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アメリカ合衆国の社会文化の特徴は暴力的であることではないか [トランプのアメリカ]

 トランプ大統領の就任式が行われたが、それへのプロテストのデモがアメリカ各都市で行われ、150万人を動員したようである。マイカル・ムアーを始めとして蒼々たる人々が、各都市でデモの人々に向かってスピーチを行った。皆、素晴らしいスピーチであったが、私の心を最も揺さぶったのはアシュリー・ジャッドのスピーチであった(https://www.youtube.com/watch?v=pLaAEpPX090)。ヒラリー・クリントンのことをドナルド・トランプは、「ナスティー・ウォマン」と罵倒したが、それを受けて「私はナスティー・ウォマンである。しかし、彼ほどはナスティーではない」という内容を繰り返すスピーチは詩のようにリズムカルであり、情緒性に溢れ、そして人々を扇動するものであった。その他では、ボストンのエリザベス・ウォレン上院議員のものに感銘を覚えたが、まあウォレン上院議員のそれはいつもの通り、板に水を流すように流暢で論理的なスピーチであり、一度、彼女の話を聞けば、トランプ大統領には絶対、票を入れないと思うほど説得力があるものであった。
 さて、しかし最もショッキングであったのはマドンナのそれであった(https://www.youtube.com/watch?v=pLaAEpPX090)。マドンナはウォレン上院議員のように論理と理性に訴えかけるのではなく、またアシュリー・ジュッドのように情緒性に訴えかけるものではなく、ずばりストレートに怒りに訴えかけたものであった。彼女はスピーチで「ホワイトハウスを爆破しようと考えた」と述べ、Fワードを三回ぐらい連発した。まあ、ロックは怒りの衝動を音楽として昇華させる一つの手法であり、ロック・アーティストであるマドンナがそのようなスピーチをするのは納得できない訳でもないが、トランプが行う暴力に対して、暴力に応じるという考え、少なくともそういう暴力的な衝動を刺激するといった内容のスピーチをしたことは、平和的解決ではなく暴力的解決を指向したがるアメリカ的なものであるとの印象を受けた。ちなみに、私はアーティストであるマドンナはそれほど感心してはいないが、人間としてのマドンナはとてもリスペクトしている。しっかりとした考えを持ち、また生き方も誠実であると私は捉えている。しかも、ビッチなイメージが定着しているマドンナであるが、彼女はミシガン大学というミシガンで最も難関な大学に入学している才媛である(アシュリー・ジュッドはハーバード公共政策大学院出である)。まったくもって侮れない大人物である。
 しかし、そのようなマドンナであっても、やはり世の中の課題に対しての解決手法の一つとして暴力的な発想になってしまう(実際はやらない訳であるが)というのは、私はとてもアメリカ的であると思う。トランプ大統領が暴力的であることは間違いないが、それに対抗するグループも暴力的な対抗策を選択肢として捉えてしまうことは、さらにアメリカという国を分裂させていくであろう。とはいえ、対抗するしかないので選択肢もないのだろうが。つくづく、トランプを大統領にしてしまったことによりアメリカ国民が抱えてしまった負債の大きさに愕然とする。
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金沢に来て、地方の危機を再考察する [地域興し]

 最近、地方に来ると、地方の危機を強く感じる。人口減少や高齢化、自動車への過度への依存がもたらした買物難民など、多くの人々が指摘する地方の危機以外に、私が地方に来るたびに実感するのは、付加価値を創出する能力の欠如である。
 ひと昔前であれば、東京から地方へ旅行する大きな魅力は、東京では入手がなかなか難しい食べ物を味わったり、また、その地方固有の生活文化などに触れられたりすることであった。このような地方が東京と異なることによって相対的に生じる魅力こそは、地方のアイデンティティであり個性であった。特に食文化は伝統的には、その地のものを消費していたので、地域・風土が違えば、当然、東京とは違ったものが食べられ、それは地方にとって貴重な観光資源でもあった。
 さて、しかし、最近は大阪、京都、福岡といった大都市や一部の地域(例えば讃岐うどんの香川県)を除けば、地方に行って東京より美味しいものに出会える確率は極めて低くなってしまっている。こういうことを書くと、いや、コスパが違うでしょう、と異論を唱える人も出てくるかもしれないが、コスパにおいても東京より優れた料理と出会える確率は相当、低くなってしまっている。
 これは一年前に宮崎を訪れた時にも感じたが、半年前に北海道を訪れた時にも痛感した。この地の人達は観光客相手に、地の美味しいものを出しているような気分になっているのかもしれないが、悪いけど東京では我々は往々にして、これらのものよりも遙かに美味しく、そしてそれらを安い値段で楽しめている。観光地に来ているというボーナス効果を加えても有り難がることができない場合がほとんどだ。それにも関わらず、地方においてはそのような自覚がない。「東京からわざわざ来たんだったら、○○を食べないと」と言われて注文しても、ほおっと感心するようなものを食べられる確率は低い。しかし、愛想で「流石ですね」などと言ってしまう自分もいる。客に愛想を言っているのではなく、客が愛想を言っているというのが地方の特産品などで売り出している食堂の実態ではないかと私は捉えている。
 名古屋などはグルメ観光を高らかに謳って、観光プロモーションを展開しているが、名古屋にわざわざ食べに行かなくてはいけないような食べ物はない。いや、名古屋にいたら食べますよ、櫃まぶし。しかし、鰻自体は名古屋以外でも美味しいものが食べられる。きしめん、味噌カツ、コーチンで人が名古屋に来るだけの価値はない。そして、確かに相当、美味しいお店は櫃まぶしに関しては少なくとも名古屋に存在することを認めるが、名古屋の鰻屋がどこもクオリティが高いかというとそんなことは決してない。というか、そういう店は名古屋に住んでいても予約を取るのが(名古屋の櫃まぶしの名店は予約を受け付けない店も多い)困難である。つまり、名古屋にわざわざ櫃まぶしを食べにいくだけの価値がある店はごく少数ということである。それなのに、名古屋に行けばうまい櫃まぶしが食べられるかのように宣伝するのは嘘である。こういうプロモーションをしていると、いわゆる「観光地にうまいものなし」を名古屋という地域が証明することになり、逆にイメージを悪くするように思うのだがどうであろうか。
 まあ、似たようなことは東京の月島のもんじゃ、とか横浜の中華街でも言えることなのだが、これらは、それなりに町自体がテーマパークのようになっているのと、誰ももんじゃに味を期待しないことと、中華街は中国人っぽい人達が料理をつくっている、ということで味以外の要素を提供していることが、名古屋全体のグルメ・プロモーションと大いに異なる点である。
 さて、話が随分と横道にそれてしまったが、金沢である。金沢は、このようなひねくれた考えを持っている私をもってしても、「美味い物が喰えるのではないか」と期待させるオーセンティシティを有している。なんといっても加賀百万石である。ということで、昼に近江市場を訪れ、食べログまでチェックして、3.5点以上のお寿司屋さんに入った。そこでランチであるが奮発して、2700円の海鮮丼を注文した。さて、海鮮丼はおどろくほど早く来た。北海道のウニ、蟹、甘エビ、カンパチ、まぐろ、イカ、タコなどが入っている。しかし、どこか新鮮のように見えない。切った後、ちょっと時間が経っているかのような印象を受ける。さて、一口食べると全然、美味しくない。これは、しまったと思うが後悔先に立たず。イカとかは固くなっており、刺身が不思議だと思うぐらい美味しくないのだ。美味しいと思われたのはイクラと甘エビぐらいであった。これは刺身を切ってから、時間が結構経ってしまったということであろう。味的には、東京の寿司屋のランチのちらしとは比較できないほど今ひとつであった。しかも、東京の私が食べる寿司屋のランチのちらしは1000円だが、これは2700円である。近江市場で新鮮なものが食べられると思った私は大きく失望をしたのである。この海鮮丼で食べログの評価が高いことはちょっとあり得ないので、このお店の握りは美味しいのかもしれない。握りであれば作り置きは出来ないと考えられるからである。その日の夕方、近江市場の二階で食べた居酒屋はなかなかよかったことから、金沢の刺身が不味い訳ではない(それでも東京と比べて特別とはいえない)ので、この店の問題であっただろう。ただし、翌日、金沢うどんを食べたが、これもそれほど特別ではなかった。すなわち、今回の金沢旅行では期待を膨らませていたが、あまり美味しいもの、少なくとも金沢に来て美味しいものが食べられてよかったな、と思えるような料理にはありつけなかったのである。
 もちろん、金沢には美味しい店が多くあり、美味しい料理も存在するであろう。ただ、観光化をしているからかもしれないが、それでも、この近江市場の海鮮丼はないと思うのである。こういうことで商売が出来るというのは、観光客相手だからということなのだろうが、そのうち酷いしっぺ返しを食らうのではないだろうか。特に、SNSがこれだけ発達した世の中において、こういうオーセンティックを期待している人達に、オーセンティックではない、というかちらし寿司としてもちょっと違うでしょう、というものを出していることは瞬く間に知られるからである。
 金沢はバーとかも結構、高くていい値段を取る。しかし、店の人は「東京じゃあ、こんな安い値段じゃ、このウィスキーは飲めないよね」とか言ったりするが、場所を選べば飲めたりする。そういうことを自覚しなさ過ぎだ。
 それでもまだ、観光客ビジネスは、東京にはない地元の美味しいものといった幻想、誤解で当分はやっていけるかもしれないが、そのようなぬるま湯的環境では、そもそもない付加価値を新しくつくるようなことは出来ないであろう。フリーライドをしている人ばかりになると金沢の魅力は、早晩喪失してしまうであろう。
 と言いつつ、金沢には付加価値を維持し、さらに次代に継承しようと頑張っている人達、外部から金沢において新たな付加価値を創出しようと挑戦しようとしている人達も多い。私は、金沢にある唯一の「麹屋」である高木商店で、「かぶらずし」と味噌を購入した。また、お麩の専門店である加賀麩「不室屋」でお麩を購入したりした。金に糸目をつけず、しっかりと良質なものを消費しようと調査をすれば、金沢であれば外さないだけの地方固有の価値を提供してくれるであろう。
 ただ、逆に捉えると、金沢であっても、相当調べないと、なかなかいい消費体験が出来ないということである。もちろん、東京だって適当に店に入ったりしていると酷い目にあうだろうが、東京は私にとっては観光地ではなくて生活都市だからね。いい店と悪い店とをよく知っているので、同じ観光地として捉えて比較して、東京にも不味い店があるじゃない?といった感じで緊張感を持たないでいると、本当、東京にすべてやられるような気がするのである。そして、東京に人・モノ・カネだけでなく、文化、個性といった面でも後塵を拝すると、グローバル経済下、そして人口が減少していく中で、地方は本当に大変なことになると思われるのである。これだけ、ユニークなコンテンツを有している金沢でもこんな状況なのだから、他の地方都市はさらに状況が深刻であることを改めて確認した次第である。
 また追記すると、金沢は25年前に比べるとずっとよくなっている。東山の茶屋街、主計町の街並みなど非常に改善されて魅力的になっている。しかし、よくなっていても、まだ根源的な面で東京とは差を埋められていないな、というのも再確認させられた。地方に頑張ってもらわないと日本の将来は暗い。どうにか、この状況を打破できるといいのだが。

