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「働き方改革」よりも必要なのは「中央集権改革」である [サステイナブルな問題]

政府は「働き方改革」を進めている。厚生労働省のホームページでは、働き方改革の背景として、「「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」に直面しているので、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題」が挙げられ、そのために「働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています」ということだそうだ。
 多様な働き方を選択できる社会の実現・・目標は素晴らしい。しかし、そのための政策はこの目標を実現させるためにどれほど有効なのだろうか。個人レベルで考えると、「多様な働き方」も重要かもしれないが、その仕事をすることで、その道のプロフェッショナルになれるような働き方が望ましいと思う。働いている方の多くの不満は、自分が雇用されている立場にあることだろうと私は捉えている。実際、社会人になった卒業生の不満のほとんどが「雇用されている立場」にあることに起因している。また、個人で仕事をもらっている場合は、報酬の交渉ができないほど仕事の質がプロフェッショナルではないことが、長時間労働や低報酬の大きな要因となっている場合が多い。これは自分にもあてはまることなので書いていてちょっと辛いが、例えば、私がよく仕事をお願いしていたビデオカメラマンに、2年振りに仕事の見積もりをお願いしたら、それまでの3倍以上の見積もり額を出されて戸惑ったことがある。これは、その2年間で、彼はNHKの仕事なども来るようになり売れっ子になってしまい、市場の需要価値が高まったためである。私は多少、値切りをお願いしたが、これまでの2倍程度の金額で彼にお願いをした。それは、彼の価値はそれだけの金額に相当すると思うからである。
 要するに、多くの働いている人の不満は「雇用されていること」にある(いや、雇用されていてハッピーな人もたくさんいると思うが、彼らは逆に働き方改革は必要ない)ので、「雇用されない」働き方を模索することも必要であると思う。そもそも、「雇用される」ということはそんなに望ましい状態にはなれない。なぜなら、お金をもらっているからであり、お金というのは相当、正直だからである。それでは「雇用されない」働き方、すなわち独立すればハッピーになるかと言うと、そうでもなく、そのような状態で仕事を回していくためには、プロフェッショナルとしての市場価値を有していなくてはならない。美味しい料理を出すレストランであれば高い値段をつけても商売はできるが、美味しくない料理しか出せないレストランであれば安さで勝負するしかなく、また安くてもファストフードやチェーン店には負けてしまうかもしれない。前者は給料も高くなるだろうから、働く時間も自分でコントロールできるし、やり甲斐も感じられるだろうが、後者は生き延びるのに必死だろうし、「雇用されている」方がまだましと思うかもしれない。
 このように考えると、自分が「美味しい料理」をつくれるようになることが何しろ肝要となる。
 私は民間会社から大学、さらに大学でもより自分の能力が発揮でき、給料も高くなる大学に最近移ったので二度転職したことになる。民間会社から最初の大学に移る時は、大学教員のハードルというのが大変高くて、大学教員になろうと思ってから3年以上はかかった。当時は博士号がないというのが、極めて不利に働いたのである。その3年間で大学教員になるために私がやったことは、目の前の仕事に没頭して、しっかりとやるということであった。これは、民間会社とはいえ、私の働いていたところは研究所であったので、その点は普通の民間会社に比べると大学教員の転職という点では有利であったかもしれないが、とにかく会社の仕事のアウトプットの質を高めることに注力した。そのため、会社でも家でもほとんど仕事漬けの日々を送った。これが、結果的に研究者としての私の価値を高めて、首尾良く大学に移ることができた。振り返ると、ここで、会社の仕事は最低限にして、大学に入るためのアリバイづくりの研究などにうつつを抜かしていたら、おそらく転職することはできなかったであろう。
 そして、再び今の大学から「誘い」があって、転職することになるのだが、それを知り合いの教員に報告すると「徳を積んできたからね」と言っていただいた。自分では「徳を積む」というような意識はなかったのだが、プロフェッショナルとしての市場価値を少しでも高めようとしていたことが、このような縁を生んだのかなとは思ったりする。仕事人として「徳」を積む、そのために精一杯仕事に勤しむ。そのような環境をつくることが重要であり、そうすると長時間労働も場合によってはプラスになったりもする。私が会社時代で理不尽を感じたのは、労働時間の長さではなく、年間ノルマの受注額(私のいた会社は研究所であったが受注ノルマがあった)をクリアしたのに、さらに受注しろと言われた時である。私はその時、クライアントにこの額を出してくれたら他の仕事を受注せずに、これに専心できます、といってその額をもらったにも関わらず、上司は平気で私がクライアントに嘘をつくようなことをさせようとしたのである。
 私のプロフェッショナルとしての市場価値は大したものではまだまだないが、そのように日々精進できるような働き場を確保できることは重要なことだと思うし、プロフェッショナルとしての市場価値があれば自分が職場に不満を持っていたら辞めることができる。このいつでも辞めることができる、という状態に自分を持って行くようにすること、しかして、そのように持って行けるような環境を社会にてつくることが重要である。
 しかし、そのような社会をつくろうとしている肝心の厚労省の人達が、プロフェッショナルとしての市場価値を自ら、問うこともなく、国家公務員という高給の体系に守られているというのは皮肉だなと思う。20代での試験の結果によって、その安泰とした職業に就くことができた人が、厳しい市場の中で自分の市場価値を磨こうとしている人達に余計なアドバイスをするな、と私は生意気にも思ったりもする。また、大学こそ、自らの市場価値を高めるための人間の幅を大きく広げるチャンスであるにも関わらず、文科省の指導はまったく逆に、既存のフレームワークでの勉強を強いるような、創造性がまったく感じられないシステムを大学側に押しつけている(特に、アクティブ・ラーニングの指導要綱などは冗談以外の何ものでもない)。
「働き方改革」とかを考える前に、財務省をはじめとして「中央官庁改革」を誰かが考えるべきではないだろうか。経済が成熟し、また人口も縮小していくような状況下で、これだけの大国であるにも関わらず、あまりにも中央集権である。「働き方改革」などは、国が旗を振ってやるようなものではなく、地方ごとに考えるべきことであろう。いや、本当、連邦制の道州制を導入することを真剣に検討すべきではないだろうか。それこそが、一億総活躍社会が必要とする基礎的インフラストラクチャーであると考える。

タグ:働き方改革
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