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ドイツでは英語がよく通じるが、南はそうでないかもしれない [英語関連]

ドイツでは英語が本当によく通じると思う。ちょっと前までは、旧東ドイツではなかなか通じなかったが、最近ではそんなことはなくなっている。少なくともホテル鉄道駅では、英語で会話をすることができる。

さて、逆に意外に通じないというか英語でしゃべってくれないなと思うのが南である。以前、シュツットガルトのレストランでは英語がまったく通じず、当時は私がドイツ語をしらなかったこともあり随分と四苦八苦した記憶がある。しかし、それも20年ぐらい前の話だ。今では、比較的英語をしゃべってくれるだろうと思っていたのだが、ミュンヘンではそうでもないことが分かった。まず、駅前のホテルに泊まったのだが、受付の人がとても難儀に英語でしゃべる。ちょっと意外だ。翌日、鉄道駅で指定席の券を購入しようとした時はもっと驚いた。というのは、私が英語でしゃべっているのに、一切、英語をしゃべらずにドイツ語で返してくる。私はドイツ語が分かるので、問題はなかったが、ドイツ語が分からなければどうするつもりだったのだろうか。最終的に私も、あまりしゃべりたくないドイツ語で会話をさせられたが、分からなかったらそのまま通したのであろうか。不思議だ。

不思議なのは、ミュンヘンといえば、ハンブルクとともにドイツで最も裕福な都市であり、国際都市であることだ。おそらく、私が体験したこのようなことは、ハンブルクではあり得ないと思うのだ。もしかしたら、英語をしゃべるほど落ちぶれていないという自意識もあるのかもしれないが、ちょっと面白い。

タグ:英語 ドイツ
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自民党教育再生実行本部長の遠藤利明は英語のことを何も分かっていない [英語関連]

自民党の教育再生実行本部が4月、安倍首相に大学入試の受験資格として米国の英語力試験TOEFLを導入することを提言した。これは、天下の愚策であると以前もこのブログで指摘したが、本日(5月1日)の朝日新聞の「争論」に、この自民党教育再生実行本部長である遠藤利明氏と和歌山大学教授の江利川春雄氏が登場していた。遠藤利明氏を私はそれほど知っていなかったが、紙面で述べていた主張が、私が想像していたより、さらに馬鹿であり、英語に関して何も分かっていないことを知り、愕然とした。ビヨンド・マイ・イマジネーションのアホさ加減であった。彼自身は、国際会議でのパーティーに出たことはあるのだが、「悔しいことに英語で話せない。中高で6年もやったのに。そんな英語教育を直しましょうよ」と自分が英語が出来ないことを白状している。そして、TOEFLを大学入試に導入すれば、おそらくパーティーに出たら楽しく英会話ができると考えているそうだ。しかし、そういう彼はTOEFLは「受けたことがないです。受けても10点ぐらいでしょうか」とも言っている。要するに、自分が受けたこともない試験を全大学入試に導入するようなカリキュラムを「参院選の自民党公約として打ち出すつもり」でいるようなのだ。現在の入試制度であったら、別にTOEFLが10点でも国会議員になれたかもしれないが、おそらく遠藤さんは、自分が改革した制度では大学にも入れずに、国会議員にもなれなかっただろうなあ。

これに対して江利川先生は、流石、英語教育をよく理解しているので、このTOEFLの大学入試導入の馬鹿さ加減を的確に指摘している。まず、「学校教育だけで英語が話せるようになる、というのは幻想です」と英語教育の難しさを指摘する。私もまさにそう思う。そして、TOEFLという試験の問題点を次のように整理している。「TOEFLが測るのは会話力だけではありません」「内容も文系理系にまたがった教養が必要です」「東大の入試問題や英検1級より難易度の高い問題も含まれます」「もちろん学習指導要領には準拠していません」「TOEFLには1万語水準を超す難解語が頻出しますが、指導要領が求める単語数は中高で3千語です」。さらに自民党の提言を「体操の授業の目標を国体出場レベルにしようといっているようなもの」としている。まあ、ここらへんはまさに私の考えと一致している。