タグ:地方の危機
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今井幸彦編『日本の過疎地帯』 [書評]

 1968年に出版された岩波新書。今井幸彦氏は共同通信者の社員であり1918年生まれ。1981年に鬼籍に入る。ほぼ50年前に書かれた本であるが、現在の日本が抱える人子減少問題を先取りしている。そして、この本において指摘されている過疎地域が抱える問題は、現在でもまったく解消されていないどころか深刻化し、さらに全国的に広がっている。作者は、この過疎という現象を病に例え、「なにか中世におけるペストのように思われてきた」と述べている。それはペストのように「人々はその原因も予防も、治療法も知らず、町の辻々に火をたいて空気が浄化されると思い、あるいは魔女の仕業だと罪もない何千何万という女性がつぎつぎに殺されたり・・(中略)。しかし、違っている点は、過疎とは、これをなんとしてでも食い止めなければならぬものなのかどうかさえわかっていないことだ。」
 その答えは50年近く経った今でも、分かっていない。ただ、1968年に起きた過疎現象の要因は、エネルギー革命による炭焼きの需要がなくなったことが、特に山間部では大きかった。また、農村はもちろんのこと山間部や奥地も市場経済が浸食し、ライフスタイルを都市型に変えたい欲望が芽生え、現金収入を得るために仕事をする必要性が高まったことも大きい。さらには、過疎現象と並行して、都心部では圧倒的な労働力不足という状況にあり、単に過疎地から押し出す力だけではなく、引っ張り出す力も強烈なものがあった。1960年代は日本という国土の人口配置がパラダイム・シフトをするように大きく変化をしていった時代であり、地方における国勢調査の人口減少の比率は「地方消滅」といわれ始めた2010年〜2015年よりもはるかに大きなものであった。
 『道路整備事業の大罪』という下品なタイトルの本を著した私が大変、興味を抱いたのは、著者達が道路を整備すると過疎化が加速するといった現象がみられることを既に観察していることである。ちょっと引用したい。「つまり道路が整備され交通量が増大するに従ってこれら沿道諸部落の過疎化が促進されたことは、先に滋賀県葛川地区でみてきた通りで、交通機関の“革命”と、沿岸都市部への時間的短縮にあるとみられる。」(p.114)
 私が拙著で指摘したような状況は既に1960年代にみられていたにも関わらず、その後も「限界集落を守る」ために道路を頑張って整備して、結果、集落から人がいなくなるということを日本の道路事業は積極的にやってきたわけである。それを、改めて指摘をした私の本も認めない人が多いが、そうやって地方部を、都市を中心とした市場システムに組み入れ、地方を殺してきたというのが、日本の道路行政である。そういうことが既に1968年に著されていた本書にて指摘されていたというのは発見であった。他にも過疎化がストップをした事例は、民間人がリーダーとして頑張ったところであって、役場が頑張っても空回りをするだけだ、などの興味深い指摘がされている。
 現在の日本は一部の地域だけでなく、全国レベルで人口減少が進んでいるような状況であるが、その現状をしっかりと分析するうえでも極めて貴重な視座を本書は提供してくれる。そして、著者はこれは日本の大問題であると指摘しているが、現在からみるとはるかに牧歌的に見えてしまうのは、それだけ現在の日本が危機的状況にあることの裏返しであろう。 


日本の過疎地帯 (1968年) (岩波新書)

日本の過疎地帯 (1968年) (岩波新書)




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オバマケアの意義 [トランプのアメリカ]

 オバマケアとはアフォーダブル・ケア・アクト(ACA)の別名である。2010年に議会を通過した医療保険制度を改革する法律で、具体的にはより多くのアメリカ国民に医療保険に加入してもらえるようにした。それまでは、保険会社は持病を抱えている人の保険加入は断れたし、保険金の支払いの上限を設けることができたが、医療費の自己負担分の上限も設定された。
 マイケル・ムーアが2007年の映画「シッコ」で描かれたような、高額の医療費を保険がカバーできずに治療できずに亡くなるような人が、このオバマケアで激減することになった。オバマ政権のレガシーとして捉えられている。
 しかし、このオバマケアはトランプが大統領になることと、共和党が政権を握ることで、風前の灯火と言われている。また、多くの州において保険会社が独占的状況にあったため、想定した市場での競争がみられなかったところは、むしろオバマケアが導入された後、保険が高まったりして、それを理由にオバマケアが失敗だと指摘する人もいる。
 ただ、このCNNのニュース動画では、長年共和党を支持していた人が、このオバマケアを廃止させるために先頭を走っているポール・ライアン議員に、「オバマケアは本当に素晴らしい、なぜ変える必要があるのか。オバマには心から感謝している」と述べている。まあ、ライアン議員には蛙の面に小便といった効果しかなかったのかもしれないが、私はちょっと心を揺さぶられた。『シッコ』が描かれた時代では亡くなっていたであろう人が、オバマケアのおかげで生き延びることができた。こういうのが政治なのではないか、と思わさせられた。そして、トランプはオバマの政治的成果を無に帰そうとしている。なんて愚かな。そして、そんなトランプを大統領に選んだアメリカも愚かな国である。
http://edition.cnn.com/2017/01/12/politics/audience-member-paul-ryan-town-hall-obamacare/index.html?iid=ob_lockedrail_topeditorial
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トランプは心理学者の分析だと、恐ろしいほどのナルシストであるということだ [トランプのアメリカ]

 まだ、トランプ氏が当選する前にCNNが心理学者ゲール・ザルツ博士に、トランプ氏の性格分析、そして大統領の適性などを取材した動画がある(下記)。
https://www.youtube.com/watch?v=MFHFsWN8VCE
 ザルツ博士は、直接診断していないので、しっかりとした分析ではないが、これまでの発言などから「強烈なナルシスト」であると判断している。そして、このようなナルシストは大統領として適性があるのか、という質問に、それは諸刃の刃であり、自信過剰のところは往々にして優れた大統領の構成要素ではあるが、自分中心というのはむしろ反対の要素であると述べている。
 次の動画も、彼が精神病であると解説している(下記)。
https://www.youtube.com/watch?v=2_jXt6v4I8g
 ここでは9つの側面から彼が精神的にみると病んでいると述べているが、なかなか説得力がある。
1)病的な嘘つきである
2)感情をコントロールできない
3)偉大であるとの誤解
4)飽きやすい
5)自分が一番、状況(世の中)を理解していると思っている
6)不道徳なロマン
7)批評に堪えられない
8)謝罪をしないのと恥知らずである
9)共感する気持ちが欠如している
 問題なのは、このような精神的に病んでいる人が核ミサイルのボタンを持てているということである。これは、冗談ではなく大変恐ろしいことである。

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イヴァンカ・トランプのアパレル企業の商品の半分は中国で製造されている [トランプのアメリカ]

 トランプは選挙活動中、中国との貿易赤字を取り上げ、中国だけでなく、中国に製造拠点を置いている企業は「不道徳」であると強く批判していた。さて、しかし、イヴァンカ・トランプのアパレル企業の商品の半分は中国で製造されていて、それ以外もほとんどインドネシアなどアメリカ合衆国以外で製造されている(下記参照)。
http://edition.cnn.com/videos/politics/2016/12/13/ivanka-trump-made-in-china-griffin-pkg.cnn
 トランプは自分のことを棚上げして、他人そして他国を強烈に攻撃するという傾向がある。そして、彼の主張は「事実」に基づかない。彼と「交渉(deal)」しなくてはならない日本の政治家、企業はこの点を相当、留意しなくてはならないであろう。嫌な仕事であろう。

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トランプは日本が嫌いであるという印象を受ける [トランプのアメリカ]

 トランプ大統領は1月11日の記者会見で、「中国、日本、メキシコとは貿易不均衡で毎年数千億ドルを失っている」と日本を名指しで批判した。ここで、私がとても気になったのは、米国の貿易赤字国ランキングの2位であるドイツに言及していないことである。ちなみに1位は中国、2位ドイツで3位日本、4位メキシコとなっている。なんでドイツをスキップしたのか。トランプの父親がドイツ系ということもあるかもしれないが、納得ができない数字である。ちなみに、米国への輸入額をみると日本の1313億ドルはメキシコからの2964億ドルの半分以下である。
 以下は、憶測での話なので無責任なことを書いてしまうのだが、私はどうもトランプのロシアへの過度の偏向、そしてそれと同時に中国への攻撃性の高さなどから、スラブ、アングロサクソン系を好み、アジアを蔑視するような考えを潜在的に有していると思うのである。トランプの3人の妻のうち、2人はアメリカ移民一世で訛りが極めて強い英語を話すスラブ系の女性であること、今回のドイツを批判から外すこと、などからも私は人種差別的な傾向をみてしまうのである。
 したがって、日本は相当、トランプ下ではやられると私は見ている。少なくとも米国輸出関連企業は、これからの4年間は相当、苦労することになるだろう。自民党はTPPに対して楽観的な見方をしていたが、トランプのメキシコ国境の壁、などの持論への執着の高さなどから類推するに、TPPをアメリカが批准することは、この4年間ではまずあり得ない。その公約を守ることが、トランプの大統領としての生命線でもあるからだ。どちらにしろ、日本にはまったく肯定的なイメージは本心では持っていないという印象を受ける。これからは、アメリカ人だけでなく、日本人にとっても大変な4年間になりそうだ。

タグ:トランプ
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トランプのマス・メディアへの挑戦は、民主主義への冒涜以外の何ものでもない [トランプのアメリカ]

