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些細なことだけど悔しいこと [その他]

 私は新幹線の車内でよくラップトップで仕事をする。新横浜もしくは品川から新大阪まで往復することが多いが、その時、コンピューターの電源が途中で切れるのが嫌なので窓側の席であるA席かE席に座るようにしている。なぜなら、コンセントのプラグがついているからだ。
 ただ、この両席は最も人気が高いので先に予約で埋まる。もちろんB席やD席でも、ちょっとお願いすれば大抵の場合、使わせてくれるが、それらの席に座っている人が携帯電話などを充電しているとお手上げである。ということで、これらの席が空いている列車に乗るために1本や2本遅らせる場合が多い。
 さて、しかし、このプラグがない旧式の列車が走っていると、せっかく乗る列車を遅らせてもまったく無駄となる。今日もまたそのようなミスをしてしまった。そして、まだ大井川を通過した時点なのに、既にバッテリーが心細くなってきている。些細なことではあるが、私が悔しいというかついていないと思う日常生活の中の一例である。

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ヨドバシカメラで高価な電化製品を買うという習慣を見直すといいかもしれない [その他]

 一眼レフのレンズ、そして出来ればカメラ本体も購入したいと考えていた。さて、しかし、写真撮影をする仕事がなければ意味もない。ということで、仕事の継続が決まるのを待っていたのだが、無事、今年度も仕事が取れたので早速、購入しに行った。
 昨日、ヨドバシカメラに行った。ほとんど買うつもりであった。買おうとしたのは、Canon のEF16-35 F2.8Lである。値段は29万円であった。実際の売値はと尋ねると、「同じである」と回答したので、「随分と高いね」と返したら、「ちょっと待って下さい」と言って「ネットで調べたら25万円なので、25万円が売値です」と言い直した。どうも信頼できないなあ。
 次にカメラを見た。私は今EOS7Dを持っているが、ISOが6400しかない。長女に買ってあげたEOSのKissだってISOは12800まである。これが大きなネックだったので、新たに購入したいとは前から考えていた。狙っていたのは、比較的出たばかりのEOS 5D Mark IVである。これが幾らか尋ねると39万円。うわっ、高い。「実際は幾らで売っているんですか」と別の店員に尋ねると、「値札通りです」とのこと。しかし、この人はソニーの販売員だった。「ソニーの人だからそうだよね」と皮肉を言って何も買わずに出た。レンズの件から、値札通りとは到底思えないからだ。ただ、店を出る前に値段はしっかりとメモをしておいた。
 新宿のヨドバシカメラなので、すぐそばにマップ・カメラがある。マップ・カメラに行ったが20:30が閉店でもう閉まっていた。そこで翌日、中野のフジヤカメラに行くことに決めた。この店は1938年に創立された老舗のお店である。
 午前中に訪れたのだが、平日なのに結構、人はいた。まずはレンズを買おうとする。Canon のEF16-35 F2.8LはIIが出たばかりなのに、既にバージョン変更したIIIが出ている。値段は16万円と22万円。お店の人は無愛想だったが、「IIIの方がいいです」と確信的に言う。それで、私はレンズを買うことを即決した。そして、持参していたEOS7Dにマウントすると、どうも広角じゃあない。そこで、初めて自分のカメラがaps-cであることに気づく。間抜けな話かもしれないが、実際、使っていると別に不自由はしなかったからだ。ただし、せっかく広角のいいレンズを購入するのに、これでは宝の持ち腐れである。ということで、なんだかなあ、と思う。カメラの本体も購入したいが、昨日のヨドバシカメラの値段では予算オーバーも甚だしい。
 私が、いやあ「このカメラだと宝の持ち腐れになっちゃうなあ」とぼやくと、店員の人は私がカメラを買う意図が密かにあるということを見抜いたように、「Eos 5D Mark IIIが今、新商品のMark IVが出たのでお買い得ですよ」と言う。私が幾らぐらいですかと尋ねると25万円。これは安い。私が今、使っているカメラは2009年に買っていたので、ほとんど寿命に近い。今のカメラを買った時は、前所有していた一眼レフのシャッター回数の限界が来たからである。そのカメラは7年間使用したので、今のカメラもそろそろシャッター回数的に寿命が来ている筈である。
 ちょっと私がその意見に食い付いて、「Mark IIIはでもMarkIVに比べるといろいろと劣るでしょう」と言うと、店員は「いやいや、MarkIVが出たことでむしろMark IIIは再評価されているぐらいです。特にMovie機能などを使わない人は今でもMark IIIの方がいいくらいじゃないですか」と言う。気になる欠点は「重いところ」ぐらいであるとまで言う。ここで私は落ちた。そもそも値段が安いのに、自分のニーズには遙かに合っている。今のカメラの一番、不満なところはIOSだが、その上限が6400からいきなり25600まで伸びる。相当、思い切った出費ではあるが、どうせなら一緒に買った方がいいだろう、ということで中野まで来たこともあり買ってしまった。
 持っていたカメラを下取りでは幾らになりそうですか、と尋ねると、いろいろと見てくれた後、これだけボロいと売らない方がいいですよ、と言われてしまいました。そういう意味でも、どうせカメラも買わなくてはいけない時期に来ていたということか。また、セカンドとして持っていた方が、山登りとかに持って行けるのでいいかもしれない。
 ということでカメラとレンズを購入したのだが、私はつくづく、ヨドバシカメラの接客態度というかサービスに大いなる不満を覚えた。確かに、ヨドバシカメラは安い(とはいえ、フジヤカメラの方がポイント換算を考えても安かった)。ただ、カメラやレンズを売ろうという誠実な姿勢を伺うことはできなかった。ここで、誠実な姿勢というのは、顧客の立場、顧客のニーズを「忖度」して、自分の商品知識の中から最適だと思われるものの情報を提供するという姿勢である。それは、コンシアージ的な機能であるかと思われる。店員は売っている商品のコノセールであるべきだ。消費者側がその商品知識に造詣が深く、店員は取りあえず売ればいいという小売り形態は多くある。例えば、コンビニエンス・ストアやマクドナルドであったりする。しかし、圧倒的に店側が商品知識を持っているものも少なくない。一般的には自動車やステレオ、大型家電などの買回品がそうだったりするが、日本酒やワイン、高級寿司などもそうであろう。そして、高級一眼レフカメラやレンズなども、まさにそうである。確かに、ヨドバシカメラ(ビッグカメラなどもそうである)は、圧倒的な仕入れ力で価格を下げ、売価も安くしたが、自分は本当に何が買いたいか、その商品をカタログで調べていても自信はない。そういう点で、今回のレンズ、カメラともにヨドバシカメラはまったく私が必要な情報を提供してくれることはなかった。こちらが尋ねてでもある。一方で、フジヤカメラは適切な情報を提供してくれたことで、レンズかカメラのどちらかだけを購入しようと思っていた私に両方とも売ることに成功し、そして私も大変満足しているのだ。私は結構、ヨドバシカメラで買うことが多いと思うが(カメラ本体はともかく、レンズなどはそうである)、今後は、ヨドバシカメラで高価な電化製品を買うという習慣を見直すべきであると今回の経験から思わせられた。

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ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい [その他]



12月12日からポケモンGOのポケモンが追加されることになった。ちょうど、その前日に私はポケモンをコンプリートさせた(海外バージョンのガルーラとケンタウロスはゲットしていない。バリヤードはゲットしている)。ちょっと、このように告白すると恥ずかしい。いい大人がポケモンGOをしていることを恥じている自分がいるからだ。さて、そのようなポケモンGOであるが、「若者がポケモンGOから離れた理由」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161216-00000002-zdn_m-sci)などと、したり顔で分析している人達が多いことが気になっている。ポケモンGOをしていない若者に取材をして、ポケモンGOをしていない人が、なぜポケモンGOをしないのかを聞いても、その理由が分かる訳がないだろう。私はホヤが好きでないが、「ホヤを食べない」人達がなぜ「ホヤを食べないのか」を、本人もホヤを食べない人が取材をして分析を試みても、ホヤをマーケティングする戦略が見えないことと同じである。ホヤを食べる人達はとても多くいて、それらの人をマーケットとして、ホヤ産業は十分に成立している。別に、我々のような「食べない人達」が食べなくてもどうでもいいのである。このエッセイは、「新ポケモンの追加でさらなる盛り上がりを見せるポケモンGOですが、若者たちをどこまで取り込んでいけるのでしょうか」と締めているが、私からすれば、今の状態でも十分にポケモンGOをする人が多すぎて、盛り上がっていて、ちょっと困っているぐらいである。これ以上、増えると逆に一人当たりの効用は減るので、そこまで儲けなくてもいいだろう、という気分である。さて、それでは、なぜ私のように未だポケモンGOをする人がいるのに、飽きている人もいるのか。ポケモンGOをしている私が解説したいと思う。

