So-net無料ブログ作成

都市研究におけるケース・スタディの基礎(3) [都市デザイン]

 都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点をこれまで2つ述べていた。一つ目は、比較する対象の特徴をしっかりと捉える、出来れば科学実験のように、比較する指標以外の条件をなるべく同一のものすることである。二つ目は、ケース・スタディをするうえで用いられている言葉の定義を誤解しないでしっかりと理解するということであった。
 そして、このブログで述べたい3点目は、拙速に結論を導かないということである。ケース・スタディの対象を研究するということは、自分が無知であったことを知るということでもある。それは、学習する過程でもあるのだ。したがって、それまでの自分の知識・経験等でその対象をしっかりと理解することは、実は不可能に近かったりするのだが、安易に結論を導いてしまいたがる人が多い。それは、あくまで結論ではなく、むしろ研究の端緒にあたる仮説設定に過ぎないのだが、この仮説を検証しないで、印象論だけで結論的な判断を下してしまう人が本当に多いのだ。ケース・スタディというのは仮説設定→検証→大抵、ここで仮説が間違っているので再び仮説設定→検証→・・・という作業が続いて、だんだんと真実が見えてくるのだが、それは大変であるので、自分の大雑把でいい加減な知識を動員して、自分の眼鏡でみえるストーリーをつくってしまう。例えば、ドイツは市民参加が絶対的にやられている、とかドイツは計画なくて開発なし、などと言われているが、実際、ケース・スタディをするとそうではない場合もあったりする。連邦制をとっているドイツは、日本のように都市計画法が国の法律ではないので、様々な状況があるのだが、自分の知っている事例(大抵の場合、極めて優れている事例)をもとに、ドイツの都市計画のあり方を一般化して理解してしまい、例外的な事例を受け入れないのだ。
 事例研究に意味はあるが、それは知らないことを知るためにむしろされるべきであり、安易な一般化された結論を導くためにすることは慎むべきであり、それは長期的な取り組みを研究者に要求する方法論であると思われる。
 私もクリチバの成功の最大要因がレルネルさんであった、ことはクリチバを初めて訪れた1997年から数えて、20年以上経って、確信を持って言えるようになったが、『人間都市クリチバ』の本を出した2004年時では、まだそれは仮説の範疇をでていなかった。今は確信を持っている。

タグ:事例研究
nice!(2) 
共通テーマ:日記・雑感

都市研究におけるケース・スタディの基礎(2) [都市デザイン]

 前回に続いて、今回も都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点を述べたいと思う。それは、しっかりと言葉の定義を理解していることである。日本人がドイツに来て、その言葉の意味をしっかりと理解していない故に誤解するものとして「難民」(refugee)が挙げられる。多くの日本人が学識者を含めて「難民」と「移民」の違いが分からず、ごっちゃにしている場合が多い。そして、いわゆる「移民」問題というものを「難民」問題として捉えてしまい、結論として「難民」を受け入れるのは政治的には間違っているといった誤解が誤解を生むような結論を導いてしまう。そして、ドイツ国内にて「難民」と出会ったりすると、ドイツ人に気を遣ってか、あからさまに嫌な顔というか困った顔をしたりする日本人も驚くことにいるのだ。そして、それが日本の一流企業の社員であったりするから、二度驚く。
 「難民」と「移民」は定義からしてまったく違う。国連の説明を引用しよう。
「難民とは、迫害のおそれ、紛争、暴力の蔓延など、公共の秩序を著しく混乱させることによって、国際的な保護の必要生を生じさせる状況を理由に、出身国を逃れた人々を指します」。
 なんか、国連とは思えない分かりにくい日本語であるが、すなわち、民族紛争や戦争、自国の政治が暴走したことによって、生きていくことが難しくなり、生き延びるために(死から免れるために)自分の国を捨てざるを得ないような人々のことである。
 そして、現在の国際法では、弾圧や迫害を受けて難民かした者に対する救済・支援が義務づけられている。
 つまり、難民を救済・支援するのは国際法的には国の義務であり、それらを排除するのはその国が有する権利ではない。したがって、ドイツが多くの難民を受け入れているのは、国際法を律儀に遵守しているからに過ぎない。というか、島国であったり日本語という難解な言語を有しているために暮らしにくいということで、難民があまり来たがらないということで、難民の受け入れに極めて消極的であるという日本の方が国際的には恥ずかしい。ということを、あまりにも日本人は理解しなさすぎではないだろうか。
 ちなみに、移民に関しては国連は定義はしていないが、次のように解説している(http://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/22174/)。
「移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなす。」
 ううむ、この解説も分かりにくい。まあ、特に必然的な理由がなく、自分が生活していた国を他の国に移って変える人である。したがって、その人を受け入れるかどうかは国の判断に因るであろう。国際法的に移民を保護する必要性もない。
 したがって、移民に関しての政治的問題を議論することは極めて健全であると思われるが、難民に関しての受け入れはそもそも議論する以前の問題である。
 このような誤解が生じるのは、その言葉の定義をしっかりと理解していないことに起因しており、それは事例研究をするうえで常に留意しなくてはいけない点である。

nice!(3) 
共通テーマ:日記・雑感

ケムニッツを16年ぶりぐらいに訪れる [都市デザイン]

 ケムニッツという都市がドイツのザクセン州にある。ザクセン州の中では、ドレスデン、ライプツィヒに次ぐ第三の都市である。人口は約25万人。東西ドイツが再統一される直前の1988年時点の人口はベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンに次ぐ人口31万7千人。4番目に大きな都市であった。ということで、それなりの存在感を有してもいいと思うのだが、どうもドイツの国土政策的には鬼っ子のような扱いを受けている印象を受けていた。
 というのもケムニッツは高速鉄道のネットワークから完全に外されているからだ。2002年にケムニッツを訪れた時、ケムニッツはICでドレスデン、ニュンベルグと結ばれていた。ケルンと結ばれるICも走っていた。しかし2006年以降、ケムニッツは、ICEはもちろんのことICも走っていない。
 このように国土政策的には看過されている印象を受けるケムニッツであるが、人口減少は改善している。1988年から24%ほど人口が減少したが、そのトレンドは反転しつつあり、2016年に比べて2017年は500人弱だが人口は増加している。それでも、ケムニッツはどうも印象が薄くて、今一つのイメージを拭えていなかった。2002年に訪れた時も、色でいえば灰色。社会主義時代のこう陰鬱な雰囲気が都市を覆っている感じであり、街の中心も存在感溢れる市役所と都心部にある公園を除けば、記憶に残るようなものもなかった。日本でいえば水戸市のようなイメージである。
 さて、しかし、ドイツ人の知り合いが誕生日なので、パーティに顔を出して、ケムニッツの話をしたら、ケムニッツは素晴らしいと言う人が多数であった。知り合いは、ケムニッツに仕事があったら、エアフルトの仕事を捨ててケムニッツに引っ越すとまで言う。え!。エアフルトは相当、魅力溢れる都市だ。日本でいえば松江のようなイメージである。歴史的建築物もあり、旧市街地も賑やかで色彩豊かである。少なくとも、灰色といった都市のイメージはまったくない。その知り合いだけでなく、シュヴェリーン出身の2人もケムニッツはいいという。いや、悪いけどシュヴェリーンの方が人口は少なくても、はるかにケムニッツよりいいと思うけど。お城はゴージャスだし、湖はあるし、少なくとも都市のイメージが灰色ということはない。何を言っているんだ、とも思ったが、これは私がケムニッツを誤解しているからかもしれない、と思い、その翌々日にケムニッツに日帰りで訪れた。
 ケムニッツは現在、まともな鉄道との接続はライプツィヒとドレスデンとのRE(いわゆる特別料金がいらない快速列車)のみである。しかも、一時間に一本のみである。エアフルトはドイツ国土を東西に結ぶ線と南北に結ぶ線の結節点にある。シュヴェリーンもベルリン、ハンブルクとICEで結ばれている。ドイツ人はこのような高速鉄道のネットワークが都市の魅力というか、都市のアセットとして評価しないのであろうか。それとも、そのようなハンディがあっても跳ね返すだけの魅力がケムニッツにはあるのだろうか。
 ケムニッツの中央駅は、いわゆるターミナル型であった。駅舎のデザインは極めて今一つであり、ちょっと憂鬱になる。駅を降りても状況は似たようなものであり、活力のある都市の駅前という感じではない。トラムに乗って、中心市街地に行く。中心市街地は、結構大きなデパートがあったり、中心部は自動車が入れない歩行者空間(ペデストリアン・プレシンクト)になっていたり、そういう意味では悪くはない。市役所は本当に立派な建物であり、その貫禄はなかなかのものだ。とはいえ、エアフルトの中心市街地と比べれば、はるかにエアフルトの方が個性的で、色鮮やかで楽しい。私のエアフルトで働くドイツ人の知り合いは、エアフルトはイタリアのマフィアに支配された二流都市のように批判していたが、ケムニッツも社会主義時代は、社会主義マフィアに支配されていて、なんとカール・マルクス・シュタットと命名されていた。どっちが悪いかは一概には比較できないのでは、と思ったりした。そして、今でもカール・マルクスの巨大な銅像が街には置かれている。
 中心市街地だけでは分からないものもあるだろう、と郊外に出かけた。フットホルツという郊外ニュータウンである。人口が6万人も減っただけあって、この郊外ニュータウン(プラッテンバウ団地)においても建物倒壊の痕跡がみられた。しかし、老人用の介護サービス付きの住宅が新設もされていた。人口が増加し始めていること、高齢化が進んでいること、などから、そのような住宅の需要が増えているのかもしれない。
 フットホルツは高台に立地しており、そこから展望する南ザクセンの丘陵地のランドスケープはなかなか綺麗ではあったが、大きな川もなく、自然の変化もそれほどないこの都市のどこに魅力があるのかは、再訪しても分からなかった。帰りに中心市街地にあるレストランで食事をしたが、今回のドイツ旅行でも最も今一つの味であり、サービスはドイツという基準で照らしても相当、酷いレベルであった。
 ということで、イメージを改めようと思って訪れたケムニッツであったが、全然、イメージは改善しなかった。多少、その理解は増したかも知れないが、その人口規模に相当する魅力のようなものは感じられなかった。とはいえ、縮小政策を研究する私にとっては、ちょっと研究対象としては魅力がある都市であることは確かである。惨めなほど魅力が増すので。

