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トランプが大統領であることが示唆すること [トランプのアメリカ]

知人であるニューヨーク市立大学の教授であり、日本でも著書が翻訳されているシャロン・ズーキン先生の家に行き、徒然とお話をした。そこで、私が最も気になっているトランプがなぜ大統領になったのか、その背景に関して、このアメリカでも傑出した知性に尋ねたのだが、トランプを支持する人が4割近くもアメリカにいることはまったく私の想像を絶する、と回答された。この回答には、正直、ちょっとガクッときたが、二年間、トランプ・ウォッチをしてきた私は、トランプを支持しているアメリカ人が倫理的でないからだと考えるようになっている。こちらのニュース番組でも、「ペロシ下院議長が宇宙人である」とトランプが発言したら、それを鵜呑みにするアメリカ人がいると言っていたが、これは冗談ではなくてどうも真実のようだ。まあ、今でもダーウィンの進化説や地球が丸いことを信用できない人達がたくさんいる国ですから。流石にズーキン先生は同じアメリカ人の4割近くが、そこまで酷い人達だということを直視できないのかもしれない。彼女はとても優しい人だからな。
 私の大学院の指導教官であるカリフォルニア大学バークレイ校の先生は、残念ながらトランプ支持者は人種差別者であるのだ、と指摘されていたが、それはまあ相当、当たっているのではないかと思う。しかし、私は人種差別者であるのと同時に、さらに残酷で、他人の痛みなどが分からず、平気で人を騙して他人を貶めることに良心の呵責も感じないような人達がトランプを支持しているのではないか、と思うようになっている。なぜなら、トランプがまさにそのようなキャラクターであるからだ。普通はこんな人、えんがちょするでしょう。トランプの選挙ラリーで、彼をロック・スターのように支援する人達は、まるでヒトラーを崇拝していた当時のドイツ人を彷彿させる。フロリダでの遊説で、「移民が入ってくるのにどうやって対処すればいい」とトランプが聴衆に問いかけたら、「鉄砲で撃ち殺す」と答えたりするからね。流石にトランプも「そりゃ、まずいでしょ」とフォローしていたけれど、基本、そういう人達がトランプを支持しているのだ。アメリカ・インディアンにも18世紀に、こういう人間がいればよかったのに。
 日本人は、特に団塊の世代の人達がアメリカかぶれなので、アメリカは絶対的に正しいと思っている人が少なくないが、統計でみても、アメリカの犯罪率は尋常じゃなく高いし、国民皆保険が導入できないのは、共同体としてお互い助け合う、という発想を受け入れられないからだし、銃を手放せないのも感情を抑えられないような時に鉄砲をぶっ放す権利を放棄したくないから、というとんでもない国である。いや、このような醜悪な欲望をオブラートに被せているけど、私は最近、その本音が相当、見えてきているなと思うようになっている。じゃなければ、学校であれだけの無差別殺人が起きているのに銃を放棄できないということは説明できない。
 まあ、とても残念だけれども、アメリカはそういう国であったのだ。今までは隠していたけれども、その倫理がなく、醜悪な身勝手なアメリカ人達が4割ぐらいいるということが露見されてしまったのが、アメリカにとってのトランプ大統領の最大の損失であると思うのだ。トランプ大統領という事実は、トランプが単独で悪いのではなく、それを支持するアメリカ人が4割もいるから初めて具体化できたのである。そして、この4割のアメリカ人は正直、とても隣人としてはつきあえないような嘘を平気でつき、相手の痛みに無神経な人達なのである。そういうことは、アメリカに7年は住んでいたので、ちょっと感じるようなことはあったが、トランプ大統領がその私が感じていた嫌な予感が現実であることを目の前に突きつけている。

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ヤン・ゲールによるブロードウェイホコ天事業の強烈なる駄目出し [都市デザイン]

ヤン・ゲールの講演だが、まあ特に新しい話もないよなと内職をしながら聞いていたのだが、ニューヨークのブロードウェイの話をし始めたので、ちょっと耳を傾けた。ヤン・ゲールを最初にニューヨークに招聘したのは、タイムズ・スクエアのBIDのTim Tompkinsのようで、その時、「ブロードウェイに自動車を走らせることは必要なのか」と尋ねたら、皆、そうだと回答したそうだが、ブルームバーグ市長だけが「ちょっと調べてみる」と言って、その後、ニューヨーク市がヤン・ゲールをコンサルタントとして雇うことになる。そして、ブロードウェイから自動車は排除され、今の歩行者が主人公の公共空間が創出される。そういう意味では、まさにブロードウェイから自動車を排除することを具体化させた最大の功労者はヤン・ゲールだと思うのだが、その彼が、久しぶりにブロードウェイに来たら、マラケッシュとキャンプグランドとお祭りがごちゃごちゃになったような状況になっており、これはブラウジオ市長に言って撤去してもらわなくては、と発言したのには驚いた。私は以前のブロードウェイに比べれば、今の方がずっといいと思うし、その公共空間の利用の仕方はそれほど不味いと思わなかったが、ニューヨーク市で、ヤン・ゲールによる完全なる駄目出し。ちょっと、なんでそんなにオカンムリになったのかは私はよく分からないし、これは、まだ私がヤン・ゲールの思想とかを理解していないという証拠でもあるのだが、その背景を是非とも理解したいものである。
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ヤン・ゲールのモダニズム批判 [都市デザイン]

ヤン・ゲールの講演の内容であるが、モダニズムの批判が強かった。ブラジリアを強烈に批判していた。飛行機の視点からみると素晴らしいが、人の視点からみると最低だと述べていた。ヤン・ゲールも自分がモダニズムが嫌いであると明言していた。モダニズムの欠陥は「人への配慮への決別」であると述べていた。そして、自動車の普及によって、ヒューマン・スケールから空間が逸脱していると述べていた。都市の移動速度は毎時5キロメートルであったのが、毎時60キロメートルにまでなってしまった。
 ヤン・ゲールは1960年には人を主体とした空間の質に関しての知識は何ももっていなかった。最初にこれに警鐘を鳴らしたのはジェイン・ジェイコブスであると述べていた。オフィスとかで机に向かって、どうやって人々が活動するかを考えるより、人を観察する方がずっと人にとって意味のある空間が造れると述べていた。
 まあ、これは何も建築家だけの問題ではない。私の前任校では、大学のカリキュラムを作成する時、ハーバード大学と東京大学のカリキュラムを参考にしようとした先生が二人いたからね。偏差値50の大学で!実際に学生をみたら、そんなカリキュラムは百害あって一利なしということが分かる筈なのに、そういうことをしない。まあ、建築家だけではない専門家バカという問題かとも思うが。
 閑話休題。優れた公共空間としては、安全、快適、楽しみ、という条件を満たすことが何よりも重要であるとのことである。そして、シエナのカンポ広場を絶賛していた。まあ、確かに滅茶苦茶素晴らしい広場ではあるが、私はゴスラーのマルクト広場もそれに負けずに劣らず好きだが。
興味深かったのは、彼が最も重要な役割を果たしてブロードウェイの歩行者天国プロジェクトであるが、あれは酷すぎると述べていた。キャンプグランドとマラケッシュ、お祭りがごちゃごちゃになったような状況になっており、あれは撤去されるべきであると述べていた。この発言は私だけでなく、他の聴衆も驚いていた。
 40年間、ヤン・ゲールは研究をして本を書いてきたが、それによって人々のマインドセットを変えることに成功できたかなと述べていた。個人的にはちょっと背中を後押しされたような気分にもなる。もちろん、環境デザイン研究学会で、調査をする人達ばかりが集まった学会ということはあるかもしれない。
 全般的に、彼が志向しているのはHumanistic City Planningという言葉でまとめられるような印象を受けた。そして、都市はもっと「人のための空間が必要」ということである。下北沢みたいな道路整備を進めていると、都市は窒息してしまう。本当にそういうことを東京都は進めていく覚悟があるのだろうか、というようなことを考えさせられた。

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ヤン・ゲールの講演をブルックリンで聴く [都市デザイン]

環境デザイン研究学会でニューヨークのブルックリンに来ているのだがキーノート・スピーカーはヤン・ゲールである。大講堂はほぼ満席である。凄い人気だ。私がヤン・ゲールに初めて会ったのは、やはり同じ学会で1998年のセント・ルイスで開催された時である。私は、懇親会か何かで日本人の参加者と話をしていたところ、いきなり会話に割り込んでき訛りのあるヨーロッパ人がいた。誰も話す相手がいないのだろう。しかし、それにしても失礼だなと思っていたが、適当に話をして、あなたのお名前はと聞いたら、なんとヤン・ゲールであった。私は彼の本を読んでいたので、ぶっ飛びましたね。ただ、会話をしていた日本人は、ヤン・ゲールを知らなかったらしくて、何をしている人なの?と聞いて、私が急いでそれを遮ったことがあった。水戸黄門みたいな感じだった。それから20年弱。もう大学のポストも得たし、ソーシャライゼーションが必要でない私は学会の懇親会にも顔を出さなくなったが、今回の懇親会ではさぞかし引っ張りだこであろう。
 ちなみに、私はその後、何回かヤン・ゲールには取材をさせてもらい、それをネットにもあげさせてもらっている。しかし、今、お願いしたら断られるかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=l6skRlRAdHY
http://www.hilife.or.jp/3689/
http://www.hilife.or.jp/3803/
 日本でも急に人気が出てきているが、1994年に名古屋市がデザイン博をした時、招聘されていろいろと提言をしたのだが、ほとんど聞き入れられなかったと私に怒っていた。会う度に怒っていたので、結構、根に持っているのではないかと邪推している。
 環境デザイン研究学会のものも日本人もそうだが、有名になってから評価するというのは、考えていないということと同じである。ヤン・ゲールが言っていることは昔から同じである。人を最優先する、ということだ。そのために、人の行動パターンをしっかりと把握するということである。下北沢にバス・ターミナルをつくり、人の空間をぶった切るように道路をつくり、自動車を走行させようと20世紀ではなくて2019年にしようとしている国において、ヤン・ゲールの考えや、ヤン・ゲールを招聘することで人間都市へと変貌することに成功したニューヨークのジャネット・カーンを持ち上げることの矛盾をもっと自覚した方がいいであろう。いや、持ち上げるのはいいが、持ち上げるのであれば自分の行為を反省すべきであろう。


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ニューヨークのホームレス [グローバルな問題]

ニューヨークに来ている。市の都市計画局を訪れ、いろいろと話を聞く。ニューヨーク市は1970年代の財政破綻ぎりぎりを回避した時以来、ずっと低迷し、人々もニューヨークから抜け出すような状況であったが、1990年頃から回復し始め、現在は人口も増加している。人口が増加しているのは5つの区の中ではブルックリン、クイーンである。これら両区は人口は200万人近くもあり、一つの市とみても全米屈指の規模となる。
 さて、この人口増加の背景としては移民による社会増と、より大きな変化は社会減の減少である。今でもニューヨークから外に出て行くアメリカ人は、入っていく人よりも多くてネットではマイナスなのだが、その数が減ってきている。自然増もしているので、プラマイでプラスになっている。移民による社会増の数字はそれほど変化していないので、アメリカ人の社会減の減少、これが人口増の背景であるようだ。
 そして、人口増加に伴い、また海外からの不動産投資も盛んということもあり、地価が高騰している。マンハッタンではなくて、ブルックリンのイースト川沿いのマンションが70平米で家賃3000ドル。これは東京よりも高いだろう。そのような家賃の高騰は、多くのホームレスを生みだしている。1990年は2万人ぐらいだったが、それから一貫として増加していき、現在で5万人以上である。しかも、これは統計で把握している数字であるので、実際はもっと多いと推測されている。
 実際、マンハッタンの街中を歩くと、驚くほど多くのホームレスの人達がいる。好況に沸くニューヨークであるが、その果実を味わうことができるのは一部の裕福層だけである。トランプ政権は経済が好況であること自慢しているが、その実態はハリボテ景気である。ホームレスでなくても、給料の半分以上を家賃で取られてしまう人達の割合も高く、表の数字はよくても実質的には貧相なアメリカ人の生活がホームレスの多さからも透けて見える。

