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関西国際空港は、なぜか汚らしい印象を与える [都市デザイン]

関西国際空港は、なんか洗練されておらず汚らしい印象を与える。関西国際空港を設計したのはイタリアを代表する大建築家、レンゾ・ピアノである。本来なら、もっと風格があってもいい筈なのに、難波の商店街の猥雑感というか、ドンキホーテのインテリアのような下品な汚らしい印象を覚えさせる。ドンキホーテはそれを商売的な戦略としてやられているのだが、関空はなぜ、こんな印象を私に与えるのだろうか。

一つは、広告板がどぎついからではないか。なぜか、赤・黄・青がよく使われる。それにピンクである。この色彩感覚は、秋葉原や大阪の日本橋の電気街を彷彿させる。この空港は看板規制とか、デザイン規制とかは一切してないのだろうか。また、その看板のサイズがなんか大きい。郊外の幹線道路の沿道のようでさえある。そもそも、空港は飛行機を乗るためにある施設であり、商業空間ではない。ある意味、アジア的とも捉えられなくもないが、こういうデザインが街には氾濫している香港や台北、南京、北京、シンガポールであっても、空港は玄関口としての威厳というか品性の良さのようなものをしっかりと表現している。なんなんだろう、関西国際空港。

要因として、もしかして考えられるのは、レンゾ・ピアノの代表作であるパリのポンピドー・センターを意識していることである。ポンピドー・センターは赤・黄・青の色が使われており、その強烈さはつくられた当時は相当、物議を醸したが、現在はパリ市民に受け入れられている。なんか、関西国際空港で使われている赤・黄・青はポンピドー・センターをちょっと連想させるのである。とはいえ、ポンピドー・センターは文化施設であり、関西国際空港は公共性の高く、そして都市の玄関口としての施設である。空間デザインも、そのような奥ゆかしさというか、風格がもっと求められてしかるべきであると思う。

まあ、大阪らしいといえばそれまでだが、そういう難波的というかお好み焼き的な分かりやすい大阪以上のものが大阪という都市にはある筈である。むしろ、訪れた人が襟を正す、というか難波的、お好み焼き以外の大阪があるんだな、というような印象を与えられる空港にした方がいいのではないかと思ったりする。陸の玄関口の新大阪のだらしなさを考えると、せめて空の玄関口の関西国際空港ぐらい、しゃきっと出来ないのだろうかと思わずにはいられない。

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(強烈な赤・青・黄色の配色)

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(このピンクは何だ!)

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(看板のように蔽われた壁)

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(この青と黄色の旗は、ピアノの美しい線形に落書きをしているような効果を与えている)

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(こういう小さなスペースにも広告を入れたがるせこさが、ピアノの設計空間を台無しにしているように思えてならない)

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揚州の料理屋で素晴らしいガストロミー体験をする [地球探訪記]

南京に来ている。そこで、揚州出身の先生に実家のある揚州の料理屋に連れて行ってもらった。そこは、地元のお客さんを対象にやっている庶民的な料理屋で、揚州料理専門であったのだが、相当、美味しい食事体験をすることができた。
 お酒は老酒のような蒸留酒で46度という相当、強烈なものだったので時差ぼけがまだ取れていない私は遠慮がちに飲んだが、ガチョウの水煮(揚州では南京とちがってアヒルではなくガチョウを食べるらしい)、高菜と豆腐のようなものの炒め物、豚肉を蒸したもの、タケノコと豚の角煮とキクラゲのスープ、ニンニクの茎のようなものとベーコンを炒めたもの、川海老の煮物など、どれもが食材の美味しさを活かした美味しい料理であった。そして、締めは混ぜ麺と春菊と卵のスープ。
 私は日頃から、日本食が圧倒的に世界で一番美味しいと考えている傲慢な輩であるのだが、たまに思わず、その高慢ちきな鼻をへし折られる経験をする時がある。それはタイのイーサン地方で絶品のローストチキンを食べた時、デリーで本場のインドカレー食べた時、ブエノスアイレスでピカーニャのステーキを食べた時などがそうだが、そのような鼻をへし折られる経験をすると謙虚な気持ちになるのと同時に、ちょっと美味しいものに出会えた幸運に感謝する気持ちにもなる。今日は、そんな日であった。衝撃的な素晴らしいガストロミー体験であった。ちなみに、私は残念ながらフランスでは、このような経験を一度もしたことがない。
 
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<お店の外観>

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<店の前の街並みはこんな感じ>

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<ガチョウの塩水煮>

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<何かの野菜の茎とベーコンの炒めもの>

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<タケノコと豚の塩煮とキクラゲのスープ。絶品>

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<混ぜそば>

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<左がここの店主。真ん中にいるのは、我々をここに連れて行ってくれた大学教員>

タグ:料理 揚州
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中国では検索サイトが使えない [グローバルな問題]

南京ではインターネットは使えるが、検索サイトは使えない。グーグル、ヤフーが一切、使えず、これって相当、インターネットを不便にさせることに改めて気づかされる。メールは問題なく使える。さらに、検索サイトが使えないというだけで、サイトのアドレスを覚えさせているものはしっかりと閲覧することができる。例えば、食べログや金融関係、アップルのサイトなどは大丈夫だ。一方でアマゾンやユーチューブ、フェイスブックは駄目である。また、ポケモンGOは開くことはできるが、位置情報が機能しないので、基本的に遊ぶことはできない。
なんか、それはそれで不便ではあるが、アメリカによる大統領選でのロシアによるこれらSNSを用いた世論操作の影響力の大きさなどを鑑みると、中国政府がこれらをシャットアウトしたい気持ちを持つのは分からなくもない。アメリカのマスコミはまだ持ちこたえてはいるが、ロシアなどのSNSによる世論操作と、大統領自らマスコミなどをフェイク・ニュースと叫んでいる実態を考えると、まあ中国政府はこんなツールを民衆にもたらせても彼らにとってはろくなことが起きないなと考えるのは理解できなくもない。といいつつ、ホテルの部屋には習近平の顔が表紙の「中国の統治」という本がバイブルのように置かれているのをみると、そのようなインターネット規制が中国政府にとっては都合がよくても、果たして国民にとって幸せかどうかは疑わしい。
ただ、そのような中国の状況に接すると、既存のマスコミを、ロシアなどからの援護射撃を受けつつSNSを用いて攻撃しているトランプ大統領は、本当、何を目的として行動しているのであろうか。おそらく自分の利益のため、そしてその利益をもたらしてくれるロシアのためであろう。ロシアはアメリカがガタガタになれば、しめたものだからだ。少なくとも、アメリカ国民のためでないことは確かである。そして、それを支持しているのが皮肉なことに3割近くの国民。自分の身体を蝕む癌細胞にせっせと栄養を与えているような行動を、この3割近くはしているのである。いやはや、インターネットは人民の味方にもなるが、使い方をまちがえると巨大な敵にもなる諸刃の刃であることを、中国のインターネット規制を通じて改めて気づかされる。



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南京を訪れる [地球探訪記]

大学の校務で南京を訪れる。南京は始めてである。というか、私は中国はチベットにしか、行ったことがなく、それ以外だと北京空港のそばでトランジットで1泊したぐらいなので実質的には初中国である。
 さて、南京に飛行機で着陸するちょっと前あたりから、何か空気に異臭が漂っているような気がしてきた。いや、機内に外気が入る筈はないのだが、なんか臭い。これは大気汚染のためかな、と思ったりもするのだが、偶然かどうかは不明だ。とはいえ、私が1970年代に住んでいたロスアンジェルスを彷彿させるように大気は汚染されている。
 南京国際空港は、関西国際空港より遙かに立派で風格があった。空港だけみれば、南京の方が大阪より遙かに先進的で進んでいるような印象を受ける。その後、同僚の先生の知り合いの中国の先生の車でホテルまで向かう。ホテルは南京の繁華街の中心にあるようで、周りは多くのレストランやお店が立地している。この商店街は最近、自動車の流入が禁止され、歩行者だけが歩くことができる。その空間は、森ビルが開発した六本木ヒルズのようであるが、民間の開発のマーケティング的いやらしさはそれほどなく、そこに立地している屋台は地域性をプンプンと発している。それでいて、空間デザインは洗練されている。日本の都市よりどちらかというと、アメリカの都市のそれと近い。サンタモニカのサード・アヴェニューみたいなイメージだ。
 この商店街にあるナイト・マーケット的な屋台で、鴨の血でつくられた豆腐、小籠包、雲呑スープなどを食す。紙の容器で出されてきた料理は、相当、観光客向けのチープなものだと思われるが、いや、なかなかいける。二週間ほど前にいたパリより味という観点ではレベルが高いと思わせる。
 その後、ちょっとした運河を巡るクルーズのような観光船に乗る。これは45分間、運河を周遊するものであるが、ほとんどディズニーランドのジャングル・クルーズのようなノリであった。とはいえ、初めて南京を訪れた私は結構、楽しめた。
 中国は初めてであったが、台湾には何回も足を運んだことがあるので、基本、台湾と似ている印象を受けた。もちろん、よりよく知れば違いが見えてくるのかもしれないが、戦後、つくられたと思われる建物などにも共通点が見られる。
 これまで主に研究的観点から、中国というパンドラの箱を開けたら、もう余生を考えると、絶対消化しきれないと避けていたところがあったが、来たらまた好奇心がむくむくと湧いてきた。本当、今、欲しいものは時間と集中力である。

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<21世紀になってから、この商店街からは自動車が排除された>