まず、ポケモンGOというゲームの本質を理解していない人が多いことが挙げられる。別に本質を理解したとしても、それに興味を持たなければどうでもいいことであるが、それを知る前に飽きてしまう人が多い。多くの途中で飽きた人達は、このゲームはポケモンをゲットすることが目的であると考えている。それも一つの側面であるが、このゲームはポケモン・ジムにて、バトルをしながら陣取り合戦をすることこそが、もう一つの目的であり、これはなかなか楽しいゲームであると私は捉えている。そして、バトルをするためには、ゲットしたポケモンを強化させなくてはならない。この育てる、という側面もこのゲームを楽しくさせている点だ。どのポケモンを鍛え、ジムに参戦させるのか。タイプごとに、戦略ごとに、いろいろと考えなくてはならない。ポケモン・ジムで参戦をして勝てばコインがもらえる。コインによって、孵化器などのグッズを購入することができる。孵化器はポケモンの卵を孵化させるのに必要な道具で、いくらあっても困らない。お金を払っても買うことができるが、流石にそれはちょっともったいないので、私は毎日、海外にいても10コイン(最低の単位が10コインから)はゲットするように努めている。このコインのインセンティブがあることは、プレイする人達の大きなインセンティブになっていると思う。このバトルのシステムは非常によく考えられており、つくづく、このゲームは洗練されていると思う(タイプごとに弱点と強みがあるところとか)。私は、駅から家に帰る際に、2つ、状況に応じては3つほどジムを訪れ、バトルをしてから帰宅をしている。バトルをしている姿は、ちょっと人に見せられなくて、その点は相当、このゲームの弱点ではあると思うが、喫茶店でやれたりもするところがあるので、それは助かっている(ゲームをしているのではなく、メイルを打っているように見えるからである)。
 ポケモンGOをポケモン・ゲットと捉えている人が飽きてしまうのはもったいないと思うが、このゲットするという行為自体にも、なかなか楽しい工夫が為されており、もう少し真剣にやれば楽しみが分かると思うのである。レア・ポケモンのポケモンの巣に訪れて取るのは、あたかもカブトムシがわんさかといる森に行って、それらを取る時のような興奮を覚える。そして、そのために知らない公共空間(たいてい公園などの公共空間がポケモンの巣に設定されている)を訪れるのも悪くない。こんないい公園が東京にはあったのか、などを知る機会を提供してもらって感謝をする時もあるぐらいだ。
 私の場合は、子供達はあまり興味を持っていないが、家内もはまっているので、なかなか夫婦のコミュニケーション・ツールとしてはプラスになっている。もちろん、そういうのがまったく不要なおしどり夫婦であれば、いらないのであろうが、ちょっと夫婦仲が怪しい場合は、ポケモンGOはプラスしかもたらさないであろう。
 私の子供は一人が大学生で、ポケモンGOは家族で最初に手を出したのだが、一番早く飽きた。それは、ポケモンGOというゲームに問題があるというよりかは、その奥深さを追求するような意欲、好奇心が欠けているからである。そんな、好奇心のない若者に媚びて、合わせていたら、ゲーム自体の楽しさを損なう。というか、バトルをしているとつくづく感じるのは、皆、やり過ぎ。香港とかに来て、おっ!ここはポケモンのレベルが低いな、と喜んだのだが、バトルでやっつけても瞬時でまたバトルを仕掛けられてしまう。レベルが低いが、ポケモン・バトルの参加度は東京を上回るのではないだろうか。ポケモンGOに嵌まっている人達は、既に世界中に十分いるし、私としてはちょっとコインを稼ぐためには、皆があまりにもポケモン・バトルをやり過ぎるわ、と自分のことを棚に上げて思ったりしているぐらいだ。現状のポケモン・ジムの数からすると、参加者は飽和数に近いのではないだろうか(いや、さらに参加者が増えればジムを増やすだけでしょうが)。ということで、本当、ポケモンGOをしない人が、しない人に取材をして、へんな分析をすることは止めてもらいたい。というか、したり顔は格好が悪い。

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セビージャにてバリヤードをゲット。スペインのポケモンGO事情。 [その他]

 スペインに来ている。実は、私はたしなむ程度にポケモンGOをしている。スペインに来たので、仕事のついでにポケモンGOのスペイン事情もちょっとチェックをした。まず、ポケモン・ストップなどの数はマドリッドの都心には多くあるが、郊外とかには少ないという印象を受ける。スペインでも都市偏重という傾向がみられる。また、ポケモン・ジムに関してだが、日本よりは弱い印象があるが、圧倒的な差があるとは言えない。カイリューの3000ポイントクラスがいたりもする。
 あと、スペインだと日本とは頻繁に出てくるポケモンが違う気がする。といってもマドリッドとセビージャだけでしかやっていないので、スペインと括るのは問題があるが、サンドとガーディ、アーボが多く出てくる。それとニャース。ここらへんは、やはり乾燥している気候だからだろうか。また、リザードも出てきたりして、なんとなく火ポケモンと砂ポケモンが多くでる気がする。逆にまだまったく遭遇していないのは、コイキング、ヤドン、キャタピー、ビードル、ふしぎだね、なぞのくさ、トサキントなどである。これらは、「近くにいるポケモン」でも出てこない。草系、水系があまり出ないという印象だ。
 ポケモンGOには地域限定ポケモンがあり、ヨーロッパはバリヤードである。マドリッドの郊外のホテルでも「近くにいるポケモン」にシルエットが出たが、夜であったこともありホテルの外(ホテル内では出てこなかった)までゲットしにいくのは諦めたが、その後、マドリッドからセビージャに移動して、水を買うためにセビージャのホテルを出て、歩いていたら「近くにいるポケモン」に再び出現したので、これは是非ともゲットしなくてはと思い、計画的に歩くことで(消えた場所(A点)で折り返し、逆の方向に歩いて再び消えたところ(B点)をみつけ、ABの垂直二等分線上を歩く)みつけてゲットした。思わず、「やった」と声が出てしまった。
 プログラミングをされたものを分析するのは虚しいところはあるが、地域によってポケモンをどのように分散させて出現しようとさせているのか、その考えは企業秘密なのだろうが、知りたいところである。明らかに風土を反映させるように意図されているような印象を受ける。

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武蔵野大学の長谷川秀夫教授の無責任発言について、多少考える [その他]

武蔵野大学の長谷川秀夫教授がインターネットサイトのニュースサイトに「残業100時間で過労死は情けない」と投稿したことで、ネット上で炎上、大学がその処分を検討するような事態になってしまった。電通の女子社員の過労自殺ニュースが配信された時間帯に投稿したことで、彼女のことに言及してはいないが、亡くなった人への配慮がなく無神経な発言であったことの誹りは免れないであろう。

ただ、「残業100時間で過労死は情けない」という発言を擁護する気は毛頭ないが、私のように50代を越えた人間からすると、特にバブル期においては、残業100時間は珍しくはなかった。流石に4月に自殺された原子力規制委員会の審査対応をしていた関西電力の課長職の四十代男性の残業200時間は、当時でも異常な数字ではあったが、100時間というのは私もよくクリアしていた数字である。「過労死は情けない」という発言は情があまりにも無いと思うが、残業100時間というのを「たいしたことないじゃないか」と思うのは、1990年前後にサラリーマンをしていた人たち、特に私のような法人サービス産業、に従事していた人が共有する感覚なのではないか、と思う。

これは、しかし、おそらく若い人たちからすると論外であることだろうし、なかなか共感することは難しいであろう。私も、結果的にやってはいたが、徹夜明けのオフィスで貧血になって倒れたりしたり、基本、プライベートな生活はほとんどなかったりで、仕事はやり遂げたかもしれないが、ほとんど何もプラスにはなっていない。したがって、100時間残業をやってはいたが、それが大したことがないと感じてしまうのは、私の問題でもあろう。

ただ、私が残業していたのは、会社や上司のせいではなく、コンサルタントという業務の特性からであった。顧客が納得できなかったら、残業をしてでも完成度をあげなくてはならない。それは理不尽なところもあるし、私はちょっと直情的なところがあるので、顧客に文句を言ったりもしたが、それでも情報や知恵で、お金をいただくというのはとても大変なことなのである。そして、電通も業態的には私が働いていたシンクタンクと似たようなところがある。私はよく後輩に、「なんで顧客が君のアウトプットにこれだけのお金を払うと思うの。その価値をつくるための工夫や努力をしないと」と言っていた。それは、私が自分自身を自戒するために自問していたことでもある。さらにいえば、顧客がアウトプットに満足してくれた時には、私は大いに嬉しい気分と達成感が得られた。まあ、それが高残業のインセンティブに当時はなっていたのは確かであり、おそらく今では許されないアプローチなのかもしれないが、プロとしての自覚がそのようにさせていたというのはあったと思う。そのことを私は個人的には、それほど肯定したくはないが、組織全体ではそういう厳しさを共有して乗り越えようといった体育会的な雰囲気があり、それはある意味では居心地が悪くはなかった。もちろん、そのような雰囲気が苦手(特に女性)な人たちがいたことをあまり配慮していない、という排他的な雰囲気も合わせて有しており、決して褒められたものではないが、そういうのに肯定的な日本の組織文化のようなものを有している企業は、当時は少なくなかったと思われる。

その物言いは情がなさ過ぎるのは確かであるし、おそらく長谷川教授は後悔もしていると思うのだが、ちょっとバブル期にサラリーマンをしていた私は、彼がそう迂闊にも口走ってしまった背景は理解できるのだ。そして、そのような経験がない大学一筋で過ごされた学長に処分を検討されてしまうのは、正直、同情を禁じ得ない。いや、発言に対して責められることには同情の余地はないが、処分されることには同情をするということです。

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ポケモンGOはバスに乗りながらやるのがちょうどよい [その他]

 私も嗜み程度に、ポケモンGOをしている。モンスターボールを投げるのが下手だったり、電池を猛烈に消耗したりするので、それほど嵌ってはいない。ただ、このゲームは都市をフィールドとしているので、いろいろと発見があったりして興味深い。
 まず、気づいたことは当たり前であるが、東京の歩行環境の悪さである。ポケモンGOを歩道でも歩きながらするのは相当、危険である。私の家内は実は、ポケモンGOに相当、没頭しているが、彼女は自転車に乗りながらもやっている。とても危険で止めさせたいのだが、どうもポケモンGOの魅力には打ち勝てないようだ。私の家内のような危険人物もいるので、またそうでなくても歩行環境はよくないので、実質的にポケモンGOを歩きながら出来るのは、河川を暗渠化させてつくられた緑道ぐらいではないだろうか。ちなみに、このような緑道はポケモンが多く出る(コイキングやコダック等水ポケモン系)ので一石二鳥である。ただ、このような例外的な事例を除くと、なかなか歩いてもポケモンには出会えない。身の危険を賭してまで、歩いてやるだけの価値があるのか。ちょっと疑問である。
 それじゃあ、自転車や自動車に乗りながらやればいいじゃないか、と思うかもしれないが、これは家内がやっている手前、あまり強くは言えないが、ほとんど犯罪に近いと思う。特に自動車をやりながらするような輩は厳しく取り締まるべきだ。実際、取り締まられているそうだが、当然である。
 幸い、東京は公共交通機関が充実している。自分が運転しなくても、歩くより遙かに速いスピードでポケモン探しができる。ただ、電車だとちょっとスピードが速すぎる。GPSのスピードがついていきにくいし、ポケモンやポケモンストップを発見してもあっという間に消え去ってしまう。また、地下鉄はなかなかポケモンが出てきにくい。
 それに比べてバスはちょうどよいスピードで動く。集中していないと逃したりもするが、それがそれほど惜しくないほど次から次へと出てくる。これは、バス路線によっても事情は違うのかもしれないが、私が通勤で使っている目黒通りは、よく出てくる。バスに乗っていても飽きない。
 また、ポケモンストップは、ランドマークに設定されている。したがって、普段、バスで移動していて気づかなかったような神社やお寺、ちょっと面白そうな店などがあることを知ることができる。沿線のちょっとした地理の勉強にもなる。暇な時に訪れてもいいかな、と思ったりもしたりする。東京のバス会社は、お客があまり乗らないシーズンや時間帯は、ポケモンGOとタイアップすることを考えるといいと思う。マクドナルドに寄るよりか、ずっと楽しくポケモンGOを遊べると思われる。
 東京のバス路線ごとに、どんなポケモンが出てくるか、などを解説する本などがあってもいいと思う。歩くのも危険、自転車、自動車は論外、鉄道はスピードが速すぎ。バスこそがポケモンGOを遊ぶのに最も適した移動手段であり、私は、ちょっとこれに気づいてからバスに積極的に乗るようになっている。今日も、蒲田駅から羽田空港までバスで初めて移動したのだが(それまでは京急羽田線を使う場合が多かった)、イーブイをゲットできた。イーブイはそれほど珍しいポケモンであったが、私的には初めてだったのでちょっと嬉しい。