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今週の標語「モチベーションがないとやる気が起きない」 [その他]

ううむ、これはうちのゼミ生の発言なのだけど、結構、衝撃的でしたね。とはいえ、モチベーションの意味には「やる気」も含まれるので、これはただ「やる気がないとやる気が起きない」と当たり前のことを言っているだけに過ぎないので衝撃を受けるようなことでも本来は無い筈です。「アペタイトがないので食べたくない」と言うようなものですね。英語を日本語で言い換えているだけです。それじゃあ、なぜ私が衝撃を受けたのでしょうか。それは、おそらく「やる気」というのはもう少しセルフ・コントロールというかセルフ・プロデュースしなくてはいけないからじゃないか、と思うからです。だって、会社員が「やる気がないから仕事をしません」って言えませんよね。私が所属しているバンドで「やる気がないから練習しなかった」って言ったらクビですよ。私はクビになりたくないので、まず練習しますけど、仮に練習しなくても「やる気がなかったから」とは拷問されても言わないなあ。だって、これって白状した時点で負けじゃないですか。というか、そもそも「やる気」がないことに時間を費やすほど残りの人生、長くないからねえ。
 つまり、モチベーションを上から与えてもらえる、などということはない筈なのに、そのようなことを期待していうこの学生に愕然とした訳です。自分がやる気が出してくれるモチベーションを待っていてもいつまでもそんなものは幻想だから得られないし、結果、そんな他力本願のやる気など滅多に出てこない。いや、出てくることもあるかもしれないですけど、そんな、天からお金が舞ってくるようなことを期待しないで自分でもっと積極的に生きなくっちゃ。って、これを誰が学生に気づかせるかと言ったらやはり指導教員の私でしょうか。あまりの衝撃に突っ込むタイミングを逸してしまいました。

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『百円の恋』 [映画批評]

安藤サクラ主演の2014年に公開された映画。安藤サクラ演じる一子の脆さと切なさがつくり出す世界に思わず、引き込まれる。映画の前半で、醜悪な脇腹を掻くシーンがあるのだが、その後、ボクサーを目指し初めてからは、贅肉がどんどん削がれて、鍛えられた身体になっていく。とてつもない役作りへの凄みである。イーストウッドの傑作『ミリオンダラー・ベイビー』を彷彿させるシーンもあるが、あくまでダメな32歳の女性でミリオンダラーではなくて、一貫して百円ベイビーではあるのだが、そうであるからこそ協力に見る者を揺さぶる力をこの映画は有しているのではないだろうか。久しぶりに、いい映画を観た。


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『7つの会議』 [映画批評]

人気サラリーマン小説家である池井戸潤の著書を映画化した作品。主演に狂言師の野村萬斎。基本、『半沢直樹』と相当内容的にも被る作品であり、出演者も香川照之、及川光博、片岡愛之助、とおなじみの顔ぶれである。話は、正直『半沢直樹』の方が楽しい。あと、野村萬斎は狂言師としては才能溢れているのかもしれないが、映画俳優としては、あまりにも演技が大袈裟で鼻につく。あんなサラリーマンいないからリアリティがむしろ遠のいてしまい、観ていて引いてしまう。
 ただ、私も15年間ほどサラリーマンをやっていたことがあるので、結構、身につまされるところもあって、観ているといろいろと考えさせられる。結局、組織を守るためにトカゲの尻尾切りのように社員を捨てていくというのは、この映画ほどドラマチックではないかもしれないが、似たようなことは起きている。映画の最後のシーンで野村萬斎が、日本のサラリーマンはサムライのDNAを引いているというような意見を述べるのだが、これはそうかもしれないなと考えさせられた。確かに、「お家」や「藩」を守るために個を犠牲にする、というのは現在のサラリーマンにも通じるところである。皆、会社にご奉公しているような気分になっているんだろうなあ。企業戦士という言葉もあったし。
 会社員をしていた頃、「会社のために貢献しないとダメだ」とか「それは会社のためにならない」、「会社の利益を求めなくちゃ」などと口うるさく主張していた後輩の社員がいた。私は、彼の発言を聞いていた「会社って何?」と思いましたね。「会社」は法人格を持っているけど、実際は見えたり、触れたりもしない、組織の共同幻想である。まあ、そんなことを言い始めたら国も共同幻想ですけどね。この共同幻想を維持するために、命を削るような必要はないと思うけど、逆に言うと、この共同幻想によって生活できたり、生き延びたりすることができている。すなわち、生活できたり、生き延びたりすることを保証してくれる限りにおいて貴重な時間をそれに捧げる価値があるけど、それが牙を剥いたらさっさと止めるべきであると思う。会社を選択する機会はあるのだし、自分が会社をつくることもできるのだから。そうそう、この愛社精神の塊のような後輩は、その後、出世ラインから外れて窓際的な仕事をさせられている。愛社精神があって、しかしそれを周りに押し付けるようなことをしていても、会社は成果が出ないと、必ずしも報いてくれないものである。
 ちなみに私は二回転職したが、二回とも転職して生活の質は上がった。ポイントは、嫌になったら辞められるように実力をつけておくこと。そのためにも、若い時に自分に投資することではないだろうか。そして、投資とは勉強をすることである。また、サラリーマンには本当、向き不向きがあって、向いてない人には辛い仕事であるということだ。これがなかなか学生は分かっていない。映画のヒロインが感じたような「虚しい会社人生」を送らないためにも、もっと滅私奉公的なサラリーマンではない、組織の歯車にならないような仕事や就業環境を探すべきであるかなと思ったりする。

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『論理的に解く力をつけよう』 [書評]

論理的思考を学生に教えるために、そのための優しい本をいろいろと物色しているのだが、この本はまったく役に立たないどころか、論理的思考の意義さえ疑わせるような駄本であった。そもそも、論理というのは言語によって構築される。しかし、この本の日本語はよく分からない。というか、問題がいろいろと提示されているのだが、その問題の趣旨が書かれている日本語を理解するのが結構、難儀なのだ。もう少し、言うと、もっと論理的に分かりやすく問題の趣旨を理解できるような日本語で書ける筈だと思うのだが、そのような論理性をあまり意識していない日本語なのだ。さらにいえば、その解説が論理的な日本語で書かれていない。いや、集中して読めば理解できない訳ではない。ただ、「論理的に」と言っている本で、論理的とはいえない解説をされてもなあ。
 また、その問題も「論理的に解く力」をつけるのに適切なものとは到底、言えない。実際、解答案も、もっと簡単にできるじゃない、とすぐ気づくようなものもあり、ちょっとしたクイズ本としてもこの本は使えない。私は、相当の駄本でも頑張って最後まで読むようにしていたのだが、この本は198頁のうち133頁で挫折して、本棚のスペースも無駄なのでゴミ箱に捨てた。いや、ブックオフに売ってもいいが、他人がこの本を読んで時間を無駄にするのも社会の損失かと思い、捨てました。
 失礼だが、この人の授業はつまらないだろうなあ。東京工業大学の先生ということなので、学生は飛びきり頭がいいかと思うが、それでもついていくのが大変な学生は多いのではないだろうか。よく考えれば、一応、東京大学の工学部を出ている私でも、ついていくのを諦めたからな。そして、これは「岩波ジュニア新書」である。中学生、高校生向けの本なのでしょう。なぜ、岩波の編集者がしっかりと直せなかったのか。この点はちょっと不思議である。

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リッキー・リー・ジョーンズ@NHK大阪ホール [ロック音楽]

リッキー・リー・ジョーンズが来日するというので、34年前の中野サンプラザ公演以来、観に行った。会場はNHK大阪ホール。編成はドラムとギターとリッキー・リー・ジョーンズだけという3人編成。ベースがない。また、ドラムは鉄琴も弾く。リッキー・リー・ジョーンズ、偉い太ったおばさんになっていて、昔のなんとも言えないアンニュイな雰囲気はまったくなくなっていた。64歳の堂々たるアメリカのおばさんという感じである。緊張の一曲目はWeasel and the White Boys Cool。この曲から入りますか。渋いな、流石。そして、Young Blood。ベースがないので、ちょっとノリが出にくい感じがしないでもないが、まあ楽しい気分になる。3曲目は、Chuck E's in Love。まあ、このお寿司で言えばウニのようなこの最高傑作をここに持ってきましたか。次いで、The Last Chance Texacoと一枚目からの曲を続けた後、3枚目からIt must be love。パリに住んでいた時に作った曲と紹介する。また、一枚目の曲に戻ってEasy Money。Lowell Georgeが発掘してくれたことの感謝を述べる。そして、「新しいアルバムからの曲です。私は寂しい人生を送っているので「Lonely People」という歌を披露します」と言って歌ったのは、なんとアメリカの「Lonely People」であった。まあ、嫌いな曲ではないが意外な選曲である。というか、リッキー・リー・ジョーンズは他人の歌はあまり似合わないと「My Funny Valentine」を出した時も思ったが、今日も改めてそう思わせられた。次は、アメリカの滅茶苦茶バカな大統領のことを歌いますと言って「Ugly Man」を歌う。とはいえ、今のトランプに比べればブッシュ・ジュニアはまだましだ。リッキーも、ナイスな大統領が次になったが、今は最悪だ、と述べていた。そして、ピアノに据わってCry Me a River を歌った後、パイレーツの一連の曲を弾く。ここで、リッキー・リー・ジョーンズ、ピアノを弾くようになったのはデビューアルバムが売れてからだ、と言う。そんな短期間で、こんなピアノだけで作曲した名曲揃いのパイレーツのアルバムを作ったのか、という事実に衝撃を受ける。前から、天才だとは思っていたけど、改めて本当の天才だったということを知る。We Belong Together, Living It Up, 一枚目のCoolsvilleを挟んで、Pirates, そして一枚目に戻ってOn Saturday Afternoon in 1963。いやはや、最近、リッキー・リー・ジョーンズの曲を全然、聴かなくなってしまっていたけど改めて、1枚目と2枚目は名曲揃いである。さて、またピアノからギターに戻って、The HorsesそしてLove is Gonna Bring Us Back Aliveと4枚目の2曲で終演。アンコールはなかった。
 改めて凄い音楽家だなと思わされたコンサートであったが、今回は、なんかいろいろとプライベートなことなども話して、ちょっとしたジャズバーのような感じのコンサートであった。まあ、これは前から2列目とステージにすこぶる近かったということもあったかもしれない。最初、ハイヒールを履いていたが、途中で、これは邪魔だ、と言って脱いだところとか、リッキーはこう構えないで等身大のところがいいのだな、ということを認識した。いやはや、いいコンサートであった。

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熊本市の都市度の高さに驚く [都市デザイン]

