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エアフルト、レーゲンスブルク、ハレが第二次世界大戦で被爆をほとんど受けなかったドイツの地方拠点クラスの都市である [都市デザイン]

 エアフルトに学生を連れて来ている。エアフルト大学の学生達にガイドをしてもらい、クレーマー橋や大聖堂、旧市街地、プラッテンバウ団地などを訪れた。エアフルトは第二次世界大戦の爆撃がほとんどされない都市であるため、旧市街地が比較的よく保全されている。エアフルトは第二次世界大戦前までは、工業が発展しておらず、ナチスの拠点もなかったことが幸いしたようだ。デッサウとは対照的である。これは、人口が15万人程度ある地方拠点都市としては、相当珍しいことだそうだ。
 他にエアフルトのように戦災の爆撃を免れた地方拠点都市は、レーゲンスブルクとハレであるそうだ。レーゲンスブルクは旧市街地区が世界遺産に指定されている。ハレは皮肉なことに社会主義時代に、これら歴史地区が人為的に壊された。実はエアフルトも80年代に旧市街地を縦断するような大通りが計画され、周辺には近代的な団地がつくられる筈だったのだが、東西ドイツが統一されたので計画は反故になったのだ。この計画が遂行されたら、エアフルトもハレと同様の道を辿っていたであろう。そういう意味では第二次世界大戦と社会主義という二つの難事をくぐり抜けたエアフルトは、本当にラッキーであったと思う。このような話を聞くと、都市運命論のような考えがちょっと頭をよぎる。

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(クレーマー橋)

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(大聖堂そばにある丘からのエアフルトの展望)

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コンパクト・シティがなかなか具体化しないのは、その効用が薄いからではないか [都市デザイン]

 建築学会で北海道の縮小地域(空知地方)では、なかなかコンパクト化が図られていないという調査発表を聞いた。興味深い調査である。なぜ、行われていないのか。それは、北海道の空知地方はコンパクト化をさせるメリットがおそらくないからである。コンパクト・シティというのは、ヨーロッパでは「ヨーロッパ型都市」と言われる。都市計画的には、ちょっとした理想な都市構造である。私も個人的にこのような都市構造を形成することを計画的に促すようなことを考えるとわくわくする。ただ、おそらく空知地方においては、コンパクト・シティを検討させることは難しいと思われるのである。
 というのは、ヨーロッパにおいてもそうだが、コンパクト・シティは旧市街地という城壁内のコミュニティが核となっている。そして、それをコンパクト化させるためにトラムが公共交通の中心となって機能している(もちろん例外もあり、例えばミュンスターは自転車を中心に、アーヘンのようにバスを中心としている。ただし、これらの都市、特にアーヘンはコンパクト化においては必ずしもトラムの都市に比べてそれほどしっかりとしていないと思われる)。それは、モータリゼーションが空知地方のように徹底した場所においては、コンパクト化は不可逆反応のように理不尽であると思われるのだ。
 つまり、モータリゼーションが進展する以前に都市政策として指向するならそれなりにコンパクト化を促すことができるかもしれないが、既にモータリゼーションでだらしなくスプロール化が展開した後では、コンパクト化する意味が住民ベースではない。それは、コンパクト化するべく集積が、空知地方のように縮小している地域では不在だからである。
 旧東ドイツのように、ほとんどの人が賃貸住宅に住み、多くの住宅を寡占化された住宅会社が所有している場合は、撤去+集積、というアプローチは可能である。したがって、日本においても元住都公団が開発したようなニュータウンにおいてはコンパクト化をすることが可能かもしれない。しかし、地域においては手法としても極めて難しいだけでなく、そもそも、その必然性を住民や行政が感じているのか。今日、聞いた研究発表では、そのようなものは不在であるということが透かし彫りのように浮かんでくるような印象を受けた。これは、私の将来の研究テーマの候補の一つになり得るでしょう。


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海士町はなぜIターンが多いのか、その理由をちょっと理解したような気がする [都市デザイン]

 島根県浜田市で開催された地域活性学会に参加したのだが、そこで島根県海士町の大江課長の話を聞いた。海士町はIターンが多い町として知られている。人口は約2400人であるが、Iターンの移住者はそのうちの1割にも及び、それらの人の多くが20代〜40代である。
 なぜ、このような状況をつくりだすことに成功したのであろうか。それは、まず町経営のコンセプトとして「ないものはない」ということを掲げたことであろう。これは、外発的な発展を期待するのではなく、内発的な発展をするしかない、という覚悟を示すうえで非常に効いたコンセプト、モットーであったと思われる。
 そして、さらに行政経営のサステイナビリティを高めるために、町長が自らの給与を5割カットするという英断に出た。この流れを受けて、町役場の職員も3割給与をカットする。このような行政による本気の取り組みが、現在の海士町の魅力を創造するのに繋がったのであろう。
 私は、サラリーマンは街づくりは出来ない、ということを主張しているもので、このサラリーマンには役人も含まれていたのだが、それはあくまでも精神性の問題であって、公務員でも海士町のような覚悟と責任感を持っていれば、町を再生し、元気にすることが可能であることを海士町は私に知らしめてくれた。大変、興味深い事例である。

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オスロの都市計画的訪問記4(バーコード・プロジェクト) [都市デザイン]

バーコード・プロジェクトはオスロ中央駅とオペラハウスの中間にある再開発地区ビョルヴィカのミックスド・ユースのプロジェクトである。2003年から工事は開始され2016年に完成した。その規模は14.5ヘクタールでオフィス、公共空間に住宅、さらに1階には店舗が入っている。このバーコード・プロジェクトは、大変、斬新な都市計画手法を用いている。この手法は、この地区の開発に関する国際コンペで勝ったオランダのa-labとMVRDV、そして地元オスロのDark Architectsの提案によるものである。

計画案は、都市そして建築の多様性を表現することで、なおかつ歩行者にも優しい空間を提供することであった。そのために、建物がそれぞれ個性を有し、建設材料や高さ、幅なども異なり、その建物の空間には「バーコード」とよばれる隙間の空間を設置できるようにした。

この地区の計画においては、それまでとは違うアプローチとして、建物自体ではなく、建物の間の空間に注目をした。それは少なくても12メートルを確保しなくてはならないようにした。さらに、敷地面積の50%を緑地として提供させることにしたのである。そのために、建物の巨大なるファサードではなく、駅と湾との間を結ぶ回廊状の隙間ができるようにしたのである。ただし、これは極めて事態を複雑にするので、この建物のうちの一つを設計した設計事務所のスノヘッタのベテラン建築家によると、二度とこの方法は採用されなのではないかとのことだった。

ここらへんのルールは結構、複雑らしく、このようなブログを書いているにもかかわらず、しっかりと理解ができていないのだが、その結果、バーコードには11の高さや床面積、建材が異なる建物が立地している。設計者はすべて異なっている。オフィスは13.5万㎡で、住宅は3.6万㎡。駐車場はすべて地下に設置されている。

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(中央駅から見たバーコード・プロジェクトの建築群)
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オスロの都市計画的訪問記3(オペラハウス) [都市デザイン]

 経済が絶好調のノルウェー。しかし、このノルウェーにはオペラハウスがなかった。そもそもオペラハウスをつくる必要があるのか、という話から、つくるにしてもどこにつくればいいのか、といった議論は100年近くもされていたそうである。そのような中、1999年につくることを決定し、敷地も決定し、コンペが開催され、それで優勝したのが地元ノルウェーの設計集団スノヘッタであった。その後、2003年から工事は開始され、2007年に完成した。
 オスロ・オペラハウスがつくられることになったのは、オスロの中心地から東にあたる再開発地区ビョルヴィカのオスロ・フィヨルド湾沿いであった。今(2017年)でこそ、周辺は開発が進んでいるが、2007年にはオペラハウスの北を高速道路が走っているような状況であった。今では、この高速道路は地下化され、その上部空間にはトラムが走り、オフィスビルの開発(バーコード・プロジェクト)や、国立図書館、ムンク美術館などが建設中である。
 オスロ・オペラハウスはノルウェー国立オペラ・バレエ段の本拠地であり、建物面積は38500㎡で、大劇場には1364席、2つの小劇場は200〜400席を設けることができる。
 今回のオスロ訪問では、スノヘッタのベテラン女性建築家と取材をすることができた。彼女の説明によれば、オペラで留意したことは次の3点。
① 海(水)へのアクセス
② ランドマーク(アイコンとしての建築)。
③ プラザの提供。場所との個人的な繋がりをつくろうとしている。パブリック・プレースを提供することが重要。オペラ座をつくることで、空間を奪うのではなく、むしろ空間を提供する。それを所有するのは、オペラ座に観劇する人だけでなく、市民すべてである。
 また、オペラハウスは再開発地区ビョルヴィカにおいて、まさに嚆矢としての役割を果たすことが期待された。ここはフィヨルドと都心部との間を走る高速道路で完全に遮断されていた。そのため、オスロ市民にとっても、ここはアクセスができない忘れた場所となってしまったのである。そこに、オスロ市でも有数の集客の仕掛けをこのオペラハウスをつくることで展開させ、それと同時に高速道路を地下化し、周辺に文化施設の集積を図るようにしている。まだ、建設途上ではあるが、これからのオスロ市の発展を牽引するような地区がここには形成されつつある。

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(西側からみたオペラハウス)

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(屋上へと連なる緩やかな「絨毯」)

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(屋上からの展望)

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(夜には大ガラス面から漏れる光が夜景を演出する)

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(これまで遮断されていたウォーターフロントへのアクセスをも、オペラハウスは提供することに成功した。多くの人が水辺で憩っている)

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オスロの都市計画的訪問記2(ヴァルカン地区) [都市デザイン]

 オスロの北部にあるヴァルカン地区は19世紀頃にアーキャスエルヴァ川の西側に開発された工業地区であった。その後、1960年頃に工場は郊外部に移転し、この地区は塀で被われ、市民はここに入ることができないようになってしまった。跡地は雑草が生い茂り、オスロ市内でも最もイメージの悪い地区の一つとなってしまった。
 しかし、この地区は2004年にAspelin Ramm、Anthon B Nilsen Property Developersというデベロッパー会社によって、ほぼ100%民間主体でミックスドユース地区へと再開発された。そして現在では、オスロ唯一の屋内食料市場、ミシュランで一つ星のレストラン、お洒落な総菜屋などがあり、さらにはダンス・パフォーマンスが上演される舞台があるなど、オスロの人達の人気スポットへと変貌している。
開発するうえでの空間コンセプトとしては、この土地はアーキャスエルヴァ川と同川に並行して走るMaridalsveien道路とに挟まれた斜面上にあるのだが、それまで分断されていたこの川と道路を繋ぐ空間を整備することを重視した。そのためには、この土地にあった工場の建物の一部を壊さなくてはならなくなり、それに対しては地元住民が歴史建築物の保全という観点から反対したのだが、敢えて押し切った。これに関しては、取材をしたランドマーク氏によると、開発が成功するうえでは譲れない点であったからだそうだ。
 この地区にはホテルが二つあるのだが、一つは普通のホテルではない。それは、そこで働いている人が研修生であるという点である。しかも普通の研修生ではなく、それまで社会的に問題があり、通常の仕事とかが得にくい人が研修生をしている。これは、単に研修するだけでなく、社会に復帰するためのリハビリをも兼ねているそうだ。そして、このホテルの経営を支援するために、この地区に入っている企業はノルウェーでは一般的な社食を基本的には設置せずに、このホテルのレストランで食べてもらうことも推奨しているそうだ。このような試みからも、民間企業でありながら社会福祉的な視点もしっかりともった再開発ではないかと思う。
 そして環境にも意識していて、コジェネレーション・システムを導入している。これを効率的に使えるようにするためにもミックスドユースとある程度の密度の集積などを計画時点から意識をしていたそうだ。現在、ホテルで使われる75%の熱量が再利用されているそうだ。
 ミックスドユースでいろいろな用途が入っているヴァルカンであるが、その目玉施設は屋内食料市場であることは間違いない。これは、オスロというかノルウェーでは最初の屋内食料市場である。なぜ、屋内食料市場にしたかというと、開発を検討するうえで、工場の建物をみてインスピレーションを受けたためで、特に、市場調査とかをした訳ではないそうだ。ただ、スウェーデンとかにはある屋内食料市場がノルウェー、特にオスロにないのはちょっと違和感を覚えていたということはあったそうである。
 この屋内食料市場をつくるということに関しては、計画時点から相当、マスコミを中心に批判されたりしたが、結果的には大正解で、この屋内食料市場ができたことで、料理教室もでき、料理イベントも開催できるようになり、さらには、総菜屋も出店し、また、ミシュランで一つ星を取るようなレストランもここに立地することになった。屋内食料市場が核となって、ここはオスロ市のガストロミーの中心のようになってきたのである。まさに集積が集積を呼ぶという効果がここではみられた。
 ここの不動産管理をしているランドマーク氏さんに取材をしたのだが、テナント管理をしているうえで一つの物差しとしているのが、アンチ・スーパーマーケット、アンチ流通大企業であるということだそうだ。確かに、ここにはチェーン店のようなものは入っていない。それが、ガストロミーの集積地としてのステータスを高めているのであろう。
 興味深いのは、ここが民間100%の開発という点である。この空間は時間を問わず、誰でも入ってくることができるが、ここは厳密な意味ではパブリック・スペースではない。しかし、アーバンな雰囲気をつくることが不動産事業として成功するという点では不可欠との観点から、このようなアクセスが自由な空間を整備したということだそうだ。ランドマーク氏は戦略的に考えると、都市はタウンスクエアが一番、重要であるという。そして、そういう観点からは、この再開発においては屋内市場が一番、重要であると認識していたそうである。
 見事な都市再開発事業であると思われる。