2F6A0950.jpg
(旅情がほとんど感じられない中央駅)

2F6A0959.jpg
(旧市街地はなかなか魅力がある。ちょうど市場が開かれていた)

2F6A0967.jpg
(市役所の建物は立派で存在感溢れる)

2F6A0981.jpg
(トラムが縦横に走っている。後ろは再開発でつくられたビル)

2F6A0992.jpg
(郊外のニュータウン、フットホルツ)

タグ:ケムニッツ
nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

都市研究におけるケース・スタディ(事例研究)の基礎(1) [都市デザイン]

 都市研究において事例研究という手法を利用することは、結構、簡単そうだが留意点も多くある。事例研究をするうえで重要な点は、その事例を自分のよく知っている都市(事例)と比較することで、それを相対化させて、その優れた点、劣った点を客観的に評価することである。そのために有効なのは統計的な数字だったりするが、そのざっとした特徴を掴むうえでは都市観察をすることが重要である。それによって、その都市の特徴を捉えて、研究のための仮説を設定することができたりするからである。
 しかし、観察をするうえで重要な点は、その比較する都市が基本、共通の条件を有していることである。林檎とオレンジを比較しても、それは仮説の設定が間違ったり、誤った結論を導いたりしかねない。
 例えば、オランダのデルフトからベルギーのブリュッセルに鉄道で移動したのだが、一緒に行った大学の先生が「ベルギーは外国人が多いなあ、やはりオランダとは移民政策が違うのだろうな」と述べたのだが、彼のこの仮説(という感想)は正しいのであろうか。
 これは、デルフトとブリュッセルという二つの都市が、オランダとベルギーという国が違うことより、より大きな違いがあることを看過していることによって生じる誤謬である。その違いとは都市規模である。デルフトという人口10万人の都市とブリュッセルという一国の首都である人口117万人の都市を比較観察することで導かれるのは、国の違いというよりかは、都市規模の違いである。つまり、大都市は小都市より移民が多いという結論である。すなわち、オランダとベルギーとの移民政策を都市観察によって知ろうとするのであれば、ブリュッセルと比較すべきオランダの都市はアムステルダムであるべきであり、デルフトと比較すべき都市はデルフトと同様の大学都市であるルーヴェン(人口9万人ちょっと)であるべきだ。
 このように、事例研究をするうえで重要なのは、林檎とオレンジを比較することでの誤謬を避けることであり、そのためにも比較対象の特徴を予めある程度、知っておくことである。都市研究をするうえでは、人口、人口密度といった指標をある程度知っておくことは不可欠であり、そのようなデータ無しに都市をいたずらに比較しても、間違った結論を導く可能性があるので要注意である。

nice!(3) 
共通テーマ:日記・雑感

「日本のヒーロー」 [宇宙団]

宇宙団2枚目の「それなりのつよがり」の最後を飾るこの曲は凄まじいベースのイントロから始まる。宇宙団らしいジェットコースターのような目まぐるしい展開をみせ、もう聴く者を引きずりまわすような迫力に溢れる佳曲である。静と動、混乱と統制、攻撃性と哀愁、4拍子と変拍子が見事に4分ちょっとの間に共存している。この曲は、圧倒的な応援歌であり、望月志保の生きていることを肯定的に捉えようとする気持ちに溢れている。こういう曲が同世代の女性の支持を得られることに成功すると、宇宙団もビッグになるのではと期待をさせるような曲だ。あと、この曲を聴くと、改めてベースとキーボードのテクニックの高さ、そして編曲でみられる偏差値の高さが再確認できる。個人的には「ヘルプ」ではなく、この曲をアルバムのトップに持ってきてもよかったかな、と思うほどの存在感を有する曲である。


それなりのつよがり

それなりのつよがり

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

しあわせ宣言 [宇宙団]

「それなりのつよがり」の3曲目。宇宙団のリーダーである望月志保の曲の歌詞は、ほとんど望月が「もてない」「可愛い女のことは得だ(可愛くない私は損だ)」「(私は)出来ない女」という駄目女のアイデンティティを前面に押し出したものが多いが、この「しあわせ宣言」はそれら駄目女の望月というのとはまったく正反対な、自立した自我がしっかりと確立された女性による元彼氏への強烈な三行半ソングである。そういう意味でも新鮮で、望月のあまり目立たない人間性がこの曲からも垣間見られる。この曲を喰らったら、まあ3年間ほど立ち直れないほどの破壊力があるだろう。しかし、それを美しい聞きやすいメロディに乗っけているから質が悪い。「はあ、はあはあはあはあ ため息カウント3回目」、「だだこねたいのはこっちだつうの」という耳に残る歌詞、そして、間奏そして最後のギターソロ、また途中でのキーボードソロも秀逸。ライブで初めて聴いた時はそれほど印象に残らなかったが、聞けば聞くほど中毒性が増す、鮒寿司のような曲である(最近、鮒寿司に嵌まっているので)。


それなりのつよがり

それなりのつよがり

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

ワルツ [宇宙団]

 アルバム『星眠る島』は本当に佳曲揃いの名アルバムであるが、その中でもこの「ワルツ」は歌詞の秀逸さ、情緒性に溢れるメロディと、望月志保のミュージシャンの魅力が濃縮されている名曲である。「毎日はまるでワルツ、似たメロディ・・・それでもいつまでも聴いていられるのは、少しづつ何かが違うからでしょう・・・繰り返すはずの日々の中で、突然別れはやってきて・・・」。時の流れをワルツのメロディの中に見出すその感性、そしてそれを美しいメロディにて歌い上げる才能。私はこれを聴くと涙が出そうになってしまう。
 極めて私的な話であるが、私は3月に明治学院大学を辞めて他の大学に移るのであるが、その送別会にて、私は我が儘を言って、望月にワルツを歌ってもらった。その動画を少しだけ、アップしたので宜しければ観てもらいたい。この曲の尋常ではないクオリティの高さが感じられるかと思う。望月もこの3月で明治学院大学を卒業する。音楽家として生活していけるようになることを切に願っているし、世の中に認めてもらえればと強く祈っている。

https://youtu.be/gqeHH21tm4Q

 全曲、聴きたい人は是非CDを購入して貰えればと思う。


星眠る島

星眠る島

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2017/01/11
  • メディア: CD



nice!(2) 
共通テーマ:日記・雑感

イギリス最南端のリザード岬を訪れ、イギリス政府の野蛮さと政府を信頼しないイギリスの底力を知る [サステイナブルな問題]

