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トランプ支持者によるアジア人差別 [トランプのアメリカ]

トランプ支持者によるアジア人差別事件がカリフォルニア州のリゾート地、ビッグ・ベアーで起きた。アメリカ国籍を取得した3歳からアメリカで過ごしたアジア系の女性が、「アジア人」ということで、Airbnbのビッグ・ベアーの宿での宿泊を断られた。しかも、「それが、トランプを大統領にした理由だ(It’s why we have trump)」とまで言い放たれた。流石にこの宿主は、Airbnbから永久的に追放されることになったが、カリフォルニア州という多くのアジア系アメリカ人が共存していた地域で起きたこの事件には衝撃を受ける。私も7年間暮らしていた場所である。

下記で、被害者への取材動画が見られるが、我々、日本人もまったく同じ文脈で差別を受けるという覚悟をした方がいいだろう。この被害者はそれでもアメリカ国籍を有したアメリカ人である。日本人も相当、不快な思いをすることになるであろう
http://edition.cnn.com/videos/us/2017/04/07/asian-woman-denied-airbnb-orig-vstan.cnn

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トランプの支援者が依拠した情報は、マケドニアの若者達が発信していたフェイク・ニュースであったという、ちょっと驚くべき事実。 [トランプのアメリカ]

トランプが大統領選で、ヒラリー・クリントンを攻撃していた根拠のないネタは、マケドニアのヴェレスという小さな都市の若者達が勝手にアップしたものであったことを知った(下記のBBCのウェブ記事に詳しく状況が書かれています)。

http://www.bbc.com/news/magazine-38168281

ロシアによるハッキング攻撃ということでFBIなどが調査をしているが、実態はもっとシンプルというか幼稚だったのかもしれない。このヴェレスの若者達は、トランプ支持者やトランプが喜びそうなガセネタを乱発し、それでサイトのアクセス数を稼ぎ、広告代で稼いでいるようだ。BBCの取材に協力した19歳の大学生は月に1800ユーロ稼いでいたそうだが、これはヴェレス市の平均月収の6倍ぐらいに相当するそうだ。そして、これで稼いでいる若者が多いので、ヴェレスはちょっとした経済的好況を楽しんでいるようだ。

ちなみにその人口は5万人ちょっと。そもそもマケドニアの情報技術産業が集積している都市らしいが、こんな偽情報を流してお金を稼ぐことになるなどは想定外であっただろう。

あと、トランプはCNNなどをフェイク・ニュースと攻撃していたが、自分たちは、マケドニアの若者達のフェイク・ニュースに見事に引っかかった訳である。まあ、結果、自分たちの勝利に導いたのでいいのかもしれないが、トランプ支持者でだまされた人達はいい面の皮である。

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錦帯橋を訪れる [地球探訪記]

 大阪から福岡に移動するという、あまりないシチュエーション。これは、これまで見たくても見る機会がなかった岩国の錦帯橋に行こうと思い、あまり考えずに新大阪で岩国駅への切符を購入する。そして、新幹線にてネットで錦帯橋の場所を確認すると、岩国駅から5キロメートル弱離れていることを知る。むしろ、新岩国駅の方が近いぐらいである。しかも、岩国から福岡まで行くのに鉄道だと相当、時間がかかることを知る。というか、新岩国に停まる新幹線が少ないのだ。
 しかし、後の祭り的なところもあり、とりあえず岩国駅に向かう。広島駅で山陽本線に乗り換えて、岩国まで行く。ほぼ50分かかった。岩国駅前で急いで中華麺を昼ご飯で食べ、バスで錦帯橋まで行こうと考えたが、時間がもったいないのでタクシーを拾う。ただし、5キロメートルというのはなかなかの距離で、料金も1540円もした。
 また、岩国駅前は国道2号線が走っているのだが、今時珍しい2車線。車線数が多ければいいとはまったく思わないが渋滞をしている。なんか、いろいろな面で時間がかかって大変だ。
 さて、とはいえ錦帯橋は見ることができた。日本三名橋の一つである。全長は193.3メートル、釘が一本も使われていない木造のアーチ橋である。そのアーチの曲線の美しさは、なかなかのものである。1673年につくられたが、現在のものは1950年に台風で流出された後の1953年に復元されたものである。ミュンスターのプリンツィプル・マルクトのように、歴史的建築物・建造物を復元させることは、その都市のアイデンティティを次代に継承することに繋がる。そういった意味で、錦帯橋を次世代に残すために努めることは、極めて重要な施策になると思われる。実際、錦帯橋でも岩国駅でも新岩国駅でも多くの外国観光客をみた。錦帯橋があるからこその岩国、といった側面はグローバリゼーションが進むにつれ、さらに重要になっていくと思われる。
 その後、新幹線に乗るために錦帯橋から1.5キロメートルほど離れた錦川鉄道の川西駅まで歩いて行き、そこから一駅乗り、新岩国駅まで行く。これは一駅ではあったが、距離は結構長かった。料金は230円であった。新岩国駅はどうも1時間に1本しか鉄道が停まらないようである。私も30分ほど待たされた。

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ゼミ生の卒論の内容を報告しに、栃木県栃木市へと行く [地域興し]

 ゼミ生と栃木県栃木市に行く。一人のゼミ生の卒論が、日本のキャラクターのイメージ調査をドイツ人と日本人に行い、その選好比較をしたものなのだが、すべて日本人の方がポジティブなイメージを持っていた中で、唯一、そうでなかったのが栃木市のゆるキャラの「とちすけ」。ということで、市役所に行って、その研究結果を報告してきた。市役所の担当は喜んでくれたけど、私としてはマスコミ等に発表してもらいたいところである。とはいえ、大学で毎年、大量に書かれる卒論。学生達は相当のエネルギーと情熱を注いでも、なかなかそれが世間の注目を浴びることはない、というか読んでもらう機会も滅多にない。といいつつ、8年前の4期生が執筆した「プロ野球選手と結婚する方法論」という卒論は、大炎上をして、ある出版社から是非とも出版したいと数回、私のところに営業に来たことがある。この大炎上は別にマイナスのものではなく、好意的というか「意外としっかり分析されている」というプラスのものが多かったが、本人の出版意向がほとんどなく、また公表しないということで、実際、プロ野球選手の奥様方に取材をしたりしたので、実質的に出版することは難しかった。この件があって、本人からの依頼もあってゼミOBのホームページに卒論のPDFをアップすることも控えたりしたのだが、卒論といえでも侮るなかれ。といった内容のものも少なくない。今回のドイツ人は「とちすけ」を好意的に思っている、なんていうのも新しい発見だと思ったりする。なるべく多くの人に知ってもらいたい、この調査結果。
 さて、仕事が終わった後、栃木市名物のモロ(サメ)料理を食べ、なぜ、みんなサメを食べないのかを理解し、その後、代官跡地や岡田家22代目(23代?)のご隠居の大邸宅などの歴史的建築物を見に行った。岡田家25代の奥様がいろいろと話をしてくれたので、栃木市の理解が深まった。岡田家では広大な敷地を維持するために、子供を医者にしたそうだ。医者以外の職業だと、維持が大変だからということだけど、なかなか世知辛い世の中だなと思うと同時に、それで医者になれるとは優秀な子供達であるなと思ったりした。

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(東武デパートと同じ建物の中にある栃木市役所)

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(適当に入った喫茶店が岡田記念館だった)

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(岡田家25代目の奥様とゼミ生との記念写真

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(岡田家の翁島別邸)
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鳥取駅前の繁華街は土曜日の昼だがほとんどが閉店でまるでゴーストタウンのようだ [地域興し]

 鳥取駅の周辺で土曜日に昼ご飯を食べる店を探していたが、ほとんどすべてが準備中。繁華街は飲み屋が中心なので、しょうがないのかもしれないが、これだけ多くの店が集積していて、揃って閉店というのは、ちょっとこれだけの一等地の使い方としては勿体ないような気がする。というか、なんでこんなに多くの飲み屋があるのだろうか。それも不思議だ。この静けさと人のいなさは、まるでゴーストタウンのようだ。鳥取の人達は夜にはここに来るのかもしれないが、土曜日の昼は一体どこにいるのだろうか?
 閉店だらけの商店街でどうにか開いているブティックをみつけ、その店主に「お昼が食べたいのですが」と尋ねると、賀露に行かなくては駄目だと言われる。賀露というのは鳥取港のあるところのようだ。車で5キロぐらい離れているそうだが、そこに向かう。そして、向かったところは、フィッシャーマンズワーフのような観光施設であった。ただ、ここでは地元の人達もお昼を食べているようであった。なぜ、郊外にこのような施設をつくり、中心市街地に人が集まる仕掛けをつくらないのだろうか。そんな余裕があるほど人口があるわけでもないのに。
 都心のあり方などを結構、考えさせられる鳥取での体験であった。

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鹿野温泉の移住体験宿泊施設に泊まり、つくづく自動車に依存する生活は貧しいと実感する [サステイナブルな問題]

 鳥取県鹿野温泉にて泊まらなくてはならなくなったのだが、国民宿舎は満室で泊まれず、もう一軒ある宿はあまりにも高級で、しかも夕食を食べる余裕がないので勿体なかったので、体験宿というところに泊まらせてもらった。これは、空き家の家に、鳥取に永住を考えている人が体験的に格安で泊まることができるプログラムであった。3泊が最低の条件で、3泊で何人が泊まっても3600円。超格安である。その代わり、市のアンケートに回答しなくてはならない。
 宿は鹿野の歴史的街並みの中にある一軒家の空き家で、ファサードはとても落ち着きがあってオシャレである。中はそれなりに改装が必要なところもあるが、生活できない訳ではない。ただ、3月下旬でもなかなか寒いのと、また表の音がよく聞こえる。外部環境と内部環境を隔てる「壁」がハード面でもソフト面でも薄いのかな、という印象を受ける。
 とはいえ、生活をしていくうえで「家」というのは重要ではあるが、さらに外部環境、街としての公共的な価値の質が極めて重要なのではないかと思われる。そして、公共的な価値の質の大きな部分を担うのが公共交通だが、この鹿野温泉の公共交通は基本的に相当貧しい。というか、自動車を運転しないと生活できない。この「自動車を運転しないと生活できない」という環境がいかに貧困であり、高齢者に厳しい生活を強いていることを理解し、それの改善に向かわなくては、いくら空き家に住むための努力をしても、人は移転することはあまりないと思われるのである。「自動車を運転しないと生活できない」というのは、貧困の条件の一つであると個人的には捉えている。そのような場所からは脱出したいとは思っても、喜んで行きたくはない。

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鳥取県鹿野温泉にて開催されていた「手ぶら革命」の発表会を訪れる [サステイナブルな問題]

