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イタリアの世界遺産「マテーラ」を訪れる [都市デザイン]

イタリアのバーリに同僚が在外研究で来ているので、図々しくもバーリへと訪れた。さて、バーリのそばには二つの住宅系の世界遺産がある。アルベロベッロとマテーラである。どちらかに連れて行ってくれると言うので、マテーラに行くことにした。マテーラへはバーリからだと鉄道で二時間ちょっとかかる。のんびりとした単線のローカル線で、車窓はオリーブ畑が延々に続く感じである。

マテーラはマテーラ県の県都であり、人口は約6万人である。2019年には欧州文化都市にも指定されている。そのような比較的、しっかりとした都市の旧市街地にサッシと呼ばれる洞窟住居がある。この洞窟住居が世界遺産なのである。マテーラの旧市街地はグラヴィナ川がつくった谷の石灰岩の丘陵地に発展した。ここに8世紀から13世紀にかけて、修道僧が洞窟住居をつくり、住むようになったそうだ。19世紀頃からは、貧しい小作農民がここに住むようになり、家畜とともに生活し、上水・下水もしっかりと処理できていないという劣悪な環境の中で住民は暮らすようになっていたそうだ。そして、1950年代にはこの住民は行政により強制的に郊外に新築された集合住宅に移住させられ、この洞窟住居は放っておかれるのだが、1993年に世界遺産に指定されると、これらの住居を再利用する人が増え始めているそうだ。

実際、訪れると、カフェなどに利用されているだけでなく、洗濯物が干されていた住宅もあったりして生活している人もいるようであった。どの程度、改修されたか不明だが、雨水の流れなどはそれなりに考えているように思われるが、下水はどのように処理できているのかなどは不明である。

どことなくアメリカのコロラド州のアメリカ・インディアンの居住跡地であるメサ・ベルデ国立公園を彷彿させる。まったく、アメリカ・インディアンと当時のマテーラの人達が交流する筈はないのだが、人間が考えることは似ているものだなとも思ったりもした。いや、丘陵地に住宅を掘ってつくるという点がということですが。

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(マテーラの洞窟住居の展望)

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(世界遺産に指定されていることもあり、ペンキなどは勝手に使えないそうである)

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(洞窟住居の跡地)
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『トラブゾン狂騒曲』 [映画批評]

トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督によるエコロジカル・ドキュメンタリー。
トルコ北東部にあるトラブゾンという村にごみ処理場がつくられる2007年から2012年までの5年間を丁寧に追求してつくられたこのドキュメンタリーは、環境問題の普遍的な本質を鋭く描いており、観るものの心を揺さぶる。その本質とは、環境問題は無責任な人間がつくり出すということである。無責任であるから、その問題を予見することもしなければ、それを解決しようともしない。日本の原発問題とも通じる、このトルコのごみ処理場の問題は、しっかりと時系列的に新たな問題が出てきた時に、それに対して地元住民とそれを管理する側の環境省がどのように対応するかを見事に記録している。ポイントとしては、原発問題もそうだが、一度つくらせたら地元は負けるということである。トラブゾンも多くの住民がそこを去って行くことになる。日本の地域も、まったくもって対岸の火事ではないこの環境問題。必見である。

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ヴォージュ広場というパリの宝を台無しにしている道路 [都市デザイン]

パリで最も美しい広場と言われているのは、バスティーユのそばにあるヴォージュ広場である。ブルボン朝初代のフランス国王であるアンリ4世によって、パリを新しいローマにすべき1605年に建造が開始された、パリで最初の計画的に設計されてつくられた広場である。その設計とレイアウトに関してもアンリ4世は随分と口出しをしたそうで、パリという田舎をローマのような格を持たせるために彼が手がけた幾つかの都市プロジェクトのうちの一つである。この広場を囲む建物はすべての方向で9戸であり、高さなどは統一され、その調和は特別な空間をつくりだすことに成功している。

さて、確かに素晴らしい広場ではあるのだが、美しいアーケードもある建物とこの広場の間に無粋な自動車道路が通っている。つまり、広場は自動車道路の囲まれているような状況であり、建物と広場を行き来するのに、この道路を渡らなくてはならない。それだけでなく、この道路には路上駐車が両側でされていて無粋このうえない。美しい広場と美しい建物と自動車はまったく景観的にもマッチしない。なんてもったいない。一昔前のロンドンのトラファルガー広場を彷彿させる人に優しくない空間だ。やはり、フランスは都市デザインではヨーロッパの中では後進国だな、と呆れた気分になりつつ、いや、私が考えるぐらいだから、パリの人達も同じような気持ちをおそらく抱いているだろうと思い直す。というのも、前から思っていたのだが、バスチーユ広場とかマドレーヌ広場とか、自動車中心で歩行者をバカにしたようなランドアバウトを大きく改善させて、歩行者動線を改善し、より歩行者を大切にするような空間づくりをプロジェクトで進めていることを知ったからだ。

ということで、そのうち、当然、このヴォージュ広場を台無しにしている広場を囲む自動車道路もどうにかなるだろう。というか、ただ、自動車を通さなくすればいいだけの話だ。なぜ、ここに道路が必要なのかも分からない。駐車場が必要であれば地下駐車場をこの広場につくればいいだけの話だ。出入り口をどこにつくるのかが難しいというかもしれないが、それこそバスチーユ広場当たりに設置すればいい。ちょっとアクセス道路が長くなるかもしれないが、このパリという都市の宝をしっかりと守り、その価値をさらに高める意義を考えれば費用対効果はとてつもなく高いものとなるであろう。

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(パリで最も美しいといわれるヴォージュ広場)

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(しかし、その美しい広場と美しい17世紀の建物の間には無粋な道路がつくられている)

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(空間の連続性が台無しにされている)

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(しかも路上駐車の自動車が景観的にマッチしていない)

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(ヴォージュ広場に行く際にもこの道路を横断しなくてはならない。これも無粋)
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トランプ大統領があぶり出すアメリカ像 [トランプのアメリカ]

トランプ大統領が就任してから2年が経つ。当選した当時は、このままでは世界が大混乱すると予測し、持っている株をほとんど売ったりするなど結構、狼狽したが、まだそれほどの混乱がなく世の中は回っている。トランプ大統領のこの2年間を顧みて、何が見えてきたのか。それは、むしろトランプがアメリカの問題ではなく、彼のような詐欺師が、詐欺師であるのに分かっているのになおかつ支持をするアメリカ人が3割いるという事実こそが問題であるということだ。

トランプのような嘘つきを、その嘘が嘘であることを分かっているにもかかわらず、確信的もしくは盲目的に信じる人々が多いという状況は、民主主義を崩壊させる。それは、ナチス政権が民主的に支持された状況を彷彿させるが、現在のアメリカは報道の自由や表現の自由が認められている中での、トランプ支持であるから状況は深刻である。というか、これまでこのような事実ではないことを事実であると主張できる人達が3割以上いる国の方針に従って日本は政策をほぼ決定してきたのかと思うと愕然とする。真実の重要性を強く思うし、事実に則って議論することの重要性を改めて再認識する。

人類が崩壊するとしたら、事実を認められなくなった時であろう。そのような脆い状態にアメリカはあったということをトランプ大統領はあぶり出した。それは、決して日本や世界にとっても喜ばしくないなと思うのと同時に、SNSが民主主義を崩壊させるツールとして使えることを見抜いたロシア政府の驚くような狡猾さには度肝を抜くしかない。

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王寺町の「嘘からまこと」のラーメンで街づくり [都市デザイン]

奈良県に王寺町という自治体がある。ここは、大阪のベッドタウンで大和川沿いの谷を中心に発展した来た町である。面積は7キロ平米と随分小さい自治体だが、山がちであるために可住地面積は4キロ平米とさらに小さい。その結果、人口は24000人ぐらいだが人口密度が高く、また工業用地がないため第三次産業の従業者が91%を占める。都市構造的には勝手にコンパクト・シティである。鉄道とともに発展してきた町ということもあり、政策としては駅のブランド化を意識していて、駅周辺にマンションを建てていきたいと考えているそうだ。ううむ、コンパクト・シティは面的だけでなくても高さ面でもコンパクトがいいと考えている私としては、ここらへんは中央政府から本家のEUのコンパクト・シティと違った方向に進んでいるな、と懸念していた私だが、ここ王寺町も面的にはともかく高さ的には全くコンパクトではない都市づくりを目指しているようだ。

歴史はあるが、その町の歴史が現在の町へと上手い具合に繋がっておらず、山を切り開いてつくられたニュータウン的色彩が強い町である。さて、そのような町であるから、町としてのアイデンティティは弱く、人々の愛着は薄いし、知名度も低い。そのような課題を克服するために王寺町が取り組んだのはゆるキャラによる街づくり、そして次いでラーメンによる街づくりである。ゆるキャラは雪丸という犬で、聖徳太子の飼い犬という設定である。これは王寺町の名前が聖徳太子が建立した放光寺に由来しているからだそうだ。この雪丸は、王寺町のアイデンティティの欠如を埋めるように人気を博し、昨年度のゆるキャラ・グランプリでも11位になっている。王寺町を知らなくても雪丸を知っている人が増えている。さらに、雪丸のドローンを博報堂に委託して100万円でつくったりするなど、話題づくりも上手い。税金を使って100万円というのもどうかな、と思うがその広告効果を考えると100万円の効果は余裕であるだろう。王寺町を知らなくても雪丸を知っている人は増えている。雪丸をフックとして、観光客が増えることも期待しているそうだ。確かに雪丸が好きな人は放光寺に観光というパターンはできるかもしれない。私も聖徳太子に飼い犬がいたことや、聖徳太子が王寺と関係しているなどは王寺町を調べなければ知ることはなかった。

さて、ゆるキャラはともかく、それではなぜラーメンなのか。これは王寺町役場が町民に何が町に欲しいかのアンケートを行ったら、一番がラーメン屋であったことが大きな理由である。ちなみに二番はカフェであった。王寺町は関西本線が走っており、近畿鉄道の駅もあるので公共交通の便がよいため小売業は集積しているのだが、いかんせんフランチャイズ店が多い。これは町民にとっては必ずしも悪いことではないが、外から王寺町に来たくなるような発信力のあるお店ではまったくない。そこで、ラーメンをゆるキャラに次ぐ、地域ブランディングのツールとして考えることにしたのである。しかし、王寺町にはラーメンというコンテンツはない。ないから町民がアンケートで欲しいと回答したのである。いや、正確にはない訳ではない。「名物王寺ラーメン」という比較的、ラーメン通には知られていたスタミナ系ラーメンのお店が駅の北側にあったことはあった。しかし、ほぼ個店はここだけである。ということで、ラーメンの町というイメージは王寺町にはほとんどなかった。なんか、敢えて例えると、サッカーの日本代表の補欠になった選手が一人いただけで、サッカーで街づくりをしよう、みたいな無理無理感がある試みである。