 イギリスの西南端にあるコーンウォール地方に来ている。「コンパクトシティ」という著書を編集したマイク・ジェンクス氏の家がこちらにあり、そこに日本版『コンパクトシティ』を執筆した海道先生と訪れ、二泊ほどさせていただいているからだ。中日にジェンクス氏が運転する車で、イギリス最南端のリザード岬に連れて行ってもらった。リザード岬はなかなか急峻な崖の上にあり、風光明媚な場所であった。昨年の夏に訪れたウェールズのアングルシー島の西端であるサウス・スタックに比べると、ちょっとスケールは小さいが、それでもなかなか見事な光景に心、奪われる。
 この日はまさに晴天で、海は美しいコバルト・ブルーに輝いていた。ここは岩が多く、多くの船が座礁したようだ。そのために、民間の救援隊が昔、組織されたのだが、これはヴォランティアだそうである。なんで、こういう大切な公共的な仕事に税金が使われないのか不思議であるが、それはサッチャー政権以前から民間がやってきたそうである。その組織の運営費は、救助された人の家族から払われたりするそうだが、結構、国として野蛮な印象を受ける。
 野蛮な印象といえば、このリザード岬への歩道は、すべてナショナル・トラストが整備、管理しているようである。ナショナル・トラストが存在しなければ、このような風光明媚な自然観光資源に歩道で行くことはできない。イギリスはライト・オブ・ウェイという概念があり、そのような公共的な権利に関しての考え方はしっかりしていると思われるが、車道だけで歩道がなければ、実質的には危なくて安心して歩けないし、自動車がいつ現れるかと思うと歩いていても楽しくない。そういうことで、イギリスにおいて自然や歴史遺産などをしっかりと鑑賞し、アプリシエイトするうえでナショナル・トラストの存在というのは大きいな、ということを認識したのだが、その運営にあたっては、会費に因っているそうだ。会員になると、例えば歴史建築物の入場料が無料になるとかの特典があるそうなのだが、それを支持して、結構、高い会費を払う人々が存在しないと成り立たない。民度が問われる、ということだ。
 日本でもナショナル・トラストと似たような組織があるが、あまり活動していることを寡聞ながら知らない。どうしてイギリスではナショナル・トラストがしっかりと機能していて、日本では今一つなのか。ちょっと興味が湧く。その一つの理由として、日本人はイギリス人に比べて、国家を盲目的に信用し過ぎているのではないだろうか。自分のことは自分でやる。国がやらなければ、自分達でやる。そういう動きが求められているような気がする。もちろん、日本でもそのような動きをしているNPOが多く存在したりするが、現状の日本政府や地方政府の駄目さ加減を考えると、これらNPOがより活発に活動していくことが今後、さらに求められるのではないか、というようなことをイギリスの最南端で考えた。

2F6A0672.jpg
(ナショナル・トラストによって歩道が整備されている)

2F6A0667.jpg
(コバルト・ブルーの美しい海)

2F6A0656.jpg
(昔、ヴォランティアの救助隊の基地であった建物の廃墟)

2F6A0647.jpg
(多くの船がここで座礁した)

2F6A0642.jpg
(イギリスの南端は風光明媚な絶壁であった)

2F6A0638.jpg
(周辺は羊の放牧地)
タグ:リザード岬
nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

ジェイン・ジェイコブスの映画『Citizen Jane』の試写会を観に行く [映画批評]

 ジェイン・ジェイコブスの映画『Citizen Jane』の試写会を観に渋谷に行く。Citizen Janeというとジェーン・フォンダの伝記を思い出す人もいるかもしれないが、この映画はジャーナリストで作家であるジェイン・ジェイコブスがニューヨークの街並みを道路開発や都市再開発事業から守った話である。
 ロバート・モーゼスが完全なヒール役として描かれている。巨大な都市計画の悪、それを仕切るロバート・モーゼスという悪人に、ジェイン・ジェイコブスは知恵と庶民を味方につけてやっつけるという勧善懲悪的なストーリーである。それは、それで面白かったが、この映画のコピーである「もしもジェイコブスがいなかったら、世界で一番エキサイティングな都市・ニューヨークは、きっとずっと退屈だった」という文章は、ジェイコブスの代わりにモーゼスを置き換えてもいえなくもない。いや、エキサイティングかどうかは分からないが、ニューヨークというアメリカ合衆国において極めて特異で、唯一都市らしい都市(強いていえばサンフランシスコとシアトルは入れられるかもしれない。ポートランドも入れたい気はするが、ちょっと厳しいかも)の骨格をつくったのはまさにモーゼスである。モーゼスがトライボロー橋を架けた。国連のヘッドクォーターをマンハッタンに招致するのに成功させたのもモーゼスである。映画では酷評されていたが、クロス・ブロンクス・エクスプレスウェイをはじめとした高速道路、リンカーンセンターやメッツの本拠地であるシェア・スタジアムもそれらをつくるうえで彼は多大なる貢献した。つまり、何が言いたいかというと、ジェイン・ジェイコブスはニューヨークの魅力が壊されるのを守りはしたが、新しい都市の基盤をつくるようなことはしなかった。確かにモーゼスはやり過ぎの感はあったし、モーゼスのやり方を続けていたら、ニューヨークはより退屈な都市になったかもしれないが、私は両方が必要であったように思われるのだ。ジェイコブスというカウンターがいたことの効果は過小評価できないが、モーゼスがいなければハードとしての都市であるニューヨークは、現在のようにある程度、公共交通が充実し、飛行場へのアクセスもそれほど悪くないような機能的な都市にはならなかったような気がする。ジャカルタのような状況になってしまった可能性もあるかもしれない。いや、それはそれで面白い、と言われてしまえばそれだけの話なのだが。
 モーゼスがあまりにも悪く描かれていたので、私は、しかし、その当時の時代背景としては、こういう方向に皆が向いていたのにな、と不満を感じたところ、しっかりと、このような都市自体をスクラップ・アンド・ビルドすることを唱道した張本人ル・コルビュジエが出てきて、相当、批判的に描かれていたのでしっかりとコンテクストを抑えているな、と安心した。そもそも、日本ではジェイコブスを称賛するのと同時にル・コルビュジエも称賛するという、巨人ファンであると同時に阪神ファンでもあると主張する変な輩があまりにも多いが(特に建築関係者や都市計画関係者)、この2人の「都市論」は到底、共存することはできない。まあ、ジェイコブスの場合は、反モーゼスであったルイス・マンフォードでさえ批判的であったので、相当、難しい。というか、ジェイコブスの側に立つということは、土木的な都市計画を真っ向から否定するということにあることを、にわかジェイコブス支持者は自覚をした方がいいと思う。
 この映画は、多少、モーゼスに比べてル・コルビュジエには甘い見方をしている印象は受けたが、そもそもモーゼスのようなタイプの人間を生んだ大きな背景にはル・コルビュジエと彼のタブラ・ラサを理想とするような都市像があったことは間違いない。タブラ・ラサにするには、クリアランスをするしかないからね。しかし、そのことを映画を観た後、映画館内で知り合いに会ったのでその話で盛り上がっていると、関係者が「いや、でもコルビジェを誤解した、と映画では解説しましたよね」と言ってきた。確かに高層ビルがオフィスであって、住宅ではなかったという言い訳はできるかもしれないが、あのような距離を置いて高層ビルを林立させ、間に広幅員の道路をつくるというル・コルビュジエの都市のコンセプトはまったく誤解していない。プルイット・イーゴーなんてコルビジェの「輝く都市」そのものではないか。それにフランスでも、パリのラ・デファンスはコルビジェの延長線上にあるのは明らかでしょう。
 ちなみに、私はモダニズムはそれほど好きではないが、いいところもたくさんあると思っている。ブラジリアに行くと、コルビジェ的なモダニズムの理論のもとに丁寧につくった住宅街の方が、勝手に不法占拠でつくられたファヴェラ街よりもはるかにいいと思うし、前川国男の世田谷区役所を壊すのは反対である。とはいえ、日本の東京に住んでいて、まさに東京のグリニッチ・ヴィレッジとニューヨーク・タイムスのライターが形容する下北沢にとんでもない26メートル道路が、区民が必死になって反対しても結局つくられてしまうことや、他にも明大前、小平、調布などで住民が反対しても道路がつくられてしまいそうな状況や、立石のような個性的な街区が再開発によって無個性化しそうなことをみるにつけ、どうして、これだけ成熟化して、さらにアーバンな魅力を放ちつつある東京を道路や再開発で壊してしまおうと今でもするのか。まったくもって分からない。そして、二子玉川や湾岸に立つまさにプルイット・アイゴーのような高層マンションに多くの人が高いお金を払って住みたがるのかも全然、分からない。
 ニューヨークはモーゼスというフェデラル・ブルドーザーのようなキャラが立っている人物がいたおかげで反対運動も展開しやすかったが、東京は誰が進めているかが本当、分かりにくい。というか、三宅都議員は高い確率でそうだが、彼がそのような東京を破壊する張本人の1人であると理解したり、報道したりする人は少ない。そして、ジェイン・ジェイコブスを気取った人が出てきたりもするが、協調性のないプライドの高い人で、ジェイコブスが示したカリスマ性や戦略性などを見ることはできない。まあ、私もそういう点では人より劣っているので、あまりそういう指摘をするのは気が引けるが。
 とはいえ、ジェイコブスの都市論の骨格である「人が都市をつくる」というのはまさにその通りであり、人が豊かになるために都市はあるのであって、都市が豊かになるために人が犠牲になるのはおかしいし、そもそも都市が豊って何?(土地が金を生み出すということでしょうが)ということである。ただ、この映画をみると勇気づけられるし、インフラがある程度整備された後は、ハードではなく、このような保全とか人の行動をベースにしたソフトな都市空間づくりが求められることになるのであろう。
 ちょっと宣伝になってしまうが、私は「都市の魅力を構成する要素は何か?」というテーマで内外の有識者(ヤン・ゲールやらジャイメ・レルネルやらトーマス・ジーバーツやら隈研吾さんやら陣内秀信さんやら)に取材をしたのだが、彼らはほぼ異口同音に「人」と答えていた。もし、宜しかったら、下記から見ることができるので見てみて下さい。

http://www.hilife.or.jp/wmca/?p=7

nice!(2) 
共通テーマ:日記・雑感

「ラブリーチューンXX」 [宇宙団]