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(ヴァルカン地区の案内図)

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(屋内食料市場)

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(川と道路とを結んだ計画上、極めて重要なアクセス)

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(住宅棟の上からの展望)

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(屋内食料市場の内部)

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(南北の街路。左上は駐車場やオフィス、レストラン棟が入っている建物)

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(アーキャスエルヴァ川の対岸からヴァルカン地区を望む)
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オスロ都市計画的な訪問記1 [都市デザイン]

 オスロに5泊した。主に最近、完成した3つの都心部そばの再開発地区を訪れた。現地の関係者にも取材をすることができたので、その近況を幾つかに分けて、簡単に報告したい。
 その前にオスロの概要。オスロは人口が約66万人。大都市圏だと112万を越えるノルウェー最大の都市であり、首都でもある。面積は454キロ㎡と東京都23区の4分の3程度である。人口密度だと大雑把に23区の2割程度か。オスロの首都としての歴史は古く1300年前後であったが、デンマークの実質植民地のような状況にあった時は、クリスチャニアと呼ばれていた。オスロに復帰するのは1925年以降である。また、ノルウェー最大の都市は1850年まではハンザ都市である港湾都市のベルゲンであった。そういう歴史をたどってきたので、同じスカンジナビア諸国でもコペンハーゲンや、ストックホルムのような豪壮さには欠けている。19世紀のスウェーデン支配下の時に王宮などを建てるが、どちらかというと支店的な位置づけであった。ということで歴史的建築物なども有り難みが少ない。
 したがって、都市の課題としては、そのようなアイデンティティの弱さをどう補っていくということがあるだろう。そういった視点から、1)ヴァルカン、2)オペラハウス、3)バーコードに関しての報告をしてみたい。あと、今、オスロの再開発といったらレンゾ・ピアノ設計で2012年に開業したアストルップ・ファーンリ現代美術館があるチューブホルメン地区が外せないのだが、訪問予定日の前日に捻挫をしてしまい、しっかりと視察ができていないのでそれは割愛させてもらう。また、再訪する機会があれば、ここらへんはフォローしたいと思っている。

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(オスロのウォーターフロントからの光景)
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アイスランドの妖精マップのある街を訪れる [都市デザイン]

 16年目、ウェールズのC.A.Tという施設を訪れたことがある。ここのランドスケープ・アーキテクトのピーター・ハーパー氏に取材をすることと視察することが目的で、その内容は『環境自治体』という雑誌の2002年1月号に発表した。C.A.Tは今回の旅行でも久しぶりに訪れたが、16年前に訪れた時はC.A.Tのそばの町のマッキンレーにあったB&Bにて宿泊した。そのとき、私と同じようにC.A.Tに惹かれて訪問したアイスランド人と知り合った。そこで私は、彼と一緒に夕食をしたのだが、そのとき、「聖なるランドスケープ」(Sacred Landscape)の話で盛り上がった。その話の中で、彼は彼の「聖なるランドスケープ」を教えてくれた。それは、ハフナルフィヨルズゥルにある彼の祖母の家のそばの公園であった。彼は幼少の頃、祖母の家に遊びに行くと、その公園で遊んでいたのだが26歳ぐらいの時、そこで妖精(小人のようなもの。ノーム(gnome))を見た話をしてくれた。彼は、その話をすると、自分が変人であると思われるかもしれないと危惧していたようで、おそるおそる私に言ったのだが、私はあなたの話は信用する、としっかりと目を見て伝えた。それは99%、本心であった。私が信用してくれたことが嬉しかったらしく、彼はアイスランドの人達は妖精やスピリッツなどを信じているということをいろいろと話をしてくれたのだが、特に私の興味を惹いたのは、ハフナルフィヨルズゥルには妖精マップがあることであった。その妖精マップは、いろいろとスピリッツを見られるシャーマンのような老婆が描いたものであるらしく、私は大変、それに興味を抱いて、それを送ってくれるようにお願いをした。彼は快諾してくれた。私は、まあいきなり出会った、見ず知らずの日本人に送ってくれるのは流石に面倒臭いであろうとそれほど期待せずにしていたら、実際に送ってくれたので大変感動した。この地図は今でも私の宝物であり、このエピソードは『若者のための街づくり』(岩波ジュニア新書)にも紹介している。
 今回、生まれて初めてアイスランドを訪れたのだが、それは、この話に導かれたというのが大きかった。そこで彼にアイスランドに行くので是非とも再会したいので、よければメイルに連絡をしてくれ、と手紙を送ったのだが、結局、アイスランドに着いても彼からはメイルが来なかった。いよいよ、アイスランドも翌日が最終日となった日になんと、彼からメイルが届いた。そのメイルには、引っ越していたので手紙を届くのが遅れたが、翌日は空いているので会おう、と記してあった。そこで、本日(8月21日)に私は彼とホテルのロビーで待ち合わせをした。
 彼は待ち合わせ時間の20分ぐらい前からロビーで待っていて、彼は日本人の私にすぐ気づいてくれた。私はちょっと記憶が曖昧になっていた。それから、カフェに行って近況を報告し合った。私はC.A.Tに行った翌年に大学教員になったのだが、彼もその当時は船乗りの技術者であったが、その後、大学の先生になっていた。その話を聞いて、日本とアイスランドと場所は遠く、離れていても彼とは何か「赤い糸」的なものを感じる。私は彼が送ってくれた地図を持参していたのだが、その地図を見せると、いろいろと解説をし始めてくれた。その地図を描いた老婆は既に他界してしまったそうだが、広く、地図で描かれている世界は地元住民に共有されているそうだ。この地図には様々な線が交錯しているのだが、それは地球の磁力線であるそうで、その線の結節点は特別な聖地となるそうで、そこには光の精のようなものが存在しているそうだ。彼はおそろしく青い目をしていて、その中心にある黒い瞳孔で見つめられつつ、妖精やスピリチュアルな話をされると、ちょっと異界へと引き込まれそうな気分になる。
 彼は、私が何も言っていなくても、私が何をしたいのかが分かってくれたそうで、彼が妖精を目撃してくれた公園へと連れて行ってくれると言ってくれた。カフェから駐車場に行く際、レイキャビクの週末限定のフリーマーケットに寄り、そこで本を売っていた彼の奥さんを紹介してくれた。彼女もシャーマンのように、精や死者などが見られるそうである。日本だと霊感が強いということになるのだろうか。
 さて、レイキャビクからハフナルフィヨルズゥルまでは車で15分ぐらいかかった。レイキャビクの郊外部を道路は通っているのだが、随分と、エッジシティ的な郊外開発が進んでいる。イケアやコストコなどもある。ちなみに、コストコが出来たことで、地元商店の30%ぐらいが閉店したそうだ。この数字はにわかには信じられないが、もし事実だとしたら、大変なことだ。商店街は社会やコミュニティにとって必要なのか。もし必要であると思うのであれば、このような大型商業施設の立地規制ということは真剣に考えなくてはいけないと思う。
 そういう話をしながら連れて行ってくれた彼の「聖なるランドスケープ」である公園は、ハフナルフィヨルズゥルの住宅地の中にあった。この住宅地に囲まれた公園というのは、なんとも意外ではあったが、一歩、その公園に入ると、それは霊感がゼロの私でも、そこが特別なところであることは分かった。その空間は周辺に比べると窪みになっていて、その窪みの中はまさに異界というか別世界のような空気を纏っていた。センス・オブ・プレイス、ゲニウス・ロキ、地霊という言葉が頭をよぎる。ハフナルフィヨルズゥルは火山の爆発から飛んできた溶岩があちこちにあるのだが、この公園もそれらの溶岩や樹木によって、空間が分断されており、実際の広さに比べて遙かにその空間を広く感じることができる。そして、分断された空間に人が日光浴をしていたりするのだが、そこに人がいることは視界が遮られているので、すぐには分からない。人でさえそうなのだから、そこに妖精がいても分からないであろう。
 身体が震えるような感動を覚えて、写真を撮っていたりすると、何もないような場所で、酷く足首をひねり、しばらく動けないような捻挫をしてしまった。どうも私の存在は妖精には不愉快だったようだ。そのことを同行した彼に言うと、「そんなことはない」と言ってくれたが、本心はどうだったのであろうか。妖精達にとって招かれざる客であったことを自覚させられたことは、正直、傷ついた。その後は、光の精がいると妖精地図に描かれた丘に行き、また、その地霊を感じて感動するも、足の疼きが酷いのでホテルに戻ってもらい、そこでお礼を述べて、彼とは別れた。
 妖精が見られた彼と、妖精に拒絶された私。あの場所に再び訪れたい気持ちもするが、次の仕打ちは捻挫どころでもないような気がして、びびっている私もいる。あの場所に受け入れられるような人間になりたいと思うと同時に、どこで道を間違えたのかと悲しく感じてもいる。
 とはいえ、それを含めて、今回、アイスランドに来て、あの公園を体験できたことは素晴らしいことであった。16年前のあの日を覚えていてくれ、私を特別な場所に連れて行ってくれたグンナーさんには感謝の気持ちしかない。

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リスボンのサンタ・ジュスタのエレベーター [都市デザイン]

リスボンに学会で来ている。開会式のキーノート・スピーチに律儀に参加しようと9時に会場に向かうと、キーノート・スピーチは違うキャンパスでやるそうだ。どうも、地下鉄で30分ほどかかるようなので、何か面倒臭くなり、天気が凄まじくよかったこともあり、リスボンの市内巡りに行ってしまった。結局、いつも通りの行動パターンだ。
 さて、最初は何しろ、エレベーターを押さえなくては、ということでいそいそとサンタ・ジュスタのエレベーターに向かう。サンタ・ジュスタのエレベーターはジャイメ・レルネルさんの著書『都市の鍼治療』にて紹介されている。私はこの本を訳したので、その時から大変興味を持っている。ということは、12年間ぐらいは興味を持っており、いつか来たいと思っていたということだ。
 このエレベーターはバイシャ地区の低地とバイロ・アルトの高台とを繋ぐために1900年から工事が始まり、1902年に完成した。エッフェル塔の設計メンバーの一人でもあったメスニエールによってつくられた。それは45メートルの高さで、できた当時は驚きの技術の結晶であったのだろう。観光名所として多くの人を惹きつけることになる。
 今でこそ、エレベーターなどあまりにも日常的で、ちょっと高い建物ならほとんどついているような代物であるが、よく考えると、それが登場した時には驚きの交通施設であるということに気づかされる。このエレベーターに乗るのに15分間ぐらい待たされた。15分も待たされても乗るというのは、もうほとんど観光客しか利用しなくなってしまった、ということであろう。というか、これは有料である。5€ちょっと取られた。48メートルの高度を得るために日常生活で5€払う人はほとんどいないから、これはもう100%観光客向けなのかもしれない。
 さて、しかし、このエレベーター、ランドマークとしてはなかなかのものである。エレベーターの丘側の乗り場の上は展望台になっており、そこからはバイシャ地区の町並みだけでなく、そのスカイラインを縁取る城、それからテージョ川、そしてその対岸のアルマーダまでをも展望することができる。なかなかの絶景である。
 東京のように高いタワーがないので、ここからの展望は特別な意味があるのだろう。この光景を観るために観光客が15分待って5€払うというのは理解できる気がする(展望台に入るためにも搭乗券が必要なのだ)。
 7つの坂の都市と言われるリスボンだが、そのリスボンにふさわしいユニークなランドマークである。
 
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(バイシャ地区からみたエレベーター)

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(中は相当、レトロである)

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(上の駅からは素晴らしいリスボンの展望を得ることができる)
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出雲市の商店街で生き残ったのは自分の店でものをつくっているところと病院だけ [都市デザイン]