 トランプ次期大統領は民主主義下の選挙によって(ロシア政府によるハッキングの支援はあったかもしれないが)大統領に選ばれた訳だが、彼は一生懸命に民主主義を壊そうとしているかのようだ。
 民主主義とは、諸個人の意思の集合をもって物事を決める政治体制である。これがしっかりと機能するためには、諸個人がしっかりとした意思を有することが不可欠であるのだが、そのためにはマス・メディアが公正な事実を伝えるという役割を果たさなければならない。これは、民主主義と社会主義の大きな違いであり、私がいろいろな問題がありつつも民主主義の方がましだな、と思う大きな理由であったりもする。
 さて、その民主主義国家の大統領となれば、そのような民主主義が機能すべき条件を死守することが当然であると思われるのだが、彼はCNNのように極めてまともなマス・メディアを「デタラメニュース」と呼び捨て、取材会見にてCNNの記者に質問さえさせなかった(下記の動画参照)。
http://edition.cnn.com/2017/01/11/politics/donald-trump-press-conference-highlights/index.html
 CNNはトランプ次期大統領に都合の悪い「真実」を報道しているが、それを報道しているのは、それが「事実」であるからだ。トランプ大統領は前回のブログで書いたが、自分の都合の悪い情報は、それを「歪曲」して人々に伝える。ツイッターというメディアを駆使するトランプは、自分自身が情報の発信源となり、自分の都合のよいように情報を加工し伝えるのである。そして、悲しいことに多くのアメリカ人がその情報をもとに状況を判断しようとしている。加えて、先のCNNの動画からも分かるのは、トランプ次期大統領がCNNの記者に質問さえさせず、この記者が「That is not appropriate (それは適切ではありません)」と抵抗しているのを冷酷に無視するトランプの対応に取材会場から拍手が起きていることだ。この拍手をしているのは、マスコミ関係者であると思われるのだが、その人々は、それはマスコミ全体の危機をもたらす深刻な事態であることが分からないのであろうか。私はトランプの対応の酷さに愕然とするのと同時に、この拍手をしている人達がいることに強いショックを受けた。おそらく、このように拍手をしている人達によってトランプは当選したのであろうが、マス・メディアが機能不全に陥った時は、民主主義も死ぬ時である。もちろん、民主主義でなくても御用メディアは必要であろうが、それはもはやジャーナリズムではない。それが理解できているから、右翼系のFOXニュースのアンカーであるメーガン・ケリーはトランプと強く対立しているのだ。
 しかし、アメリカのマス・メディアはまさに大変な危機的状況にある。ここが正念場であるし、アメリカのマス・メディアがトランプにしてやられたら、それはアメリカという国が大きく瓦解するターニングポイントになるであろう。「アメリカの民主主義」対トランプという4年間に及ぶ戦いが今、火ぶたを切った。そして、その戦いの火の粉から日本人も逃れることはできないであろう。

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おせち料理を食べない人達 [グローバルな問題]

 年末から正月にかけてスキー場のホテルに来ている。このホテルはバイキングなのだが、元旦の朝食はさすがにおせち料理とお雑煮が提供された。しかし、おせち料理だけでなく、白飯も提供されたり、パンなども提供されたりしていた。むしろ、通常のバイキングの朝食におせち料理と雑煮が追加されたような形であったかもしれない。流石に私の家族は、おせち料理しか取らなかった。それは、お正月の雰囲気を味わいたいということもあるが、日本人としておせち料理という貴重な食文化を継承させるうえでも、その程度の自覚を持たなくてはいけないと思っているからだ。などといいつつ、おせち料理をつくっていない、という点でまったくもって立派ではないことは自覚しているが、毎年、正月に旅行をするのは、家内とおせち料理を巡って夫婦げんかをすることを避けるためであったりするので、その点は許していただければと思う(おせち料理を準備すると、7割以上は私がつくってしまい、毎年の恒例のように夫婦げんかをしてしまうので)。
 まあ、つくるということを放棄しても、せめて消費することはしないといけない、ぐらいの自覚はあるが、周囲のお客さんの多くは正月から白飯を食べたり、パンを食べたりしていた。おせち料理が嫌いなのだろうか。それとも、普段、食べ慣れていないものを食べることに抵抗があるのだろうか。外国の方なのかと思ったりしたが、日本語をしゃべっているし、このホテルは、そもそもあまり外国人は来ない。なんとも不思議な光景である。確かにおせち料理をつくることを放棄した私が言うのは、図々しいところはあるが、日本人が日本人であることの一つとして、日本文化を次世代の人類に継承する役割を担うことがあると思う。つくらなくても消費する、そのような文化的な活動にせめて食べるということで貢献してもいいのではないかと思う。そういう考えもない人達は、本当に日本人なのであろうか。嫌味ではなく、ちょっと真剣に考えさせられている。
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ドナルド・トランプの「ロシア・ハッキング」に関する嘘 [トランプのアメリカ]

 ドナルド・トランプがアメリカの大統領になってからこの二ヶ月ほど、ほぼ一日に2時間はCNNやNBC、CBSなどのアメリカのニュース番組をインターネットチェックしている。ホームページを最近、更新できていないのは、それが理由である。さて、トランプは知れば知るほど、恐ろしく酷い大統領であり、このような人物は中東やアフリカの小国ではあり得ても、アメリカという大国の大統領になり得るというのは信じられない。まるで悪夢を見ているかのようである。この悪夢の4年間をどうやって生きていけばいいのか。その恐怖ともいうべき不安が、私に多くの情報を入手させようとしていると思う。ということで、相当のトランプ・ウォッチャーになりつつある昨今であるが、NBCのレイシェル・マドーの1月6日のニュースはもうあまりトランプの出鱈目ぶりに驚かなくなった私でも驚いた。マドーも驚愕している。
 ロシアが前回の大統領選でサイバー攻撃をした証拠があるとアメリカの情報機関がその報告書を公開した。これは、すべての人が閲覧することができる。しかし、トランプはこの報告書を踏まえて、米国民に話をしたのだが、その報告書と違う内容を伝えたのである。報告書は誰でも閲覧できるにも関わらず、その内容と異なる嘘をトランプ氏は話したのである。嘘をつくにもあまりにも酷い。というか、どのような神経をしているのであろうか。そういう人が大統領をしている国というのの怖さを我々はしっかりと自覚した方がいいかと思う。レイシェル・マドーのニュースは下記で見ることができる。

https://www.youtube.com/watch?v=nqHJCxdidsA

タグ:トランプ
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トランプはメキシコに壁をつくると主張するが、なぜカナダとの国境にはつくろうとしないのか [トランプのアメリカ]

トランプは、大統領選挙中にメキシコに壁をつくると主張して一部の、しかし彼を大統領にするだけには十分の支持を得たが、アメリカは何もメキシコだけが陸続きの国境である訳ではない。カナダとも陸続きの国境をメキシコより長距離、有している。トランプや彼を支持する人達は、普通、国境には何かしらの障害がなくてはいけないであろう、と一般論を述べて、その政策の費用対効果などを疑問視する人達に回答しているが、一般論であるならカナダとの国境にも壁をつくるべきである。明らかにメキシコに対して差別的な対応である。これは、ちょっと問題であると思われるのだが、誰も指摘しているように思えないので、ここに記させてもらう。

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ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい [その他]



12月12日からポケモンGOのポケモンが追加されることになった。ちょうど、その前日に私はポケモンをコンプリートさせた(海外バージョンのガルーラとケンタウロスはゲットしていない。バリヤードはゲットしている)。ちょっと、このように告白すると恥ずかしい。いい大人がポケモンGOをしていることを恥じている自分がいるからだ。さて、そのようなポケモンGOであるが、「若者がポケモンGOから離れた理由」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161216-00000002-zdn_m-sci)などと、したり顔で分析している人達が多いことが気になっている。ポケモンGOをしていない若者に取材をして、ポケモンGOをしていない人が、なぜポケモンGOをしないのかを聞いても、その理由が分かる訳がないだろう。私はホヤが好きでないが、「ホヤを食べない」人達がなぜ「ホヤを食べないのか」を、本人もホヤを食べない人が取材をして分析を試みても、ホヤをマーケティングする戦略が見えないことと同じである。ホヤを食べる人達はとても多くいて、それらの人をマーケットとして、ホヤ産業は十分に成立している。別に、我々のような「食べない人達」が食べなくてもどうでもいいのである。このエッセイは、「新ポケモンの追加でさらなる盛り上がりを見せるポケモンGOですが、若者たちをどこまで取り込んでいけるのでしょうか」と締めているが、私からすれば、今の状態でも十分にポケモンGOをする人が多すぎて、盛り上がっていて、ちょっと困っているぐらいである。これ以上、増えると逆に一人当たりの効用は減るので、そこまで儲けなくてもいいだろう、という気分である。さて、それでは、なぜ私のように未だポケモンGOをする人がいるのに、飽きている人もいるのか。ポケモンGOをしている私が解説したいと思う。

まず、ポケモンGOというゲームの本質を理解していない人が多いことが挙げられる。別に本質を理解したとしても、それに興味を持たなければどうでもいいことであるが、それを知る前に飽きてしまう人が多い。多くの途中で飽きた人達は、このゲームはポケモンをゲットすることが目的であると考えている。それも一つの側面であるが、このゲームはポケモン・ジムにて、バトルをしながら陣取り合戦をすることこそが、もう一つの目的であり、これはなかなか楽しいゲームであると私は捉えている。そして、バトルをするためには、ゲットしたポケモンを強化させなくてはならない。この育てる、という側面もこのゲームを楽しくさせている点だ。どのポケモンを鍛え、ジムに参戦させるのか。タイプごとに、戦略ごとに、いろいろと考えなくてはならない。ポケモン・ジムで参戦をして勝てばコインがもらえる。コインによって、孵化器などのグッズを購入することができる。孵化器はポケモンの卵を孵化させるのに必要な道具で、いくらあっても困らない。お金を払っても買うことができるが、流石にそれはちょっともったいないので、私は毎日、海外にいても10コイン(最低の単位が10コインから)はゲットするように努めている。このコインのインセンティブがあることは、プレイする人達の大きなインセンティブになっていると思う。このバトルのシステムは非常によく考えられており、つくづく、このゲームは洗練されていると思う(タイプごとに弱点と強みがあるところとか)。私は、駅から家に帰る際に、2つ、状況に応じては3つほどジムを訪れ、バトルをしてから帰宅をしている。バトルをしている姿は、ちょっと人に見せられなくて、その点は相当、このゲームの弱点ではあると思うが、喫茶店でやれたりもするところがあるので、それは助かっている(ゲームをしているのではなく、メイルを打っているように見えるからである)。
 ポケモンGOをポケモン・ゲットと捉えている人が飽きてしまうのはもったいないと思うが、このゲットするという行為自体にも、なかなか楽しい工夫が為されており、もう少し真剣にやれば楽しみが分かると思うのである。レア・ポケモンのポケモンの巣に訪れて取るのは、あたかもカブトムシがわんさかといる森に行って、それらを取る時のような興奮を覚える。そして、そのために知らない公共空間(たいてい公園などの公共空間がポケモンの巣に設定されている)を訪れるのも悪くない。こんないい公園が東京にはあったのか、などを知る機会を提供してもらって感謝をする時もあるぐらいだ。
 私の場合は、子供達はあまり興味を持っていないが、家内もはまっているので、なかなか夫婦のコミュニケーション・ツールとしてはプラスになっている。もちろん、そういうのがまったく不要なおしどり夫婦であれば、いらないのであろうが、ちょっと夫婦仲が怪しい場合は、ポケモンGOはプラスしかもたらさないであろう。
 私の子供は一人が大学生で、ポケモンGOは家族で最初に手を出したのだが、一番早く飽きた。それは、ポケモンGOというゲームに問題があるというよりかは、その奥深さを追求するような意欲、好奇心が欠けているからである。そんな、好奇心のない若者に媚びて、合わせていたら、ゲーム自体の楽しさを損なう。というか、バトルをしているとつくづく感じるのは、皆、やり過ぎ。香港とかに来て、おっ!ここはポケモンのレベルが低いな、と喜んだのだが、バトルでやっつけても瞬時でまたバトルを仕掛けられてしまう。レベルが低いが、ポケモン・バトルの参加度は東京を上回るのではないだろうか。ポケモンGOに嵌まっている人達は、既に世界中に十分いるし、私としてはちょっとコインを稼ぐためには、皆があまりにもポケモン・バトルをやり過ぎるわ、と自分のことを棚に上げて思ったりしているぐらいだ。現状のポケモン・ジムの数からすると、参加者は飽和数に近いのではないだろうか(いや、さらに参加者が増えればジムを増やすだけでしょうが)。ということで、本当、ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい。というか、したり顔は格好が悪い。