さて、しかし、これが驚くことに上手くいく。それでは王寺町は何をしたのか。王寺町では2018年3月11日から7月31日にかけて、王寺ラーメントライアルというイベントを行った。これは、王寺でラーメン店の開店を目指す店主が、長年空き店舗であった王寺駅北口にあった居酒屋を改修した店で、期間限定でラーメン店の営業に挑戦するという企画である。
これには4店がチャレンジするという構想であったが、最初の1店は1日のみで、これは広告塔のような効果で有名店が開店したというものであった。その後は、Namaiki Noodle、麺屋やまひでの2店が出ただけで、結果的にNamaiki Noodleが優勝。その後、この店が会場であった空き店舗で2018年10月からラーメン屋を開業する。このお店は鶏白湯のスープの細麺で、個人的には奈良ラーメンのイメージに沿ったラーメンである。店主は奈良の鶏白湯ラーメンで有名な麺屋NOROMAで修行をしていたそうだ。このラーメンイベントは、2018年12月に県政策自慢大賞に輝く、という名誉を受ける。まあ、政策を自慢するという時点で公務員の仕事への意識に問題を感じない訳ではないし、表層的で短期的な視点の政策ばかりに公務員の関心がシフトしそうで心配ではあるが、王寺町にとってはこれは追い風となった。

そして、次に仕掛けたのが関西ドリームマッチという人気のラーメンイベントで、その第三回目を王寺町で誘致したのである。そして、まさに先週末の四日間(2019年2月8日〜11日)に開催した。このドリームマッチのどこがドリームかというと、関西の錚々たるラーメン店がコラボをするところが、ドリームだそうである。まあ、敢えてコラボするぐらいなら、そのレシピでつくれよ、という気もするが、ラーメンオタクにはなかなか嬉しい企画だそうである。このようにラーメンでまちづくりを仕掛けて1年、まともな個店のラーメンが一店舗しかなかった王寺町でなんと大規模なラーメンイベントが開催。その宣伝効果はとてつもなく大きなものがあったと推測される。

このようにして、特産品もほとんどなく、観光資源が少ない王寺町は「嘘から出た誠」のようなブランド戦略で、知名度を上げていったのである。これが成功した要因の一つとして、やはりラーメンをコンテンツにしたことはあったかと思う。なぜなら、まずラーメンは歴史が浅いので老舗といってもたかが知れている。まだ、発展途上の食べ物である。そして、応用が効く。例えば豚骨ラーメンは、スープをつくっている時、店主がうたた寝をして煮込みすぎたことで発見されたし、味噌ラーメンは札幌のお店で味噌汁にラーメン入れてよ、という無茶ぶりからつくられた。そのように考えると、まだまだその可能性は広がる。そして、少ない資産で勝負でき、それに勝てば実入りも大きいギャンブル性の高いビジネスであるので、男のロマンを駆り立てやすい。そこには、また学歴社会的なものが入ってくる余裕もない、実力主義的なところが、日本人の武士道にも通じる何か魅力を放っているような気もする。ここらへんは仮説ではあるが、ラーメンというコンテンツの魅力と、即興で地域ブランドをつくれてしまうという事実を王寺町で知ることができた。くまモンの熊本県ほどではないが、なかなか上手くやった(税金を無駄遣いにしなかった)自治体による地域ブランド創造政策ではないかと思う。

人口が縮小していく中、コミュニティを強化させるうえでは、その地域のアイデンティティを強化させていくことは極めて重要である。その強化において、ゆるキャラ、ラーメンといったコンテンツを使うことは、意外と有用なのかもしれないな、ということを考えさせられた。もちろん、ダメダメなゆるキャラを取りあえず、つくっていたり、税金を浪費してゆるキャラ・グランプリのナンバーワンを金で買う(静岡県のH市のことですね)ようなことはあってはならないとは思うが。

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(ナマイキラーメン)

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(ラーメントライアルの会場となった居酒屋。今はナマイキラーメンのお店になっている)
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今更ながら『E.T.』を観る [映画批評]

今更ながらであるが『E.T.』を観る。一昨日、恥ずかしながら『ハムレット』を初めて読んだのだが、最近、社会常識として著名な本とか映画の内容を知っておかなくてはまずいみたいな気分になっているからだ。さて、E.T.は少年とその兄弟と宇宙人との交流の物語だが、子供達の純な優しさのようなものが心を打つ。流石、大ヒット作は良質だなと思ったりもしたが、あの宇宙人のデザインは悪い。これは、スター・ウォーズなど他のハリウッド映画にもいえることだが、なんで円谷プロのように格好いいというか、より個性的な宇宙人がつくれないんだろう。ピグモンとかの方がずっと存在感がある。というか、私がこれまでE.T.を観なかったのは、あのヘンテコなデザインの宇宙人に抵抗を覚えていたからだ。その気持ちは映画を観た後も変わりは無い。
 あと、新生チャーリーズ・エンジェルのドリュー・バリモアが子役で出ているのだが、その演技は驚くほど上手い。いや、天才子役という形容が大袈裟ではないぐらいだ。私はなんでドリュー・バリモアがこんなに俳優として引っ張りだこであるのかが不思議だったのだが、それの理由はここにあったのかということに気づいた。
 また、舞台はロスアンジェルスの郊外であるが、この郊外で暮らす少年の生活を見事に演じていたかとも思われる。多くのアメリカ人が郊外で生活をするようになった1970年代当時の新しい郊外でのライフスタイルや価値観(離婚を含む)などをうまく表現しているようにも思える。郊外の希望が幻想であったのかとアメリカ人が気づき始めた時代感、イーグルスが『ホテル・カリフォルニア』でカリフォルニアへの人々の期待を皮肉った時代感を表現しているようにも感じた。そのような不毛な地にちょっとしたファンタジーを展開させることは、アメリカ人の心の琴線に触れたのかもしれない。


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ボヘミアン・ラプソディ [映画批評]

大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』を正月休みに観た。フレディ・マーキュリーの映画であるが、相当、事実に忠実に描かれているようで、フレディの実母の写真を観たら、映画で母親と演じているインド人女性にそっくりで驚いた。ホモセクシュアルであることはまあ、一目瞭然であったので知っていたが、ゾロアスター教のインド人であり、18歳までイギリス外で育ったことは初めて知った。生まれたのはイギリスの植民地であったアフリカのどっかで、勝手に外交官の息子かと思ったりしていたので、生まれはイギリスの外でも育ちはイギリスであると勝手に勘違いをしていた。そして、外交官の息子だと思っていたので金持ちのボンボンだとも思っていた。そういう偏見をしっかりと是正してくれるような、良質な映画であるなと思った。
 愉快なのは、カメオで出ているマイク・マイヤー扮するレコード会社の重役が、『ボヘミアン・ラプソディ』のような6分ぐらいの曲をカーステレオで聴く若者がいないと言ったシーンである。フレディ・マーキュリーが亡くなった後、映画『ウェインズ・ワールド』でマイク・マイヤーが友達と『ボヘミアン・ラプソディ』をカーステでがんがんかけながら、車で街中に繰り出しているシーンは、ロック映画史上、最も有名で愛されているシーンであるからだ。そして、このシーンでクィーンの『ボヘミアン・ラプソディ』はアメリカ人によりよく知られるようにもなる。
 バンドのごたごた、そしてライブ・エイドでの復活といったシナリオもよく、クィーン・ファンでない私も十二分に楽しめた。ということで、まあ映画には何も文句はないのだが、ちょっと気になるのは急に、私の周りにクィーン・ファンの50代前後の人が増えてきていることだ。皆、昔からクィーンが大好きだった、と言う。本当かよ。いや、当時も確かにクィーン・ファンはいたことはいたが、クィーンよりも格好よいロック・ミュージシャンもたくさんいた。イギリスのミュージシャンでもデビッド・ボウイや、クラプトン、ツェッペリン、ディープ・パープル、ピンク・フロイド、イエス、ピーター・ガブリエル、ジェネシスといった方がずっと格好良いと当時も思っていたし、今でも思っている。決して悪くはないけど、そんな傑出して特別ではないよな、と当時も思っているし、その気持ちは今でも全然、変わらない。

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マイケル・ムアーの最新作『華氏11/9』を観る [映画批評]

マイケル・ムアーの最新作『華氏11/9』が日本で公開されていることを知ったので、渋谷のアップリンクに観に行く。月曜日で一回しか流されないので、これは座れるかなと不安だったのだが、ナント、10人ぐらいしか観客はいなかった。おそらく2019年1月において、最も重要な映画であるにも関わらず、この無関心さは何なのだろう。自分が入れたのは喜ばしいが、ちょっと『ボヘミアン・ラプソディ』を複数回観た人が周りにいることを考えると、これは本当に不味い状況じゃないかなと思ったりもする。
 さて、映画はトランプが大統領という、悪夢のような現実にどうしてアメリカ社会が陥ってしまったのかということを、トランプという人柄の分析、人々の意識の分析などを通じて、非常に分かりやすく丁寧に解説してくれている。とても説得力があり、トランプ大統領という悪夢に陥った背景が理解でき、ちょっと、そのオバケの正体が分かったような気分である。そして、トランプと似たようなビジネスマンとしてのバックグラウンドを持ち、ミシガン州知事になったリック・シュナイダーの行政を取り上げ、ビジネス・マインドの強い人が政治をするととんでもないことが起き、このままトランプに妥協すると、アメリカはとんでもないことが起きるだろう(既に起きている可能性も高いが)と警鐘を鳴らしている。『ボヘミアン・ラプソディ』は私を観たが、2019年1月時点において観るべき重要度でいえば、この映画の方が遙かに高い映画である。生き延びるためには観るべきである。

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トランプの政府閉鎖の本当の意図は壁をつくる予算を得るためではなく、FBI潰しだ [トランプのアメリカ]

トランプの政府閉鎖は30日間に突入した。歴史上、最も長い政府閉鎖である。政府閉鎖はこれまで大統領が主導したことは一度もなく、そういった意味でもとんでもないことをしでかしたなと固唾を呑んで、アメリカのケーブルテレビをチェックしている日々をここ1ヶ月ほど送ってきている。これは、日本の政治評論家で、現状のトランプを私が納得するような説明をできる人が不遜な言い方になるが、一人もいないからだ。例えば、アメリカの政府封鎖を、トランプの民主党支持者の分断作戦だ、という妄想を書いていているブログを見つけたりしたが、この人は一体全体、どんなフェイクニュースを読んでいるのだろうという印象だ。(http://agora-web.jp/archives/2036830.html)。こんな状況下であるので、どうしても現地での情報を多方面から収集し、自ら判断をしなくてはならない。もちろん、その自分の判断も正しいかどうか自分でも自信はないが、適切な情報量が多くなると推察の精度も上がる。
 さて、私が信頼しているソースの一つは、レイチェル・マドー・ショーであるが、1月21日の彼女のこれが政府閉鎖の真の理由かもしれない、という内容の解説は非常に説得力があった(https://www.youtube.com/watch?v=-V5El-Bf1ek)。それはFBI潰しだというのである。ご存知の通り、ムラー捜査官だけでなくFBIもトランプとロシアの関係を国防的観点から調査しているとのは、先週のニューヨーク・タイムズ紙が報じたことだが、政府閉鎖をしているとFBIの捜査官の給料も未払いが続くからだそうだ。FBI捜査官は、採用される時に、賄賂されないように持ち金が少なくても生活できることなどが採用条件に含まれるそうだが、そうはいっても給料未払いのような状況が続くと、組織がまともに機能しなくなる。ムラー調査もほぼ終盤に差し掛かっているというのが大方の見方だ。この調査結果によってはトランプが弾劾される可能性は高い。当然、その結果がどういうものになるかをアメリカで最もよく分かっているのはトランプ本人そのものであろう。そして、それを避けるためになりふり構わない行動を取っている、すなわち、ムラー調査だけでなく、FBIという組織を崩壊させることがトランプの意図としてあるのかもしれない、とのレイチェルの説明は合点がいく。
 トランプの政府閉鎖は、随分と子供じみた馬鹿なことをするな、とトランプを揶揄する人も多く、私も何、不合理なことをしているのか、と思ったりしていたのだが、壁の予算を通せ、と民主党に駄々をこねているというのは表向きのピエロ面で、裏では相当したたかに自分のために動いていることが見えてきた。そして、FBI潰しというのは、まさにロシアのクレムリンが願っていることであろう。思ったよりトランプは馬鹿ではない。気をつけないと、何回でもやられるぞ。

