを担保した構造となっていることだ。140キロであるなら、規制速度も上げればいいのに、規制速度は100キロだ。なんでこんな馬鹿なことが起きえるのか。これは、設計速度140キロにした方が、遙かに道路工事費が高くなるからだろうと私は邪推している。すなわち、そういう道路構造にすることで、より事業費が高くなり、道路族や道路利権者にメリットが生じるからだ。当然、その予算を牛耳る役人にとっても美味しい。その結果、総事業費は約7兆円に跳ね上がっている。そういうことをやっている一方で、消費税を上げると言う。消費税を上げなくてはならないような国家財政であることは分かるが、このような法律にもないような(道路構造例には140キロ道路の整備は考えられていない)超高規格の道路を整備することは控えるか、法律を改定して140キロで走行できるように対応すべきだと思う。単に、事業費を高騰させるための超高規格道路を整備するのは控えてもらえると有り難いと思うのは私だけではないだろう。
タグ:新東名高速道路
仙石由人の「原発を動かさないと、日本は集団自殺」発言におったまげる [原発問題]
4月17日付けの朝日新聞によれば、民主党の仙谷由人政調会長代行は16日、名古屋市の講演で、原発再稼働問題をめぐり「原発を一切動かさないということであれば、ある意味、日本が集団自殺をするようなことになる」と述べたそうだ。
私は、この記事を読んでぶったまげた。原発を再稼働するのは集団自殺をするようなこと、と言うのであれば納得できるが逆のことを言っている。しかも、その理由が「日本の経済・社会が電力なしでは生活できないということは、昨年の計画停電騒ぎで明らかだ」とも強調した。
この理由も驚いた。私が、昨年、理解したのは、いかに日本が電力を無駄に使っていて、相当、減らすことが可能であるということだ。そして、あの節電を強いられた中でも例えばドイツの日常に比べても、電力を使っているという現実。計画停電騒ぎは、むしろ東京電力ともしかしたら経産省が意図的に大変なことにした(大口需要者への節電要請をするだけで済むような状況下でもブロックごとに計画停電を強行して、病院などにも電力が届かないような、無計画停電を行ったりした)という側面が強い。もちろん、企業の場合は、いろいろと大変な苦労をしたかとも思うが、これらの理由も、冷凍食品を冷凍させているための電気代が高くなってしまうというものだったりする。私は、個人的に冷凍食品をほとんど食べないので、そういう意味では痛くもかゆくもないのだが、新鮮ではなく、美味しくもなく、地産地消からかけ離れたエコロジカルでない冷凍食品に依存するという生活形態事態が、このような原発に依存しているということは、さもありなんという気分だ。冷凍食品を食べないようなライフスタイルを送っていれば、原発はあまりいらないのではないか、と思ったりもさせられた。
というか、「電力なしでは生活できない」ということは確かだが、原発をゼロにすることと、電力をゼロにすることとは全然違うでしょう。ここに、もう弁護士特有の、欺瞞的な論理のすり替えが行われていると感じてしまうのは、私だけではあるまい。ポール・ニューマン主演の法廷ドラマ『Verdict』を思わず、思い出してしまうよ。あの場合は、奇跡的に、金と政治的コネで真実を嘘で隠そうとしたエリート弁護士が負けるが、今回は、陪審員である国民はどう判断するのであろうか。しかし、この三流弁護士の欺瞞ぐらいは見抜いてもらいたいものだ。このような欺瞞は、そうとう人を馬鹿にしていないと言えないと思う。ここで、人とは我々国民のことだ。
とはいえ、御前崎市でも首長選挙で、原発推進派の現職が当選したからなあ。まるで、第二次世界大戦前夜のような状況に、私は怒りと絶望とに囚われている。
私は、この記事を読んでぶったまげた。原発を再稼働するのは集団自殺をするようなこと、と言うのであれば納得できるが逆のことを言っている。しかも、その理由が「日本の経済・社会が電力なしでは生活できないということは、昨年の計画停電騒ぎで明らかだ」とも強調した。