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<ちょうど提灯祭りがやられている時に訪れたようだ>

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<これは鶏肉ではなくアヒル肉を蒸したもの>

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<観光船の乗船場。ライトアップやネオンによって鮮やかに夜の街が照らされている>

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<運河を周遊する観光船からの光景。若干、テーマパーク感が強い>
タグ:南京
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若者は本当はそんなにラーメンが好きではない [B級グルメ雑感]

私のゼミ生は好き嫌いが多い。ソーセージが食べられない、ネギが食べられない、トマトが食べられない等、もう食べられないもの尽くしだ。しかし、そのゼミ生が異口同音に「ラーメンは好きだ」と言う。それじゃあ、ラーメンを調べるか、と言ってラーメンをゼミで調べることにした。とりあえず、そこで設けたゼミの課題は「伏見・深草周辺のラーメン屋のラーメンを食べること」である。この課題を通じて、ラーメンについてゼミとしていろいろと知識や知見が集積されるだろうと期待した。
 さて、しかし、ゼミ生はこれらの課題をしない。少なくとも、これまでラーメンを食べていたペースよりラーメンを食べたような形跡は一部の女子学生を除くと見られない。普通、ゼミの課題がラーメンを食べて、その特徴をラインにアップするというものだったら喜ぶのではないかと思う。しかし、そうではなかったのである。
 それで分かったことは、ゼミ生はとりあえずラーメンが好き、というと格好いいので言っているだけだということだ。これは、なんか私のような50代のオヤジが現在、クィーンが好きだというと、時代的に正しいというのと似ている。本当はそんなに好きでもないのに、好きというと「通」というか「分かっている」ように思えるので、とりあえず言っている。これは、団塊の世代のオヤジ達が、ビートルズをろくに聴いていなかったのにビートルズが好きだった、というのと同じである。リバプールとか一緒に行くと、やたらビートルズゆかりの観光施設に連れて行けとこのような団塊の世代オヤジは主張するので、ストロベリー・フィールズやペニー・レーン、キャバーン・クラブに連れて行っても、それらの場所の意味も分かっていなかったりするが、そういう団塊のオヤジと同様なのではないかと思うのである。
 ラーメンがあまり好きでない、とか言うものならば、ちょっとグルメじゃない、というか分かってないね、とか言われるような雰囲気が若者の間に漂っているような気がする。ということで、皆、若者はにわかラーメン評論家ぶりたがり、皆ラーメンが好きだと演じるのだが、実はそんなに好きじゃない、ということがゼミの課題をラーメンにして分かった。
 なぜなら、麺類でいえば好きな順で、うどん、そば、パスタ、ラーメンという私の方がラーメンをどの学生よりも食べたからである。そして、ラーメンが好きでもないのに、たくさんのラーメンを食べていたら、何となくラーメンが見えてきた。例えば、京都ラーメンは大きく2つ(第一旭系の近藤製麺を使う醤油豚骨系と極鶏に代表される一乗寺を中心としたどろどろ系)に分類されることが分かったし、つけ麺きらりがこれだけ支持されるのは麺が美味しいからだ、なども昔ならよく分からなかったが、たくさんラーメンを食べることで見えてきた。
 ビートルズのよさを知るには、ビートルズの曲を聴きまくることが必要である。というか、好きだったら聴きまくるであろう。私は、ほとんどビートルズの曲をジョンがつくったか、ポールがつくったかを判別できる(ジョージは当たり前)。これは、聴きまくったからである。ラーメンも好きではないけど、たくさん食べていたらちょっとラーメンが分かってきた。とはいえ、それでラーメンが好きだとは言えない。
 消費社会においては、自分のイメージが、何を消費するかで形成されてしまうという側面がある。そのため、自分が実際は消費していないのに、こういうことを消費しているという情報を発することで自分のイメージを操作しようとするのは、分からなくもない。ただ、自分が好きでないものや理解していないもので無理矢理、イメージを形成させようとしなくてもいいんじゃないかな。
 ちなみに、私も昨今のクイーン・ブームで『ボヘミアン・ラプソディ』を観たり、また、ちょっとクイーンの曲を聴いたりしたが、改めて気づいたのは、私が愛するジェネシスはもちろんのこと、クラプトンやイエス、ドゥービー・ブラザース、ZZトップ、ツェッペリン、イーグルスとかの方が個人的にはクイーンより好きだな、ということである。悪くはないけど、そんな素晴らしくもない。
 別にラーメンが好きじゃなくてもいいのだから、好きだといって自分を誤魔化す必要はない。ただ、好きじゃなくても、ラーメンがゼミの課題になったのだから、しっかりと課題をこなす(ラーメンを食べる)ことをしないと駄目だ。食べることによって初めて、ラーメンが見えてくるし、それによって、自分がラーメンを好きなのか嫌いなのかも分かる。それはラーメンという視座によって自分の存在を確認する行為でもあるのだ。逆にいうと、ラーメンをしっかりと食べていないから、ラーメンが好き、と無責任に言えるし、70年代の音楽をしっかりと聴いていなかったら、安易にクイーンが好きとも言える気もするのである。
 まあ、このクイーンのことに関しては、相当、反論もありそうなので、また機会があったらこの考えについてもう少し、丁寧に書いてみたいとも思う。とりあえず、今日の駄文では、若者はラーメンが好きというと格好がいいので、そう言っているだけで、本当は好きでないということを指摘したかっただけである。
 

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パリは本当に美食の都なのか? [B級グルメ雑感]

パリは「美食の都」というイメージがある。しかし、私はこの説に30代中頃から疑いを持っていて、それはパリを訪れるたびに確信に近くなっている。ただ、私がそう主張すると、ほとんどの人が「それはお前の舌の方が間違っている」と批判するので、もしかしたら私の方が間違っているのかもしれないな、と謙虚な気持ちになり、パリに来るとたまに美食体験を試みたりする。
パリは最近では一昨年の夏、先月(2月)と来ているが、パリ市内はバリアフリーではないし、宿も異様に高いので、前回の二回はシャルル・ド・ゴール空港のそばにて泊まった。したがって、パリ市内で食事をするのは昼だけにしていた。しかし、今回は他の大学の先生と一緒なので、久しぶりにパリ市内に滞在することにして、この先生がグルメということもあり、結構、美味しいものを二人で探索することにしたのである。一応、仕事もあったりしたので、仕事先のカフェテリアで昼ご飯を食べたりもしたが、それ以外は比較的有名店を訪れた。ちょっと、その外食体験を通じた感想のようなものをここに記したいと思う。
宿はパッシー地区で取った。パッシー地区はオスマンがパリの都市大改造をした時に、開発されたブローニュの森そばの住宅地である。最初の晩は、ホテルそばのオイスター・バーで牡蠣と白ワインを注文した。店名はLe Lallye Passyで、カウンターにはオヤジしかいない店であった。オヤジしかいない店は、大抵、美味いと相場が決まっているが、ここは牡蠣は悪くはないが、とりたてて美味しいというものでは決してなかった。日本で食べる方がずっと美味しいし、先月訪れたバーリの生ムール貝の方が遙かに美味しい。その後、ちょっとオイスターだけではお腹が空いたままなので、またホテルそばにあるAero Restaurantに行った。ここでは、チキンを焼いたものを注文したのだが、日本の気の利いた定食屋の方が美味しいような代物であった。添えられたサラダもフライドポテトも今一つだったが、ワインはそんなに悪くはなかった。
二日目は、朝食は近くのカフェでクロワッサンとタルト、そしてカフェオレを注文する。カフェオレは機械でつくるので評する必要性もないが、クロワッサンは流石、パリと言わさせるだけの美味しさであった。バターがちょっと日本とは違うのかもしれない。というか、バターが相当ふんだんに入っている?洋なしのタルトも梨とバターがふんだんに使われていて、これは美味しかった。というか、パリ4日間でもっとも美味しかった可能性もある。
昼食は、旧証券取引所のそばにあるレストラン、Vaudervilleに行った。これは特に行こうと思っていた訳ではないのだが、たまたまお昼時にこのお店の前を通ったら、えらい繁盛していたので、これは外さないだろうと判断して入ったのである。注文したのはクロック・ムッシュ。これは、本場のクロックムッシュが食べたかったからである。これは、トーストが3枚のものにハムが挟んであり、上にチーズがどかんと乗っているもので、なかなかの食べ応えがあった。最初は美味しいと思ったのだが、だんだん飽きてきた。まあ、とても洗練されているとは言い難いが、チーズはなかなか美味しいと思った。
さて、その日の夜は、パリ在住10年という人に夕食に連れて行ったもらった。これは、絶対期待できると胸を躍らせたのだが、連れて行ってもらったのは、なんとビストロ・ヴィヴィアンヌであった。ビストロ・ヴィヴィアンヌは個人的にパリで最も好きな空間であるヴィヴィアンヌ・ギャラリアの入り口に位置するビストロでとてもお洒落である。前から気になっていたのだが、夏にパリに来ると凄い長蛇の列でほとんど入る気をなくす。しかし、先月(2月)に来た時は全然、空いていたので念願叶って初めて昼に入ることができた。白ワインとエスカルゴ、そしてシーザーサラダを注文した。流石、エスカルゴは美味しかったし、シーザーサラダも悪くはないが、パリは美味い料理があるなあ、と感心するほどではなかった。この程度であったら、日本のフランス料理屋の方が美味しい。とはいえ、白ワインのコスパは悪くはなかった。とはいえ、パリ滞在10年の方が満を持して?一緒に夕食に連れて行ってもらった店がここであるのはちょっとショックであった。というのは、ここはパリ在住10年でも美味い店として認識されていることに落胆したからである。というのも、パリ在住10年であれば、私のような輩が見つけられないようなお店を教えてくれるのではと期待したからである。ここで注文したのは、エッグ・ベネディクトとフォアグラがラーメンのつけ麺のスープのようなものに入った料理であった。つけ麺のスープと同様に葱がなかなかいい味を出していた。悪くはないけど、ちょっと肩透かしであった。とはいえ、パリの美味しいお店を未だに発見できていない私としては、ここは他のお店よりはずっと親しみが持てる。加えて、ワインのコスパはよかった。ただ、このお店がリモージュとかリールであったら納得だが「美食の都」とその名を知られるパリの名店かというと、やはりがっかりしてしまう。日本のフランス料理の方が美味しいとずばり、思う。
 その次の晩は池波正太郎がパリ滞在時によく行く店としてエッセイに書いていたりして知られるAu Pied de Cochonを訪れる。これは、新しく整備中のネルソン・マンデラ公園の前にある。パリジャンヌにも人気であるという解説であったが、土地柄か観光客が多い気がする。フランス語よりも英語の方が聞こえる。そして、サービスがまあ感動的に悪い。というか、パリのレストランは決してサービスがよくないがそれらに比べても驚くほど悪い。これは日本人だからなめられているのかもしれない。注文したワインはクレームをするまで来なかったし、また周りのテーブルには来ていた付け足しのオリーブも督促するまで来なかった。赤ワインと豚肉のコンフィを注文する。赤ワインは流石にそれほど値段の割には悪くない。豚肉のコンフィもまあ悪くはないが、有り難がるほど美味しくはない。ドイツのハクセンシュヴァインや日本の豚の角煮の方が美味しいくらいだ。庶民的な定食屋という雰囲気は悪くはないかもしれないが、インテリアの趣味はどちらかというと無粋で洗練されていない。池波正太郎の味覚も店の意匠センスをも個人的には疑う。
ということで、今回のパリ滞在も食事に関しては悲惨であった。というか、本当、パリには10回は来ていると思うが、唸るように美味しいものに出会ってない。納得するものはワインとチーズだけだ。しかも、チーズはどちらかというとフランスの田舎の方がパリのものよりも美味しい。そうそう、今回は日本人にも大人気のチョコレート屋、ジャック・ジュナンにも訪れ、お土産用に1万円ほど買ったのだが、買った直後に「生チョコなので2週間以内に食べて下さい」と言われて、しょうがなく家族以外のお土産で買ったものは自分で食べたのだが、これはなかなか美味しくて流石と思ったが、この値段であったら日本でもほぼ同じものは入手できる。自由が丘のパティスリー・パリセヴァイユも負けていない。とはいえ、ここのチェコレートは不味いとは決して言えない。そういう意味では、ワイン、チーズ、チョコはパリの美味いものであるとは言えるかもしれない。あと、クロワッサンかな。今回、滞在したパッシー地区の総菜屋デパートに入っているパン屋のクロワッサンはバターがたっぷり使われていて美味しかった。とはいえ、これだけで「美食の都」というのは看板に偽りありだと思う。