宇宙団の二枚目『それなりのつよがり』の4曲目にして、圧倒的なキラー・チューン。これは、もう出来た時点で後生に歌い継がれるような傑作であり、仮に宇宙団でヒットしなくても、誰かがリバイバルしてヒットさせるであろう。それだけの強烈な存在感を備えている曲である。椎名林檎の「幸福論」を初めて聴いた時のような衝撃を私は喰らった。それは、望月志保という母体を通じて誕生した鼓動を持つ生命力溢れる生き物のようにさえ感じられる。
 キーボードの風変わりなイントロに次いで、アニメソングのようなメロディのギターが被さり、歌が始まる。そして何よりも素晴らしいのは、そこから展開するサビのメロディーの美しさ。ベースのコーラスとの掛け合いも感動的である。
 そして、2回目のさびの後のキーボード・ソロもいい。というか、上手い。その後、宇宙団得意のそれまでの曲のイメージと違うような展開部が導入されるのだが、この展開部がこの曲をちょっとしたヒット曲とは違う次元に昇華させている。宇宙団の十八番ともいえるローラーコースターのように展開が変わり、実際の曲の長さよりずっと長く感じられる。これだけの時間に、これだけのドラマ的展開を入れ込めるのは才能の為す技であろう。個人的に、この曲を生みだしたことで、もう望月志保は生まれた意味があったなと思ってしまうほどの傑作であるし、ずっと歌い継がれるような曲になる力をも有していると思う。


それなりのつよがり

それなりのつよがり

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

「夏に寄せて」 [宇宙団]

宇宙団の2枚目(実質的には3枚目)のアルバム『それなりのつよがり』の7曲目。ライブで聴いていた時は、演奏がこなれていないせいか、それほど感心しなかったが、CDでしっかりと聴くと、これはたまげた傑作である。マイナー調のワルツでこの曲は始まる。しかし、ドラムが入ると、急にメジャー調になり、涙腺をいたく刺激するような美しいメロディーのさびに入る。もう、これだけで曲として完璧に近いのに、レスポールのディストーションのギターソロで盛り上げて、また、急に静かにつぶやきのような静かな場面に戻る。そして、ベースのソロが加わり、それに覆い被さるようにピアノの宗教的な荘厳さを持つようなドラマチックな演奏で曲は終わる。その展開は、一枚目の傑作「ファンタジア」のようで、本当に、宇宙団は音楽的な偏差値が高い。頭がいい、というか音楽をよく分かっている。この曲はまた、望月の歌詞がいい。
「春夏秋を越えて、大人と呼ばれるようになりました。
でも化石のようになる前に掘り返さなくちゃ この気持ち
当たり前のことができなくなって、いつかわたしは悔やむだろう
分かっているのに 分かっているからこそ いつか私は悔やむだろう」
 これだけ曲がこの世でつくり出されているのに宇宙団は不思議なハーモニーで唯一無比的な音世界をつくりあげられている。これは凄いことだと思う。

nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

『それなりのつよがり』 [宇宙団]

 宇宙団の全国流通アルバムとしての二枚目(インディーズでの自主制作アルバムを入れれば三枚目)。一枚目の『星眠る島』が驚くほどの傑作だったので、流石にその発表から1年という期間での二枚目は、一枚目を上回るのは難しいのではないかと思っていた。いわゆる二枚目のジンクスである。しかし、その私の心配は杞憂に終わった。これは一枚目をも上回る傑作である。個人的には一枚目には「ファンタジア」やら「ツアー」といった、プログレッシブ・ロックにも通じる望月志保がつくりあげる壮大なるドラマチックな音世界がとても好きだったので、そのような曲は2枚目では「夏に寄せて」ぐらいかな、と思ったりするのだのだが、逆に1枚目にはなかった飛びきりのポップな曲が二枚目には含まれている。それは「ラブリーチューンXX」であり、この曲はもう出来た時点でクラシックになるような強烈な存在感を有している。それは一聴しただけで、覚えてしまうようなメロディアスな曲であると同時に、若い女性特有の瑞々しい感性が凝縮された詩など、乃木坂46が歌ったら世界的ヒットになるのではないかとさえ思われる。キャッチーなメロディという点では、「文明鎮座」のさびもそうだ。一回聴いたら忘れない。そして、一枚目よりポップになってはいるが、猫の目のようにころころと曲が展開する「宇宙団節」は二枚目でも健在である。また、演奏レベルは確実にアップしていて、聴いていても安心である。ここらへんは「日本のヒーロー」で特に顕著に分かる。いやはや、弾けるのはもう時間の問題というか、導火線には火がついていると思われる。
 Thee michelle gun elephantやフィッシュマンズをはじめとして多くのミュージシャンを輩出している明治学院大学に15年間、勤続して、ようやく天才的なミュージシャンと出会えた。正直、嬉しい。これからも、彼女たちがしっかりとミュージシャンとして生きていけることを見守っていきたい。
 

それなりのつよがり

それなりのつよがり

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: わびさびレーベル
  • 発売日: 2018/01/17
  • メディア: CD



nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

宇宙団の新宿モーションでのレコ発記念ライブ [宇宙団]

宇宙団を観に新宿モーション。セカンド・フル・アルバム『それなりのつよがり』の発売記念コンサート。なんとソールドアウト。「ラブリーチューンXX」、「文明鎮火」、「しあわせ宣言」、「HELP」、「夏に寄せて」、「日本のヒーロー」、「恋は宇宙」、そしてアンコール曲は新曲。タイトルもないような新曲。レコ発で新曲をやるか!という強烈な突っ込みをしたい気分にもなりましたが、まあ、曲が別府温泉のように湧き出てしょうがないんだろうなあ。個人的には「ゲリラアリャマ」を聴きたかったのですが、それは前回やったのでしなかったとのことだそうです。ううむ、やはりもっと足繁く通わなくてはいけないのか。できる限り、行っているつもりなのですが・・。今回はソールドアウトということもファンとしては嬉しかったですが、それより心強かったのは若い女性が多かったこと。これまでは、中年男性が多くて、何だこいつら(自分もそうなのですが)、何を期待しているんだ、と思ったりしたのですが、本来的には望月の瑞々しい感性は、同年代かちょっと下の女性の琴線に触れるものだと思うのです。彼女たちへの需要を満たすために、宇宙団は曲を提供すべきだと思っていたので、今回の観客層はとても嬉しい。宇宙団も明学を卒業するまではあと二ヶ月か。実は私も明学を卒業するので、「夏に寄せて」などを聴いているとちょっと感傷的な気分にもなります。
nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

シモキタザワテラスという名のチェーン店 [商店街の問題]