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小泉武栄『山の自然学』 [書評]

東京学芸大学名誉教授の小泉先生が1998年に著された岩波新書の『山の自然学』を読む。礼文島から屋久島まで、日本列島を連なる個性的であり、多様な山々の植生、地質、地形などを分かりやすく解説してくれている。私はへたれであるが登山をするので、この本に書いていることはとても興味深い。山を登ると、たまに驚くことがある。例えば、鳥取県の大山ではそのブナ林の明るさに心を打たれたことがある。その明るさの背景などをこの本は科学的に推察し、解説してくれる。自然の仕組みの複雑さと蓋然性に、驚くと同時に、生態系をしっかりと学ぶことの重要性を思い知らされる。
 本を読むと、これまでの山での体験が違う視点で捉え直すことができ、とても興味深いし、まだ行ったことのない山は是非とも近いうちにチャレンジしたいという気持ちにさせる。登山体験の幅を広げるような内容に溢れた本である。
 また、山の自然学の解説以外にも本書は重要な知見をもたらしてくれる。一つ目は、政府の無知による自然破壊の酷さである。引用させてもらう。
「上高地の自然をめぐっては、現状を維持しようとする環境庁と、洪水防止のために川を床固めし、堤防をつくりたいとする建設省のあいだで、長年にわたって“つばぜりあい”がおこなわれてきたが、結局、工事は行われることになってしまった。わたしの友人の岩田修二は『山とつきあう』のなかで、床固め工事に反対を表明し、ケショウヤナギなどの森林にとっては土木工事は害をなすばかりだとして、洪水に対してはホテルなどの嵩上げで対処すべきだと主張しているが、まったく同感である。」(p.167)
 二つ目は、日本において自然史についてのカリキュラムがまったく抜け落ちているとの指摘である。私事で恐縮だが、私は小学校4年生から中学校1年生までアメリカの現地校で教育を受けたので、いわゆる算数などの授業はとてもレベルが低い内容のものを教わっていたが、自然史というかエコロジーの授業は小学校高学年で受けていた。そういうこともあって、著書の考えがしっくりと入ってくるというのはあるかもしれない。
 二つの点は、今後、日本が改善しなくてはならない大きな政策的課題であろう。


山の自然学 (岩波新書)

山の自然学 (岩波新書)

  • 作者: 小泉 武栄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/01/20
  • メディア: 新書



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京都市の人口減少解決策に異議 [都市デザイン]

1月17日の日本経済新聞に拙文が掲載されました。京都市の都市政策に関して疑義を呈した内容なのですが、ちょっと編集サイドで手が入り、それはそれで読者を想定すると有り難い修正なのですが、私の本音も皆様に伝えられたらと思いますので、オリジナルの原稿を下記、掲載します。

京都市が景観政策見直しを検討している。その理由は、京都に住んで働く人が減少することへの危機感であるそうだ。京都に住む人が減少している理由は、京都市によれば住宅価格が高騰しているからだという。人口が増加して住宅価格が高騰しているなら分かるが、人口が減少しているのにそれが高騰しているのは随分と奇妙な話である。しかし、京都市はそれは住宅供給が不足しているからだと判断し、住宅供給の弊害となっている建築物の高さ規制を緩和させようと考えている。
果たして、住宅供給を増やせば、人口減少は解消されるのであろうか。そもそも、京都市の住宅価格の高騰をもたらしているのは、最近の京都の凄まじい観光需要の増加を起因とした民泊需要の増加であると筆者は分析している。実際、観光客に人気の高い東山地区などの空き家の取引状況をみると、そのうちの大半が外国人による投資か、それを仲介する不動産業者であったりする。それらは外国人がそこで住むために投資しているのではなく、民泊として活用するために購入しているのである。したがって、住宅価格の高騰を抑えたいのであれば、それを押し上げている民泊を規制すべきである。住宅価格の高騰を緩和するために住宅供給を増やして効果があるのは、実際の住宅需要が不足している場合であって、不足しているのは住宅という名を隠れ蓑にした民泊という宿泊施設の場合は、規制緩和をしても、住宅需要は民泊需要にすべて喰われてしまうであろう。
 百歩譲って、宿泊施設を増やすということで都市計画規制を緩和するということで議論をするならまだ分かるが、人口減少を解消するためにそれを緩和することは、インフルエンザに外科手術を施すようなもので、効果がないどころかマイナスの影響を及ぼすであろう。そのような規制緩和は住宅ではなく、民泊を増やすことに繋がり、それはさらなる観光客を増やすことになる。現時点でもバスなどの公共交通が、増加した観光需要を捌ききれずパンクし、四条などの中心部では歩道から人が溢れるような状況下であるのに、さらに観光客を受け入れることは、京都市に大きな弊害をもたらすであろう。
そして、何よりそのような高さ規制や建築政策の見直しは、世界でも希有な「先年の都」という歴史を有する古都の根源的なアイデンティティを破壊する。いや、そのアイデンティティを破壊すれば確かに観光客も来なくなるかもしれないが、それによって京都という都市の魅力が失われ、より人口の減少を促進させるのではないだろうか。京都はそのユニークな歴史から、日本人だけでなく人類の宝となっている。それは、世界的にはプラハやフィレンツェ、ベネチアなどのような都市であり、そのアイデンティティをしっかりと次代に継承させていくのは日本人の人類への責務である。日本全体が人口減少というトレンドにある中、人口のいたずらな奪い合いへ参戦することは、長期にわたる禍根を京都に残すことになるだろう。千年とは言わないが、百年ぐらいの長期の物差しで京都のアイデンティティを守るという意識をもって都市政策を考えてもらうことを切に望みたい。

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正月におせち料理をつくり、食べる意義 [グローバルな問題]

明けましておめでとうございます。最近、掲載頻度が少なくなっていますが、今年もこのブログを宜しくお願い致します。

さて、極めて私事ではありますがおせち料理を最近、つくっています。これは、日本人とは何だろうとこの数年、考えているからでもあります。日本人ってどうやって定義できるのでしょうか。日本は島国なので、移民がなかなか来にくい国です。ということもあり、なんか日本で生まれ育って、親もそのように暮らしてきて、さらに親の親もそのようであったりすると、もう日本人だと勝手に思ってしまうかもしれませんが、本当にそれで日本人といえるのでしょうか?例えば、そのような考えをアメリカ合衆国に適用すると、そのような人達はアメリカ・インディアンだけに絞られてしまい、トランプ大統領のように母親が20歳頃スコットランドから渡米してきて、さらに父親方も祖父の代にドイツから渡米してきたような人なんて、まったくアメリカ人と言えなくなってしまいますよね。
 おそらく世界的には、日本人は日本語をしっかりと駆使できて、日本文化をしっかりと理解して、それらを次世代に継承するだけの教養・技能・情熱を有している人なのではないかなと思うのです。そのように考えると、ドナルド・キーンなどは私なんかよりも遙かに日本人である訳です。これは、例えばどこかの国が日本人なんて絶滅してもいいんだと主張した時(いや、このような話は真面目に第二次世界大戦中はされていたと思います。そうでなければ原爆は落とされない)、いやいやいや、日本人は人類において日本語を含む貴重な文化を継承していくという重要な役割を担っているので、絶滅させない方が日本人以外にとってもいいでしょう、と主張するのが、一番、絶滅させない理由として適当であると私は思ったりするからです。ここで人道的などという言葉を放っても、ほとんど効果がないことは人類の歴史が証明しています。
 さて、前口上が長くなってしまいましたが、そのような日本にしかない貴重な人類の文化資源として、私はおせち料理というものがあるのではないかと思っています。朝日新聞の元記者であった本田勝一も世界で一番美味しい料理は日本料理と言っていますが、私も50ヶ国以上訪れた経験から本当にそう思います。そして、その和食のエッセンスはおせち料理に詰められていると思います。ということで、おせち料理の調理に精進することで、日本料理の哲学のようなものにもちょっと触れられるかなと思うのと同時に、殺されそうになった時、ちょっと美味しい料理を振る舞って命乞いができるかもしれないと思ったりもする訳です。
 ということで今年もおせち料理をつくりました。ポイントとなるのは食材をどこで買うかということですが、野菜系はすべて尾山台にある八百屋ジャズで仕入れました。値段は高いですが、モノはいいです。この値段の高さには、しっかりとした商品を提供してくれる信頼の値段も含まれているかと思います。ローストビーフのお肉は都立大学の原田畜産で入手しました。原田畜産はとても人気なのですが、家内が大晦日の日に開店前に並んでくれたので無事、手に入れることができました。ちなみに予約をすればいいじゃないか?と思われるかもしれませんが、八百屋ジャズでは大根の予約ができますが、原田畜産は相当の量でないと予約は受け付けてくれません。個人消費の量ではとても予約できないのです。
さて、問題となるのは魚介類です。というのは、これまでは築地市場で入手していたのですが、築地市場が移転した後、場外はただの小売店の場となっている筈です。豊洲市場のサイトをチェックすると、どうも場内でも購入できるようだということが判明したので、とりあえず豊洲市場に向かいました。何しろ、必要なのは有頭海老、そして数の子、蛸、鰹節です。また出来れば真鯛。初めて行った豊洲市場はとても清潔で、しっかりと来場者も管理していて、とてもよく計画されているなと思いました。正直、築地市場よりも遙かにましになっています。部外者がいろいろと反対していましたが、当事者からするとなんで反対するんだ、という気分だったでしょう。
 場内に入るのはわざと入りにくくされているようでしたが、いそいそと入っていき、海老専門店に行きましたが既に12時を回っていたこともあり閉まっていました。他の店もあまりいい海老が置いていない、というか売り切れている。ということで、豊洲市場にあるショッピング・コート的な場所で鰹節や数の子、昆布巻き、蒲鉾、伊達巻、田作などを買いました。ちなみに、結果論ですが、ここで買ったものは鰹節こそ相当よかったですし、蒲鉾、伊達巻、田作は文句を言うようなものではなかったですが数の子、昆布巻きは今一つでした。ちょっと安かったですが、安物買いの銭失いという言葉を痛感させられました。
 肝心の海老が入手できなかったので、豊洲のお店の人に相談すると、築地の場外に行くのであればアメ横の吉池でしょう、といわれたので初めてですがそそくさと吉池に向かいました。吉池の混み具合は、まさにラッシュアワーの田園都市線という感じでしたが、どうにか海老、鯛、蛸を入手することができました。ただ、これも結果論ですが、鯛、蛸はよかったのですが海老は残り物を購入したせいもあるけど、頭が調理途中でもげたりして散々でした。
 さて、そんな感じで仕入れた食材でつくったおせち料理は次のようなものになりました。