私はアメリカの大学院に行くためにTOEFLを受けて630点を最高得点で取った。東大の同級生で同じようにアメリカの大学院に行くためにTOEFLを受けたもので640点以上取ったものがいる。ほぼ満点に近い。しかし、私の方がはるかに英語がしゃべれるし、おそらく英語力だけを取れば、私の方がずっと英語が出来ると特に外国人は思うであろう。東大などに入ってくる学生は、とてつもなく暗記力に秀でているものがいる。TOEFLも英会話とはまったく関係ない能力によって、高得点を取ることはできるし、英会話と関係ない受験勉強をすることでそれは可能である。大学入試の英語試験と同様に、TOEFLの得点と英会話力はそれほど関係はない。むしろ、応用の利かない模範解答的な英会話を覚えることで、ある程度、英会話の得点を取得することも可能であろう。

江利川先生の指摘で、私にとって新しかったことは、「コミュニケーション重視」の英語教育に舵を切ってから、「英語嫌いが増えた、高校入学時点での英語力が下がった」という調査結果があるということである。「会話重視の授業では英語力が伸びなかったわけです」という先生の発言は大変、興味深いが、そう言われると、そうかもしれないなと思ったりする。

さらに、先生の意見で傾聴に値すると思われたものを紹介させてもらうと、「日本ほど教育現場が英語一色の国は珍しい」、「政治が英語教育の後押しをしてくれるのなら、40人一斉型の授業をやめてクラスの規模を小さくするとか、教員や機材を充実させるとか、その方が有益です」、「授業で何を教えるべきか。基本的な文法や音声、語彙などの土台作りと言語の面白さです。将来、留学や仕事などで英語が必要になった時に、自力で頑張れば伸びることが出来る基礎をつくっておく。それが学校教育の目的です」。
ふうむ、良いことを言う。さらに、遠藤さんにはこうアドバイスしている。「遠藤さんも自助努力で必死にやれば、国際会議やレセプションで話せるようになります。どうかお願いですから、学校教育に責任を押しつけないで下さい」。

あと、イギリスやオーストラリア、ニュージーランド、カナダの大学では、TOEFLより、むしろIELTS アイエルツ(International English Language Testing System)を重視している。というか、オーストラリア、カナダも現状ではTOEFLでも代替しているが、どうもアメリカ主導のこの試験を気に入らないらしく、IELTSの方が合格基準を低く設定している。したがって、留学生にとってもTOEFLは絶対ではなくなりつつあるのだ。

国民も、こういう英語が何も分かっていない議員が教育再生を担当している自民党に、教育を任せていたらとんでもないことが起きるということに気づいてもらいたい。
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TOEIC高得点者が英語しゃべれないと今更、発見して驚く人事の間抜けぶり [英語関連]

TOEIC高得点者の英語ギャップで企業の人事も驚いているようだ。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/economy/business_hacks/?1365380672

最近、自民党がTOEFLを入試に導入しようとしたり、企業の採用時でTOEICの点数を重視する傾向が強くなっている。

このブログでもたびたび指摘してきたことだが、そんなことは無駄だ。そもそも英語力を何でみるかということだが、コミュニケーションを英語で出来るかどうか、という点ではTOEICというテストでは測ることは難しい。TOEICで重視されるのはリスニングと読解力。そして読解力も新聞や広告記事などである。これは何を意図しているかというと、英語しかしゃべれない上司の言うことを最低限、理解できる能力、すなわち上司がストレスをそれほど感じなく、事務的な仕事をこなす奴隷的人材の能力を測るためのテストである。

したがって日本企業が必要とする交渉力をも含む英語コミュニケーション能力などは、測定する必要性もはなからない。また、このような英語コミュニケーション能力はTOEICやTOEFLを勉強すれば習得できるものでもない。これは、実際、英語圏で生活して、英語圏の人達のビヘイビアー、価値観、事務交渉のあり方を理解して初めてできるもので、TOEICの得点が取れればいいなどという生やさしいものではない。