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Resilienceという最近のバズワード(Buzz Word)に関して考える [都市デザイン]

香港で開催されているパシフィック・リム・コミュニティデザイン学会に参加している。そのテーマであるが、「Agency and Resilience」である。日本語に訳すと、「組織と回復力」になるのだろうか。Agency はステーキホルダーのような意味で使われているようだ。コミュニティ・デザインを遂行させていく「組織」的なイメージであろうか。それはともかく、気になるのは「Resilience」である。これは、最近、都市計画関係の「バズワード」(Buzz Word)のようになっており、回復力・復元力のようなものが都市計画・都市デザインの重要なテーマになっている。最近、東北大震災をはじめとした自然災害が世界中でも起きているので、これにどう対応するかは大きな課題であるが、香港中華大学のミーカム(Ng. Mee Kam)先生の講演では、自然災害はもちろんのこと人的災害に対するResilienceが重要だとの指摘があった。

これは結構、示唆に富んでいる。というのは、コミュニティもそうであるが、個人ベースでも、いろいろと酷い状況に追い込むのは社会的、人的要因が大きいからだ。それにいかに抵抗して、与えられたダメージを復元させていくか、ということは自然災害よりむしろ重要であるかもしれない。ミーカム先生は香港での都市再開発で土地を強制収容された人達、コミュニティをいかに復元させていくか、という話を中心にしていたが、日本に目を向ければ、福島第一原発で大きなダメージを受けた人々、コミュニティの復元をどうするか、ということは真剣に考えなくてはいけない課題である。今回の学会でも、東北大震災の被害からいかに復元させようとしているか、というプロジェクト事例はいくつも発表されたのだが、福島原発がらみのプロジェクトでの発表は皆無であった。当たり前である。復元はほとんど出来ていないし、復元の兆しでさえ見えないからである。それどころか、福島を脱出した人々が、脱出先でいじめに遭っていることが、最近の新聞やメディアを賑わしているような状況である。ダメージの復元どころか、ダメージが加えられているのだ。そして、このようなダメージはすべて人的要因に基づく。確かに津波による停電が原発事故のきっかけかもしれないが、そのような事故が想定されていたにも関わらず、対策を怠ったこと、そして事故が起きた後に、しっかりと責任を取らず被害者の自己責任のような状況に追い込んでいること、というか、そもそもこんなに危ないものをつくってしまったこと、などはすべて人間の責任である。

さて、Resilienceというのは被害者を主体とした言葉である。都市計画は行政が執り行い、都市開発などは住民視点だと行政が加害者となる。そして、原発なども行政が加害者側に位置づけられる。ということは、Resilienceを政策に位置づけることは相当、無理がある。自然災害であれば位置づけられるが、人的災害に対しては難しい。不可能に近い。そういう中で、コミュニティや住民がResilienceを持つようにするのか。都市計画では難しいが、ボトムアップのまちづくりであれば可能かもしれない。そして、そのようなアプローチを可能にさせるのは民主主義(デモクラシー)が洗練されていないと難しい。そういう点では日本はそれほど期待が持てないかもしれない。とはいえ、それを放棄すれば「回復」させる可能性はゼロである。人的要因でダメージを受けると、それに何もしないで回復させようとすることは無理である。いろいろと大変なことも多いが、抵抗をし、努力をしなくてはならない。そのための方策論は、行政の政策ではなく、住民レベル、個人レベルでのものではなくてはならない。ということに気づいたが、その具体的な方法はまだ見えない。それを見出すのは、私の課題であると考えている。

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『後妻業の女』 [都市デザイン]

機上の人。食事をする時には本も読めないし、ラップトップで仕事も出来ないので、映画を観てしまう。ハリウッド映画の名作を観ようとしたが、あまり食指を動かしたいものがない。そういう時には最近では邦画を観る傾向がある。というのは、アットランダムで映画を選んだ場合、ハリウッド映画よりも邦画の方が観るに値する作品に当たる確率が高いからだ。そして、観たのが『後妻業の女』。大竹しのぶの怪演が凄い。そして、世の中、弱肉強食であるというストーリーもぐいぐいと引き寄せるし、シナリオ自体もとてつもなく面白い。私をも含む一般的な人も、いつこの日常生活の陥穽に落ちてしまうか分からない、という臨場感が、この映画をそこらへんの恐怖映画より背筋をゾッとさせるものにしている。まあ、所詮、「結婚紹介所」のようなビジネスは相当、あくどいというのは想像できるが、それを詐欺の機会として捉えると、こんなに怖いことが展開できるのか、ということを観る者に知らしめた点で、逆にこの映画を観て何か詐欺のヒントを得る人が出てきそうで怖い。前情報なしに観たのだが、相当、観るものにインパクトを与える娯楽作品である。このような観た後の充実感は、最近ではハリウッド映画ではなかなか得られない。ハリウッド映画に比して、邦画の質の高さを改めて実感する。


後妻業の女 DVD通常版

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  • 出版社/メーカー: 東宝
  • メディア: DVD



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下北沢駅前の再整備は、日本のまちづくりが民主主義的に行えるのかのリトマス紙のようになっている [都市デザイン]

 小田急線が地下化したことで出来た上部周辺のまちの関わり方を考える「北沢PR戦略会議」の第二回全体会議に傍聴者として参加した。日曜日の朝の9時30分という厳しい時間であったにも関わらず、発表者達はもちろん、私のような傍聴者も多く、これはやはり下北沢という街が有する魅力故なのではないかと感じた。世田谷区長の保坂さんも出席をしていた。彼の下北沢への強いコミットメントがうかがえる。
 さて、これはなかなかボトムアップ的なまちづくりとしては画期的な試みなのではないかと思っている。市役所主導ではあるが、6つの活動テーマ(下北沢を緑化するグループ、下北沢案内チーム、イベント井戸端会議、ユニバーサル・デザイン・チーム、エリア・マネジメントのグループ、シモキタ編集部)に分かれた住民グループが、それぞれ、下北沢をよくしようと積極的に活動をしている。大企業による街づくりは、土地を使っていかに金を稼いでやろうか、というモチベーションで展開されている。大企業の人達は投資額も大きいし、彼ら・彼女らは賢いので、広告などもうまく活用し、起動時においては結構、街づくりが魅力的に映えたりする。武蔵小杉や二子多摩川などが、まさにそのような典型であろう。そのような街づくりに比して、住民やそこで仕事をしている商店の人達が主体となって街づくりを進めているのが、たとえば自由が丘や岐阜県の郡上八幡、長野県の小布施などであろう。このような街は、必ずしも利益だけでなく、その街がどのように持続していくことが可能であるか、自分達の生活もかかっているので真剣に考える。自由が丘も郡上八幡も、コンサルタントとかが「他にこういう優れた事例があります」などと紹介すると、「なんで他の事例を聞く必要があるのか。自分たちの町がどうなるかを考えることこそが重要なんだ」と回答するそうであるが、他人の真似ではなく、自分たちのポテンシャルをいかに活用することこそが重要であることを強く自覚しているからこそ出てくる発言であろう。
 そして、今、下北沢は商店主や住民などが中心となって街づくりをしようと動いている。この会議でも、緑化グループなどは駅前広場の活用で、なかなかクリエイティブな優れた意見が出ていたりした。
 さて、一方でこのようなアイデア出しがされているにも関わらず、どこかで駅前広場の設計が着々と進んでいる、という話を聞いた。すると、せっかくソフト面での優れたアイデアが出ても、それが実現しにくいことになってしまう。私もそのような問題提起をしてみた。そこで出てきたのは、「そんなことを言っても、ここまで積み上げてきたので後ろに戻ることは出来ない」というような回答であった。これに関しては、会場からも不満がもたらされていた。
 私は、役所の人がこのように回答するのはある程度、想定されたが、何かしっくりとこない違和感を覚えた。この違和感を考察していて、あることに気がついた。というのも、都市デザインとか都市計画とかは、あくまでも方法論、手段であるはずなのに、いつの間にかそれが目的になってしまっているということだ。つまり、人々が出すアイデアを具体化させる方策、手段として都市デザインや都市計画がある筈なのに、これらの事業こそが目的になってしまい、その出来上がったものをいかに活用するというためのソフトのアイデア出しになってしまっているのだ。つまり、主客転倒しているのだ。
 このような目的と手段が置き換わってしまう状況は、道路事業、原発などにも共通することであり、2020年の東京オリンピックもオリンピックという都市整備のための手段が目的と置き換わってしまっている。どうして、こういうことが起きているのかというと、公共事業が人々の生活を豊かにするという本来の目的から逸脱して、公務員がサラリーマン的にそれを遂行することこそを最優先に捉えてしまっているからであろう。
 この構造を変えない限り、日本において優れた公共空間、都市空間はつくれないであろう。下北沢はまさにその試金石となっている。下北沢は住民の力、そして思いが非常に強い。この住民の「声」が、実際のまちづくりに届かないのであれば、どこで届くことが出来るであろうか。まさに、日本のまちづくりの瀬戸際に立たされているのが下北沢なのではないだろうか。
 私も微力ながら、住民の「声」が駅前の公共空間に届くように出来ることをしていきたいと考えている。

タグ:下北沢
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カジノをどうしてもつくるというのであれば、苫小牧につくるべきである [地域興し]