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<オイスターバーの生牡蠣>

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<Aero Restaurantのチキン>

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<ビストロ・ヴィヴィアンヌのエッグ・ベネディクト料理> IMG_0073.jpg <Au Pied de Cochonの豚のコンフィ> IMG_0074.jpg <唯一、サービスがよかったシャルル・ド・ゴール空港内のレストランでのサラダ料理>
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電気グルーブがCD回収・配信停止されるのであれば、同罪のミュージシャンにも同じ措置を採るべきであろう [ロック音楽]

電気グルーブのピエール瀧が薬物使用の疑いで3月12日に逮捕された。それを受けて、翌13日には電気グルーヴのCD回収・配信停止などが発表され、Apple Musicでは15日現在、電気グルーヴのアーティストページは確認できるが、瀧容疑者名義でない数曲を除き、再生できない状態となっている。
コカイン使用が悪いのは当たり前だが、それでCD回収・配信停止をするのであればレッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、ポール・マッカートニー、ローリング・ストーンズ、リトル・フィート、エリック・クラプトン、ホイットニー・ヒューストン、エイミー・ワインハウス、ウィルコ、クワイエット・ライオット、ザ・フー、ラット、ラモーンズ、ザ・バンド、ザ・グレイトフル・デッド、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、シン・リジィ、セックス・ピストルズ、フリー、ディープ・パープル、ユーライア・ヒープ、ジャニス・ジョプリン、フリートウッド・マック、ドゥービー・ブラザースなどもCD回収・配信停止にするべきだ。というか、ここに挙げたのは私が今、気づいたアーティストだけなので、実際は、もうほとんどのロック・バンド、ロック・ミュージシャンのものを販売・配信できなくなるだろう。
ピエール瀧がやったことは罪であり、罰されるべきことであるとは思うが、そうであれば同じ罪を犯したものは同じように罰するべきである。それこそが法治国家の基本である。

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デーリッチュ(Delitzsch)という旧東ドイツの中小都市を訪れる [都市デザイン]

デーリッチュ(Delitzsch)というライプツィヒとハレとの中間にある旧東ドイツの都市を訪れる。なぜなら、ここは1990年の東西ドイツが統合されてから、人口が減少しては急増し、減少しては急増するという不思議な動きをしているからだ。どんな都市だろうと、この人口増減から興味を持ったのが行くことになった理由である。
さて、デーリッチュには駅が二つある。ObとUnterである。日本語でいえば、上デーリッチュ、下デーリッチュという感じであろうか。ライプツィヒから来るとUnterの駅につき、ハレから来るとObの駅に着く。両駅は400メートルぐらいは離れている。Unter駅の方がバスターミナルもあって、駅舎もあって、ちゃんとしている感じである。この駅からは商店街のようなハイ・ストリート的な道も延びている。
 デーリッチュの人口は2万5000人。東西ドイツ統一後の人口推移では、徐々に人口が減少しているが1996年と2004年に急激に増加し、そして2011年に急激に減少している。最近は安定から徐々に増加するような推移をしている。さて、1996年と2004年の急激な増加は周辺の集落を合併したためという人工的要因であることが判明した。そして、2011年であるが、これはそれまでの人口調査があまり精度が高くなく、実際、住んでいない人までもカウントしていたためそれを是正したことで大幅に減ったということが分かった。この2011年はドイツ全体の統計でもみられることのようで、なんか日本の統計調査と同じような事態だ。そういうことで、実際は、数字ほどには極端な自治体ではないことが分かったのだが、視察をしていていろいろと興味深いことを発見した。
 まず、駅からのハイ・ストリートであるが、現在、車道を狭めて歩道を拡幅する工事をしている最中であった。日本だと京都の四条がやっているようなことを、人口25000人で観光客などほとんどいない小都市でやれていることに驚く。四条だって、未だに多くの反対意見が出ているのだ。都市に賑わいをもたらすための方策はドイツ人はよく分かっている。
火曜日の昼前であるが結構、人が多く出歩いている。いや、それどころか広場前では30歳ぐらいの男性がピアノの演奏を大道芸人のようにしている。知り合いのドイツの先生によれば、ほとんど中心市街地の店舗は空き家だと言っていたのだが、実際はほとんど空き家がないような状況であった。ただ、このハイ・ストリートに賑わいをもたらしている個店、特に食堂はトルコ系やベトナム系などの移民によって営まれている。ドイツの人口縮小都市は移民によって活力をもらっている。これは、貧血で倒れそうな病人が「移民」という輸血をしてもらっているようなものではないだろうか。
 今回のドイツではコットブス市役所などでも取材をしたが、縮小都市において移民は天からの贈り物というような表現を聞いたが、確かに縮小都市においては移民がほとんど唯一の特効薬である。そういうことを、このデーリッチュのハイ・ストリートでは理解できる。
 また、郊外というか旧市街地周縁部には結構、広大なプラッテンバウ団地が存在した。前述したドイツの先生によれば、これらの多くは倒壊されたとの話であったが、倒壊された跡は多少、見つかったが倒壊率は決して高くない。私は旧東ドイツの様々なプラッテンバウ団地を見ているし、その倒壊を都市計画的にどう位置づけてきたのかに関する論文で博士号を取得しているぐらいなので、倒壊した跡かどうかはほぼ分かるのだ。
 ふうむ、事前に聞いていた話とは結構、違う印象を受けた。あと、新たに投資をして改修された戸建て住宅なども散見され、これはおそらく、このデーリッチュがハレとライプツィヒから鉄道で30分弱というベッドタウンとしては極めていい立地にあることと無縁ではないだろう。ハレもライプツィヒも人口減少が著しかったが、最近では人口増加に転じ、ライプツィヒなどは人口増加率をみればドイツでもフランクフルトなどの成長都市よりも高くなっている。このような状況が、それまでずるずると人口減少をしていたデーリッチュの立ち位置を大きく変えているのではないだろうか。
 この5年間ぐらいは、難民と移民という外力によって支えられているところがあったかもしれないが、今のデーリッチュはライプツィヒとハレのトーマス・ジーバーツが指摘するところの「ツヴィシュンシュタット」として位置づけられることで成長しているような印象を受ける。そうであれば、それまでの人口減少という課題から、郊外的開発というまったく違う課題に近い将来、直面するような気がする。

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<デーリッチュの駅前道路>

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<車道を狭めて歩道を拡幅している>

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<幅員が広く歩きやすい歩道>

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<多くのお店は移民系の人によって営まれているようだ>

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<ハイ・ストリートには人が結構、多く出ている>

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<なんと平日であるにも関わらず、大道芸人がピアノを演奏していた>
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ドイツにおける都市計画・建築分野の担当省が連邦環境省から連邦内務省へと変わった [都市デザイン]