 シモキタザワテラスという名前のカフェ・レストランが下北沢の南口、元イタリアン・トマトのあったところに開業している。シモキタザワテラスという名称から、これは個店であると思いそうであるが、実はイタリアン・トマトが経営するお店であった。ちょっと興味深い。というのは、まずイタリアン・トマトの経営陣はなかなか下北沢のマーケティングが分かっている。というのも、下北沢の魅力はローカル経済で回している個店群であり、それらを経営している個性的な人々であるからだ。一部の人を除いて、多数の人は下北沢にきてチェーン店には入らない。チェーン店で消費したければ、二子玉川とか渋谷とかに行けばいいからだ。下北沢にしかない店を目指して、下北沢にほとんどの人は来るのである。イタリアン・トマトはおそらく、下北沢で店を経営していて、そういうことが分かったのであろう。とはいえ、当時のイタリアン・トマトにお客が入っていない訳ではなかった。私は、ちょっとどうして下北沢にまで来てイタリアン・トマトに来るお客がいるのだろう、と不思議に観察していたことを覚えているからだ。しかし、やはり、想定したほど入らなかったのであろう。
 ということで、名前を変えた。しかも下北沢の地霊を呼び込むかのようなネーミング。地名をそのまま店名にしてしまえば、なかなかチェーン店とは思えないであろう。いや、正確にいうと、ここはチェ−ン店ともいえない。というのは、他に「シモキタザワテラス」という名称の店はないからだ。ただ、運営形態はおそらくほとんどイタリアン・トマトなのであろう。
 また、興味深いのは、実際、ローカルの個店かと思って入ってしまうお客がいるからである。私は、この話を学生から知ったのだが、その学生は下北沢らしいお店に入ったつもりであったので、騙されましたと笑って言っていたが、消費者と街のブランディングという点からはこれは問題ではある。イタリアン・トマトが賢いことはよく分かったが、やはり、これはシモキタという街のブランドに乗っかったフリーライド的行為であるとも思うのである。
 こういうことを言うと、そんなショッピング・モールでもないのに商店街レベルでテナント・コントロールは無理だと思われるかもしれないが、例えばアメリカの商店街(カリフォルニア州のカーメルや同州サンフランシスコのウェスト・ポータル街など)はそうしているところもある。まあ、下北沢のように1200店も店舗があるところだと、そういうコントロールは無理だし、それほど目くじらを立てることもないかもしれないが、一つの商店街の抱える課題を提示しているとは思われる。
 

nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

州崎パラダイス赤信号 [都市デザイン]

1958年の作品だが、当時の東京のアーバン・スケープが描かれていてとても興味深い。勝ち鬨橋や都電が走る当時の東京の都市景観は、なかなか観ていて楽しい。州崎は、現在の東京都江東区東陽一丁目である。1958年というと、ちょうど売春防止法が成立する年で、それまで州崎は吉原を並ぶ東京を代表する赤線地帯であった。さて、その州崎を舞台とした、一夫婦をとりまく人情劇。三橋達也の駄目男ぶりがいい味を出している。そして、新珠三千代の気風がいいようで、情にほだされてしまう女性もなかなかよい。なんか、頭で考えていても結局、人は心で動いてしまうという、そのもどかしさが、しかし人間らしくて悪くない。なかなか楽しめる映画であった。





nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

豊島区の行政サービスに不満を抱く [サステイナブルな問題]

 私の本籍地は豊島区である。ということで、戸籍謄本とかが必要な時には、わざわざ豊島区に行かなくてはならない。さて、隈研吾設計の豊島区新庁舎はなかなかお洒落である。なんせ、23区で唯一、若い女性が住みたくないので「消滅」すると元岩手県知事に言われたこともあって、豊島区はもう見境なく、若い女性に振り向いてもらおうと必死な印象を受ける。なんか、婚活で駄目出しを喰らったことで、頑張っている不細工なアラフォーの医者のようなイメージなのである、私的には。ちょっと、南池袋公園で挽回しているが、それも私には、奮発してランボルギーニを買っちゃったんだ、というように映る(そして、英語メニューで接客するような変なレストランを出したりしている。これは、ランボルギーニに乗るんだから、それなりの素養を持っていてよねと主張するような格好悪さだと思う)。
 それはともかく、この豊島区。書類申請の仕事をしている人は、ほとんどが外部委託業者であった。これに私はなんか、とても納得しなかった。というのは、もしこのような窓口業務を外部委託するのであれば、セブンイレブン等で戸籍謄本等の証明書類を発行できるようにすべきであると思われるからだ。実際、港区などでは、そのような対応をしている。おそらく、そのようなシステムを導入した方が長期的にはずっと安上がりになるだろう。逆に、このようなシステムのデメリットは、区民とのフェイス・トゥ・フェイスのコンタクトが出来なくなるという点だ。区民と接することで、区民の姿や日々、抱えている問題などが見えてくる。しかし、それを外注化するのであれば、機械で発行できるようにしても失うものはないだろう。私は、この豊島区がシステムに対応しないことで、機会費用として2時間、そして電車賃490円も損をしたのである。
 相変わらず、豊島区は駄目だな、という思いをまた認識した。もてない医者にまた駄目出しをしてしまった気分だ。

nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

大雪だからって、人々を一斉に帰宅させようとするのは東京のような大都市だと逆に無理があるのではないか [サステイナブルな問題]

東京は大雪である。私が奉職する明治学院大学の白金校舎は、雪が降るとことさら歴史建築物が美しく映える。特に、屋根が雪化粧すると、ちょっとヨーロッパのような雰囲気である。ヨーロッパがよいという訳ではないが、まあ、そういう佇まいがして、私は心が洗われる。さて、しかし、大学は18時で事務はすべて閉鎖、ということで、研究室で仕事をし続けるのも何か迷惑をかけているような気になり、18時30分頃に帰路に着く。さて、いつもは目黒駅まで2キロほど歩いてそこからバスなのだが、ちょっとその道のりは降雪時には辛いな、と思えたので一番最寄りの高輪台駅から地下鉄に乗って中延駅まで行き、そこから大井町線で自由が丘まで出ようと考えた。さて、高輪台駅に着いた西馬込駅の地下鉄をみて驚いた。超ギュウギュウなのである。地下鉄浅草線は、高輪台から終点西馬込駅までわずか5駅しかない。なんでこんなに乗客が多いのだ。と思いつつも、しょうがないので満車の浅草線に乗車する。次の五反田で乗客は降りるだろう、と思っていたら、なんと五反田駅にはホームから溢れるほど人がいた。そして、降りる人よりはるかに多くの人が列車に乗ろうとしてきた。何なんだ、この現象は。これは、京浜東北線が不通になったとか、大井町線が大井町駅と中延駅の間で不通になったとか、何かとんでもない事態が生じたのではないかと考える。中延駅は、もはや駅から出口に出る階段で長蛇の列。カタツムリのようにのろのろと人は上がっていく。そして、大井町線の中延駅にも多くの人がホームに溢れていた。そこにやってきた大井町線も大量の人でとても乗れるような状況にはない。私はここで合点した。
 つまり、ニュースとかで人々に早く帰宅しろ、と促したことで、通常は17時から24時に分散されていた帰宅需要が一挙に19時前に集中したのである。東京は世界一の人口を有しており、その公共交通の処理量も世界一である。それがゆえに、これだけの人口を有していながら、何とか機能させることができている。しかし、なぜ、そういうことが出来ているのかというと、恐ろしく高頻度・高容量のサービスが提供できていることに加え、殺人的で非人間的なラッシュアワーを老若男女が黙って耐え、さらには交通需要が集中しないように、良心あるおじさんが家庭の平和を犠牲にしても赤提灯で時間を潰してから帰宅するようなことをしてくれているからだ。
 そういう極めて微妙なバランスで成立している東京の都市交通事情を、雪で大変だ!とパニックするような報道をして、結局、非常に悲惨な混雑状況に人々を押しやっているのが行政の杓子定規的な考え方である。私は、中延駅の状況があまりにも腹立たしくなったので、家内に電話して、お茶でもしてから帰るわ、と中延駅を降りてそばのドトールで時間を潰して、ついでのこのブログのこの原稿を書いているのである。ちなみに、東急の駅のおじさんに、あんな列車に乗ったら骨折しちゃうよ(私は骨が細いのである)と言ったら、ちゃんと初乗り分、パスもからチャージされた分は返金してもらった。

その後・・・


nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

『エクス・マキナ』 [映画批評]

久しぶりに凄い映画を観た、というのがとりあえずの感想。2015年に公開されたイギリス映画。人間とAIとの騙し合い、というか相手の心(AIに心があればだが)の裏を読み合う、という展開が非常にスリリングで画面に強烈に引き寄せられる。まるで、チェスのように相手の真意を探り合い、また相手を騙すように誘導する会話群。これは、第一級の心理サスペンス映画である。さらに、この映画を傑出したものとしているのは、その素晴らしい映像美である。AIのエヴァ(アリシア・ヴィキャンデル)のセクシーさは、空山基が描くサイボーグのようである。アカデミー賞の視覚効果賞を受賞したのも納得させられる。ガーランド監督は、「登場した瞬間、他の映画に登場する他のロボットを思い浮かべない外見にすることを先ず重要視した」と話したそうだが、確かにとても斬新な外見であり、そしてとても魅力的でもある。これは、それを演じるアリシア・ヴィキャンデルの魅力とも繋がるであろう。映像美という点では、ネイサン社長の召使いをしているキョーコ(ソノヤ・ミズノ)というAIも大変美しく、その優雅な動きなどもヴィキャンデルとともに、AIという存在感の凄みを感じさせるような描写に繋がっている。2人の女優とも元バレリーナであるが、気弱そうな青年を演じる主人公といいキャスティングも絶妙である。また、映像美という点ではロケ地であるノルウェーのフィヨルド地域の自然美も素晴らしい。そして、何よりエンディングが痛快で、納得が行く。まあ、よく考えると不安な気持ちにはなるが、映画単体として観た場合、ストーリーは説得力があって読後感的なものは爽快である。私的には、『ブレードランナー2049』をも越えるほど面白かった。こういう作品にたまに出会ってしまうから映画は止められない。