鳥取県鹿野温泉にて開催されていた「手ぶら革命」の発表会に、国立台湾大学の張聖林先生を連れて訪れる。「手ぶら革命」はオランダ人、オーストリア人を含めた内外のアーティストが、鹿野温泉に滞在して、その場所からインスピレーションを受けて作品をつくるというイベントを行った。面白かったのは、鹿野温泉の地霊がもたらす「ゲゲゲの鬼太郎的な妖怪世界」を、外国人を含めて3人のアーティストが、場所から感じ取って作品にしたことである。やはり、圧倒的な自然と対峙すると人は感性が呼び起こされるのであろうか。アーティストのように特に感受性が高い人達にとっては尚更であろう。オランダ人のアーティストは「妖怪」をゴーストと表現したので、後で日本語ではゴーストは幽霊で、幽霊と妖怪は違うんだよね、という柳田国男説を伝えた。しかし、それじゃあ妖怪は何なのか、というと難しくてGoblinでもないしなあ、と悩んでいたら、そうだMoominだということでMoominのようなものだ、と言ったら結構、納得してくれた。そして、そこらへんの違いに興味を持ってもくれた。妖怪はエコロジーだが、幽霊は怨念である。まあ、怨念の概念を説明するのは、私も厳しかった。ただ、このオランダ人は「日本人が自然と共生していることに驚いた」と非常に鋭い指摘をしていたが、彼女がそれに気づいたという感性も凄いものがあると思う。多くの日本人はそういうことさえ気づいていないからである。
 また、今回の若者達の作品群であるが芸術術方面ではトンと素人である私でも理解できるほど、優れた作品が発表されていた。アーティスト達は、その感性の鋭さゆえに、地域の個性、本質を見抜く力を有しているし、それをメディアで表現する能力も有している(というか、その力がまさにアーティストの能力と関係している)。したがって、地域興しなどを考えるうえで、アーティストにその場をコンセプトとさせる作品をつくらせるのは最初の段階では極めて有効であることを、今回のイベントに参加することで理解することができた。
 ドイツの縮小都市では、その対応策でアーティストに芸術作品をつくらせるということを多く手がけていたが、その理由が見えてきたような気がする。有意義なイベントであった。

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(手ぶら革命は鹿野温泉の格式のある歴史的街並みの中で開催された)

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(アーティスト達は鋭い感性で地域の資源、アイデンティティを読み取り、それを作品というメディアを通じて我々に伝えることができる。それをネタに町の将来像を、地元の人達は話し合った)
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デビッド・ボウイの展覧会に行く [ロック音楽]

デビッド・ボウイの展覧会に二度、行く。日曜日に行ったら、待ち時間1時間以上だった。
そんなに皆、デビッド・ボウイが好きだったのだろうか。私の高校のクラスにはボウイの熱烈なファンは1人しかいなかった。彼女は一生懸命、ボウイを伝道師のようにしてファンを普及させようとしていたが、それほど効果はなかったかと思う。私は、彼女が勧める「Stage」を聴いて嵌まった。というようなことを思い出した。ただ、その後、「レッツ・ダンス」が世界的に大ヒットしたので、また人々のボウイの認知度も変わったかもしれない。

展示内容は3000円という高額に見合うしっかりとしたもので、大変充実していた。しかし、一日目があまりにも混んでいて、充分に見られなかった。それでもう一日行くことにしたのである。二日目は平日に行った。18時過ぎに行ったのだが、流石に空いていて自分のペースで観ることができた。ただし、前回、見損ねたところを中心に観たにも関わらず、最後の展示コーナーに行く前に20時の閉館の時間を迎えてしまい、半ば追い出される形になってしまった。何が言いたいかというと、それだけコンテンツが多く充実しているので、見るの時間がかかるということだ。

ボウイのことはもちろん、その時代背景、ボウイが影響を受けた社会現象などまでもが、しっかりとした展示で解説されている。ボウイが時代の産物であるという認識をしっかりと持っていないと出来ない展示であり、キュレーターの理解力と展示力に感心させられる。確かに、ボウイは時代を映し出していた鏡であり、そういう意味でボウイとシンクロしていた時代性をボウイというメディアを通じて、音楽、ファッション、映像等で表現していた。しかも、ボウイはジョン・レノンやジム・モリソン、ジミ・ヘンドリックスなどと違い、70歳近くまで生きてくれたので、時代の変遷までもがボウイを通じて観ることができる。ジム・モリソンは現象であったが、ボウイはコンテキストなのである。そのように考えると、本当に我々20世紀後半に生まれたものにとっては、ボウイは時代の体現者としてシャーマンのような有り難い存在であったことを思い知る。

個人的にはトゥナイトの後、ボウイからは遠ざかってしまった。私の人生的にも社会人になって仕事に追われ始めたこともあるが、それからまた再び聞くようになった「ネクスト・デイ」までの空白の20年間は随分と勿体ないことをしていたのだなと痛感する。というか、サラリーマンの15年間は個人的には文化が無かった時代だから致し方ないのだが、それでも悔やまれる。ただ、会社に今でもいたら、このボウイの展示会にも行かなかったかと思うと、サラリーマンを辞められてよかったと思わずにはいられない。

さて、この展示会は改めて私のボウイへの意識を再検証させてもらう貴重な機会を提供してくれたことになるし、そのアルバムの背景をさらに深めて理解させてもくれて、これは個人的にも有り難いことであった。20年間の空白というものがあったが、私はやはりキャリア的にはStation to Station が非常に好きだということと、ベルリン3部作に惹かれるということである。あと、スペース・オディティは名曲であると強く思うのと、当然だが、ジギー・スターダストのアルバムとライブと一連の「現象」がいかに異例なイベントだということである。

あと、ジギー・スターダストのコンサートを素晴らしいショーだと賞賛するイギリスのおばさん達の見識の高さに感心すると同時に、展示の最後でボウイを語るタケシがあまりにも外していて、この人はいろいろな面で凄い才能の持ち主だが、ロック音楽に関してはほとんど何も分かっていないなということを再確認したことである。これは、オールナイトニッポンでロッド・スチュワートの「セイリング」を歌っていた時にも感じたことだが、何か根源的にロックの格好良さを分かっていないと思う。ということで、いろいろなことを感じ、考えさせられた展示であり、ボウイは死してなお、あの素晴らしきアルバムだけでなく、生き残ったものに貴重なプレゼントを残してくれて、そのことは涙が出るくらい感謝している。ロック・スターのまさに鏡である。

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(日曜日は入り口に長蛇の列ができていた)

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バード・カールスハーフェンという縮小都市を訪れる [サステイナブルな問題]

 ヘッセン州のカッセルの友人宅に泊まる。今日がドイツ最後の日であるが、午前中に友人が興味深い縮小都市があるということで、ヘッセン州の北端にあるバード・カールスハーフェンという縮小都市に連れて行ってくれた。
 この都市は極めて人工的な理由でつくられた。都市が集積するにあたって経済的に有利であるなどの要件があって、ここに都市が形成されたのではないのである。したがって、その人工的な理由がなくなったら徐々に衰退し始め、ヘッセン州という旧西ドイツにおいては、相当に寂れた都市になってしまっている。
ヘッセン・カッセル方伯は、17世紀後半、あることで悩んでいた。というのも、ヘッセン州とニーダーザクセン州は、ヴェーザー川が境となっているが、ヴェーザー川を上って荷物がヘッセンへ向かうとき、このヘッセンの南の下流にあたるニーダーザクセン州のハン・ミュンデンにて課税がかけられていたからである。そこで、この課税を避けるために、ハン・ミュンデンのさらに下流であり、またヘッセン州の最北部である地に港をつくり、そこからヘッセンまで運河を掘削しようと考えたのである。
 また、ヘッセン・カッセル方伯はフランス人の宗教難民に極めて寛容な政策を採っていた。それは、当時は彼らの方がいろいろと先端技術を有しているからだが、この宗教難民達に住まいを提供し、かつ、この運河工事も依頼しようと考えたのである。そこでつくられたのが、ジーブルグという町である。これは、後にカールスハーフェン、さらにバード・カールスハーフェンと改名される。18世紀前半に、この都市はバロック風の街並みを有するとしてとしてつくられた。
 さらに1730年には塩水泉が発見され、温泉・療養施設も建設されることになる。1977年には、都市名がカールスハーフェンからバート・カールスハーフェンと改名したが、これは1970年代後半に保険会社が温泉療養を被保険者に提供ひようと考え、バーデン・バーデンを始めとして、温泉療養(スパ)を広く展開しようと考えたからである。バード・カールスハーフェンもこの温泉療養地として指定され、この頃、無粋なモダニズムの温泉療養の宿泊施設なども建設された。
 さて、しかしこの保険会社のプログラムはただし、高齢化が進み、保険会社の負担が大きすぎるということで80年代後半に中止になるらしい。短命だったのである。一時期、ちょっと温泉リゾート地として栄えたバード・カールスハーフェンも、以前として温泉療養地ではあるが、その後、少しずつ衰退していくことになる。ちなみに、位置づけとしては金持ちのバーデン・バーデンに対して、ブルー・カラーの温泉療養地として位置づけられたようである。
 実際、その人口の流れをみてみる。バード・カールスハーフェンは、その3キロメートル南にヘルマース・ハウゼンという地区があり、そこにほぼ3分の1ぐらいの人が住んでいる。したがって、この自治体の人口がすなわち、バード・カールスハーフェンの都市規模を示している訳ではないことを認識してもらえればと思う。
 1885年の人口は2901人。1939年は3565人。1958年が4829 人で、この数字が最高となる。その後1970年は4674人だが、2009年には3724人。劇的に減少している訳ではなく、真綿で首を絞められるように徐々に人口が減っていっている
 実際、訪れたバード・カールスハーフェンは、見事なバロック都市で、建物はほぼ白色にペンキされており、なかなかのものであった。つくった当時は、ディズニーランド的なテーマパークのようなものだったのかもしれないが、それから300年ほど経っており、その時間の積み重ねが、いい空間の味わいを醸し出している。
 ただし、そもそもこの都市がつくられた目的も消え、さらに、それを再生しようとしたプログラムもなくなり、存在意義が見出せないのが現状であろう。都心部は観光客を中心とした店舗やレストランが多く立地しているのだが、その半数以上は閉店している。ただ、日本の商店街と違うのは、空き店舗でもシャッターを下げずに、ウィンドウ・ショッピングが出来るようなちょっとした工夫が為されていることである。シャッター商店街であっても、見た目はそのように見せない。結構、こういう小さな試みの積み重ねが、この都市の消滅を回避させることに繋がるのかもしれないなと思ったりする。河畔には、ちょっとしたヴェーザー川下りができるフェリーが滞留していた。ライン川下りのようなツアーが既にあるのかもしれないが、この町はその廃れ感も含めて、ちょっとした観光ポテンシャルがあるのではないかと勝手に思ったりもした。
 確かに最近の人口減少は厳しいものがあるが、その当初の存在意義が消失し、その再生計画も頓挫しても、300年間も生存してきた都市である。その将来は明るいものはないが、しかし、生き残っていくような気もしないでもない。何か、あと1つか2つの工夫が必要であるのかもしれないが。

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(バード・カールスハーフェンの街の景観)

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(店は閉店していても、シャッターを下ろさずにウィンドウ・ショッピングはできるようにしている)

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(バード・カールスハーフェンの街並み)
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ハッピー・リッツィ・ハウス [都市の鍼治療]