出雲市駅のそばにある本町商店街に行く。土曜日の夕方であったが、ほとんどのシャッターが閉じていた。シャッターがあるところはまだましで、幾つかは既に駐車場になっていた。シャッターだらけの商店街に駐車場の需要があるのかどうかは不明だが、青空駐車場が広がっている商店街に立つと、シャッター商店街の方がまだましだと思う。都市は建物とその間の空間から構成される。建物がなくて、駐車場という建物がない空間は決して都市とはいえない。シャッターは都市を構成する建物としては、経済的に活動していない、という点からは相当、今ひとつであるかもしれないが、それでも建物がないよりはましなような気がする。
 さて、しかしシャッター商店街ではあるが、幾つかの店はまだ開業している。それらのうちの一つ、出雲蕎麦屋に入る。そして、和菓子屋にも入る。和菓子屋さんはいかにも老舗という感じなので、尋ねると、6代目だということである。一代25年と考えたとしても150年は続いていることになる。明治維新前後に開業ということだろうか。ただ、老舗の味というのに拘りはなく、それぞれの代ごとに自分達の味を追求しようとしているそうである。
 随分とシャッターが降りているお店が多いですね、と言うと、昔は随分と栄えていたそうだが、本当、寂しくなったと答えてくれる。そして、大変興味深いことを仰った。
「出雲市のあるシャッター商店街で生き残ったのは、菓子屋、蕎麦屋、麹屋といった自分の店でものをつくっているところと病院
 このお菓子屋さんは不思議だよね、というニュアンスで言っていたが、私にはまさに正鵠を射たような発言であった。シャッター商店街のお店がつぶれたのは、二つ大きな理由があると私は前々から考えている。まず、都市の自動車化。つまり、道路を一所懸命に整備し、その過程で場合によっては、商店街などの都市の文脈を培ってきた集積を壊し、道路だらけの都市空間を作り出す。道路というのはそこで立ち止まることができないような空間である。マグロが泳ぐのを止められないように、それは都市活動にそれ自体はまったく寄与しない。都市活動を結ぶために必要悪としてつくられるものである。しかし、その本来は脇役というかサポート役の道路が、むしろ主役である都市活動が行われる土地を奪い、場合によっては破壊しているのである。さらには、このような道路だらけの都市空間ができると、自動車で人々は移動するようになる。自動車は道路だけでなく、駐車場も必要とする土地利用という観点からすれば、まったくもって非効率な移動手段である。だから、ドイツやデンマークなどは、自動車を都心部から排除しようと努力を続けているのである。また、自動車は土地利用的には非効率ではあるが、移動性には優れているので、短時間で遠くの場所へ移動することができる。したがって、都心部に商業施設が立地しておらず、郊外部に立地していたとしても大して不便ではないのである。というか、自動車社会が進むと、郊外の地理的不利が克服できるので、郊外部においてどんどんと商業施設などが立地していくことになる。あまり賢明でない自治体とかは役所や病院、大学なども郊外に立地させたがる。それで都心部が衰退しないと思う方がおかしい。
 そのような状況下で、つまり、郊外にショッピングセンターなどが立地しているような状況下であっても、都心部にお客さんを集客するのは、そこでものをつくって売っている、すなわち需要のある希少性を持ったものだけになる。どこかでつくったものであれば、敢えて都心部の店舗で販売する必要性は皆無である。その場所でつくっていてオリジナリティがあり、需要があるもの、すなわち蕎麦屋、和菓子屋、麹屋などだけが生き残れるのである。ということを、出雲市にて改めて認識した。

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水元公園を初めて訪れた [都市デザイン]

 水元公園を訪れる。初めてだ。そもそも葛飾区には縁がない。葛飾区の役所がどこにあるかも分からない。荒川の向こう側であることや、東葛飾高校が柏市にあることなどを考えると、葛飾区が東京というのは微妙かもしれない。文化的にはより千葉なのではないか、と葛飾区民の人が聞いたら怒るようなイメージをちょっと有している私がいる(すいません)。
 さて、その葛飾区のイメージだが、両さんのお陰で亀有が葛飾にあることが分かる。あと、寅さんのお陰で柴又帝釈天があることも分かる。寅さんの自己紹介の口上は「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」である。
 ということで柴又は葛飾にあることは分かる。さて、しかし足立区と葛飾区の区界、江戸川区と葛飾区の区界は不明である。小岩は江戸川区だが高砂は葛飾区?まあ、それぐらいの認識しかない。
 しかし、水元公園という巨大な公園が葛飾区の北にあることは知っている。前から興味はあったのだが、まったく行く機会がなかったので、大学も休みということで思い切って一人で訪れてみた。ネットで調べると、金町駅からバスで行けるということが分かる。ちなみに金町駅に行くのも初めてである(亀有駅にも行ったことは一度も無い。今度、是非とも行ってみたい)。金町駅は、駅前に区画整理をしたような大通りが走っているんだろうな、という私の先入観とは違い、結構、ヒューマンスケールの街並みが展開しており、ある意味、嬉しい誤解があった。なかなか私の生まれ育った東長崎とまでは行かなくても、中野の北口ぐらいの生活臭溢れる好ましい空間が拡がっていた。とはいえ、バスを10分ほど乗ると、そこには郊外団地が拡がっていた。さらに、ちょっと行くと水元公園というバス停に到着したので、そこを降りて、ちょっと歩いて行ったら、ここは本当に東京か!と思わせるような水郷の雄大なランドスケープが美しく拡がるところであった。全部で8ヘクタールの規模だそうだが、うまく河川敷を活用しており、実際は、もっと大きいようにも感じられる。昔の東京というか、江戸というか、この辺りにはこんな美しい水郷風景が拡がっていたのか、というのは驚きであるし、そういう風景を今日に伝えられるような公園整備をしてきた東京都の公園行政には、素晴らしい仕事をしているじゃないか、と感心させられた。
 今回はちょっと全部を見きれなかったのだが、また機会があれば、ゆっくりと訪れたい。このような公園をしっかりと整備していれば、都市は確実に豊かになると思われる。

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タグ:水元公園
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目黒川は相変わらず臭い。なぜ、ここに人が多く訪れるのか不思議である。 [都市デザイン]

 私は目黒区立東山中学校を卒業している。池尻大橋中目黒、祐天寺を結ぶ三角形の重心にあるようなところで、鉄道駅はどこも遠い。さて、そこのそばを目黒川が流れている。中学時代の目黒川の印象はどぶ川で、その周辺には小さい工場がたくさんあり、川は汚く、臭いもきついものがあった。中目黒は山手通りの自動車が多くて、歩道は狭くて、駅の裏側にある飲み屋街は怪しげな雰囲気をぷんぷんとさせていた。ということで、中目黒駅周辺の目黒川にはとてもマイナスなイメージがあるし、歩きたいとは思わなかった。ただ、当時から桜並木はあったかもしれない。
 その後、会社に入り、目黒川沿いのオフィスで働いていたことがある。雅叙園が建てたオフィス・ビルである。その時も相変わらず、目黒川が臭った。会社で働いていた時にお花見をしたことがあるが、目黒川ではせずに、ちょっと離れた公園でやった記憶がある。
 さて、そして今、再び毎日、目黒川を越えてバス通勤をしていることもあり、目黒川はしょっちゅう見る。ただ、中学時代やオフィス時代と比べても大きく変わったことはいつの間にか、目黒川の花見がなんか観光資源になってしまったことと中目黒がお洒落になったことである。なんか、子供時代は今ひとつで目立たなかった同級生が、大人になったら大スターになってしまったような感じである。驚きだ。
 ということで、随分と目黒川の臭いも改善されたのかな、と勝手に思っていたのだが、最近、目黒川のそばを歩いたら、相変わらず猛烈などぶ川の臭いを発していた。なんだこれは、と川を除いたら、ヘドロのようなものが大量にぷかぷかと浮いていた。
 地元住民はよい。しかし、遠くからこの目黒川にお花見等来る人や、中目黒のお洒落化を図っている人は、この目黒川の臭さ、汚さは本気で対処すべきだと思う。というか、この臭さの中、なぜお花見をすることができるのか、とても不思議な気分になるし、お洒落な店に行きたいとは思わないだろう。私は目黒川でお花見をしようとは全く思わないし、中目黒に行きたいとはまったく思わないが、それでも、この事態を改善しないとリピーターがいなくなるのではないか、と思われる。デート・スポットとして人気があるらしいが、この臭いと川に浮かんでいるごみを見て、盛り上がるカップルは少ないと老婆心ながら思う。

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立川駅を訪れ、その陵辱されたようなアーバンスケープを見て愕然とする [都市デザイン]

 立川駅を久しぶりに訪れる。以前は、立川駅が最寄り駅のところに顧客の事務所があったので、よく訪れた。といっても15年以上も前の話である。さらに、顧客の事務所は北口にあり、歩いて行くのはちょっと辛かったこともありタクシーで行くことがほとんどであった。ということで、立川駅はよく利用はしたが、駅周辺は、それほどは知らなかった。
 今回は、そういう意味でははじめてじっくりと国立西駅から立川駅南口へと歩いたのだが、歩いていると徐々に陰鬱とした気分になってきた。そこには、地霊というかセンス・オブ・プレイスのようなものがほとんど感じられないのだ。なぜだろうか。しばらく考えていて、これはセンス・オブ・プレイスというものは、その土地の風土、エコロジーがつくりだしているからだ、ということに気がついた。それは自然的要素と歴史的要素とからつくられる。そして、立川にはそのようなセンス・オブ・プレイスを感じさせるようなものがほとんどない。
 まず、自然的要素であるが、川は流れていたようだが、今は暗渠化されて大通りになっている。そこの通りの並木、さらにその隣にあるお寺は、多少、安堵させる。周辺の山々などが見られればいいのだが、立川の中高層のマンションに囲まれているとそのようなものが目に入らない。そして、建物の間の空間は道路と駐車場である。人が佇むようなポケット・パークのようなものさえ見えない。
 もう一つの歴史的要素に関しても、感じることは少ない。羽衣商店街という昔の赤線地帯の商店街の街並みはレトロ感があり、少し、ホッとさせる。ただ、どうもこの土地の人達は、そのような米軍相手の赤線地帯であるという過去を葬り去りたいという意識があるのか、その痕跡をたどるのはほとんど不可能である。とはいえ、それに換わる歴史的なストーリーはない。立川駅の南口は、どちらかというと表に出したくないような人間の欲望がつくりだした景観がつくられていた。それは消費の空間であり、また、そのような消費のニーズを提供するような空間だ。そこに文化が生じないとは言わないが、そこで生じる文化は、そのような場所において人間性を失わないためのような魂の叫び的な文化のようなものになるような気がする。どちらにしろ、ちょっと辛い。
 そのような空間をどうにか改善するために都市デザインが持つ力というのは大きいと思われる。私は個人的にはそれほど好きではないが、南池袋公園などはそうだし、より好ましい事例としては中野セントラル・パークがある。うまく、立川のまさに土地が汚されたような戦後の歴史を、それを葬り去らずに、しかし、将来への希望につなげるような空間づくりはできる筈である。それを、中途半端に立前だけで、そして経済的な効率性だけを意識して都市づくりをしてきた。その結果が、立川の景観には如実に表れている。
 日本の都市づくりは、ヨーロッパの都市などに比べて、そしてアメリカのサンフランシスコやシアトル、ニューヨーク、ポートランドなどに比べて、何かが決定的に欠けている。この人間性を否定し、風土を抹消するような都市景観をつくってしまっている(北口も含めてである)ということは、何か大きな欠陥が現在の都市づくりのシステムにあるとしか思えない。それが何かは、今後の私のおそらく大きな研究課題になるであろう。

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(緑川は全区間が暗渠化されていて、上部には道路が走っている。自然を求めて立川の郊外に引っ越そうとしたら大間違いだ。よほど目黒区の方が自然は多い)

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(元赤線地帯の羽衣商店街は、ここらへんでは数少ない、地霊というかセンス・オブ・プレイスを感じられる)

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(この混乱した住宅街。というか住宅街なのだろうか。ざわざわ感を覚えるのは私だけだろうか)

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(そして、とりあえず土地が確保できれば駐車場。ここに緑とかを少しでも植えるような気持ちがないのでしょうか)

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(普通、角地はいろいろと街空間を演出するのに使えるのですが、立川はそこでも駐車場)

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(駅に近いところは突如、しっかりと高層ビルが建てられる)

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(大人のおもちゃが悪いとは思いませんが、このロリアニメのキャラが気になります)

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(駅前の商店には、街を美しく見せようという意識はあるのでしょうか?)