 カジノ法案が今日にも衆院を通過しそうだ。このブログを読まれている人は、もうその結果を知っているだろう。さて、IRの誘致を考えている自治体は7つ。東京都(お台場)、横浜、大阪市(夢州)が注目されているが、私はカジノという濡れ手に粟的ビジネス・チャンスこそ疲弊している地方の活性化の切り札として使ってもらいたいと思っている。
 私は、基本的にカジノは強く反対しているが、もしどうしてもつくるというのであれば、それを大都市に誘致するような愚をさらに重ねることだけは避けてもらいたいと強く思う。そもそも世界的にみてもカジノというのは、大都市から隔離されて行われる。アメリカではネバダ州がカジノ解禁だが、それはネバダ州の大部分が荒涼たる砂漠で、他にめぼしい産業(軍事産業はある)がないからである。
 上記の3以外に手を挙げているのは、釧路市、苫小牧市、留寿都村の北海道勢、そして佐世保市(ハウステンボス)である。これら4つのうち、私が強く推したいのは苫小牧市。苫小牧にはまったく買い手がつかなかった広大な工業団地が広がっているし、社会基盤も整備されている。千歳空港からのアクセスもよいし、北海道はインバウンド観光客も多い。ニセコや札幌、支笏湖などともパッケージ化しやすく、その経済効果はすこぶる大きなものが期待できるであろう。社会基盤、アクセスのよさ、さらにはその地方において新たな産業の必要性の高さ、などから苫小牧市はまさにカジノを設置するのに適している。
 この苫小牧には大きく遅れは取るが、佐世保市のハウステンボスも次点としては検討に値する。苫小牧もハウステンボスももとはといえば、新産業都市という国策の失敗が背景にある。国策の失敗の責任を地方に対して取る、ということを国はしっかりと考えないといけないと思う。
 間違っても横浜市やお台場、そして地方都市に落ちぶれたとはいえ、腐っても大阪市にはカジノをつくるような愚は避けてもらいたい。
 

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藤原新也の景観についての文章を読み、ちょっと考える [グローバルな問題]

 藤原新也の『たとえ明日世界が滅びようとも』の中に景観について、非常に示唆的なことが書かれていたので、ここで備忘録も兼ねて、奇特な私のホームページの読者の方々とも共有したいと思う。
 それは藤原新也がまだ軍事国家の韓国を訪れた時の印象論なのだが、彼はこのように記している(pp.115-116)。
「(中略)私の旅の経験からするなら、この軍事国家と言われる国、あるいは独裁国家ほど旧来の文化が根強く残っている国家もない。
 このことはビルマにおいてもイランにおいてもキューバにおいても同様のことが言えた。
 そして皮肉なことに、その独裁国家、あるいは軍事国家が瓦解し、資本主義化され民主化されることによって旧来の民族文化や人々の営みや自然な風景は急激に破壊され、世界のどこに行っても金太郎飴のような同じような平準な世界に成り代わっていく。
 (中略)
 私は軍事政権や独裁政治を肯定する意味で言っているのではなく、こういった国家には資本主義的な拡張や成長の論理が優先しないだけに旧来の文化が居残るという側面があるという事実のことだ。
 したがって金正日の逝去に際して私が思うのは、彼の死によって行く行くこの国が西側の経済構造、あるいは民主主義というイデオロギーに取り込まれたとするなら、「風景は速やかに崩壊する」だろうということである。

 ヴァーナキュラーの景観は、地球上どこにいっても人々の心を打つ。そのヴァーナキュラー性はしかし、グローバル化が進展することで徐々に失われていく。日本の地方の景観を無個性で醜悪なものに変容させたのは、成長という企業の経済論理である。
 フィデロ・カステロが逝去した。私は8月末にハバナを訪れ、思ったほどヴァーナキュラーでは既になくなっていたことに多少、落胆したが、さらに少しでも残っていた風土的特徴も今後、失われていくのかもしれないなと、この文章を読んで思わせられた。

たとえ明日世界が滅びようとも

たとえ明日世界が滅びようとも




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コーラを飲んで食事をしながら、グルメ談義をするのは滑稽な気がする [B級グルメ雑感]

自由が丘のある中華料理店で、一人で夜飯を食べていた。結構、味に拘る評判のよい店である。客は私と30代半ばをおぼしき女性の二人だけ。この女性客はどうも常連らしく、客も少ないこともありシェフと会話をしている。私は一人なので、なんとなく会話に耳を傾けていた。
 どうも、この女性客はシェフの考案中の料理を食べて、いろいろと感想を述べているようだ。そして、その後、ラーメン談義に会話は展開していく。
札幌ラーメンのケヤキ・ラーメンは観光客しかいかない。地元民はいかない。地元民が行くのは○○ラーメンだ」。
 ちょっとメモをしたいようなことを話している。
「長浜ラーメン、あんな不味いものはない。私は、とても喰えない。なんで、あんなものを有り難がる人がいるのかなあ。安いかもしれないけど、あんな不味いのじゃ金を一円でも払う価値はないと思う。味がわかんないじゃない」
 私は、実は長浜ラーメンが結構、好きだ。そうなんだ、私は味音痴なのか。確かに、そんなに美味しいかと言われたら怪しいけど、私は吉野屋の牛丼とかも別に美味しく食べられるからな。まあ、料理の味にとやかく言う資格とかないのかなあ、と謙虚に思いながら聞いていた。というのも、私はその自信をもった話しっぷりから、彼女を料理研究家であろうと勝手に勘ぐっていたからである。
 さて、そこで精算をしようと彼女の座っている卓の前のレジに歩いて行くと、なんと彼女はコーラを飲んでいたのである。コーラを飲んで、中華料理の味を評価するのは不可能だろう。というか、コーラを食事中に飲まないでしょ。あんたは甘やかされた子供か。コーラだろうがファンタだろうが、そんな強烈に砂糖が入っている飲み物を飲んだら、味、分からなくなるでしょう。別に飲むなとは言わないけど、料理の味をとやかく言う資格はないだろう。と、心の中で、その女性を勝手に料理研究家であったと思ってしまった自分に滅茶苦茶突っ込んでいた自分がいた。

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コルドバのメスキータを訪れる [地球探訪記]

 コルドバのメスキータを訪れた。1984年に世界遺産に指定された785年にイスラム教の寺院として建設され、その後、13世紀にレコンキスタによってイスラム教徒が駆逐されるとカトリック教会堂として転用されたという、折衷建設である。
 メスキータは大きく、イスラム教寺院の「塔」であるアミナール、そしてオレンジの木が植えられた中庭、そして「礼拝の間」から構成されるのだが、圧巻なのは「礼拝の間」であろう。「礼拝の間」の規模は175メートル×135メートルの約2.24ヘクタール。そこには何と850本の柱が定間隔に並んでいる。入り口付近は特に光があまり入らず、薄暗いので、そこにいると、まるで森の中にいるような気分になる。
 この広大なる屋内空間は、しかしつくられた時代によって随分と様相が異なる。そもそも、最初はモスクとしてつくられていたのに、途中から大聖堂になってしまったので、イスラム教とキリスト教のデザインコンセプトが折衷されているので、ある意味では、ご飯にマヨネーズをかけたような違和感さえ覚えてしまう。コンセプトがしっかりとしていない幕の内弁当みたいな感じである。
 入り口から出口に向けて、建物が拡張していった経緯ごとに、スタイルや意匠、さらには採光による明るさまでもが変化していく。したがって、歩いていると徐々に空間が変化をしていくのを感じることになる。具体的には入り口から出口に移動すると、古い→新しい、イスラム教(モスク)→キリスト教(大聖堂)、暗い→明るい、オーセンティック(石とレンガが交互に貼り付けられている)→偽(レンガはペンキで塗られる)といった感じで変移する。私は個人的には入った直後の、薄暗くて、古めかしいモスク的な空間が最もオーセンティックに感じられ、気に入った。逆に、大聖堂の空間は、モスクに接ぎ木したような建築空間であり、どうも好きになれない。大聖堂はやはり大聖堂としてつくられた建築の方が迫力もあるし、また、同じモスクから大聖堂に転じたセビージャのものの方が、モスクとしての名残をそれほど残していないので返ってしっくりくる。
 とはいえ、この柱とアーチの連続性がつくりだす異様な空間は、まさに体験するのに値する。二つの文化が交わることが、必ずしも相乗的な効果をもたらしたとはいえないような印象を受けたが、宗教が異なるにもかかわらず、その価値をしっかりと認識し、モスクの形態を維持し、それを活かしてキリスト教の空間作りをしたという点は、神仏混淆をした日本などとも通じる寛容性かとも思われる。キリスト教もイスラム教も一神教であるが、そういう点はプラクティカルで私には好感が持てた。この空間にいると、今、中東で起きている宗教対立、またはトランプが主張しているムスリム教はアメリカから出てけ!といった発言がいかに偏狭なものであるかが理解できる気がする。

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(中庭とバックにはアミナール)

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(ライトアップされたアミナール)

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(最も古いパート。コンクリートとレンガを交互に置くことで、空間に特別な味わいをもたらしている)

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(最も古いパートは屋根も木でつくられており、キリスト教の教会堂と比べると質素で落ち着いた雰囲気)

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(教会堂の屋根は随分と派手で仰々しい)

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(新しいパートは、レンガ部分もペンキで塗られていたりして、神聖なる空間をつくろうとする意気がそれほど感じられなくなる)
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『渋谷』 [映画批評]

藤原新一の原作ということで期待をして観たが、期待に添う内容の濃い映画であった。綾野剛はどちらかというと、エンターテインメント色の強い作品に出ている印象が強かったが、この映画における演技の巧さ、存在するだけでつくりだす空気感はカリスマ性に溢れていて、彼一人で、この映画のストーリーをつくりあげていたといっても過言ではない。内容的には、プリクラが流行った時代の作品かなと思ったが、最近の作品であったのは意外であった。このようなストーリーをつくりあげるだけの魅力を今の渋谷が発信できているとは思えないからである。いや、これは個人的な偏見だけかもしれない。渋谷から足が遠のいて結構、久しいからだ。




タグ:渋谷 綾野剛
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セビージャに来て、改めてスペインの都市デザイン力の凄さを思い知る [都市デザイン]