ドイツの連邦政府に「シュタットウンバウ・プログラム(都市改造)」の政策に関する取材をするために訪れた。てっきり、都市開発・住宅部門であるので連邦環境省の下にある組織かと思っていたら、どうも2018年3月14日から、連邦環境省ではなく、連邦内務省に変更になったようだ。そして、連邦内務省の名前もBundesministerien des Innern, fuer Bau und Heimatと変更になった。これは、連邦内務・建築・故郷?とでも訳すような名称である。その背景にどのような意図があるのか、ちょっと分からないが興味深い。若干、右的なニュアンスも感じたりもしないでもない。
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『第三の男』 [映画批評]

今更ながらであるが、1949年のイギリス映画『第三の男』を観る。第二次世界大戦後の混乱のウィーンを舞台にした映画で、光と影のコントラストが観るものをスクリーン(パソコンのだが)に惹きつける映像美、どちらにストーリーが転ぶか分からないシナリオの秀逸さ、そして映画史に残るような印象的なラストシーン。
善悪が不明瞭な戦後の混乱期の中で、単純な正義感と愛情、友情といった個人的価値観で行動するアメリカ人の主人公の偽善的ないやらしさを、最後のラストシーンで一刀両断に切り捨てるアンナ・シュミット。このラストシーンは、相変わらずアメリカ的価値観で世界と渡り合えると考えているアメリカ国家への強烈な竹篦返しのように私には受け止められ、快哉を叫びたいような気持ちになったが、小説のラストシーンでは、アンナはアメリカ人主人公を受け入れることになっていることを知り、なんかとても残念な気分になった。しかも、小説ではアメリカ人であったギャングが、映画ではルーマニア人の設定になったのは、悪役の一人がアメリカ人であることを出演者の一人のオーソン・ウェルズが嫌ったためだそうだ。
しかし、小説のラストシーンでは、なんか白けた感じが残ったであろう。アンナの毅然とした態度によって、このストーリーはとても締まる。このラストシーンを主張したのは、プロデューサーのデビッド・セルズニックであったそうだ。
勝てば官軍的な戦争の中、何が正しくて何が正しくないのか。第三者には分からないいろいろな事情がある。『第三の男』は、素直に考えればハリーを指しているが、私的には、直接関係ないよそもので第三者であるホリーの鼻持ちならない偽善的な存在を、ハリー率いるギャング団とそれを追いかける国際警察という関係性と関係ない『第三の男』、もしくはハリーとアンナというカップルに入り込もうとした『第三の男』として表しているようにも感じた。
そして、そのように捉えることで、この映画の魅力がさらに引き立つようにも思ったりもした。


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学生に不足しているのは世界を知り、自分を語るためのボキャブラリーである。 [教育論]

大学の教員をして16年経つ。最近、大学を移った。これは、それまで自分の専門外である経済学科で教えていたのだが、残りの時間は自分の専門分野(都市計画、都市政策)で学生を教育指導、研究指導をしたいと考えたからである。それは、ともかく、大学、そして学部を移っても直面しているのは、学生の好奇心の無さである。前任校の経済学科は、経済学科の先生を育成するためのカリキュラムで指導をしていたりしたので、そりゃ学生も大学の講義とかに関心持つのは難しいよな、と思っていたのだが、現在の政策学科は、学生の好奇心を喚起させるような工夫を凝らしているのに、それほど学生が関心を示さない。というか、私は今、ラーメンをテーマにしているのだが、それはゼミ生がラーメンは好きだと言ったからだ。ちなみに私は好きではない。それなのに、ゼミの研究課題であっても、そして時運達が好きだといってもラーメンに対して、関心を示さないし、とりあえず食べに行きなさいと言っても食べに行かない。驚きの好奇心の無さである。私は、学生への手前、最近、ラーメンばかり食べるようになったのだが、それによって一つ分かったことは、ラーメンをあちこちで食べていたら、なんとなくラーメンが理解できるようになったことだ。少なくともラーメン批評などを読むと、前よりかは理解できるようになっている。
 さて、これは私がラーメンのボキャブラリーを多少は獲得したからだと思われるのだ。ラーメンを表現するためには、例えば「豚骨醤油」、「家系」、「大勝軒」、「鶏白湯」、「一乗寺」、「喜多方」、「とみた」、「二郎系」などのボキャブラリーが使われるが、これらの意味とそれが示す内容を知っていないと、そもそもラーメンのことが語れない。そして、こられのボキャブラリーを知るためには、それらを知っている人に聞いたり、本や映像を観たり、さらには食べていないと分からない。「二郎系」はその店で食べて始めて、その凄さというか異様さを知ることができると思う。「一乗寺」のラーメンがいかにどろどろかは、「極鶏」に行きラーメンを食べて初めて分かるというのがあると思う。
 以前、伏見区役所の職員が、伏見区のブランディングというテーマで大学に来て話をしてくれた。そこで、私のゼミ生が「伏見のラーメンはどうですか」という質問をしたら、この職員は「大黒ラーメンが有名ですね。私は食べたことがないけど」と回答したのである。ある意味、正直かもしれないが、伏見区のブランディングをする仕事を京都市民から税金を徴収してやるのであれば、少なくとも有名どころのラーメンぐらい食べておけよな、と私は強く思った。というのは、そもそもブランディングという概念は言葉でつくられる。その言葉がしっかりと理解できないと、町のブランディングができる訳がない。ちなみに、ここでいう言葉とは「大黒ラーメン」であり、それには、大黒ラーメンの麺の太さ、スープの種類や味わい、そのお店の雰囲気、料金、お客さんなどの情報が含まれたものとなる。この職員は、ちなみに「伏見は何と言っても日本酒です」というので、私は思わず「失礼ですが、日本酒を飲まれますか?」と質問したら「いや、私はワイン派です」と答えたのでほとんどキレそうになった。というのも、そもそも私はこんなに日本酒という素晴らしいお酒がある国に住みながら、ワインという輸入酒が美味しいと感じる舌の鈍感さや、ワインの日本酒に比するコスパの悪さを考えるとその経済感覚をそもそも疑うものであるが、伏見でブランディングをしていてろくに日本酒を知らないのに、平気で「伏見は日本酒です」と言ってしまう不誠実さに呆れたからである。この職員は日本酒というボキャブラリーが圧倒的に不足していたので、彼の話す言葉はほとんど意味をなさないし、聞くにも値しない。英語の語彙がほとんどない人の英語を聞いているようなものである。ちなみに、日本酒をちょっとでも嗜むものであれば、伏見こそ日本酒のブランドを駄目にしている張本人であることぐらいは、理解できる筈である。
 話がちょっと横に逸れてしまったが、この伏見区の職員のような学生が最近、本当に増えてきたと思う。学生は別に職員と違って、それで給料をもらっていないので社会に迷惑はかけてはいない。しかし、このボキャブラリーがないことで、思考力や理解力を大きく減じてしまっているし、表現力もなく、その結果、コミュニケーション力もない。まあ、これは昔もとりあえず「可愛い」、「やばい」、「むかつく」というある対象に向けられた条件反射的な感情の言葉だけで会話をしていたと指摘されていたりもしたので、今だけの問題ではないと言われるかもしれないが、今は、そもそもある対象に向けられる関心も失われているかもしれないなと思う時もある。何も、このボキャブラリーが大学の講義で学ぶようなものじゃなくても全然、構わないのだ。そして、それは言語でなくても構わない。ダンスでの表現力や、楽器、絵や写真といったものでもいい。百聞は一見にしかずではないが、うまく言語で表現できなくても構わない。ただ、当然であるが、楽器で表現するためのボキャブラリーを獲得することも大変だ。ギターであれば、ボキャブラリーはコードになるのかもしれないが、それを増やさないと豊かな表現をすることは覚束ない。スリー・コードだけでは勢いは感じられるが、細かいニュアンスはとても伝えられないであろう。もちろん、ボキャブラリーだけではなく、ペンタトニック、ドミナント・スケールといった文法も覚えなくてはならないが、それもボキャブラリーが獲得できてからこそであろう。
 私はここ数年、英語教育に関心を持つようになっているのだが、それは日本の英語教育だと、まったく英語ができるようにならないこと、にいらだたしさを覚えているからだ。そして、これはまだ仮説ではあり、一度、大学の講義で実験したこともあるのだが、英語を日本人が出来ないのは、圧倒的に語彙不足が原因なのではないかと考えている。語彙が少ないので、そもそも表現することができないのだ。そして、最近、うちのゼミ生をみていて、この語彙が少ないのは何も英語ではなくて、日本語もそうであるということに気づいたのだ。そして、語彙を増やそうともしていない。ラーメンが好きであるといっているのに、ラーメンを理解するための語彙を全然、増やそうとしない。
 これは、ここ10年間ぐらいでの学生をめぐる大きな変化かもしれない。昔であれば、例えば鉄道に関しては、鉄道オタクがいて、鉄道に関する圧倒的なボキャブラリーを有していた。そういう学生は、アルバイトも鉄道会社の駅員をしたりして、車輌やダイヤ、駅弁などに関しても豊富な情報(語彙)を持っていた。同様のことはカメラとか、ギターとか、AV女優とかでもいた。もちろん、現在でもそのような学生がいない訳ではない。例えば、前任校の卒業生でほとんどのプロ・ミュージシャンとして活躍している「宇宙団」の望月美保は、日本のロック・ミュージシャンに関しては相当、詳しく、私は随分と彼女から教わることが多かった。しかし、だからこそ彼女は第一線で活躍できているとも言える。ボキャブラリーを有しているからだ。
 人は「言語」で思考する。ボキャブラリーが多ければ多いほど、より豊かな思考を展開することができる。すなわち、ボキャブラリーと思考力とは高い相関関係がある。また、それによって表現力も増すので、コミュニケーションも円滑にすることが可能となる。そして、ここで「言語」と表記したが、それは何も言葉でなくてもいいのだ。「エリック・クラプトンのような泣きのギター」、「伏見桃山のひかりのようなつけ麺」、「ゴッホのひまわりの絵のような色彩」、「『アニー・ホール』のウディ・アレンのような失恋」、「奈良萬のような豊穣さ」、「ガウディのグエル公園のような色彩」・・・。このようなボキャブラリーを持つことで、世の中を広く理解し、それは世の中で生きていく自分をも知ることになる。そのことで、自分の人生も豊かになり、魅力的な人になっていけると思うのだ。
 このボキャブラリーが、なんか今の学生には本当に欠けていると思う。お金がないといって安居酒屋で飲み、ファストフード店で食事を済まし、恋愛もコンビニエント感覚でやり過ごし、就職に関しても、何がやりたいかとかではなく、大学のポジショニングだけでとりあえずどっかの企業に潜り込もうとする。他人の人生のことをとやかく言う資格はないが、このボキャブラリーの多寡によって、豊かな生を送れるかの社会格差が生じるような気がするのである。せっかくの人生、そしてボキャブラリーを増やす機会があるのに、それに力が入れられないのは由々しき事態であると思う。
 