 立川の人達には不愉快な思いをさせてしまったら恐縮ですが、これは立川だけではなく、日本全体の都市の問題かと思いますので、申し訳ありませんが指摘させていただきました。
タグ:立川駅
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立川の羽衣町の赤線跡を訪れたが、私の能力ではその痕跡をたどることは難しかった [都市デザイン]

 マイク・モラスキーの本を読んで、立川の羽衣町に猛烈に行きたくなったので、南武線を武蔵小杉から下る。いつの間にか、南武線は高架化されており、武蔵新城あたりからは結構、神奈川の方が展望できてちょっと楽しい。ただ、溝口あたりからは、また地面を走る。こちらの方が、南武線らしい。車窓はつまらないが。さて、途中、睡魔に襲われうとうとしていると目的地の西国立に到着した。
 モラスキー氏の著書『呑めば、都』には、江東区の州崎の集団売春街が1943年に軍の命令で建物を明け渡すことになったのだが、建物を失った業者達は、吉原、羽田の穴守、そして立川の羽衣町・錦町へと分散して営業したと書かれている。
 私の都市を診る力で、そのような痕跡が分かるかの腕試しのつもりで行ったのである。さて、駅の前は特に何もない。どこが羽衣町かよく分からないので、地図をみる。羽衣町は1丁目から3丁目まであり、随分と広範に拡がっているが、地図の形状から区画整理が比較的にされているところに当たりをつけて行くことにした。これは、羽衣中央会館などがある立川市立第六小学校の南にあたり、羽衣商店街もある。
 さて、しかし、残念ながら、その痕跡はほとんどなく住宅地である。ここが、赤線跡ということが分かっているために、住宅地なのに飲食店(いわゆるカフェがそのようなサービスを提供していた)があったりすることはその名残だろうと類推できるが、その逆は無理だ。というか、私では出来ない。まあ、赤線跡をたくさんみていれば、そのような類推もできるかもしれないが、私はそのような街歩きのストックが少なく、その結果、類推する能力もないことを知る。
 改めて、もっと街歩きをして、街を診る力を養わなくてはと思わされた日であった。

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柳川市の景観づくり [都市デザイン]

 福岡に打ち合わせに来た。翌日、特に予定がないのでそれまで来る機会がなかった柳川を訪れた。幸い、前日に市役所にちょっと資料をいただけないかと連絡したら承諾してくれたので、西鉄に乗って役所に行き、特に景観条例がらみの話を聞かせてもらい、その後、柳川名物の鰻を食べ、お堀沿いの周りを2時間ぐらい散策した。
 柳川のお堀を保全するよう動いたのは、一人の市の職員である。この職員の情熱が、現在の美しい水郷空間の具体化に繋がったというのは大変心温まるいい話である。日本のサンアントニオのようだ(サンアントニアに関してはhttp://www.hilife.or.jp/cities/?p=76参照)。ただ、柳川は美しい水郷景観を保全してはいても、建物的には伝統的建造物はほとんどなく、したがって昔は伝建地区を目指していたのだが諦めたという経緯がある。
 昭和46年から伝統美観条例は策定していた。そういこともあって、景観法がつくられた時、景観条例を制定することは自然な流れといってもよかったであろう。お城が昔あり、内堀、外堀は守るという意思が育まれていた。そして、掘り割りは江戸時代のものがそのまま残っている。ただ、建物は残っていない。そして、統一感のある街並みはない。人々はそして街並みに不満を持っていない。商店街などで外観の修景をしようとしても、商店の人達は興味が無い。
 そういうこともあって、景観づくりというアプローチも保全というよりかは、ワークショップを行うことで、住民の意識を高めるということを中心としている。そして、駅を整備した。この駅はデザイン賞をとるなど、洗練された意匠の建物となっている。そして、駅から南西に観光の中心の沖端地区があるが、ここが先行して取り組んだ。そして、柳川商店街では修景には取り組めていないが、サインを分かりやすくしたり、空き家の活用などを展開したりしている。
 市役所としても、王道なのは歴史景観であることは理解しているが、柳川では出来ないので「営み景観」をつくろうとしているのである。
 フレームワークに拘らず、柔軟に住民とコミュニケーションをして景観を緩やかに形成しようとしている柳川。お堀をしっかりと保全することに成功した要因は、このような柔軟でいて辛抱強く、しかし最終的な目標地点には確実に近づくようなアプローチにあったのではないか、と思ったりした。

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タグ:景観 柳川
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ドイツの都市がコンパクトに集積してまとまりを持っているのは、それなりの政策を採っているからだ [都市デザイン]

 今回のドイツの調査旅行では、チューリンゲン州と隣のザクセン州の都市を幾つか巡った。エアフルトを拠点として、ズール、ツヴィカウ、プラウエン、ヴァイマール、ヨーハンゲオルゲンシュタットなどである。また、これまでもこの地域周辺にある都市は頻繁に訪れている。イエナ、ケムニッツ、コットブス、ホイヤスヴェルダ、アイザナッハなどである。
 そこでつくづく感じたのは、ドイツはその都市の個性がしっかりと際立っているということだ。この大きな理由は、都市の空間的定義が分かりやすいことである。すなわち、ドイツは都市の境界がしっかりしていることである。これは、旧東ドイツの上記二州以外の旧西ドイツの都市でもいえることである。一部、ベルリン、ハンブルグのような大都市では若干、周辺の自治体と連担しているところがみられるが、デュッセルドルフやライプツィヒぐらいの50万人前後の都市でも周辺の郊外部の自治体の間にはグリーンベルト的な非市街地の空間が、その中間にみられる。
 これらは日本からみれば、コンパクト・シティというように解釈できるし、実際、空間的にはコンパクト・シティとなっている。これは、ちなみに大都市ではなくて農村レベルの自治体でもみられることである。このように境界がしっかりしているのは、土地利用規制が極めて厳しいからである。そして、この厳しい土地利用規制は1960年代の建設法典で決定された。そして、これがコンパクト・シティを決定づけた。
 このようにコンパクト・シティが形成されたもう一つのドイツの条件としては、1930年代のクリスタラーの中心地理論を実際の地方拠点づくりに応用したことである。クリスタラーとはドイツの経済地理学者で中心地がなぜできるかという理論的、実証的分析を行ったのだが、それを応用して、実際、地域における第一都市をつくり、その下にツリー状に第二都市、第三都市などをつくるというものである。これによって、第二都市や第三都市はある程度以上大きくならないようにコントロールされるし、全般的にその地域の集中が分散されるシステムである。これは、どうもナチス時代ぐらいから始まったそうだが、この地域の作り方は戦後も継承されている。
 また、このようなコンパクトな星が星座をつくりあげるように地域を形成できている大きな理由の一つに、民間のデベロッパーが旧東ドイツだけでなく、旧西ドイツにも存在しなかったことがあげられる。これらの民間のデベロッパーは世界恐慌の時にほとんど倒産し、その後、復活をしなかったそうである。
 そして、その後、どういうことが起きたかというと、インフラ等は自治体が建設・整備し、建物は住宅会社(自治体の住宅会社か組合の住宅会社)が共同住宅を建設し、戸建て住宅は個人が建設することになったそうである。
 さらにいえば、これは旧西ドイツのケースであるが、旧東ドイツに関しては、東西ドイツが再統一した後は、外資(おもにオランダだと思われる)の民間のデベロッパーが郊外部に旧西ドイツに見られないような住宅地をつくったりしたそうである。
 つまり、日本もそうだがアメリカなのでも、コンパクト・シティがなかなか形成できないのは、自治体の空間的定義がしっかりしていないのに加えて、郊外開発を促すことをビジネス・モデルにした民間のデベロッパーがいたということが挙げられる。
 特に日本では郊外開発を促進させたのは阪急や東急などの民間の電鉄会社であったが、ドイツでは鉄道はすべて公共事業体が建設をしてきた。そのような違いがドイツにおけるコンパクト・シティの形成の背景にある。
 逆にいえば、コンパクト・シティというのは都市計画において市場経済に任せずに、公共政策を中心に進めないと難しいということを示唆している。上記に関してのストーリーはカッセル大学のロースト教授へのヒアリングをもとに、そのポイントをまとめたのだが、日本は立地適正化計画などでコンパクト・シティを形成しようとしているが、ドイツがコンパクト・シティをつくれている背景などを調べると、その目標は悪くないかもしれないが、現状の民間に都市開発を依存しているような状況下でそれを実現させるのは難しいのではないだろうか。この点に関しては、今後も研究していきたいと考えている。

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ドイツ版の「夕張線」に乗り、夕張線の廃線のことを考える [都市デザイン]

 ドイツのエアフルト大学で夕張の話をしたら、「ドイツにも似たようなところがある。それは、ヨーハンゲオルゲンシュタットという町だ」と言われたので、早速、日曜日に訪れることにした。このヨーハンゲオルゲンシュタットはチェコとの国境沿いの町で、もう旧東ドイツの地の果てという感じではあるが、なんと鉄道が走っている。
 これはツヴィカウの中央駅とヨーハンゲオルゲンシュタットとを1時間ちょっとで結ぶ線路である。終点はヨーハンゲオルゲンシュタットなので、ヨーハンゲオルゲンシュタットが夕張であれば、これは夕張線のようなものであろうか。そういうこともあって、ツヴィカウに前日に入り込んだのだが、ツヴィカウのホテルは中心市街地にあり、中央駅からはタクシーで12ユーロ(徒歩20分ぐらい)の距離にあった。これでは、荷物を持って移動するのは無理だ。しかし、中央駅には荷物預かり所もロッカーもない。というか、中央駅と中心市街地は路面電車で結ばれているのだが、なんと土曜日と日曜日はこの路線は運休していたことが最大の計算違いであった。
 どうしよう、と思っていたら、この「ドイツ版夕張線」は日曜日も運行している中心市街地を通る路面電車の沿線の駅と400メートルぐらいの距離に駅があることが分かった。中央駅から2つめの駅である。これなら、ホテルに荷物を預けて、路面電車に乗れば「ドイツ版夕張線」に乗ることができる。
 さて、その日は日曜日ということもあり、ホテルで朝食を取ることにした。ドイツは日曜日では観光地とガソリンスタンド以外は、ほぼ閉店しているので、朝食を町中で得ることはほとんど不可能だからである。ただし、朝食は7時からであった。ということで、朝食を最速で食べて間に合う時間の列車に乗ることにした。
 ちなみに「ドイツ版夕張線」は1時間に1本走っている。さて、路面電車をツェントラムから乗り、3駅目のシュタット・ハレで降り、そこから歩いてシュデヴィッツという駅まで行く。こういう時は、iPhoneは本当に役に立つし、心強い。駅のホームには電車到着の10分ぐらい前に着いた。そこでぼんやりと列車を待っていると、鳥のさえずりが聞こえてくる。ザクセンの地方部の心穏やかになるような光景だ。
 さて、この「ドイツ版夕張線」は非電化ではあったが、なんと複線であった。途中、一本しか行き交うことがなかったから、過剰投資であると思われるのだが、昔は貨物を含めてもっと多くの列車が走っていたのかもしれない。この列車は随分と牧歌的で美しい田園風景の中を走って行く。30分ほどでちょっと大きな町に出る。随分と高いトンネルが建っている。協会も立派だ。AUEという母音が3つ重なるだけの町名は、一体、どうやって発音するのか分からない。アーユーか。ちなみに、このAUEから先は単線になり、ダンダンと山は険しくなっていく。列車は川沿いを走っていく。私はドイツの非電化の鉄道路線を結構、乗っているが、それらと比べても車窓の自然美や街並みの景観はなかなか素晴らしい。
 さて1時間ちょっとでヨーハンゲオルゲンシュタットに着いたのだが、日曜日の朝ということもあるのかもしれないが、乗客はまばらであった。平均して10人前後だと思われる。車両は2両でトイレ付き。おそらく相当の赤字であろう。しかし、ドイツではこういう赤字路線でも鉄道が運行されている。もちろん、補助金を受けているからだろうが、その補助金の根拠は何か、というと地方へのシビル・ミニマムを確保するという意識がしっかりとしているからだろう。
 ヨーハンゲオルゲンシュタットがどの程度、夕張と類似しているかは、これから調べたりしないと不明だが、夕張線が廃線になることを考えると、なぜ、このドイツ版夕張線は、しっかりと運行されているのかをしっかりと検証するべきではないかと思われるのである。
 このヨーハンゲオルゲンシュタットを含む旧東ドイツは東西ドイツの再統一以降、日本などと比べものにならないほど激しく人口が縮小した。しかし、それから27年経ち、一部の都市は人口減少が留まり、回復傾向がみられる。ライプツィヒのように1990年時にまで人口が戻ったところさえある。
 ヨーハンゲオルゲンシュタットはどうなるかはまだ不明だ。ウラン鉱山ということで、ドイツが原発を廃止する政策を決定したことで、さらにその将来は見えないであろう。しかし、その人口減少を加速化させるようなこと、例えば、ツヴィカウという地方中心都市とを結ぶ鉄道を廃線するような判断はしていない。そこに日本と大きな違いが見いだせる。夕張線だけでなく、留萌線、三江線も廃線予定である。これらの鉄道がもたらした意義を、単に鉄道会社の採算だけで見てしまっていいのだろうか。これが、本当に日本政府が地方のこれからの将来に対して考えた結論なのだろうか。高齢化が進み、地球温暖化が進み、化石燃料が枯渇していく中、地方部の交通を自動車に依存するのは愚かである。そのような愚かさは、人々をさらに地方から都市部へと移動させることになるだろう。
 自動車は無人運転される時代がくるからいいのだ、と思うのであれば、無人運転されるようになれば、さらに土地利用の高度化が移動の効率化に求められるようになって地方部は不利になるのだ。そして、その不経済によって物の値段などは都市部に比べて遙かに高くなる。
 そのようなことをいろいろと考えさせてくれた、ドイツ版の夕張線であった。