私が、驚いたのは、こういう基準で人を採用した後、その採用基準が間違ったことを今更気づいて唖然としているという人事の間抜けぶりである。私も先日、留学生相手に英語でスピーチをしたが、その後のイギリス人の先生のスピーチの素晴らしさにちょっとその差を痛切に感じた。でも、日本語でスピーチをしたら、おそらく私の方がいいスピーチができたかもしれない。それは、言語に対しての感受性の違いで、言葉や文章構築というのは、単なる英語の試験などではまったく測ることのできない奥深い能力であると思うのである。もちろん、TOEICの点数が悪ければ、そのようなことが出来る訳はないのだが、例えばTOEICが900点にも満たない場合は、そもそも英語を勉強する必然性もないのではないかとも思ったりもする。英語で仕事をするというのは、そうそう簡単なことではない。これは、日本語で仕事をしている外国人の方の苦労等を考えれば、すぐ理解できることだと思われる。TOEICは奴隷仕事をする能力は測ることはできるが、それを上回る主体的な仕事をしてもらう場合には、まったくもって頼りない指標となるのである。
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「TOEFL(トーフル)」を大学の入学試験を受ける基準とするのは世紀の愚策 [英語関連]

自民党の教育再生実行本部(遠藤利明本部長)が国内全ての大学の入学試験を受ける基準として、英語運用能力テスト「TOEFL(トーフル)」を活用する方針を固めた。月内にまとめる第1次報告に明記し、夏の参院選の政権公約に盛り込むそうだ(http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/education/?1363825269参照)。

全ての国公立大学と私立大学が対象となり、大学の学部ごとに点数基準を定め、クリアした者に受験を認めるという制度らしい。たとえば、東京大学文科一類(主に法学部に進学)の受験資格は「TOEFL○○○点以上を獲得した者」と定め、公表する。点数基準は各大学に自由に定めさせる。

これは、日本の英語教育史上、最大の愚策となるであろう。日本の教育史上、ゆとり教育と並ぶ、愚策で、この本部長を務めている遠藤利明というのは英語教育をまったく分かっていない大愚か者であると思われる。まあ、これも自民党を選挙で選んだことのバックラッシュであるかもしれないが、それにしても随分と出鱈目なことを言い出したものだ。

さて、どこが問題なのか。まず、TOEFLは大学受験の基準を図るにはあまりにも難しすぎる。いや、東京大学を受験する学生ならある程度、差別化は図れるかもしれない。東京外語大学でも可能であるかもしれない。しかし、失礼ながら早稲田大学や慶應大学に合格するレベルでも、ほとんどTOEFLの試験では点数が取れず、差別化を図ることは不可能だ。私は自分の大学で、協定留学の学内合格生にTOEFLの点数をあげる指導をしているし、また自分も大学院に留学するうえでTOEFLの試験を勉強していたので、ある程度、TOEFLの内容を知っている。自分のことを言うのは憚れるが、私は東京大学の試験に通っている(一度失敗しているが)。理1であるが、数学で失敗したので、英語の試験ではそこそこの点数を取ったと思われる。しかし、それでも留学をするために初めて受けたTOEFLの点数は散々であった。そこから、相当、試験勉強をしてどうにか合格圏に到達したが、TOEFLが相当、難しいテストであることはよく知っている。これで点差をつけるだけでも、相当の英語のレベルである。ちょっと、ここは説明しても分かりにくいだろうから、例えば、ユーチューブにある次のリスニングの試験を試しに聞いてみて欲しい。

http://www.youtube.com/watch?v=9uZauzH234A

ここでは、そもそもキュービズムという日本語でも難解な内容の議論を英語でしているだけでなく、ピカソぐらいは分かるかもしれないが、ジョルジュ・ブラック、モンパルナス、セザンヌなどの固有名詞が出てくる。また、アバン・ギャルド、コラージュ、ボヘミアンといった日本語でも難しい言葉が、英語の発音で出てくる。そもそも、英語というレベルではなく、ある程度の美術史の知識がなければほとんど内容は分からない。これは大学院を受けるぐらいの教養があればまだフォローできるが、英語ができたとしても一般の高校生じゃあ理解できないであろう。これは、アメリカ人でも言葉はある程度、フォローできても理解することが難しいような内容であると思われる。アメリカの一般的な高校生がアバン・ギャルドとかをスムーズに理解できるとは思えない。遠藤利明も一度、TOEFLの試験を受けて、是非ともその結果を公表してもらいたいものだ。それぐらいのことも出来ないで、国民にこのような愚策を押しつけないでもらいたい。