熊本市をぶらぶらしていて気づいたのは、この都市の都市度は高い。都市度とは何か。それは、都市のレベルのようなものであるが、ざっとぶらぶらと見ただけの印象だが、政令指定都市の浜松とは比べものにならないだけでなく、仙台市よりも都市度が高い。
 流石に福岡市は商業集積が高いし、地下鉄も西鉄も運行していれば、ホークスの本拠地でもあり、熊本市もそれには及ばないが、ただ熊本市の方が歴史がある分、何か格のようなものはあるような印象を受ける。強いていえば、ニューヨークに対してボストンが持っているような格である。
 さて、こういうことを書くと、仙台市の人が怒るかもしれないので、それなりに理由を書いた方がいいであろう。というのも、熊本市の人口は74万人である。それに比して仙台市の人口は108万人である。都市規模では仙台市の方が大きい。仙台市の小売業の事業所数は6360(2016年)。熊本市は4361。仙台市の方が多い。加えて、仙台市の方が大学を始めとした教育施設も集積している。地下鉄も二本、走っている。プロ野球の球団もある。
 しかし、人口密度は熊本市は1ヘクタール当たり19人。それに比して仙台市のそれは14人。さらに古本の人口当たり軒数をみると熊本市は1万人あたり0.19軒、仙台市は0.13軒。仙台市は東北大学を始めとした大学が多くあることを考えると、この数字の差は意外である。ただ、私はこの人口密度だけでなく、ここで指摘した古本屋の多さなどが、熊本市のアーバニティに関係しているように思えるのである。
 加えて熊本市の中心市街地には、クラブ通り、飲み屋通りなど、飲み屋の集積がとても多い。もちろん、仙台市にも国分町などがあるので、それなら負けてないと主張されるかもしれない。ただ、熊本市の飲み屋街の方が歩行者が歩きやすい、逆にいうと自動車が通りにくいような空間構造になっている。もう少し、大雑把にいうと、「飲兵衛に優しい」ような空間になっているのだ。いや、これは実際に酔っ払ってここを歩き回るような体験をしなくては何ともいえないのだが、熊本の下通り周辺のバリアフリーな歩行者主体の街路ネットワークはタクシーを拾える場所まで、千鳥足で歩いて行くことを可能にしているような印象を受ける。それに比して、仙台市の飲み屋街は結構、自動車が入ってこれることもあり、そういうのの優しさを感じたことはない。
 他にも熊本市の中心市街地は個店が仙台市のそれよりも多いような印象を受ける。いや、ここらへんは実際の統計を調べないと分からないが、単に人口の数だけで都市らしさ(アーバニティ)のを図ってはいけないということを問題提起させてくれるような都市であるように感じた。

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祖母山(日本百名山36座登頂) [日本百名山]

祖母山にチャレンジする。祖母山には3つの主要な登山口がある。神原登山口と尾平登山口、そして北谷登山口である。標高はそれぞれ390メートル、590メートル、1111メートル。これは絶対、北谷登山口であろう。町のホームページによると、北谷登山口の駐車場は使用できず、2.4キロメートル手前の一の鳥居の駐車場を使えとのこと。これもゴールデンウィークのみだけ開いているそうだ。これは、往復4.8キロメートルも余計に歩かなくてはならないが、標高は100メートル下がるだけなので、それでも北谷登山口に向かう。
 さて、ゴールデンウィーク中であったので、これは相当、駐車場が混むことを予測した。昨日、久住山の登山口の牧ノ戸登山口が6時過ぎで200台のキャパを越えていたことを考えると、15台しか駐車できない北谷登山口の一の鳥居の駐車場はあっという間に満車になるだろう。
(その情報源となった高千穂町のHP。http://takachiho-kanko.info/sightseeing/detail.php?log=1381220521
 ということで、熊本空港そばのホテルは2時ちょっと過ぎに起き、3時にはチェックアウトをした。北谷登山口は東へ60キロメートルちょっと。昨日の牧ノ戸登山口とほぼ距離は一緒である。私のレンタカーのナビは古くて、道路が工事中で通行止めの情報を反映させていないが、昨日、失敗したので同じ轍を二度は踏まない。スムーズに移動していく。北谷登山口の入り口が分からないのではと不安に思ったが、看板がしっかりと出ていたので、迷わず、そちらに向かうことができた。
 ホームページ等は登山口までの林道は車高が低いと気をつけろなどの注意をしていたが、それほどの悪路ではなかった。むしろ、拍子抜けしたぐらいだ。さて、一の鳥居の駐車場には5時過ぎ頃に着いたが誰一人、駐車していない。これは何だ。もしかして、一番乗り。そんな筈はないだろうと戸惑っていると、私の後ろから車が来て、そのまま真っ直ぐと進んでいく。これは、もしかして北谷登山口の駐車場まで行けるのか、とその車を追いかけていくと、果たして、北谷登山口の駐車場に多くの車が駐車していた。悔しいことに、私の前を走っていた車が最後のスポットを取ってしまったが、それから200メートルぐらい下りると、また10台以上は駐まれる駐車スペースがあった。しかも、さらにその下に駐車スペースがある。最近、増設したのであろうか。駐車スペースに関しては、北谷登山口、それほどホームページ等で言うほど心配しなくてもいいかもしれない。

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(5時30分頃、ちょうど満車になった北谷登山口の駐車場。というか、駐車できるのであれば早くいってよ、みたいな気分。それとも平成31年ではなくて令和元年になったので、情報は古いとでも言い訳をするのだろうか)

 ということで、5時45分には登山を始めた。北谷登山口から祖母山までには二つのルートがあるが、千間平、三県界を通る尾根ルートを取ることにした。このルートはそれぞれの合目に看板が設置され、さらには標高を示す看板も置かれているので、安心して登っていくことができる。ちなみに、それぞれの通過時間は、一合目が5時46分、二合目は6時17分、三合目は6時29分、四合目は6時41分、五合目は6時54分、六合目は7時17分、七合目は7時25分、八合目は7時38分、九合目は7時59分、山頂は8時20分であった。一合目から二合目まで時間がかかったのは、ストックが壊れたので、それを直そうとするのに時間がかかったからだ。一合目から四合目までは、結構、標高を稼ぐために登り坂は比較的厳しいが、それから七合目と八合目の中間にある国観峠までは尾根沿いのなだらかな登山道となる。ただ、展望は決してよくない。ただ、三合目ぐらいまでは植林の杉林が多く、緑のコンクリートのような無粋な森の中を歩いていくが、それ以降は広葉樹林が発達してきて目には優しい。国観峠から山頂までは、滑りやすい道が続く。ところどころに紐があり、これに頼って登っていく感じになる。登りはまだしも、下りは厳しいだろう。ただ、最近、雨が降っていないのか、事前にホームページ等で収集した情報に比べると、それほど困らずに山頂まで行くことができた。
 山頂は九重連山、阿蘇山を含む360度の大展望を楽しむことができる。今日も天気はよかったので、展望には恵まれた。
 さて、復路は往路と同じ道をと考えていたのだが、あまり面白くなかったので、「危険箇所あり、注意」との看板があり、単独行なのでちょっと怯んだが、幸い、比較的よくある太股の張りや膝の痛みがないのと、下山開始時が8時30分ということもあり、思い切って「風穴コース」を取ることにした。風穴コースは、急な窪地を下りていくため、ロープや梯子も多くある。ただ、昔は梯子をみると、ゲゲッと思ったが、最近ではむしろ楽なのでラッキーと思うようになっているので、そんなに苦にはしなかった。とはいえ、ちょっと段差があるところの着地で滑ったのと、木に足をかけたら、それが滑ったので、二回ほど尻餅をついた。幸い、怪我にはならなかったが、気をつけていてもこの泥のような登山道は滑る。さて、まあ、登山ルート的には往路に比べて、風穴コースは難度は高かったが、周辺の景観はとてもよく、こちらを選んで大正解であった。まず、往路ではほとんど見られなかった「ツクシアケボノツツジ」が蕾から、咲き始めているものまで多くあり、その派手でいて上品なピンク色が目を楽しませてくれた。風穴はただの洞穴にしか見えず、全然、感心しなかったが、登山口そばでは渓流沿いに歩いていき、その渓流美もなかなかのものであった。変化もあり、こちらの方がずっと楽しめる。往路は、国観峠の展望は悪くないし、八合目までなだらかな登山道であることや、看板が充実していて安心して登山できることはプラスではあるが、登山自体の楽しみは風穴コースの方が数倍優れているのではないかと思われる。
 とはいえ、初めて祖母山を登るのであれば、いきなり風穴コースはびびるかもしれない。
さて、風穴コースで一番迷ったのが、登山口そばの林道に出たところ。左に行けばいいのか、右に行けばいいのか分からない。正解は左なのだが、私は携帯電話でチェックしようとしたがグーグルマップが使えず、結局、町のホームページの拡大地図を見て確認した。看板を設置した人は、ここは置かなくてもいいだろうと思ったのかもしれないが、一番、重要な分岐点であるような気がしないでもない。
 登山口に戻ったのは10時45分。ということで5時間の行程であった。


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(しばらくは緑のコンクリートのような生態系的にもいびつな自然の中を歩いて行く。無粋)

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(ただ、3合目を越えたあたりから、広葉樹林が発達してくる)

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(祖母山登山の敵が、この滑りやすい登山道)

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(尾根沿いの登山ルートは合目ごとに貴重な情報が提供されていて有り難い)

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(合目ごとの情報だけでなく、節目の標高となる場所でも看板が設置されている)

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(国観峠から祖母山を仰ぐ)

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(八合目から山頂までは、さらに登山道が滑りやすくなる。雨が降ると、本当、悲惨な登山になるだろう。よかった、晴れていて)

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(山頂)

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(山頂からの素晴らしい展望。これは南側をみたところ)

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(山頂から九重連山を見る)

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(山頂から阿蘇連山を見る)

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(ツクシアケボノツツジがちょうど咲いていた)

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(ツクシアケボノツツジの見事なピンク)

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(ツクシアケボノツツジと祖母山周辺の山の見事なコントラスト)

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(風穴コースは「危険」看板が多い)

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(梯子や紐なども多く備え付けられている)

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(またツクシアケボノツツジ。ツツジというよりかは桜のよう)

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(巨大な岩がある場所から祖母山を見る)

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(またまたツクシアケボノツツジ。これを見ただけでも風穴コースを選んで大正解)

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(風穴コースの目玉である風穴は、その有り難みがよく分からなかった)

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(ツクシアケボノツツジ以外にも可憐な紫のスミレが登山道沿いに咲いていた。可憐だ)

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(風穴コースは登山口近くでは渓流沿いに歩いて行く。これもなかなかよかった)



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九重山((日本百名山35座登頂) [日本百名山]

ゴールデンウィークに百名山の久住山に挑戦する。大型連休ということもあり、九重山(ちなみに久住山と九重山の違いであるが、前者は百名山の山、後者はこれを含む連山を指す時に使うようだ)周辺のホテルは料金がべらぼうに高いものを除けば満室。しかたがないので、熊本空港そばの宿を取る。登山口から60キロほど離れている。早朝、4時30分に出発。5時30分過ぎには着くだろうと思っていたら、なんと国道が工事で通行止め。阿蘇の山麓の道を迂回していくことになり、大幅な時間のロス。結局、牧ノ戸登山口に着いたのは6時過ぎであった。
 さて、この駐車場は200台分あるので、私は流石に駐車できるだろうと高を括っていたのだが、すでに満車であった。恐るべき、ゴールデンウィーク。仕方がないので路駐。さて、結局、登山口から登山をし始めたのは、6時30分くらい。最初はいきなり階段が続く。この階段がアスファルトの絨毯のようなもので覆われていてとても風情がない。とはいえ、おかげで急坂であるにも関わらず歩きやすい。

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(6時30分ちょっと前の牧ノ戸登山口の駐車場)

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(牧ノ戸登山口)

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(牧ノ戸登山口からはアスファルトが絨毯のように敷かれた階段状の坂道を上っていく)

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(朝日を反射して輝くような九重山をみながら標高を稼いでいく)

 この急坂は、沓掛山まで続く。沓掛山は牧ノ戸登山口からは30分ぐらい。ここからは九重連山が展望できる。沓掛山からは梯子などで坂を今度は下りる。ここらへんは上りと下りとでルートが分かれている(左通行)ようなのだが、あまり守られていない。私も下る時にそうであることに気づいた。
 さて、この坂を下りた後は、しばらくなだらかな登り坂が続く。楽ではあるが、逆にアスファルト舗装がなくなり、若干、滑りにくい泥道になるので、その点は留意した方がいいかもしれない。扇ヶ鼻との分岐点にたどり着くと、本当に平坦でなだらかな草原を通っていく。この草原は西千里が浜と呼ばれており、夏になるとコスモスなどの高原植物が美しいようなのだが、今日はまったくそのような色彩的な美しさとは無縁であった。クマザサの緑が目に新しいくらいの色彩の貧困さである。左手に星生山を見ながら歩くと、展望が広がり、久住山をはじめとした九重連山が見える。とはいえ、中岳は見えない。坂を下りると、避難小屋とトイレがある。そのまま、まっすぐ礫の坂を登っていき、中岳との分岐点を右に行くと、久住山に辿りつくことができる。下からみると結構、遠くに見えたが、実際、登っているとそれほどきつくはなかった。避難小屋からおよそ30分ぐらいだろうか。