エクス・マキナ [DVD]

エクス・マキナ [DVD]

  • 出版社/メーカー: NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
  • メディア: DVD




nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

ブレードランナーのデッカードはレプリカントであることを知って、ちょっとがっかりする [映画批評]

ブレードランナーのデッカードはレプリカントかどうか。これは、「ブレードランナー」が1982年に公開されてからずっと映画ファンの間では議論となっていたテーマである。私は個人的に、いや、デッカードがレプリカントだとちょっと面白くないよな、という考えから人間でしょうと思っていた。人間がレプリカントのレイチェルに恋して逃避行、というシナリオは、話として魅力的であったからである。しかし、この映画界の大きなディベート・テーマについて、監督のリドリー・スコットはあっけらかんにレプリカントだよ、と次の動画で述べている。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=340&v=jMG3fOsIBgA

しかも、この動画では、彼がレプリカントであることを視聴者に伝えるような工夫もしていることを述べている(ユニコーンの夢や折り紙を手にするときの描写で伝えようとしたようだ)。

そうだったのか。しかし、そうすると「ブレードランナー2049」で登場するデッカードとレイチェルの子供というのは、人間とレプリカントの混血ではなく、純粋にレプリカント同士の子供、ということになる。それはそれで衝撃的ではあるが、人間とレプリカントの子供というほうが、人間文明的にはインパクトが大きいと思われる。これまでの議論に終止符が打たれたのはいいが、ちょっとだけ落胆している自分もいる。



ブレードランナー ファイナル・カット 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ(3枚組) [Blu-ray]

ブレードランナー ファイナル・カット 日本語吹替音声追加収録版 ブルーレイ(3枚組) [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
  • メディア: Blu-ray



ブレードランナー 2049(初回生産限定) [Blu-ray]

ブレードランナー 2049(初回生産限定) [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
  • メディア: Blu-ray



nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

菊次郎の夏 [映画批評]

1999年の北野武の作品。久石譲の作曲するメインテーマの「Summer」が非常に印象深い作品である。映画は前半部分こそストーリーもしっかりしていて、9歳の子供と、彼の母親探しを付き合うチンピラでハチャメチャの中年男性との珍道中で興味を引かれるが、母親との辛い再会の後は、グレート義太夫と井出らっきょというたけし軍団の中でも超いじられ役がひたすらたけし演じる主人公にサディスティックにいじられるという、テレビのバラエティ番組と同じような演出が延々と続き、面白くないとは言わないが、ストーリー性はない。完璧な内輪ノリであり、これでカンヌ国際映画祭に参加したということにちょっと驚く。映画としての構成力に関しては弱い作品であるのと、こういう情緒的な作品とたけし映画のバイオレンス性はあまり似合わないということにも気づかせられた。偽悪者を演じたらたけしは、相当いけると思うのだが、後半の部分の遊びがむしろ映画の質を落としてしまい、たけしの味までも殺してしまっている印象を受ける。


菊次郎の夏 [DVD]

菊次郎の夏 [DVD]

  • 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
  • メディア: DVD



タグ:菊次郎の夏
nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

ブレードランナー2049 [映画批評]

 ほとんど映画館に行かない私であるが、この作品は流石に映画館で観るべきであろうとわざわざ映画館にまで出向いて観た。いつもコンピューターの15インチの画面で観ているのと比べると、集中して映画の世界に没頭されるので有り難い。さて、映画に関してであるが、2019年(というか現在より1年後!)のブレードランナーの30年後の世界が舞台である。前作では、デッカードがレプリカントのレイチェルと逃避行へと旅立ったところで終わっている。
 ブレードランナー2049は、この2人の存在が非常に重要な、というか人間とレプリンカントとの関係を大きく変えるような役割を担っている話になっていた。前作にはなかったニュータイプのキャラとしてホログラムのヴァーチャルなジョイという女性?が出てくる。このジョイを演じるキューバ女優アナ・デ・アルマスはアニメ系の美少女で、相当魅力的である。
 そして新たなブレードランナーKとデッカードとのやり取り、ウォレス社で働くレプリカント、ラブとKとの壮絶な格闘、さらにデッカードとレイチェルの子供の存在など、続編は前編を収束させるどころか、一つの疑問の答えが見えると新たな疑問が提示されるようなストーリーになっている。ということで、確実に続々編がつくられることになると思う。あまり、感想にはなっていないが、この作品は次の続編を観ないと、最終的な感想を述べるのを躊躇させる。ある意味、中途半端であるともいえるかもしれない。

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「ダイレクトに風が当たる」というニュース・レポーターの発言に違和感を覚える [英語関連]

 家内がテレビニュースを観ていたので、たまたまちょっと私も一緒に観た。天気予報の番組のようだったが、そこで現地にいたレポーターが「ダイレクトに風が当たるので実際の気温より寒く感じます」と発言したので、ちょっと違和感を覚えた。
 ダイレクトはdirectの日本語読みであるが、アメリカ英語であれば、それはディレクトになる。実際、この言葉から派生したdirectorはディレクターと日本ではアメリカ英語読みをしている。しかし、じゃあ、directというのをダイレクトと読むのは間違いかというと、そうではない。なぜなら、イギリス英語であれば、ディレクトと書くよりもダイレクト(レにアクセント)と書いた方が実際の発音に近いからだ。ちなみに、イギリス英語だとdirectorはダイレクターと表記した方が近い発音になる。
 なぜ、このニュース・レポーターの発言に違和感を覚えたのかというと、日本人はディレクターというカタカナ語からも分かるように、directはアメリカ英語読みをしているのが慣習であると思うからだ。Directはダイレクトというイギリス英語で発音し、directorはディレクターというアメリカ英語で発音するというような混在は、外国語として英語をカタカナ表記する日本語という立場からは明確にして、間違った使い方をさせないようにする方がいいと考える。というか、そういうことも出来ないのであれば、発音問題とかアクセント問題を入試問題に出す資格はないと思う。
 まあ、そんなに事を大袈裟にする気持ちもないのだが、全般的に、英語教育に関して、日本は非常に適当であり、問題意識も希薄であると思う。英語が必要であると声高に謳っていても、そういう当人の英語がいい加減であるから、これはトランプ政権のように馬鹿げた事態であるな、と私は思っているのだ。このニュース・レポーターのダイレクト発言は、まさに、この適当英語が跋扈している日本を象徴しているような印象を受けたので、ちょっと書かせてもらった。というか、「直接、風が当たるので実際の気温より寒く感じます」となぜ、言えないのだろうか。よくよく考えたら、ここでドイツ語でdirekt(この場合の発音はアメリカ英語と同じディレクト)とか、スペイン語でdirecto(この場合もデイレクトですね)とかは絶対、言わないので、このレポーターはダイレクトが日本語化している英語であると捉えているから使ったのであろう。そう考えると、やっぱり問題だ。こういうのは、五月蠅いかもしれないがしっかりと整理すべきことだと思われる。

nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

「規制」を変えれば電気も足りる [書評]

もと経産省の役人が、日本を駄目にする役所がつくる「馬鹿なルール」を多面的に紹介する。日本がなぜ迷走するのか、なぜ非合理的なことが罷り通るのか。その根源的な背景がよく分かる。日本人であれば、是非とも一読をお勧めする。目から鱗が落ちるとは、まさにこの新書の読後感を表現している言葉である。それにしても、本当、お役人は何で仕事をしているのであろうか?。いらない規制で雁字搦めにしつつ、規制すべきことはまったく規制されていない、というこの三流国に果たして未来はあるのか。ちょっと暗くはなるが、どこを改善すべきか、ということも見えてくる。トンネルの先の光はわずかではあるが、見えない訳ではない。必読である。


「規制」を変えれば電気も足りる (小学館101新書)

「規制」を変えれば電気も足りる (小学館101新書)

  • 作者: 原 英史
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2011/08/01
  • メディア: 新書



nice!(2) 
共通テーマ:日記・雑感

『眺めのいい部屋』 [映画批評]