 ベルリンからカッセルに行く途中、ブラウンシュヴァイクで降りて前から気になっていたハッピー・リッツィ・ハウスに行く。デュッセルドルフに住んでいた時は、ブラウンシュヴァイクは、鉄道の便が悪いのでほとんど行くことがない。ベルリンに行くときは、ブラウンシュヴァイクのちょっと北を通るし、エアフルトやカッセルとかに行く時も通らない。唯一、通るとしたらライプツィヒにIC(新幹線ではない在来線特急のようなもの)で行く時、ハノーバー乗り換えで通るぐらい。ということで、ドイツに住んでいた時から気になってはいたが、これだけを見るために行くのは勿体ないということで行くことがなかった。しかし、今回はベルリンからカッセルに行くという滅多にないシチュエーション。これは寄るでしょう、ということで途中下車したのであった。さて、自分に与えた時間は2時間。ブラウンシュヴァイクの駅は、中心市街地から結構、離れている。こういう途中下車のポイントはトランクを預けられるロッカーがあるかどうかが極めて重要だが、流石にブラウンシュヴァイクにはあった。
 中心市街地は駅からだとトラムで結ばれている。駅数は3つ。歩けない距離ではないが、ここはトラムで行く。トラムで中心まで行くと、ハッピー・リッツィ・ハウスは街のど真ん中にあった。建物は3階建てぐらいなのだが、流石に非常に目立つ。ハッピー・リッツィ・ハウスとは、漫画のようなイラストが描かれた家の集合体であり、ジェームス・リッツィが2001年に放置されていた公爵の住居跡地に、人目に付くようなユニークな建物をつくることで、残された古い建物を保全することを意図してつくったものである。
 スポンジ・ボブのような過激な描写のイラストは、その色彩も派手で大変、目立つ。しかし、そのスケールがほどほどよく、違和感や不快感は不思議なことに与えない。周囲にはブラウンシュヴァイクからそれほど遠くないハルツ山地のゴスラー、ヴェニゲローデなどにみられる木組みの歴史的住宅があり、このモダンな都市の中心部の中に貴重な歴史的佇まいのある空間を維持させている。リッツィがこれらを保全するために、ハッピー・リッツィ・ハウスをつくったのであるか、細かいことは現時点では調べられていないが、そうであったら、これはまさに素晴らしい都市の鍼治療的事例であるだろう。

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(これだけ派手であるにも関わらず、街の中に溶け込んでいるハッピー・リッツィ・ハウス)

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(ハッピー・リッツィ・ハウス)

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(隣接して歴史的街並みが保全されている)
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ドイツ鉄道への怒りを再び新たにする [ドイツ便り]

 ドイツ鉄道には、ドイツに住んでいた時にも本当に酷い目に遭ったが、それは8年経っても変わらない。というか、もう今回の旅行では酷い目に遭っているのだが、本当、少しは改善して欲しい。今回は券売機への怒り。ベルリンからブランシュヴァイツに行くのに59ユーロ。時間もぎりぎりなので、クレジット・カードの暗証番号等の入力にお金がかかるのが嫌なので現金で払おうとした。50ユーロと20ユーロだ。何の問題もないと思うでしょう。ところが、そうは問屋が卸さないのがドイツ鉄道の恐ろしいところである。
 最初の50ユーロは問題なく受け入れた。しかし、次の20ユーロを受け付けない。これは私の紙幣に問題があるのかなと思い、代わりに新しく50ユーロを入れるとそれも受け付けない。そこで、私はこの券売機のシステムを理解した。すなわち、残り9ユーロになると、もう10ユーロ紙幣以下の紙幣しか受け付けなくなるように、この券売機は設計されているのである。
 これは、数日前に券売機でチケットを買った時に、30ユーロ以上の券だと50ユーロを受け付けて、13ユーロだと受け付けないので、そうだったのと理解したのだが、まさか紙幣を足して払う時もそのように設計されているとは夢にも思わなかったが、それ以外には理由が見いだせない。しょうがない。クレジット・カードで払おうと思ったら、今度は最初に投入した50ユーロが戻ってこない。いや、これはどうにかしたら戻ってくるかもしれないが、ドイツ鉄道の券売機は紙幣ではなく、コインで戻ってくるので、このままでは2ユーロコインが25枚戻ってくるかもしれない。ほとんど発狂するかのような怒りをこらえつつ、後ろに並んでいたお客に20ユーロをくずせないか、と尋ねたら、幸いなことに持っていてくずしてくれた。10ユーロを入れたら問題なく機械は受け取り、私は1ユーロのお釣りとチケットを取って急いでホームに駆け込んだら、どうにか間に合った。しかし、それにしても、この客を馬鹿にしたシステムはどうにかならないのか。まあ、ドイツ経済はひたすら好調なので、こういうところで無駄というかハンディをつけた方がいいのかもしれないが、このドイツ鉄道がもたらす不経済は、ドイツの経済成長を阻んでいることは間違いない。

タグ:ドイツ鉄道
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ドイツの都市がコンパクトに集積してまとまりを持っているのは、それなりの政策を採っているからだ [都市デザイン]

 今回のドイツの調査旅行では、チューリンゲン州と隣のザクセン州の都市を幾つか巡った。エアフルトを拠点として、ズール、ツヴィカウ、プラウエン、ヴァイマール、ヨーハンゲオルゲンシュタットなどである。また、これまでもこの地域周辺にある都市は頻繁に訪れている。イエナ、ケムニッツ、コットブス、ホイヤスヴェルダ、アイザナッハなどである。
 そこでつくづく感じたのは、ドイツはその都市の個性がしっかりと際立っているということだ。この大きな理由は、都市の空間的定義が分かりやすいことである。すなわち、ドイツは都市の境界がしっかりしていることである。これは、旧東ドイツの上記二州以外の旧西ドイツの都市でもいえることである。一部、ベルリン、ハンブルグのような大都市では若干、周辺の自治体と連担しているところがみられるが、デュッセルドルフやライプツィヒぐらいの50万人前後の都市でも周辺の郊外部の自治体の間にはグリーンベルト的な非市街地の空間が、その中間にみられる。
 これらは日本からみれば、コンパクト・シティというように解釈できるし、実際、空間的にはコンパクト・シティとなっている。これは、ちなみに大都市ではなくて農村レベルの自治体でもみられることである。このように境界がしっかりしているのは、土地利用規制が極めて厳しいからである。そして、この厳しい土地利用規制は1960年代の建設法典で決定された。そして、これがコンパクト・シティを決定づけた。
 このようにコンパクト・シティが形成されたもう一つのドイツの条件としては、1930年代のクリスタラーの中心地理論を実際の地方拠点づくりに応用したことである。クリスタラーとはドイツの経済地理学者で中心地がなぜできるかという理論的、実証的分析を行ったのだが、それを応用して、実際、地域における第一都市をつくり、その下にツリー状に第二都市、第三都市などをつくるというものである。これによって、第二都市や第三都市はある程度以上大きくならないようにコントロールされるし、全般的にその地域の集中が分散されるシステムである。これは、どうもナチス時代ぐらいから始まったそうだが、この地域の作り方は戦後も継承されている。
 また、このようなコンパクトな星が星座をつくりあげるように地域を形成できている大きな理由の一つに、民間のデベロッパーが旧東ドイツだけでなく、旧西ドイツにも存在しなかったことがあげられる。これらの民間のデベロッパーは世界恐慌の時にほとんど倒産し、その後、復活をしなかったそうである。
 そして、その後、どういうことが起きたかというと、インフラ等は自治体が建設・整備し、建物は住宅会社(自治体の住宅会社か組合の住宅会社)が共同住宅を建設し、戸建て住宅は個人が建設することになったそうである。
 さらにいえば、これは旧西ドイツのケースであるが、旧東ドイツに関しては、東西ドイツが再統一した後は、外資(おもにオランダだと思われる)の民間のデベロッパーが郊外部に旧西ドイツに見られないような住宅地をつくったりしたそうである。
 つまり、日本もそうだがアメリカなのでも、コンパクト・シティがなかなか形成できないのは、自治体の空間的定義がしっかりしていないのに加えて、郊外開発を促すことをビジネス・モデルにした民間のデベロッパーがいたということが挙げられる。
 特に日本では郊外開発を促進させたのは阪急や東急などの民間の電鉄会社であったが、ドイツでは鉄道はすべて公共事業体が建設をしてきた。そのような違いがドイツにおけるコンパクト・シティの形成の背景にある。
 逆にいえば、コンパクト・シティというのは都市計画において市場経済に任せずに、公共政策を中心に進めないと難しいということを示唆している。上記に関してのストーリーはカッセル大学のロースト教授へのヒアリングをもとに、そのポイントをまとめたのだが、日本は立地適正化計画などでコンパクト・シティを形成しようとしているが、ドイツがコンパクト・シティをつくれている背景などを調べると、その目標は悪くないかもしれないが、現状の民間に都市開発を依存しているような状況下でそれを実現させるのは難しいのではないだろうか。この点に関しては、今後も研究していきたいと考えている。

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ベルリンで貴重な夜を過ごすのであれば、やはりクロイツベルクに行きたい [地球探訪記]

 エアフルト大学の知り合いが、ベルリンにも家を持っているのでベルリンに来れば、と言ってくれたので図々しくも一泊だけ居候させてもらう。貴重な一回しかないベルリンの夜。どこに行きたいかと言われたので、当然、クロイツベルク。ベルリンの下北沢のような街である。ここは80年代に高速道路の開発計画がつくられ、実際、遂行されそうになったのを住民のレベルで阻止することに成功する。実際、計画が実行されることが前提とされ建物が倒壊された後につくられた建物(クロイツベルク・マルクトの建物)もできたりしたのだが、道路自体の阻止には成功する。そして、駐車場なども幼稚園に変容されたりもしたのだ。ベルリンの中でも最も魅力的なクロイツベルクが今日あるのは、この道路建設に反対して、阻止した住民がいるからだと思う。
 今では東ベルリンと西ベルリンが統一されたが、まだ分離されていた頃のベルリンというのは特殊な都市であった。そこは、社会主義の中にポツンと島のように存在する資本主義、市場経済、民主主義の租界地区であった。そして、そのベルリンの中でも、ベルリンという体制に反旗を翻すほど民主主義的な地区がこのクロイツベルクであった。ベルリンにおける多様性、自由、オルタナティブ、サブカルチャーなどの概念が象徴化されたような地区がクロイツベルクである。今となっては、ルー・リードの『ベルリン』やボウイのベルリン3部作から、そのイメージを喚起させるぐらいしかできないが、極めて尖ったベルリンを担っていたのがクロイツベルクであろう。
 現在では、クロイツベルクの文化的なアイデンティティも随分とジェントリフィケーションされ、ドイツ語がしゃべれないアメリカ人がバーテンダーをするようなバーが増えてしまっていたりするが、それでも外国人の私なんかからすると十二分に刺激的であるし、都市的な楽しさに溢れている地区である。
 エアフルト大学の知り合いの好意のおかげで楽しいベルリンの一夜を過ごすことができた。

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(クロイツベルクで人気のアイスクリーム屋)