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過度のストレスによる自分の身体の変調を客観的に分析してみる [その他]

 人生初めてくらいの緊張によるストレスを感じている。このような状況に置かれると、身体が変調を来す。なぜ、ストレスを感じて身体が変調を来すのかはちょっと興味深いのでここに記させてもらう。ストレスの原因はちょっと書きたくないし、おそらく書けないので書かない。
 まず、動悸がする。そして、動悸が続く。寝るときは動悸でなかなか寝付けない。朝、起きても動悸が続いていたので、もしかしたら寝ている間、ずっと動悸が続いていたのかもしれない。私はあまり動悸をしないタイプなので、ちょっと心配になる。これがより激しくなったらパニックになるのかもしれないが、現時点では、それほど酷くはなっていない。
 あと圧倒的に眠れない。しかし、眠い。眠いのに眠れない。これは辛い。したがって、いつも眠い状態が続く。たまにちょっとの時間、眠れたりするがまた起きてしまう。あと、睡眠もそうなのだが、1つのことを続けてできなくなる。集中力が著しく減衰するのだ。今、機内でこれを書いているのだが、すぐ他のことに気が行ってしまい、この文章を書き続けるのも難儀となって、しょっちゅう中断する。しかし、中断しても何か他のことをする訳でもなく、休むだけである。
 加えて、頭がボーッとする。そして、なんか頭に霧がかかった状況が続く。これは以前、サラリーマンをしている時にも似たような状況を体験したことがあるが、久し振りだ。当時も何か身体がおかしい訳ではなく、ストレスによる体調の異変ということだったのだな、ということを知る。逆にいえば、こういう状況になっても身体に何か問題がある訳ではない。ストレスをなくせば、症状も改善するであろう。
 さらに、頭がボーッとしているのと関係があるのかもしれないが、手が常にしびれているような状況にもなる。手に力が入らないのだ。
 また、身体が冷える。おそらく低血圧になっているのではないだろうか。頭がボーッというのは高血圧なのかもしれないが、ちょっと身体が冷えて、常に寒い。これはもしかしたら、食事を摂らなくなっているからかもしれない。何しろ食欲は本当に出ない。私は小さいが結構、大食いの部類だが、その私が本当に食べなくなっている。食欲はないが、無理矢理食べているという状況だ。しかし、それでもホットケーキ1枚、サンドイッチ一切れぐらいが限界だ。
 サラリーマンで超多忙だった時、ストレスから身体に変調がみられたが、それはどこか身体が悪いからだろうと心配であった。しかし、現在の身体の変調はストレスが明らかに要因なので、逆に安心だ。まあ、そのストレスが除去されるまでは、しばらくこの状況が続くだろうが、そのうち消えるであろう。まあ、などと余裕をこいているが、この状態が2週間ぐらいは続いたら検査をしてもらわないと不味いかもしれない。今はまだ3日ぐらいしか経っていないので様子見だ。などと書きつつ、ヨーロッパに向かっているのだが。大丈夫なのだろうか、私?


タグ:ストレス
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元会社を訪れ、いろいろと考えさせられた [その他]

 13年前に在籍した会社に、もう10年ぶりぐらいで訪れる。委託研究を主な仕事とする民間のシンクタンクである。一緒に仕事をした後輩なども50歳を越えている。多くが既に研究業務の一線から退き、営業や企画などの仕事をしている。しかし、彼らは極めて研究者として優秀であった。というか、むしろ研究は優秀であったが営業が苦手であったがゆえに、成績が今ひとつで出世できなかったというところがあったかとも思う。私より研究者として優秀であったと私が思っている人材が、得意な研究ではなく営業をしている(営業に関しては実は私の方が優秀であったとは思う)というのは、なんかしっくりこない、というかもったいないことをしているな、と思う。
 一方で、彼らの優秀な研究能力に劣等感を持っているといってもよい私は、大学で勝手な研究をやらせてもらっている。文科省の研究費も二件ももらい、税金でも研究させてもらっているという贅沢を享受している。本も出せているし、自主製作ではあるがCDも出すことができた。お金にはいつも困っているし、常に渇いているが、それでも、この会社に残って送っていたかもしれない人生と比べると、ずっと有意義であるとは思う。
 さて、しかし、ここで私が言いたいことは、会社を辞めて正解だということを自慢したい訳ではなく、私は将来を先読みしたから、今の状況を獲得できた、ということだ。将来を読む、というのは私が専門とする都市計画をつくるうえでの極めて重要な要件であるが、自分の置かれた状況が今後、どうなるか、ということを予測することは重要であろう。私が在籍した会社では、私が尊敬する先輩達が冷や飯を食わされ、私があまり尊敬しないような人が出世をしていた。私の仕事のやり方では、そう遠くない将来に冷や飯を食わされることは予測できた。というか、私が出世することはあり得ないとも思った。いや、出世しなくても、好きな研究を続けられればよい。研究をする機会をも奪われる可能性がある、という状況が私を転職へと向かわせたのである。そして、その判断の基準は、「この会社で働いていて、今日、死んだとしても悔やまずにいられるか」というものである。私は、絶対悔やむであろうと思い、転職をし、転職をしたことには露一つも後悔していない。
 それを、私の周辺にいた私が一目を置いていた同僚達の現状を改めて知り、確認させられた。
 既存の環境をぶちこわし、新たな環境に置かれることは大きなリスクを伴う。しかし、変化を拒み、現状に固執することも大きなリスクを伴う。
 私の父親は、私の転職に大きな難色を示して反対したが、もう大人の私は完璧に無視した。父親が間違っていたと確信を持っていたからである。ただし、多くの人の場合は、私のように親の言うことを無視するのにも抵抗があるかもしれない。しかし、父親の人生を肯定的に捉えられるのなら別だが、そのように捉えられないのであれば聞く必要はないと思う。
 そして、現在の私が考えている将来は、残りの人生が決して長くはない、ということだ。人は必ず死ぬ。このことを肝に銘じて、残りの与えられた時間を有意義に過ごさなくてはいけないな、と強く考えている。本当はもっと若い時からこのような意識を持てればよかったのだが、結局、いつかはどうにかなるだろう、と高をくくってしまった。後悔先に立たず、とはよく言われるが、死ぬ瞬間になるべく後悔を少なくしたいものであると思う。
 ということを久々に訪れた元会社が改めて気づかせてくれた。会社での時間は無駄とまではいかないがもったいなかった。それがもったいなかったということを自覚し、同じことを繰り返さないということが、現在の私にとって重要なことである。

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アップル・コンピューターがまた迷走している。今度は救世主は見当たらない。 [その他]

最近は随分とアップル・コンピューターを利用している人が増えた。しかも、結構、誇らしげにアップル・コンピューターを使っている。アメリカはもちろんだが日本でもそうだ。私の若いドイツ人の友人も頑なにアップルを拒んでいたが、最近では使うようになっている。文句は言っているが、時代の趨勢には適わないようだ。信じられないことに、アップルがむしろマジョリティになっている、デファクト・スタンダードになりつつあるのだ。一昔前からは想像もできない、驚愕の事実だ。

私は1990年からのアップル・ユーザーである。当時は普通のPCの2倍もするアップルを会社の部署に導入するのに随分と課長と交渉した。当時は、一台100万円もしたので、相当、高い。しかし、どうにか2台ほど導入することに成功した。今でこそPCもウィンドウであるが、当時はそのような操作ができるのはマックだけ。画像処理のしやすさ、当時は統計ソフトSPSSが使えるなどマックは素晴らしいコンピューターであると感動したものだ。それ以来、私は一貫してマックを使っているのである。

さて、しかしマック・ユーザーはその後、まさに異教徒のような迫害との戦いを強いられることになる。基本的にはPCがウィンドウを開発した時点ぐらいから、その優越性が大きく後退していき、それまでマック教徒であった人々の多くが宗旨替えをするようになった。会社でも、マック・ユーザーであった後輩達がむしろ、マックの使い勝手の悪さを喧伝していき、まさにマック・ユーザーからすれば裏切り者以外の何ものでもない行動をしたのである。

私は一度、ウィンドウのマシンを会社から支給してもらったのだが、使い勝手があまりにも悪いのでマックに戻った。さて、しかしマックのOSはおそろしく安定せず、しょっちゅうフリーズをした。マック・ユーザーは何しろ、このフリーズとの悪戦苦闘であり、特に私のようにDTPのソフトを用いるものにとっては、このフリーズは耐え難いものであった。OS9になった時には、比較的、安定はするようになったが、それでもマックといえばフリーズ、というもうイタリア製のスポーツカーに乗っているような覚悟がマック・ユーザーには必要とされたのである。

会社でもマック・ユーザーははた迷惑な存在であるとみなされるようになり、私はマックが使える部署を探して転々とすることになるのだが、そのように移っていった部署でも私のグループしかマックを使わなくなっていた。それは、もう冷たい視線にさらされた。異教徒そのものの扱いを受けたわけである。会社でもそうだが、仕事関係は厳しかった。ファイルを共有し始めるようになったら、何か問題があるとマックだからと言われて、それは受注産業的には厳しいものがあった。また、学会でも、ある先生から「僕はマックをこの世からなくす活動をしている」と直接、言われてショックを受けたことがある。何よりショックだったのはSPSSがマックで使えなくなったことである。SPSSを使うことができたのがマックの大きなメリットだったのに使えなくなったことには大いにショックを受け、当時、SPSSに電話をして抗議をしたぐらいである(その後、マックでも使えるようになる)。

もう本当にマックに拘っている私は何だろうな、と流石に心を折れ欠けていたときにマックOS10が出されることになる。アップルから追求されたスティーブ・ジョブスが復帰し、iMACなど斬新な商品を既に出すようになっていたが、大きな決定打はこのOS10である。このOS10は、それまでフリーズしまくっていたマックがほぼフリーズ・フリーになり、使いやすさは格段に向上した。2001年頃のことである。それ以降は、マックで仕事をすることにはコンピューター的にはウィンドウズに比べても何の遜色もなくなった。大きな違いはゲームとかレジャー系のソフトがないことぐらいである。ウィンドウズで遊べるゲームはあっても、マックはほとんどない。しかし、それを除けば、マックがウィンドウに劣る点はほぼなくなったな、というのが私の率直な感想であった。