この理由も驚いた。私が、昨年、理解したのは、いかに日本が電力を無駄に使っていて、相当、減らすことが可能であるということだ。そして、あの節電を強いられた中でも例えばドイツの日常に比べても、電力を使っているという現実。計画停電騒ぎは、むしろ東京電力ともしかしたら経産省が意図的に大変なことにした(大口需要者への節電要請をするだけで済むような状況下でもブロックごとに計画停電を強行して、病院などにも電力が届かないような、無計画停電を行ったりした)という側面が強い。もちろん、企業の場合は、いろいろと大変な苦労をしたかとも思うが、これらの理由も、冷凍食品を冷凍させているための電気代が高くなってしまうというものだったりする。私は、個人的に冷凍食品をほとんど食べないので、そういう意味では痛くもかゆくもないのだが、新鮮ではなく、美味しくもなく、地産地消からかけ離れたエコロジカルでない冷凍食品に依存するという生活形態事態が、このような原発に依存しているということは、さもありなんという気分だ。冷凍食品を食べないようなライフスタイルを送っていれば、原発はあまりいらないのではないか、と思ったりもさせられた。
というか、「電力なしでは生活できない」ということは確かだが、原発をゼロにすることと、電力をゼロにすることとは全然違うでしょう。ここに、もう弁護士特有の、欺瞞的な論理のすり替えが行われていると感じてしまうのは、私だけではあるまい。ポール・ニューマン主演の法廷ドラマ『Verdict』を思わず、思い出してしまうよ。あの場合は、奇跡的に、金と政治的コネで真実を嘘で隠そうとしたエリート弁護士が負けるが、今回は、陪審員である国民はどう判断するのであろうか。しかし、この三流弁護士の欺瞞ぐらいは見抜いてもらいたいものだ。このような欺瞞は、そうとう人を馬鹿にしていないと言えないと思う。ここで、人とは我々国民のことだ。
とはいえ、御前崎市でも首長選挙で、原発推進派の現職が当選したからなあ。まるで、第二次世界大戦前夜のような状況に、私は怒りと絶望とに囚われている。
藤森照信『タンポポ・ハウスのできるまで』 [書評]
著者の藤森照信氏は、「建築探偵」として知られるお茶目の建築史家であると同時に東大の建築学科の教授でもある(最近、定年退職された)。ということで、本職は建築史の研究になるのだが、彼の凄いところは、エッセイストとしての文章力が極めて高いレベルにあることだ。そして、この本では、彼がはじめて本格的に手がけた二つの建築に関して、その構想、計画、設計、施工までを時系列に整理しているのだが、その建築のアプローチが独創的で読んでいて想像力が刺激されて、わくわくさせられる。彼はその後、建築学会の作品賞をも受賞するので、設計者としても才能豊かであることを世の中も認めることになるのだが、この本は、そのような本人も気づいていない設計者としての才能が萌芽していくプロセスも読み取ることもでき、興味深い。建築が好きになるような本である。
原発再稼働に奔走する仙石由人は、東電パーティ券購入の議員ランキングでは民主党トップ [原発問題]
仙石由人が主導する大飯原発再稼働。その理由として「電力がなくては成り立たない社会になっている」といった趣旨の発言をした。確かに、「電力がなくては成り立たない社会」に我々は生きているかもしれない。しかし、電力=原子力発電、ではまったくない。ここに破廉恥で欺瞞に満ちた、論理のすり替えが行われている。さすが弁護士。主張の論理の組み立てが強引というか、厚顔無恥である。
さて、2012年1月8日付けの朝日新聞によれば東電パーティ券購入の議員の上位ランキングは麻生、甘利、大島、石破、石原、与謝野、平沼、仙石、枝野、小沢10議員となる。まあ、ほとんどが自民党であるが、民主党が仙石、枝野と小沢というのは、わやですわ。しかも仙石は民主党の中ではトップである。まあ、しかし、弁護士出身の仙石、枝野が、たとえ犯罪企業が顧客であっても、その肩を持って弁護するのは、ある意味当然である。ただし、我々国民は仙石、枝野コンビが原発再稼働を進める背景にこのような事実があることを知るべきである。彼らが弁護しているのは、電力会社であって、決して国民ではない。弁護士の欺瞞を見抜き、次の選挙で落選させるぐらいしか、我々には出来ないかもしれないが、それをすることはできる。
さて、2012年1月8日付けの朝日新聞によれば東電パーティ券購入の議員の上位ランキングは麻生、甘利、大島、石破、石原、与謝野、平沼、仙石、枝野、小沢10議員となる。まあ、ほとんどが自民党であるが、民主党が仙石、枝野と小沢というのは、わやですわ。しかも仙石は民主党の中ではトップである。まあ、しかし、弁護士出身の仙石、枝野が、たとえ犯罪企業が顧客であっても、その肩を持って弁護するのは、ある意味当然である。ただし、我々国民は仙石、枝野コンビが原発再稼働を進める背景にこのような事実があることを知るべきである。彼らが弁護しているのは、電力会社であって、決して国民ではない。弁護士の欺瞞を見抜き、次の選挙で落選させるぐらいしか、我々には出来ないかもしれないが、それをすることはできる。