 

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『スター誕生』 [映画批評]

グラミー賞でのレディ・ガガのパフォーマンスが素晴らしかったというので気になったので『スター誕生』を観た。てっきり、あまり美貌に恵まれないが才能に溢れた女性が、その才能に気づいたイケメンの売れっ子ミュージシャンの支援のもとにスターになるまでの軌跡を描くストーリーかと思っていたら、映画前半で簡単にスターになってしまって、残り後半は、売れっ子ミュージシャンがアル中でいろいろと人間関係を破綻させていく、というストーリーになってしまった。それはそれで、いろいろと考えさせられたが、もう少し、スターになるまで波瀾万丈のプロセスがあった方が楽しめたのにな、と思う。あと、もう一つ残念だったのは、曲が今一つであることだ。バーバラ・ストライザンドの『スター誕生』からは『Evergreen』という何世代にも歌い継がれるような凄まじいメロディが生まれたが、残念ながらレディ・ガガの『スター誕生』ではそのような曲はつくられなかった。とはいえ、現時点において『スター誕生』をリメイクするなら、キャスティングはレディ・ガガしかあり得ないと思わせる演技ではあったと思う。レディ・ガガの魅力は十二分に銀幕に表出されていた。それだけに、強烈な才能を再確認させてくれるような曲をつくってもらえたらとさぞかし素晴らしかったのにと思わせる。

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ラーメンはなぜ人を惹きつけるのか [B級グルメ雑感]

ラーメンは歴史が浅く、いわばまだ戦国時代である。ご当地ラーメンも、喜多方ラーメンが1920年代、尾道ラーメンなどは戦後である。ラーメンまちづくりを現在、展開している山形県の南陽市の赤湯温泉も50年前は、現在も食べログ百名店の龍上海を始め3〜4軒しか町にラーメン屋がなかったようである。さて、この歴史の浅いということは、まだ流儀というか正しいスタイルが確立されていないということで、完成形のようなものがない。しっかりとしたお茶の世界のようなブランドが確立されていないのである。クラシック音楽に比べてのロック音楽のような自由度、創造性を受け入れる余地がラーメンにはある。ラーメン店はほとんどが個店で、これらの個店は麺の作り方やスープの作り方に拘る。そして、それをレシピのような形で表に出さないし、また他人にも教えない(ために教える人もいるが極めて例外的)。伊丹十三の映画『たんぽぽ』でラーメン店の女主人が美味しいスープの秘密を探るためにあれこれ試みるシーンがあるが、まさにラーメン店の秘密主義を示している。これは、例えば日本蕎麦なんかとの大きな違いである。
 そのような状況であるために、学歴や家柄も関係ない公平な勝負のできるステージがある。裏千家にお金を払ってステータスを得るというような必要性がないのだ。人気のラーメン店の主人が元暴走族だったり、いわゆる青年時代にアウトロー的な人が多いのは、このステージが、まさに下克上が可能なジャパニーズ・ドリーム的なプラットフォームを提供している証拠でもあり、それゆえに多くのドラマを生むし、そのようなドラマを我々、消費者も期待している。
 つまり、味も進化しているので、常にその進化した味を確認するために店を探し、訪れなくてはならないし、新しい情報を収集しないと、ラーメン動向は分からないという面白さがある。また、下克上ごめん的な武将ならぬ店主が常に上を目指して競うというロマンは、単に味ではなく、ストーリー消費の魅力を孕んでいる。グルメ雑誌もラーメン特集は鉄板であると言うが、それは情報が常に更新されるだけでなく、そのお店の背景にある個の魅力、その人のロマンに人は惹きつけるからではないだろうか。ラオターと呼ばれるラーメンオタクは、おそらくラーメンという食事以上のものを、ラーメンを啜る時に消費しているからこそ、ラーメンに惹きつけられているのではないかと思われる。

タグ:ラーメン
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南陽市のいもせ食堂 [B級グルメ雑感]

南陽市には4つの高評価のラーメン屋がある。龍上海と葵、いもせ食堂とまるひろである。南陽市を訪れ、そのうち葵といもせ食堂を訪れ、またいもせ食堂では店長にお話まで聞かせていただいた。
 さて、南陽市のラーメンの特徴とは何か。それは、ラーメンの特徴がないということだ。例えば、長浜ラーメンであれば豚骨細麺、京都の一乗寺であればどろどろ鳥豚骨、尾道ラーメンは醤油スープに平打ち麺などの特徴がある。南陽市は、そのようなラベリングができないそうだ。これが、おそらく南陽市がご当地ラーメンとしてこれまで知られてこなかった理由であろう。もう一つの特徴は、ほとんどの南陽市のラーメンは20年以上経営しており、老舗が多いということだ。
 お話をしてもらったいもせ食堂もそのような老舗ラーメン店の一つである。2019年に開業してから57年目になるそうだ。現在の店長は二代目である。一代目が使っていた粉に二代目がつくった太麺。赤湯に限っての話になるが11軒中10軒が自家製麺をつくっており、麺にはうるさいお店が多いそうだ。そして、それらの多くがちぢり麺で、隣接している米沢ラーメンと全然、違う。いもせ食堂も麺に凝っている。平打ち麺であるが、手で揉んでいる。
 ここの味噌ラーメンを食べたが、麺は確かに相当、美味しい。スープは一代目からは違っているそうだ。なぜなら、ガラをつくっていた業者が潰れたりしたからだ。しかし、できる限り、先代からのスープをずらさないように留意しているそうだ。
 南陽市というか赤湯に限った話かもしれないが、ラーメンは歴史が浅い。赤湯にはそば屋とうどん屋があったのだが、一代目が始めた時は龍上海と3〜4軒ぐらいしかなかった。赤湯は温泉街。旅館の中に食べるところがない。締めのラーメンを食べるために、旅館の外のラーメン屋に温泉客が訪れるというようなパターンもあった。赤湯の観光の主流は、熊野大社に参拝して赤湯温泉に泊まるというものであったが、このような観光客はだいぶ少なくなっている。
 一方で、これは赤湯だけに限った話でなく、山形全体でいえると思うが「出前の文化」である。そして、お客さんのもてなしとして、ラーメンを食べさせて喜んでもらうというものがある。子供達もお客さんが来るとラーメンが食べられると喜んだ。これは、他に外食するものがなかったことの裏返しともいえる。
 15〜16年前、イオンが出来、またベニマルが出来たのだが、その結果、極端に夜の客が減ったり、出前が減ったりした。いもせ食堂において、セットものとかを提供し始めたのはその頃からだ。
 ラーメンの魅力としては、自分の個性を出したい人がラーメンをつくる。お互いに教えない。結果、拘りを持つ人が多い。そうでないと同じような生そばのようになっている。ラーメン屋はサムライ。まとめようとしても、まとまらない。結局、自分の主張が強い。それが魅力だけど。「個性」がある。一つ一つの顔が見える。レシピが分からないというのも魅力。
 いもせ食堂は元旦でもやっている。これは、帰省したお客さんが訪れるからだ。赤湯では、おせち料理が逆に提供されない。
 ラーメンの外食消費量が一番高い山形県で、その中でも一番消費量が高いのが南陽市。その統計的な背景が垣間見れた気がする。
 
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(いもせ食堂の辛味噌ラーメン。美味)
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ラーメン課のある山形県南陽市を訪れる [地域興し]