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(高速道路がつくられることを前提に建設されたクロイツベルク・マルクト)

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(駐車場はなんと幼稚園に転用された)

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(クロイツベルクのバー。この店もドイツ語が拙いアメリカ人がバーテンダーをしていた)





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ツヴィカウ [ドイツ便り]

 ツヴィカウという都市に訪れる。なんか、何のイメージもなく、ただZから始まって次がWなので、アルファベット順だったら最後に来る都市だよな、というようないい加減なイメージしかこれまで抱いていなかった。それまで大した関心を寄せたこともなかった。
 しかし、ヨーハンゲオルゲンシュタットに行くことを決め、そのためにはどこか近くに泊まった方がいいだろうということで玄関口であるツヴィカウに泊まることにしたのである。さて、行くと決めてちょっと調べてみたら、なんと相当、大きな都市であることが分かった。エルツ山地の麓に拡がる、ドイツではルール工業地帯に次ぐザクソンの三角形と呼ばれる工業地帯の一翼をも担う。これはライプツィヒ、ドレスデン、ケムニッツなどを含む工業地帯である。
 人口はほぼ10万人であるが、商圏は48万人。また、ザクセンの自動車工業の中心地区であり、アウディ、トラバントはここが発祥のようである。もちろん第二次世界大戦後、アウディは旧西ドイツに逃げるが、その創業の地がツヴィカウとは知らなかった。
 さて、ただプラウエンやコットブスのように旧東ドイツの10万程度の都市同様に、ツヴィカウの駅前もおそろしく寂しいものであった。ここからはトラムで中心市街地まで結ばれているのと、後で気づいたのだがローカル鉄道であるフォクトランドバーンがツヴィカウ・ゼントラムという中心市街地にある駅まで入り込んでいたのだが、私は中央駅で降り、トラムは土曜日と日曜日には運転されていないことを知り、タクシーで中心市街地まで行ったのである。
 さて、ツヴィカウはご多分に漏れず、城郭都市であり、しっかりとした城壁がつくられていたようで、その内部が中心市街地として、歴史的街並みを形成している。興味深いというかユニークなのは、中心市街地内にプラッテンバウ団地がつくられていることである。戦災か何かで破壊されたのであろうか。通常、アイゼンヒュッテンシュタットのような新たにつくられた都市を除けば、プラッテンバウ団地は旧市街地にはつくられない。コットブス、ライプツィヒ、エアフルト、プラウエン・・・、ホイヤスヴェルダなどのような計画的工業都市でも旧市街地がある都市では、そこでの建設は避けられる。しかし、このツヴィカウは違う。とても興味深いな、と思ったら、ここが、今年度のヨーロッパ最大の学生コンペの対象地であることが分かった。しかし、これは極めて難しい都市的課題である。どんな案が出るのか興味が湧く。プラッテンバウ団地のそばをムルデ川が流れており、ここから中心市街地をみると、プラッテンバウ団地と旧市街地の歴史的建物が同時に見られる。
 また、縮小都市であるにも関わらず、そして人口が10万人程度であるにも関わらず、旧市街地は人で溢れていた。ここらへんは本当に不思議である。トラムも走っているのは、旧東ドイツの都市に共通していることなので、いまさら驚かないが、中心市街地は自動車がほとんど入れないようになっており、コンパクト・シティとして機能する条件をしっかりと維持しており、また成功していると思われる。
 南ザクセン地方は、プラウエン、ツヴィカウ、ケムニッツ、デッサウ、ゲラ(州はチューリンゲンであるが)といった比較的大きな都市があまり距離を置かずに立地している。その集積はルール地方のミクロ版のようで、大変興味深い。個々の都市の規模は大きくなくても、マクロな地域レベルでみると潜在的な可能性を感じるのであるが、どうなのであろうか。人々が捉えるほど縮小はしていても、問題は深刻にはならないような印象を受ける。

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(中心市街地の街並み)

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(中心市街地を歩いている人は多かった)

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(旧市街地を離れると、住宅地は空き家が目立つようになる)

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(旧市街地の外部の住宅地も結構、手がつけられていた)

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(若者の荒んだ気持ちがうかがえる落書き)

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(アンチ・ナチの落書き。ザクセン州であっても、皆が右翼的という訳ではない)
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ツヴィカウでえせフンデルト・ヴァッッサーを発見する [地球探訪記]

 ツヴィカウの街に14時頃着き、ホテルにチェックインしたあと、とりあえず街歩きをすることにした。翌日に中央駅まで行かなくてはならないため、歩いて行くことにした。ホテルの人に、中央駅まで歩いて行きたいというと「止めておいた方いい」と言う。「治安が悪いのか?」と尋ねると、「いや、治安はまったくもっていいのだけど建物が今ひとつで景観が悪い」と答える。個人的には「それは大歓迎」と心の中で言い、とことこと歩いて行く。
 ツヴィカウの街中は結構、人が多くいて、縮小都市なのに街中に人が溢れるドイツの不思議、に関していろいろと考察する。さて、中心市街地の外にも、住宅街は拡がっており、確かに衰退はしているかもしれないが、それなりにある時期においては繁栄していたのだろうと思わせる立派な住宅が建っていた。
 さて、中央駅通り(Hauptbahnhof Strasse)という道を歩いていたら、ちょっと風変わりな建物に出くわした。そして、ちょっと建物の裏側をみたら、なんとフンデルトヴァッサー。フンデルトヴァッサーの作品はドイツには多いが、ツヴィカウにあるとは思わなかった。これはバーで飲んでいたら東京事変の浮雲が隣で飲んでいるような状況か(流石に椎名林檎ではない)。 滅茶苦茶、今日はついていると思い、写真撮影しまくる。しかし、何かフンデルトヴァッサーにしては徹底していない。とりあえず真っ直ぐだし、何か正面のファサードは極めて謙虚。まあ、フンデルトヴァッサーも今ひとつの作品もあるのかもね、と思ってホテルに戻った。ホテルの受付に「フンデルトヴァッサーの家を見てきたんだけど」と言うと、「そうですか」と愛想笑いをしたので、やっぱりフンデルトヴァッサーか、と思ってネットで調べたら偽物のようだ。
 しかし、ここまで真似したら意匠権はどうなるんだろう、と俗物の私は思ったりした。逆にいえば、それだけの個性があるということでしょうね。フンデルトヴァッサーは気にしないでしょうが。

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ドイツの夕張といわれるヨーハンゲオルゲンシュタットを訪れる [ドイツ便り]

ドイツの先生に夕張の話をしたら、ドイツで似ているのはヨーハンゲオルゲンシュタットだわ、と言われたので行ってきた。人口の動向を見てみると、確かに夕張と似ている。この町はピーク時には人口が4万5千人を越える。戦後、ちょっと経った1950年代前半である。1940年代までは1万人を超えることがなかったので、短期的にいきなり人口が5倍へと増えたのである。しかし、それも圧倒いう間に減り、1960年代には1万人前後に落ち着く。それからの50年間は一貫して人口へ減少し続け、現在(2015年)の人口は5000人を切って人口は4000人台。ピーク人口から9割も人口が減少したという点では夕張と大変似ている。
 さて、このヨーハンゲオルゲンシュタットはツヴィカウから電車で1時間ちょっとで来ることができた。それなりに駅前には集積があるかと思ったら、何もない山の中であった。相当、不安になるがとりあえず町がありそうなところに向かって車道を歩く。標識でZentrumと書いてある方向に行こうとすると、そこからは車道に歩道がない。ただ、歩行者専用道路のような散策路があったので、そこを登っていったら集落に出た。人が歩いているが、誰もが私を見ると怪訝そうな顔をすると思うのは自意識過剰であろうか。
 ヨーハンゲオルゲンシュタットはチェコの国境沿いの街であり、現在は健康リゾート地として指定されているが、それまでは鉱山であった。そして、この鉱山とは銀や錫であったが、18世紀頃には衰退していく。18世紀末は飢饉で多くの死者を出すなど貧困の山間部集落という状況に長く置かれることになる。1929年にはドイツ最初のスキージャンプ場が設置される。1945年にはウラン鉱の発掘が始まる。ただし、それによる従業員や環境へのマイナスの影響をまったく顧みなかったこともあり、多くの旧市街地は1953年から1960年の間に撤去された。瞬間的な人口急増であった。1990年のドイツ再統一によって、手袋繊維家具産業が消滅した。そして、これは工場や住居の撤去へとつながった。
 現在はスキー場があったりして、リゾート地としてそれなりのニーズがあるような印象を受ける。プラッテンバウ団地のような建物も幾つか残されていたが、特に空室ではなくそれなりに居住者がいるようにも思われる。雇用があるとも思えないので、これはリゾート地としてここを利用する人達の別荘として使われているように推察されるが分からない。一部、建物が多く撤去されたのではないか、と思わせるような場所もあった。人口が4万人近くも減っているので、相当の空き家が生じたと思われるので、空き家があまり見られないということは撤去もされている筈なのだが、現在、4万人の人がどのように生活していたのかはなかなか復元して推察することはできなかった。
 夕張に似ているということなので、常に夕張と比較するような形で街を見ていたが、夕張と違うのは農業的な生産活動が見られなかったこと、さらにリゾート地としては夕張よりも遙かにしっかりと環境が整備されていること、などであろうか。ウラン鉱の歴史がもっと分かるような博物館的な施設があるのかと思ったが、そういうものは見つからなかった。まあ、数時間の滞在でしかなかったので、そんなに理解ができた訳ではないが、ドイツにもこういう街があるということを知ったことはプラスであった。

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(ヨーハンゲオルゲンシュタットの人口推移)

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(街中には建物が何もないのにしっかりと道路が整備されているところがある。ここに一昔前に集落があったということだろうか?)