もう一点の問題点は、TOEFLというのはETSという公的でも何でもない民間企業がつくっているテストであり、しかも高額であることだ。確かにこのテストを留学生の選考に用いているのは確かだが、なんで、民間企業がつくっているテストを英語のテスト代わりにするのであろうか。そもそも、TOEFLは外国人が留学をするために必要とする英語を試すものであって、日本人の英語教育の成果を図るものではない。まったく尺度としては不適切で、重さを測るのに物差しを使うようなものだ。この遠藤某はもしかしたらETSから相当、裏金でももらっているのだろうかと疑ってしまう。

とはいえ、この愚策をヤフーのアンケート調査では、反対者より賛成者の方が多かったので、遠藤某だけでなく、日本人全体も狂った方向に行っているのであろう。まあ、狂っている方向に進んでいるので、こういう愚策を政策化する自民党に投票するのだろうけれども。

私は、今、このブログをケンタッキー大学での留学プログラムの担当者の打ち合わせとの会食後に書いている。ケンタッキー大学の留学プログラム担当者は、私の大学の日本語プログラムを充実させて欲しいと強く訴えていた。世界は英語という単一言語に集約されるというよりかは、多言語化の時代へとシフトしていく方向性にあると思う。日本人はなぜか英語コンプレックスが強いので、英語が出来ればいいと考えがちであるが、決して、そういう方向性に向いていないと思う。私が日本の学生に対して、問題だなと思うのは、英語が出来ないということではなく、例えば、日本の歴史や地理を知らないことである。ケンタッキー大学で「日本の地理」を担当している先生が、日本の留学生が受講したいと言ってきたので、なんでアメリカに留学してまで「日本の地理」の講義を受けたがるのか訝しがったが、これらの留学生が日本の地理に関してほとんど知らないので受講を許したという話をした。私も留学生対象の講義を持っており、日本人の学生も受講を許しているが、日本の歴史に関しては、多くの留学生に比べても日本人の学生は知識を有していない。こういうことこそ、ヘンテコな英語を少しぐらいしゃべれたりするよりも、遙かに恥ずかしいことで、国際的ではないと私は思ったりする。

そもそも英語偏重には強い抵抗を覚える私ではあるが、さらに、TOEFLという民間企業のテストを国立・私立大学の受験基準にすること、加えて、このテストはほとんどの大学では差別化を図ることも不可能なほど難しいことを考えると、まあ、あまりにも馬鹿らしくて、本当、言葉を失ってしまう。私としては、所属学部の基準として0点を指定したいぐらいだ。というか、なんでETSにうちの大学の受験生が金を払わなければならないのだろうか。まったくもっておかしい。まあ、しかし、逆にTOEFLの受験塾でも始めてみるか。私的には結構、いいアルバイトになるかもしれない。怒ってばかりいるより、姑息に、こちら側についてみた方がいいかもしれないな、と考えてストレスを減らしてみよう。



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音楽の歌詞を正確にヒアリングするのは難しい [英語関連]

朝食時に10歳の次女がベン・フォールズのコンサートに行った時に購入したTシャツを着て食堂に来た。そのTシャツには、「Good morning sun, I am a bird」と「Still Fighting It」の歌詞の最初の一節が書かれている。そして、その歌詞のバックには、鳥と太陽の絵。それを何気なく見ていた私は、ぼんやりとした違和感を覚える。何か違う。ちなみに、「Still Fighting It」はアルバム「Rockin’ The Suburbs」に収められているベン・フォールズの名曲である。

そこで私ははっと気づく。この曲は、SunではなくてSonの筈だ。少なくとも、私はそう聴いていた。しかし、もしかしたら私の聞き違いかもしれない。とはいえ、この曲で泣けるところは、「And you’re so much like me. I’m sorry」(君は僕にそっくりだ。ごめん)と言うところで、これは、父親が息子に語りかける言葉としては極めて切ないと思うのだが、これがsonではなくてsunであったら、私の曲の解釈もまったく間違ったものになるのではないか。しかし、Tシャツに書かれているぐらいだから、間違っているのは私なのか。と不安になって、歌詞をチェックしてみたら、私が正しくsonであった。Tシャツをつくった人のミスであったのだ。自分の解釈が間違ってなかったことは一安心だが、それにしても、そこらへんの屋台で買ったものであるならまだしも、ベン・フォールズのコンサート会場、すなわちアーティスト公認のTシャツで、このような解釈ミスというのは一体全体何なのだろうか。まあ、このTシャツを作成したのが日本人であるかどうかも分からないが、ヒアリングは難しいものがある。これは、ベルリッツに通えば直るようなものではないほど難しいものであると思う。