とういことで、チーターが、ピューマ、ジャガー、パンサー、タイガー、レパード、スノー・レパード、ライオン、マウンテン・ライオンと猫系の猛獣の名称がついていたOSが、突如10.9でマーベリックスと馬に変わった。私はそもそもダラス・マーベリックスが嫌いなので(ゴールデンステート・ウォリアーズのファンなので)なんか嫌な予感がしたが、実際、使い勝手が恐ろしく悪く、マーベリックスがプリ・インストールされているマックブック・プロを所有しているが、現在でもメインで使っているのは、マウンテン・ライオンのOSで動いているマックブック・プロである。マーベリックスは本当、出来が悪いな、と噴飯やるかたない気分でいたら、ヨセミテという遂に動物ではなくて鉱物のような名称のOSになってしまった。ちなみに、私は以前、コンピューターにヨセミテ、セコイア、グランド・キャニオン、ザイオン、グレイシャーなどアメリカの国立公園の名称をつけていたことがあったので(現在は世界の大都市にしている)、その気分は分からなくもないが、早く動くOSとしての名称としてはどうなのだろう、と思っていたらどうも評判が悪い。私はマーベリックスには本当、不満なのでヨセミテをインストールしようと考えていたのだが、どうもネットの評判からだと、ヨセミテはマーベリックスよりも悪いようなのだ。何なんだ。

スティーブ・ジョブスが亡くなった時点で、マッキントッシュには暗雲が垂れ込めていたが、予想通り、どんどんと悪くなっていく。アップルは金儲けを考え始めると失敗をするのだ。新しい社会ビジョンを提示しよう、新しい仕事の仕方、新しい生活の仕方を創造しようと考えてこそ、結果的にうまくいく会社である。情報を占有していた人達から解放したのはインターネットというシステムである。コンピューターは技術を人々が共有し合ったことで発展してきた。それなのにアップルは今、ビッグ・ブラザーのような立ち振る舞いをしている。自分達が壊そうとしたものに、自分が成り代わろうとしているのである。スティーブ・ジョブスには良くも悪くも、そのような考えがなかった。

頻繁に無駄なバージョン・アップを繰り返し、そのたびに消費者から金を搾り取り、それで状況がよくなればいいが、むしろ悪くなっている。こんなビジネスを誰が支えると思っているのだろうか。成功は失敗の要因である。アップルが以前と同じ轍を踏んでいる現状は嘆かわしいが、前回とは違って、もうスティーブ・ジョブスが復帰して救ってくれることはない。本当、どうにかしてもらいたい、と個人的な事情から強く願う。

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今どきの大学生の夢は「結婚して家庭をつくること」? [その他]

 ひょんなことから、私の演習を受けている学生に「人生の夢って何?」と尋ねた。すると、「味の素スタジアムに近い家に引っ越したい」(FC東京のファンらしい)、「とりあえず自分の親のように平和な家族をつくりたい」、「家族をつくって土曜日は子供のサッカー教室で教えたい」、「結婚して家族をつくりたい」といったような回答ばかりが返ってきた。一人だけ、「銀行を買収できるぐらいお金が欲しい」というのがあった。この彼だけ、ちょっと見込みはあるかもしれない。私は大学の教員を12年以上やっているので、昔だったら「お前等、おかしいだろ」と一喝していただろうけど、最近ではにこにこ聞いている。そうすると、学生が「先生の夢は?」と聞いていたので、
・ NBAのチームのオーナー。できればゴールデンステート・ウォリアーズ
と答えた。しかし、ちょっと考えていたら、もっといろいろと出てきた。
・ 椎名林檎と二人で世界一周旅行
・ 椎名林檎のコンサートのバックでギター演奏
・ これまでの人生で作曲した曲のCD製作。できれば椎名林檎に歌って欲しい
・ くるりのメンツとジャム・セッション
・ クリチバのジャイメ・レルネルの「都市の鍼治療」の映画製作
・ クリチバの中村ひとしさんの伝記の映画製作
・ ライブ・カフェ(兼スタジオ)の経営
・ 100名山踏破
・ 下北沢本の執筆、出版
・ ペネロペ・クルーズかヘザー・グラムと黒川温泉への3泊デート
・ ポール・マッカートニーと銀座の次郎に寿司を食べに行く
・ すごくエコな自宅を設計して建設
・ 東京の都市計画をオースマンばりのトップダウンで描いて実践する(自分はブラジリアやコルビジェの「シティ・フォア・トゥマロー」を批判しているのにね)
・ 首都高速道路の山手線の内側はすべて壊す
・ グランドテトン山登頂
・ 日本中の原発を即、廃炉
ううむ、随分と実は欲張りですね。しかし、もう少し、考えたらさらに出てくるでしょう。これらの夢はほとんど荒唐無稽のものもあれば、まあ、少しは実現できるかもな、と図々しく思っているものもある。少なくとも、ビジョンを持っているので、持っていないよりかは実現に近いだろう(いや、距離は相当ありますよね。そもそも、椎名林檎なんて、コーヒーを一緒に飲む機会を持っただけでコーヒーをこぼしそうだ)。どうも、30代後半の私は、「死ぬまでに一冊、本を出す。それが夢だ」と家内に言っていたそうだ。39歳でどうにか本を出した私は、その後、岩波書店のものも含めて単著で6冊出した。今年の夏には、共著ではあるがRoutledgeから、念願の英文での本も出す。幸運であったこともあるが、夢を持っていなければ、チャンスを掴むこともできない。
 若くして大成した人達は、将来のビジョンというか青写真を若い時点でしっかりと持っている。私は大学受験も失敗した、というかあまり若い時には勉強もしなかったこともあるが、それでも、漠然とはしていたが、もう少し自分の将来ビジョンを持っていた。もちろん、会社に入ったら、あまりにも自分のイメージとずれがあったり、企業派遣の留学にも一度は落とされたり、大学時代の彼女とは自分の我が儘というか、彼女への有り難みをあまり理解しなかった傲慢さ故に別れて、その後、理念なき彷徨をして大いに疲弊したりする。それでいても、曖昧模糊としてはいたが将来を考えようとしていた。まず、確実にそのうち死ぬ、ということは強く意識していたと思う。この世に生きているということが、信じられない奇跡であり、生かさせてもらっているというこの幸運を最大限に活かすべきである。そういう気持ちは、疲れていたり鬱の時は忘れてしまったりするが、本当、人類とか社会とかに還元するような何かをしたりするといいと思う。自分が生きてきた証のようなものを、形でなくてもいいけど残せるように、生きている間は頑張ればいいのにと思う。その証的なものが「夢」なんじゃないだろうか(椎名林檎と世界旅行、というのは、極めて消費的な夢ではありますが)。
 そのために若い時は頑張ればいいのに、とそれほど頑張らなかった自分は思ったりするのだが、そもそも「家庭をつくるのが夢」だからな。いや、「暖かい家庭をつくる」ということは、全然簡単ではないと思うし、それなりに立派なことだとは思うが、夢として位置づけることではないよね。それは、「会社で働く」とか、「立派な社会人」となるということに近い。しかも、自分が頑張っても相手が頑張らないとうまくいかないし、そういう点では自分でコントロールができないので、夢としても相当、他力依存で質は悪い。ちなみに、私は比較的、普通の家庭を築けているかもしれませんが、それは控えめにみても8割は家内のお陰です。しっかりと私が稼いでいるという点では、私も貢献しているかもしれませんが、それぐらいでしょう。その成果はほとんど家内のもので、私はそういう意味ではラッキーかもしれません。しかし、この普通の家庭が、私の夢?という感覚は、まったくもって共有できない。それは、とりあえず給料をもらえる仕事をしている、ということと同じじゃないのか。
 というか、「家庭をつくるのが夢」な人達が、大学で勉強することって何だろう。家政学科のような気分で経済学科に来ているのだろうか。私じゃなくて家内の講義を聞くべきだろう。しかし、家内が講義で話せるような内容などあるのだろうか。
・ 子供を愛しなさい
・ 旦那は自由にしなさい。しかし、行き過ぎたら身体を張って怒りなさい
・ 自分のものにお金を使うのは我慢しなさい 
 私は、家内は凄いな、と感心はするが、自分で同じことが出来るとは思えない。少なくとも多くの学生は、私のゼミでさえ最後まで付き合えないのに、そんな根性で「いい家庭」が持てるわけないじゃないかと思う。暖かい家庭を築く、というのは相手に我慢、妥協を積み重ねていくことである、ということを、まったくもって暖かくない家庭で育った自分は痛切に思うのである。
 というか、話が逸れてしまったが、おそらく「夢」というのは、その人の人生を次のステージに上げるための重要なエンジンであるのではないだろうか。その「夢」があまりにも小市民的であるということは、エンジン自体も非常にぼろいというかちんけなものであるということだ。そして、そのようなビジョンしか持てない人は、言い方は厳しいが魅力もないし、会社に入った後、大変なんじゃないかなと心配である。

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世田谷文学館に岡崎京子展に行く [その他]

 天才漫画家である岡崎京子の展示会があるので世田谷文学館まで行く。芦花公園が最寄り駅である。歩いて5分ぐらいだ。世田谷文学館に来るのは初めてであったが、さて、入館料は800円。文学館の展示にしては高いなとの印象を受けたが、内容は相当、充実していた。岡崎京子の作品を体系的に理解できるような展示がなされているのはもちろんのこと、彼女の人格までもが浮き彫りになるような展示に、キューレターの岡崎に対する深い理解、シンパシーを感じることができ、私もわくわくとさせてくれるような内容であった。
 ちなみに平日であるにも関わらず展示は大盛況。多くは若い女性であるが、高齢の女性もいた。男性はほとんどいなく、いたとしてもデートに付き合わされたという感じであった。ちょっと中年男性一人というシチュエーションは浮いたが、そこはおやじ。周りの目を気にせず、自分の好奇心が赴くままに展示を楽しんだ。
 ちなみに、私は岡崎京子と同年生まれで、しかも彼女の生まれ育った下北沢を研究しているので、この展示会をみるのはマストであった。そして、その予想通り、私の大きな期待に応えてくれた展示であった。3月31日までなので、関心のある方はお早めに。
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週刊SPA!を久し振りに読んだら、その面白さに嬉しくなった [その他]