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まず、、写真中央の鯛の塩焼き。これは、なんと内臓処理をお願いし忘れたので、自分で初めて捌きました。そのため、ちょっと見た目は悪かったですが、吉池で購入した金額が確か700円前後。近くのスーパーで調理済みの鯛が3000円ぐらいで売っていたので、見た目の悪さはどうってことない気分になります。そして、時計回りに左から行くと、左は栗きんとんです。そして、次の重は黒豆、数の子、膾+干し柿、菊花蕪、田作(カシューナッツ和え)、蛸と大根の煮物、その隣の重は蒲鉾(市販品)、海老の日本酒煮、ローストビーフ、昆布巻き、伊達巻、そして一番、右側は筑前煮です。
 ほとんどのレシピがクックパッドで検索したもので、本当、クックパッドのおかげでどれだけの家庭料理が向上されたか分かりません。そして、その家庭料理にはおせち料理も含まれる訳です。ということで、私の家に代々伝わるおせち料理という訳ではないですが、クックパッドのおかげで、日本人らしい正月を迎えることができるようになっています。前文に戻りますが、日本人の定義って難しいですが、宇宙人的にみると「日本語をしゃべっている」、「裸になってよくお湯に浸かる」、「家に入る時、靴を脱ぐ」と同じぐらい、「正月におせち料理を食べる」というのもその条件になるような気がします。そういう意味で、正月におせち料理を食べて、自分が日本人であると自覚すること、さらには、その極めて日本的な料理を次代に継承できるようにしておくことは、結構、重要なことかなと思ったりします。
 最近、記事を書く頻度が開いてしまって申し訳ないですが、本年も何とぞ、よろしくお願い申し上げます。

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BONNIE PINKのライブを初めて観る [ロック音楽]

BONNIE PINKが三年ぶりにライブをする。今後、いつライブをするかも不明だ。ということで、これはどうしても観なくてはならないと判断する。さて、会場は東京と大阪のビルボードである。当然、東京のライブ・チケットを購入しようと、オンライン予約の日をカレンダーにメモっておく。その日が来たので、さっそく購入しようとしたら売り切れていた。発売開始時間が10時で、私がネットにアクセスしたのが11時ぐらいだったので、あっという間の完売である。BONNIE PINKの凄まじい人気を知るのと同時に、大阪の公演をチェックしたら席がある。ううむ、大阪までわざわざ行くのは癪ではあるが、もう観れないかも、という焦りも手伝い、チケットを2枚購入する。
 さて、東京と大阪ではチケットの値段も違う。大阪の方が高いのである。というのは、大阪の公演日は12月24日であり、クリスマス・イブ・ディナーというものがもれなく、というか強制的についてくるのだ。こんないらんサービス、と思いつつ、まあ、それだから席が売れなかったということもあるだろう。
 加えて12月24日という公演日は最悪であった。というのは、そもそも一枚買えばいいところを、クリスマス・イブにビルボード、ディナー付きというのは、流石に中年男性一人で観るのは寂しいというか、浮きまくるであろうという判断があり、奥さんに付き合ってもらおうと考えて購入したのだが、なんと「そんなわざわざ大阪まで行くと疲れる」と言われて断られる。これはピンチだ。京都に住む知り合いの50代の独身男性を誘うが、断られる。そりゃ、何が悲しくてクリスマス・イブに中年男性と付き合ってBONNIE PINKを観なくてはならないんだ。よほどのファンでなければ断る気持ちはよく分かる。ということで、もうこれは愛人に捨てられた中年男性が一人寂しくクリスマス・コンサートを観るというような状況で鑑賞するしかないな、と思っていたらなんと高校二年生の次女が付き合ってくれるという。いやあ、それはそれで心配だが、まさに地獄の仏のような娘だ。ということでBONNIE PINK@大阪ビルボード@クリスマス・イブ。
 クリスマス・イブ・ディナーはシャンパンとプレートがついてくる。プレートはコロッケとキッシュと野菜スティックとローストビーフ。とりあえず、高額料金を取るためのアリバイのような料理だが、そんなことはどうでもいい。定時から5分ぐらい遅れてBONNIE PINKが出てきた。赤い髪でカラーコンタクトをしているイメージを持っている私は、初めてみるBONNIE PINKにちょっと驚いた。なんか京都で商売をやっている元気でちょっと綺麗な若女将といった風情だったからである。おしゃべりだが、それほど言うことは気が利いていなくてカリスマ性はまったくない。これが椎名林檎に先を越されたと言わしめた天才ミュージシャンか。
 さて、最初の曲はGimme a Beat。その次はクリスマス・イブということで、ポール・マッカートニーの「Wonderful Christmas Time」、ディーン・マーティンで有名な「Let it Snow」を歌った。そこで、またBONNIE PINKの曲に戻って「Try me Out」、「スキKiller」。そこで、またクリスマス・ソングに戻ってジャクソン・ファイブの「I Saw Mommy Kissing Santa Claus」。その後は、「Is this Love?」、ファンクラブ限定のCDに収録された「Heartbeat」、「Lullaby」。ここで、大ヒット曲である「Perfect Sky」を演奏し、「Rope Dancer」、「Evil and Flowers」、「Chain」。ここで終わって、アンコールはBONNIE PINKのクリスマス・ソングでもある「Orange」。
 コンサートの途中で本人自身が、皆が期待するような曲は演奏しない、と言っていたが確かにちょっとレアな選曲であったのかもしれない。とはいえ、私は初BONNIE PINKということもあり相当、楽しめた。新横浜と大阪を往復する交通費を考えても十分、私の期待に応じてくれたコンサートである。とはいえ、できれば東京のビルボードで観たかった。

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ブラック・クランズマン [映画批評]

スパイク・リー監督の最新作品は、ブラック・パンサーなどが台頭した1970年代頃を舞台としているが、現在のアメリカの政治状況を鋭く批判しており、極めて政治的な内容を含んでいるが警察ものとしてのスリリングな展開といい、映画としてのエンタテインメントの要素もしっかりと押さえている相当の傑作であるかと思われる。というか、ハリウッド映画としては最近、稀にみる秀でた作品ではないだろうか。50年くらい前のコロラド州コロラド・スプリングスを舞台としていても、その映画が描こうとしているのは現代のトランプ大統領を選ぶアメリカ人の人種差別意識の醜悪さであるし、また、思うようになかなか問題が解決できなくても、それでも前進するアメリカという社会の推進力でもあるかと思う。ぎりぎりの点数で単位を取得するダメ学生のような国だが、まあ、それでも及第点は取れているかな、ということと、そのような社会状況をこのように映画作品として描ける感性と才能と、それをバックアップする投資家がいるという点で、どうにかアメリカのメンツがぎりぎりで確保できているとでもいうべきであろうか。アメリカという国がなぜ、トランプ大統領を当選させたのかを理解するためには必見の映画であるだろう。ハリウッド映画としては、久しぶりに心から楽しめた。

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シンガポールの物価は高い [地球探訪記]

シンガポールに来ている。スターバックスに入ったら、カフェラテのトールが660円くらいであった。これは、ダウンタウンの店だったのでもしかしたらちょっと高めであったかもしれないが、京都であれば399円だ。随分と高いな。お昼にシンガポール川沿いにあるお店に入る。ランチ・メニューを教えてくれ、と尋ねると、「ランチ・メニューは二人から」という恐ろしくいい加減な、日本人の観光客だから馬鹿にしているな的な対応をしたので、その店を出たのだが、そこで注文したペリアも5ドル(500円ぐらい)であった。これは、明らかに日本より物価が高い。高いが、料理は美味しい訳ではない。このような状況であったら、日本への観光客は本当、物価が安くて感動するだろう。この物価の差がアジアから多くの観光客を日本に呼び込んでいる要因ではないだろうか。バブルの時代には信じられないような状況に日本はある。すなわち、物価が安い国という位置づけである。ちなみに、これは日本国民にとっては信じられないくらい恵まれていることではないかと思う(海外旅行に行かなければ)。

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シンガポールのシャンギ国際空港で朝食を取る [地球探訪記]

シンガポールのシャンギ国際空港にて朝食を取る。注文したのはセット・メニューで8ドル。およそ800円ぐらいか。これは中華麺に魚団子、卵、ハム(なぜか)、キノコなどが入っており、小魚で出汁を取っている。私はマレーシアに一年間ぐらい住んでいたことがあるが、当時、この中華麺が好きであった。日本でも、たまにこのマレーシア・スタイルの麺に出会うことができるが美味しいと思う。さて、そういうものを期待していて注文したのだが、出てきた麺はインスタント・ラーメンのそれであった。何じゃこりゃ、と思いつつ、まあインスタント・ラーメンとかはつくるの便利だから、易きに流れてしまうのかなとも思ったりした。また、一方で、こういう麺を食べていたら、なんで東アジアや東南アジアの人が日本のラーメンを好きになるのかも理解できるような気がした。しかし、喜多方ラーメンなどを始めとして、ラーメンは明治以降、中国から持ち込まれたものなんだけどなあ。ものづくりに拘る風土、それをささえるマーケットが今の日本のラーメンの高いレベルをつくったのではないかと、シャンギ国際空港のインスタント・ラーメンの麺を食べながら考えた。

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(このヘンテコな朝食セットがシンガポール8ドル)

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宇宙団ライブ@新宿サムライ(2018/12/09) [宇宙団]

12月9日、新宿のライブハウスSamuraiに宇宙団の「ユートピア/凡々ガール」のシングル・レコ発のライブを観に行く。20時30分に行ったのだが、ちょっと早すぎて前座のバンドを二つ観ることになった。Sesamiというサイケデリックな風貌なパンクっぽいバンドと永原真夏である。Sesamiはそのど派手な風貌に目が行くがギタリストは相当なテクニックで感心する。ベースも小さい女の子だけどグルーブ感のつくりかたはなかなかのものだ。次の永原真夏もなかなか印象に残る曲を演奏していたが、バックバンドのギタリストの音が完全にドラムに打ち消されていたまったく聞こえなかった。こういうのは他山の石で、なかなか参考になる。
 それはともかくとして、宇宙団。セトリは「恋は宇宙」、「文明鎮座」、「凡々ガール」、「エンドロール」、「ユートピア」、「ヘルプ」。そしてアンコール曲に「日本のヒーロー」。未発表曲のエンドロールをやるかあ、と思いつつも、この曲もなかなか泣けるバラード系のいい曲である。望月はメロディー・センスが図抜けているのはよく分かっているが、詩もなかなかこう琴線に触れるいいものを書く。それなのに、なぜ今日もおじさんばかりなのか。永原真夏のような女性ファンが早くできないとと思ったりしつつ、まあ、活動期間が違うからしょうがないかとも思ったりする。
 あと、コンサートでの演奏であるが、ベース、キーボードは相変わらずの馬鹿テクのような上手さ。それに加えて、個人的に宇宙団の一番のウィークポイントであった望月のボーカルであったが、今日は相当よかった。というか、確実に上手くなっている。さすが、永原真夏の後に聞くと、ちょっとインパクトが弱く感じるかもしれないが、十分、ボーカルでも観客を惹きつけるだけの迫力を有していた。今日は随分と安心して観られる内容であるのと同時に、もうそろそろブレークするのではないか、という期待をもたせるものであった。

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竜馬通り商店街を訪れる [商店街の問題]