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(7時30分には扇ヶ鼻との分岐点に着く)

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(西千里が浜は平で歩きやすい)

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(雄大な西千里が浜は歩いていて快適である。大体、ここを下りで通り過ぎたのは10時30分)

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(西千里が浜を過ぎると、九重山の山々の雄大な展望が開ける)

 幸い、天気に恵まれたこともあり、久住山からは見事な360度の展望を楽しむことができた。特に阿蘇山の優大な姿が印象に残っている。祖母山も見えた。ここで、簡単におにぎりなどを頬張る。空腹を満たすというよりかは荷物を軽くしたかったからだ。

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(久住山の山頂から三俣山の方を展望する。山頂に登ったのは8時30分ほど。ほぼ2時間の行程)

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(久住山の山頂から阿蘇山の方面を展望する)

その後、中岳分岐点まで戻り、中岳にチャレンジする。これは、九重連山の最高峰は中岳であるからだ。中岳への道は遠いが、それまでまったく姿が見えなかった御池という小さなカルデラ湖を展望することができたのは嬉しかった。というのも、この時期の久住山というか、九重連山は、色彩が貧相だ。黒と白と黄色の絵の具で表現できるような風景となっている。まるで、老いたライオンのような色なのだ。これは、あとひと月もすれば花も咲き、様変わりするのかもしれないが、ゴールデンウィークの九重山は岩だらけの、イメージ的にはまるで火星のような風景の山であった。もっと、女性的というかたおやかな山のイメージがあったので、これは意外であったが、活火山であることを考えればこのような風景であることは当然かもしれない。これまでに登った百名山では十勝岳をちょっと連想させた。まあ、そういうこともあって、御池の水の色はちょっと景色の変化をもたらしてくれて登山をする身にとっては有り難かった。御池はカルデラ湖(カルデラ池?)であることもあり、澄んでいて美しい色を放っていた。

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(中岳に行く登山道は御池を迂回していくことになる)

 さて、中岳に登頂するのは九重山よりかはちょっと難儀であった。そこからの展望は九重山がどっしりと見えるのと、九重山からは見えなかった御池が見えるので、より優れているかもしれない。避難小屋から山頂までの時間は久住山より中岳の方が倍とは言わないが、1.5倍は長いと思われる。ちなみに避難小屋から中岳に直接、行く場合はちょっとしたショートカットがあるので、それを使われるといいかと思う。

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(登山口から中岳の山頂を望む)

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(中岳の山頂。9時30分に登頂。出発してからほぼ3時間)

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(噴煙を目撃すると、ここが依然として活火山であることを再確認する)

 帰りは楽ではあるが、私は得意になって速く下りると膝を痛める癖があるので、今日は逸る気持ちを抑えてゆっくりと下りた。お陰で心地よい疲労以外、特に身体を痛めずに下山することができた。下山したのは11時30分をちょっと回っていた。総じて5時間ちょっとの登山であった。
 沓掛山から下りる途中、牧ノ戸登山口周辺の道路をみると、長蛇の路駐の列が繋がっていた。どれだけの人が今日、九重山の登山に参加したのだろうか。私は二年前、ゴールデンウィークに筑波山に登ったことがあるのだが、その時はもう大渋滞で、まともに歩けないほどであった。それを体験したこともあったので、今日の人数ぐらいでは驚かなかったが、はしごのところなどでは待ち行列ができていたし、狭い登山道では随分と人を待ったり、待たせたりもした。小さな子供なども登山にチャレンジさせられたり、また赤ちゃんや犬を背負って登山していた人などもいたが、そんなに簡単な登山ではないような印象も受けた。

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(帰りに目撃した駐車場に駐車できない自動車がつくった長蛇の路駐の列)

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(多くの登山客が久住山へ続く礫の登山道を登っていく)

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京都の観光公害を報じた恥ずかしいテレビ番組 [京都生活]

ラーメン屋に入って、ラーメンを啜っていたら、店内のテレビで京都の観光公害の特集をやっていた。Goodyというフジテレビ系のニュース番組である。ここでは、京都に来る外国人観光客のマナーが悪くて問題であるということを話題として取り上げていた。京都に生活する私としても興味のある問題なので、ラーメンを食べつつ番組を見ていると、なんと、テレビ取材者が花見小路の人混みに溢れた道に報道車で入っていき、人々がどかないことに何てマナーが悪いんだ、と呆れていた。私はこれを見て、人に溢れている花見小路に自動車で入っていくテレビ局の方によほど呆れた。いや、花見小路に自動車で入るな、とは言わないが、悪いがそこで生活している人以外は入って欲しくない。そもそも、京都の魅力は1000年以上も都市としての歴史が積み重ねられたことにあるので、その900年以上は自動車とは無縁であった。京都の都市としての魅力を最も破壊しているのは自動車であるな、と考えている私としては、そもそも京都ナンバー以外の自動車が入ってくるのは迷惑千万である。いや、観光客も多少、迷惑かもしれないが、車で京都の人混み溢れる道路(しかも花見小路)に突っ込んでくるテレビ局の方がよほど迷惑だから。
 もし、この私の意見が納得できなかったら、休日に下北沢の南一番商店街を車で走られたらいいと思う。ここも法律的には自動車が走行できるが、悪いけど誰もどかないよ。というか、入ってきたあんたが迷惑だと思われて顰蹙を買うだけだ。たまに、車が入り込み、大顰蹙を買うときがあるが、大抵、尾張小牧とか郡山などのナンバーである。同じことを鎌倉の小町通りでやったって誰もどかない。こういう歩行者が主人公のような空間をプレシデント・プレシンクトと言うが、京都は特に日本の都市では、法律的には自動車が通れるけど実質的には歩行者がよりコントロールしている道路空間が多くて、これだから京都は魅力があるのだ。
 他にも、この番組の偽善性は本当に鼻につき、観光客が提灯を頭の上にちょこんと載せた写真を撮っていることや、禁煙ゾーンでたばこを吸っていることなどを一つ一つ指摘して、注意をするのだ。確かにそれらの行為は褒められたものでは決してない。しかし、日本人観光客がヨーロッパのレストランでスパゲッティをずずずっとラーメンのように啜って食べていることは、皆、白い目で見ている。私は直接、ドイツ人の友人に、あのようになぜ日本人は食べるのだ、ヨーロッパではマナー的に許されないことなのに、と言われたこともあるので、皆、日本人のこの食べ方に密かに嫌悪感を持っていることをよく知っている。私もヨーロッパに日本人と同行して行き、レストランに入るときは祈るような気持ちでスパゲッティやスープ(スープは基本的に口に入れ込むもので啜って飲むものではない)を注文しないでくれ、と思うが、実際、注文して、周りから白い目で見られたりしている時も、一切、その点を本人には注意しない。それは、他国のマナーを強要すること自体がちょっと偉ぶっていると思われるからだ。また、日本人のスモーカーも平気で禁煙スポットで喫煙していたりするが確信犯であることはほとんどなく、注意をされると照れ笑いをしたりする。この番組では、禁煙ですよ、と指摘されて照れ笑いをして「知らなかった、ごめんなさい」と回答した中国人観光客に対して、「反省の色が見えない」などとテロップで流していたが、こういう恥ずかしい、偽善的な番組を作成しているフジテレビの方がよほど恥ずかしいし、反省してもらいたい。なんか、調子がいいときだけ「おもてなし」とか言ったりするが、まったく「おもてなし」精神がないこの番組づくりに日本人として恥ずかしくなった。
 他人の振り見て、我が振り直せ。私は8年間、海外で暮らしていたが、同朋として日本人観光客の破廉恥な行為を見て見ぬふりをしてきた。それは、海外の文脈で理解することはなかなか難しいということがあるからだ。できれば失敗や顰蹙を買った時などは反省してもらえればと思うが、毎回、来る観光客は違う。ただ「旅の恥はかき捨て」文化の日本が自分達がやっていることは棚に上げて、外国人を批判するような番組を上目視線でつくるというその根性を私は恥ずかしいと思う。

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『ティール組織』 [書評]

フレデリック・ラルーの『ティール組織』(原題はReinventing Organizations)を読む。これは、人類の組織の発達段階は、現在「進化型(ティール)」という新しいモデルを提示するまで進化しているという仮説のもと、実際、この「ティール型」の企業・組織などの事例を紹介し、その特徴、さらにはそのような組織の作り方までも提案している。上記の観点で、同書は3つの部から構成される。「歴史と進化」、「進化型組織の構造、慣行、文化」、「進化型組織を創造する」である。訳本でも500ページに及ぶ大作であるが、この『ティール組織』というモデルが新たに出現しており、それを実際、応用している組織があるというのは非常に興味深い。そして、このような組織が出現した背景には、成長の限界、地球資源の有限性、さらには組織管理の非人間化などがあるということだ。あまり明るい未来が展望しにくい現代人であるが、このような持続可能な組織モデルが創造され、量的ではない質的な豊かさに価値観が転換することで、人類はまだまだ滅亡しなくてもいいかもしれない、という楽観的な展望を抱くこともできる。
 私が働いている職場は、結構、ティール組織的なところがあり、それはホールネス(全体性)、自主経営、存在目的というブレイクスルーをそこそこクリアしていると思われる。全体性は自分の価値観と職場の価値観とにズレがないことである。これは、採用するうえで、組織の価値観と合う、もしくは合わせられる人を採るように留意しているからだと思う。あと自主経営は、大学の学部運営というのが本質的に具えている特徴であり、それをしっかりと私が所属している学部は維持している。これは、前任校とは随分と対照的である。なぜなら、前任校は学部長が独裁政治を遂行し、反対意見を力尽くで押さえるようなことをしていたからだ。そして、存在目的だが、これは組織のコンセプトを「チーム政策」と掲げ、しっかりとした大学教育を施すために、教員・職員だけでなく学生をもチームとして捉えて、その目的の遂行に邁進している。これが、結果的に学生の満足率82%に繋がっているかと思われる(前任校は26%であった)。私が経験した二つの大学の組織を比較すると、現在の職場は『ティール組織』的な条件を相当、クリアしている。それが、おそらく現在の職場がうまくいっている大きな理由の一つではないかと思ったりもする。この点に関しては、また研究をしていきたいと思っている。たいへん、興味深い視座を提供してくれた本である。

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

  • 作者: フレデリック・ラルー
  • 出版社/メーカー: 英治出版
  • 発売日: 2018/01/24
  • メディア: 単行本



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エリック・クラプトンを3年ぶりに武道館で観る [ロック音楽]

一週間前になってしまうが4月15日の武道館にクラプトンを観に行った。月曜日であるのだが満席。凄まじい熱気だ。クラプトン、こんなに人気があったかなあ、とちょっと不思議な気分になる。3年前のクラプトンの武道館コンサートより、こう人々の熱が高いような気がするのだ。いや、気のせいかもしれないが。コンサートはPretendingから始まり、3年前と同じように前半でKey to the Highway, I am Your Hoochie Coochie Man, I shot the Sheriff, Nobody Knows You When You’re Down and Out などを演奏する。違うのは、Make Love to You, Driftin’ Blues を演奏したことぐらいだ。しかし、後半は前回、演奏しなかったTears in Heaven, Layla (Unplugged Version)というクラプトンの代表曲を披露してくれたこと。さらには、Running on Faithも演奏してくれた。また、クリーム時代の超名曲であるBadgeさらにはCrossroads も演奏した。Crossroadsのギターソロは、昔のような神がかったプレイではなかったが、それでも心は揺さぶられた。そして、Wonderful Tonight, Little Queen of Spadesという3年前と同じ選曲で、アンコール前にCocaine、アンコール曲にHigh Time We Wentも同じであった。ということで、それほど目新しい訳ではなかったが、Badgeを久しぶりに生で聴くことができたのは素晴らしかった。聴力のダメージを受けているとの噂も耳にしたが、まったくそのようなそぶりも見せず、とても74歳とは思わせない表現力には感銘を覚える。貫禄溢れるコンサートで、非常に安心して聴くことができた。
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トランプの難民排除の発言に拍手を送るユダヤ人は自分達がなぜアメリカにいるのか、忘れたのであろうか [トランプのアメリカ]