山形県南陽市にラーメン課がある。ということで、そんなおかしな自治体があるのか調べに行った。さて、南陽市役所に行き、このラーメン課を訪れると、どうもラーメン課というものはなく、南陽市みらい戦略課企画調整係内の事業「南陽市役所ラーメン課R&Rプロジェクト」であることを知る。流石にラーメン課はないか。ただ、我々だけでなく北海道の自治体も視察にそれで来たりしたそうであるから、我々だけが間抜けという訳ではない。
 さて、南陽市がなぜ、ラーメンでまちづくりをしたかというと、そのきっかけは中学生・高校生に「南陽市外の人に伝えたい南陽市の魅力は?」とアンケートで聞いたところ「ラーメン」との回答がベスト4に入ったからである。ちなみに1位はさくらんぼ、2位はラフランス、3位はワイン。「ラーメン」というのは市役所の人からすると「目から鱗」であったそうだ。というのも山形県は全国で最もラーメンの外食回数が高い県である。これは、お店だけでなく、店屋物でラーメンを注文する人が多いからだそうだ。山形では、お客さんが来た時におもてなしとして、ラーメンを注文するそうだ。別にちょっと伸びていようが気にもしないらしいから、本当、皆、ラーメンが好きなのかもしれない。逆に、うどんやそばといった補完財的なものの消費は少ないそうである。この、あまりにも日常に溶け込んでいたラーメンなので見落としていたが、確かにこれはイケるかもしれないと市役所の人は思ったそうである。県境を越えた福島県にある自治体はラーメンで全国的ブランドの喜多方市である。しかし、南陽市の人が喜多方市でラーメンを食べても、全然、感動しないそうである。それどころか、「宮内(南陽市の集落)の方がうめえっぺ」と思うそうだ。また、南陽市には食べログの東日本百名店が一軒ある。龍上海である。しかし、喜多方市には一軒もない(坂内食堂もまこと食堂も2019年2月時点では入っていない)。しかも、そのような仕掛けをしている自治体は少ない。
ということで、2016年にプロジェクトが発足したのである。まず、始めたのがラーメン会議。そして、ラーメン会員を募った。そして、ラーメン屋での写真を募ったフォト・コンテスト。さらには、ラーメン屋のカードを期間限定で配布したりもした。フォト・コンテストはそれほど上手くいかなかったが、カードに関しては、人々の収集癖を刺激したようで、結構、うまく行ったようだ。ラーメン・マップなども東北芸術工科大学の学生とコラボして作成している。これは写真ではなく、敢えて絵を描くなどして味を出そうとしている。
 このラーメンでまちづくり事業。成果は得られているのだろうか。近々に行われた中間報告ではあるが、平均でみるとラーメン店の売り上げは増えているそうだ。埼玉や群馬から来ているお客さんが増えている。商工観光課への取材では、マクロでの効果は見られていないというクールな回答ではあったが、やらないよりはプラスということは言えるのではないだろうか。
 課題としては、なぜラーメン屋ばかりに贔屓をするのか、という他業種の人達がクレームをしてくる可能性があることと、このラーメンを目当てに訪れた人を赤湯温泉に泊まらせるなどの波及効果をどのようにもたらすか、その仕組みを考えなくてはいけないことであろうか。
 とはいえ、例えば、私は喜多方のそばに行くと(例えば会津若松や磐梯高原)、ちょっと足を伸ばして喜多方まで行き、ラーメンを食べたりはする。また、ラーメンという地域ブランドをつくった喜多方市のメリットは結構、大きいものがあるような気がする(あくまで印象論であるが)。そのようなことを考えると、他業種のメリットは少ないだろうが、このラーメンでまちづくり、意外とそんなにバカに出来ないような政策かもしれないなと思ったりもした。

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(赤湯駅を下りると長いラーメンの広告が出迎える)

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(南陽四天王の一つ、葵)

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(葵のメニュー)

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『そして私たちは愛に帰る』 [映画批評]

トルコ系ドイツ人映画監督ファティ・アキンの『そして私たちは愛にかえる』を観る。イタリア系映画のような、ペーソスに溢れた人生劇である。優秀な息子とダメな親爺、ドイツとトルコで離れ離れで暮らす売春婦の母親と反政治活動に身を投じている娘、そしてオープンな世界観を擁するドイツ人の母親と娘。この三者三様の片親と親子が、お互い関係することで大きく、彼ら・彼女らの人生は展開していく。それは、悲劇的ではあるが、その悲劇が展開する過程でこれら他人が知り合うことで観ている側は救われる。違う国籍、違う価値観の人々が交錯することで、無情にも人が死んでしまうという理不尽の中でも、人は明日に希みを持つことができるような印象を観る者に与える。ラストシーンの静かな映像は百の言葉より多くのことを語る。


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  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
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イタリアの世界遺産「マテーラ」を訪れる [都市デザイン]

イタリアのバーリに同僚が在外研究で来ているので、図々しくもバーリへと訪れた。さて、バーリのそばには二つの住宅系の世界遺産がある。アルベロベッロとマテーラである。どちらかに連れて行ってくれると言うので、マテーラに行くことにした。マテーラへはバーリからだと鉄道で二時間ちょっとかかる。のんびりとした単線のローカル線で、車窓はオリーブ畑が延々に続く感じである。

マテーラはマテーラ県の県都であり、人口は約6万人である。2019年には欧州文化都市にも指定されている。そのような比較的、しっかりとした都市の旧市街地にサッシと呼ばれる洞窟住居がある。この洞窟住居が世界遺産なのである。マテーラの旧市街地はグラヴィナ川がつくった谷の石灰岩の丘陵地に発展した。ここに8世紀から13世紀にかけて、修道僧が洞窟住居をつくり、住むようになったそうだ。19世紀頃からは、貧しい小作農民がここに住むようになり、家畜とともに生活し、上水・下水もしっかりと処理できていないという劣悪な環境の中で住民は暮らすようになっていたそうだ。そして、1950年代にはこの住民は行政により強制的に郊外に新築された集合住宅に移住させられ、この洞窟住居は放っておかれるのだが、1993年に世界遺産に指定されると、これらの住居を再利用する人が増え始めているそうだ。

実際、訪れると、カフェなどに利用されているだけでなく、洗濯物が干されていた住宅もあったりして生活している人もいるようであった。どの程度、改修されたか不明だが、雨水の流れなどはそれなりに考えているように思われるが、下水はどのように処理できているのかなどは不明である。

どことなくアメリカのコロラド州のアメリカ・インディアンの居住跡地であるメサ・ベルデ国立公園を彷彿させる。まったく、アメリカ・インディアンと当時のマテーラの人達が交流する筈はないのだが、人間が考えることは似ているものだなとも思ったりもした。いや、丘陵地に住宅を掘ってつくるという点がということですが。

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(マテーラの洞窟住居の展望)

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(世界遺産に指定されていることもあり、ペンキなどは勝手に使えないそうである)

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(洞窟住居の跡地)
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『トラブゾン狂騒曲』 [映画批評]

トルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督によるエコロジカル・ドキュメンタリー。
トルコ北東部にあるトラブゾンという村にごみ処理場がつくられる2007年から2012年までの5年間を丁寧に追求してつくられたこのドキュメンタリーは、環境問題の普遍的な本質を鋭く描いており、観るものの心を揺さぶる。その本質とは、環境問題は無責任な人間がつくり出すということである。無責任であるから、その問題を予見することもしなければ、それを解決しようともしない。日本の原発問題とも通じる、このトルコのごみ処理場の問題は、しっかりと時系列的に新たな問題が出てきた時に、それに対して地元住民とそれを管理する側の環境省がどのように対応するかを見事に記録している。ポイントとしては、原発問題もそうだが、一度つくらせたら地元は負けるということである。トラブゾンも多くの住民がそこを去って行くことになる。日本の地域も、まったくもって対岸の火事ではないこの環境問題。必見である。

トラブゾン狂騒曲~小さな村の大きなゴミ騒動~ [DVD]

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ヴォージュ広場というパリの宝を台無しにしている道路 [都市デザイン]

パリで最も美しい広場と言われているのは、バスティーユのそばにあるヴォージュ広場である。ブルボン朝初代のフランス国王であるアンリ4世によって、パリを新しいローマにすべき1605年に建造が開始された、パリで最初の計画的に設計されてつくられた広場である。その設計とレイアウトに関してもアンリ4世は随分と口出しをしたそうで、パリという田舎をローマのような格を持たせるために彼が手がけた幾つかの都市プロジェクトのうちの一つである。この広場を囲む建物はすべての方向で9戸であり、高さなどは統一され、その調和は特別な空間をつくりだすことに成功している。

さて、確かに素晴らしい広場ではあるのだが、美しいアーケードもある建物とこの広場の間に無粋な自動車道路が通っている。つまり、広場は自動車道路の囲まれているような状況であり、建物と広場を行き来するのに、この道路を渡らなくてはならない。それだけでなく、この道路には路上駐車が両側でされていて無粋このうえない。美しい広場と美しい建物と自動車はまったく景観的にもマッチしない。なんてもったいない。一昔前のロンドンのトラファルガー広場を彷彿させる人に優しくない空間だ。やはり、フランスは都市デザインではヨーロッパの中では後進国だな、と呆れた気分になりつつ、いや、私が考えるぐらいだから、パリの人達も同じような気持ちをおそらく抱いているだろうと思い直す。というのも、前から思っていたのだが、バスチーユ広場とかマドレーヌ広場とか、自動車中心で歩行者をバカにしたようなランドアバウトを大きく改善させて、歩行者動線を改善し、より歩行者を大切にするような空間づくりをプロジェクトで進めていることを知ったからだ。

ということで、そのうち、当然、このヴォージュ広場を台無しにしている広場を囲む自動車道路もどうにかなるだろう。というか、ただ、自動車を通さなくすればいいだけの話だ。なぜ、ここに道路が必要なのかも分からない。駐車場が必要であれば地下駐車場をこの広場につくればいいだけの話だ。出入り口をどこにつくるのかが難しいというかもしれないが、それこそバスチーユ広場当たりに設置すればいい。ちょっとアクセス道路が長くなるかもしれないが、このパリという都市の宝をしっかりと守り、その価値をさらに高める意義を考えれば費用対効果はとてつもなく高いものとなるであろう。

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(パリで最も美しいといわれるヴォージュ広場)