中書島の駅のそばにある竜馬通り商店街を訪れる。竜馬通り商店街は、伏見桃山の大手筋商店街から南に行ったところにある。どうも大手筋商店街周辺には7つの商店街があるようで、普通に歩いていると連続した商店街のようであまり気づかないが、確かに気をつけてみると看板や幟などが、そこがどこの商店街に属しているかを教えてくれる。さて、竜馬通り商店街はそのような商店街の集積でみると、端っこに位置している。23店しか加入していない小さな商店街だ。竜馬通り商店街というのは、近くに寺田屋があることからネーミングされた。あの坂本竜馬が襲われたという寺田屋である。
商店街の理事長である森さんは京都の商店街でも最年少の理事長だ。ということで、小さな商店街だが元気がある。フードイベントなどを積極的に展開している。京都といえば内外の観光客が来てたいへんな状況にあるが、ここ竜馬通り商店街は9割方がツアーで来るため、個人の観光客はほとんど来ないようである。ツアーのお客さんは月桂冠とか黄桜とか宝酒造とかの酒造巡りをするようだ。ううむ、日本を代表するまずい酒造にわざわざ観光で来ているのだな。すぐそばに伏見の美味しい日本酒をつくっている酒造があるにも関わらず。
基本的な路線は観光客などではなく、地元の人に愛される、飲食店が中心の商店街にしようと考えているようだ。確かに小売りで商店街が勝負できる時代は、よほど差別化できない限り難しい。パン屋とか豆腐屋とか珈琲豆とか酒屋とか、そのような勝負できる小売りもほとんどが食品関係である。
今回、取材をして意外だったのはテナントの家賃が高いということである。確かに大手筋商店街とかは空き店舗がまったくなく非常に人出も多い印象を受けるが、住宅の家賃を考えると商店街の家賃が河原町とあまり変わらないというのは驚きである。
あと、伏見も町家とか古い街並みは本当、感心する。私も龍谷大学に転職する前は伏見はほとんど来たことがなかったが、とても優れたコンテンツを有しているような印象を受ける。ただ、目の前の利益を優先させるマーケティング戦略とかが、せっかくの貴重なコンテンツをダメにしているような感じである。

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椎名林檎@埼玉スーパーアリーナ [ロック音楽]

11月22日の椎名林檎の埼玉スーパーアリーナでのライブを観る。静岡の掛川のエコパで二度観ているので、「不惑の余裕」ツアーでは3回目となる。スーパーアリーナはアリーナではなく階段席であったが、掛川は二日ともアリーナで前に背が高い人がいてあまりステージを観ることができなかったので横ではあったがかえってよかった。ただ、階段席の音響はよくない。一番、気になったのはセトリであった。特に掛川の二日目ではMummy-Dと浮雲が口パクさせられて、浮雲は不満を隠さなかったので、その後、どうなったのかで随分と気がかりだったのだが、今日は浮雲、めちゃくちゃ楽しそうで、しっかりとマイクで歌わせてもらっており(Mummy-Dもそうであった)、私の心配は杞憂であったことを知り、一安心。セトリの流れなどを把握していたこともあり、私も今日は余裕。また、グッズも初日であったこともあり、掛川よりもむしろ売り切れ品は少なく、それも嬉しかった(Tシャツやタオルなどをゲットすることができた)。特に感動したのは「雨傘」、「ありきたりの女」、「カーネーション」、「夢のあと」であった。「カーネーション」などは発表された時は、なんじゃこれと思ったぐらいなのに、この頃は本当名曲だなと感心している。同じことは「ちちんぷいぷい」にもいえる。全般的に、生きることを真剣に考えているような曲を中心に編成したのかなと思ったりする。私もしっかりと生きなくては、という思いを抱いてスーパーアリーナを出た。

タグ:椎名林檎
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岸田繁を京都は寒梅館で観て、次いでにホームカミングスも観る [ロック音楽]

岸田繁が京都でコンサートをする。ということで同志社大学の寒梅館まで見に行く。さて、これは本当はホームカミングスで岸田繁がちょっとゲスト出演をするというものであったのだが、ホームカミングスは同窓会のような意味を持つので、これは岸田繁が京都で凱旋的なコンサートをするのだろうと思って行ったら違った。とはいえ、前座を務めた岸田は「ブレーメン」、「東京」、「琥珀色の街、上海蟹の朝」などの代表曲をガットギターだけで弾き語りをした。これは、これでなかなか貴重だ。値段が2500円ということを考えると、これだけで元を取れたかな、という感じである。その後、休憩を挟んでホームカミングス。このバンドはほとんど情報がなかったが、4人編成で3人は女性、男性は1人という構成。何か演奏技術的にはパッとしないし、ベースのアレンジの工夫のなさ、男性のギターが演奏する際、足を上げたり膝を曲げたりしているのが何とも格好悪くて、こんなギターを格好悪く演奏する奴は素人でもいないなと思ったりしたが、ボーカルの畳野という女性の声は素晴らしくよくて、この透明感溢れるボーカルとIndigo Girls的な良質な楽曲が強い印象を残した。バンドはボーカルが素晴らしいのと、バックがテクがなくても控え目にボーカルの邪魔をしなければ、そこそこやっていけるなと思わせた面白いバンドである。最後のアンコールで畳野が岸田繁のギターのバックだけで「男の子、女の子」を演奏したのだが、これはわざわざ観る価値があるだけの素晴らしいものであった。

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ポール・マッカートニーのコンサートに行き、個人的な理想のセトリを考えてみた [ロック音楽]

11月1日にポール・マッカートニーを観に東京ドームまで行った。ポール・マッカートニーは、おそらく全人類史的にみても最も多くの人間がその曲を聴いた音楽家である。ベートーヴェンやモーツァルトより聴かれているのはほぼ間違いない。そして、音楽が多様化した今となっては、もうライバルも出てこないのではないかと思っている。したがって、その生きた姿を見られるだけでも有り難いのに、わざわざ日本にまであちらから来ていただいてくれている。当然、行くべきである。そして、これまでもほぼ東京ではすべてのコンサートを行くようにしていた。いつが、最後になるかも分からないからだし、これまではもう、本当大感動していたのだが、今回は初めてそれほどの感動を覚えなかった。それは、日本でまだ披露していない(というか、私が聴いたことがない)曲が新しいアルバムの2曲を除くとゼロであったのと、ほぼ前回の来日公演と同じセトリであったからだ。いや、それでも素晴らしいのだけど・・・。とはいえ、それじゃあ、自分はどのようなセトリを期待しているのか。ちょっと考えてみた。ポールの年齢を考えて25曲にしてみた。また、ジョンやジョージが作曲したものは除いた。以下がそれである。YesterdayやCan’t Buy Me Loveを入れていないのは、もう既に日本公演で何回も演奏されているからで、そういう意味では、現時点での極めて個人的な理想のセトリということである。

1. Silly Love Song
2. Jet
3. Day Tripper
4. Hello Goodbye
5. Oh! Darling
6. Martha My Dear
7. I Will
8. Get Back
9. Let It Be
10. Hey Jude
11. Penny Lane
12. For No One
13. Michelle
14. Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band
15. No More Lonely Night
16. With A Little Luck
17. A Day in the Life (これはほとんどジョンの曲だが共作部分もあるので)
18. My Love
19. The Fool on the Hill
20. Magical Mysterious Tour
21. All My Loving
22. Maybe I’m Amazed
23. Listen to What the Man Said
24. Back In the USSR
25. You Never Give Me Your Money〜 The End (Abbey RoadのB面のメドレー)

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京浜急行が駅名を変更することを検討している話を聞き、都市のアイデンティテイを考える [都市デザイン]

東京の品川から横浜を抜けて横須賀、浦賀とを結ぶ京浜急行電鉄が創立120年を機に、46駅の駅名変更を検討しているそうだ。この駅名の候補としては先月の10月に小中学生を対象として新駅名案を募集したそうだが、まったくもって何を意図しているのだろうか。
 まず、これは京浜急行にとっても地域にとっても利することがまったくない、大愚行である。地域の名前は、地域にとってのアイデンティティであり、名前にはその地域の風土、歴史といった物語が凝縮されている。それを変えるというのは、その地域の重要なアイデンティティを放棄することであり、安易に変えるべきではないし、それを小中学生に丸投げするなどというのは、京浜急行がいかに地域住民や地域のことを理解していないか、配慮していないかを露呈している。百歩譲って、地域住民が駅名を変更して欲しい、という要望があって、それを踏まえたうえで小中学生だけでなく、地域住民全員を対象に新駅名を募集するのであればまだしも、なぜ小中学生なのか。東京新聞の2018年11月2日の記事では、京急広報部は「次世代を担うお子様に広く声を伺う企画」と言っているが、子供達は大人になったら京急沿線を出ていく可能性は高い。むしろ、この沿線を終の棲家としている人達に聴いた方がいいと思う。そして、小中学生はその沿線の地域のことをろくに知っていない。私は大学生を対象に、彼らが日々過ごすキャンパスに対してのアンケート調査をしているが、「銀杏が臭いので並木道はなくして欲しい」とか一番、キャンパスで守りたいところは「喫煙所」など、ほとんどキャンパス・デザインに通じる意見を伺うことはできない。あと、よく街の人は若者のアイデアに期待というが、日々、若者と接してる身からすると、若者よりオヤジの方がよっぽどアイデアが出てくる。小中学生は無邪気ではあるが、無邪気であるがゆえに、その町のことを駅名などを通じて勉強する機会をむしろ提供してあげるべきであろう。駅名を決めるなどもっての外である。少なくとも、地名は小中学生のコンテストで決められるようなものではない。そして、これから沿線の住民も高齢化していき、そうでなくても物忘れが激しくなり、それまでの記憶で生活環境を理解しようとしている中、鉄道会社の勝手な思い込みで駅名を変えるというのは、あまりにも高齢の沿線住民に配慮がなさすぎであろう。
今回、駅名変更の対象となっている駅には、雑色、青森横丁、大森海岸、梅屋敷、糀谷、子安、仲木戸、日出町、黄金町、六浦、追浜など、もうその名称に言霊が溢れているような駅名も多い。このような言霊がある地名というのは、それだけでアイデンティティをぷんぷんと放ち始めて、その地域に対するイマジネーションがぶわっと広がっていく。そして、そのようなアイデンティティが発現できてこそ、そこの地域はブランド的価値を発信できるのである。そんな基本的なことも京浜急行は理解していないのだろうな。くるりの「赤い電車」の歌が泣く。
このような名前を変更することは、植民地を支配した側が、地域の力を弱体化させるために使う常套手段である。なぜ、沿線住民が高齢化し、今いる人達を大切にしなくてはいけない生活サービス提供者がこのような愚行に走るのであろうか。
 京浜急行にとっても、今回の試みはほとんどメリットがない。まず、おそらくろくな名前が出てこないだろうが、小中学生に期待を持たせて応募させたからには、これはもう実践させなくてはならない。駅名変更をするには、相当のお金がかかる。看板代だけでも相当のものだ。もしかして、社長の息子が看板屋の社長でもしているのだろうか。まあ、これで得するのは看板屋とか印刷屋だけであろう。通常、駅名変更は、地元や地元の学校などがスポンサーになって初めていやいややるようなことだが、今回はどうも地元への根回しもなく、勇み足で京浜急行が始めたようなので、地元からの不平不満は京浜急行に向けられるであろう。
前述したが、高齢者は生活空間の空間記憶の重要な拠り所である駅名を失ってしまうので、鉄道での利用が以前に比べて不便になり、他の交通手段を利用したり、また場合によっては高齢者引きこもりになるかもしれない。いや、認知症の患者にとっては、駅は重要な空間記憶の碇のようなものなので、これは人々が思ったよりも深刻な状況をもたらすのではないかと考えている。結果、京浜急行の高齢者の利用率は下がるであろう。
鉄道会社のような公益性の高い企業、特に地域が存在することで始めて成立する企業は、地域のアイデンティティとかをもっと配慮しなくてはならない義務がある。京浜急行が走っているから、その駅があるから、その周辺に居を構えた人も多い。これから、高齢者が増えていくのに、認知症の問題とかもあまり理解できず、その地域のアイデンティティの重要性が分からない小中学生に名前を委ねるというのは、家族で寿司屋に行った時に家族の注文を小中学生の子供の意見に従うような愚行である。これは、例えば、新馬場で私が好きな小料理屋「牧野」の素晴らしさや、黄金町の三大ちょんの間の混濁したような歴史がその地域のアイデンティティ形成に寄与していることの詩情などは、到底小中学生では理解できないと思われるからだ。いや、理解できる小中学生はいるかもしれないが、いたらいたでそれはそれで嫌である。
 私は縮小都市の研究をしているが、都市が縮小する時、優先的に守るべきものはその都市のアイデンティティであり、例えば旧東ドイツの縮小都市においても、その点を何しろ死守するような政策を採用しているし、それに成功したところはどうにか人口減少が収まったりしている(コットブスやライプツィヒなど)。人口が減少するのと同時に、アイデンティティが希薄化していくと、人口の減少は加速化していくだけだからだ。京浜急行の沿線は人口が減少してはいないのかもしれないが(横須賀市は相当、減少しているが沿線から離れた谷戸地区である)、その地域ブランドは落ちていくであろう。田園都市線のようにマーケティングで地域ブランドをつくれると思っているのかもしれないが、田園都市線は畑と牧場と森といった都市ではないところを新たに開発していったので、無から有をつくりあげるという過程をとった。京浜急行電鉄は、もしかしたら自らの沿線は工場地帯だったりしたので、昔のそういうイメージを払拭もしたいと考えているのかもしれないが、120年の歴史はそのようなマイナスなイメージをも包含させて、今日の都市へと地域アイデンティティを繋げているのだ。だから、田園都市線沿線よりも京浜急行の沿線の方が都市のエレメンツがずっと豊穣ではないか。能見台とかのように豊穣でないところはあるかもしれないが、くるりは京浜急行では歌がつくれても田園都市線では難しいと思う。それは田園都市線にはマーケティングはあっても詩情は本当にないから。あるのは、玉電が走っていた二子多摩と渋谷の間くらいでしょう。
 せっかく、そのような沿線風土を有しているにもかかわらず、自らそれを壊そうとするのは愚の骨頂であり、こういうことを続けていくと、日本の地域性がどんどんと失われていくと思われる。ただ、どちらかというとこういう愚行をするのは地方都市で、多くの場合、それで自らの首を絞めているのだが、東京にもそういう馬鹿がいたかと思うと、地方都市の人はちょっと嬉しいかもしれない。いや、結局、どちらにしても日本がダメになっていくだけですが。
 納得できないようであれば、これから皆が京浜急行を西東京湾鉄道に変えてしまうと言われたらどう思うだろうか。じゃなければ横須賀急行でもいい。横浜と横須賀をとって、横横電鉄でもいい。おそらく、京浜急行の人達は嫌がると思うのである。名前を頻繁に変える人がいたりするが、私はそういう人はどこか後ろめたいものがあるのではと勘ぐっている。自分の過去を消去したくなるような。少なくとも、私は自分の名前を変更するうえで、子供達に決めさせたりしないな。そもそも、自分の人生はつまらなくくだらないものだと自覚しているし、自分の名前も本当、ださいと思っているが、それでも変えるつもりはない。それは、私の人生を私の名前は良くも悪くも包含していて、私のアイデンティティの一部であるからだ。つまらなく、くだらない人生ではあるが、名前を変えたら、それがバラ色に輝くようなものでも決してない。