トランプ大統領が「アメリカ合衆国はもう満杯なので、難民も受け入れられない」と主張している。これは、ツィッターでも発言しているが、なんと共和党のユダヤ人のグループを対象とした講演でも、最近、同じ発言をした。これは、ナチでの迫害でヨーロッパからアメリカに難民として移住してきた多くのユダヤ人に対しては、随分と失礼というか無遠慮な発言である。ところが、なんとこの発言に対して共和党のユダヤ人(元)移民は拍手をしているのである。なんて愚かな。忘恩にもほどがある。まあ、食べ物がなく命を助けてくれたアメリカ・インディアンを平気で虐殺するような歴史のもとにつくられた国であることは分かるが、それにしても、自分達が難民に対して寛容であったアメリカのお陰で、現在、この世に生まれた人も多いだろうに、なぜ、そういうことに頭が回らないのであろうか。ほんの70年ぐらい前の話であるのに。このことをレイトショーのスティーブン・コベールが痛烈に批判している(3分ぐらいのところに、共和党ユダヤ人相手にこの発言をトランプをしているところが見られる)。
https://www.youtube.com/watch?v=Te0b5KgUyzc

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リンゴ・スターのコンサートに行く [ロック音楽]

リンゴ・スター&ザ・オールスターズのコンサートを観に東京ドームシティ・ホールにまで行く。さて、そんなに期待しないで行ったのだが、これが予想外によかった。私は、サポート・メンバーもろくに調べなかったのだが、蓋を開けてみたら、キーボードがサンタナ・ジャーニーズのグレッグ・ローリー、ギターはトトのスティーブ・ルカサーとメン・アット・ワークのコリン・ヘイ、そしてベースがアヴェレージ・ホワイト・バンドのヘイミッシュ・スチュワート、さらにサックスにウォーレン・ハム、ドラムスにグレッグ・ビソネットが入っている。ローリー、ルカサー、ヘイ、スチュワートはまさに、それらのバンドだけでも来日公演をできるだけの実績と人気を博している。ということで、リンゴ・スターのザ・オールスターズは、リンゴの名字に引っ掛けただけでなく、本当にオールスターズであったのである。そして、これら4人は、それぞれ平等に自分達のバンドでの看板曲を3曲ほど演奏していた。興味深いことにローリーはサンタナの曲はまったく演奏せずに、サンタナの曲を3曲ほど演奏した。これら4つのバンドの中では、私は圧倒的にアヴェレージ・ホワイト・バンドの演奏が楽しめた。「Pick Up the Pieces」、「Cut the Cake」、「Work to Do」の3曲を演奏したのだが、まさか今日、これらの曲の生演奏を聴けると思えなかったので嬉しい驚きであった。
 あと、トトの曲はロザンナ、アフリカといったジェフ・ポーカロの超テクドラム演奏の曲であったのが、果たしてリンゴがこれらを弾けるのか、余計なお世話的心配をしていたが、リンゴ・スター、ドラムが上手い。とても78歳のパフォーマンスとは思えない。
 そして、これら4人のネタ曲の16曲もよかったが、やはり、真打ちのリンゴ・スターの「イエロー・サブマリン」、「フォトグラフ」、「イット・ドント・カム・イージー」、「ウィス・ア・ヘルプ・フロム・マイ・フレンド」がハイライトであった。
 年齢を考えると次回がある可能性はそれほど高くはないが、また機会があれば観に行きたいと思わせる良質なコンサートであった。

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飲み屋の店長について、ちょっと考察した [商店街の問題]

私は下北沢でよく飲む。とはいえ、下北沢の数多あるバーをくまなく行っている訳ではなく、常連のお店3軒を飲み歩いているだけなので、下北沢という街に惹かれているという訳ではなく、この3つのお店に惹きつけられているというのが正解であろう。もちろん、下北沢にいても食事はちょっと別のところでしたりする場合があるが、最終的にはこの3軒のどちらかに顔を出してから帰宅する。この3軒のうち、2つに関しては、英語版の拙著『Global Cities, Local Streets』(Routledge著)でも紹介している。
さて、この3つの店のうちの一つが店長が替わった。私はオーナーと友人であり、店長が替わったことで、ちょっとビジネス・モデルも変えなくてはと考えているらしく、いろいろと試している。私の家にも葉書が来て、ちょっと顔を出して欲しい、ということが書いてあったので、平日の早い時間、オーナーがいないことは分かっていたが、顔を出した。さて、新しい店長は常連客であったミュージシャンである。以前からお互い同士を知っていた。しかし、どうも私が気に入らないようで、私も気に入られていないことは分かっていたが、まあ、常連客が皆、仲がいい必要はない。店に迷惑がかからないように距離を置いていればいいだけの話だ。会社とか、学校とかでもよくある話である。
ただ、それは同じような立場の時においてである。同僚、お客同士であれば、個人の感情が露わになっても構わないと思うが、店対客であれば、そのような場合、ちょっと配慮があって然るべきであると私は思う。しかし、この店長は私が店に来ると、結構、あからさまに嫌な顔をした。そして、実際、用事があったのかもしれないが、そそくさと店を出て行った。ちょっと私は驚いたのと同時に、ここが例え友人がオーナーをしている店であっても、おそらくオーナーと一緒でなければもうここには来ないだろうなと思った。お金を出して、人に嫌がられる必要はない。バーに行くのは美味しいお酒を飲むことが目的である。お酒の味は、その場の雰囲気、一緒に飲む人によって変わってくる。だから、同じお酒を出していても流行る店と流行らない店があるのだ。
あと、新しく店長を務める人はなかなかのロック・ミュージシャンである。気骨のある人で拘りがあるのだろう。私のようなへぼなミュージシャンには愛想を振りまくたくないのかもしれない。その気持ちは分からない訳ではない。ただ、そこまで拘るのであれば、キャロル・キングとビートルズを店内でアルバム通してかけるようなことはしない方がいいのではないか。誰でもつくれるようなオムレツとハムを料理に出すようなことはしない方がいいのではないか。いや、キャロル・キングもビートルズも個人的には嫌いではないが、そのような一般受けする音楽を堂々とかける程度の個性であれば、客もそれほど選べない筈である。少なくとも、私はオーナーの友人であるし、比較的常連の部類であるかと思う。店が客を選ぶことはできると思うが、それは、強烈な個性を発揮できる場合だけではないだろうか。
例えば、下北沢にはイーハトーブという拘りの喫茶店がある。私は、このマスターにあまり良い印象を与えないような客のようで、結構、ぞんざいに扱われていると思う。しかし、そこで流れる音楽はいつも私を唸らせる。コンシェルジェというかDJとしてのマスターの能力が秀でているのだ。そして、そのこじんまりとした空間、さらにはしっかりと淹れている珈琲は、マスターの無愛想を気にさせない。というか、マスターの気に障らないように振る舞わなくてはと思わせる。こういう気持ちは、特別に美味い寿司屋などでも感じる。
まあ、前述した店長は、自分はそういう人間であると思っているのであろう。ミュージシャンであれば、そのような自意識も必要かと思うが、平凡な料理、凡庸な音楽を流すバーの店長であるなら、そういう自意識は捨てた方がいいかと思う。ミュージシャンとバーの店長はまったく違う仕事であると思うし、そしてミュージシャンであっても、多少、謙虚でいた場合がいい時もあるとも思う。

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関西国際空港は、なぜか汚らしい印象を与える [都市デザイン]

関西国際空港は、なんか洗練されておらず汚らしい印象を与える。関西国際空港を設計したのはイタリアを代表する大建築家、レンゾ・ピアノである。本来なら、もっと風格があってもいい筈なのに、難波の商店街の猥雑感というか、ドンキホーテのインテリアのような下品な汚らしい印象を覚えさせる。ドンキホーテはそれを商売的な戦略としてやられているのだが、関空はなぜ、こんな印象を私に与えるのだろうか。

一つは、広告板がどぎついからではないか。なぜか、赤・黄・青がよく使われる。それにピンクである。この色彩感覚は、秋葉原や大阪の日本橋の電気街を彷彿させる。この空港は看板規制とか、デザイン規制とかは一切してないのだろうか。また、その看板のサイズがなんか大きい。郊外の幹線道路の沿道のようでさえある。そもそも、空港は飛行機を乗るためにある施設であり、商業空間ではない。ある意味、アジア的とも捉えられなくもないが、こういうデザインが街には氾濫している香港や台北、南京、北京、シンガポールであっても、空港は玄関口としての威厳というか品性の良さのようなものをしっかりと表現している。なんなんだろう、関西国際空港。

要因として、もしかして考えられるのは、レンゾ・ピアノの代表作であるパリのポンピドー・センターを意識していることである。ポンピドー・センターは赤・黄・青の色が使われており、その強烈さはつくられた当時は相当、物議を醸したが、現在はパリ市民に受け入れられている。なんか、関西国際空港で使われている赤・黄・青はポンピドー・センターをちょっと連想させるのである。とはいえ、ポンピドー・センターは文化施設であり、関西国際空港は公共性の高く、そして都市の玄関口としての施設である。空間デザインも、そのような奥ゆかしさというか、風格がもっと求められてしかるべきであると思う。

まあ、大阪らしいといえばそれまでだが、そういう難波的というかお好み焼き的な分かりやすい大阪以上のものが大阪という都市にはある筈である。むしろ、訪れた人が襟を正す、というか難波的、お好み焼き以外の大阪があるんだな、というような印象を与えられる空港にした方がいいのではないかと思ったりする。陸の玄関口の新大阪のだらしなさを考えると、せめて空の玄関口の関西国際空港ぐらい、しゃきっと出来ないのだろうかと思わずにはいられない。

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(強烈な赤・青・黄色の配色)

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(このピンクは何だ!)