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(ほとんど乗客がいない車内)

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(美しいザクセンのフォクトランドの景色の中を列車は走る)

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(終点、ヨーハンゲオルゲンシュタット駅ではチェコの鉄道も入っている。チェコの国境はここから1キロメートルしか離れていない)
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ズールという不思議なドイツの山間都市に行った [都市デザイン]

 エアフルト大学の先生達に連れられてズール(SUHL)というチューリンゲン州の都市に行った。あまりにも知らなかったので、それはてっきりチェコとの国境沿いにある都市なのかと思ったら、まったくちがって、むしろヘッセン州側にある都市であった。チューリンゲン州の南部は、チューリンゲン・ハイランドという標高1000メートル前後の山地が東西に拡がっている。チューリンゲン州はほとんどが、このチューリンゲン・ハイランドの北に当たるのだが、このズールは南にあり、また、その南は旧西ドイツであったため、今でこそドイツの地理的真ん中に位置しているが、旧東ドイツ時代は、山と国境に隔たれた僻地という位置づけであった。もう少し、具体的に説明するとエアフルトの50キロメートル南西、ヴルツブルクの68キロメートル北東といったところである。
 ズールは旧東ドイツにおいてはエアフルトとゲラと同じくチューリンゲン州の3つの地域の中心都市であり、東西ドイツが再統一された後も、人口は35000人と少ないがチューリンゲン州の6つの都市の一つである(前述の2つに加え、アイゼナハ、イエナ、ヴァイマールから6つの都市は構成される)。
 ズールの記録が残るのは14世紀頃からである。その当時は鉱山と鉱業の町であった。その後、産業革命を経ると、ズールはドイツの軍需生産都市になる。特にライフルと銃に特化した。また、シムソンという自動車、オートバイの会社もここを拠点にした。ちなみに山がちの地形のズールにおいては、農業はほとんど営まれなかった。一方で林業は盛んであった。
 ズールは1952年に旧東ドイツの14の地域の中心都市として指定される。これは、その人口規模などを考えると意外ではあるが、その地理的に周辺の都市と隔離されていたことなどから選ばれたと考えられる。ちなみに、他の13の都市はライプツィヒ、ドレスデン、フランクフルト(オーダー)、コットブス、エアフルト、ゲラ、ハレ、カール・マルクス・シュタット(現在のケムニッツ)、マグデブルグ、ノイブランデンブルグ、ポツダム、ロストック、シュヴェリーンである。基本的には人口が10万人以下はノイブランデンブルグとフランクフルト(オーダー)ぐらいである。しかも、この二都市でもズールよりは人口は多い。つまり、14都市の中で最もズールは人口規模が小さい中心都市であったことが分かる。
 さて、しかし経済地理的な要因ではなくとも都として指定されたことで、それなりの雇用が生じるし、また都であるために、1960年代には社会主義のシンボル的な建築物が多くつくられ、それは現在でも多くが残されている。そして、東西ドイツ統一後は、この行政的な機能を失い、また工業も競争力がないため、雇用を失い、多くの人口を流出させ、減少が進むことになる。1988年に比べるとズールは35%の人口を失った。
 ズールのそもそもの人口であるが、1935年ぐらいまでは15000人前後で安定していた。しかし、第二次世界大戦が始まると軍需が増えたことに伴い、1940年には26000人まで増える。旧東ドイツになっても武器への需要は減らず、また前述した行政機能も加わり、1988年には56000人まで増加する。しかし、そこからジェットコースターのように下り一方に下がるのである。2015年には36858人まで減る。
 ズールの人口減少においては、ライプツィヒやコットブスのような郊外への人口流出というのはほとんど見られなかった。というのも、小さな盆地というよりかは、谷間につくられた都市のようなものなので郊外化する余地もなかったからである。その人口減少の主要因は旧西ドイツや周辺の大都市への流出である。ライネフェルデのように、そこに住んで旧西ドイツに通うほどは交通の便がよくなかったので、そのまま移転する人が多かった。
 幾つかの社会指標をみると移民の少なさと失業率の低さが相対的に目立つ。しかし、移民の少ないのは、移民にとっても魅力が少ないため、そして失業率の低さは、失業者がこの都市に留まらないからだそうだ。
 公共交通に関しては、ズールは山がちのため、鉄道が通るのも遅く1882年にヴルツブルクと結ばれ、1884年にはエアフルトと結ばれる。現在でも、この路線は通っている。大戦前は、この路線はベルリンとドイツの南西部を結ぶ重要な役割を担ったが、東西ドイツが分裂し、現在に至るまで特急列車がここを通ることは再統一以降の一瞬を除くとなかった。
 この都市、実際、訪れると、社会主義時代の高層ビルが谷間に林立し、その下にやはり社会主義時代につくられた低層の集合住宅が展開するなど、極めて旧東ドイツの空気を以前、放っている都市である。コットブスやゲーリッツ、ヴァイマールといった歴史的な雰囲気はほとんどなく、ちょっと異様な感じを受ける。軍需都市ということで、爆撃を相当、受けたことも関係があるのかもしれない。
 土地の制約の大きさ、歴史的アイデンティティの無さなど、この都市を再生させる方法を考えるのはいろいろと難しいのではないか、と思いながら町を歩いた。

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(社会主義時代につくられた公共施設)

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(都心部につくられたショッピング・センター)

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(都心部の建物。社会主義的なファサード)

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(東西統一後につくられた建物と社会主義時代につくられた高層ビル)

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(社会主義時代につくられたテラス・ハウス。大通り沿いなのでちょっとオシャレなファサードになっている)

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(高層ビルは社会主義時代につくられた)

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(ズールに残った数少ない工場)

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ビバ!ボローニャ [都市デザイン]

イタリアのスローシティと縮退都市のトリノを視察調査するという旅行をして、特にスローシティは期待外れもいいところだったのでがっかりしたのだが、ボローニャに来て、イタリアに対しての失望はすべて払拭された。ボローニャ素晴らしい。ということで、どこがそんなにボローニャが素晴らしいか、簡単に整理させてもらえればと思う。
1)まず、先日のブログにも書いたように料理美味しい!というか、イタリアではどこでも美味しい料理が食べられるのかもしれないが、私はミラノのホテルの朝食を除くと、初めてといいぐらい4泊目のボローニャで美味しい料理を食べられた。今回の料理ではイタリア料理が美味しい訳ではなく、ボローニャの料理が美味しい、というのが分かった。ということでボローニャは素晴らしい!2)人が町中に溢れている。ボローニャは人口が30万人弱の都市なのに、金曜の夜はレストラン街は人で溢れている。大通りも自動車の規制がされており、都心部はまさに人間が主人公空間で多くの人があるいている。素晴らしい!
3)都心部の商店街には、八百屋、魚屋、肉屋という生鮮食料品3店がしっかりと営業している。その隣には花屋、さらに一軒挟むと総菜屋、酒屋。もう、これだけでここに住みたくなってしまう。都心部の商店街に個人経営の生鮮食料品3店。グローバル化に対抗して都市を持続させるための有効な処方箋ではないだろうか。素晴らしい!
4)都市は建物と建物の間の空間と人から構成されている。というのが私の最近の持論であるが、ボローニャの中心道路である「ヴィア・デリペンデンツァ」を歩いていたら、「あ!ボローニャこそ都市を極めて鋭く表現している」と思った。その威厳はあるが、威圧感のない建物に囲まれた街路空間がつくりあげる素晴らしいスケール感、建物と街路との境目を柔らかさせるポルティコ、そして、その街路空間を楽しそうに歩く多くの人々。これこそが理想的な都市空間なのではないかと思ったぐらいである。素晴らしい!
5)写真は撮影できなかったのだが、ボローニャには美男か美女しかいません。私の教えていた留学生でボローニャ出身の女性がいて、えらく美人だったのだが、彼女だけではなく、ボローニャの人達は皆、女性だとえらい美人、男性はほとんどイケメンということが分かった。こんなに美人とイケメンばかりの都市を訪れたのは、個人的にはアルゼンチンのメンドーサいらいである。ということで素晴らしい!

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(夜でも多くの人が屋台のお店で週末を楽しんでいる)

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(生鮮三品を初めとして、都心の商店街には多くのローカルの小売店が存在している)

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(中心通りの「ヴィア・デリペンデンツァ」の空間スケールは見事の一言に尽きる)
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リオデジャネイロはオリンピックを見事に都市開発に活用していた(ショック!) [都市デザイン]