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静岡アリナ、椎名林檎の林檎博18(不惑の余裕)ツアー・レポート(20日、21日) [ロック音楽]

掛川の静岡アリナでの椎名林檎のコンサートに二日連続で行く。初日も二日目もセトリは同じであった。
初日の流れ。開演前に会場に流れていたのはセルゲイ・プロコフィエフの「ピーターと狼」。開演と同時に、ピーターと狼のようなパターンで各楽器が紹介され『本能』のイントロが流れ始める。林檎のボーカルはテープであろう。Mummy-Dが出てきて、『本能』のラップバージョン的に『本能』を歌う。Mummy-Dの声が悪く、ちょっと聞きづらい。そして、ガラスの箱に入った王冠をした林檎が舞台の中央奥に登場する。そして、『本能』のMTVのようにこのガラスをたたき割って、そこから出てくる。凄い格好いい演出だ。そして、アルバムで一緒に唄っていた『流行』へと繋がる。Mummy-Dは二回ほど、「シズオカ〜」と叫んでいた。とはいえ、駐車場のカーナンバーを見る限りは、静岡県外からも私を含めて、相当来ている印象。
そして、『雨傘』と『日和姫』という港湾局から2曲続ける。『雨傘』はライブの方がずっと迫力がある。そして、ここで7歳の長女のナレーションとともに『APPLE』が流れる。『APPLE』での林檎の動きがとても面白い、というか上手い。これは、日本のケート・ブッシュだな、と思うと同時に、いや、ケート・ブッシュをも上回る才能なのではないか、と思ったりする自分もいる。そして、『Ma Cherie』をした後、『積木遊び』。いや、ギターの名越さんのカッティング、半端なくキレキレである。どうしたら、こんな風に弾けるのであろう。そして、なぜかフィンガー5の『個人授業』をやる。このポップな曲に続いたのはヘビーなリフが印象的な『どん底まで』。しかし、アルバムにも入らないシングルのB面でこれだけのクオリティの曲をつくられるミュージシャンがどれだけ日本どころか世界にもいるだろうか、と思わずにはいられない。そして、『神様・仏様』。この曲の終わりで椎名林檎はイリュージョンのように舞台から消えてしまう。そして、インストで『化粧直し』が流れて、ダンサーの女性達がファッションショーのように、林檎エキスポデザインのビニール傘を持ちながら舞台を闊歩する。ちなみに、この傘はグッズとしても売られていて、3000円というビニール傘とは思えない値段でありながら、私も思わず一本買ってしまった。まあ、これは使用できないので、あくまで部屋の飾りとして使うことになるであろう。さて、これから中盤に入るという感じであるが、中盤は『カーネーション』、『ありきたりな女』とバラード系が続く。なかなか心に染みるし、特に『ありきたりな女』は、天才でしか分からない悩みを綴っている歌詞に、そういうものか、と聴くたびに思うが、このライブでも改めてそう思わさせられる。そして、若干、ギアが上がって『いろはにほへと』、さらには『歌舞伎町の女王』。椎名林檎のコンサートは、演奏の素晴らしさは勿論なのだが、映像芸術が本当に驚くほど素晴らしいのだが、『歌舞伎町の女王』は見事、歌世界を映像で表現していて楽しめた。そして航空局から『人生は夢だらけ』。
ここで、また林檎はちょっと休憩、ということなのか、次の曲は浮雲が現れて『東京は夜の七時』を歌う。そして、浮雲と林檎のデュエット曲である『長く短い祭』。次の曲は『旬』。ああ、心が洗われる。
そして、大手家電店の看板のような映像が出てくる。スキトキメキトキスと書いてあって、それに関しての歌を歌うのだが、これは私、よく分からない曲であった。そのまま、『ちちんぷいぷい』へと繋がり、次に画面に宮本浩次の巨大な顔が出てきて、映像の宮本浩次とのデュエット(痴話げんか?)のような展開で『獣ゆく細道』を演奏する。テープであるのが分かっていても、その臨場感溢れる演出に圧倒される。
そして、トータス松本が現れて、CMソングであった『目抜き通り』を林檎とデュエットして、「最後の曲です」との挨拶をしたあと『ジユーダム』。なんか、肩の力が抜けているな。さすが「余裕の不惑」。
それほどの時間を経たずして、アンコール。最初の曲は、不協和音の緊張を強いる「はいはい」。そして、珍しく、というかインストの『化粧直し』を除けば、唯一の東京事変からの曲『夢のあと』を演奏し、林檎博08と同じように『丸の内サディスティック』のエンドロールが流れて、コンサートは終演した。

 10年前の林檎博は、もうこれでもか、というほどそれまでの椎名林檎の素晴らしい楽曲を惜しみなく提供していたのに比べて、今回はあるコンセプトに合致する曲を膨大な林檎コレクションの中から選択して、あるストーリーに編集したかのような印象を受ける。全般的に「生きていくこと」ということをテーマとした曲から構成されていたような印象を受ける。いや、『個人授業』はそれほど関係はないか。
それにしても、『丸の内サディスティック』もそうだが、『罪と罰』、『ギブス』、『NIPPON』、『幸福論』、『ありあまる富』、『ここでキスして』など、絶対受ける代表曲をこれだけオミットしても、極めてクオリティの高いコンサートを構成できるとは、本当、椎名林檎の才能は凄まじい。あのポール・マッカートニーでさえ、イエスタディやヘイ・ジュードを演奏しないことはあり得ないことを考えると、本当、椎名林檎は凄いミュージシャンというか、度胸があるなと思う。観客に媚びない姿勢は、なんか頭が下がる。

さて、あと一日目と二日目とみたので、両日の違いを少しだけ書かせてもらうと、一番の違いは一日目はMummy-Dも浮雲もマイクを持って歌っていたのだが、二日目はテープを流したことである。一日目のMummy-Dは確かに声質がだみ声になっていて、音程こそ合ってはいたが、ちょっとプロのボーカリストという感じではなかったので気にはなったが、まさかライブでテープを流されるような措置を採られるとは驚きであった。さらに驚きであったのが浮雲である。浮雲も一日目、多少、音程がズレているかなという印象を受けたし、いつもよりはボーカルが今一つのような気もした。しかしMummy-Dと違い、浮雲はもう林檎ファンにとっては、非常に好感度の高いアーティストなので、そこらへんは愛嬌ということで私も気にはしていなかったのだが、なんと二日目はテープを流されて歌わせてもらえなかった。そして、これはちょっと林檎も計算外だったのかもしれないが、浮雲は口パクで歌わされていることが、もう耐えられない、という感じでステージにいたので、観ている私の方が緊張してしまった。ミュージシャンとして、そもそもギタリストであるのにボーカルを取っていて、さらに口パクでステージに出さされるというのは、もうプライドずたずただよな、というのは分からないでもないが、それにしても、あのやる気の無さ全開の態度は、ちょっと困惑させられた。というか、あの1万近くの観衆の中で、もっともノっていなかったのは浮雲であったろう。観客を盛り上げる側の一人が、一番盛り下がっている。いや、気持ちは分かるんだけどね。
その後の林檎嬢は毅然としていたが、多少、音程を外したり、歌が入るタイミングがずれていたのは、多少なりとも動揺があったのだろうか。通常、最小限のMCで、アンコール前の『ジユーダム』を演奏する前に、1日目ではしなかった「今日はメンバーも多くの観客の前で一生懸命、演奏させてもらっていたようです」(正確な引用ではなく、私の記憶にもとづく)と話したのは、もろ浮雲の当てこすりのように聞こえなくもなかった。というか、どう考えても当てこすりであろう。
ということで浮雲のファンでもある私としては、本当、なんか演奏中も妙に緊張してしまい、1日目ほどは楽しめなかった。その後の打ち上げとかでも火花というか、林檎嬢の鉄槌が下されそうで、私はハラハラとしており、今、これを書いていてもハラハラしていつ。今後もコンサートは続くのでどうなるのだろうか。次は11月22日のさいたまスーパーアリーナに参戦するのだが、それまでに何かが起きそうな気がする。とはいえ、これは椎名林檎嬢の完璧主義の一端を垣間見たような感じであり、やはり、傑作を世に出すような人は、本当厳しいのだな、と思ったりもした。
 