枝野経産相はいつ、どこで変節したのか? [原発問題]
枝野幸男経済産業相が、大飯原発再稼働で随分と動いている。ちょっと前までは、電力会社にも強気で筋が通った意見を通していたのに、一体全体、いつ変節してしまったのであろうか。どうも、大飯原発の再稼働は、仙谷由人党政調会長代行が中心となる通称「五人組」が仕切っているらしい。この五人組は、仙石氏をリーダーに、枝野幸男経済産業相、細野豪志原発事故担当相、古川元久国家戦略担当相、斎藤勁官房副長官から構成されている。そして、再稼働に執心しているのは、どうも仙石氏らしい。
ということで、枝野氏には個人的には結構、期待していたのだが、まあ上司というか先輩には逆らうことができないという、身内の事情で変節してしまったのかと私は邪推している。これは、私にとっても、そして国民にとっても、民主党にとっても、おそらく大変残念なことなのではないかと思われるのである。少なくとも、私は、これまで政権を取る前から、問題はあることを自覚しつつも民主党を支持してきたが、もう金輪際しないと決断したからだ。現在、政権の中枢にいるものでは、枝野氏には期待していたのだが、もう駄目だ。誰も期待することができない。さらば、民主党、という気分である。
ということで、枝野氏には個人的には結構、期待していたのだが、まあ上司というか先輩には逆らうことができないという、身内の事情で変節してしまったのかと私は邪推している。これは、私にとっても、そして国民にとっても、民主党にとっても、おそらく大変残念なことなのではないかと思われるのである。少なくとも、私は、これまで政権を取る前から、問題はあることを自覚しつつも民主党を支持してきたが、もう金輪際しないと決断したからだ。現在、政権の中枢にいるものでは、枝野氏には期待していたのだが、もう駄目だ。誰も期待することができない。さらば、民主党、という気分である。
宮城のヤーコン茶からなんと1万7千ベクレルのセシウム [原発問題]
宮城県の蔵王町で製造されたヤーコン茶からなんと1万7千ベクレルのセシウムが検出された。
http://www.asahi.com/national/update/0412/TKY201204120462.html
放射性物質の新基準値は1キロあたり100ベクレル、それ以前でも同500ベクレルであるから、異常なほどの高値であることが理解できよう。大飯原発を再稼働させようとしている時、福島県ではなく隣の県でのこの異常な値。このヤーコン茶は既に1100セットが販売されているそうだが、被害を最小限に見せようとしていたツケが回っているのではないだろうか。少なくともヤーコン茶のブランドは超下落してしまうであろう。このブランド価値の低落に関して、東京電力は賠償すべきだと思われる。
あと、ある程度想定はしていたが悔しくてしょうがないのは、タケノコがセシウムを堆積してしまうことである。タケノコは、私の三大好物植物であったので、本当残念だ。このタケノコを春の訪れとともに楽しむことを東京電力に奪われたことに対して、私は賠償請求したい気持ちでいっぱいだ。
http://www.asahi.com/national/update/0412/TKY201204120462.html
放射性物質の新基準値は1キロあたり100ベクレル、それ以前でも同500ベクレルであるから、異常なほどの高値であることが理解できよう。大飯原発を再稼働させようとしている時、福島県ではなく隣の県でのこの異常な値。このヤーコン茶は既に1100セットが販売されているそうだが、被害を最小限に見せようとしていたツケが回っているのではないだろうか。少なくともヤーコン茶のブランドは超下落してしまうであろう。このブランド価値の低落に関して、東京電力は賠償すべきだと思われる。
あと、ある程度想定はしていたが悔しくてしょうがないのは、タケノコがセシウムを堆積してしまうことである。タケノコは、私の三大好物植物であったので、本当残念だ。このタケノコを春の訪れとともに楽しむことを東京電力に奪われたことに対して、私は賠償請求したい気持ちでいっぱいだ。