1986年のイギリス映画。この映画の見所はフィレンツェ、そして南東イングランドの田園地帯の風景の美しさであろう。特に前半のフィレンツェの映像は、その都市の魅力を見事に描き出している。主演のヘレナ・ボナム・カーターは、現在ではハリー・ポッターの超ヒールであるベラトリックス・レストレンジや、レ・ミゼラブルのテナルディエ夫人、さらにはティム・バートンの作品群でのあっち側に行ってしまったような役が多いので、そのようなイメージが強烈だが、この作品では初々しいお嬢さん役を見事に演じている。しかし、そもそも出自は銀行頭取のお嬢さんなので、昔はこれが彼女の地に近かったのであろう。そういう点でも興味深い作品である。あと、この映画の一つのハイライトとして男性群が聖なる湖(池)で裸になって戯れるというシーンがあるのだが、イギリス人も日本人の温泉のようなカルチャーがあるのかということを知った。もちろん、一般的ではそれほどないのでこのような映画のシーンになったのであろうが、裸で温泉などに入るということはもしかしたら、それほど文化的に外れていないような印象を受けたりもした。ただ、このシーンは、公開当時は倫理的な観点からカットされ、ジョージの開放的で素直な性格を表現した重要な場面が飛ばされてしまったので、その後のストーリー展開が分からなくなってしまったと思う。この点は残念である。あとDVD的には、日本語訳でコンスタンチノープルをトルコと訳しているのだが、コンスタンチノープルとトルコはちょっと違うのではないか、と違和感を覚えた。コンスタンチノープルは、東西文化の交流都市であり、トルコとはイメージが全然、異なる。日本で言えば、京都に行く、というのを日本に行く、と訳してしまったようなものなのではないか。他にも字幕の訳は、ちょっとエッと思う点が少なくはなかった。この点も残念。


眺めのいい部屋 HDニューマスター版 [DVD]

眺めのいい部屋 HDニューマスター版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: アネック
  • メディア: DVD



nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

カルガリーはスティーフン・アヴェニューの都市デザインによって、その中心性をしっかりと確保することに成功する [都市デザイン]

カルガリーのダウンタウンにあるスティーフン・アヴェニューは、まさにカルガリーの中心であり、銀座通り的位置づけの道路である。それは、19世紀の終わり頃から、常にカルガリーの都心部でも最も賑わいのある場所であった。そして、さらにその中心性を高めるために、そこを歩行者専用道路にするプロジェクトが考案され、1968年に設計者が選定され、その工事は1970年に完成した。
 その設計は、アルバータ州生まれの建築家では最初のマッシー・メダル(カナダ王立建築家協会授与)を1967年に受賞した地元出身のゴードン・アトキンスが担当することになった。当時、アトキンスは31歳という若さであった。
 アトキンスは、スティーフン・アヴェニューのセンター・ストリートから2ストリート・サウスウエストの2ブロック間を歩行者専用空間とすることであった。彼の野心的な計画では、地上レベルでの暖房、噴水、時計塔、幼児の遊びようの囲い(プレイペン)、装飾を施した休憩所、そして意匠を凝らした電灯の設置などが提案された。しかし、この計画は予算不足という理由で多くが実現されなかったが、歩行者専用空間自体は1970年につくられた。1973年には、歩行者空間はセンター・ストリートから1ストリート・サウスイーストまで延長され、1978年にはさらに2ストリート・サウスウエストから3ストリート・サウスウエストまで延長された。そして、1987年のオリンピック・プラザの完成と合わせて、1ストリート・サウスイーストから2ストリート・サウスイーストまでもが歩行者空間として整備された。その結果、オリンピック・プラザのある2ストリート・サウスイーストから3ストリート・サウスウエストまでの5ブロックが歩行者専用空間として整備されたのである。
 ただし、1990年には歩行者専用空間化した道路は欧州の都市の似たような試みやブラジルのクリチバ、さらには同じ北米大陸のバーリントンやボルダーのような成功をみることはなかった。これは、人口密度の低さということや、都心での夜間活動の少なさ、さらには厳しい寒さ、などが要因であったのに加え、アトキンスが描いたデザイン要素のほとんどが予算不足という理由で具体化されなかったからだ(実現されたのは噴水と時計塔のみ)。確かに、現在のスティーフン・アヴェニューでも、例えば人口は遙かにカルガリーより少ないボルダーのパール・ストリートやバーリントンのチャーチストリートの方が、まだ沿道での土地利用が平面的には高密度化されている印象を受ける。どこか、スティーフン・アヴェニューの方が空間は大味なのである。私はしっかりと調べてはいないのであまり無責任なことは書けないが、同じように集客に失敗したペデストリアン・モールのフレスノのフルトン・モールや、カラマズーのカラマズー・モールも似たような状況であったのではないか、と思われる。すなわち、沿道の商業空間が人を惹きつけるだけ魅力あるものとして設計できなかったということである。
 話をスティーフン・アヴェニューに戻すと、このように想定したほど集客が図れなかったこと、冬季には早く暗くなるため、沿道のレストランでは店の前まで車でアクセスすることが集客には重要であったこともあり、歩行者専用空間というコンセプトを1990年に変更することになった。ただし、カラマズーやフレスノとは異なり、その空間を自動車が通行できるようにするのではなく(カラマズーは一部の区画のみ自動車の通行を許可した)、その通行を夜だけに限定し、昼はこれまでと同様に歩行者専用道路空間として維持したのである。そして、それに合わせて空間も再設計される。
 具体的にはアトキンスのデザインで設置されたコンクリート製のプランターや椅子といったストリート・ファーニチャーや作り付けの照明器具などが撤去された。そして、それに代わるストリート・ファーニチャーが設置され、また昼間に自動車が走行できないための装置などが付け加えられた。
 自動車が交通手段の主役である都市において、歩行者専用空間を整備することだけで、都心に人を呼び戻すことは難しい。それにはその空間づくりや沿道だけでなく周辺の土地利用なども配慮することが求められるからだ。しかし、例え自動車が主役であるような都市でも、昼間は歩行者空間としてそれなりに上手く使われる。問題となるのは、日が暮れて治安への不安が高まる夕方から夜の時間帯である。その時間帯で人々を歩かせるためには、よほどの都市活動が行われていることが必要だが、カルガリーのような100万都市であっても、それを24時間確保させることは難しい。それなら、それで夜だけ自動車を通せばいいと考えたカルガリー市民の柔軟性は合理的であると同時に、なかなか賢い。なぜ、フレスノがこのような柔軟な発想に至らなかったのかはちょっと調べる価値があると思う(そのうち是非とも調べてみたい)。
 スティーフン・アヴェニューのリデザインは、カルガリー市とカルガリー・ダウンタウン協会(旧ダウンタウン・ビジネス協会)との共同事業として遂行された。市と協会は建設費と維持費を折半している。カルガリー・ダウンタウン協会は、イベントを企画し、その空間の利用許可を発行し、また管理維持を担当している。幟の設置やサイン計画、ストリート・ファーニチャーの新設・改修なども同協会が行っている。これらの二つの組織に加えて、スティーフン・アヴェニューの歴史的重要性を主張し、人々への同アベニューへの関心を高めることに貢献したカルガリー建築資源保全協会(Society for the Preservation of the Architectural Resources of Calgary (SPARC))やスティーフン・アヴェニュー・モール同盟が、現在の同アベニューを実現することに貢献したとカルガリー市の職員アラスター・ポロック氏は私の取材に回答した。
 さらに、スティーフン・アヴェニュー歴史地区プログラムが1991年に制定され、官民協働で沿道の歴史的建築物を保全し改修していった。その成果として、同アベニューは2002年に国家歴史地区として指定された。
 このようにスティーフン・アヴェニューは空間的にもカルガリーの中心として設計、位置づけられると同時に、カルガリーという都市の歴史的アイデンティティの有する場所としてもお墨付きを得るわけであるが、空間的デザインが先行したという点がちょっと興味深い。
 アメリカ人のランドスケープ・アーキテクトであるランディ・ヘスターは、21世紀の都市デザインの大書(となる可能性が高い)である『エコロジカル・デモクラシー』において、都市やコミュニティにおける中心性をしっかりとつくることの重要性を強調しているが、カルガリーはまさにこのスティーフン・アヴェニューをその中心として位置づけることに空間という横軸と歴史という縦軸とにおいて成功した。
 中心市街地が空洞化して、そのアイデンティティが溶解している日本の中心都市にとっても極めて示唆が多い事例であるのと同時に、歩行者専用空間が失敗したフレスノなどの事例を得意に取り上げ、その有効性に疑問を投げかけている日本の都市デザイナーに再考を促すいい事例でもある。

2F6A5601.jpg
(スティーフン・アヴェニュー。中心から西を望む)

2F6A5620.jpg
(沿道の砂岩からつくられた歴史建築物は修築されている)