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(看板のように蔽われた壁)

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(この青と黄色の旗は、ピアノの美しい線形に落書きをしているような効果を与えている)

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(こういう小さなスペースにも広告を入れたがるせこさが、ピアノの設計空間を台無しにしているように思えてならない)

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揚州の料理屋で素晴らしいガストロミー体験をする [地球探訪記]

南京に来ている。そこで、揚州出身の先生に実家のある揚州の料理屋に連れて行ってもらった。そこは、地元のお客さんを対象にやっている庶民的な料理屋で、揚州料理専門であったのだが、相当、美味しい食事体験をすることができた。
 お酒は老酒のような蒸留酒で46度という相当、強烈なものだったので時差ぼけがまだ取れていない私は遠慮がちに飲んだが、ガチョウの水煮(揚州では南京とちがってアヒルではなくガチョウを食べるらしい)、高菜と豆腐のようなものの炒め物、豚肉を蒸したもの、タケノコと豚の角煮とキクラゲのスープ、ニンニクの茎のようなものとベーコンを炒めたもの、川海老の煮物など、どれもが食材の美味しさを活かした美味しい料理であった。そして、締めは混ぜ麺と春菊と卵のスープ。
 私は日頃から、日本食が圧倒的に世界で一番美味しいと考えている傲慢な輩であるのだが、たまに思わず、その高慢ちきな鼻をへし折られる経験をする時がある。それはタイのイーサン地方で絶品のローストチキンを食べた時、デリーで本場のインドカレー食べた時、ブエノスアイレスでピカーニャのステーキを食べた時などがそうだが、そのような鼻をへし折られる経験をすると謙虚な気持ちになるのと同時に、ちょっと美味しいものに出会えた幸運に感謝する気持ちにもなる。今日は、そんな日であった。衝撃的な素晴らしいガストロミー体験であった。ちなみに、私は残念ながらフランスでは、このような経験を一度もしたことがない。
 
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<お店の外観>

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<店の前の街並みはこんな感じ>

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<ガチョウの塩水煮>

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<何かの野菜の茎とベーコンの炒めもの>

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<タケノコと豚の塩煮とキクラゲのスープ。絶品>

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<混ぜそば>

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<左がここの店主。真ん中にいるのは、我々をここに連れて行ってくれた大学教員>

タグ:料理 揚州
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中国では検索サイトが使えない [グローバルな問題]

南京ではインターネットは使えるが、検索サイトは使えない。グーグル、ヤフーが一切、使えず、これって相当、インターネットを不便にさせることに改めて気づかされる。メールは問題なく使える。さらに、検索サイトが使えないというだけで、サイトのアドレスを覚えさせているものはしっかりと閲覧することができる。例えば、食べログや金融関係、アップルのサイトなどは大丈夫だ。一方でアマゾンやユーチューブ、フェイスブックは駄目である。また、ポケモンGOは開くことはできるが、位置情報が機能しないので、基本的に遊ぶことはできない。
なんか、それはそれで不便ではあるが、アメリカによる大統領選でのロシアによるこれらSNSを用いた世論操作の影響力の大きさなどを鑑みると、中国政府がこれらをシャットアウトしたい気持ちを持つのは分からなくもない。アメリカのマスコミはまだ持ちこたえてはいるが、ロシアなどのSNSによる世論操作と、大統領自らマスコミなどをフェイク・ニュースと叫んでいる実態を考えると、まあ中国政府はこんなツールを民衆にもたらせても彼らにとってはろくなことが起きないなと考えるのは理解できなくもない。といいつつ、ホテルの部屋には習近平の顔が表紙の「中国の統治」という本がバイブルのように置かれているのをみると、そのようなインターネット規制が中国政府にとっては都合がよくても、果たして国民にとって幸せかどうかは疑わしい。
ただ、そのような中国の状況に接すると、既存のマスコミを、ロシアなどからの援護射撃を受けつつSNSを用いて攻撃しているトランプ大統領は、本当、何を目的として行動しているのであろうか。おそらく自分の利益のため、そしてその利益をもたらしてくれるロシアのためであろう。ロシアはアメリカがガタガタになれば、しめたものだからだ。少なくとも、アメリカ国民のためでないことは確かである。そして、それを支持しているのが皮肉なことに3割近くの国民。自分の身体を蝕む癌細胞にせっせと栄養を与えているような行動を、この3割近くはしているのである。いやはや、インターネットは人民の味方にもなるが、使い方をまちがえると巨大な敵にもなる諸刃の刃であることを、中国のインターネット規制を通じて改めて気づかされる。



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南京を訪れる [地球探訪記]

大学の校務で南京を訪れる。南京は始めてである。というか、私は中国はチベットにしか、行ったことがなく、それ以外だと北京空港のそばでトランジットで1泊したぐらいなので実質的には初中国である。
 さて、南京に飛行機で着陸するちょっと前あたりから、何か空気に異臭が漂っているような気がしてきた。いや、機内に外気が入る筈はないのだが、なんか臭い。これは大気汚染のためかな、と思ったりもするのだが、偶然かどうかは不明だ。とはいえ、私が1970年代に住んでいたロスアンジェルスを彷彿させるように大気は汚染されている。
 南京国際空港は、関西国際空港より遙かに立派で風格があった。空港だけみれば、南京の方が大阪より遙かに先進的で進んでいるような印象を受ける。その後、同僚の先生の知り合いの中国の先生の車でホテルまで向かう。ホテルは南京の繁華街の中心にあるようで、周りは多くのレストランやお店が立地している。この商店街は最近、自動車の流入が禁止され、歩行者だけが歩くことができる。その空間は、森ビルが開発した六本木ヒルズのようであるが、民間の開発のマーケティング的いやらしさはそれほどなく、そこに立地している屋台は地域性をプンプンと発している。それでいて、空間デザインは洗練されている。日本の都市よりどちらかというと、アメリカの都市のそれと近い。サンタモニカのサード・アヴェニューみたいなイメージだ。
 この商店街にあるナイト・マーケット的な屋台で、鴨の血でつくられた豆腐、小籠包、雲呑スープなどを食す。紙の容器で出されてきた料理は、相当、観光客向けのチープなものだと思われるが、いや、なかなかいける。二週間ほど前にいたパリより味という観点ではレベルが高いと思わせる。
 その後、ちょっとした運河を巡るクルーズのような観光船に乗る。これは45分間、運河を周遊するものであるが、ほとんどディズニーランドのジャングル・クルーズのようなノリであった。とはいえ、初めて南京を訪れた私は結構、楽しめた。
 中国は初めてであったが、台湾には何回も足を運んだことがあるので、基本、台湾と似ている印象を受けた。もちろん、よりよく知れば違いが見えてくるのかもしれないが、戦後、つくられたと思われる建物などにも共通点が見られる。
 これまで主に研究的観点から、中国というパンドラの箱を開けたら、もう余生を考えると、絶対消化しきれないと避けていたところがあったが、来たらまた好奇心がむくむくと湧いてきた。本当、今、欲しいものは時間と集中力である。

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<21世紀になってから、この商店街からは自動車が排除された>

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<ちょうど提灯祭りがやられている時に訪れたようだ>

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<これは鶏肉ではなくアヒル肉を蒸したもの>

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<観光船の乗船場。ライトアップやネオンによって鮮やかに夜の街が照らされている>

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<運河を周遊する観光船からの光景。若干、テーマパーク感が強い>
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若者は本当はそんなにラーメンが好きではない [B級グルメ雑感]

私のゼミ生は好き嫌いが多い。ソーセージが食べられない、ネギが食べられない、トマトが食べられない等、もう食べられないもの尽くしだ。しかし、そのゼミ生が異口同音に「ラーメンは好きだ」と言う。それじゃあ、ラーメンを調べるか、と言ってラーメンをゼミで調べることにした。とりあえず、そこで設けたゼミの課題は「伏見・深草周辺のラーメン屋のラーメンを食べること」である。この課題を通じて、ラーメンについてゼミとしていろいろと知識や知見が集積されるだろうと期待した。
 さて、しかし、ゼミ生はこれらの課題をしない。少なくとも、これまでラーメンを食べていたペースよりラーメンを食べたような形跡は一部の女子学生を除くと見られない。普通、ゼミの課題がラーメンを食べて、その特徴をラインにアップするというものだったら喜ぶのではないかと思う。しかし、そうではなかったのである。
 それで分かったことは、ゼミ生はとりあえずラーメンが好き、というと格好いいので言っているだけだということだ。これは、なんか私のような50代のオヤジが現在、クィーンが好きだというと、時代的に正しいというのと似ている。本当はそんなに好きでもないのに、好きというと「通」というか「分かっている」ように思えるので、とりあえず言っている。これは、団塊の世代のオヤジ達が、ビートルズをろくに聴いていなかったのにビートルズが好きだった、というのと同じである。リバプールとか一緒に行くと、やたらビートルズゆかりの観光施設に連れて行けとこのような団塊の世代オヤジは主張するので、ストロベリー・フィールズやペニー・レーン、キャバーン・クラブに連れて行っても、それらの場所の意味も分かっていなかったりするが、そういう団塊のオヤジと同様なのではないかと思うのである。
 ラーメンがあまり好きでない、とか言うものならば、ちょっとグルメじゃない、というか分かってないね、とか言われるような雰囲気が若者の間に漂っているような気がする。ということで、皆、若者はにわかラーメン評論家ぶりたがり、皆ラーメンが好きだと演じるのだが、実はそんなに好きじゃない、ということがゼミの課題をラーメンにして分かった。
 なぜなら、麺類でいえば好きな順で、うどん、そば、パスタ、ラーメンという私の方がラーメンをどの学生よりも食べたからである。そして、ラーメンが好きでもないのに、たくさんのラーメンを食べていたら、何となくラーメンが見えてきた。例えば、京都ラーメンは大きく2つ(第一旭系の近藤製麺を使う醤油豚骨系と極鶏に代表される一乗寺を中心としたどろどろ系)に分類されることが分かったし、つけ麺きらりがこれだけ支持されるのは麺が美味しいからだ、なども昔ならよく分からなかったが、たくさんラーメンを食べることで見えてきた。
 ビートルズのよさを知るには、ビートルズの曲を聴きまくることが必要である。というか、好きだったら聴きまくるであろう。私は、ほとんどビートルズの曲をジョンがつくったか、ポールがつくったかを判別できる(ジョージは当たり前)。これは、聴きまくったからである。ラーメンも好きではないけど、たくさん食べていたらちょっとラーメンが分かってきた。とはいえ、それでラーメンが好きだとは言えない。
 消費社会においては、自分のイメージが、何を消費するかで形成されてしまうという側面がある。そのため、自分が実際は消費していないのに、こういうことを消費しているという情報を発することで自分のイメージを操作しようとするのは、分からなくもない。ただ、自分が好きでないものや理解していないもので無理矢理、イメージを形成させようとしなくてもいいんじゃないかな。
 ちなみに、私も昨今のクイーン・ブームで『ボヘミアン・ラプソディ』を観たり、また、ちょっとクイーンの曲を聴いたりしたが、改めて気づいたのは、私が愛するジェネシスはもちろんのこと、クラプトンやイエス、ドゥービー・ブラザース、ZZトップ、ツェッペリン、イーグルスとかの方が個人的にはクイーンより好きだな、ということである。悪くはないけど、そんな素晴らしくもない。
 別にラーメンが好きじゃなくてもいいのだから、好きだといって自分を誤魔化す必要はない。ただ、好きじゃなくても、ラーメンがゼミの課題になったのだから、しっかりと課題をこなす(ラーメンを食べる)ことをしないと駄目だ。食べることによって初めて、ラーメンが見えてくるし、それによって、自分がラーメンを好きなのか嫌いなのかも分かる。それはラーメンという視座によって自分の存在を確認する行為でもあるのだ。逆にいうと、ラーメンをしっかりと食べていないから、ラーメンが好き、と無責任に言えるし、70年代の音楽をしっかりと聴いていなかったら、安易にクイーンが好きとも言える気もするのである。
 まあ、このクイーンのことに関しては、相当、反論もありそうなので、また機会があったらこの考えについてもう少し、丁寧に書いてみたいとも思う。とりあえず、今日の駄文では、若者はラーメンが好きというと格好がいいので、そう言っているだけで、本当は好きでないということを指摘したかっただけである。
 

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パリは本当に美食の都なのか? [B級グルメ雑感]