フクシマの嘘 [原発問題]
ドイツZDFが作成したフクシマの嘘。素晴らしいドキュメントです。下記のリンクから見ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=8MZKxWLruZQ
日本は原発管理だけでなく、ジャーナリズムも三流であったことを思い知らされる質の高いドキュメンタリーである。別に原発を推進したことは一度もないけど自己嫌悪。東電の取材対応者が、「東電は原発を安全に稼働できるのか、本当に思っているのですか」の質問の後、長い沈黙の後「答えられない」と回答したのはちょっと、鬼の目にも涙ではないが、東電にも本当はまともな感情を持っている人もいるのだなということに気づいてホッとした。いや、そんなの当たり前なのだが、東電の企業の対応を見ていると、従業員もまともな人であるという、そういう当たり前のことさえ忘れてしまう。ナチスが全員、非人間的であるといったようなのに似たような感じだ。
http://www.youtube.com/watch?v=8MZKxWLruZQ
日本は原発管理だけでなく、ジャーナリズムも三流であったことを思い知らされる質の高いドキュメンタリーである。別に原発を推進したことは一度もないけど自己嫌悪。東電の取材対応者が、「東電は原発を安全に稼働できるのか、本当に思っているのですか」の質問の後、長い沈黙の後「答えられない」と回答したのはちょっと、鬼の目にも涙ではないが、東電にも本当はまともな感情を持っている人もいるのだなということに気づいてホッとした。いや、そんなの当たり前なのだが、東電の企業の対応を見ていると、従業員もまともな人であるという、そういう当たり前のことさえ忘れてしまう。ナチスが全員、非人間的であるといったようなのに似たような感じだ。
原発事故1周年のドイツのテレビ番組をみて、ひたすら厭世的な気分になってきた [原発問題]
ドイツのテレビ番組で、原発事故1周年に関する報道がなされている。
http://www.youtube.com/watch?v=UtqF4PHPPlg&feature=related
私も最近、もう厭世的な気分になって、どうでもいいや、と思ってきたが、改めてドイツ的な視点でみると、自分たちの将来が非常に危険な、紙一重的な状況にあることを再確認する。
最近、日本の歴史本を読んだりしているのだが、日本は危機的状況になると、それを回避するよりも、神風特攻隊的に、自滅する方向を選ぶ傾向があるのではないか。これは、なんかレミングではないが、種としての特性かもしれない。腹切りしたり、桜の散り方に美を求めたりするのも、なんか、そういう文化的なものも、この危機になると自滅、というメンタリティと関係があるのかもしれない。
じゃあ、どうする?ということは、今日はもう自暴自棄的な気分なので、また、いつか考える力が湧いてきたら整理してみよう。今日は、もう本当、厭世的な気持ちだ。
そうそう、この番組は日本のものですが、これも参考になると思います。
http://www.youtube.com/watch?v=CezLuBZqd8U&feature=g-vrec&context=G2cb577bRVAAAAAAAABA
http://www.youtube.com/watch?v=UtqF4PHPPlg&feature=related
私も最近、もう厭世的な気分になって、どうでもいいや、と思ってきたが、改めてドイツ的な視点でみると、自分たちの将来が非常に危険な、紙一重的な状況にあることを再確認する。
最近、日本の歴史本を読んだりしているのだが、日本は危機的状況になると、それを回避するよりも、神風特攻隊的に、自滅する方向を選ぶ傾向があるのではないか。これは、なんかレミングではないが、種としての特性かもしれない。腹切りしたり、桜の散り方に美を求めたりするのも、なんか、そういう文化的なものも、この危機になると自滅、というメンタリティと関係があるのかもしれない。
じゃあ、どうする?ということは、今日はもう自暴自棄的な気分なので、また、いつか考える力が湧いてきたら整理してみよう。今日は、もう本当、厭世的な気持ちだ。
そうそう、この番組は日本のものですが、これも参考になると思います。