 サラリーマン時代、週刊SPA!を愛読していました。大学に転職して、取材の依頼が来たときは随分と喜んだものです。さて、キオスクが開業している時間帯に久し振りに地下鉄に乗ったので、思わず「40歳までにやっておくべきこと」の見出し特集につられて、これまた久し振りにSPA!を購入したらめちゃくちゃ面白い。思わず、打ち合わせ先の駅を降り損ねるぐらいでした。まあ、私はもう50歳を過ぎているから、参考には全くなりませんが、それなりに同世代が、40歳前後の人達に対して発するメッセージは含蓄深い。自分が経験して、初めて分かることって多いから。そうそう、私は39歳で転職しましたね。これは、まったくの正解でした。個人的には「やっておくべきこと」ナンバーワンかもしれない。
 私の転職は父親が強く諫めましたが、父親のいうことを無視して本当によかった。というか、ここで諫めるかね、と私は父親の馬鹿さ加減に呆れていましたので、まったく参考にもしませんでした。保守的に生きることが悪いとは思いませんが、チャレンジしないで面白くない日々を、ちょっとしたサラリーマン的な日常を維持するためにする価値があるのでしょうか。父親は今はとうに亡くなっていますが、当時のことを思い出すと、今でも腹が立ちます。チャレンジすることで、新しい自分が発見できますし、自分の可能性が初めて開かれます。もちろん、そのチャレンジに失敗する人もたくさんいるでしょう。しかし、チャレンジしない人は、きっと死ぬ時になって本当に悔やむと思う。チャレンジした人は、ついていないと思うかもしれないが、チャレンジしたことを悔やむことはないと思う。
 人生一度きりですから、悔いがなく生きたいところです。ところで、SPA!の特集に話を戻すと、やっておいて正解だったは「子供つくる」「家族とのコミュニケーション」「マイホームを購入する」「子育てに積極的に関わる」・・・って、家庭がらみばかりではないか。逆に、やらなくて後悔したことは「習慣的に運動する」「長期的なマネープランをきちんと立てる」「貯金する」「キャリアプランをしっかり立てる」「英語の勉強」「日頃からよく歩く」・・・。まあ、これらはしてないと後悔するのでしょうが、しても正解だったとは思われないことだと思う。
 まあ、久し振りに人生を振り返る機会を与えてもらった。SPA!的な世界からちょっと離れて生活しているが、ちょっとこういうサラリーマン人生のエレジーも懐かしい。戻りたくはないけど。
 
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オヤジ達の若者への勝手な幻想 [その他]

 私はゼミ生を、いろいろとNPOや地元の商店会などと協働してプロジェクトをさせている。そうすると、おじさん達は結構、刺激を受けて、反応する。その反応は大きく3つぐらいのタイプに分類できると思われる。いろいろと教えてやろうとお節介をするタイプと、自分の偉さを分かってくれるかもしれないと思ってお説教するタイプと、若者から何か斬新なアイデアが得られるかもしれないと期待するタイプだ。
 一番目の「いろいろと教えてやろうとお節介をするタイプ」は比較的、若者にとっては無害である。いや、本当は何も教えるような知恵も知見もないような元大学教授などが教えようとするのは、有害だなと思う時もあるが、まあ、このタイプは馬耳東風攻撃をすることができるから大丈夫である。中には、本当にいいことをいってくれる人もいるので、若者の方でうまく取捨選択すればいい。まあ、この取捨選択が難しいので、結果、若者は全部、暖簾に腕押しのように受け流してしまう場合が多いのだが。
 二番目のお説教タイプは、悪いけど、若者にはまったくもって有害だ。というか、どうして、そんなおじさんというかおじいさんのご託に若者が貴重な時間を割いてまで付き合わなくていけないのか。私だったら、まったくもって嫌だね。しかも、このおじさんはさんざん自慢話とお説教をしたあげく、ゼミ生が自主出版をした雑誌を買うことを拒んだりする。いや、悪いけど話を聞いてあげた礼として買うべきでしょう。
 三番目は、若者に過剰な期待をしてくれるおじさん達で、ある意味で有り難いのだが、問題は若者は斬新なアイデアを持っていたりしないことだ。若いとクリエイティブだと思ってくれているらしいが、若くてクリエイティブな人は確かにいるが、それはごく少数だ。黒人だからバスケがみな、上手いわけではないのと同様に、クリエイティブな若い奴もいれば、そうでない奴もいる。そして、バブルで適当にいい加減な仕事をした経験のある世代の方がクリエイティブな人の割合が高い。私は、ほとんど滅多に私よりクリエイティブな学生に出会ったことがない。私のクリエイティブさに学生をついてこさせるのに苦労しているくらいだ。面白いぐらい、杓子定規なことしか言わないからね!少ない在庫から、一生懸命引きだしてくるのが関の山で、自分で新たに考えようともしない。
 というように考えると、本当、おじさんと若者の相性は悪いなと思わずにはいられない。

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成田空港がどんどんと不便になって、羽田空港がメインゲートになる日も近い [その他]

成田空港がどんどんと不便になっていく。羽田空港が国際空港として、どんどんと便利になっていくのとまさに対照的である。特に第二ターミナルの不便さは顕著だ。これまで、第二ターミナルの2階には、三菱東京UFJ銀行と郵便局があった。これら二つともなくなって、今では千葉銀行しかない。ATMも小銭は受け付けない。なんか、だんだん国際空港の風格がなくなって、地方空港のような感じになっているような気がする。第一ターミナルはまだましだが、なぜか入っている店舗が飛行機に乗る客ではなく、成田空港に遊びに来る人を想定したようなテナント・ミックスになってしまっている。例えば、コンセントのプラグを売るような電気店がなくなったりしているのだ。何か、とても外しているような気がする。というか、羽田空港を国際空港としての格をもたせるために、あえて成田空港をみすぼらしく駄目にしているようにさえ思える。

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きゃりーぱみゅぱみゅを断るのに盗撮して、塩対応とかツィートしたファンは猛省すべきだろう [その他]

きゃりーぱみゅぱみゅが許可なく写真を撮るファンに対してツィッターで苦言を呈した。この盗撮ファンは「渋谷できゃりーを声をかけたのに塩対応(素っ気ない態度)だった」という内容のつぶやきまでした。これは酷い。きゃりーぱみゅぱみゅは、「こういう人には塩対応だよ。写真も断ったのにさ」とツィートしたが、当たり前だ。嫌がるのに写真を撮影して、にこやかに対応できる訳がないだろう。

盗撮されるというのは本当に不快だ。私もたまに学生に盗撮される。旅行で、私がアホ面を晒して寝ているところや、ちょっと油断をしているところなどだ。たいてい、女の子である。中年オヤジがちょっと、面白いのであろう。その年取っただらしなさとか、もう枯れている緊張感の無さとかが、いい笑いのネタとして使えるのだろう。ブルドッグなどの不細工犬のような可愛さとかと通じるものがあるのかもしれないが、撮られた方は本当に不愉快だ。ましてや、タレントのようにイメージで商売しているものにとっては、そのイメージを他人に管理されるのはたまらないであろう。しかも、あらかじめ断っているのに、何を考えているのだろうか。

というか、盗撮とかは、本当に人を馬鹿にしている行為だと思う。本人を被写体として意識せずに、風景の一部で撮ってしまうのならともかく、その本人を撮影することを意識した盗撮は卑怯であると思う。
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「学生と遊んでばかりいないで、もっとまともな事をしないと駄目だろう」という発言で私は奮起してきた [その他]

 私の大学での同級生が昔、私に言った言葉。「学生と遊んでばかりいないで、もっとまともな事をしないと駄目だろう」。私は39歳で大学に転職したのだが、その前の社会人としての仕事が「まともな事」だとはとても思えない。それは、具体的には国民からむしり取った税金をいかに中央政府が使い切るか、ということを支援するような調査報告書をつくるような仕事であった。だから、その会社を辞めて大学の教員になったことはまったくもって後悔していない。学生の面倒をみた方が、国家公務員の面倒をみるよりまだ「まともだな」と思ったし、建設的であるとも思ったからである。実際、会社人の12年よりも、大学教員の12年の方がずっと有意義であるし、仕事は楽しかった。それが「まともな事」かと堂々と言うようなことはしていないが、すくなくとも会社人の仕事は顧客を含めて、ほとんど感謝されていないが、大学教員は一握りかもしれないが私の仕事を感謝してくれた人達が存在する。
 とはいえ、大学の教員になって12年経つ。たまに学生の面倒をみていると辛くなる時がある。学生は裏切るのが得意だ。私の周辺の教員はほとんど学生を信じていないし、半数以上が敵視している。私もたまにそのようなアプローチを取った方が、いろいろな面で効用が高く、精神安定上もいいのかもしれないと思ったりする時もある。とはいえ、そういう時は、この同級生が言った極めて屈辱的で、人を馬鹿にした言葉を思い出して、ここで屈したら駄目だと思って踏みとどまるようにしている。
 広い心で、裏切ったり姑息な行動に走る学生を受け入れる度量が欲しい。まあ、そういうことも私へのチャレンジだと思って、踏ん張ろう。私が伝記を書かせてもらった中村ひとしさんはまさにそういう人であった。そうそう、私はこの12年間で、学生達からも相当、学ばせてもらっている。それによって、狭かった視野も広がったし、人間の幅も豊かになったと思っている。私自身、内面を拡げることができた。確かに社会に還元していないと言われればそうだが、別に会社人をしていた時に、どの程度、社会に還元していたかは甚だ疑問だ。少なくとも、会社員時代の12年間には本は1冊しか出せなかった(しかも、ゴーストライター)が、大学の12年間では12冊は出している。これらの本のうちの数冊は、学生と遊んでいるから書けたものである。
 ということで、確かに「まともな仕事」ではないかもしれないし、たまに、本当、自分が馬鹿を見ているなと思う時もあったりもするが、世の中、そういう馬鹿も必要かと思って、踏ん張るしかないな。
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ゼミ生が辞めるといった理由に関して、ちょっと考える [その他]