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(プラッテンバウ団地も建っているが意外と空き家は少ないような印象を受ける)

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(町の周囲は美しい1000メートルクラスの丘陵に囲まれている)

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(プラッテンバウ団地はどうも別荘として使われているような印象を受ける)

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(プラッテンバウ団地が倒壊された後の跡地のような空き地)
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宇宙団@下北沢Basement Bar (2017/03/23) [宇宙団]

宇宙団を下北沢ベースメント・バーで観た。この日は、PoltaとyEANとの共演であったが宇宙団はトリであった。望月は黒のレスポール。一曲目は「オンタイム・ディスコ」。ライブの幕開けにふさわしいノリのいい曲だ。この曲は、「働く男と働く女」が演説調というか説教調で始まるのだが、すぐに「怒られそう」とコケティッシュな声が変わる、というアンビバレントな望月の個性がよく出ている。観客もノリノリだ。二曲目は、タイトルは知らないがこれまでの2枚のアルバムに収録されていない「チャイナって」というフレーズが印象的な、どうも中国の曲。三曲目は「Koyoi」。ベースが上手い。ベースのうねるようなフレーズだけで観客は引き込まれている。四曲目は「ファンタジア」、五曲目は「ワルツ」、六曲目は「ツアー」。「ファンタジア」と「ツアー」は私的には『星眠る島』のアルバムでも最も好きな二曲だが、その魅力はどちらとも、目まぐるしく展開する曲のドラマ性である。これはライブで再現するのは大変だと思うし、実際、ちょっと今日も完全には演奏されていないところもあったが、その素晴らしい楽曲は、まるで壮大な交響曲のような迫力を聴く者に与える。個人的には、今日のライブのクライマックスであった。この二曲を聴くためであれば、余裕で個人的には3000円は払う。あと、その間に挟んだ「ワルツ」も佳曲である。というか『星眠る島』は本当に捨て曲がない。これは、本当驚くべきことであるし、宇宙団の最大の魅力は楽曲であると改めて思われる。七曲目は「日本のヒーロー」?というおそらく新曲で、望月は「パンクバンドのようですが」と言っていたが、パンクバンドでこんな複雑なリズムを合わせることはできない。アシッド・ジャズである。というか、改めて宇宙団は演奏が上手い。楽曲のよさに目が(耳が?)いってしまう嫌いもあるし、「地味だけど情熱はある女子学生」のようなコンセプトを自らも打ち出しているので、なんか誤魔化されてしまう嫌いはあるのだが、こいつら演奏力が高い。ベースもそうだが、宇宙団の緩急入り交じった楽曲を維持するために不可欠なリズム・キープができているドラムのテクニックも相当だと思う。閑話休題。七曲目は最後の曲で「恋は宇宙」。まあ、これは鉄板ですね。鮨でいえばウニといったところか。東京事変の「群青日和」、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」、オアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」みたいな存在感を持っている。これをライブではどこに持ってくるかが重要だが、ラストか一曲目かアンコールということになるだろう。前回、私が行ったコンサートでは途中で演奏したが、途中で持ってくるのは違うであろう。やはり最後で、皆、お腹いっぱい、みたいな気分にさせてくれるのが正しいサービス精神であると思う。おまけに、この曲はベース・ソロ、ギター・ソロとあるから、そういう意味でも最後の盛り上げには適している。そして、アンコール曲は「インベーダー」。この曲の歌詞はよく分からないのだが、おじさんが歌ったらただのストーカー・ソングのような気もしないでもない。それはともかく、この曲も盛り上がる。極めて、良質なお寿司屋さんで充実したネタを食べたというような印象を受けたライブであった。こりゃ、嵌まるな。現時点では、私的には邦楽ミュージシャンでは、椎名林檎、くるり、宇宙団というようなランキングなのである。宇多田ヒカルより、遙かに宇宙団のライブには行きたいかな。下手したら本当、化ける気がする。
 
タグ:宇宙団
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エアフルトのプラッテンバウ団地でネオナチの活動場所を視察する [グローバルな問題]

 昨日のブログで、エアフルトのプラッテンバウ団地ヘレンベルグを訪れたことを書いたが、ここに実は、ネオナチの集会が行われている場所があるというので、そこに連れて行ってもらった。壁いっぱいにネオナチのグラフィティが描かれている。私にはそれがネオナチと関係があるということはすぐ分からないが、ドイツ人にはすぐ理解できるそうである。それにしても、色使いは黒、黄色、赤。ドイツの国旗と同じ色である。これが、やはりドイツ民族らしさを象徴する色なのであろうか。好奇心から、これらの写真を撮影していたら、ここに連れてきた人に「襲われるかもしれないので気をつけて下さい」と言われた。
 このネオナチの集会には、結構、小学生ぐらいからが参加し、ヒットラーの「わが闘争」を読んだりするそうだ。私は読んだことがないが、そういう右翼心を喚起するような内容なのかもしれない。ただ、我々を連れて行ってくれたコミュニティ・ビルダーの人によれば、そのような集会に参加している若者はヒットラーの思想というよりかは、政治的活動に関心を持っているものも多いそうで、リーチアウトすると意外とコミュニケーションはできるそうである。とはいえ、有色人種がリーチアウトするのは危険であろうが。
 エアフルトはどうも相当、右翼的な活動が盛んなようで、毎週2千人のウルトラ・ライトのイベントが大聖堂広場で開催されていたそうだ。この話を私はエアフルト大学のドイツ人の知り合いから、エアフルトを発った後に聞いた。もしかしたら滞在中は、我々が過敏に反応するかもしれないので教えなかったのかもしれない。
 トランプ大統領が当選してから、アメリカでも人種差別的な暴力事件が頻発しているが、そのような傾向はドイツ(旧東ドイツ)でも見られるようになっている。いろいろと難しい舵取りが求められる時代となっている。

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(ネオナチの集会場所でのグラフィティ)
 
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エアフルトのプラッテンバウ団地ヘレンベルグのコミュニティ・ビルディング [サステイナブルな問題]

 エアフルトの南にあるプラッテンバウ団地ヘレンベルグというところを訪れる。ここはエアフルトの東南に位置している。1970年代に建設され、その規模は180ヘクタールである。路面電車3号線と4号線が通ってい。1990年には15282人の人口を擁していたが2004年までに凄い勢いで人口が減少し、7993人まで減るが、それ以降はなぜか人口が安定しているというところである。ただし、高齢化率は進んでおり、住民の平均年齢は45.8歳。これはエアフルトの平均年齢よりも3歳ほど高い。
 さて、そこでコミュニティ・ビルディングを展開しているプラットフォーム・エアフルト(Platform Erfurt)を訪れ、いろいろとお話を聞く。現在、このプラットフォーム・エアフルトが活動しているプログラムとして、ヘレンベルグのコミュニティ・センターで活動する者に、年間で400ユーロ補助金を与えるというものがある。ブレイク・ダンスのグループや、ダンス・グループなどが、このプログラムに参加しているそうである。
 このプログラムを運営しているのは3人+インターンシップだそうだ。とりあえず、ヘレンベルグという団地において、人々により積極的にコミュニティ活動をする動機付けを提供することなどを意図している。そのポイントは消費的に社会・コミュニティに接するのではなく、もっと能動的に責任を恐れずに活動することを促している。社会主義時代は受身であることが生き延びるために求められた。社会主義時代を体験している人達は、あまりコミュニティに関わることをしない。そのような意識を転換したいと考えている。
 そういう意味で、現在、高齢者にアウトリーチするために、毎週火曜日の10時から14時まで無料の朝ご飯を提供するというプログラムも展開している。
 いろいろと興味深い活動で、幾つか質問をした。SNSはプログラムの普及にどのように活用しているのか?と尋ねると、他の地区にはSNSは結構、効果的ではあるのだが、ここはあまり効果がないという返事がきた。また、プログラムを運営する課題に関して尋ねると、市役所に予算を毎年申請するのだが、その事務書類があまりにも面倒臭い、と回答したので私も苦笑いをしてしまった。ここでは就業時間の3分の1は、このような役所への申請書類作成とその折衝に費やされてしまう、と苦情をこぼしていた。しかも、プロポーザルでは何か新奇性が求められているので、企画書作成にも苦労をするとのことである。それにも関わらず、それを評価する時間も余裕もなく、また新しいアイデアを出さなくてはならないそうだ。
 日本も同じような状況にあるが、この役所のための仕事の多さが、まさに経済活動の障壁になっているというのは、ドイツも同じのようだ。

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(我々の取材に応じるプラットフォーム・エアフルトの職員)

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(ヘレンベルグのプラッテンバウ団地)

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(これは団地の建物を撤去した跡地)
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ドイツ版の「夕張線」に乗り、夕張線の廃線のことを考える [都市デザイン]

 ドイツのエアフルト大学で夕張の話をしたら、「ドイツにも似たようなところがある。それは、ヨーハンゲオルゲンシュタットという町だ」と言われたので、早速、日曜日に訪れることにした。このヨーハンゲオルゲンシュタットはチェコとの国境沿いの町で、もう旧東ドイツの地の果てという感じではあるが、なんと鉄道が走っている。
 これはツヴィカウの中央駅とヨーハンゲオルゲンシュタットとを1時間ちょっとで結ぶ線路である。終点はヨーハンゲオルゲンシュタットなので、ヨーハンゲオルゲンシュタットが夕張であれば、これは夕張線のようなものであろうか。そういうこともあって、ツヴィカウに前日に入り込んだのだが、ツヴィカウのホテルは中心市街地にあり、中央駅からはタクシーで12ユーロ(徒歩20分ぐらい)の距離にあった。これでは、荷物を持って移動するのは無理だ。しかし、中央駅には荷物預かり所もロッカーもない。というか、中央駅と中心市街地は路面電車で結ばれているのだが、なんと土曜日と日曜日はこの路線は運休していたことが最大の計算違いであった。
 どうしよう、と思っていたら、この「ドイツ版夕張線」は日曜日も運行している中心市街地を通る路面電車の沿線の駅と400メートルぐらいの距離に駅があることが分かった。中央駅から2つめの駅である。これなら、ホテルに荷物を預けて、路面電車に乗れば「ドイツ版夕張線」に乗ることができる。
 さて、その日は日曜日ということもあり、ホテルで朝食を取ることにした。ドイツは日曜日では観光地とガソリンスタンド以外は、ほぼ閉店しているので、朝食を町中で得ることはほとんど不可能だからである。ただし、朝食は7時からであった。ということで、朝食を最速で食べて間に合う時間の列車に乗ることにした。
 ちなみに「ドイツ版夕張線」は1時間に1本走っている。さて、路面電車をツェントラムから乗り、3駅目のシュタット・ハレで降り、そこから歩いてシュデヴィッツという駅まで行く。こういう時は、iPhoneは本当に役に立つし、心強い。駅のホームには電車到着の10分ぐらい前に着いた。そこでぼんやりと列車を待っていると、鳥のさえずりが聞こえてくる。ザクセンの地方部の心穏やかになるような光景だ。
 さて、この「ドイツ版夕張線」は非電化ではあったが、なんと複線であった。途中、一本しか行き交うことがなかったから、過剰投資であると思われるのだが、昔は貨物を含めてもっと多くの列車が走っていたのかもしれない。この列車は随分と牧歌的で美しい田園風景の中を走って行く。30分ほどでちょっと大きな町に出る。随分と高いトンネルが建っている。協会も立派だ。AUEという母音が3つ重なるだけの町名は、一体、どうやって発音するのか分からない。アーユーか。ちなみに、このAUEから先は単線になり、ダンダンと山は険しくなっていく。列車は川沿いを走っていく。私はドイツの非電化の鉄道路線を結構、乗っているが、それらと比べても車窓の自然美や街並みの景観はなかなか素晴らしい。
 さて1時間ちょっとでヨーハンゲオルゲンシュタットに着いたのだが、日曜日の朝ということもあるのかもしれないが、乗客はまばらであった。平均して10人前後だと思われる。車両は2両でトイレ付き。おそらく相当の赤字であろう。しかし、ドイツではこういう赤字路線でも鉄道が運行されている。もちろん、補助金を受けているからだろうが、その補助金の根拠は何か、というと地方へのシビル・ミニマムを確保するという意識がしっかりとしているからだろう。
 ヨーハンゲオルゲンシュタットがどの程度、夕張と類似しているかは、これから調べたりしないと不明だが、夕張線が廃線になることを考えると、なぜ、このドイツ版夕張線は、しっかりと運行されているのかをしっかりと検証するべきではないかと思われるのである。
 このヨーハンゲオルゲンシュタットを含む旧東ドイツは東西ドイツの再統一以降、日本などと比べものにならないほど激しく人口が縮小した。しかし、それから27年経ち、一部の都市は人口減少が留まり、回復傾向がみられる。ライプツィヒのように1990年時にまで人口が戻ったところさえある。
 ヨーハンゲオルゲンシュタットはどうなるかはまだ不明だ。ウラン鉱山ということで、ドイツが原発を廃止する政策を決定したことで、さらにその将来は見えないであろう。しかし、その人口減少を加速化させるようなこと、例えば、ツヴィカウという地方中心都市とを結ぶ鉄道を廃線するような判断はしていない。そこに日本と大きな違いが見いだせる。夕張線だけでなく、留萌線、三江線も廃線予定である。これらの鉄道がもたらした意義を、単に鉄道会社の採算だけで見てしまっていいのだろうか。これが、本当に日本政府が地方のこれからの将来に対して考えた結論なのだろうか。高齢化が進み、地球温暖化が進み、化石燃料が枯渇していく中、地方部の交通を自動車に依存するのは愚かである。そのような愚かさは、人々をさらに地方から都市部へと移動させることになるだろう。
 自動車は無人運転される時代がくるからいいのだ、と思うのであれば、無人運転されるようになれば、さらに土地利用の高度化が移動の効率化に求められるようになって地方部は不利になるのだ。そして、その不経済によって物の値段などは都市部に比べて遙かに高くなる。
 そのようなことをいろいろと考えさせてくれた、ドイツ版の夕張線であった。