http://www.youtube.com/watch?v=CezLuBZqd8U&feature=g-vrec&context=G2cb577bRVAAAAAAAABA
大飯原発が100キロ圏と安全協定を結ぶという欺瞞 [都市デザイン]
大飯原発が100キロ圏と安全協定を結ぶそうだ。なんか民主党は、福島原発事故から何も学んでいないのかと唖然とする。というか、学んだとしても、原発再稼働に都合が悪いから無視しているだけなのかもしれない。日本の風は西から東へと吹く。これは、大きな地球規模での風の流れである。したがって、福島原発事故で排出された放射能物質の多くは太平洋へと流れた。日本国土に降下した放射能は、全体の3割にも満たない。それでも、たまに東風が吹いたりして、福島市や郡山市、そして飯舘村など、原発より東側にあった自治体にも多くの放射能が降下した。一方で、原発から40キロしか離れていないいわき市などは奇跡的にあまり放射能が落ちず、そうかと思うと200キロメートル以上離れた柏市などには降雨のせいでいわき市なみに落ちてしまった。
そのように考えると、大飯原発から一律100キロ圏というのは、まったくもっていい加減な数字である。原発事故後に避難区域を一律30キロメートルとした愚を繰り返している。大飯原発が事故ると、風の流れから西側に多大なる影響を及ぼす。特に、伊吹山にぶつかった放射能雲は関ヶ原を越えて、大垣市、そして名古屋市へと流れ込むであろう。ここで興味深いのは、100キロ圏だと名古屋市が含まれないことである。一方で大阪市はぎりぎり含まれる。原発反対のパフォーマンスを大阪市がやればやるほど、世間は、大飯原発は名古屋ではなく大阪が被害者になるのかと勘違いをしそうで心配だ。そして、大阪の反対を支援することで自分達の反原発的の自意識を満足させ、フラストレーションを発散させた後、大阪が承諾することで、まあ大阪がいいというなら大飯原発もいいかな、みたいな世論が形成されてしまうことを危惧する。私は、なんかそういう裏シナリオがあるように邪推しているのだが、しかし、ある電力会社関係者は「大阪が反対するなら、大阪の電気を2〜3日止めてしまえ」と言ったそうである。あの東日本大震災の悲惨な状況から1年も経ってないでよくこういう愚かしいことを言えるな、と私はむしろ感心したのだが、ここまで馬鹿なことを言う奴がいるのであれば、裏シナリオという仮説も間違っているのかもしれない。だって、これは火に油を注ぐようなものでしょう。
まあ、それはともかく、本当に危ないのは名古屋なのに、名古屋市と安全協定を結ばないというのは何なのだ。名古屋はなぜ、怒らないのだ。この温和しくしている名古屋人というのが、今、私が抱える不可解な謎である。
そのように考えると、大飯原発から一律100キロ圏というのは、まったくもっていい加減な数字である。原発事故後に避難区域を一律30キロメートルとした愚を繰り返している。大飯原発が事故ると、風の流れから西側に多大なる影響を及ぼす。特に、伊吹山にぶつかった放射能雲は関ヶ原を越えて、大垣市、そして名古屋市へと流れ込むであろう。ここで興味深いのは、100キロ圏だと名古屋市が含まれないことである。一方で大阪市はぎりぎり含まれる。原発反対のパフォーマンスを大阪市がやればやるほど、世間は、大飯原発は名古屋ではなく大阪が被害者になるのかと勘違いをしそうで心配だ。そして、大阪の反対を支援することで自分達の反原発的の自意識を満足させ、フラストレーションを発散させた後、大阪が承諾することで、まあ大阪がいいというなら大飯原発もいいかな、みたいな世論が形成されてしまうことを危惧する。私は、なんかそういう裏シナリオがあるように邪推しているのだが、しかし、ある電力会社関係者は「大阪が反対するなら、大阪の電気を2〜3日止めてしまえ」と言ったそうである。あの東日本大震災の悲惨な状況から1年も経ってないでよくこういう愚かしいことを言えるな、と私はむしろ感心したのだが、ここまで馬鹿なことを言う奴がいるのであれば、裏シナリオという仮説も間違っているのかもしれない。だって、これは火に油を注ぐようなものでしょう。
まあ、それはともかく、本当に危ないのは名古屋なのに、名古屋市と安全協定を結ばないというのは何なのだ。名古屋はなぜ、怒らないのだ。この温和しくしている名古屋人というのが、今、私が抱える不可解な謎である。