 ゼミ生が辞めると言ってきた。理由を聞くと、「意味が見いだせないから」だそうだ。それじゃあ、生きる「意味」は何なのか教えてくれ、と言ったら学生は答えられなかった。当たり前だ。「意味」が何かが分からないから、我々は勉強するのだ。そのプロセスの「意味が見いだせない」というので放棄するのは、根源的に間違っている。まあ、おそらく他に理由があるのだろう。私が嫌いとか、私と離れたい、とか。そういうことは理由として言えないのだろうが、私としては、「意味が見いだせない」というより、まだそちらの方が、納得がいく。この学生は、人間的には私が苦手なタイプではあったが、意味が見いだせない中でも活動をしていることで見えてくることはたくさんある。霧で視野がぼやけていても、歩いて行けば目的地に着く場合もあるのだ。最近の若者は、インターネットなどが普及したことで、簡単に答えが得られたり、簡単に納得できたりするようなことでないと取り組むことができないものが増えている。そういう意味で、辞めたことは残念である。
 私の趣味は楽器演奏とスキーである。どちらも、うまく演奏したり、上手に滑られたりするようになるためには、日々の鍛錬と練習を積み重ねることが求められる。一朝一夕では出来ない。努力をしている時は、なんかつまらないと思ったり、こんなことで上手くなるのかと疑問に感じたりもするが、そこで辞めると決して上達することはない。私は楽器演奏もスキーも、今ひとつであり、この年齢になっても足掻いているのだが、それでも途中で辞めていたら、今ほども出来なかったことは確かである。最近、出した本も、ほぼ書き上げてから出版に漕ぎ着けるのに5年もかかった。ただ、その展望が見えにくいからといって途中で放棄したら何もならない。
 私はこの学生が、もう少し、ゼミにいることで見えてくるものもあるのではないかと思ったのだが、辞めてしまったら、何も見えない。まあ、ゼミや私を全否定して自分を正当化するというのは、一つの方法論であるかもしれないが、本来は対立的構図ではなく、ゼミは自分を取り巻く環境、社会であるという認識をもってくれればよかったと思う。
 この学生はゼミを辞めてすっきりしたのかな。まあ、すっきりして前向きに生きていけるのであれば、それでもいいが、そうでなければ残念である。人生の大半、そうそう納得して生きていけるものではないからだ。
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劇団カラーチャイルドの「オールディース」を観劇する [その他]

劇団カラーチャイルドの「オールディース」を赤坂グラフィティにて観劇する。知り合いが出ているからだ。私は観劇の趣味がまったくないのだが、役者と知り合ったおかげで彼女が出演するものはスケジュールがあえば観に行くようにしている。そして、観に行くと結構、楽しむ。とはいえ、また日常の些事に追われて、他の劇を観に行くようなことはしない。まあ、そんな私であるが、劇の魅力というのは、やはり臨場感だなと思う。これは、私がパフォーマンスとしては最も関心を持っているロック・コンサートとかと近いノリがあるかと思う。あと、人前で、人の関心をしっかりと惹きつつ演じるというのは大変努力がいることで、なかなか難しいことだと思うのだが、そこらへんをしっかりできている役者は流石だなと思ったりする。私も、人前でパフォーマンスするという仕事だと言えないこともないので、結構、そういうテクニックを学べたらと思ったりする。私の聴衆の方が、より厳しいとは思ったりするが(そもそも聞こうという意志がないからな)・・・。
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香川大学で開催されている全国学生カフェサミットに参加して、フィールド・ワークをすることの教育的意義を再確認する [その他]

香川大学で開催されている全国学生カフェサミットに参加した。全国で、授業、ゼミ、ボランティアなどでカフェ運営に携わっている大学生達が一堂に集い、その事例報告をし、交流をするというイベントである。うちのゼミも、「ユルカフェ」の報告をした。我々以外だと、敬和学園大学(まちカフェりんく)、一橋大学(Café ここたの)、山梨大学(Café Flat)、名古屋学院大学(Café & Bakery Mile Post)、滋賀県立大学(おとくらプロジェクト)、京都文教大学(文教カフェAntenna)、和歌山大学(Café With)、神戸松蔭大学(リースフェン)、広島経済大学(HUE café Time)、九州大学(Global Café いとをかし、cultural Cafe)、大分大学(安心院、竹田)、香川大学(和café ぐぅ、喫茶白鳥)である。

山梨大学などの例外はあったが、ほとんどの大学が、大学側から多大なる経済的支援を受けている。そして、そのような支援を行っている大学は、文科省から補助金をうまく受け取っている。例えばマイルポストというカフェを2002年から運営している名古屋学院大学は、2007年度〜2009年度までの文部科学省「現代GP」では約0.7億円、2013年度〜2017年度までは「大学知の拠点整備事業」で約2.2億円も補助金を受けている。さらに全学共通のCOC科目である「まちづくり学」、「まちづくり演習」が開講され、マイルポストとの連携事業が行われる予定である。

そういう話を聞いていると、徐々に苛立ちを感じる自分がいることに気づく。というのは、私は一切、そのような経済的支援を受けることがなければカリキュラム的な支援もないからだ。他の大学は、地域との連携を強化させるそのような活動を支援し、促進させることで、大学の社会におけるプレゼンスを高めようという動きがあるのだが、うちの大学はそういうことがまったくない。ないどころか、おそらく私が何か事件があるのを待っていて、カフェ等で事件が起きたら、ここぞという感じでバッシングを行うであろう。ということで、そうであれば何もやらなければいいのだが、なぜかやってしまう自分がいる。

そして、このようなカフェサミットで他大学の取り組みなどを知ると、大学の考えとは別に、社会にフィールド・ワークの場を求め、それを通じての実践的教育の意義を再確認させられる。我々のような取り組みを、某有名大学の先生は「中学校のようだね」という感想を述べたことがあるそうだ。私も大学時代の同級生に私のフィールド・ワーク中心の取り組みに対して「なに、学生と遊んでばかりいるんだ」と侮蔑をこめて言われたことがある。

確かに、おそらく私がアカデミック的には今ひとつであるという指摘は正しいであろう。しかし、私が今ひとつであるからといって、学生にとってカフェをやることが今ひとつという訳ではない。むしろ、そういう批判をした同級生が「大学での講義で教わったものは価値がない」などという大学への非難への対応として、我々はカフェのような試みをしているからだ。ただ、私が苛立っているのは、このような試みを、大学の地域連携などと組み合わせることで相乗効果が期待できるにもかかわらず、そういう意識を私が奉職している大学が持てないということから来ている。

そして、実際の現場を知らない、知ろうともしない人達が、適当なプログラムを脳内だけでイメージしてアウトソーシングだけで実践しているということに対して、苛立っていた潜在的な気持ちが、他大学の取り組みを知ったことで顕在化してしまったのである。まあ、私の大学がどうなっても致し方ないが、せめて私と関係した学生達には、しっかりとした機会を提供したいと思っている。そういうことを考えた、全国学生カフェサミットであった。
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セミナーのコーディネーターを務めて、勉強することについていろいろと考える [その他]

先週、東京フォーラムでセミナーを開催した。パネル・ディスカッションも行った。パネリストは早稲田大学の若林先生、東京大学の大月先生、そして読売広告社都市生活研究所所長の榎本氏。私はコーディネーターという役を務めさせてもらった。私はコーディネーターがあまり上手くない。昨年も、あるセミナーでコーディネーターをさせてもらったのだが、パネリストの三浦展氏から「もうちょっとしゃべりを勉強した方がいいよ」というアドバイスをもらったり、またセミナーのアンケートでも「コーディナーターが下手」などの意見をもらったりする始末である。ということで、今回もちょっと心配がないわけではなかったのだが、私の関心があるテーマということもあって、うまくできたかはともかく、結構、個人的には楽しめた。

よくよく考えると、私が郊外論を勉強したのは、Dolores HaydenやPeter Calthorpe、さらにはLewis Mumfordなどアメリカの論客によるものが中心であったが、その後、30代半ば以降は、前述した三浦氏が上司となったこともあり、三浦氏に文献を読み、また彼から多くの薫陶を受けた。私は、彼と知り合う前から「大いなる迷走」を読んで、感銘を覚えていたので、彼の下で働くことになった時は喜んだものである。その後も三浦氏の出す本はほとんど読んでいる。

さて、しかし、私が郊外論で影響を強く受けたのは、三浦氏だけではない。三浦氏以外の筆頭が、若林氏であった。私は若林氏著、もしくは編著の『東京スタディーズ』、『郊外の社会学』、『熱い都市・冷たい都市』、『郊外と現代社会』などを若い時に読んだ。また、若林氏がこれらの著書で引用した本、『リバースエッジ』、『空中庭園』などはすぐ購入して、今では郊外論を考えるうえでのバイブルのように私も講義やエッセイ等で引用させてもらっている。15年くらい前に、東京都の講演会で彼と一緒に講演をさせてもらった時は、本当、緊張した。若林氏のような正統派の学者と私のようなどこの馬とも知らないものが、同じ立ち位置で講演するということに、自分自身が違和感を感じたことを今でも鮮明に記憶している。

それから15年経ち、再び若林氏とセミナーを一緒に行うことができた。この15年間で、若林氏の足下には到底及ばないが、私も少しは研究成果を出すことができ、学会賞ももらったりして、なんちゃって大学教授として多少は認められつつあるような気もしないでもない。ということで15年前に比べると、今回は、多少はいろいろとお話もできたりした。とはいえ、相変わらず圧倒的な知識量の差に愕然としない訳ではない。このような差は一生、埋まるものではないだろうが、少しでも近づけるように勉強するしかないな、と思ったりもする。他人との差を意識して落ち込むのではなく、自分を少しでも高めるために勉強をする、ということを50歳以降も続けることが重要なのではないかと思う。こういうことを意識できることが不惑を迎えるということなのかもしれない。


リバーズ・エッジ (Wonderland comics)

リバーズ・エッジ (Wonderland comics)

  • 作者: 岡崎 京子
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2000/01
  • メディア: コミック




空中庭園 (文春文庫)

空中庭園 (文春文庫)

  • 作者: 角田 光代
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2005/07/08
  • メディア: 文庫




東京スタディーズ

東京スタディーズ

  • 作者: 吉見 俊哉
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2005/04
  • メディア: 単行本




郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

  • 作者: 若林 幹夫
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 新書



タグ:郊外
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無事に、病院を退院する [その他]

無事に、病院を退院することが出来た。おたんこナース、激まず病院食などで結構疲れたので、家に戻って来られてホッとしている。しかし、10泊の入院生活でこれまで見損ねていたDVDを14本鑑賞できたし、また本も5冊ほど読むことができた。さらには、出版予定の本の仮ゲラの校正もできたので、そういった意味ではなかなか有意義な10泊であったのかもしれない。しかし、有意義だなと言っていられるのは、何より手術が成功したからであり、また手術がうまくいったので術後の経緯もすこぶる上手く進んだから出来たことで執刀医には感謝の言葉しかない。

さて、何か退院して、外の空気を吸うとまさに娑婆に戻ってきたようだ。生き返ったというか、新たな命をもらい受けたような有り難い気持ちである。手術の傷跡はたまに疼くし、まだ食事の制限などもあるが第二の人生的な気持ちになる。生きていることが必然ではなく、偶然であること。そして、その偶然性を感謝して、日々を大切に生きていくことが重要であるなと改めて思う。