 スペインのセビージャに来ている。アンダルシアの州都であり、スペイン第四の都市である。人口は70万人程度。新潟よりちょっと大きく、統計的には仙台より小さいが、仙台は周辺を合併して膨らませているので、まあ仙台くらいの規模の都市であると捉えていいと思われる。
 92年にバルセロナでオリンピックを開催した同年、セビージャは万博を開催した。これは、1970年の日本万国博覧会以来の一般博であり、176日間で約4180万人の入場者を数えた。バルセロナはオリンピックを都市計画の手段として見事に活用して、都市を再生させることに成功し、その後、バルセロナ・モデルといわれるようになった。2012年のロンドンがバルセロナ・モデルを参考にオリンピック事業を開催して、同じよう多くの成果を得た。バルセロナに隠れて、それほど注目はされていないがセビージャも万博を契機として大きく都市改造をした。一番大きなインフラ整備はスペイン国鉄によるAVE(新幹線)の整備であるが、都市レベルでもいろいろと手がけている。
 セビージャの万博会場はグアダルキビル川の東側に設置され、それまで川の西側が中心であった都市を拡張させることが意図された。この万博を契機として、アラミージョ橋がグアダルキビル川に架橋され、川といった自然の障害によって行き来が不便であった東西間の移動が随分と改善されることになった。
 とはいえ2016年時点においても、トリアナ地区のようにローマ時代から市街地として発展した地区を除くと、全般的に東側の都市開発は大雑把で郊外的である。テーマパークやコンフェレンス会場など、あまり歩くことを配慮しないタイプの大規模が多く、都市性がなかなか育まれていない環境にあるなとの印象を抱いた。
 それに比して、世界遺産であるカテドラル、アルカサル、市役所を中心とした旧市街地の密度の高さはアーバンな魅力が詰まっている。そのヒューマン・スケール、住居と商業とが混在したミックスド・ユースの土地用途、小さくてもツボを突いたようにオープン・スペースの魅力を効果的に発散させている広場。スペイン人は本当に、このような都市空間を醸成させるのが上手いよな、ということを改めて知らされる素晴らしい密度間である。
 そして、バルセロナのように、旧市街地の壁の周縁部には、高密度の中高層住宅が林立している。これは、旧市街地の北側や中央駅そばに見られる。
 また、グアダルキビル川の東側には、それほど感心はしなかったが、都心部にて明らかに最近、再生事業を行っており、それが、まあ見事なのである。バルセロナのウォーターフロントや旧市街地のスポット的な都市再生事業、ビルバオのネルビオン川沿いの再開発事業、さらにマドリッドのマンサネーレス川沿いのリオ・マドリッドのプロジェクトなどを見た時と同様に、なんて、スペイン人はアーバンでパブリックの空間をつくるのが上手いんだろう、と改めて感心させられた。
 具体的にはクリスチアナ庭園周辺の広場、市役所からプエルタ・デ・フェレスとを結ぶコンスティトゥシオン通りのトランジット・モール、さらにはこの庭園からドン・フアン・デ・アウストリア広場とを結ぶサン・フェルナンド通り。この通りは、ライトレールが中央を走り、それに隣接して自転車専用レーンが引かれ、その外側に歩道が設置されている。そして、歩道と自転車専用レーンの間の空間にはオープン・カフェのテーブルが置かれている。こういう状況を計画的にデザインしているという事実に驚く。いや、日本でももちろん、計画もデザインもしようと思えば出来るだろうが、それを具体化することはなかなかできない。特に、都心部のまさにハートのように重要な場所においては、日本だと大手術のような大再開発をするか、何もしないかのどちらかになってしまう。それに比して、セビージャは都市の歴史的・文化的文脈を継承しつつ、ちょっと公共空間のあり方を変えているだけで、21世紀の人間都市にふさわしい空間をつくりあげているのである。

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(プエルタ・デ・フェレス)

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(プエルタ・デ・フェレスを走るライトレール)

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(サン・フェルナンド通り)

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(コンスティトゥシオン通り)

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(大聖堂)

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(アルカサルの美しい庭園)
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セビージャにてバリヤードをゲット。スペインのポケモンGO事情。 [その他]

 スペインに来ている。実は、私はたしなむ程度にポケモンGOをしている。スペインに来たので、仕事のついでにポケモンGOのスペイン事情もちょっとチェックをした。まず、ポケモン・ストップなどの数はマドリッド都心には多くあるが、郊外とかには少ないという印象を受ける。スペインでも都市偏重という傾向がみられる。また、ポケモン・ジムに関してだが、日本よりは弱い印象があるが、圧倒的な差があるとは言えない。カイリューの3000ポイントクラスがいたりもする。
 あと、スペインだと日本とは頻繁に出てくるポケモンが違う気がする。といってもマドリッドとセビージャだけでしかやっていないので、スペインと括るのは問題があるが、サンドとガーディ、アーボが多く出てくる。それとニャース。ここらへんは、やはり乾燥している気候だからだろうか。また、リザードも出てきたりして、なんとなく火ポケモンと砂ポケモンが多くでる気がする。逆にまだまったく遭遇していないのは、コイキング、ヤドン、キャタピー、ビードル、ふしぎだね、なぞのくさ、トサキントなどである。これらは、「近くにいるポケモン」でも出てこない。草系、水系があまり出ないという印象だ。
 ポケモンGOには地域限定ポケモンがあり、ヨーロッパはバリヤードである。マドリッドの郊外のホテルでも「近くにいるポケモン」にシルエットが出たが、夜であったこともありホテルの外(ホテル内では出てこなかった)までゲットしにいくのは諦めたが、その後、マドリッドからセビージャに移動して、水を買うためにセビージャのホテルを出て、歩いていたら「近くにいるポケモン」に再び出現したので、これは是非ともゲットしなくてはと思い、計画的に歩くことで(消えた場所(A点)で折り返し、逆の方向に歩いて再び消えたところ(B点)をみつけ、ABの垂直二等分線上を歩く)みつけてゲットした。思わず、「やった」と声が出てしまった。
 プログラミングをされたものを分析するのは虚しいところはあるが、地域によってポケモンをどのように分散させて出現しようとさせているのか、その考えは企業秘密なのだろうが、知りたいところである。明らかに風土を反映させるように意図されているような印象を受ける。

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商店街がよくなるとジェントリフィケーションが起こることはむしろプラスという説明を商店主がして納得した件 [都市デザイン]

下北沢で講演会、というか勉強会で話をした。話の内容は、自動車を道路からシャットダウンし、歩行者中心の空間とすることで都市が活性化するという事例を中心としたものであった。さて、そのような話をした後、外国人の若者が、しかし、そういうことをすればジェントリフィケーションが起きるじゃないですか、と質問をした。鋭い質問であるが、ジェントリフィケーションは成功したから起きたことで、それが政策の失敗とは言えない。もし、それが問題であるなら、それは歩行者中心の空間ではなく、市場経済の是非を検討するような問いである、と回答した。まあ、こういうジェントリフィケーションが問題だ、というのは、いかにもアメリカなどで都市計画の教育を受けた(私もそうだが)理想論であり、現実を見渡したら100%の回答などないので、若干、うざいなと思いつつも、まあ、それが問題であると指摘されたら、それは問題であるとしか答えられないのは悔しいなと思っていた。
 すると、このやりとりを聞いていた会場の下北沢で店を経営している方が、そのような競争があるから下北沢の店舗は常に魅力的なのです、と回答した。そういう経営上の厳しさが、下北沢の魅力を向上させる要因なのです、と発言された。実際は、ジェントリフィケーションが起きると、あまり魅力はないがお金だけはあるチェーン店などが出てしまう問題があるので、これもそんなに上手く機能はしていないが、それでも、ジェントリフィケーションは店舗の魅力を増す、という話には説得力があった。確かにジェントリフィケーションもないようなところは、なかなか店舗も魅力を維持するようなインセンティブが働かない。興味深い視点をもたらしてくれた意見であった。

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『君の名は』 [映画批評]

遅ればせながら、今年の邦画シーンの話題をさらった『君の名は』を観た。男女の心と体が入れ替わるという設定は、よくあるラブコメかと思っていたのだが、内容は遙かに深く、観ていて飽きることはなかった。あと、アニメの背景描写が尋常ではなく美しい。観ているこちらがため息をつくほど風景などの描写が綺麗で、内容のよさに加えて、この作品の完成度を極めて高いものにしている。それは、実写映画でいうところの優れたカメラワークに通じる。さすが人気を博しただけあるクオリティの高さであった。

タグ:君の名は
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シン・ゴジラ [映画批評]

この夏、話題となっていたシン・ゴジラを観る。ゴジラの暴れっぷりもなかなかよかったが、やはり面白いのはゴジラの出現によって慌てて対応する人間模様である。ゴジラが暴れているのに意思決定が全然できない役人達の姿は、福島の原発事故に適切に対応できなかった東京電力や官邸、経産省などを彷彿させる。その中で、特別チームがつくられ、どうにか東京に国連軍が核爆弾を落とすというシナリオを阻止できたというのも、吉田所長を初めとした一部の人たちの獅子奮迅の奇跡的な活躍で、福島の事故の最悪の事態を回避できたこととも通じる。

また、ゴジラが放射能をばらまき捲っているのと、それに対してSNSがその情報を拡散しているというのも福島の事故を想起させる。そういう意味で、福島事故を体験した日本人が観るとなかなか考えさせられる点が多い映画であるが、まあ、何がやはり凄いかといえばゴジラの暴れっぷりで、エヴァンゲリオンの使徒のような絶対的な強さを備えていた。科学力で対処しようとした点や、美人の理系秀才が活躍することなどの類似点も多い。一点、興醒めだったのはパターソン女史が100%日本人的な風貌の女優である石原ひとみであったこと(まだ、スザンヌとかの方が説得力があった)と、アメリカ人なのに難しいところは日本語でしゃべり、簡単なところは英語でしゃべっていたことである。普通、逆でしょう。

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トランプが大統領になった日。それは、パックス・アメリカーナが終わった日でもある [グローバルな問題]