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(ほとんど乗客がいない車内)

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(美しいザクセンのフォクトランドの景色の中を列車は走る)

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(終点、ヨーハンゲオルゲンシュタット駅ではチェコの鉄道も入っている。チェコの国境はここから1キロメートルしか離れていない)
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プラウエン [ドイツ便り]

 久しぶりに朋友であるフランク・ローストと会って話をする。彼はもう1998年頃からの付き合いで、ドルトムント工科大学に私が客員教授でいけたのも彼のお陰である。私が彼と知り合ったのは、彼がベルリン工科大学で教えていた時で、私と彼がフロリダのフォートラウダーデールのシンポジウムにシャロン・ズーキン女史に呼ばれて話をしたのがきっかけであった。2000年頃だったかと思う。さて、フランクとは都市にまつわる会話で、いつも止まらないほど盛り上がるのだが、旧東ドイツの縮小都市話をしていたら、ところでプラウエンに行ったか?と聞いてきた。私はプラウエンというレースの刺繍で有名な町があることは知ってはいたが、大した関心をもっていなかった。すると、フランクはプラウエンは面白いぞ、と言う。彼の面白いぞ、には絶大なる信頼を持っている私は、早速、プラウエンに向かった。プラウエンは私が滞在しているエアフルトからだと2時間30分ぐらいかかる。ゲーラで乗り換え、さらにもう一回乗り換えてプラウエンに着いた。
 プラウエンのドイツ鉄道の中央駅はおそろしく貧相で、その縮小都市感は半端ない。15年ぐらい前はこのような駅は結構、多かったが、それから随分と投資が為されて綺麗になっているので、何か懐かしささえ覚える。ただ、ドイツの都市は中央駅の貧相さでそれを過小評価すると後で酷い目に遭う。典型的なのはデュッセルドルフであるが、ブランシュヴァイクなどがまさにそうだ。どうしてかというと、多くの都市において鉄道駅は町外れにつくられるからである。さて、ただ、この貧相な中央駅に路面電車が乗り付けている。そして、この路面電車に乗って都心に向かったら、とても人口10万前後の都市とは思えないほど賑わっていた。路面電車は途中から、トランジット・モールになり自動車は入れない空間になっている。金曜日の午後ということもあるかもしれないが、道には人が溢れている。これが縮小都市?と思うほど、日本の同規模の都市と違って賑わいを感じてしまう。これは、自動車が都心部に入っていないので、人が多く町中に出ているからだろう。
 プラウエンはフォグトランド県の中心都市として位置づけられている。それは、バーバリアとの州境、チェコの国境そばに位置しており、そういう意味ではドイツの端っこの都市である。産業革命後の20世紀後半から、プラウエンは繊維産業の中心となり、特にプラウエン・レースと呼ばれる刺繍製品で有名となった。そして、1910年には周辺地域でのブームタウンとなり、同年の人口は12万1000人、1912年には12万8000人まで増加した。プラウエンはまたババリア地域以外では、1930年代に初めてナチ党の会合を開催した都市でもある。これは、当時のこの都市の重要性を物語るともいえよう。
 さて、しかし第二次世界大戦中から既にプラウエンの人口は大幅に減少し始める。1930年には11万4211人の人口が1950年は8万4485年、1990年は7万1774人と旧東ドイツでもずるずると人口は減少していく。東西ドイツが再統一した後、他の都市と違ってそれを契機に急激に人口が減少するようなことはなかったが、ひたすらずるずると人口を減少させている。そういう意味では、非常に興味深い動きを示している。

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(プラウエンの人口推移)

 プラウエンのもう一つの特徴としては、何しろ公共交通が不便ということが挙げられると思う。プラウエン中央駅はゲラからでも一度、乗り換えないと来ることはできない。ドレスデンからも直通列車は走っているがICEどころか通常の特急列車も走っていない。ただの快速列車である。以前は、ドレスデン-ケムニッツ-ツヴィカウ-プラウエン- ホフ- ニュンベルクといったルートで特急列車が走っていたかと思われる。さらにライプツィヒとは直通電車も走っていない。そして、そもそも中央駅が町の端っこにあるため不便である。
 ケムニッツ、ツヴィカウ、プラウエンといった南ザクセン地区は、ドイツにおいてもルール工業地帯に次ぐ大工業地帯であった。第二次世界大戦後においても、旧東ドイツの重要な工業地帯として位置づけられたが、東西ドイツが再統一された後からはその競争力のなさから、次々と工場は閉鎖。その結果、急激な人口減少を体験している。ただし、プラウエンに対しては、旧東ドイツでもこの地区に存在しながら、その工業の重要性は低かったので、既に旧東ドイツ時代から人口が減少していたのは前述した通りである。
 そして2008年には、プラウエンは都市地区の指定も外され、今では単にフォグラント県の管轄下に入ってしまっている。
 滞在時間は短いので、効率的に見なくてはならないということで、トラムの一日券を購入して、当てもなくトラムに乗る。トラムに乗ればプラッテンバウ団地が見られるかなと期待したのであるが、トラムの終点はどちらかというと牧歌的な郊外住宅地であった。しかも結構な高級住宅地であり、これは往年のプラウエンの繁栄の名残ではないかと思われる。どうもプラウエンのプラッテンバウ団地は郊外ではなくて、都心部と駅周辺部にあるようだ。そして、その供給数は多くないと推察される。プラッテンバウ団地は、ホイヤスヴェルダやアイゼンヒュッテンシュタット、ズールのように計画的に工業都市、行政都市として位置づけ、急激な人口増加に伴い急激に現れた住宅需要に対応することが目的でつくられた訳であるから、プラウエンのように旧東ドイツ時代から人口減少都市においては、それほど供給する必要がなかったのかもしれない。ここらへんは、しっかりと調べて書いている訳ではないので、相当いい加減であることを断っておく。
 さて、60年以上の人口減少、さらには最近での都市格の降格など、踏んだり蹴ったりのプラウエンであるが、金曜日の午後ということもあるかもしれないが、都心部のトランジット・モールには多くの人で溢れていた。どこから湧いたのか、というぐらいの多さで、これはぱっと見、とても縮小都市であるようには見えない。ドイツは空き家を、空き家らしく見せない、空き店舗でもウィンドウ・ショッピングができるようにするなど、いろいろと縮小のダメージを緩和させる対策を採用しているが、都心部に歩行者専用空間を設けて、賑わいを演出するというのも、縮小対策としては極めて優れているのではないだろうか。単に、都市をコンパクトにすれば人が集積するのではない。人がたむろし、自動車を気にせず、歩ける空間をしっかりと整備してこそ、縮小都市においても初めて活気が生まれるのではないか。ということをプラウエンというベテランの縮小都市において思ったりした。
 4時間にも満たないプラウエンへのフィールド・サーベイであったが、帰りは中央駅からではなくプラウエン・ミッテという駅からフォクトランドバーンという鉄道で帰る。これだと、ゲラ駅まで直行で帰れる筈だと思ったのだが、途中の駅で降ろされ、バスで駅まで行かされた。これは、おそらく線路工事をする必要が生じたためで臨時の措置であると思われるが、思ったより遙かに帰るのに時間がかかってしまった。

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(中央駅の無粋な建物)

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(中央駅前のプラッテンバウ団地とそこを走るトラム)

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(郊外の住宅地)

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(丘に建つ住宅)

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(丘からは中心市街地が展望できる)

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(縮小都市とは思えないほど多くの人が中心市街地のトランジット・モールを歩いている)

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(トラムが走るトランジット・モール)
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エアフルトからイエナ、ゲラの鉄道路線は非電化である [ドイツ便り]

 その昔、というか2002年以降であるが、ライプツィヒからフランクフルトまでICEに乗るとGera、Jena、Erfurtという都市を通っていた記憶がある。しかし、今ではGeraもJenaも通らない。これは、ライプツィヒからエアフルトへとICEの直行便が完成したからである。
 今回、エアフルトに滞在しつつ、これまで訪れたことがなかった縮小都市を視察しようと考え、プラウエンとツビッカウに行くことにした。両方の都市とも、エアフルトからだとJenaとGeraを通る。そこで気づいたことだが、ErfurtからJena、Geraを通る路線は未だ非電化であるということだ。Jenaはそれでも電化の路線が一部あったが(これは、おそらくライプツィッヒからHofを通ってニュンベルク、ミュンヘンへと行く路線であると思われる)、Geraに関してはすべての路線が非電化であった。
 現在、ベルリンとミュンヘンを結ぶルートはHofを通り、ライプツィヒを抜けるのが主流であるが、ライプツィヒではなくハレ、エアフルトを抜けるICE専用路線が工事中である。これが出来るとJenaの位置づけが下がり、Erfurtの重要性、拠点性がさらに高まるであろう。
 このように高速鉄道、地域鉄道のネットワークが、東西ドイツが合併してから大きく変化している。また、これらの社会基盤は一朝一夕で出来ないので、一部、具体化したところは大きな変化をみているが、そうでないところは、まだその影響が発現されていない。例えば、ハレは統一直後こそ、ハブ的機能のほとんどをライプツィヒに持って行かれたが、新しいICE路線ができるとむしろ有利になる。一喜一憂出来ないし、短期的にその効果を評価しても拙速の誹りを免れない。
 さて、旧東ドイツにおける、これらの鉄道ネットワークの変化による勝ち組はどこであろうか。すぐ浮かぶのがチューリンゲン州都のエアフルトである。そして、ICEの新路線ができるとどうなるかは不明だが、これまではライプツィヒ。負け組としては、圧倒的にゲラであろう。そしてイエナか。またデッサウは完全にルートから外れた。これもビフォア・アフターは不明だが、現状ではまったくネットワークから外れている感じである。あとケムニッツ、ツヴィカウ、プラウエン、ズールといった都市はその規模に比して、鉄道サービスが劣悪のような印象を受ける。あと大きな都市でいえばマグデブルクか。
 ドイツの都市は人口規模が同じような都市が多いので、鉄道ネットワークに乗るか、反るかで大きな違いが生じるかどうかを検証するのにはうってつけだと思う。そして、それから得られる知見は、どんどんローカル線を廃線にしている日本においても、そのマイナスの影響を探るうえでの参考になるであろう。