パリは「美食の都」というイメージがある。しかし、私はこの説に30代中頃から疑いを持っていて、それはパリを訪れるたびに確信に近くなっている。ただ、私がそう主張すると、ほとんどの人が「それはお前の舌の方が間違っている」と批判するので、もしかしたら私の方が間違っているのかもしれないな、と謙虚な気持ちになり、パリに来るとたまに美食体験を試みたりする。
パリは最近では一昨年の夏、先月(2月)と来ているが、パリ市内はバリアフリーではないし、宿も異様に高いので、前回の二回はシャルル・ド・ゴール空港のそばにて泊まった。したがって、パリ市内で食事をするのは昼だけにしていた。しかし、今回は他の大学の先生と一緒なので、久しぶりにパリ市内に滞在することにして、この先生がグルメということもあり、結構、美味しいものを二人で探索することにしたのである。一応、仕事もあったりしたので、仕事先のカフェテリアで昼ご飯を食べたりもしたが、それ以外は比較的有名店を訪れた。ちょっと、その外食体験を通じた感想のようなものをここに記したいと思う。
宿はパッシー地区で取った。パッシー地区はオスマンがパリの都市大改造をした時に、開発されたブローニュの森そばの住宅地である。最初の晩は、ホテルそばのオイスター・バーで牡蠣と白ワインを注文した。店名はLe Lallye Passyで、カウンターにはオヤジしかいない店であった。オヤジしかいない店は、大抵、美味いと相場が決まっているが、ここは牡蠣は悪くはないが、とりたてて美味しいというものでは決してなかった。日本で食べる方がずっと美味しいし、先月訪れたバーリの生ムール貝の方が遙かに美味しい。その後、ちょっとオイスターだけではお腹が空いたままなので、またホテルそばにあるAero Restaurantに行った。ここでは、チキンを焼いたものを注文したのだが、日本の気の利いた定食屋の方が美味しいような代物であった。添えられたサラダもフライドポテトも今一つだったが、ワインはそんなに悪くはなかった。
二日目は、朝食は近くのカフェでクロワッサンとタルト、そしてカフェオレを注文する。カフェオレは機械でつくるので評する必要性もないが、クロワッサンは流石、パリと言わさせるだけの美味しさであった。バターがちょっと日本とは違うのかもしれない。というか、バターが相当ふんだんに入っている?洋なしのタルトも梨とバターがふんだんに使われていて、これは美味しかった。というか、パリ4日間でもっとも美味しかった可能性もある。
昼食は、旧証券取引所のそばにあるレストラン、Vaudervilleに行った。これは特に行こうと思っていた訳ではないのだが、たまたまお昼時にこのお店の前を通ったら、えらい繁盛していたので、これは外さないだろうと判断して入ったのである。注文したのはクロック・ムッシュ。これは、本場のクロックムッシュが食べたかったからである。これは、トーストが3枚のものにハムが挟んであり、上にチーズがどかんと乗っているもので、なかなかの食べ応えがあった。最初は美味しいと思ったのだが、だんだん飽きてきた。まあ、とても洗練されているとは言い難いが、チーズはなかなか美味しいと思った。
さて、その日の夜は、パリ在住10年という人に夕食に連れて行ったもらった。これは、絶対期待できると胸を躍らせたのだが、連れて行ってもらったのは、なんとビストロ・ヴィヴィアンヌであった。ビストロ・ヴィヴィアンヌは個人的にパリで最も好きな空間であるヴィヴィアンヌ・ギャラリアの入り口に位置するビストロでとてもお洒落である。前から気になっていたのだが、夏にパリに来ると凄い長蛇の列でほとんど入る気をなくす。しかし、先月(2月)に来た時は全然、空いていたので念願叶って初めて昼に入ることができた。白ワインとエスカルゴ、そしてシーザーサラダを注文した。流石、エスカルゴは美味しかったし、シーザーサラダも悪くはないが、パリは美味い料理があるなあ、と感心するほどではなかった。この程度であったら、日本のフランス料理屋の方が美味しい。とはいえ、白ワインのコスパは悪くはなかった。とはいえ、パリ滞在10年の方が満を持して?一緒に夕食に連れて行ってもらった店がここであるのはちょっとショックであった。というのは、ここはパリ在住10年でも美味い店として認識されていることに落胆したからである。というのも、パリ在住10年であれば、私のような輩が見つけられないようなお店を教えてくれるのではと期待したからである。ここで注文したのは、エッグ・ベネディクトとフォアグラがラーメンのつけ麺のスープのようなものに入った料理であった。つけ麺のスープと同様に葱がなかなかいい味を出していた。悪くはないけど、ちょっと肩透かしであった。とはいえ、パリの美味しいお店を未だに発見できていない私としては、ここは他のお店よりはずっと親しみが持てる。加えて、ワインのコスパはよかった。ただ、このお店がリモージュとかリールであったら納得だが「美食の都」とその名を知られるパリの名店かというと、やはりがっかりしてしまう。日本のフランス料理の方が美味しいとずばり、思う。
 その次の晩は池波正太郎がパリ滞在時によく行く店としてエッセイに書いていたりして知られるAu Pied de Cochonを訪れる。これは、新しく整備中のネルソン・マンデラ公園の前にある。パリジャンヌにも人気であるという解説であったが、土地柄か観光客が多い気がする。フランス語よりも英語の方が聞こえる。そして、サービスがまあ感動的に悪い。というか、パリのレストランは決してサービスがよくないがそれらに比べても驚くほど悪い。これは日本人だからなめられているのかもしれない。注文したワインはクレームをするまで来なかったし、また周りのテーブルには来ていた付け足しのオリーブも督促するまで来なかった。赤ワインと豚肉のコンフィを注文する。赤ワインは流石にそれほど値段の割には悪くない。豚肉のコンフィもまあ悪くはないが、有り難がるほど美味しくはない。ドイツのハクセンシュヴァインや日本の豚の角煮の方が美味しいくらいだ。庶民的な定食屋という雰囲気は悪くはないかもしれないが、インテリアの趣味はどちらかというと無粋で洗練されていない。池波正太郎の味覚も店の意匠センスをも個人的には疑う。
ということで、今回のパリ滞在も食事に関しては悲惨であった。というか、本当、パリには10回は来ていると思うが、唸るように美味しいものに出会ってない。納得するものはワインとチーズだけだ。しかも、チーズはどちらかというとフランスの田舎の方がパリのものよりも美味しい。そうそう、今回は日本人にも大人気のチョコレート屋、ジャック・ジュナンにも訪れ、お土産用に1万円ほど買ったのだが、買った直後に「生チョコなので2週間以内に食べて下さい」と言われて、しょうがなく家族以外のお土産で買ったものは自分で食べたのだが、これはなかなか美味しくて流石と思ったが、この値段であったら日本でもほぼ同じものは入手できる。自由が丘のパティスリー・パリセヴァイユも負けていない。とはいえ、ここのチェコレートは不味いとは決して言えない。そういう意味では、ワイン、チーズ、チョコはパリの美味いものであるとは言えるかもしれない。あと、クロワッサンかな。今回、滞在したパッシー地区の総菜屋デパートに入っているパン屋のクロワッサンはバターがたっぷり使われていて美味しかった。とはいえ、これだけで「美食の都」というのは看板に偽りありだと思う。

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<オイスターバーの生牡蠣>

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<Aero Restaurantのチキン>

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<ビストロ・ヴィヴィアンヌのエッグ・ベネディクト料理> IMG_0073.jpg <Au Pied de Cochonの豚のコンフィ> IMG_0074.jpg <唯一、サービスがよかったシャルル・ド・ゴール空港内のレストランでのサラダ料理>
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電気グルーブがCD回収・配信停止されるのであれば、同罪のミュージシャンにも同じ措置を採るべきであろう [ロック音楽]

電気グルーブのピエール瀧が薬物使用の疑いで3月12日に逮捕された。それを受けて、翌13日には電気グルーヴのCD回収・配信停止などが発表され、Apple Musicでは15日現在、電気グルーヴのアーティストページは確認できるが、瀧容疑者名義でない数曲を除き、再生できない状態となっている。
コカイン使用が悪いのは当たり前だが、それでCD回収・配信停止をするのであればレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ、リトル・フィート、エリック・クラプトン、ホイットニー・ヒューストン、エイミー・ワインハウス、ウィルコ、クワイエット・ライオット、ザ・フー、ラット、ラモーンズ、ザ・バンド、ザ・グレイトフル・デッド、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、シン・リジィ、セックス・ピストルズ、フリー、ディープ・パープル、ユーライア・ヒープ、ジャニス・ジョプリン、フリートウッド・マック、ドゥービー・ブラザースなどもCD回収・配信停止にするべきだ。というか、ここに挙げたのは私が今、気づいたアーティストだけなので、実際は、もうほとんどのロック・バンド、ロック・ミュージシャンのものを販売・配信できなくなるだろう。
ピエール瀧がやったことは罪であり、罰されるべきことであるとは思うが、そうであれば同じ罪を犯したものは同じように罰するべきである。それこそが法治国家の基本である。

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デーリッチュ(Delitzsch)という旧東ドイツの中小都市を訪れる [都市デザイン]

デーリッチュ(Delitzsch)というライプツィヒとハレとの中間にある旧東ドイツの都市を訪れる。なぜなら、ここは1990年の東西ドイツが統合されてから、人口が減少しては急増し、減少しては急増するという不思議な動きをしているからだ。どんな都市だろうと、この人口増減から興味を持ったのが行くことになった理由である。
さて、デーリッチュには駅が二つある。ObとUnterである。日本語でいえば、上デーリッチュ、下デーリッチュという感じであろうか。ライプツィヒから来るとUnterの駅につき、ハレから来るとObの駅に着く。両駅は400メートルぐらいは離れている。Unter駅の方がバスターミナルもあって、駅舎もあって、ちゃんとしている感じである。この駅からは商店街のようなハイ・ストリート的な道も延びている。
 デーリッチュの人口は2万5000人。東西ドイツ統一後の人口推移では、徐々に人口が減少しているが1996年と2004年に急激に増加し、そして2011年に急激に減少している。最近は安定から徐々に増加するような推移をしている。さて、1996年と2004年の急激な増加は周辺の集落を合併したためという人工的要因であることが判明した。そして、2011年であるが、これはそれまでの人口調査があまり精度が高くなく、実際、住んでいない人までもカウントしていたためそれを是正したことで大幅に減ったということが分かった。この2011年はドイツ全体の統計でもみられることのようで、なんか日本の統計調査と同じような事態だ。そういうことで、実際は、数字ほどには極端な自治体ではないことが分かったのだが、視察をしていていろいろと興味深いことを発見した。
 まず、駅からのハイ・ストリートであるが、現在、車道を狭めて歩道を拡幅する工事をしている最中であった。日本だと京都の四条がやっているようなことを、人口25000人で観光客などほとんどいない小都市でやれていることに驚く。四条だって、未だに多くの反対意見が出ているのだ。都市に賑わいをもたらすための方策はドイツ人はよく分かっている。
火曜日の昼前であるが結構、人が多く出歩いている。いや、それどころか広場前では30歳ぐらいの男性がピアノの演奏を大道芸人のようにしている。知り合いのドイツの先生によれば、ほとんど中心市街地の店舗は空き家だと言っていたのだが、実際はほとんど空き家がないような状況であった。ただ、このハイ・ストリートに賑わいをもたらしている個店、特に食堂はトルコ系やベトナム系などの移民によって営まれている。ドイツの人口縮小都市は移民によって活力をもらっている。これは、貧血で倒れそうな病人が「移民」という輸血をしてもらっているようなものではないだろうか。
 今回のドイツではコットブス市役所などでも取材をしたが、縮小都市において移民は天からの贈り物というような表現を聞いたが、確かに縮小都市においては移民がほとんど唯一の特効薬である。そういうことを、このデーリッチュのハイ・ストリートでは理解できる。
 また、郊外というか旧市街地周縁部には結構、広大なプラッテンバウ団地が存在した。前述したドイツの先生によれば、これらの多くは倒壊されたとの話であったが、倒壊された跡は多少、見つかったが倒壊率は決して高くない。私は旧東ドイツの様々なプラッテンバウ団地を見ているし、その倒壊を都市計画的にどう位置づけてきたのかに関する論文で博士号を取得しているぐらいなので、倒壊した跡かどうかはほぼ分かるのだ。
 ふうむ、事前に聞いていた話とは結構、違う印象を受けた。あと、新たに投資をして改修された戸建て住宅なども散見され、これはおそらく、このデーリッチュがハレとライプツィヒから鉄道で30分弱というベッドタウンとしては極めていい立地にあることと無縁ではないだろう。ハレもライプツィヒも人口減少が著しかったが、最近では人口増加に転じ、ライプツィヒなどは人口増加率をみればドイツでもフランクフルトなどの成長都市よりも高くなっている。このような状況が、それまでずるずると人口減少をしていたデーリッチュの立ち位置を大きく変えているのではないだろうか。
 この5年間ぐらいは、難民と移民という外力によって支えられているところがあったかもしれないが、今のデーリッチュはライプツィヒとハレのトーマス・ジーバーツが指摘するところの「ツヴィシュンシュタット」として位置づけられることで成長しているような印象を受ける。そうであれば、それまでの人口減少という課題から、郊外的開発というまったく違う課題に近い将来、直面するような気がする。