 米国民はトランプを大統領に選んだ。私はマイカル・ムアーの『Trumpland』を観て、改めてヒラリーこそがアメリカ最初の女性大統領にふさわしいことを確信し、また、トランプはFox NewsのMegyn Kellyとの会話などを通じて、まったくもって大統領にふさわしくないことを痛感していたので、今回の結果には、本当にショックを受けている。トランプのどこが大統領にふさわしくないのか。まず、まったくもって明らかな嘘つきであることだ。英語でBig Fat Liar という言葉があるが、トランプはまさにその言葉がふさわしい嘘つきである。彼がいかに嘘つきであるかは、数多くのYoutubeの画像で明らかにされている。
 二点目は、彼がまったく知識がないことだ。彼は選挙中、「Change America」と連呼していたが、どのような政策でアメリカを再び強くするのか、その点は全く述べることができていなかった。このようなスローガンを叫んでいる人が、そのまま多くの投票者の心を掴むとは驚くべきことだ。日本や韓国、サウジアラビアに米軍滞在費を負担させろと言っているが、既に日本は7割ほどを負担している。はっきり言って負担し過ぎである。米軍は日本にある米軍基地を自由勝手に使っているが、そんなに嫌なら出て行ってもらって結構である。沖縄の基地問題もそうしてもらえれば解決である。そういう基本的なことを分かっていない。
 三点目は彼の人格がよくない、ということだ。ムスリムやヒスパニックへの差別的発言、女性を見た目で判断するというセクシストの側面、ちょっとでも批難されると攻撃する偏狭さ。どれもが大統領の資質から遙かにかけ離れている。ヒラリーの方が数倍もまともである。
 とはいえ、そのトランプが勝ってしまった。悪い冗談もほどほどにして欲しい。このトランプが大統領になるというのは、トランプのような人間を大統領にするような知性と見識しかアメリカ人の少なくとも半分ぐらいは持っていないということだ。アメリカ人の半分以上が、このようなファシストのような扇動に煽られてしまったというところが、今回のトランプ勝利がなぜ、ここまで人々を落胆させているかの理由であろう。
 マイカル・ムアーが『Trumpland』で述べたように、トランプに投票をして「ざまあみろ」という爽快な気分は1日は持続できるであろう。もしかしたら1週間はいい気分でいられるかもしれない。うまくいけば1ヶ月ぐらい。ただ、それからは暗黒の4年間が待っている。
 トランプが大統領になった日。それは、パックス・アメリカーナが終わった日でもある。奇しくもこの日、11月9日はセプテンバーイレブンの月と日が逆になっただけである。11と9というのはアメリカの呪いの数字なのかもしれない。
 日本も戦後70年経って、ようやく独立を本気で考えなくてはいけなくなったということか。まあ、しかしアメリカがこれだけ信頼できないのであるなら、それも致し方ないであろう。我々、日本人にとってもとんでもない時代の幕開けだ。既成の価値観を超克して、頭を使っていかないと大変なことになるであろう。

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『マイカル・ムアー・イン・トランプランド』 [映画批評]

 『マイカル・ムアー・イン・トランプランド』は、マイカル・ムアーがトランプの支持率が極めて高いオハイオ州のウィリムトンに単身乗り込み、そこでワンマンショーをする模様を収めた映画である。ワンマンショーの観客は、マイカル・ムアーのファン、すなわちヒラリーの支持者が多かったが、それでも中にはトランプの支持者もいて、周りがマイカル・ムアーの冗談に笑っている中、仏頂面を貫き通しているのが映像に捉えられたりする。ただ、そのような厳しい一部の視線を受けつつ、マイカル・ムアーは噺家のような見事なおしゃべりで、極めて上手に、観客の関心を惹いていく。
 基本的にはトランプを支持することは極めてよく理解できる、と相手の立場を慮りつつ、しかも、自分はヒラリーを贔屓している訳ではないと証拠を示しつつ、それでもヒラリーが大統領の資質を十二分に有しており、またヒラリーが大統領になることが結果的にアメリカのためになる、ということを説明する。そして、このショーでマイカル・ムアーはトランプの悪口を一度も言わない。
 マイカル・ムアーがなぜ、これだけ人々に好かれるのか。その理由が分かるような素晴らしいショーの構成である。そして、私はこの映画を観て、ヒラリーの政治家としての素晴らしさを知らされた。このショーの観客の多くが終盤で涙を流していたが、私もヒラリーは一部のマスコミが伝えるのとは異なり、まさにアメリカの大統領にふさわしい人材であるということを確認した。
 明日は大統領選。

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赤岳(日本百名山登頂21座)・・登山日2016年10月22日ー23日 [日本百名山]

 八ヶ岳の赤岳にチャレンジすることにした。土曜日の朝4時30分頃、目黒区にある自宅にゼミの卒業生自動車で迎えにきてもらい、そのまま美濃戸までむかう。朝ということもあり、ほぼ渋滞もなく、美濃戸に着いたのは8時頃。準備をして出発したのは8時30分頃である。美濃戸からは北沢と南沢と二つのアプローチがあるが、ここは南沢を取る。沢沿いの深い樹林帯を進んでいく。南沢の渓流が美しい。時折、周辺の山々が展望できる。紅葉している山肌が美しい。10時30分頃には河原が開け、横岳が目の前に見える。八ヶ岳に来たな、というのを実感する。ただし、河原に出ると猛烈な悪臭が漂っている。テントからの糞尿の臭いである。これはたまらない。とはいえ、他にルートもないので鼻をふさぎながらも登っていく。

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登山口の朝日に照らされたススキが美しい)

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(南沢の深い森の中を歩いて行く)

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(美しい渓谷に沿って行く)

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(時折、姿を見せる紅葉に染まった山肌が美しい)

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(行者小屋に近づくと河原が広がるが、同時にとんでもない悪臭が漂ってくる)

 昼ご飯のスポットである行者小屋には11時頃に到着。出発地点から2時間30分ぐらいである。すでに、ここは標高2345メートルである。とはいえ、出発点の美濃戸が既に1700メートルはあるので、まだ650メートルぐらいしか登っていない。この小屋は、おでんとカレーが有名。ということで、おでんとカレーを両方注文する。カレーはインド・カレー、おでんは巾着、こんにゃく、大根、卵を注文。カレーは900円、おでんは550円也。カレーはトマトを随分と使ったような印象を受けるが、スパイスを上手く使っていて結構、美味しい。おでんもコンビニエンス・ストアのおでんよりは美味しいと思う(私は生まれて一度もコンビニエンス・ストアのおでんを食べたことがないので、これは想像でしかない)。珈琲は私が持参したインスタントのドリップ式のものを3人で分けて飲む。

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(行者小屋)

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(ここはおでんが有名らしい)

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(私が食したのはインドカレー)

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(行者小屋から望む横岳)

 さて、ゆっくりと休憩もできたので、再び登り始める。大変急な傾斜を登らなくてはならないのだが、行者小屋を抜けてもしばらくは坂がなだらかなままだ。かえって、そのなだらかさに不安になる。その不安が相当、強くなってきた頃に、ようやく階段が出現した。とはいっても、私がイメージしたものより緩やかな普通の傾斜の階段である。こんなペースで、どうやって標高差を稼ぐのかと危惧は募るばかりだ。そしたら、遂に鎖の急坂が出現した。この鎖の急坂を登り終えると梯子に直面する。八ヶ岳はまさに屏風のような山塊であるが、これに登るには、この屏風をほとんどロック・クライミングの用に這い上がっていかなくてはならないのだ。標高が高いこともあって酸素が薄く、私の呼吸は激しくなる。呼吸が整わないまま、梯子と鎖で高度を上げていく。何か考えると、足が止まるので、無我の境地になってひたすら登っていく。すると可愛いお地蔵さんが目の前に現れた。地蔵の頭に着いたのだ。目の前に金峯山や瑞垣山、そしてその手前に紅葉で色づいた清里の高原が広がる。絶景だ。ここからは、我々の宿泊先である赤岳天望荘も目の前だ。赤岳天望荘に到着したのは13時20分。

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(地蔵の頭が近づくと、坂もほとんど壁のように急になり梯子でしか登れない)

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(地蔵の頭周辺の急坂を振り返ったところ)

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(地蔵の頭に到着。あと少しで赤岳天望荘だ)

とりあえず、赤岳天望荘にチェックインをして荷物を置いて、赤岳へとチャレンジする。明日、登頂する予定であるが、明日は天気が崩れているかもしれない。若干曇り気味であり、風も強いが富士山は見える。赤岳は360度の絶景であるという。体力的には相当、バテもみられたが、水とカメラだけを持って登ることにした。赤岳までのルートは鎖場の連続であり、相当の急坂を登っていく。標高が高いこともあり、激しく息をしてしまい、ちょっと休んでも落ち着く気配がない。酸素が少ないので身体が過敏に反応しているのであろう。とはいえ、ここで登らなくては明日、悔やむことになるかもしれない、との危機意識から気力で高さを稼ぐことにする。さて、どうにか気力で頂上に登ると、まさにガイドブックに書かれたような360度の絶景がそこからは望むことができた。東には瑞牆山、金峰山、甲武信ヶ岳、北には浅間山、四阿山、横だけをはさんで蓼科山、さらに西を見れば北アルプス。この日は槍ヶ岳がしっかりとそのシルエットを見せていた。そしてその南には乗鞍岳と御嶽山。御嶽山はもの凄い存在感である。その手間には木曽駒ヶ岳を中心に据えた中央アルプス。南には南アルプスがそびえ立ち、仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、北岳がその堂々たる雄姿を見せている。登頂時刻は15時。
 下りも相当の斜度なので気をつけなくてはならない。鎖をうまく使って降りていく。16時前には宿に戻る。

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(富士山も素晴らしい雄姿を現した)

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(赤岳の山頂が近づいてきた)

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(赤岳山頂)

 赤岳天望荘は、個人部屋もあり料金は1万2千円と高かったが、他人と泊まることと比較すると本当快適である。夕食は17時からであったが、ほぼ1時間爆睡する。後で振り返れば、この時点で既に高山病になっていたのかもしれない。夕食はバイキングで、それほど美味しくはないが、山小屋ではエネルギーになるものは何でも有り難い。とはいえ、ここで美味しいと思わなかったのは高山病ということかもしれない。夕食を取ったら、そそくさと寝る。
 翌日、4時頃に起きる。9時間ぐらいは寝ているはずなのだが、全然、眠気が取れない。しかも頭痛もする。これはちょっと調子が相当、悪い。朝食は5時。まったく食欲がない。とはいえ、無理をして食べる。気持ちも悪いし、まさにこれは高山病の症状そのものである。これは、もう登れないかもしれないと絶望的な気分になる。
 日の出は5時50分頃であった。曇りとの天気予報に反して、天候は素晴らしかった。食事後、これは滅多にないチャンスと思い、気持ち悪いのを我慢して、写真を撮影する。さて、しかしちょっと動いていたら気分が快復してきた。せっかくなので、頑張って昨日に続き赤岳に登る。7時頃に出発する。なぜか、登り始めたら気分の悪いのが払拭されて、むしろ昨日より好調なペースで登ることができた。7時45分頃には山頂に着くことができた。赤岳山頂からの展望は昨日よりさらに優れており、朝日を浴びた阿弥陀岳、横岳が美しい。遠く恵那山から御嶽山、乗鞍岳から槍ヶ岳までを遠望することができる。素晴らしい。

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(赤岳天望荘からみる日の出時の富士山)

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(金峰山周辺から日は昇ってきた)

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(素晴らしい展望)

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(周囲の山々も朝日で赤く映えているのが美しい)

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(朝日を浴びた横岳)

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(昨日に続いて今日も赤岳に挑戦)

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(改めてすさまじい坂である)

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(赤岳頂上から富士山を望む)