さて、そもそも歌詞のヒアリングというのは結構、難しい。以前、スティーリー・ダンの「My Old School」のコードをインターネットでチェックしていたのだが、歌詞が「girls could be so rude」と書いてある。私はずっと、「girls could be so cruel」であると思っていたので、ショックを受けた。rude とcruelといえば、随分と違う。Sonとsunよりも違う。しかも、このサイトはアメリカ人がつくったと思われるサイトだ。少なくとも、日本人であることはない。曲を聴くと、rudeと聞こえない訳でないが、cruelと相変わらず聞こえる。文脈的にもcruelの方がしっくりとくる筈だ。なんだか納得できないが、私のヒアリングも随分と劣化したな、と思っていたのだが、その後、この曲の楽譜を購入してみたら、そこの歌詞はcruelと書かれていた。そうか。アメリカ人でも、歌詞をそのままヒアリングすると間違えるのか。ということに気づいた。

だから、曲をしっかりとヒアリングできなくても、そんなにも気にしなくてもいいとは思うのだ。ネイティブでもしっかりできない。これは、日本語の曲にも言える。例えば、私が偏愛する椎名林檎の「丸の内サディスティックス」で「ラット一つを商売道具」でラットをRatt社のディストーションのことを指していると分かる人は稀であろう。この曲を、ヒアリングだけでしっかりと日本語化できる人は少数であると思う。

とはいえ、Tシャツをデザインする時は、しっかりとその正しい歌詞をチェックするようにした方がいいと思う。というか、やはりsonかsunはベン・フォールズの場合は文脈から明らかであろう。参考までに、出だしを紹介するとこうなる。
「Good morning, son. I am a bird. Wearing a brown polyester shirt. You want a coke?
Maybe some fries?The roast beef combo's only $9.95. It's okay, you don't have to pay.
I've got all the change」
太陽にコークいる?フライはどう?と聞くわけないから、これは息子であろう。



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ベルリッツの広告にまた突っ込みたくなる [英語関連]

ベルリッツの広告には頻繁に突っ込みたくなる気分を抑えられないのであるが、またまた変なものに出くわした。それは、外国人が「もう無理しなくていいよ。おれ、日本語習うことにしたから・・」と言っているものである。

ベルリッツ広告_1402.jpeg

これは非常に素晴らしい。是非とも、外国人は日本語を習うようにしてもらいたいし、習うようにするべきだ。そもそも、日本という外国に住んでいながら、自分の母国語で済まそうという考えこそ失礼千万である。私はアメリカに住んだ時は、必死の思いで英語の習得に励んだ。しかし、最近では英単語を凄い勢いで忘れており(そういう意味では漢字も忘れている)、なんか虚しい気分にさせられる。ドイツに住んだ時も、英語で済ますことは難しいことを知り、45歳からドイツ語を学び始めた。動詞の過去形を覚えるのに、非常に辛い思いをしたが4ヶ月ほどゲーテ・インスティテュートに通い、40万円近くを散在したら、なんかヘンテコなドイツ語ではあるが、多少は旅行をしても通じるぐらいにはなった。ゲーテ・インスティテュートのB1レベルのテストもどうにか通った。

アメリカでもドイツでも、そこで生活していて、日本語で済まそうなどという傲慢な考えは一度として思ったことはない。それが外国で暮らすうえでの基本的な外国人が取るべき姿勢であろう。日本は別に植民地ではないのだから。

このベルリッツの広告で面白いと思われるのは、外国人がそう思ってくれるなら、何も、ベルリッツに金を払ってまで英語を習得する需要がなくなるということだ。まあ、この外国人はもしかしてベルリッツで日本語を習うのかもしれないので、ベルリッツ的にはお金を損しないのかもしれないが、まあ、日本人が英語を習わなくもいいようにするのは幸いである。もっと、こういう謙虚な外国人が増えることを本当に望みたい。しかし、日本語は難しいよお。26文字のアルファベットに対して、50字のひらがな、さらに同数のカタカナ。さらに、普通の日本語を駆使するのに必要な漢字は3000字程度か。是非とも、「日本語を習うことにしたから・・・」の気分で日本語を習ってくれ。