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(しかし、その美しい広場と美しい17世紀の建物の間には無粋な道路がつくられている)

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(空間の連続性が台無しにされている)

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(しかも路上駐車の自動車が景観的にマッチしていない)

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(ヴォージュ広場に行く際にもこの道路を横断しなくてはならない。これも無粋)
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トランプ大統領があぶり出すアメリカ像 [トランプのアメリカ]

トランプ大統領が就任してから2年が経つ。当選した当時は、このままでは世界が大混乱すると予測し、持っている株をほとんど売ったりするなど結構、狼狽したが、まだそれほどの混乱がなく世の中は回っている。トランプ大統領のこの2年間を顧みて、何が見えてきたのか。それは、むしろトランプがアメリカの問題ではなく、彼のような詐欺師が、詐欺師であるのに分かっているのになおかつ支持をするアメリカ人が3割いるという事実こそが問題であるということだ。

トランプのような嘘つきを、その嘘が嘘であることを分かっているにもかかわらず、確信的もしくは盲目的に信じる人々が多いという状況は、民主主義を崩壊させる。それは、ナチス政権が民主的に支持された状況を彷彿させるが、現在のアメリカは報道の自由や表現の自由が認められている中での、トランプ支持であるから状況は深刻である。というか、これまでこのような事実ではないことを事実であると主張できる人達が3割以上いる国の方針に従って日本は政策をほぼ決定してきたのかと思うと愕然とする。真実の重要性を強く思うし、事実に則って議論することの重要性を改めて再認識する。

人類が崩壊するとしたら、事実を認められなくなった時であろう。そのような脆い状態にアメリカはあったということをトランプ大統領はあぶり出した。それは、決して日本や世界にとっても喜ばしくないなと思うのと同時に、SNSが民主主義を崩壊させるツールとして使えることを見抜いたロシア政府の驚くような狡猾さには度肝を抜くしかない。

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王寺町の「嘘からまこと」のラーメンで街づくり [都市デザイン]

奈良県に王寺町という自治体がある。ここは、大阪のベッドタウンで大和川沿いの谷を中心に発展した来た町である。面積は7キロ平米と随分小さい自治体だが、山がちであるために可住地面積は4キロ平米とさらに小さい。その結果、人口は24000人ぐらいだが人口密度が高く、また工業用地がないため第三次産業の従業者が91%を占める。都市構造的には勝手にコンパクト・シティである。鉄道とともに発展してきた町ということもあり、政策としては駅のブランド化を意識していて、駅周辺にマンションを建てていきたいと考えているそうだ。ううむ、コンパクト・シティは面的だけでなくても高さ面でもコンパクトがいいと考えている私としては、ここらへんは中央政府から本家のEUのコンパクト・シティと違った方向に進んでいるな、と懸念していた私だが、ここ王寺町も面的にはともかく高さ的には全くコンパクトではない都市づくりを目指しているようだ。

歴史はあるが、その町の歴史が現在の町へと上手い具合に繋がっておらず、山を切り開いてつくられたニュータウン的色彩が強い町である。さて、そのような町であるから、町としてのアイデンティティは弱く、人々の愛着は薄いし、知名度も低い。そのような課題を克服するために王寺町が取り組んだのはゆるキャラによる街づくり、そして次いでラーメンによる街づくりである。ゆるキャラは雪丸という犬で、聖徳太子の飼い犬という設定である。これは王寺町の名前が聖徳太子が建立した放光寺に由来しているからだそうだ。この雪丸は、王寺町のアイデンティティの欠如を埋めるように人気を博し、昨年度のゆるキャラ・グランプリでも11位になっている。王寺町を知らなくても雪丸を知っている人が増えている。さらに、雪丸のドローンを博報堂に委託して100万円でつくったりするなど、話題づくりも上手い。税金を使って100万円というのもどうかな、と思うがその広告効果を考えると100万円の効果は余裕であるだろう。王寺町を知らなくても雪丸を知っている人は増えている。雪丸をフックとして、観光客が増えることも期待しているそうだ。確かに雪丸が好きな人は放光寺に観光というパターンはできるかもしれない。私も聖徳太子に飼い犬がいたことや、聖徳太子が王寺と関係しているなどは王寺町を調べなければ知ることはなかった。

さて、ゆるキャラはともかく、それではなぜラーメンなのか。これは王寺町役場が町民に何が町に欲しいかのアンケートを行ったら、一番がラーメン屋であったことが大きな理由である。ちなみに二番はカフェであった。王寺町は関西本線が走っており、近畿鉄道の駅もあるので公共交通の便がよいため小売業は集積しているのだが、いかんせんフランチャイズ店が多い。これは町民にとっては必ずしも悪いことではないが、外から王寺町に来たくなるような発信力のあるお店ではまったくない。そこで、ラーメンをゆるキャラに次ぐ、地域ブランディングのツールとして考えることにしたのである。しかし、王寺町にはラーメンというコンテンツはない。ないから町民がアンケートで欲しいと回答したのである。いや、正確にはない訳ではない。「名物王寺ラーメン」という比較的、ラーメン通には知られていたスタミナ系ラーメンのお店が駅の北側にあったことはあった。しかし、ほぼ個店はここだけである。ということで、ラーメンの町というイメージは王寺町にはほとんどなかった。なんか、敢えて例えると、サッカーの日本代表の補欠になった選手が一人いただけで、サッカーで街づくりをしよう、みたいな無理無理感がある試みである。

さて、しかし、これが驚くことに上手くいく。それでは王寺町は何をしたのか。王寺町では2018年3月11日から7月31日にかけて、王寺ラーメントライアルというイベントを行った。これは、王寺でラーメン店の開店を目指す店主が、長年空き店舗であった王寺駅北口にあった居酒屋を改修した店で、期間限定でラーメン店の営業に挑戦するという企画である。
これには4店がチャレンジするという構想であったが、最初の1店は1日のみで、これは広告塔のような効果で有名店が開店したというものであった。その後は、Namaiki Noodle、麺屋やまひでの2店が出ただけで、結果的にNamaiki Noodleが優勝。その後、この店が会場であった空き店舗で2018年10月からラーメン屋を開業する。このお店は鶏白湯のスープの細麺で、個人的には奈良ラーメンのイメージに沿ったラーメンである。店主は奈良の鶏白湯ラーメンで有名な麺屋NOROMAで修行をしていたそうだ。このラーメンイベントは、2018年12月に県政策自慢大賞に輝く、という名誉を受ける。まあ、政策を自慢するという時点で公務員の仕事への意識に問題を感じない訳ではないし、表層的で短期的な視点の政策ばかりに公務員の関心がシフトしそうで心配ではあるが、王寺町にとってはこれは追い風となった。

そして、次に仕掛けたのが関西ドリームマッチという人気のラーメンイベントで、その第三回目を王寺町で誘致したのである。そして、まさに先週末の四日間(2019年2月8日〜11日)に開催した。このドリームマッチのどこがドリームかというと、関西の錚々たるラーメン店がコラボをするところが、ドリームだそうである。まあ、敢えてコラボするぐらいなら、そのレシピでつくれよ、という気もするが、ラーメンオタクにはなかなか嬉しい企画だそうである。このようにラーメンでまちづくりを仕掛けて1年、まともな個店のラーメンが一店舗しかなかった王寺町でなんと大規模なラーメンイベントが開催。その宣伝効果はとてつもなく大きなものがあったと推測される。

このようにして、特産品もほとんどなく、観光資源が少ない王寺町は「嘘から出た誠」のようなブランド戦略で、知名度を上げていったのである。これが成功した要因の一つとして、やはりラーメンをコンテンツにしたことはあったかと思う。なぜなら、まずラーメンは歴史が浅いので老舗といってもたかが知れている。まだ、発展途上の食べ物である。そして、応用が効く。例えば豚骨ラーメンは、スープをつくっている時、店主がうたた寝をして煮込みすぎたことで発見されたし、味噌ラーメンは札幌のお店で味噌汁にラーメン入れてよ、という無茶ぶりからつくられた。そのように考えると、まだまだその可能性は広がる。そして、少ない資産で勝負でき、それに勝てば実入りも大きいギャンブル性の高いビジネスであるので、男のロマンを駆り立てやすい。そこには、また学歴社会的なものが入ってくる余裕もない、実力主義的なところが、日本人の武士道にも通じる何か魅力を放っているような気もする。ここらへんは仮説ではあるが、ラーメンというコンテンツの魅力と、即興で地域ブランドをつくれてしまうという事実を王寺町で知ることができた。くまモンの熊本県ほどではないが、なかなか上手くやった(税金を無駄遣いにしなかった)自治体による地域ブランド創造政策ではないかと思う。

人口が縮小していく中、コミュニティを強化させるうえでは、その地域のアイデンティティを強化させていくことは極めて重要である。その強化において、ゆるキャラ、ラーメンといったコンテンツを使うことは、意外と有用なのかもしれないな、ということを考えさせられた。もちろん、ダメダメなゆるキャラを取りあえず、つくっていたり、税金を浪費してゆるキャラ・グランプリのナンバーワンを金で買う(静岡県のH市のことですね)ようなことはあってはならないとは思うが。

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(ナマイキラーメン)

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(ラーメントライアルの会場となった居酒屋。今はナマイキラーメンのお店になっている)
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今更ながら『E.T.』を観る [映画批評]