ということで、あまり脈絡もないのだが、今後もこのブログも宜しくお願いします。
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大学病院の食事の不味さは、生きる希望をも失わせる [その他]

大学病院に入院している。ここの大学病院で驚くのは、食事が想像を絶するほど不味いことである。しかも、栄養や健康面を考えて不味いというのであればまだ理解できるのだが、何か、ろくでもない化学調味料とまではいかないが、それほど身体によくないものを使って不味くなっているような気がする。私は料理の素材そのものよりも、ドレッシングとかマヨネーズの類がとても美味しくないと感じるのだ。非常に安物を使っていると思われる。さらに、ワインゼリーとか訳が分からないものが出てくるのだが、これはほとんど化学的につくられた代物であった。料理と呼べるのか、とも思う不味さだ。甘ければいいというものではないだろう。

この大学病院の食事はすべて業者に外注化されている。この業者は森永製菓との関係が強いようで、牛乳も森永、ヨーグルトも森永、おやつのクッキーもマミー・クッキー、ココアも森永のココアなどが出てくる。別にこれらが不味いとは思わないが、病院での食事では不適切ではないかと思うのは私だけではあるまい。

つまり、不味いだけでなく、健康面でもとても適切ではない料理が出される。私はまあ、これでもバリウムよりは美味しいと思って薬のつもりで食べてはいるが、食事というのは生きていく喜び、生きる希望をも与えるものであるかと思う。私は、とても悲しい気持ちになると料理をする。料理は、心をヒーリングする役割を持っていると思う。入院をしていると、多くの患者は非常に落ち込んでいる。生きていく希望をなかなか持ちにくいし、入院中に楽しいことはほとんどない。そういう中、唯一の楽しみとも思える食事が、逆に惨めな気持ちにさせるようなものにしている、ということは本当、大学は患者視点が欠如しているなと思わずにはいられない。いや、私は今回、この大学病院に入院して手術をして本当によかったとは思っている。不味い食事とはいっても、それほど食べる機会もなかった(出来なかった)ので、大して自己嫌悪に陥るほどのものではない。しかし、患者によっては1ヶ月ほど入院する人もいるのである。この生きる希望を失わせるような食事は、どうにかならないかと強く思うのである。というか、基本は不味い云々というよりも、人に食べてもらう、という意識がまったくないような料理が出てきていることが問題だと思う。大学病院の患者というのは「人」として思われていないのか、そのような疑問が浮かぶような料理なのである。不味くても栄養面に配慮しているのだな、と分かるようなものであれば納得できる。そういうものでも全くないものが、なぜ、病人に出されるのか。この点は、コスト・カットせずにコストに反映させても十分、市場は受け入れるとは思うのだが、大学病院は国立なので難しいのであろうか。大いなる疑問である。

私は流動食を食べていたのだが、お医者さんが「不味いですけど、頑張って食べて下さい」と言うのに思わず、「いや固定が十分に不味いので、流動食で不味いというのではなく、元が不味いので不味いだけだと思います」と言いそうになってしまったぐらいだ。流動食は美味しくはないが、私は全然、食べられている。

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(身体にいかにも悪そうなパッケージのゼリー)
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入院しておたんこナースに悩まされる [その他]

某大学病院に入院している。大学病院というのは入院先としてはあまり好ましくないと思われる。というのは、研修という大きな目的があるために、看護ということの優先順位が低いから、いわゆる医療というサービスの質は決して高くないからだ。私の場合は、手術をする執刀医がその分野ではパイオニアに近く、腕も確かなので、大学病院に決めたので納得しての入院ではあったし、実際、手術に関してはもう完璧に近く、予後も極めて快調に推移している。ということで、その点ではまったく満足しているのであるが、それ以外は結構、不満が多い。病室のアメニティはよいのだが、まず看護師。私の大雑把な感想ではあるが、2割ぐらいが嬉しくなるような対応をし、5割ぐらいがおざなりなルーティーンな対応をし、2割が患者というのは弱者であることを自覚させられるような対応をし、最後の1割がおたんこナースである。これらの中で最も怖いのはおたんこナースであることは言を俟たない。

私が遭遇したおたんこナースはやる気満々であった。そもそもおたんこナースの条件の一つは「やる気がある」ことなので、当然ではあるのだが、立派な看護師になろうという気持ちが強く、そのために、勝手に気を利かせていろいろとやろうとする。すぐ、何かしたがるのだ。例えば、尿道に入れた管などもすぐ取りたがる。これは、私も以前、経験があるので取ると相当の痛みが走るので躊躇していたのだが、自分の経験値を上げたいのか、平気でやってしまう。まあ、これは何とか取れたのだが、その後、しばらく尿道を尿が通ると痛いので尿が出ない。すると、「尿が出ないならまた管を入れないと」とか訳が分からないことを言ってくる。管を入れていたから尿が出ないのに、また入れたらさらに自力で尿を出せなくなるだけではないか、と思わず怒鳴りたいような気持ちにさせられる。仕方がないので、激痛に耐えて、頑張って出して、再び管入れされることだけは避けた。

次の日は点滴の場所を変える日であった。これは、お医者さんがする仕事なのだが、私の点滴の出が悪かったため、どうせ今日、変えるのだからもう一度、刺し直しましょう、と言ってくる。そんなもんかな、と思っている私をよそに、彼女は点滴を抜いてしまった。そこまではいいのだが、どうも点滴をどこに刺していいのか分からず困っているような表情をしている。顔も緊張がありありだ。そして、「そこかよ」と思うようなところに刺して、結局、入れることが出来なかった。私には痛みだけが残った。また、場所を探し始めたので、流石にこのおたんこナースの実験材料では私はないぞ、という怒りがふつふつとわき上がり、「○○先生、呼んでよ」と彼女の処置を拒否した。

流石に、私の怒りを察したらしく、○○先生を呼びに行ってもらえたが、先生も忙しいらしく、私が再び点滴を受けたのは1時間近く後であった。いくらいい執刀医がいても、おたんこナースに殺されてしまうと私は大学病院での入院のリスクを改めて感じ取った次第である。恐るべし、おたんこナース。

ちなみに、その後、○○先生に問題なく点滴の注射針を入れてもらった私に対して、おたんこナースはまったく悪びれた様子もなく、「ほう、ここに刺したのか」と感心していたのは言うまでもない。

そうそう、知らない人にお伝えしますと、おたんこナースとは佐々木倫子氏の漫画です。漫画は面白いですが、現実に出会うと全然、面白くありません。とはいえ、久々におたんこナースを読みたくはなりましたが。


おたんこナース 全巻セット (小学館文庫)

おたんこナース 全巻セット (小学館文庫)

  • 作者: 佐々木 倫子
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2011/03/01
  • メディア: 文庫



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2014年を迎えて [その他]

あけましておめでとうございます。2013年は、3年越しの単行本である『若者のためのまちづくり』を岩波書店から上梓することができ、また、全国まちづくりカレッジ大会をゼミ生が主体でしたが幹事校として開催することができ、さらに長年の希望であったコミュニティ・カフェであるユルカフェを期間限定ではありますがオープンすることができ、加えて4月からですが、これまた長年の願いであった商店街の中でのラボ(研究所)を木曜、金曜と限定ですが持つことができ、そのラボで商店街の「ユルキャラ」を企画し、コンテストも行い、無事、決定することもできました。そして、これらの活動が年末の12月30日の日経新聞の全国版にて紹介されるなど、振り返ってみれば結構、充実した1年間であったのではないかと思います。これもひとえに皆様の御支援などがあったからだと感謝をすると同時に、このような成果は一朝一夕で出るわけではなく、これまでの11年間の大学生活での活動がようやくある程度、形になったのかなとも思います。桃栗三年柿八年、石の上にも三年ではないですが、まあ、ゼミ生抱えて十一年、ということでしょうか。

さて、自分的に振り返ると成果の多い一年だったかもしれませんが、マクロな環境でいえば、決して楽観視できません。職場もそうですし、何より国が変な方向に走っています。秘密情報保護法案、原発再稼働といったきなくさい動きばかりが目立ちます。私も最近、司馬遼太郎を読み、日本の戦前の歴史の勉強をしています。日本は同じ道を繰り返し、歩んでいるような気がしてしょうがないからです。しかし、司馬遼太郎をはじめとし、忌野清志郎、高木仁三郞など、今の日本の状況を知ったら憤死するような方々が故人となっているのは、本人にとってはどうかは分からないが、今の日本にとっては不幸であると残念に思います。

まあ、自分ができることしかできないが、これからもしっかりと自分ができることをこつこつと、命がある限り、やっていくしかないんだろうな、という気持ちで、強くなっていく一方の逆風に飛ばされないように前進するしかないと考えています。あまりめでたい気持ちになれない2014年の元旦ではありますが、これからもブログともどもよろしくお願い申し上げます。

日経新聞2013.12.30.jpg
(2013年12月30日の日経新聞の全国版にゼミの紹介記事が掲載されました)
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自販機による新幹線の指摘席の配分は顧客への配慮が不足していると思う [その他]

新幹線で岡山から品川へと向かう。窓側か3列の席の通路側であれば、指定席で券を買おう、そうでなければ自由席を買おうと考えた。自販機は、窓側は満席であると示している。そこで、これは通路側でも3列の通路側、つまりC列を買えると思って、指定席を購入する。そうしたら、2列の通路側、つまりD列であった。これは結構、混んでいるのかとがっかりして乗車すると、C列はがらがらである。なんで、C列ではなくD列から販売しているのだ。当然、隣のE列には座っている人がいる。私から、通路を隔てたB列とC列はずっと空いたままだ。この指定席の販売の順番を決めている人は、あまり顧客の利益を配慮していないと思う。

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日本の大学の長所をアメリカ人の大学教授から指摘される [その他]

協定校を締結したニューメキシコ大学の先生が、私が奉職する大学を訪れたので会食をする。この先生は、早稲田大学の国際教養学部で10年間ほど勤めていたので日本の大学事情もよく知っている。そこで、いろいろとアメリカと日本の大学論議になったのだが、彼は、日本の大学の教育制度は相当、優れているにも関わらず、世間もそして政治家も、さらには大学関係者までが悪くばかり言うので不思議だと言う。

私自身は、私の大学に交換留学で来ている学生からも、私個人の教育方法が優れていることや、私のゼミ生が羨ましいと半分はお世辞かもしれないが頻繁に言われるので、まあ、そういう点はあるなとは思っていたのだが、一般的にそうかと言われるとちょっと即座に同意することはできず、どの辺がそう思うのか、と聞くと「ゼミ」と「サークル活動」と返答した。