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日本の英語教育は昔でいえば、植民地での英語教育のようなことを目指している [英語関連]


大学の同僚の先生と3人で英語教育の会話をする。私を含めた3人ともアメリカの大学院に通った経験がある。さて、そこで一致した意見は、現在の日本が取り入れようとしている英語教育は、アメリカにおける移民教育、もしくは昔であれば植民地でみられる英語教育であるということだ。本来的に英語を自らの知識を高め、自分の能力を向上するために用いるのであれば必要なものは読解力である。そして、次に求められるのは、その高い能力を発信するために必要なライティングである。リスニングとスピーキングはそれほど重要ではないし、リスニングはともかくスピーキングの修得はほとんど不可能に近いので無駄だ。

それなのに日本の英語で力を入れているのはスピーキングとかリスニングである。これは、アメリカ人が指示をする従業員として都合のいい能力であって、日本人は外資系楽天で働く以外は必要としない能力である。そもそも繰り返すがスピーキングは極めてハードルが高いので、そのマスターは不可能に近いので、そういう意味でも無駄に近い。移民や昔の米国の植民地の人々がスピーキングを必要とするのは、前者は社会の最底辺の仕事に就くためには、上司の指示を理解し、状況を報告する最低限のスピーキングとリスニング能力が不可欠であるからであり、後者も「奴隷」的な仕事をするうえで、支配者側にとって英語でリスニング、スピーキングができることが望ましいからである。

日本で興味深いのは、このようなスピーキングとかリスニングを自らが高額の授業料を払って英会話学校に通ってマスターしようとしていることである。被支配者になるために、高額の投資をしているという、まさにアメリカ側からすれば「かもネギ」的状況にある。そんな暇があれば、本当にリーディングに力を入れるべきであろう。何か方向性が間違っているよね、ということで同僚との話は結論が一致したのである。

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日本語の敬語の難しさ(そして、ベルリッツの広告のおかしさ) [英語関連]

ベルリッツの広告「部長の山本はまもなく戻りますので、そこに座ってろ。あなたの英語は、こんなふうに場違いに聞こえているかもしれません」がいかに意味をなさないかということを1月7日のブログで書いた。そこで、思い出したのがアルゼンチンで仕事をしていた時、雇った日系2世のアルゼンチン人の日本語が、まさにベルリッツの広告のようであったことである。

彼はブエノスアイレスの郊外で生まれ育ち、その後、いわゆる出稼ぎで日本に3年くらい働きに来た。そこで、いわゆる仲間うちで話すような日本語をマスターするのだが、敬語はマスターできなかったようである。通常、外国人が日本語を学ぶとき、丁寧な日本語を学ぶ。ベルリッツの広告のようなヘンテコな日本語を外国人が話して、日本人の気分を害さないための配慮ともいえる。しかし、このアルゼンチン人はいきなり日本の仕事場で、日本語を鍛えられたために、そのような丁寧な日本語ではなく、実際の街中でしゃべるような日本語をマスターしてしまった。したがって、まったく悪気がないのだが「いいよ」とか「それでさあ」とか、そういう日本語をしゃべる。これには確かに違和感を覚えて、当初は随分失礼な人なのではないかと思ったりしたのだが、3日間ぐらい一緒にいて、彼が別にそういう悪意がないこと、そして彼の日本語に問題があったことを理解した。

さて、彼がこのような日本語をしゃべってしまったのは、それを母国語であるスペイン語で違いを解釈することができないからであろう。スペイン語はあまりよく分からないのでいい加減なことは言えないが、英語でも、丁寧さはイントネーションや仮定法ぐらいでしか表現しにくく、日本語のこの敬語の複雑さを直感で理解することは不可能かと思われるのである。これは、ドイツ語やスペイン語の名詞に性があることを日本人は日本語的にはまったく理解できないが、努めてその習得をマスターしなくてはならないように、日本語の敬語の習得も難しい面があるということである。ということで、この日系2世のアルゼンチン人のことを考えると、改めてベルリッツの広告がおかしいことが理解できる。