大飯原発再稼働をなぜ焦るのかを勝手に邪推する [都市デザイン]
大飯原発の再稼働が拙速過ぎる、との指摘が各方面から聞こえてくる。さすがに、世論はそれほど高くはないが、それでも過半数が原発反対の中、なぜなのかと訝しむ人は多いと思う。まあ、私が邪推するに、これは、夏までに原子力発電所が稼働せずに、それほどの電力不足の被害もなく、無事にやり過ごせてしまうと、原発いらないじゃないか、という電力会社的には「不都合な真実」が白日の下に晒されてしまうからではないだろうか。
原発を無理矢理稼働するほど、日本は電気に困っていない。だって、本当に、日本ほど街中や田舎でも電気が無駄使いされている国を私は知らない。マンハッタンの夜で驚くのは、夜景の美しさより、その闇の深さである。深い闇の中に、摩天楼の電飾などが光るので美しいのである。逆に、東京の夜は本当、この後に及んで未だ明るい。闇を楽しむことができないほど明るい。
しかも、日本は技術的に今後、爆発的に市場が拡大すると考えられる再生可能エネルギーの宝庫(地熱、風力、潮力、太陽光だってヨーロッパより遙かにいい)であり、技術力もあるにもかかわらず、なぜか原子力に拘る。まあ、よっぽど美味しいんだろうねえ。だって、つけは全部子孫に回して、自分達だけが利益を享受できるんだからねえ。まあ、普通、こういうことは恥知らず、と非難されるのだが、どうも「赤信号、みんなで渡れば怖くない。日本人の子孫の皆様、放射能のゴミを残して申し訳ないけど、我々、死んじゃったので責任とれましぇーん」で頬被りするつもりらしい。いやあ、しかし、よほどいい思いをするのならともかく、ただ電気を無駄遣いするだけで、そんなに子孫に負の遺産を残さなくてもいいのにとつくづく思う。
あと、この冬が寒いのは、どうも原発を稼働していないからだとの話もある。これは、原発が周囲の海温とかを暖めまくっていたので、原発が稼働しないと海温が冷たいままだからだそうだ。そう考えると、地球温暖化防止の切り札としての原発というのも随分と怪しくなってくる。まあ、日本が原発のゴミまみれになっている時は私も死んでいるからどうでもいいけど、子供達や学生達の将来はどうかしたいと思う。ただ、今、考えている有効だと思われる案は日本脱出ぐらいだが。だって、私がどう頑張ったって原発はつくられるし、道路もどんどんとつくられるだけだからなあ。
原発を無理矢理稼働するほど、日本は電気に困っていない。だって、本当に、日本ほど街中や田舎でも電気が無駄使いされている国を私は知らない。マンハッタンの夜で驚くのは、夜景の美しさより、その闇の深さである。深い闇の中に、摩天楼の電飾などが光るので美しいのである。逆に、東京の夜は本当、この後に及んで未だ明るい。闇を楽しむことができないほど明るい。
しかも、日本は技術的に今後、爆発的に市場が拡大すると考えられる再生可能エネルギーの宝庫(地熱、風力、潮力、太陽光だってヨーロッパより遙かにいい)であり、技術力もあるにもかかわらず、なぜか原子力に拘る。まあ、よっぽど美味しいんだろうねえ。だって、つけは全部子孫に回して、自分達だけが利益を享受できるんだからねえ。まあ、普通、こういうことは恥知らず、と非難されるのだが、どうも「赤信号、みんなで渡れば怖くない。日本人の子孫の皆様、放射能のゴミを残して申し訳ないけど、我々、死んじゃったので責任とれましぇーん」で頬被りするつもりらしい。いやあ、しかし、よほどいい思いをするのならともかく、ただ電気を無駄遣いするだけで、そんなに子孫に負の遺産を残さなくてもいいのにとつくづく思う。
あと、この冬が寒いのは、どうも原発を稼働していないからだとの話もある。これは、原発が周囲の海温とかを暖めまくっていたので、原発が稼働しないと海温が冷たいままだからだそうだ。そう考えると、地球温暖化防止の切り札としての原発というのも随分と怪しくなってくる。まあ、日本が原発のゴミまみれになっている時は私も死んでいるからどうでもいいけど、子供達や学生達の将来はどうかしたいと思う。ただ、今、考えている有効だと思われる案は日本脱出ぐらいだが。だって、私がどう頑張ったって原発はつくられるし、道路もどんどんとつくられるだけだからなあ。
大飯原発再稼働で、なぜ、関係自治体に名古屋市が含まれないのだろうか? [都市デザイン]