 さて、これなら阿弥陀岳までチャレンジできるという気持ちになり、赤岳を下りて中岳経由で阿弥陀岳にチャレンジする。赤岳から中岳までは相当の急坂で、結構、注意を要する。鎖をうまく使って降りていく。中岳には9時15分頃に到着。中岳を越えると、阿弥陀岳と中岳道の分岐点に出る。ここで荷物やカメラを置いて、阿弥陀岳にチャレンジする。カメラを置いておくのは相当、躊躇したが、憂いのない状況でいかないととても登れないほどの急坂である。すべての力を出し切るような気力をもって望む。鎖場とガレという何とも難しい難所であるが、どうにか阿弥陀岳の上まで登ることができた。この阿弥陀岳からの展望も360度の素晴らしいものであった。天気も晴天であり、これまでの苦労が報われる。

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(赤岳から阿弥陀岳を望む)

 気をつけて坂を下り、分岐点に到着。分岐点を発ったのは11時頃。中岳道を降りていく。ちなみに中岳道は、梯子はおろか鎖もなく、非常に楽に降りていくことができた。行者小屋に着いたのは11時30分。しかし、ここはそのまま通り過ぎて、帰りは行きと違い赤岳鉱泉経由で北沢沿いに美濃戸に戻ることにする。これは、南沢は行者小屋を過ぎた後に前述したように強烈な悪臭がしていたからである。

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(中岳道で降りていく)

 赤岳鉱泉に着いたのは12時。赤岳鉱泉は行者小屋と比べても随分と清潔感のするいい感じの山小屋であった。行きと同じようにカレーを昼食で食べる。ほぼ同じコンセプトであり、おそらく同じレシピなのではないかと推察する。なんか炭酸ジュースが飲みたい気分になって、オレンジーナを注文したら400円もした。失敗だ。北沢は南沢に勝るとも劣らない渓谷美であり、急峻な坂を登るのとは違う楽しみを味わうことができた。このアルパインな環境が八ヶ岳の魅力なのだろう。美濃戸に戻ったのは14時20分であった。

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(赤岳鉱泉)

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(赤岳鉱泉でのカレー。行者小屋とほぼ同じ)

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(北沢は南沢に劣らず美しい。北沢の方が乾いている印象)

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(登山口の美濃戸に着いたのは14時ちょっと過ぎ)

 生まれて初めて訪れた八ヶ岳であったが、大変素晴らしい体験ができた。また、高山病になりそうであったが、それでも八ヶ岳を登れたことは大いなる自信に繋がった。あと79座であるが、来年も今年と同様に8座ぐらいを達成したいという気持ちになった。
 

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エコロジカル・デモクラシーについて考える [サステイナブルな問題]

一般財団法人エコロジカル・デモクラシーの設立記念パーティーに参加した。こじんまりとした会かと思ったら、結構、多くの人が来ており、また数名の知人もいたりして、流石、東工大は違うと感心した。さて、エコロジカル・デモクラシーは私もバークレイで学んだランディ・へスターが提唱するコンセプトである。そのコンセプトというか思想を広く普及させるというのが、この財団法人の目的であるが、エコロジカル・デモクラシーをどう捉えるか、ということで明確なビジョンがないというか、そのコンセプトをしっかりと捉えられていないという印象を失礼ながら受けた。
 ただ、自分もいろいろとプレゼンテーションを聞きながら、考えを整理することができた。私は、ランディ・へスターの考えを雑誌に紹介したり(Bio City No.13)、本でも紹介したりした(『サステイナブルな未来をデザインする知恵』鹿島出版会)ので、まあよく理解している方であるとは思うのだが、エコロジカルとデモクラシーの関係性は、デモクラシーが機能していないとエコロジーは壊される、といった解釈をするのが妥当であると思われる。また、エコロジーがしっかりと維持されていても、デモクラシーが機能しているかというと、それはあまり関係がないと思われる。というのは、人間もエコロジーの部分でしかなく、その人間の社会形態であるデモクラシーもエコロジーの一要素にしか過ぎないからである。ただ、その人間はいわばエコロジーにとって癌細胞的に働く場合があり、そのような癌細胞的に人間社会が作動している状況においては、その社会はデモクラシーでないと考えられる。
 とはいえ、デモクラシーが何か、というとこれはなかなか難しい問題であり、環境を破壊しようという共通認識を社会構成要員が皆、合意すれば、デモクラシー社会でもエコロジカルではなくなる。ということは、むしろデモクラシーという概念の中に、環境倫理的なものを含まなくてはいけなくなる。そうすると、このエコロジカル・デモクラシーという思想においては、デモクラシーの再定義といった壮大な試みが求められるのであるが、パーティーでの説明では、むしろ環境に優しい、地域性や自然を意識したまちづくり、といった思想を矮小化した事例紹介がされたり、エコロジカルの対象として、セイクレッド・ランドスケープ(聖なるランドスケープ)の事例が含まれる説明をされたりして、方向性がしっかりとしていない印象を受けた。ちなみに、私はへスターの「聖なるランドスケープ」というゼミ講義を受講したりしたことがあり、へスターが空間デザインをするうえで、住民のそのような意識を重視するという試みを高く評価するものであるし、それはエコロジカル・デモクラシーという概念の中に含まれるものでもあると考えるが、あくまでソーシャル・エコロジーの範疇に入ることであり、エコロジカルとはまず、ヴァーナキュラーな生態系を先に意識しないと、少なくとも起動時においては議論が発散してまとまらなくなるであろう。ちなみに、へスターがヴァーナキュラーな生態系を意識した事例としては、ロスアンジェルスのワット地区周辺にあるオーガスタス・F・ホーキンス自然公園があり、それはこのホームページに紹介しているので、関心があれば参照してもらいたい(http://www.hilife.or.jp/cities/?p=794)。
 ヘスターのアプローチは常に市民参加である。したがって、デモクラシーがむしろ優先される、ただ、デモクラシーという条件をクリアした後に、エコロジカルなアプローチが加わると、よりコミュニティのアイデンティティが強化され、その場所に対してのコミュニティの帰属意識、スチュワードシップが高まる、ということで有効な方法論であると捉えていると思われるのである。前者のソーシャル・エコロジー的な事例にとらわれていたら、エコロジカル・デモクラシーという上位レベルのコンセプトが見えてこない。
 また、経済開発が環境を破壊するので、経済的なアプローチが悪いといったような説明もされていたが、環境を破壊することは極めて非経済である。原発がなぜ悪いのかというと、それが環境をあまりにも破壊するので、経済的にもまったく見合わないからである。少なくとも長期的にはまったく見合わないので、どこの保険会社も保険商品をつくらないのである。そのような認識の甘さも、ちょっと不安を覚えたところである。
 最後に私が、「Bio City No.13」で紹介した取材記事からヘスターの言葉を引用したい。
「私は公民権運動をサポートすることを目的として市民参加を始めたために、エコロジカルな運動をしていることを知ると奇異に感じる人も多い。しかし、私はエコロジーと公民権運動とは密接な関係があると思う(p.83)」
「コミュニティの人と知り合い、そして周辺の環境を理解することが、サステイナブルな社会をつくるためには不可欠であると思う。環境を知り、コミュニティの一員になれば、無責任は環境破壊はしなくなる。エコ・システムを理解していないから、人々は環境破壊するのである(p.83)」
「環境と社会的公正という視点を持つようになったのは、おそらく私が農家で育ったからだろう。周りの人はおしなべて貧乏だった。しかし、さらに貧乏にならないようにするためには、その土地をよく理解して、よく面倒をみてやることが重要だった(p.84)」
 この最後のコメントは環境と経済が肯定的な相乗関係にあることを示唆している。

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武蔵野大学の長谷川秀夫教授の無責任発言について、多少考える [その他]

武蔵野大学の長谷川秀夫教授がインターネットサイトのニュースサイトに「残業100時間で過労死は情けない」と投稿したことで、ネット上で炎上、大学がその処分を検討するような事態になってしまった。電通の女子社員の過労自殺ニュースが配信された時間帯に投稿したことで、彼女のことに言及してはいないが、亡くなった人への配慮がなく無神経な発言であったことの誹りは免れないであろう。

ただ、「残業100時間で過労死は情けない」という発言を擁護する気は毛頭ないが、私のように50代を越えた人間からすると、特にバブル期においては、残業100時間は珍しくはなかった。流石に4月に自殺された原子力規制委員会の審査対応をしていた関西電力の課長職の四十代男性の残業200時間は、当時でも異常な数字ではあったが、100時間というのは私もよくクリアしていた数字である。「過労死は情けない」という発言は情があまりにも無いと思うが、残業100時間というのを「たいしたことないじゃないか」と思うのは、1990年前後にサラリーマンをしていた人たち、特に私のような法人サービス産業、に従事していた人が共有する感覚なのではないか、と思う。

これは、しかし、おそらく若い人たちからすると論外であることだろうし、なかなか共感することは難しいであろう。私も、結果的にやってはいたが、徹夜明けのオフィスで貧血になって倒れたりしたり、基本、プライベートな生活はほとんどなかったりで、仕事はやり遂げたかもしれないが、ほとんど何もプラスにはなっていない。したがって、100時間残業をやってはいたが、それが大したことがないと感じてしまうのは、私の問題でもあろう。

ただ、私が残業していたのは、会社や上司のせいではなく、コンサルタントという業務の特性からであった。顧客が納得できなかったら、残業をしてでも完成度をあげなくてはならない。それは理不尽なところもあるし、私はちょっと直情的なところがあるので、顧客に文句を言ったりもしたが、それでも情報や知恵で、お金をいただくというのはとても大変なことなのである。そして、電通も業態的には私が働いていたシンクタンクと似たようなところがある。私はよく後輩に、「なんで顧客が君のアウトプットにこれだけのお金を払うと思うの。その価値をつくるための工夫や努力をしないと」と言っていた。それは、私が自分自身を自戒するために自問していたことでもある。さらにいえば、顧客がアウトプットに満足してくれた時には、私は大いに嬉しい気分と達成感が得られた。まあ、それが高残業のインセンティブに当時はなっていたのは確かであり、おそらく今では許されないアプローチなのかもしれないが、プロとしての自覚がそのようにさせていたというのはあったと思う。そのことを私は個人的には、それほど肯定したくはないが、組織全体ではそういう厳しさを共有して乗り越えようといった体育会的な雰囲気があり、それはある意味では居心地が悪くはなかった。もちろん、そのような雰囲気が苦手(特に女性)な人たちがいたことをあまり配慮していない、という排他的な雰囲気も合わせて有しており、決して褒められたものではないが、そういうのに肯定的な日本の組織文化のようなものを有している企業は、当時は少なくなかったと思われる。

その物言いは情がなさ過ぎるのは確かであるし、おそらく長谷川教授は後悔もしていると思うのだが、ちょっとバブル期にサラリーマンをしていた私は、彼がそう迂闊にも口走ってしまった背景は理解できるのだ。そして、そのような経験がない大学一筋で過ごされた学長に処分を検討されてしまうのは、正直、同情を禁じ得ない。いや、発言に対して責められることには同情の余地はないが、処分されることには同情をするということです。

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