タグ:ベルリッツ
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ベルリッツの噴飯ものの広告 [英語関連]

先日、電車に乗っていて、ベルリッツの車内広告を観た。綺麗なOLの顔写真と一緒に、「部長の山本はまもなく戻りますので、そこに座ってろ」という大文字のコピー。その後、「あなたの英語は、こんなふうに場違いに聞こえているかもしれません」と広告は続く。

ふぜけてんじゃあないよ。なんだ、この酷い広告は。英語には日本語のように洗練された複雑な敬語システムはない。ドイツ語にはDuとIhrのような敬語ではないが、親近さを区別する表現はあるが英語にはない。すなわち、「そこに座ってろ」というような表現を唐突にすることはない。例を挙げる。たとえばGo Aheadは、「早く行け」とも捉えられるし、「どうぞ、お先に」とも捉えられる。その違いはイントネーションで決まる。日本語もイントネーションだが、日本語の場合は使用する言葉で、皮肉のような言い方もできるが、英語では難しい。Pleaseがまさにそうだ。日本語では、「どうぞ」とか「お願いですから」とか、「いいですよ」とか「いい加減にしろ」とかいろいろな言葉が対応するが、英語ではそういう多彩な表現はできないとは言わないが、日本語に比べると不器用である。

つまり、この広告のようなコピーを英語でいうことは難しいのである。「まもなく戻りますので」と言っているので、イントネーション的には丁寧である。したがって、その後、たとえばPlease Sit Downではなく、Sit Down Thereとストレートな命令型で言ったとしても、ニュアンス的には「そこに座っていて下さいな」とくだけてはいるが、決して「そこに座ってろ」というほどの失礼な言い方になることはない。そもそも、教授でも基本的にファースト・ネームで呼ぶのがアメリカ流である。これは大学院時代、イギリス人の留学生でも抵抗があったようなので、基本的にはアメリカ、特に西海岸のカルチャーかもしれないが、日本語のように文章で、失礼なニュアンスを表現するのは英語では不可能に近い。したがって、ベルリッツの広告のような事態はあり得ず、単に日本人の英語コンプレックスを突っつくことだけを意識したような卑劣なコピーである。もし、そうでなければベルリッツは英語を教えているが、英語と日本語の違いも分からないということだろう。どちらにしても、このようなコピーをどうどうと広告にする学校に行って、英語ができるようになることはないであろう。

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日本人は日本訛りの英語をしゃべっていればいいのだ [英語関連]

 2008年8月26日、米女子プロゴルフ協会(LPGA)は、「来年から同ツアーに2年間在籍し英会話能力の評価が必要と判断された選手を対象に英語の口語テストを実施し、基準に達しない場合は出場停止とすることを決めた」とAP通信が伝えた。活躍が目立つ韓国出身の選手をターゲットとしたと言われるが、宮里藍などもその範疇に入るだろう。
 この馬鹿な提案はおもに選手らの激しい反発(皮肉にも韓国選手は好意的だったらしい)を招き、結果、うやむやになるのだが、その際、たとえば LPGAツアーのベテラン選手ローリー・ケーン(カナダ)が「私は日本でプレーする時、日本語を使わなかった」と述べたのは印象的であった。
 アメリカは人種や宗教で差別しないというのが表向きのスピリッツであるが、まあ相変わらずジャッキー・ロビンソンが大リーグ・デビューをした当時から人々の差別意識はまったく改善されていないんだなと思ったものである。
 
 さて、私がここで気になるのは「英会話能力」を課したという点である。最近、英語教育に関心を持ち始めている私は、またこのブログでも報告するが、留学希望のゼミ生に英語特訓口座をボランティアで開講している。英語だけでなく、語学を第二言語として習得する際には、リーディング、リスニング、ライティング、スピーキングと順を追ってその習得が難しくなる。すなわち、受け身の要素は習得が早く、自分の意志を先方に伝える技術の方が遅く習得する。母国語は違う。リスニングとスピーキングが先に来る。しかし、言語という論理体系が確立された後、違う言語を習得するうえでは、スピーキングから入っても混乱するだけだ。おそろしく記憶力がよければ、そのような学習法で対応できるかもしれないし、そのような能力を持っている人が語学の天才と言われるのかもしれないが、一般人がたとえば英会話から入って英語をマスターできるかと思っても大間違いである。というか、英語をマスターできないので、当然、英会話もマスターできず、英会話学校は永遠に儲けを捻出することができるのだ(まともにビジネスをやっていれば)。よく考えれば、語学をマスターせずに会話だけマスターできる訳がないのだが、それを多くの学生、少なくとも私が日々接している学生は理解をしていない。スピーキングは20歳以降だと実は致命的に難しくなるのは、ちょっと前までは20歳以降に来京した地方の人が、なかなか方言が抜けないことを思い起こせば理解できるであろう。