確かに私自身、大学院ではあったが、アメリカの大学に通い、また、客員教授という立場ではあったがドイツの大学にて研究した経験などから考えると、日本の「ゼミ」のように教員と学生とが親密になれる教育環境というのは滅多にないなとは思う。私はアメリカの大学院での指導教官とは、今だと一緒に食事をしたりする仲ではあるが、学生の時は特別なパーティー時を除けば、そういう機会はなかった。日本の学生は、教官にもよるだろうが、単に学問的なことだけでなく、社会面での教育なども大学において受けることがゼミを通じては可能である。こういう貴重な機会を提供するということは、なるほど日本の大学の極めて優れた点であろう。これまで、私はうすらぼんやりとその長所を認識していたのであるが、改めて日本の大学をよく理解しているアメリカの大学の先生に指摘されて、その優れている点を再確認した次第である。

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日本の大学進学率は低い!? [その他]

 日本の大学進学率は50%を越えている。同世代の約半数が四年制大学に進学するようになっている。そこで、田中真紀子さんではないが、大学は多すぎるという意見が世論に占めるようになっている。高校教師の96%近くが、「大学の数は多すぎる」と考えていることを示すデータもあるそうだ。
 確かに、大学で教鞭を執っている身としても、もしかしたら多すぎるのかもしれない、などと思ってしまう時もある。さて、しかし、そう考えると必ず、自分の中のもう一つの声が「でも、韓国の大学進学率は7割もあるから、日本の大学が多いということもないだろう」と反論してくる。そして、その声を聞きながら、日本の国力を上げるためには、大学進学率を韓国とまでいかなくても、少しは近づけた方がいいかもしれないな、などと考えたりもする。しかし、私に刺激を与える韓国よりもさらに大学進学率が高い国が結構あることが分かった。それらは、オーストラリア(90%超)、ポーランド、ポルトガル、ニュージーランド、アイスランド、ノルウェー(すべて8割強)などである。韓国と日本の間の進学率の国はさらに多くあり、アメリカ合衆国、フィンランド、スウェーデン、オランダ、イギリス、イスラエル、チェコ、デンマーク、オーストリア、ハンガリー、アイルランド、イタリアなどが含まれる。
 ちなみに日本はOECD各国平均を下回る大学進学率である。日本より低い大学進学率の先進国は、そもそも10歳という若さで専門職教育への道へ行かせるドイツ、そしてスイス、スペイン、ベルギーくらいである。
 このように考えると、日本の大学進学率はまだまだ低いぐらいであることが分かる。それなのに、このように大学が多すぎる、と批判されるのは、大学に行っても大したメリットがないと思われているからであろう。その点を大学がしっかりと改善させることができなければ、大学不要論が世論をまた賑わすであろう。
 さて、このような考えを踏まえると、大学が必要であると学生、高校教師、そして社会にも思ってもらえるような対策を検討していくことが必要である。それにも関わらず、なぜか、ゼミ生が一桁(年によっては0人とか一人)しか募集してこないような教員達が、いろいろと対策を施そうとしたりしている。自分自身をもマーケッティングすることもできない人達が、学部とか大学レベルであれば、マーケティングできると思うのは大間違いだ。自分の店に人を呼ぶことができない人が、商店会会長になって、商店街に人を呼ぶことなど出来る訳がないことと同様だ。そういう意味では、このような教員が努力しても全くの無駄である。というか、むしろマイナスかもしれない。しっかりとしたマーケティング戦略を策定できるような人が、学生そして社会のニーズをしっかりと汲んでその対策を検討し、具体化していくことが大学にとって必要なのではないかと考える。
タグ:大学 進学率
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早朝からビールを飲む人が多くて、ちょっと驚く。 [その他]

早朝の便で羽田からソウルに行く。ラウンジで時間を潰していると、朝の8時前なのにビールを飲んでいる人がいる。これにはちょっと驚く。ドイツ人でも朝からビールを飲むかなあ。まあ、ドイツ人なら飲むかもしれないが、ちょっと不確かだ。また機内でも、結構、ビールやアルコール関係を飲む人がいる。これが欧米便とかなら分かるが、ソウルなんて鹿児島に行くようなものだ。朝から飲んで、どうするのだろう。他人事ながら心配だ。そんなに無料ビールに対して、我慢ができないのであろうか?
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東京大学理科三類に拘る愚 [その他]

私ごとで恐縮だが、長女が高校三年生で受験生である。ということで、受験生の話題がたまに家族の会話に出る。そこで、桜陰女子高校の学生で、東京大学の理科三類に落ちて、慶応大学の医学部に受かったのだが、そこでやる気を失ってしまったという話を家内から聞いた。どうしても彼女は、東京大学の理科三類に入りたかったらしい。私はその話を聞いて心底、呆れた。というのも授業料は高いかもしれないが、東大を出ようが慶応を出ようが医者になるための勉強はしっかりと受けることができるだろうし、よほど遊ばなければ慶応を卒業できれば立派な医者になれる。医者になりたいという目的なら慶応大学でも十分に叶うであろう。

また、世間の多くは東大医学部と慶応医学部の違いなど気にもしない。桜陰女子高校といったトップレベルの進学校だから、ちょっと気になるのかもしれないが、それを気にすること自体ばからしい。そもそも定員が極端に少ない東大医学部は、合格ラインがきわめて高く、もうその日の体調、問題などによって、相当優秀であっても受かったり、落ちたりするテストであり、はっきりいって運が占める要素がきわめて強い。落ちたら、ついていないと諦めればいいのだ。世の中にはついていないことはたくさんある訳だし、落ちて落ち込む必要もない。宝くじが当たらなかったら、ちょっと残念だとは思うかもしれないが、それを自分のせいにはしないだろう。

まあ、なかなか受験生はそう諦めないのかもしれないだろうが、そんなに気にすることはない。

などと書きつつも私は受験に失敗した時、そういうことを気にした。こういうことを書くと、本当にバッシングに合いそうなので書かない方がいいのだろうが、受験に失敗して、滑り止めの大学に行った私は、入学式の後、その大学の校歌を強制的に歌わされた時は情けなくて涙が出てしまったことがある。まあ、私の場合は、しっかりと勉強をしなかったことの後悔の念もあったし、東大医学部のような運の要素は少なく、勉強をしっかりとすれば入る学部を落ちたので事情は違った。そして、何より滑り止めで行った学部は自分の勉強をしたいことではなかったので、その後、転学するのだが、医学部に入りたくて医学部にいるのだったら、しっかりとそこで勉強すればいいのにと強く思う。

恥をさらしたついでに、父親の話をさせてもらうと、私の父親は現役で慶応医学部に入ったのだが、何を気に入らなかったのか、浪人して東大法学部に行くことになった。そして、その後、死の商人のような会社に就職して対戦ヘリを売るような仕事をした。人の命を救うような仕事をする機会を蹴って、人の命を奪う機械を売るような仕事に就いた訳である。私は、自分の父親ながら、こんな馬鹿な選択をした愚かさをちょっと許せないというか、心底、軽蔑している。おそらく父親は慶応より東大が好きだったのだろうが、それは単なる見栄というか、虚栄心に基づいたものであったろうと思うのである。

私は大学で教員をして、なんちゃって研究をしているが、いろいろな研究分野の中でも、やはり医学部は王道であるかなと思うところがある。なにしろ人の身体というのは興味が尽きない。もし18歳に戻れたら、医者になりたいなと今でも思うところがある。そのような機会を得られたということがいかに恵まれているか、ということをしっかりと認識した方がいいと、医者になれなかった自分は強く思う。
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半沢直樹の最終回はなかなか秀逸だ! [その他]

ご多分に漏れず、半沢直樹にはまった。私はテレビを観ないので、インターネットを通じての鑑賞であったが、大いに楽しむことができた。第一部は本当に秀逸な出来で、倍返しも見事に決まった。支店長だけでなく、金融庁をもギャフンと言わせて、また悪徳社長までやっつけて愉快痛快であった。さて、同じような勧善懲悪的な楽しみを期待していた第二部。敵は、今回はインフレが生じて、支店長ではなく常務取締役。遙かに強敵となるが、半沢はひるまない。そして、第一部と同様に、視聴者もエッと驚く敵の味方に翻意させて、半沢の圧倒的勝利。しかし、そのための銀行の評価は昇進どころか出向。いやあ、驚いたなあ。ほとんどの視聴者が溜飲を下げることができると思っていたら、なんと正しいものが罰せられた訳であり、黒も黒の大和田常務は、単に常務取締役から平取締役になっただけだ。これでは観ている方は欲求不満が高まるだろう。

しかし、私はいや、なかなか半沢直樹は奥が深い、と逆に感心した。そもそも、銀行という業界自体に正義などというものはない。そこに正義感があるなどと思って、正義を振りかざしても、結局は銀行というフレームワークの中では、その正義は通用しない。特に、半沢は常務に土下座を強制してさせたが、これは日本社会的には掟破りである。ある程度の悪も許容しなくてはやっていけないのが企業社会であり、相手が非を認めたら、詰め腹までは切らせない。そして、銀行などの組織は、相手が100%悪くても切らせない。そうでないと銀行業務などという、正義という価値観ではなく、利益という価値観で動いている企業などはあっという間に内部矛盾を起こしてしまう。それにも関わらず、半沢はそのタブーを犯してしまった。頭取や上司が「半沢」と制止したにもかかわらず、それを無視して大和田に土下座をさせてしまったペナルティとして半沢は出向させられてしまったのだ、と私は解釈した。まあ、私はこのように「正義」がないという企業社会につくづく嫌気がさして辞めたので、こんな半沢の生半可な正義が通じたら、逆に鼻白むところだったので、この最終回はいい意味で期待を裏切ってくれたし、次回の展開が多いに楽しみである。

興味深いのは、半沢直樹ブームで銀行の就職希望者が増えたそうだが、この第二部を観て、彼らがどう考えを変えるかということだ。半沢のような銀行員は素晴らしいが、銀行というロジックは半沢的な価値観とは相容れにくい。半沢のドン・キホーテぶりが目立った第二部であったが、それでも、私はフィクションだけでもいいが、半沢がいろいろと暴れてくれることを期待している。負けても暴れてほしいのである。トカゲの尻尾は切り取られた後でもしばらくじたばたする。これを是非とも見せてもらいたい。21世紀のドン・キホーテとしての半沢直樹の活躍に私は大いに期待するのである。

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