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旧東ドイツの縮小都市に難民が多くいる理由 [グローバルな問題]

 旧東ドイツの縮小都市へ行くと、多くの難民と思しき人達がいる。ライプツィヒやエアフルトならまだ分かるが、プラウエン、ツヴィカウといった将来、どうなるの?と他人事ながら私でさえ心配するような都市や、なんとドイツの夕張と言われるヨーハンゲオルグシュタットでも見かけた。
 何でこんな「僻地」にいるのだろうか。と疑問に思ったのだが、それには理由があることが分かった。難民はドイツに受け入れられる際に、住む場所を選べずに、指定されていたのである。そりゃそうだろう。自ら、こんな雇用もなく、将来への展望も見えない都市には来ないであろう。最近では、難民達も住みたい場所に住めるように法律が改正される方向にあるようだが、難民達も大変だ。ツヴィカウに雇用があるとは思えないし、ドイツ人でさえ仕事を得るのに汲々としているのに、難民がそれらの仕事を取ったら反感を買うだけだ。これはつらいな。
 私はプラウエンで物乞いをしていた、若い中東系の男性をみて、そういうことをしているとドイツ人の中東系の人達へのイメージが下がるだけだから止めればいいのにと思ったりしたのだが、なかなか彼らにとっては、そうでもしないと生活できないほど厳しい現状もあるのかもしれない。
 一方で、これら難民(一部は移民かもしれない)を受け入れている縮小都市にとってはメリットが多い。それは、人口減少が緩和されるからである。人口減少を厭わなければ、難民を受け入れなくてもいいだろうが、人口減少を阻止するためには、これは相当の即効薬である。ただ、通常は都市に人口が集積するのは雇用があるからであるが、雇用という引力がなく、市場の力が働いていないのに人口を増やすということは、様々な弊害も生じるだろう。うまく、難民達が新しい経済をつくりだせるといいのだが、その環境づくりは自治体や国も支援するといいような気がする。難民を受け入れるのは、縮小都市問題を解決する必要条件かもしれないが、決して十分条件ではないと思われる。
 

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ドイツの肉屋 [B級グルメ雑感]

 エアフルト大学の先生が、自分は留守にしているのでアパートを使っていいよ、と言われたので遠慮せずに使わせてもらっている。単身世帯向けで1Kの部屋であるが寝室や浴室が広いので空間的には贅沢な印象を受ける。このアパートはエアフルトの北、ドーム・プラッツから歩いて10分ぐらいのところにある。さて、朝起きて朝食を取りに町中に出る。エアフルトはチューリンゲン州の州都であり、チューリンゲンといえばソーセージである。そこで、チューリンゲン・ヴルストと看板を掲げていた店に入ったら、そこはレストランではなく肉屋であった。ドイツの肉屋は、しかし、そこで簡単な料理も提供する。ということで、そのままそこで食べることにした。注文したのはグーラッシュで、これはジャガイモとグレイビー・ソースに肉が煮込まれたものという感じで、いかにも一般庶民が食べるような料理であったが、まあ悪くはなかった。これで5ユーロ50セントである。
 ドイツは肉屋が儲かる。赤いフェラーリはドイツでは肉屋の車とも言われるのだ、と誰かに教えてもらったこともあり、本当かよ、とそのときは半信半疑というか信じてもいなかったが、実際、ドイツに住んだら、本当に肉屋が赤いフェラーリに乗っていた。これは、肉屋が儲かるからだ。ドイツで販売する肉は保存料をほとんど使えないので、すぐ腐る。したがって、頻繁に買わなくてはならず、結果、スーパーとかで買う人は多くなく、肉屋で買うのだ。私が住んでいたデュッセルドルフでもそうだったが、エアフルトの肉屋も繁盛していた。ちょっとしたカフェ的なコミュニティのハブになっている気もする。日本は生鮮三品の店が商店街からほとんど消えかけているが、このような店が商店街にあると、それらを核として、商店街がコミュニティのハブになれるのだ。昔は、日本の商店街はその人口密度の高さや自動車の依存度の低さなどから、ドイツの商店街よりさらに活力を有していたにも関わらず、現在はドイツのように元気な商店街は本当、東京大阪などの大都市だけになってしまっている。ドイツは人口20万程度の都市でも商店街が元気である。そして、商店街が豊かな都市の方が、遙かに人々の生活も豊かであると思われる。

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ドイツの鉄道は上下分離しているので乗るときは注意が必要だ [ドイツ便り]

 ドイツ鉄道は上下分離している。そして、ドイツ鉄道以外のサービスが増えてきているので乗るときには注意が必要だ。というか、例えばハンブルグからケルンに向けては、ドイツ鉄道の特急列車と違う会社の特急列車が走っている。したがって、ドイツ鉄道の切符を買って、この違う会社の特急列車に乗ろうとしても乗れない。このような流れは最近のトレンドのようで、ドイツ人も結構、混乱していると思われる。
 さて、上下分離が特に進んでいるのは縮小激しい旧東ドイツだと思われる。運行頻度も低く、サービスの悪いドイツ鉄道に対抗して、多くの地域鉄道が走っている。これは、サービス供給が増えるということでは、地域にとっては好ましいことではあるが、外国観光客にとったら、チケットを購入する時に細心の注意が必要となる。特に乗り継ぎをする時は大変である。まあ、何回か乗ればシステムも理解するのであろうが、最初は相当、注意しないと酷い目にあうだろう。
 酷い目といえば、私がゲーラからプラウエンに行くために乗ったエルスター・ザール鉄道は、途中の駅で行き先が二つに分離するのであるが、それは車掌に言われるまで気づかなかった。これは、急いで車両を乗り越えたので大丈夫だったが、もう一つは、この列車はバスと同様に、ボタンを押さないと止まらない駅が幾つかあったことである。これは、路線地図を見ていて気づいたことだったが、これを見なかったら気づかなかったかもしれない。
 このように外国人観光客からすれば、なかなか難しいドイツの上下分離であるが、それはともかく、これは地域コミュニティを維持するためには非常に重要な社会インフラだと思う。特に留萌線、三江線、夕張線など多くの地方路線の廃線が計画されているが、それらも線路というインフラを維持させて、誰かに走らせることはいつでも出来るようにしておくといいと思うのである。そして、線路は道路と同じような極めて公的な社会基盤であると位置づけて、税金で管理するといい。今のように赤字だから廃線などを続けていくと、地方は間違いなく衰退するであろう。というか、世界中に黒字の鉄道旅客サービスなどは日本を除くとほとんどないことを誰かお願いだから、霞ヶ関の役人と国会議員に教えて欲しい。

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ズールという不思議なドイツの山間都市に行った [都市デザイン]

 エアフルト大学の先生達に連れられてズール(SUHL)というチューリンゲン州の都市に行った。あまりにも知らなかったので、それはてっきりチェコとの国境沿いにある都市なのかと思ったら、まったくちがって、むしろヘッセン州側にある都市であった。チューリンゲン州の南部は、チューリンゲン・ハイランドという標高1000メートル前後の山地が東西に拡がっている。チューリンゲン州はほとんどが、このチューリンゲン・ハイランドの北に当たるのだが、このズールは南にあり、また、その南は旧西ドイツであったため、今でこそドイツの地理的真ん中に位置しているが、旧東ドイツ時代は、山と国境に隔たれた僻地という位置づけであった。もう少し、具体的に説明するとエアフルトの50キロメートル南西、ヴルツブルクの68キロメートル北東といったところである。
 ズールは旧東ドイツにおいてはエアフルトとゲラと同じくチューリンゲン州の3つの地域の中心都市であり、東西ドイツが再統一された後も、人口は35000人と少ないがチューリンゲン州の6つの都市の一つである(前述の2つに加え、アイゼナハ、イエナ、ヴァイマールから6つの都市は構成される)。
 ズールの記録が残るのは14世紀頃からである。その当時は鉱山と鉱業の町であった。その後、産業革命を経ると、ズールはドイツの軍需生産都市になる。特にライフルと銃に特化した。また、シムソンという自動車、オートバイの会社もここを拠点にした。ちなみに山がちの地形のズールにおいては、農業はほとんど営まれなかった。一方で林業は盛んであった。
 ズールは1952年に旧東ドイツの14の地域の中心都市として指定される。これは、その人口規模などを考えると意外ではあるが、その地理的に周辺の都市と隔離されていたことなどから選ばれたと考えられる。ちなみに、他の13の都市はライプツィヒ、ドレスデン、フランクフルト(オーダー)、コットブス、エアフルト、ゲラ、ハレ、カール・マルクス・シュタット(現在のケムニッツ)、マグデブルグ、ノイブランデンブルグ、ポツダム、ロストック、シュヴェリーンである。基本的には人口が10万人以下はノイブランデンブルグとフランクフルト(オーダー)ぐらいである。しかも、この二都市でもズールよりは人口は多い。つまり、14都市の中で最もズールは人口規模が小さい中心都市であったことが分かる。
 さて、しかし経済地理的な要因ではなくとも都として指定されたことで、それなりの雇用が生じるし、また都であるために、1960年代には社会主義のシンボル的な建築物が多くつくられ、それは現在でも多くが残されている。そして、東西ドイツ統一後は、この行政的な機能を失い、また工業も競争力がないため、雇用を失い、多くの人口を流出させ、減少が進むことになる。1988年に比べるとズールは35%の人口を失った。
 ズールのそもそもの人口であるが、1935年ぐらいまでは15000人前後で安定していた。しかし、第二次世界大戦が始まると軍需が増えたことに伴い、1940年には26000人まで増える。旧東ドイツになっても武器への需要は減らず、また前述した行政機能も加わり、1988年には56000人まで増加する。しかし、そこからジェットコースターのように下り一方に下がるのである。2015年には36858人まで減る。
 ズールの人口減少においては、ライプツィヒやコットブスのような郊外への人口流出というのはほとんど見られなかった。というのも、小さな盆地というよりかは、谷間につくられた都市のようなものなので郊外化する余地もなかったからである。その人口減少の主要因は旧西ドイツや周辺の大都市への流出である。ライネフェルデのように、そこに住んで旧西ドイツに通うほどは交通の便がよくなかったので、そのまま移転する人が多かった。
 幾つかの社会指標をみると移民の少なさと失業率の低さが相対的に目立つ。しかし、移民の少ないのは、移民にとっても魅力が少ないため、そして失業率の低さは、失業者がこの都市に留まらないからだそうだ。
 公共交通に関しては、ズールは山がちのため、鉄道が通るのも遅く1882年にヴルツブルクと結ばれ、1884年にはエアフルトと結ばれる。現在でも、この路線は通っている。大戦前は、この路線はベルリンとドイツの南西部を結ぶ重要な役割を担ったが、東西ドイツが分裂し、現在に至るまで特急列車がここを通ることは再統一以降の一瞬を除くとなかった。
 この都市、実際、訪れると、社会主義時代の高層ビルが谷間に林立し、その下にやはり社会主義時代につくられた低層の集合住宅が展開するなど、極めて旧東ドイツの空気を以前、放っている都市である。コットブスやゲーリッツ、ヴァイマールといった歴史的な雰囲気はほとんどなく、ちょっと異様な感じを受ける。軍需都市ということで、爆撃を相当、受けたことも関係があるのかもしれない。
 土地の制約の大きさ、歴史的アイデンティティの無さなど、この都市を再生させる方法を考えるのはいろいろと難しいのではないか、と思いながら町を歩いた。