大飯原発が再稼働するようである。そこで、関係自治体と協議することになるのだが、この関係自治体に名古屋市はどうも含まれていないようなのだ。関係自治体は、滋賀県、京都府、大阪府などだ。しかし、大飯原発を初めとした福井の原発が事故を起こした場合、大量の放射能汚染が落ちるのは、名古屋市である。大阪市が反対するのは、関電最大の顧客であるので、それなりにステーキホルダーとしての発言力があるからというのもあるが、名古屋市の反対があまり聞こえてこないのは不思議だ。福井の原発が事故した時の、放射能の散乱のシミュレーションも公開されている。関ヶ原を越えて、名古屋に雪をもたらす空気の流れが、福井から放射能を名古屋に運んでくる。大飯原発再稼働を協議するメンバーに名古屋市や愛知県が入っていないのは不可思議であるし、名古屋市民はもっと自分たちが被害者になる可能性が高いことを知るべきであろう。
下記のユーチューブで、福井の原発が事故で放射能をまき散らすシミュレーションがみられる。名古屋は放射脳汚染で真っ赤っか。大阪は全然、被害がない。それなのに、大阪の文句は聞こえても名古屋の文句が聞こえてこないこの不思議。
http://www.youtube.com/watch?v=hnTqPZKYwU8
下記のユーチューブで、福井の原発が事故で放射能をまき散らすシミュレーションがみられる。名古屋は放射脳汚染で真っ赤っか。大阪は全然、被害がない。それなのに、大阪の文句は聞こえても名古屋の文句が聞こえてこないこの不思議。
http://www.youtube.com/watch?v=hnTqPZKYwU8
スペインを知るための60章 [書評]
明石書店が出版する「○○を知るための○章」シリーズは結構、好きだ。しかし、本ごとにその内容の質が随分と異なる。いい時はすこぶるよいのだが、悪い時は相当今ひとつなのである。まあ、今ひとつといっても内容に誤りがあるという訳ではなく、内容がすこぶる偏るというだけなのだが、その著者の専門分野のことばかり書かれると、ちょっと本のタイトルに偽りがあるんじゃないか、という読後感を覚える。さて、このスペイン版であるが、その網羅度は決して広くない。文句を言うほどは狭くないのだが、教育問題やカタロニア語の問題などに偏りすぎている。それも、結構、詳しく論じられているのだが、それらの内容は、本書を購入していたことが期待していることではないだろう。この本の読者の需要をはき違えているか、無視しているのであろう。例えば、地理面での記述はほとんど皆無だ。さらに映画を含むポップ・カルチャーも皆無。ペドロ・アルモドバルやペネロペ・クルスのことを一行でも書いてあれば、よかったのにと思うのは私だけではないだろう。バルセロナもカタロニア語のことは書かれているが、ガウディやFCバルセロナのことは皆無。レアル・マドリードも皆無、というかサッカーのことの記述もない。スペインの建築に関してもイスラム建築のことのみ少し触れられているだけで、ガウディの話もそうだが、ドミニクはもちろんのこと最近のビルバオの再開発などは一切書かれていない。さらに、高速道路事情や鉄道事情に関しても書かれていない。ということで、スペインの基本を大雑把に知りたいという読者には向いていない本であると思う。私も読んだ後、不満が残ったが、スペインの教育事情とカタロニア語をとりまく問題、そしてフランコ体制に関しては、意図せず、詳しくなった。
ペドロ・アルモドバルの「帰郷」 [映画批評]
ペドロ・アルモドバルの女性賛歌シリーズ3部作の最終作品であるボルベール「帰郷」。日本語版の予告では、「最終で最高」というコピーが使われていたが、個人的にもそう思う。シナリオが秀逸であるのが、この作品を際立たせている要因であると思われるが、母親役のカルメン・マウラの演技を初めとして、出演者がいい味を出していることがこの映画の魅力だ。この俳優たちの演技が、この映画の大いなる魅力となっている。むしろ、ペネロペがあまり存在感を出せていないくらいだ。とはいえ、この映画の見所の一つは、ペネロペが歌い上げる「ボルベール」であることは間違いない。まあ、とりあえず騙されたと思って観ることをお勧めする。後悔はしないでしょう。しかし、ペネロペの魅力がそれほど出ていない、というか他の女優たちによって存在感が薄められている、のでそれを期待する向きには今ひとつかもしれない。
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