 今回のブラジル行きの目的は、クリチバのアンケート結果の中間報告をしてコメントをもらうというものであったが、もう一つ、リオデジャネイロに行き、オリンピックと絡んだ都市開発の概要を知りたいということもあった。私はオリンピックと都市開発の関係性に結構、興味を覚えている。これに関しての講演なども東京で2回、名古屋で1回させてもらっている。簡単な論文も書いている(「オリンピックと都市開発」『電気通信』一般社団法人 電気通信協会、2015年4月号)。ロンドン・オリンピックは開催年の翌年訪れ、取材調査などもした。そして、オリンピックは目的ではなく、あくまでも都市開発の手段であるという考えを強く抱いている。さらに言うと、オリンピックを都市開発の手段としてしっかりと位置づけなかったモントリオールは大失敗をし、また、その計画をIOCのプレッシャーによって自律的にコントロールできなくなったアテネなども失敗をしている。モントリオールは、オリンピック後、その負債を返済するのに30年以上かかり、その間、カナダの最大の都市という称号をトロントに譲り、その後も大きく差が開く一方である。アテネに関しては、その後のギリシャの経済破綻の引き金となったという指摘がされている。
 そのような中、リオデジャネイロの情報はなかなか日本では得られない。ということでリオデジャネイロ市の都市計画局でまさにレガシー・プラニングを担当したクラウディア・グランジェイロ氏に取材をさせてもらった。その結果は、大変興味深いものであったし、その都市戦略性は感銘を覚えるものであった。ちなみに、このリオの試みは日本語だけではなく、英語とかでもあまり紹介されていないそうである。
 さて、私はブラジルをよく訪れるものであるが、ブラジリアなどの開発の出鱈目さなどを知っているので、リオデジャネイロもろくでもないことをしているだろうという大変、失礼な先入観を抱いていた。というか、失敗したことを知り、東京が同じ轍を踏まないような知恵、情報を得ようとさえ考えていた。しかし、この私の失礼な偏見はモノの見事に砕かれたのである。結論を先に言えば、リオデジャネイロはその都市の再生の手段として、明確にオリンピックを位置づけ、100年の計ともいえる事業を推進させていたのである。
 そもそもリオがオリンピックを実施しようと考えたのはバルセロナ・オリンピックの成功を目の当たりにしたからである。当時のリオの市長が、バルセロナ・オリンピックを都市開発のテコにしたことに非常に感銘を受けた。そして、バルセロナのオリンピック関係者を招聘した。それが20年前の話である。したがって、リオはオリンピックを開催して見栄を張りたいというような、どっかの知事のような狭い了見ではなく、極めて包括的に都市を再生する手段として最初からオリンピックを位置づけていたのである。ちょっと、この話を聞いた時は、私はクラッと目眩を覚えた。そうだよな、今頃、オリンピックを手段ではなく、目的として位置づける都市なんてないであろう。
 話をリオに戻すと、大きなコンセプトは広い市域を思い切って使い、都市全体にレガシーを広げるというものであった。そして、4つのクラスターを設けた。それらはデオドロ、バーバ、コパカバーナ、マラカナンであった。リオの都市問題は都心部ではなくて郊外地域である。東京のコンパクト・シティとはまったく反対の発想である。実際、話を聞いた後、マラカナンとバーバに視察に行ったがバーバは都心からは相当、遠かった。デオドロなどは相当の距離、離れている(ここには遠すぎて視察にも行けなかった)。しかし、これらの郊外の地域はインフラが不十分であり、オリンピックを契機にそれらの地域再生が図られたのである。東京も実は都心部に問題があるのではなく、現在は例えば国道16号線沿いの郊外や、高島平などに問題があるのだ。なぜ、そういうところに会場を設置することを考えられなかったのであろうか。西武球場などを上手く活用すればよかったのである。まあいい、話をリオに戻す。
 さて、郊外にも会場を分散させたこともあり、これは不足していた公共交通を整備するうえでの大きな言い訳となった。そこで、2009年においては公共交通計画の18%しか整備されなかったものが、2017年には63%も整備させてしまった。特に南部の海岸沿いや環状にBRTを整備したことの効果は大きい。また、直接的には会場とはあまり関係はなかったがLRTもサントス・ドゥモン空港と都心部において整備された。ちなみにBRTより地下鉄が理想だったそうだが、金銭的問題からBRTにしたようである。リオデジャネイロは岩盤都市であるために、また掘ると遺跡が出てくることもあり、地下鉄は大変高額につくそうである。LRTは以前から計画はあったが予算はなかった。オリンピックを口実に思い切ってつくったそうである。これは、ロンドンやシドニーが土壌汚染地区を会場にして、オリンピックを口実にその土壌改良をしてしまったことと同じである。オリンピックを口実ということでは、歩道を大幅に整備した。街灯なども刷新し、都心部の歩行動線を強化するなどのプロジェクトを遂行した。バリアフリーにも随分と力を入れた。サンボロドームの改修などもこれを機に行った。それまで左右対称でなかったのだが、そういう点も改善した。サンボロドームはマラソンのスタート地点になった。個人的に最も感銘を受けたのは、ウォーターフロントの開放である。ウォーターフロント沿いに高架の高速道路が走っており、貴重なウォーターフロントへのアクセスが非常に悪いものになっていたのだが、これを3キロメートル近くトンネル化させ、視覚的にも物理的にもウォーターフロントと都心部が結合された。ボストンのビッグ・ディッグ、デュッセルドルフのライン・プロムナードなどと同様の試みであるが、なんせリオデジャネイロの港湾の美しさはそれらの都市とは大きく一線を画すものなので、その効果も大きい。こういうのを見ると、本当、神戸市もウォーターフロントと都心部を阻む都市高速道路をとにかく地下化するべきだと強く思う。そのためにオリンピックを開催することを考えてもいいと思ったりもする。ちなみに、リオのこの地区は特にオリンピック・ゲームとは関係はない。それでも実施してしまったのである。ただ、このような都市の大再生を見ると、改めてリオもしっかりとオリンピックを目的ではなくて手段として捉えていたことが理解できる。そして、それによってリオはバルセロナのように再生するであろう。それは、これからの50年を見据えた偉大なる都市開発であると言えるだろう。
 オリンピックをなぜリオで開催するのか。当時の市長は、「リオがオリンピックのためにあるのではない、オリンピックがリオのためにあるのだ」と市民に訴えていたようである。こういう主張を東京では全然、聞けないのはもしかしたら東京都は大きな誤解を未だしているからではないだろうか。都民ファースト、というのはオリンピックにこそ向けられるスローガンであると改めて思う。
 お金のことは意外にもしっかりとしていて、380億レアルのうち、57%を民間に出させて公共は43%負担に留めている。これは、会場設営などに民間の経費でさせる代わりに、その後の跡地利用等を民間に委ね、民間に土地なども譲渡するという方策を用いたためである。さらに、この予算のうちレガシー関連に240億レアルが用いられている。そのほとんど(200億レアル)は公共交通関連の整備であったそうだ。ただ、それでも大変費用はかかったそうである。そして、その理由はIOCの要求があまりにも膨大だからだそうである。このIOCとの交渉は相当、大変だったそうである。ポイントはIOCの要求を総て呑まないことだそうである。交渉が重要だそうである。東京都の職員がこのブログを読んでくれているといいのだけど。また、グランジェイロ氏は「リオのこの出費の後では、オリンピックを開催したがる都市は減るのではないか」と付け加えた
 バーバ地区につくられたオリンピック会場は、ロンドンのオリンピック・パークを設計したところがコンペで優勝した。したがって、リオデジャネイロはバルセロナという成功事例だけでなく、ロンドンという成功事例とも同じ文脈で位置づけられるであろう。ロンドンの流れを引き継ぐという点では、ザハ・ハディドの国立競技場が却下されたことは改めて残念である。また、2007年にパンアメリカ・ゲームをリオデジャネイロは開催するのだが、そのときにつくった施設をオリンピック競技場にした。ただ当時は4万人収容で設計されたので、オリンピックでは6万人が収容できるように回収された。パンアメリカ・ゲームもオリンピックを開催させるための前哨戦であったことが、このような話を聞くと理解できる。
 あと、ここらへんを私はまだしっかりと理解していないのだが、リオデジャネイロの市長は汚職か何かで昨年末に辞めていると思う。どちらにしろ、今年の1月からは新しい市長が就任したために、オリンピックのレガシーをいかにして次代に継承させていくかは大きな課題となっているようだ。
 さて、ざっとリオデジャネイロのオリンピックを手段とした都市開発を概観したが、リオはオリンピックを開催したことで、今後の50年、100年の都市の方向性を示し、またそのための投資も行った。東京はオリンピックを契機としてその後の50年、100年の長期的スパンで都市をどのように方向付けるかという発想を果たして有しているのだろうか。まったく見えない。リオデジャネイロの果敢なる都市づくりに比べて、東京はどこへ向かっているのだろうか。東京というか日本には果たして都市計画という理念が存在するのか。そのようなことまで考えさせられたリオの視察と取材であった。リオに行って非常に多くのことを学ぶことができた。

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(高速道路を地下化する事業のビフォア・アフターの写真が現場に設置されていた)

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(高速道路を地下化することでウォーターフロントが開放され、素晴らしい公共空間が具体化された)

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(港湾は海軍が土地を有していたが、ウォーターフロント沿いの10メートルを公共に公開することにしたことで、素晴らしい公共空間が創造されたのである)

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(ウォーターフロントとサントス・ドゥモン空港を結ぶLRTもオリンピックを契機に整備した)

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(オリンピック競技場の周辺も広場としての公共空間が整備された)

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(バーバ地区の競技場のクラスターを設計したのは、ロンドン・オリンピック・パークを計画した事務所である)
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リオデジャネイロ [都市デザイン]

 リオデジャネイロという都市は、世界にも比類するものがない強烈な個性を有した都市である。大都市の背景であるランドスケープがここまで美しく、目を引くところはないであろう。シドニー、ヴァンクーバー、サンフランシスコ、香港・・・。思うがままに列記してみたら、すべて港湾都市であった。しかし、リオデジャネイロはこれらの港湾都市と比べても、その美しさは抜きんでている。比肩すべきものがない、特別な都市である。
 初めてリオデジャネイロを訪れた時の衝撃は忘れられない。都心部のすぐそばに立地するサントス・ドゥモン空港へ降りたった私を迎えたのは、片麻岩の
奇岩が美しい青色の湾に対して屹立する素晴らしい景勝を背景にしたレトロとモダンが共存する都市であった。その自然景観は、もしここに都市がつくられなかったら間違いなく国立公園に指定されただろうに、というほど特別なものであったが、後で、実際、コルコバードの周辺は国立公園に指定されていることを知って納得した覚えがある。
 さて、そのリオデジャネイロであるが、基本的には埋立地である。今でも多くの山々に囲まれているが、昔はさらに山が多く、それらの山を潰して、海を埋め立ててつくられた。ちょっと神戸市の話を彷彿させる。
 リオデジャネイロはブラジリアをも彷彿させる。リオデジャネイロのように輝いている都市と、ブラジリアのように荒涼とした地に人工的につくられた退屈な都市のどこが似ているのかと思われるかもしれないが、両方とも首都であったという点以上の共通点が見出される。まず、都心部の重要なところは極めてしっかりとつくられているが、そのコアの周辺部にあたる郊外はまったく非計画的につくられている点が類似している。ブラジリアもルシオ・コスタが設計したプラノ・ピロートを除けば、まったく無秩序に無計画に都市が広がっているが、リオデジャネイロもレブロン海岸からフラミンゴ地区に続く海岸部からセントロへと連担している三日月のような形状の集積地の周縁部には無秩序の大都市圏が展開している。中心部だけをみれば、まさに世界都市的な風貌を有しているが、その周囲部を見渡すと、驚くようなカオス的な第三世界が広がっている。これは、クリチバなどとは大きく違う点である。また、リオデジャネイロといえばファベラで有名であるが、これらのファベラの居住者はリオデジャネイロが都市開発を進めるうえで必要な労働力としてこの都市にやってきた人達が住むために発展した。ブラジリアもまさにそうである。
 さらに、その都市部がともに世界遺産に指定されている。ブラジリアは中心部であり、リオデジャネイロはコパカバーナ海岸周辺であり、必ずしも都心とは言えないかもしれないが、東京でいえば23区以内の距離感である。こんなところに博物館や建築物といった点ではなく、面の範囲で世界遺産に指定されているとは、なんか都市そのものが人類の遺産と認められているようなものである。これは凄いことである。
 さて、その凄いことであるアイデンティティは間違いなく有しているが、この都市はまた混乱の上に混乱を築いたような都市でもある。ファベラという問題から分かるように、都心部を除けば土地利用はまったくもって出鱈目であり、また公共交通のネットワークもあまり計画的とはいえない。高速道路もすぐ渋滞で動かなくなる。治安の問題は目を覆うばかりであるが、つくづく治安の良さというのは何とも価値があるものであることをリオデジャネイロにいると感じさせられる。安全は極めて高くつくのだが、ここリオデジャネイロではどんなにお金を払っても100%の安全が買えないような印象を受ける。
 このように左脳的には、全然、評価ができないこの都市であるが、右脳的には恐ろしく惹きつけられる都市でもある。この都市の持つ官能的な魅力に抗うのはほとんど不可能だ。アントニオ・カルロスジョビンやカルトーラを産みだした土壌、その風土。イパネマ海岸にいけば「イパネマの娘」が、コルコバードに登れば「コルコバード」のメロディが流れる。この都市の風土には音楽が地縛霊のように響いているのである。そして、海と山々という複雑な地形が、この都市の空間に、その面積以上の豊かさをつくりだしている。
 それは人で言えば、最高のプロショーンをもった絶世の美女である。そして、性格が破綻している。理性ではこんな女性に惹かれてはいけないと思いつつも、本能的に惹かれて離れなくなってしまう。ある意味、とんでもない都市であるが、この都市がこのように奔放で無責任に振る舞えているのも、近くにサンパウロというしっかりと(あくまでも相対的ですが)理性的に活動できている都市があるからだろう。つまり、サンパウロに、すべて都市を経済的に動かすためのつまらない部分を押しつけて、自分は享楽的なものを満喫する。ありときりぎりすでいえば、サンパウロが蟻で、リオデジャネイロはきりぎりすということか。そして、人々はきりぎりすのヴァイオリンに弾かれていくのである。そして、酷い目に遭う。私もまさに、それを今回の旅行で経験したが、それは後日、アップする。

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(コルコバードの丘から都心部を展望する)

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(イパネマ海岸は、ここが大都市圏で1200万人も擁する都市とはとても思えない美しさと享楽的な雰囲気を放っている)

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(都心部のレストラン街)
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リオデジャネイロのファベラ [都市デザイン]

リオデジャネイロのファベラの特徴は、高級住宅地に隣接して存在していることである。これはアメリカの都市などと大きく異なる点だ。アメリカの都市だと高級住宅地と貧困地区が隣接することはほとんどない。例えば、サンフランシスコロシアン・ヒルの高級住宅地とその麓にある低所得者の住宅地区との間に日系人のコミュニティを計画的につくった。これは第二次世界大戦で強制収容した日系人を住まわせるための計画であったが、拡大する低所得者の住宅地区との間に「人の壁」をつくったのである。酷いよねえ。あと、低所得者より敵国であった日系人の方が許されたというのも興味深いことである。
 さて、しかし私がここで書きたいのはリオデジャネイロのファベラに関してである。なぜ、高級住宅地にこのようなファベラが立地しているのか。それは、コパカバーナとかを建設するときに各地からやってきた土方の人達が、働いている時に丘に住宅をつくり、そこで生活をして、仕事がなくなった後もそこに住みついたからだそうだ。ブラジリアと同じ要因である。興味深いのは、ファベラが丘に張り付くようにつくられていることだが、これはこのリオデジャネイロという素晴らしく美しい景観を有する都市においても、最も素晴らしい展望を得られるところがファベラに占拠されていることである。土地の所有者などの関係を私は理解していないが、その発展の経緯は興味深い。
 また、ファベラは丘陵地にだけ発展している訳ではない。今回、私は元警察官のUBER運転手を雇ったのだが、彼は警察官だったこともありファベラ事情に非常に詳しかった。私がポルトガル語が相当、へたれなので、彼の言っていることはほとんど理解できなかったが、マレ地区という都心から北西部に広がる一帯はとんでもない地区だということであった。
 リオデジャネイロの映画といえば「黒いオルフェ」と「シティ・オブ・ゴッド」を思い出す。両方とも、ファベラを舞台にしている。「黒いオルフェ」の切なさや哀愁の世界と、「シティ・オブ・ゴッド」のやるせない絶望感とは、ロマンがあるかないかという違いはあるかもしれないが、何か通底するものを感じさせる。リオデジャネイロは、その恐ろしいほどの美しさゆえに、他の都市より死を感じさせるようなところがある。メメント・モリを意識させられる都市であり、それは、リオの美しさだけでなく、ファベラの醜さもそうである。