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国際日本文化研究センターを訪れ、内井昭蔵氏の図書館設計の理念を少し知ることができた [都市デザイン]

京都の洛西ニュータウンのそばにある国際日本文化研究センターを訪れる。同センターは、「日本文化を国際的な視野にたって学術的、総合的に研究するとともに、世界の日本研究者に研究情報の提供などの研究協力を行うことを設立趣旨としている」。この施設は、当時のセンター長であった梅原猛がその設計者として内井昭蔵に白羽の矢をたて、一般的には内井氏を代表する作品として捉えられている。
 内井氏の著書『装飾の復権 - 空間に人間性を』(彰国社 2003年)には、随分とこの国際日本文化研究センターに関してページが割かれている。また、『続・健康な建築』にも多くが語られている。ということで、是非とも視察したいと考え、見学申請書を提出し、写真撮影とともに資料の入手などもさせていただいた。
 同センターは研究棟、国際交流棟、講堂、図書館・図書資料館、日文研ハウス(宿泊棟)、情報・管理棟、福利施設棟とから構成されている。
 どれも、細部にまで繊細な神経で拘っており、そのヒューマン・スケールで優しい建物群は、そこにいると安堵感を覚え、初めて訪れた場所であるにも関わらず、居心地のよさを感じる。しかし、これは内井氏の建築の中で15年間仕事をさせていただいた私が感じるノスタルジック的な心地よさかもしれないので、ちょっと主観が入っているかもしれない。
 このセンターの中心に位置するのが図書館である。図書館は、大英博物館のようなものをつくって欲しいという要望が内井氏の方にあったようだが、出来たものは一目でアスプルンドのストックホルム市立図書館を意識していたことが分かる。中央のカウンターの設計、そして何より外観のロタンダの意匠がそっくりである。パロディなのではないかと思うぐらいなのだが、同センターの人の一部は、いやそんなことはない、と否定する人もいるようだ。ちなみに、このセンターがつくられた時に若い研究者であった井上先生にちょっとお話をさせていただく機会があったのだが、彼が内井先生に「アスプルンドですよね?」と尋ねたら、ニコッと笑って返したそうだ。
 さて、内井氏は大学の設計において非常に重要視するのが、図書館であり、それは、このセンターの設計にもみてとれる。内井氏は、図書館に関してはヴァージニア大学を参考にしていると幾つかの著書で書かれている。この図書館は拡張性のシステムがしっかりと計画に入っており、内井氏が設計された後も蔵書が増えるに従い、第一次増設、第二次増設と行われている。現在75万冊の蔵書があるそうだが、まだまだ収容する余地はあるそうだ。ちなみに、第一次増設時は内井設計事務所が担当したが、第二次増設は内井事務所とは関係ない設計事務所が担当した。
 内井昭蔵氏の建築の真骨頂は、その細部への拘り、その空間への利用者への温かい眼差し、そして細かい配慮であると私は思っているのだが、増設部分は、時期がずれるにつれ、その個性は薄らいでしまっているような印象を受けた。しかし、これは予算の問題もあったかもしれない。同センターが設計された時は、バブル経済の最中、しかも当時の中曽根首相の肝煎りのプロジェクトであり、センター長も当時は梅原猛である。そして、内井昭蔵氏に梅原猛は入れ込んだ。そのような中、梅原猛も内井氏を選んだことで批判を後にされたくなかったのであろう。内井氏は相当、思い切って、自分の建築理念をこの場所で具体化させることができたのではないか、と考えられる。とはいえ、このセンターの井上先生の話によると、「もうちょっとしたいことがあった」と彼に漏らしたことがあったそうである。何が言いたいかというと、内井氏が設計した図書館はすこぶる素晴らしいが、増設するに従い、その素晴らしいエッセンスが希薄化しているということだ。
 図書館に話を戻すと、システムの中心において、その後、しっかりと周辺に拡張できるという設計コンセプトを内井氏はヴァージニア大学でヒントを得た。これは、同じ内井昭蔵氏が設計した明治学院大学の白金キャンパスの本館でも同様に考えられた、と明治学院大学に内井事務所が提示した資料にも明記されている。それで、同大学の管財部もヴァージニア大学にまで視察に行っている筈だ。私はまだヴァージニア大学を訪れたことがないので、その点ははっきりと分からず、そのために明治学院大学の図書館においてどのような拡張性が意識されていたかが理解できていなかった。
 少し、話が横道に逸れるが、私は現在、内井昭蔵氏がどのように明治学院大学の設計プランを考えられ、それを具体化していったのかといったことを調査研究している。その背景は、ここでは述べないが、そのような調査研究を始めたきっかけは、ある私の元同僚の先生との会話であった。
 この同僚の先生は、白金キャンパスの本館の設計を批判していた。「こんな大学の設計はなっていない」と主張をしていたのである。私は、正直、内井昭蔵氏の設計した建物で日々、過ごしていてむしろ本当、幸せだなと思っていたので(この気持ちは、今の龍谷大学深草キャンパスで過ごしているとより強く、感じる)、彼のこの主張に関心を抱いた。そこで、私は「先生、この本館の建物のどこが気に入らないのですか」と尋ねると、彼は「一番の問題は図書館である。この図書館には拡張性がない」と言う。私は、「それでは先生はどのような大学の図書館がいいと思われるのですか」と再び問うと「ヴァージニア大学だ。あそこは素晴らしい」と答えられたので、まあ、心底、愕然とした。なぜなら、内井昭蔵氏がまさに明治学院大学の図書館のモデルとしたのがヴァージニア大学であるからで、この先生は本当に大学の先生なのか、こんな先生に教わる学生達は悲惨だな、と呆れ果てたのだが、ただ当時、私は確かにこの図書館には拡張性はないかな、と思ったのと、この大学の図書館のモデルがヴァージニア大学ですよ、と言うのも面倒臭かったので、それ以上、会話を続けなかった。
 ただ、この経験は私に二つのことを教えてくれた。一つは、建築に関して無関心な人はほとんど建築の良し悪しが分からないな、ということ。もう一つは、そのような分からない人に対して、やはり、しっかりと建築家の思想などをまとめて発信する必要があるな、ということである。私が建築の専門家でもないのに、内井昭蔵氏の明治学院大学のキャンパス計画の研究を始めたきっかけは、この会話だけではないが、その結果、私が自分に課した研究テーマの一つとして、明治学院大学の図書館の拡張性を内井氏がどのように考えていたのか、を入れることにした。
 そして、それを解明する大きなヒントが、このしっかりと拡張性のシステムを確保し、実際、拡張をした国際日本文化研究センターを訪れて得られた。それは、明治学院大学の図書館に隣接した教室、もしくは研究室を図書スペースと拡張するということである。まだ、明学の図書館には蔵書スペースが余っているので問題がないが、もし埋まったら、その隣接している回廊スペースを図書の蔵書スペースにすればいいのである。もちろん、そうすると教室が減るかもしれないが、それらの教室や研究室をむしろ建て増しすれば問題は解消する。特に、研究室に関しては、現在のヘボン館を改築した時に高さを増して収容することができる。
 そこらへんをどの程度、本人が意識をしていたかは分かりにくいが、拡張性が硬直化してできないような設計ではまったくないと思う。
 まったく建築的な理解がなく、それなのに堂々とお門違いでフェイク・ニュース的な発言を主張できるトランプ並みの厚顔無恥な同僚が一緒であったことは、私にとっては不幸であったが、その彼のお陰でいろいろと内井昭蔵氏の素晴らしい建築を見るきっかけをつくってくれたことを考えると、それはそれで悪くなかったかな、と思ったりもした、国際日本文化研究センターの訪問であった。

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柴田久『地方都市を公共空間から再生する』 [書評]

福岡大学で教鞭を執り、福岡の警固公園などの設計で知られるコミュニティ・デザインの手法にもとづくランドスケープ・デザインを手がける柴田久氏の実践的、そしてワークショップ型の市民関与型のプロジェクト指南書。実際の経験に基づく論考なので、説得力があるし、また景観的なセンスがしっかりしているのでためになる。というか、同じカリフォルニア大学バークレイ校の環境デザイン学部で学んでいる(柴田さんは客員教員という身ではあったが)ので、そもそも理念や考え方が私と類似しているからということもあるかもしれないが。加えて、文章が明瞭なので、滞りなく読めるが、内容は濃く、なかなか読み応えがある。公共空間を通じて、地域を活性化させる、というか、そこに住む人達を活性化することを考えている人にとっては益するところが多い図書であると考えられる。お薦めである。


地方都市を公共空間から再生する: 日常のにぎわいをうむデザインとマネジメント

地方都市を公共空間から再生する: 日常のにぎわいをうむデザインとマネジメント

  • 作者: 柴田 久
  • 出版社/メーカー: 学芸出版社
  • 発売日: 2017/11/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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商店街を利用しない大学生 [商店街の問題]

ゼミ生達を連れて、京都市役所の商業振興課を訪れ、商店街への補助事業などのヒアリングを行う。ゼミ生は説明をぽかんと聞いているので、商店街を利用しているか?と尋ねると13人中ゼロであった。京都市出身者が4名、下宿者も3名ほどいるが、1名は奈良県だが、残りの5名は大阪府である。まあ、枚方、高槻、豊中といった郊外居住者がほとんどだが大阪市東淀川区も一人いる。大学生であるということも関係しているだろうが、皆、買物に行くのはショッピングセンターやチェーンのスーパーマーケットである。致し方ないのかもしれないが、もったいない。消費者として、このようなチェーン店で物を買わされるのは、まったく都市文化の醸成にも貢献することがなければ、それらを享受することもしてない訳である。
 私も京都のマンションで寝泊まりしている時は、ほとんど家に帰るのが11時近くなので、スーパーで買い物をしてしまっており、その点は情けないところではあるが、東京だと肉や珈琲豆、パン、ケーキ、お酒(特に日本酒)などは絶対、スーパーとかでは買わずに個店で買う。魚もこれは、ちょっと城南地区でチェーン展開してはいるが魚屋で買っている。スーパーでは缶詰やパスタ、それに周辺には八百屋がないので野菜や果物は買ってはいるが、それ以外は買わない。チェーン展開しているスーパーで買う比率を「スーパー係数」とすると、これはもうエンゲル係数と同じように高いほど貧しさを示していると私は考えている。レストランもチェーン展開しているところで消費する割合を「チェーン・レストラン係数」とすると、これも高いほど食生活の貧しさを表していると考えられる。
 そして、スーパー係数、チェーン・レストラン係数は圧倒的に地方の方が東京よりも高い。すなわち、東京の方が豊かな食生活を享受できているのであり、これが私が最近、憂慮している東京と地方において広がっている格差なのだ。ちなみに、東京でも都心部と郊外ではこの指標に違いがあるので、東京圏であればどこも一律に豊かな訳では決してない。そして、大阪や京都はこれに関しては、相当豊か、すなわち「スーパー係数」も「チェーン・レストラン係数」も低く生活できるだけの機会があるにも関わらず、自ら、貧しい消費生活をしている大学生にはちょっと情けない気持ちになっている。まあ、私も大学時代は結構、貧しかったが、それでも食事とかはチェーンには滅多にいかず、個店で食べていましたね。そちらの方が美味しと思っていたし、値段も安かったから。