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(社会主義時代につくられた公共施設)

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(都心部につくられたショッピング・センター)

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(都心部の建物。社会主義的なファサード)

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(東西統一後につくられた建物と社会主義時代につくられた高層ビル)

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(社会主義時代につくられたテラス・ハウス。大通り沿いなのでちょっとオシャレなファサードになっている)

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(高層ビルは社会主義時代につくられた)

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(ズールに残った数少ない工場)

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久しぶりにドイツ鉄道に乗ったら、やっぱりやられた [地球探訪記]

 久しぶりにドイツ鉄道に乗ったら、やっぱりやられた。その日はチューリッヒからエアフルトまで移動しなくてはならないのだが、本来であれば一回乗り換えでいいはずであった。二つともICEなので、ある程度は安心していた。しかし、ベーゼル駅に止まると、この列車はもう走らないので後続の列車に乗り換えろと言われる。またかよ。といいつつ、まだフランクフルトでの乗り換えは可能な時間で着きそうだ。
 さて、そのフランクフルトであるが、どうもフランクフルト中央駅が工事中らしく、フランクフルト南駅がICEの始発になっているようで、そこで乗り換えなくてはいけないことを同乗の客に教わった。そこまではいいのだが、この二本目の列車も案の定、遅れてうまく接続できなかった。次の便に乗ろうとしたら時刻表は出鱈目!工事期間中のと、そうでないのと二つの時刻表が掲示されている。どうにもよく分からないので、ネットで検索したら、この二つの時刻表とはまったく違ったものが出てきた。何だ、何だ。しかも、エアフルト行きのICEは二時間に一本ぐらいの割合だ。そのような状況なので次の列車を乗り損ねるためには極力避けたいのだが、そもそも列車が遅れているのでダイヤが乱れまくっていて、もう何が何だか分からない。しかもホームが二つあるので、どちらに列車が来るかも分からない。茫然自失としていたら、反対側に止まっていた列車がライプツィヒ行きと記されている。そうか、ネットが正しいのか。ドイツ人を押しのけて飛び乗ったらどうにか乗ることができた。しかし、本当、ドイツ鉄道だけはドイツ人の正確さや生真面目さとは正反対の印象を与える。

タグ:ドイツ鉄道
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トランプは人の恐怖心につけ込む [トランプのアメリカ]

 トランプのフロリダでの遊説で、架空のスウェーデンの移民による事件をでっち上げたことは、スウェーデンの元首相のツィートを初めとして随分と世界規模で物議を醸しているが、この発言が示唆したことは2つあると思われる。
 一つは、トランプは自らがフェイク・ニュースと攻撃するマスメディア、特にケーブルテレビを熱心に観ているということである。そして、そのマスメディアを情報源としていることだ。CIAなどのブリーフィングをあまり当てにしないで(ブリーフィングの時間にツィッターを発信したりしている)、フェイク・ニュースと揶揄しているマスコミばかり観ているのは自己矛盾も甚だしいが、それが実態である。そして、その番組もあまりしっかりと観ない。今回のスウェーデン発言はフォックス・テレビが元ネタであるが、ニュース番組と報道ドラマとを同一に捉えてしまっている。こんな適当に観ていて、よくフェイク・ニュースと言えたものだ。
 さて、もう一つは、トランプは自分の支持を増やすために巧みに「恐怖心」を煽っていることである。メキシコから不法で移民してきた人達が強盗を働き、レイプをする。大統領(当時は、候補だったが)がそのような発言をすると、そのまま信じてしまう人がアメリカではいるのだろう。大統領という肩書きはそれほど、まだ水戸黄門ではないが輝きを持っているのではないかと思われる。というか、どうみてもあれだけ出鱈目を言っているのに、それでもマスコミではなくてトランプを信じる人が多いのは、私の理解を超えている。
 理解を超えているということでは、オバマが任期満了時の失業率が4.9%というのを「嘘のデータ」だとトランプはいい、実際は35%ぐらいであろうと言った。しかし、自分が大統領になってから初めて出された数字である4.7%は「本当のデータ」であると言っている。
 人は恐怖に襲われた時、真実を求める。その真実が何かが分からない時、その恐怖は加速する。アメリカはつくづくとんでもない人を大統領に選んでしまったと思う。恐怖に囚われずに、真実を求める姿勢が今、アメリカ人、そして周辺諸国の人々も求められる。
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ビバ!ボローニャ [都市デザイン]

イタリアのスローシティと縮退都市のトリノを視察調査するという旅行をして、特にスローシティは期待外れもいいところだったのでがっかりしたのだが、ボローニャに来て、イタリアに対しての失望はすべて払拭された。ボローニャ素晴らしい。ということで、どこがそんなにボローニャが素晴らしいか、簡単に整理させてもらえればと思う。
1)まず、先日のブログにも書いたように料理美味しい!というか、イタリアではどこでも美味しい料理が食べられるのかもしれないが、私はミラノのホテルの朝食を除くと、初めてといいぐらい4泊目のボローニャで美味しい料理を食べられた。今回の料理ではイタリア料理が美味しい訳ではなく、ボローニャの料理が美味しい、というのが分かった。ということでボローニャは素晴らしい!2)人が町中に溢れている。ボローニャは人口が30万人弱の都市なのに、金曜の夜はレストラン街は人で溢れている。大通りも自動車の規制がされており、都心部はまさに人間が主人公空間で多くの人があるいている。素晴らしい!
3)都心部の商店街には、八百屋、魚屋、肉屋という生鮮食料品3店がしっかりと営業している。その隣には花屋、さらに一軒挟むと総菜屋、酒屋。もう、これだけでここに住みたくなってしまう。都心部の商店街に個人経営の生鮮食料品3店。グローバル化に対抗して都市を持続させるための有効な処方箋ではないだろうか。素晴らしい!
4)都市は建物と建物の間の空間と人から構成されている。というのが私の最近の持論であるが、ボローニャの中心道路である「ヴィア・デリペンデンツァ」を歩いていたら、「あ!ボローニャこそ都市を極めて鋭く表現している」と思った。その威厳はあるが、威圧感のない建物に囲まれた街路空間がつくりあげる素晴らしいスケール感、建物と街路との境目を柔らかさせるポルティコ、そして、その街路空間を楽しそうに歩く多くの人々。これこそが理想的な都市空間なのではないかと思ったぐらいである。素晴らしい!
5)写真は撮影できなかったのだが、ボローニャには美男か美女しかいません。私の教えていた留学生でボローニャ出身の女性がいて、えらく美人だったのだが、彼女だけではなく、ボローニャの人達は皆、女性だとえらい美人、男性はほとんどイケメンということが分かった。こんなに美人とイケメンばかりの都市を訪れたのは、個人的にはアルゼンチンのメンドーサいらいである。ということで素晴らしい!

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(夜でも多くの人が屋台のお店で週末を楽しんでいる)

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(生鮮三品を初めとして、都心の商店街には多くのローカルの小売店が存在している)

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(中心通りの「ヴィア・デリペンデンツァ」の空間スケールは見事の一言に尽きる)
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ボローニャでようやく美味しい食事にありつけた [B級グルメ雑感]

 イタリアで4泊目。ミラノ、オリヴィエート、ボローニャ。これまで、何回か食事をしたがイタリアらしい美味しいワインや食事にはありつけなかった。これは、スローシティの拠点であるオリヴィエートにわざわざ行ったことを考えると、大変外していると言っていいであろう。さて、しかしボローニャでは、夕食そして昼食ともに大当たりであった。イタリア最後の日に、イタリアならではのクオリティの高い食事を取ることができ、ホッと胸をなで下ろすと同時にボローニャの底力を知らされた気分である。
 ボローニャでは遅い夕食を取った。マジョーレ広場そばのTamburiniという店である。ボローニャの金曜日の夜、マジョーレ広場そばはとてつもなく混んでいる。狭い路地などは、立錐の余地もないほど人に溢れていて、そこを通り抜けることを難儀するような状況だ。何かパーティーとかイベントがある訳でもないらしい。そのように混んでいる状況で、どうにか座ることができる店を探して、そこに入ったのである、
 ボローニャはパルマが近い。ということで、パルマの生ハム、パルメジャン・チーズ、そしてタコとジャガイモを煮たもの、そしてサラダを注文する。ワインはピエモンテ州の赤ワインで、グラスユーロのものであったが、これは美味しかった。私は赤ワインが苦手なのだが、これは流石に私でも美味しさが分かるようなふくよかで奥深い味であった。もちろん、生ハム、チーズは文句なしの美味しさである。これはイタリア4日目でほとんど初めてと言っていい、美味しい食事であった。
 さて、翌日は午後にボローニャを発たなくてはならないのだが、昼ご飯は是非ともボローニャでと考えて食べに行く。ボローニャはどうもトルテリーニが名物らしい、ということでホテルの人にどこが美味しいかと尋ねて教えてもらった店に行く。この店も昨日と同じようにマジョーレ広場のそばにあった。ホテルの人に13時には長蛇の列で大変混み合う、と言われたので11時30分頃に行く。ちなみに店を出たのは12時15分頃であったが、そのとき既に30人ぐらいの長蛇の列ができていた。ということで、相当な有名店であると思われる。トルテリーニは3つのメニューがあったが、私は普通のチーズをからめたものにした。もう一つはワンタンのようにトルテリーニがスープに入ったもの、そしてベジタリアンのものであった。東京で言えば美味しい餃子屋みたいな感じなのだろうが、これはちょっとそうそう日本でも食べられないレベルであると思う。本場の凄さ、というかイタリアの底力を知らされた。
 スローシティでは、まったく食文化という点からは期待外れであったので、イタリアのスローシティ、スローフードも看板倒れなのかと疑っていたのだが、ボローニャでそのような歪んだ偏見は吹っ飛んだ。ボローニャ素晴らしい!

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(素晴らしき赤ワイン)

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(生ハムとパルメジャン・チーズ。鉄板ですね)

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(たことジャガイモのサラダのような料理

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(ボローニャ名物のトルテリーニ。これは素晴らしい!)

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