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(息をのむように美しいイパネマ海岸も振り返ると丘に張り付いているファベラがみえる)
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Resilienceという最近のバズワード(Buzz Word)に関して考える [都市デザイン]

香港で開催されているパシフィック・リム・コミュニティデザイン学会に参加している。そのテーマであるが、「Agency and Resilience」である。日本語に訳すと、「組織と回復力」になるのだろうか。Agency はステーキホルダーのような意味で使われているようだ。コミュニティ・デザインを遂行させていく「組織」的なイメージであろうか。それはともかく、気になるのは「Resilience」である。これは、最近、都市計画関係の「バズワード」(Buzz Word)のようになっており、回復力・復元力のようなものが都市計画・都市デザインの重要なテーマになっている。最近、東北大震災をはじめとした自然災害が世界中でも起きているので、これにどう対応するかは大きな課題であるが、香港中華大学のミーカム(Ng. Mee Kam)先生の講演では、自然災害はもちろんのこと人的災害に対するResilienceが重要だとの指摘があった。

これは結構、示唆に富んでいる。というのは、コミュニティもそうであるが、個人ベースでも、いろいろと酷い状況に追い込むのは社会的、人的要因が大きいからだ。それにいかに抵抗して、与えられたダメージを復元させていくか、ということは自然災害よりむしろ重要であるかもしれない。ミーカム先生は香港での都市再開発で土地を強制収容された人達、コミュニティをいかに復元させていくか、という話を中心にしていたが、日本に目を向ければ、福島第一原発で大きなダメージを受けた人々、コミュニティの復元をどうするか、ということは真剣に考えなくてはいけない課題である。今回の学会でも、東北大震災の被害からいかに復元させようとしているか、というプロジェクト事例はいくつも発表されたのだが、福島原発がらみのプロジェクトでの発表は皆無であった。当たり前である。復元はほとんど出来ていないし、復元の兆しでさえ見えないからである。それどころか、福島を脱出した人々が、脱出先でいじめに遭っていることが、最近の新聞やメディアを賑わしているような状況である。ダメージの復元どころか、ダメージが加えられているのだ。そして、このようなダメージはすべて人的要因に基づく。確かに津波による停電が原発事故のきっかけかもしれないが、そのような事故が想定されていたにも関わらず、対策を怠ったこと、そして事故が起きた後に、しっかりと責任を取らず被害者の自己責任のような状況に追い込んでいること、というか、そもそもこんなに危ないものをつくってしまったこと、などはすべて人間の責任である。

さて、Resilienceというのは被害者を主体とした言葉である。都市計画は行政が執り行い、都市開発などは住民視点だと行政が加害者となる。そして、原発なども行政が加害者側に位置づけられる。ということは、Resilienceを政策に位置づけることは相当、無理がある。自然災害であれば位置づけられるが、人的災害に対しては難しい。不可能に近い。そういう中で、コミュニティや住民がResilienceを持つようにするのか。都市計画では難しいが、ボトムアップのまちづくりであれば可能かもしれない。そして、そのようなアプローチを可能にさせるのは民主主義(デモクラシー)が洗練されていないと難しい。そういう点では日本はそれほど期待が持てないかもしれない。とはいえ、それを放棄すれば「回復」させる可能性はゼロである。人的要因でダメージを受けると、それに何もしないで回復させようとすることは無理である。いろいろと大変なことも多いが、抵抗をし、努力をしなくてはならない。そのための方策論は、行政の政策ではなく、住民レベル、個人レベルでのものではなくてはならない。ということに気づいたが、その具体的な方法はまだ見えない。それを見出すのは、私の課題であると考えている。

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『後妻業の女』 [都市デザイン]

機上の人。食事をする時には本も読めないし、ラップトップで仕事も出来ないので、映画を観てしまう。ハリウッド映画の名作を観ようとしたが、あまり食指を動かしたいものがない。そういう時には最近では邦画を観る傾向がある。というのは、アットランダムで映画を選んだ場合、ハリウッド映画よりも邦画の方が観るに値する作品に当たる確率が高いからだ。そして、観たのが『後妻業の女』。大竹しのぶの怪演が凄い。そして、世の中、弱肉強食であるというストーリーもぐいぐいと引き寄せるし、シナリオ自体もとてつもなく面白い。私をも含む一般的な人も、いつこの日常生活の陥穽に落ちてしまうか分からない、という臨場感が、この映画をそこらへんの恐怖映画より背筋をゾッとさせるものにしている。まあ、所詮、「結婚紹介所」のようなビジネスは相当、あくどいというのは想像できるが、それを詐欺の機会として捉えると、こんなに怖いことが展開できるのか、ということを観る者に知らしめた点で、逆にこの映画を観て何か詐欺のヒントを得る人が出てきそうで怖い。前情報なしに観たのだが、相当、観るものにインパクトを与える娯楽作品である。このような観た後の充実感は、最近ではハリウッド映画ではなかなか得られない。ハリウッド映画に比して、邦画の質の高さを改めて実感する。


後妻業の女 DVD通常版

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  • 出版社/メーカー: 東宝
  • メディア: DVD



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下北沢駅前の再整備は、日本のまちづくりが民主主義的に行えるのかのリトマス紙のようになっている [都市デザイン]

 小田急線が地下化したことで出来た上部周辺のまちの関わり方を考える「北沢PR戦略会議」の第二回全体会議に傍聴者として参加した。日曜日の朝の9時30分という厳しい時間であったにも関わらず、発表者達はもちろん、私のような傍聴者も多く、これはやはり下北沢という街が有する魅力故なのではないかと感じた。世田谷区長の保坂さんも出席をしていた。彼の下北沢への強いコミットメントがうかがえる。
 さて、これはなかなかボトムアップ的なまちづくりとしては画期的な試みなのではないかと思っている。市役所主導ではあるが、6つの活動テーマ(下北沢を緑化するグループ、下北沢案内チーム、イベント井戸端会議、ユニバーサル・デザイン・チーム、エリア・マネジメントのグループ、シモキタ編集部)に分かれた住民グループが、それぞれ、下北沢をよくしようと積極的に活動をしている。大企業による街づくりは、土地を使っていかに金を稼いでやろうか、というモチベーションで展開されている。大企業の人達は投資額も大きいし、彼ら・彼女らは賢いので、広告などもうまく活用し、起動時においては結構、街づくりが魅力的に映えたりする。武蔵小杉や二子多摩川などが、まさにそのような典型であろう。そのような街づくりに比して、住民やそこで仕事をしている商店の人達が主体となって街づくりを進めているのが、たとえば自由が丘や岐阜県の郡上八幡、長野県の小布施などであろう。このような街は、必ずしも利益だけでなく、その街がどのように持続していくことが可能であるか、自分達の生活もかかっているので真剣に考える。自由が丘も郡上八幡も、コンサルタントとかが「他にこういう優れた事例があります」などと紹介すると、「なんで他の事例を聞く必要があるのか。自分たちの町がどうなるかを考えることこそが重要なんだ」と回答するそうであるが、他人の真似ではなく、自分たちのポテンシャルをいかに活用することこそが重要であることを強く自覚しているからこそ出てくる発言であろう。
 そして、今、下北沢は商店主や住民などが中心となって街づくりをしようと動いている。この会議でも、緑化グループなどは駅前広場の活用で、なかなかクリエイティブな優れた意見が出ていたりした。
 さて、一方でこのようなアイデア出しがされているにも関わらず、どこかで駅前広場の設計が着々と進んでいる、という話を聞いた。すると、せっかくソフト面での優れたアイデアが出ても、それが実現しにくいことになってしまう。私もそのような問題提起をしてみた。そこで出てきたのは、「そんなことを言っても、ここまで積み上げてきたので後ろに戻ることは出来ない」というような回答であった。これに関しては、会場からも不満がもたらされていた。
 私は、役所の人がこのように回答するのはある程度、想定されたが、何かしっくりとこない違和感を覚えた。この違和感を考察していて、あることに気がついた。というのも、都市デザインとか都市計画とかは、あくまでも方法論、手段であるはずなのに、いつの間にかそれが目的になってしまっているということだ。つまり、人々が出すアイデアを具体化させる方策、手段として都市デザインや都市計画がある筈なのに、これらの事業こそが目的になってしまい、その出来上がったものをいかに活用するというためのソフトのアイデア出しになってしまっているのだ。つまり、主客転倒しているのだ。
 このような目的と手段が置き換わってしまう状況は、道路事業、原発などにも共通することであり、2020年の東京オリンピックもオリンピックという都市整備のための手段が目的と置き換わってしまっている。どうして、こういうことが起きているのかというと、公共事業が人々の生活を豊かにするという本来の目的から逸脱して、公務員がサラリーマン的にそれを遂行することこそを最優先に捉えてしまっているからであろう。
 この構造を変えない限り、日本において優れた公共空間、都市空間はつくれないであろう。下北沢はまさにその試金石となっている。下北沢は住民の力、そして思いが非常に強い。この住民の「声」が、実際のまちづくりに届かないのであれば、どこで届くことが出来るであろうか。まさに、日本のまちづくりの瀬戸際に立たされているのが下北沢なのではないだろうか。
 私も微力ながら、住民の「声」が駅前の公共空間に届くように出来ることをしていきたいと考えている。

タグ:下北沢
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セビージャに来て、改めてスペインの都市デザイン力の凄さを思い知る [都市デザイン]

 スペインのセビージャに来ている。アンダルシアの州都であり、スペイン第四の都市である。人口は70万人程度。新潟よりちょっと大きく、統計的には仙台より小さいが、仙台は周辺を合併して膨らませているので、まあ仙台くらいの規模の都市であると捉えていいと思われる。
 92年にバルセロナでオリンピックを開催した同年、セビージャは万博を開催した。これは、1970年の日本万国博覧会以来の一般博であり、176日間で約4180万人の入場者を数えた。バルセロナはオリンピックを都市計画の手段として見事に活用して、都市を再生させることに成功し、その後、バルセロナ・モデルといわれるようになった。2012年のロンドンがバルセロナ・モデルを参考にオリンピック事業を開催して、同じよう多くの成果を得た。バルセロナに隠れて、それほど注目はされていないがセビージャも万博を契機として大きく都市改造をした。一番大きなインフラ整備はスペイン国鉄によるAVE(新幹線)の整備であるが、都市レベルでもいろいろと手がけている。
 セビージャの万博会場はグアダルキビル川の東側に設置され、それまで川の西側が中心であった都市を拡張させることが意図された。この万博を契機として、アラミージョ橋がグアダルキビル川に架橋され、川といった自然の障害によって行き来が不便であった東西間の移動が随分と改善されることになった。
 とはいえ2016年時点においても、トリアナ地区のようにローマ時代から市街地として発展した地区を除くと、全般的に東側の都市開発は大雑把で郊外的である。テーマパークやコンフェレンス会場など、あまり歩くことを配慮しないタイプの大規模が多く、都市性がなかなか育まれていない環境にあるなとの印象を抱いた。
 それに比して、世界遺産であるカテドラル、アルカサル、市役所を中心とした旧市街地の密度の高さはアーバンな魅力が詰まっている。そのヒューマン・スケール、住居と商業とが混在したミックスド・ユースの土地用途、小さくてもツボを突いたようにオープン・スペースの魅力を効果的に発散させている広場。スペイン人は本当に、このような都市空間を醸成させるのが上手いよな、ということを改めて知らされる素晴らしい密度間である。
 そして、バルセロナのように、旧市街地の壁の周縁部には、高密度の中高層住宅が林立している。これは、旧市街地の北側や中央駅そばに見られる。
 また、グアダルキビル川の東側には、それほど感心はしなかったが、都心部にて明らかに最近、再生事業を行っており、それが、まあ見事なのである。バルセロナのウォーターフロントや旧市街地のスポット的な都市再生事業、ビルバオのネルビオン川沿いの再開発事業、さらにマドリッドのマンサネーレス川沿いのリオ・マドリッドのプロジェクトなどを見た時と同様に、なんて、スペイン人はアーバンでパブリックの空間をつくるのが上手いんだろう、と改めて感心させられた。
 具体的にはクリスチアナ庭園周辺の広場、市役所からプエルタ・デ・フェレスとを結ぶコンスティトゥシオン通りのトランジット・モール、さらにはこの庭園からドン・フアン・デ・アウストリア広場とを結ぶサン・フェルナンド通り。この通りは、ライトレールが中央を走り、それに隣接して自転車専用レーンが引かれ、その外側に歩道が設置されている。そして、歩道と自転車専用レーンの間の空間にはオープン・カフェのテーブルが置かれている。こういう状況を計画的にデザインしているという事実に驚く。いや、日本でももちろん、計画もデザインもしようと思えば出来るだろうが、それを具体化することはなかなかできない。特に、都心部のまさにハートのように重要な場所においては、日本だと大手術のような大再開発をするか、何もしないかのどちらかになってしまう。それに比して、セビージャは都市の歴史的・文化的文脈を継承しつつ、ちょっと公共空間のあり方を変えているだけで、21世紀の人間都市にふさわしい空間をつくりあげているのである。