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<デーリッチュの駅前道路>

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<車道を狭めて歩道を拡幅している>

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<幅員が広く歩きやすい歩道>

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<多くのお店は移民系の人によって営まれているようだ>

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<ハイ・ストリートには人が結構、多く出ている>

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<なんと平日であるにも関わらず、大道芸人がピアノを演奏していた>
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ドイツにおける都市計画・建築分野の担当省が連邦環境省から連邦内務省へと変わった [都市デザイン]

ドイツの連邦政府に「シュタットウンバウ・プログラム(都市改造)」の政策に関する取材をするために訪れた。てっきり、都市開発・住宅部門であるので連邦環境省の下にある組織かと思っていたら、どうも2018年3月14日から、連邦環境省ではなく、連邦内務省に変更になったようだ。そして、連邦内務省の名前もBundesministerien des Innern, fuer Bau und Heimatと変更になった。これは、連邦内務・建築・故郷?とでも訳すような名称である。その背景にどのような意図があるのか、ちょっと分からないが興味深い。若干、右的なニュアンスも感じたりもしないでもない。
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『第三の男』 [映画批評]

今更ながらであるが、1949年のイギリス映画『第三の男』を観る。第二次世界大戦後の混乱のウィーンを舞台にした映画で、光と影のコントラストが観るものをスクリーン(パソコンのだが)に惹きつける映像美、どちらにストーリーが転ぶか分からないシナリオの秀逸さ、そして映画史に残るような印象的なラストシーン。
善悪が不明瞭な戦後の混乱期の中で、単純な正義感と愛情、友情といった個人的価値観で行動するアメリカ人の主人公の偽善的ないやらしさを、最後のラストシーンで一刀両断に切り捨てるアンナ・シュミット。このラストシーンは、相変わらずアメリカ的価値観で世界と渡り合えると考えているアメリカ国家への強烈な竹篦返しのように私には受け止められ、快哉を叫びたいような気持ちになったが、小説のラストシーンでは、アンナはアメリカ人主人公を受け入れることになっていることを知り、なんかとても残念な気分になった。しかも、小説ではアメリカ人であったギャングが、映画ではルーマニア人の設定になったのは、悪役の一人がアメリカ人であることを出演者の一人のオーソン・ウェルズが嫌ったためだそうだ。
しかし、小説のラストシーンでは、なんか白けた感じが残ったであろう。アンナの毅然とした態度によって、このストーリーはとても締まる。このラストシーンを主張したのは、プロデューサーのデビッド・セルズニックであったそうだ。
勝てば官軍的な戦争の中、何が正しくて何が正しくないのか。第三者には分からないいろいろな事情がある。『第三の男』は、素直に考えればハリーを指しているが、私的には、直接関係ないよそもので第三者であるホリーの鼻持ちならない偽善的な存在を、ハリー率いるギャング団とそれを追いかける国際警察という関係性と関係ない『第三の男』、もしくはハリーとアンナというカップルに入り込もうとした『第三の男』として表しているようにも感じた。
そして、そのように捉えることで、この映画の魅力がさらに引き立つようにも思ったりもした。


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学生に不足しているのは世界を知り、自分を語るためのボキャブラリーである。 [教育論]

大学の教員をして16年経つ。最近、大学を移った。これは、それまで自分の専門外である経済学科で教えていたのだが、残りの時間は自分の専門分野(都市計画、都市政策)で学生を教育指導、研究指導をしたいと考えたからである。それは、ともかく、大学、そして学部を移っても直面しているのは、学生の好奇心の無さである。前任校の経済学科は、経済学科の先生を育成するためのカリキュラムで指導をしていたりしたので、そりゃ学生も大学の講義とかに関心持つのは難しいよな、と思っていたのだが、現在の政策学科は、学生の好奇心を喚起させるような工夫を凝らしているのに、それほど学生が関心を示さない。というか、私は今、ラーメンをテーマにしているのだが、それはゼミ生がラーメンは好きだと言ったからだ。ちなみに私は好きではない。それなのに、ゼミの研究課題であっても、そして時運達が好きだといってもラーメンに対して、関心を示さないし、とりあえず食べに行きなさいと言っても食べに行かない。驚きの好奇心の無さである。私は、学生への手前、最近、ラーメンばかり食べるようになったのだが、それによって一つ分かったことは、ラーメンをあちこちで食べていたら、なんとなくラーメンが理解できるようになったことだ。少なくともラーメン批評などを読むと、前よりかは理解できるようになっている。
 さて、これは私がラーメンのボキャブラリーを多少は獲得したからだと思われるのだ。ラーメンを表現するためには、例えば「豚骨醤油」、「家系」、「大勝軒」、「鶏白湯」、「一乗寺」、「喜多方」、「とみた」、「二郎系」などのボキャブラリーが使われるが、これらの意味とそれが示す内容を知っていないと、そもそもラーメンのことが語れない。そして、こられのボキャブラリーを知るためには、それらを知っている人に聞いたり、本や映像を観たり、さらには食べていないと分からない。「二郎系」はその店で食べて始めて、その凄さというか異様さを知ることができると思う。「一乗寺」のラーメンがいかにどろどろかは、「極鶏」に行きラーメンを食べて初めて分かるというのがあると思う。
 以前、伏見区役所の職員が、伏見区のブランディングというテーマで大学に来て話をしてくれた。そこで、私のゼミ生が「伏見のラーメンはどうですか」という質問をしたら、この職員は「大黒ラーメンが有名ですね。私は食べたことがないけど」と回答したのである。ある意味、正直かもしれないが、伏見区のブランディングをする仕事を京都市民から税金を徴収してやるのであれば、少なくとも有名どころのラーメンぐらい食べておけよな、と私は強く思った。というのは、そもそもブランディングという概念は言葉でつくられる。その言葉がしっかりと理解できないと、町のブランディングができる訳がない。ちなみに、ここでいう言葉とは「大黒ラーメン」であり、それには、大黒ラーメンの麺の太さ、スープの種類や味わい、そのお店の雰囲気、料金、お客さんなどの情報が含まれたものとなる。この職員は、ちなみに「伏見は何と言っても日本酒です」というので、私は思わず「失礼ですが、日本酒を飲まれますか?」と質問したら「いや、私はワイン派です」と答えたのでほとんどキレそうになった。というのも、そもそも私はこんなに日本酒という素晴らしいお酒がある国に住みながら、ワインという輸入酒が美味しいと感じる舌の鈍感さや、ワインの日本酒に比するコスパの悪さを考えるとその経済感覚をそもそも疑うものであるが、伏見でブランディングをしていてろくに日本酒を知らないのに、平気で「伏見は日本酒です」と言ってしまう不誠実さに呆れたからである。この職員は日本酒というボキャブラリーが圧倒的に不足していたので、彼の話す言葉はほとんど意味をなさないし、聞くにも値しない。英語の語彙がほとんどない人の英語を聞いているようなものである。ちなみに、日本酒をちょっとでも嗜むものであれば、伏見こそ日本酒のブランドを駄目にしている張本人であることぐらいは、理解できる筈である。
 話がちょっと横に逸れてしまったが、この伏見区の職員のような学生が最近、本当に増えてきたと思う。学生は別に職員と違って、それで給料をもらっていないので社会に迷惑はかけてはいない。しかし、このボキャブラリーがないことで、思考力や理解力を大きく減じてしまっているし、表現力もなく、その結果、コミュニケーション力もない。まあ、これは昔もとりあえず「可愛い」、「やばい」、「むかつく」というある対象に向けられた条件反射的な感情の言葉だけで会話をしていたと指摘されていたりもしたので、今だけの問題ではないと言われるかもしれないが、今は、そもそもある対象に向けられる関心も失われているかもしれないなと思う時もある。何も、このボキャブラリーが大学の講義で学ぶようなものじゃなくても全然、構わないのだ。そして、それは言語でなくても構わない。ダンスでの表現力や、楽器、絵や写真といったものでもいい。百聞は一見にしかずではないが、うまく言語で表現できなくても構わない。ただ、当然であるが、楽器で表現するためのボキャブラリーを獲得することも大変だ。ギターであれば、ボキャブラリーはコードになるのかもしれないが、それを増やさないと豊かな表現をすることは覚束ない。スリー・コードだけでは勢いは感じられるが、細かいニュアンスはとても伝えられないであろう。もちろん、ボキャブラリーだけではなく、ペンタトニック、ドミナント・スケールといった文法も覚えなくてはならないが、それもボキャブラリーが獲得できてからこそであろう。
 私はここ数年、英語教育に関心を持つようになっているのだが、それは日本の英語教育だと、まったく英語ができるようにならないこと、にいらだたしさを覚えているからだ。そして、これはまだ仮説ではあり、一度、大学の講義で実験したこともあるのだが、英語を日本人が出来ないのは、圧倒的に語彙不足が原因なのではないかと考えている。語彙が少ないので、そもそも表現することができないのだ。そして、最近、うちのゼミ生をみていて、この語彙が少ないのは何も英語ではなくて、日本語もそうであるということに気づいたのだ。そして、語彙を増やそうともしていない。ラーメンが好きであるといっているのに、ラーメンを理解するための語彙を全然、増やそうとしない。
 これは、ここ10年間ぐらいでの学生をめぐる大きな変化かもしれない。昔であれば、例えば鉄道に関しては、鉄道オタクがいて、鉄道に関する圧倒的なボキャブラリーを有していた。そういう学生は、アルバイトも鉄道会社の駅員をしたりして、車輌やダイヤ、駅弁などに関しても豊富な情報(語彙)を持っていた。同様のことはカメラとか、ギターとか、AV女優とかでもいた。もちろん、現在でもそのような学生がいない訳ではない。例えば、前任校の卒業生でほとんどのプロ・ミュージシャンとして活躍している「宇宙団」の望月美保は、日本のロック・ミュージシャンに関しては相当、詳しく、私は随分と彼女から教わることが多かった。しかし、だからこそ彼女は第一線で活躍できているとも言える。ボキャブラリーを有しているからだ。
 人は「言語」で思考する。ボキャブラリーが多ければ多いほど、より豊かな思考を展開することができる。すなわち、ボキャブラリーと思考力とは高い相関関係がある。また、それによって表現力も増すので、コミュニケーションも円滑にすることが可能となる。そして、ここで「言語」と表記したが、それは何も言葉でなくてもいいのだ。「エリック・クラプトンのような泣きのギター」、「伏見桃山のひかりのようなつけ麺」、「ゴッホのひまわりの絵のような色彩」、「『アニー・ホール』のウディ・アレンのような失恋」、「奈良萬のような豊穣さ」、「ガウディのグエル公園のような色彩」・・・。このようなボキャブラリーを持つことで、世の中を広く理解し、それは世の中で生きていく自分をも知ることになる。そのことで、自分の人生も豊かになり、魅力的な人になっていけると思うのだ。
 このボキャブラリーが、なんか今の学生には本当に欠けていると思う。お金がないといって安居酒屋で飲み、ファストフード店で食事を済まし、恋愛もコンビニエント感覚でやり過ごし、就職に関しても、何がやりたいかとかではなく、大学のポジショニングだけでとりあえずどっかの企業に潜り込もうとする。他人の人生のことをとやかく言う資格はないが、このボキャブラリーの多寡によって、豊かな生を送れるかの社会格差が生じるような気がするのである。せっかくの人生、そしてボキャブラリーを増やす機会があるのに、それに力が入れられないのは由々しき事態であると思う。
 

 

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