 日本人はたとえ喋れたとしても、日本人訛りの英語をしゃべる。これは、インド人がインド訛り、シンガポール人がシンガポール訛り、オーストラリア人がオーストラリア訛りをしゃべるのと同様であり、「マイ・フェア・レディ」の例を出すまでもなく会話というのはなかなか難しい。もちろん、今回は「口語テスト」ということで、とりあえず文法的に正しく喋れれば通してもらえるのかもしれないが、おそらく訛りはマイナスとなるであろう。というのは、本当に会話能力を評価するというのは難しいからである。まさに苛め的なアプローチで、アメリカ人の心の奥底に底流する底意地の悪さを感じ取ってしまう。

 日本人は日本語という世界でも希有な難しい言語を駆使しているのだから、英語のような表現力も稚拙な言葉なんてしゃべれなくても恥ずかしくない。むしろ、恥ずかしく思うべきは漢字が読めなかったり、書けなかったりすることである。英語に関しては、読めないことは恥ずかしいと思う。変なナンパ言葉を覚えるよりか、英語の本を読めることの方が重要である。そして、英語の本を読んでいれば、徐々に、英語脳が培われていく。英語脳が培われていくことで、リスニングができるようになり、そのうち、自分でその英語脳に基づく表現力も養われる。しかし、書くことやしゃべることは母国語でも難しいことからわかるように外国語でしゃべるというのは本当に道のりが長い。かの大前研一だって、英語で大学で講義をして、奥様も英語を母国語とする人だが、英語の発音はめちゃくちゃである。それで十分なのだ。日本語がしっかりとしているのだから。先方が発信することをしっかりと受信することがまず重要である。そして、まあ発信することもできるようになればいいが、これはハードルは本当に高い。英会話がぺらぺらとできるなんて、アメリカに5年間住んでも難しいと思うよ。というか、私の叔父はチェコ人でもうアメリカに40年は住んでいて、チェコの大学なんかでたまに講演とかもしたりするが、英語は変だからね。そうそう、できるものではない。

 だから、日本人は日本語訛りの英語をしゃべっていればいいのである。マクダナーじゃなくて、マクドナルドでいいのだ。しかし、私のゼミ生がポール・マッカートニーの歌をカバーして歌っていたのをユーチューブでアップしたら、「ブロークン・イングリッシュ」でださい!みたいなコメントを英語で書いてきた輩がいる。いいんだよ、ブロークン・イングリッシュのところがいいんだ。忌野清志郎の「デイ・ドリーム・ビリーバー」を聴いたことがないのか、と思っていたら、なんとこのコメントを書いた人が日本人であることを知った。何、こんなところでコンプレックスを持っているのだろうか。日本人は日本語が喋れるのだから、日本語訛りの英語でいいの。ちなみに、私はまったく自覚がないのだが、カリフォルニア訛りの英語らしい。そりゃ、カリフォルニアにしか住んでいないからね。だから、ニューイングランドのエスタブリッシュメントからすると田舎ものに聞こえるだろう。でも、いいじゃないか。別に日本語で書いて、日本語でコミュニケーションしているんだから。カリフォルニア英語だろうが、喋っているだけでプラスだよ、と思うのである。まあ、カリフォルニアはアメリカであるが、日本人だったら日本語訛りでいいのだ。インドにいくと、あの強烈なインド訛り(というか、デリー訛りかもしれないが)の中では自分の英語の方がおかしいと思う。要するに、言語というのはマジョリティがその場における正しさを決定するので、日本では日本語訛りの英語が正しいくらいの気合いを入れて、妙なアメリカかぶれにはしっかりと抵抗すべきだと思うのである。

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