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ドイツの都市がコンパクトに集積してまとまりを持っているのは、それなりの政策を採っているからだ [都市デザイン]

 今回のドイツの調査旅行では、チューリンゲン州と隣のザクセン州の都市を幾つか巡った。エアフルトを拠点として、ズール、ツヴィカウ、プラウエン、ヴァイマール、ヨーハンゲオルゲンシュタットなどである。また、これまでもこの地域周辺にある都市は頻繁に訪れている。イエナ、ケムニッツ、コットブス、ホイヤスヴェルダ、アイザナッハなどである。
 そこでつくづく感じたのは、ドイツはその都市の個性がしっかりと際立っているということだ。この大きな理由は、都市の空間的定義が分かりやすいことである。すなわち、ドイツは都市の境界がしっかりしていることである。これは、旧東ドイツの上記二州以外の旧西ドイツの都市でもいえることである。一部、ベルリン、ハンブルグのような大都市では若干、周辺の自治体と連担しているところがみられるが、デュッセルドルフやライプツィヒぐらいの50万人前後の都市でも周辺の郊外部の自治体の間にはグリーンベルト的な非市街地の空間が、その中間にみられる。
 これらは日本からみれば、コンパクト・シティというように解釈できるし、実際、空間的にはコンパクト・シティとなっている。これは、ちなみに大都市ではなくて農村レベルの自治体でもみられることである。このように境界がしっかりしているのは、土地利用規制が極めて厳しいからである。そして、この厳しい土地利用規制は1960年代の建設法典で決定された。そして、これがコンパクト・シティを決定づけた。
 このようにコンパクト・シティが形成されたもう一つのドイツの条件としては、1930年代のクリスタラーの中心地理論を実際の地方拠点づくりに応用したことである。クリスタラーとはドイツの経済地理学者で中心地がなぜできるかという理論的、実証的分析を行ったのだが、それを応用して、実際、地域における第一都市をつくり、その下にツリー状に第二都市、第三都市などをつくるというものである。これによって、第二都市や第三都市はある程度以上大きくならないようにコントロールされるし、全般的にその地域の集中が分散されるシステムである。これは、どうもナチス時代ぐらいから始まったそうだが、この地域の作り方は戦後も継承されている。
 また、このようなコンパクトな星が星座をつくりあげるように地域を形成できている大きな理由の一つに、民間のデベロッパーが旧東ドイツだけでなく、旧西ドイツにも存在しなかったことがあげられる。これらの民間のデベロッパーは世界恐慌の時にほとんど倒産し、その後、復活をしなかったそうである。
 そして、その後、どういうことが起きたかというと、インフラ等は自治体が建設・整備し、建物は住宅会社(自治体の住宅会社か組合の住宅会社)が共同住宅を建設し、戸建て住宅は個人が建設することになったそうである。
 さらにいえば、これは旧西ドイツのケースであるが、旧東ドイツに関しては、東西ドイツが再統一した後は、外資(おもにオランダだと思われる)の民間のデベロッパーが郊外部に旧西ドイツに見られないような住宅地をつくったりしたそうである。
 つまり、日本もそうだがアメリカなのでも、コンパクト・シティがなかなか形成できないのは、自治体の空間的定義がしっかりしていないのに加えて、郊外開発を促すことをビジネス・モデルにした民間のデベロッパーがいたということが挙げられる。
 特に日本では郊外開発を促進させたのは阪急や東急などの民間の電鉄会社であったが、ドイツでは鉄道はすべて公共事業体が建設をしてきた。そのような違いがドイツにおけるコンパクト・シティの形成の背景にある。
 逆にいえば、コンパクト・シティというのは都市計画において市場経済に任せずに、公共政策を中心に進めないと難しいということを示唆している。上記に関してのストーリーはカッセル大学のロースト教授へのヒアリングをもとに、そのポイントをまとめたのだが、日本は立地適正化計画などでコンパクト・シティを形成しようとしているが、ドイツがコンパクト・シティをつくれている背景などを調べると、その目標は悪くないかもしれないが、現状の民間に都市開発を依存しているような状況下でそれを実現させるのは難しいのではないだろうか。この点に関しては、今後も研究していきたいと考えている。

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