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国連の移民の統計をみて考える [グローバルな問題]

2015年に国連が発表した2013年の各国の移民数データがある。2013年時点で全世界には2億4370万人の移民がいる。それを国別でみると、最も多いのはアメリカで4663万人であり、これはアメリカの全人口の14.3%を占める。次に多いのはドイツの1200万人で、これはドイツの全人口の14.9%に相当する。絶対数では、ロシア、サウジアラビア、イギリスが続く。割合で高いのはアラブ首長国連邦の84%やカタールの74%といった中東の産油国である。日本はどうかというと、204万人であり、これは全人口の2%にも満たない。これより少ない国は中国、インド、メキシコ、バングラデッシュ、ナイジェリア、エチオピア、ウガンダ、スーダン、インドネシア、タンザニア、スリランカ、ルーマニア、モザンビーク、アルジェリア、ベトナム、グアテマラ、イラクというどちらかというと紛争があったり、独裁国であったりして逃げ出したくなるような国が多くを占める。そのように考えると、日本のこの移民数の少なさは国際的には異常であるといえよう。安倍政権はあと50万人ほど移民を増やすと言っているが、それでもその全人口に占める割合は2.5%にも届かない(母数の全人口が減るので割合はもしかしたら高くなるかもしれないが)。アメリカ、ドイツ、イギリス(13.2%)、フランス(11.1%)、スイス(28%)、カナダ(22%)といった10%を越えるのはなかなか難しいかもしれないが、まだ豊かであるうちに移民をスペイン(9.6%)、イタリア(8.3%)といったヨーロッパのラテン系諸国に近づく8%に目標設定をしてもいいのではないだろうか。日本人は移民に対して抵抗を覚えている嫌いがあるが、人口が減少していく中、国力を維持させることを考えるのであれば、この国際的な異常値を示している移民を増やすのがもっとも有効な対策であろう。というか、あまりぐずぐずしていると移民が来たいような国ではなく、移民を出す国にまで落ちぶれてしまうのではないかと心配である。まだ、余裕があるうちに対策を立てた方がいいであろう。将来の日本の人口を1億人と想定すると、8%は800万人。50万人ではなくて、600万人は増やす必要がある。日本人を存続する必要性はあまり個人的には感じないが、日本語を始めとして日本文化を次世代に継承していく人達、また、これらを土台とした新しい文化を創造する人達のプールとしての集団が必要である。そのような人は、別に肌が黄色でなくてもいいし、目が青くてもいいかとも思う。感情論ではない冷静な移民政策の議論が待たれる。

タグ:移民
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映画『1984』 [映画批評]

小説『1984』を読んだので映画の『1984』も鑑賞した。原作を随分と省略し、相当、雑に編集しているが、そのエッセンスのようなものは保たれている。ただし、映画では、ちょっと一般受けを狙ったのか、「愛が未来を救う」といった愛賛歌の側面の表現が強すぎるところが気になった。まあ、それは、最後のシーンでの愛の脆弱さを見事に描く、どんでん返し効果を意識したためだったかもしれない。
 米国人のマイカル・ムアーがトランプ政権の危険を警鐘する映画「ファーレンハイト11/9」を製作した。この映画はまだ未公開であるが、ムアーのテレビ取材での発言から、彼がトランプを非常に危険視していることが理解できる。さて、そのトランプ政権を予見したかのような小説がまさに『1984』であり、それをより視覚的に訴えたのがこの映画であるのだが、映画で描かれた2分間の「憎悪の時間」において、地下組織のリーダーであるカラドールへ罵声を浴びせる党員の人達は、まさにトランプのラリーでヒラリーを「投獄せよ」と叫ぶトランプ支持者を彷彿させる。また、実態とは異なる経済成長を喧伝するところも、トランプ政権と同じである。まあ、この点に関しては、経済指標を変えて、実態より経済が成長しているように見せる安倍政権もまさに同じではあるが。
ちなみにアメリカ公開版では、ウィンストンとジュリアが最後まで拷問に屈せず、「ビッグブラザー打倒」を叫んで死ぬというラストに改変され、それに不満を持ったオーウェルの遺族が公開差し止めを求めたそうだが、1984的なトランプ政権を3分の1のアメリカ人が支持していることを考えると、随分とアメリカも変わってしまったなと思わずにはいられない。


プレミアムプライス 1984 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: メダリオンメディア
  • メディア: DVD



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ジョージ・オーウェル『1984』 [書評]

ジョージ・オーウェルの『1984』をようやく読破した。彼の『アニマル・ファーム』は高校時代に読み、大変、感銘を覚えたことや、デビッド・ボウイの佳曲『1984』とかも好きだったので、読んでおけばよかったのだが、これまで読み損ねていた小節である。さて、今回、なぜわざわざ読もうかと思ったのかというと、それはトランプが大統領になった直後、アメリカでこの本がベストセラーになったからである。
 さて、『1984』で描かれる世界は真実を伝える術がなく、権力側が自分達の都合がいいように現在の情報だけではなく過去の情報まで編集してしまう。マスコミをフェイク・ニュースと呼び、「国民の敵」とまで言い放つトランプとその支持者はまさに『1984』をつくりあげようとしている勢いであるが、彼がこのような動きを見せるようになったのは当選してから数ヶ月経ってからである。『1984』は当選直後にベスト・セラーになったので、アメリカ人の多くは、真実を歪めて自分の都合のいい情報を流そうとするトランプの危険性を選挙直後に気づいていたということだろうか。私はトランプの大統領当選を極めて大きな危険を孕んでいるなと当選当時から捉えていたが、『1984』を読んだ今であっても、さすがにこのフィクションで描かれる世界のような事態になるだろうとは当時でも到底、思っていなかった。そのように考えると、アメリカ人にも相当、鋭い人達がいるな。
 しかし、鈍い私でも現在は違う見方をしている。トランプが「史上最高の経済成長率」、「リンカーン以来の傑出した大統領」、「プエルトリコのハリケーンでは非常に適切な災害後対策をした」などの出鱈目を言い続け、その嘘を指摘するマスコミをフェイク・ニュースと言い放つトランプは、まさに『1984』の悪夢を彷彿させるし、さらに彼の「嘘」を支持し、「真実」を駆逐しようとする人々の狂気は、人間がいかに醜悪で弱い存在であることを思い知らされる。
 『1984』では、次のような文章がある。
「もし彼が床から浮かぶと思い、そして同時にわたしも彼の浮かんでいるのが見えると思うなら、そのときにはそれが現実に起きていることになる」
 トランプの支持者はまさにそのような精神状況にあるのだろうし、第二次世界大戦に突入する前の日本人もそのような状況にあったのかもしれない。どちらにしろ、この3割近くの国民がロシアによる集団心理操作によって真実が見えなくなってしまったアメリカの行く末には恐ろしい結末が待っていそうだし、その影響は日本も免れないであろう。というか、最近の安倍総理の経済統計指標を変えて経済成長を実施よりしているように見せるせこさとか、もりかけ問題での厚顔無恥にも嘘を言い放つところとか、ミニ・トランプ化していないか。対岸の火事ではなくなる可能性も低くはない。

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ドレスデンのインターナショナル・カフェを訪れる [グローバルな問題]

ドレスデンにあるヴェルト・クラブ(Welt Club)を訪れ、アフロパというドレスデン周辺で生活をしているアフリカ系ドイツ人とドイツ人との交流を図るNPOの代表とインターナショナル・カフェの代表者に取材をする。アフロパは2014年から活動を開始し、その後、難民などがシリア、アフガニスタンから来たことで、活動内容を拡大している。ドレスデン市からも補助金を受けていて、ソーシャル・ワーカーを使って、ドレスデンにきた難民の人にアドバイスなどをしている。
ヴェルト・クラブはアフロパが事業として行っている交流スペースである。1階には移民の人達の相談場所があり、来た人が知り合うためのカフェのような施設もある。2階はセミナールーム。ここは極めてオープンな空間である。
代表は無償で仕事をしている。代表の仕事は看護師で出身国はモザンビークである。アフロパの位置づけは、ドレスデン市にいる外国人のための代弁者。1989年に東西ドイツの壁が取り壊され、1991年に外国人の排斥運動がドレスデン市で起きた。そして、モザンビーク出身の移民が排斥運動のために亡くなった。外国人に対する暴力を振るう人がたくさん現れた。2015年にたくさんの難民がドイツにやってきた時にまた排斥運動が始まり、当時のことを思い出し、これはしっかりと対応をしなくてはと思っているそうだ。
ドイツ人は過去、ユダヤ教徒の排斥があったが、現在はイスラム教徒への排斥運動がみられている。ドレスデンは人種差別の街というイメージが定着されつつある。それと同時に、1990年代頃からドレスデンでは外国人を守るような運動も起きている。アフロパはそのような運動の流れの一つとして捉えることができよう。
インターナショナル・カフェの代表はオルガ・フィーガさん、というちょっと中東的な雰囲気も持つ若い美人さんであった。彼女は大学で芝居を勉強しており、ベルリンから2009年にドレスデンに引っ越してきたそうだ。ドレスデンに来て彼女が驚いたのは、通りを歩いている人のほとんどが色の白いドイツ人だったことである。舞台をみてもテレビをみても、ドイツ人ばっかりが出ている。ベルリンと違って、外国人、難民はカルチャーという舞台には出てこなかった。いろんなところで劇をしていて、舞台のテーマは人種差別の話だったりもするが、それはドイツ人とドイツ人が話をしているだけである。そうであれば、モザンビークやベトナムの人達を舞台に上げて、そこで人種差別の話をするような舞台をつくろうと考えたそうである。そして、実際、やろうとしたら舞台の責任者が駄目だという。アフリカの人達が舞台に上がって人種差別をどうこう議論するのはけしからんという。そのようなこともあり、自分達で劇をつくることにした。そして、それをやっている途中、ペギータがドレスデンにもいることに気づいた。これは、ヨーロッパ人(ドイツ人)がイスラム化するのを防ぐグループである。彼らは毎週、月曜日にドレスデンの街中を散歩した。最初は小さいグループだったが、いつの間にか25000人にまで膨れあがり、暴力的にもなってきた。そして、ドレスデンの市民は支持者と反対者とかで二分されてきた。その結果、ここで生活するのが不快な状況になってきた。最初はこれに反対するデモに参加していたのだが、このデモの参加者が徐々に少なくなってきた。そして、自分達がいいことをしている筈なのに肩身が狭い思いをするようになってきた。それで危機感を覚えて、一週間に一回、ペギータ反対者のグループが集まるようになった。これがインターナショナル・カフェの始まりだ。
最初の動機は自分達のシェルターをつくることであった。それと難民の人達の逃げ場をつくることにした。ここに集まって、いろいろな話をした。毎週、金曜日の午後にそこに集まるようにした。特に広報をしなかったが、人が集まってくるようになった。
インターナショナル・カフェはプログラムをつくることをしなかった。その時に生じた費用は寄付金で賄った。インターナショナル・カフェはE.V登録をしていないが、それは規則で縛られて何かやるのではなく、自由にいろいろとやれるようにしていたいからだそうだ。

ドレスデンは人種差別の町として、ドイツだけではなくドイツ外でも悪いレッテルを貼られているが、それら人種差別者と相対して、そのような差別がない社会をつくろうとしている人達も当然、存在している。このような人達の存在は、ネオナチ等のネガティブな情報の陰に隠れてしまう訳だが、ドレスデンにもドイツ的な良心が存在することを知ったことは私にとっては視野が広がる思いであった。

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