2F6A5612.jpg
(夜に人通りがなくなるからといって、昼に歩行者専用空間として機能していない訳では決してない)

2F6A5600.jpg
(昼の時間帯に自動車を通さないのは、このような踏切のようなものを設置するだけで対処できる)

Unattributed Photo 1.jpg
(アトキンスの計画案を工事している時の写真。カルガリー市役所提供。Courtesy of City of Calgary)

Unattributed Photo 5.jpg
(アトキンスの計画案の工事が完成したところ。ただ、アトキンスの案の多くは予算不足を理由に具体化されなかった。カルガリー市役所提供。Courtesy of City of Calgary)
nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

おせち料理をつくって正月を迎える [グローバルな問題]

明けましておめでとうございます。さて、正月は皆さん、おせち料理を食べられましたでしょうか。おせち料理に関して、自分はごく平均的な日本人のようなこだわりしか有していないと思っていたのですが、結婚してそうではないことに気づきました。例えば、正月三が日はおせち料理を作り置きし、台所に立たない、など三が日のタブーは実家では守られていましたが、結婚したら必ずしも、そういうことにこだわりをそれほど持たない人もいることを知りました。
 さて、しかし、おせち料理に関して正月早々、喧嘩をすることは避けたいので、今年は自らつくることにしました。28日から買い出しをし始め、28日には尾山台の八百屋に行き、海老芋、ゴボウ、大根、黒豆、今日人参、レンコン、栗の瓶詰めなどを仕入れ、29日には築地に行き、いくら、海老、タコ、蒲鉾と佃煮屋の佃茂で田作り、昆布巻き、卵焼きを購入しました。そして30日は地元の肉屋でローストビーフを購入しようとしたら売り切れており困惑したのですが、31日の開店直後に来れば出せるかもと言われて、そうしたらどうにかゲットできました。
 そして、つくったものが写真のようなおせち料理です。とはいえ、卵焼き、昆布巻き、田作りは築地の佃茂の商品です。あと蒲鉾と伊達巻き、黒豆は市販のもので、一番手間がかかる栗きんとんは女房殿がつくっています。私がつくったのは、海老のうま煮、たこのうま煮、数の子(一の重)、ローストビーフ、筑前煮、菊花蕪(二の重)、そして膾とイクラのみぞれ和え(三の重)です。

2F6A9702.jpg

2F6A9704.jpg
(一の重)

2F6A9705.jpg
(二の重)

2F6A9706.jpg
(三の重)

 ということで娘達も満足してくれたのと、私もおせち料理に関しては正月から喧嘩をせずにすみ、どうにか平和な正月を迎えることができました。
 ただ、改めて考えてみると、今回のメインであるローストビーフですが、正月三が日のタブーの一つとして四本足の動物は食べないというものがあります。いつから、このタブーが破られて、ローストビーフをおせち料理に出すようになったのか。ちょっと気になります。
タグ:おせち料理
nice!(2) 
共通テーマ:日記・雑感

現代語訳福翁自伝 [書評]

本書は、1898年、福沢諭吉が65歳の時に著したエッセイを齋藤孝が現代語訳をしたものである。明治維新前後を生きた稀代の思想家である福沢諭吉の考え方が読み取れて、たいへん興味深い。読んでいて気づいたのだが、職業的には私も福沢諭吉氏と似ている。いや、そのように論じることで批判の総攻撃を受けそうだし、その成果は天と地ほどあるかもしれないが、大学で教鞭を執っているし、本も著せば、翻訳もするし、講演もする。もちろん、野球選手でいえば福沢諭吉はイチローで、私は一応、プロ野球には所属しているが、打者でいえば打率2割前後、投手で言えば防御率5ぐらいのペーペーであるが、やっていることは似ている。ということで、この本の最後の文章をこれからの人生の指針にしようと思ったりもした。こういうことを書いて、人に伝えようとしている時点で、もう福沢諭吉とはエラい差のある小物であることを晒しているようなものだが、備忘録も兼ねてということで許していただければ有り難い。

「(前略)さて自分にできる仕事は三寸の舌、一本の筆より他に何もないから、身体の健康を頼みにしてひたすら塾の仕事を勉め、また筆を弄んで、種々様々の事を書き散らしたのが『西洋事情』以後の著訳です。一方には大勢の学生を教育し、また演説などして思うところを伝え、また一方には著者翻訳、ずいぶん忙しいことでしたが、これもごくわずかながら自分でやれることをやったものです。」


現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

  • 作者: 福澤 諭吉
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2011/07/07
  • メディア: 新書



nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

『ワーク・シフト』リンダ・グラットン [書評]

イギリス人のビジネス評論家であり、ビジネス・スクールの大学教授であるリンダ・グラットンの2011年の著書。2025年の働く環境を豊富なデータから予測し、そのような状況変化にどのように対応すべきかのアドバイスをしている。経済のグローバル化、インターネットやSNSの発展、テクノロジーの進化による環境変化は、仕事の内容、仕事の方法、仕事をする意味や価値などを大きく変化させていく。そして、自分としっかりと対峙し、仕事を主体的に、人生を豊かなにするために選択していくことの重要性を説いている。時代がどのように変化しているかを多くのデータ、事例としっかりとした分析とから描き出している大変、読み応えのある本である。2013年にビジネス書大賞を受賞したのも納得する。多くの若者に読んでもらいたい。


ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

ワーク・シフト ─孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>

  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2012/07/31
  • メディア: Kindle版



nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

71歳でドイツ語を始められた方のお話にちょっと感動する [教育論]

実は上智大学の社会人講座で「ドイツ語」の講義を受講しています。これまで飲みの誘いを何回か受けていたのですが、ずっと断っていました。しかし、流石に何回も断るのも申し訳ない気分になったので昨日、忘年会に参加しました。講師の先生も出席されていましたが、1人を除くと皆、先生よりも年輩、というか最高齢は83歳です。彼は71歳でドイツ語を習い始め、もう1人の方も65歳で始められたそうです。私は実は45歳から初めて、なんて無駄なことをしているのだ、と自分に呆れるところがない訳ではありませんでしたが、全然、若いじゃん、ということに気づきました。

83歳の方はヤクザの世界にも足を突っ込んだことがあったそうですが、現在はドイツ語検定の2級にチャレンジしています。そして、「勉強をすることが楽しいことを知ったのが嬉しい」と言います。ちょっと感動しました。こういうことを若かった自分に言い聞かせたいと思うし、学生にも伝えたいと思うのですが、なかなかうまくいきません。しかし、勉強する動物は人間だけですし、また、勉強することは大学以外にも多く存在しますが、勉強をすることを存在目的にしている機関は大学ですよね。そう思うと、大学って貴重です。ただ、私が学生の時はそういうこと、全然、気づかなかったですし、勉強つまんなかったですが。
nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感

宇宙団の下北沢のLiveholicへライブを観に行く [宇宙団]

新譜発売まであと1ヶ月を切った宇宙団。下北沢のLiveholicへライブを観に行きました。「ラブリーチューンXX」、「ヘルプ」、「夏に寄せて」、「日本のヒーロー」と新譜に収められた4曲と最後は「恋は宇宙」。「ラブリーチューンXX」のさびのメロディのクオリティはもう絶対的です。これは、AKBが歌ったら大ヒット間違いなしだと思います。
 久しぶりのライブということもあってか、前回に比べてずっと演奏のレベルも高くて終始、安心して聴いていられました。今日は早めに行った甲斐があってほぼ最前列だったので写真もうまく撮影できました。ところで、宇宙団はリーダーの望月はもちろんですが、他の3人もとてもいい味出している。ベースはヘルプではコーラスも入れているが、なかなか歌の幅を広げるいい効果を出していると思います。くるりの佐藤君のようです。ベースは5弦だし、そのしっかりとしたリズムキープもそうですが、宇宙団の音楽に欠くことのできない存在になっているかと思います。前のベースには申し訳ないですが、現在のベースになってレベルアップしたのは誰も異論はないでしょう。そして、キーボードがいい。高校から音楽系の学校に通っているだけあり、そのテクニックはもちろんですが、アレンジのセンスもとてもよく、この宇宙団の不可思議な音楽をつくりあげている要的存在ではないでしょうか。そして、ドラム。宇宙団随一の美形であるだけでなく、リズムの刻みもしっかりしていて安心して聴いていられます。あたかもビートルズとかクイーンのようです。今日のライブは5曲と短かったけどとてもよかった。新譜発売を控えて、ちょっといい波に乗っている感じです。

2F6A9557.jpg
(「恋は宇宙」での望月の白熱のギターソロ)

2F6A9583.jpg
(宇宙団はバンドとしてのバランスも素晴らしくよいと思う)
nice!(1) 
共通テーマ:日記・雑感