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(プエルタ・デ・フェレス)

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(プエルタ・デ・フェレスを走るライトレール)

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(サン・フェルナンド通り)

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(コンスティトゥシオン通り)

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(大聖堂)

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(アルカサルの美しい庭園)
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商店街がよくなるとジェントリフィケーションが起こることはむしろプラスという説明を商店主がして納得した件 [都市デザイン]

下北沢で講演会、というか勉強会で話をした。話の内容は、自動車を道路からシャットダウンし、歩行者中心の空間とすることで都市が活性化するという事例を中心としたものであった。さて、そのような話をした後、外国人の若者が、しかし、そういうことをすればジェントリフィケーションが起きるじゃないですか、と質問をした。鋭い質問であるが、ジェントリフィケーションは成功したから起きたことで、それが政策の失敗とは言えない。もし、それが問題であるなら、それは歩行者中心の空間ではなく、市場経済の是非を検討するような問いである、と回答した。まあ、こういうジェントリフィケーションが問題だ、というのは、いかにもアメリカなどで都市計画の教育を受けた(私もそうだが)理想論であり、現実を見渡したら100%の回答などないので、若干、うざいなと思いつつも、まあ、それが問題であると指摘されたら、それは問題であるとしか答えられないのは悔しいなと思っていた。
 すると、このやりとりを聞いていた会場の下北沢で店を経営している方が、そのような競争があるから下北沢の店舗は常に魅力的なのです、と回答した。そういう経営上の厳しさが、下北沢の魅力を向上させる要因なのです、と発言された。実際は、ジェントリフィケーションが起きると、あまり魅力はないがお金だけはあるチェーン店などが出てしまう問題があるので、これもそんなに上手く機能はしていないが、それでも、ジェントリフィケーションは店舗の魅力を増す、という話には説得力があった。確かにジェントリフィケーションもないようなところは、なかなか店舗も魅力を維持するようなインセンティブが働かない。興味深い視点をもたらしてくれた意見であった。

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江戸時代に江戸を訪れた外国人が「東洋のヴェニス」と形容したんですよ、と言ったら鼻で笑われてちょっとムカッとする [都市デザイン]

 ドイツから都市計画を専攻する大学の教員と学生が東京を訪れている。1日目は六本木ヒルズ、お台場。そして2日目は芝増上寺、港区、そして日の出桟橋から浅草まで水上バスに乗って、そこから京島のキラキラ橘商店街を訪れた。
 水上バスに乗るとき、江戸時代は江戸を訪れた外国人は、その美しさに驚いて「東洋のヴェニス」と形容したんですよ、と説明したら、なんかあまり相手にされず、○○のヴェニスと言いたがる都市は五万とあるんだよね、などのリアクションを受けて、ちょっとムカッとしてしまった。とはいえ、ドイツ人からみれば、隅田川から見える都市風景のどこがヴェニスか、まったく分からないので、そういうリアクションをすることを責めることはできない。しかし、「東洋のヴェニス」と呼ばれてもおかしくない都市美を誇っていたことが想像できる私としては悔しい。それは、戦争中に徹底的に破壊され尽くしただけでなく、その後の乱開発、経済優先の開発等で景観的な配慮をまったくせずに、風情も何もない東京の下町の街並みをつくってしまった同朋に対しての憤りというか、やるせなさからである。だって、ドイツ人のリアクションに対して、反論する気力もないし、反論して説得させる自信がまったく出てこないのだから。
 グローバリゼーションが進展していく中、その都市のアイデンティティをしっかりと強化し、再生することが求められる。そのために東京がすべきことは五万とある。

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オールド・ハバナの色は原則4色 [都市デザイン]

オールド・ハバナの街並の色は鮮やかである。しかし、先日訪れたグアナファトとはちょっと違う。グアナファトの方が、はるかに色彩が多様である。グアナファトをフルオーケストラと例えると、オールド・ハバナはジャズ・カルテットという感じか。なぜなら、原則として4色が使われているからだ。
 この4色とは、鮮やかな水色、エメラルド・グリーン、渋い感じのサーモン・ピンク、そして薄黄色である。まるで、パレットの絵の具がこの4色にないかのように、似たような色で建物が塗られている。そして、隣同士は違う色で塗る傾向がある。
 グアナファトでみたような深緑、黄緑、ショッキング・ピンクなどの色はない。また、全般的に色が煤けているように見えるのは、ペンキを最後に塗ってから時間が経っているのだろうか。
 さて、しかしグアナファトを訪れたので、それほど感動はしていないが、それにしても、オールド・ハバナは色鮮やかであるのは間違いない。全般的な街並みは、マイアミというよりかは、ニュー・オリンズのフレンチ・クォーターを彷彿とさせる。おそらく時期的に開発されたのがフレンチ・クォーターに近いからではないだろうか。カリブ海沿いの都市文化を共有しているのではないか、という勝手な憶測をしながら街を見て歩く。
 オールド・ハバナは商業的な活動も盛んのように見受けられる。外国観光客が多いからかもしれないが、資本主義の都市との違いがあまり感じられない。感じられるとしたら車か。確かに車はクラシック・カーが多く走っており、クラシック・カーのマニアには堪らない魅力だろうな、と思ったりする。
 私は旧社会主義の都市、特に東ドイツの都市を研究してきたが、それらの都市の社会主義時代の建物は灰色であった。これは、社会主義というのは人の個性とかを優先しないので、人の色彩の好みとかも非効率であると捉えたからである。それでも、ちょっと色がついた社会主義団地もあったりしたが、それらの背景をきくと、中央政府から離れていたために、あまり管理が行き届かなかったので、その間隙を地元の建築家が突いたのだ、という説明を聞いて、うんざりしたことがある。社会主義はやっぱり嫌だな、とその話を聞いて強く思った。それに比して、ここキューバは社会主義であるのに色彩豊かである。多分、人々の色への憧れ、色への情熱といったものを肯定したからキューバの社会主義はまだ維持されていて、旧東ドイツは失敗したのではないか、と思ったりもした。
 いや、しかし、もっと根源的な風土的な違いもあるかもしれない。この太陽の日照りの強さに灰色はあまりにも似合わない。この日照りの強さを賛美するには、鮮やかな色彩が一番しっくりくる。
 
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フランシスコ・マデロ・アベニュー [都市デザイン]

 フランシスコ・マデロ・アベニューという通りがメキシコ・シティの中心部にあり、そこが最近、自動車を排除して歩行者専用道路にしたらしい。大きくみればコペンハーゲンのストロイエやら、クリチバの花通り、などの流れを汲んではいるが、どちらかというと最近のアメリカの「ニューアーバニズム」などの都市デザインの流れを踏まえた第二の「公共空間の人間化」の文脈に位置づけられると思われる。
 ニューヨークのブロードウェイの歩行者天国化、ハイライン、ロンドンのエクスポジション・ストリート、マドリッドのマンザネラス川沿いの歩行者空間化マドリッド・リオやソウルのチョンゲチョン川、ボストンのビッグ・ディッグといった文脈で捉えるべき事例であると思われる。実際、確認はしていないが、ハーバードのデザイン・スクールが関与したらしい。そういう意味で都市デザインのグローバル化の流れの一環としてつくられた事例であるとも捉えられる。
 さて、ということで、これは観なくてはならないと訪れることにした。「フランシスコ・マデロ・アベニュー」と検索して、地図をみると8号線のIztacalco駅の北側に東西に通じている道がある。こんな都心から離れたところに、歩行者専用同露を整備したのか。しかし、もしかしたらここはお洒落な地区なのかもしれない、ということでタクシーを拾ってIztacalco駅まで行く。周辺は、なんか庶民的なところで、高級住宅地という感じはしない。こんな地区にパイロット・プロジェクトをつくったのか、と興味深く思う。
 さて、Iztacalcoで下ろしてもらったのはいいが、そのような道らしいところは全然、見当たらない。困ってしまったのが、目の前が警察だったので、日本と同じように「道に迷ったら警官だろう」ということで聞いてみたのだが、まず英語が通じない。「そんな道はない」と言われる。これは不味いなあ、と途方に暮れたところ、目の前の地図に「Francisco I. Madero Avenue」と書かれているではないか。私はMaderaと言っていたので通じなかったようで、「マデロね」というような顔をされる。さて、ということで、このFrancisco I. Madero Avenueを目指したのだが、なんか、そのような道が見つからない。おかしいなあ、と何回か行き来したら、普通の別に歩行者専用道路化されていない住宅街の商店街のような通りであった。確かにバンプなどが頻繁に置かれていたり、歩道もちょっとランドスケーピングされていたりするが、これが都市デザイン事業を施した通りであるのだろうか。大いに疑問を抱いたまま、ちょっと写真を撮影したり、また定食屋に入ったりした。定食屋では、トルティージャを油で揚げたうえに、クリームソースをかけたような類のものであり、値段も150円程度のものであったが、実は他の1000円ぐらい取るレストランと比べてもずっと美味しかった。ちょっと水道水のメロンジュースを飲んだりしたこともあって、お腹を壊すかと心配したが、そういうこともなかった(私はお腹がそんなに強くない)。メキシコ庶民の暮らしの豊かさを知る。
 さて、これは期待外れだな、と落胆しつつ、都心部のソカロ地区に行く。そこで、文科省の建物の壁画などを見たりしてうろうろと歩いていたら、素場らしい歩行者専用道路がつくられていた。なんだ、これはと見たら「Francisco I. Madero」と書かれている。そうか、この名前の道は二つあったのか、とすべてが氷解した。
 この通りは700メートル。ソカロの広場とエジェ・セントラルとを挟んでいる。座る場所も多く設置されていて、これはバーリントンのチャーチストリート・マーケットプレイスを彷彿とさせる。チャーチストリート・マーケットプレイスはケビン・リンチがデザインに絡んだことで知られているが、まあMITとハーバードの違いはあるかもしれないが、同じボストンだし、そういう影響を受けているのだろう。ちょっと、現時点ではデザイナーが誰だか不明で書いているが、アメリカ的な都市デザインの匂いがプンプンする。2009年に自動車が排除されて、歩行者専用道路になったようである。
 都心部の目抜き通りであったようで、両側の店舗の多くは賑わっている。ちょっとヒップでバーナキュラー感はない。これは、メキシコ・シティのようにバーナキュラー感溢れる街にしてはもったいない気もする。
 東京もそうだが、メキシコ・シティも自動車を最優先に都市づくりが進展した。その結果、歩行者のアクセスは決して優れていない。特に、その都市のオリエンテーションに明るくない観光客にとってはなかなか厳しい都市である。
 そのような中、この通りは、メキシコ・シティにおいても歩行者がその都市への実権をふたたび取り戻したことを我々に知らしめる効果がある。その人通りの多さからしても、ここが成功したことは明らかであるし、私としてはメキシコ・シティにまで東京は遅れてしまっているのか、とちょっと悔しい気分になる。
 メキシコ・シティは12年前に訪れた時に比べて、ずっと人に優しくなっている。少なくとも空間構造や、アクセスにおいては格段に改善されていると思う。東京はどんどんと遅れを採っている。大阪京都が、国際的な人間中心の都市デザインの流れに乗りつつある中、依然として人ではなく、企業のための都市づくりが展開している。大きくターニング・ポイントを迎えることが、東京の都市競争力を維持するためには重要である。オリンピックをすればどうにかなる訳ではないのは、リオデジャネイロをみても明らかであると思われる。必要なのはイベントではなくてしっかりとした戦略である。

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