今更ながらであるが『E.T.』を観る。一昨日、恥ずかしながら『ハムレット』を初めて読んだのだが、最近、社会常識として著名な本とか映画の内容を知っておかなくてはまずいみたいな気分になっているからだ。さて、E.T.は少年とその兄弟と宇宙人との交流の物語だが、子供達の純な優しさのようなものが心を打つ。流石、大ヒット作は良質だなと思ったりもしたが、あの宇宙人のデザインは悪い。これは、スター・ウォーズなど他のハリウッド映画にもいえることだが、なんで円谷プロのように格好いいというか、より個性的な宇宙人がつくれないんだろう。ピグモンとかの方がずっと存在感がある。というか、私がこれまでE.T.を観なかったのは、あのヘンテコなデザインの宇宙人に抵抗を覚えていたからだ。その気持ちは映画を観た後も変わりは無い。
 あと、新生チャーリーズ・エンジェルのドリュー・バリモアが子役で出ているのだが、その演技は驚くほど上手い。いや、天才子役という形容が大袈裟ではないぐらいだ。私はなんでドリュー・バリモアがこんなに俳優として引っ張りだこであるのかが不思議だったのだが、それの理由はここにあったのかということに気づいた。
 また、舞台はロスアンジェルスの郊外であるが、この郊外で暮らす少年の生活を見事に演じていたかとも思われる。多くのアメリカ人が郊外で生活をするようになった1970年代当時の新しい郊外でのライフスタイルや価値観(離婚を含む)などをうまく表現しているようにも思える。郊外の希望が幻想であったのかとアメリカ人が気づき始めた時代感、イーグルスが『ホテル・カリフォルニア』でカリフォルニアへの人々の期待を皮肉った時代感を表現しているようにも感じた。そのような不毛な地にちょっとしたファンタジーを展開させることは、アメリカ人の心の琴線に触れたのかもしれない。


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  • 出版社/メーカー: NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
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ボヘミアン・ラプソディ [映画批評]

大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』を正月休みに観た。フレディ・マーキュリーの映画であるが、相当、事実に忠実に描かれているようで、フレディの実母の写真を観たら、映画で母親と演じているインド人女性にそっくりで驚いた。ホモセクシュアルであることはまあ、一目瞭然であったので知っていたが、ゾロアスター教のインド人であり、18歳までイギリス外で育ったことは初めて知った。生まれたのはイギリスの植民地であったアフリカのどっかで、勝手に外交官の息子かと思ったりしていたので、生まれはイギリスの外でも育ちはイギリスであると勝手に勘違いをしていた。そして、外交官の息子だと思っていたので金持ちのボンボンだとも思っていた。そういう偏見をしっかりと是正してくれるような、良質な映画であるなと思った。
 愉快なのは、カメオで出ているマイク・マイヤー扮するレコード会社の重役が、『ボヘミアン・ラプソディ』のような6分ぐらいの曲をカーステレオで聴く若者がいないと言ったシーンである。フレディ・マーキュリーが亡くなった後、映画『ウェインズ・ワールド』でマイク・マイヤーが友達と『ボヘミアン・ラプソディ』をカーステでがんがんかけながら、車で街中に繰り出しているシーンは、ロック映画史上、最も有名で愛されているシーンであるからだ。そして、このシーンでクィーンの『ボヘミアン・ラプソディ』はアメリカ人によりよく知られるようにもなる。
 バンドのごたごた、そしてライブ・エイドでの復活といったシナリオもよく、クィーン・ファンでない私も十二分に楽しめた。ということで、まあ映画には何も文句はないのだが、ちょっと気になるのは急に、私の周りにクィーン・ファンの50代前後の人が増えてきていることだ。皆、昔からクィーンが大好きだった、と言う。本当かよ。いや、当時も確かにクィーン・ファンはいたことはいたが、クィーンよりも格好よいロック・ミュージシャンもたくさんいた。イギリスのミュージシャンでもデビッド・ボウイや、クラプトン、ツェッペリン、ディープ・パープル、ピンク・フロイド、イエス、ピーター・ガブリエル、ジェネシスといった方がずっと格好良いと当時も思っていたし、今でも思っている。決して悪くはないけど、そんな傑出して特別ではないよな、と当時も思っているし、その気持ちは今でも全然、変わらない。

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マイケル・ムアーの最新作『華氏11/9』を観る [映画批評]

マイケル・ムアーの最新作『華氏11/9』が日本で公開されていることを知ったので、渋谷のアップリンクに観に行く。月曜日で一回しか流されないので、これは座れるかなと不安だったのだが、ナント、10人ぐらいしか観客はいなかった。おそらく2019年1月において、最も重要な映画であるにも関わらず、この無関心さは何なのだろう。自分が入れたのは喜ばしいが、ちょっと『ボヘミアン・ラプソディ』を複数回観た人が周りにいることを考えると、これは本当に不味い状況じゃないかなと思ったりもする。
 さて、映画はトランプが大統領という、悪夢のような現実にどうしてアメリカ社会が陥ってしまったのかということを、トランプという人柄の分析、人々の意識の分析などを通じて、非常に分かりやすく丁寧に解説してくれている。とても説得力があり、トランプ大統領という悪夢に陥った背景が理解でき、ちょっと、そのオバケの正体が分かったような気分である。そして、トランプと似たようなビジネスマンとしてのバックグラウンドを持ち、ミシガン州知事になったリック・シュナイダーの行政を取り上げ、ビジネス・マインドの強い人が政治をするととんでもないことが起き、このままトランプに妥協すると、アメリカはとんでもないことが起きるだろう(既に起きている可能性も高いが)と警鐘を鳴らしている。『ボヘミアン・ラプソディ』は私を観たが、2019年1月時点において観るべき重要度でいえば、この映画の方が遙かに高い映画である。生き延びるためには観るべきである。

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トランプの政府閉鎖の本当の意図は壁をつくる予算を得るためではなく、FBI潰しだ [トランプのアメリカ]

トランプの政府閉鎖は30日間に突入した。歴史上、最も長い政府閉鎖である。政府閉鎖はこれまで大統領が主導したことは一度もなく、そういった意味でもとんでもないことをしでかしたなと固唾を呑んで、アメリカのケーブルテレビをチェックしている日々をここ1ヶ月ほど送ってきている。これは、日本の政治評論家で、現状のトランプを私が納得するような説明をできる人が不遜な言い方になるが、一人もいないからだ。例えば、アメリカの政府封鎖を、トランプの民主党支持者の分断作戦だ、という妄想を書いていているブログを見つけたりしたが、この人は一体全体、どんなフェイクニュースを読んでいるのだろうという印象だ。(http://agora-web.jp/archives/2036830.html)。こんな状況下であるので、どうしても現地での情報を多方面から収集し、自ら判断をしなくてはならない。もちろん、その自分の判断も正しいかどうか自分でも自信はないが、適切な情報量が多くなると推察の精度も上がる。
 さて、私が信頼しているソースの一つは、レイチェル・マドー・ショーであるが、1月21日の彼女のこれが政府閉鎖の真の理由かもしれない、という内容の解説は非常に説得力があった(https://www.youtube.com/watch?v=-V5El-Bf1ek)。それはFBI潰しだというのである。ご存知の通り、ムラー捜査官だけでなくFBIもトランプとロシアの関係を国防的観点から調査しているとのは、先週のニューヨーク・タイムズ紙が報じたことだが、政府閉鎖をしているとFBIの捜査官の給料も未払いが続くからだそうだ。FBI捜査官は、採用される時に、賄賂されないように持ち金が少なくても生活できることなどが採用条件に含まれるそうだが、そうはいっても給料未払いのような状況が続くと、組織がまともに機能しなくなる。ムラー調査もほぼ終盤に差し掛かっているというのが大方の見方だ。この調査結果によってはトランプが弾劾される可能性は高い。当然、その結果がどういうものになるかをアメリカで最もよく分かっているのはトランプ本人そのものであろう。そして、それを避けるためになりふり構わない行動を取っている、すなわち、ムラー調査だけでなく、FBIという組織を崩壊させることがトランプの意図としてあるのかもしれない、とのレイチェルの説明は合点がいく。
 トランプの政府閉鎖は、随分と子供じみた馬鹿なことをするな、とトランプを揶揄する人も多く、私も何、不合理なことをしているのか、と思ったりしていたのだが、壁の予算を通せ、と民主党に駄々をこねているというのは表向きのピエロ面で、裏では相当したたかに自分のために動いていることが見えてきた。そして、FBI潰しというのは、まさにロシアのクレムリンが願っていることであろう。思ったよりトランプは馬鹿ではない。気をつけないと、何回でもやられるぞ。

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小泉武栄『山の自然学』 [書評]

東京学芸大学名誉教授の小泉先生が1998年に著された岩波新書の『山の自然学』を読む。礼文島から屋久島まで、日本列島を連なる個性的であり、多様な山々の植生、地質、地形などを分かりやすく解説してくれている。私はへたれであるが登山をするので、この本に書いていることはとても興味深い。山を登ると、たまに驚くことがある。例えば、鳥取県の大山ではそのブナ林の明るさに心を打たれたことがある。その明るさの背景などをこの本は科学的に推察し、解説してくれる。自然の仕組みの複雑さと蓋然性に、驚くと同時に、生態系をしっかりと学ぶことの重要性を思い知らされる。
 本を読むと、これまでの山での体験が違う視点で捉え直すことができ、とても興味深いし、まだ行ったことのない山は是非とも近いうちにチャレンジしたいという気持ちにさせる。登山体験の幅を広げるような内容に溢れた本である。
 また、山の自然学の解説以外にも本書は重要な知見をもたらしてくれる。一つ目は、政府の無知による自然破壊の酷さである。引用させてもらう。
「上高地の自然をめぐっては、現状を維持しようとする環境庁と、洪水防止のために川を床固めし、堤防をつくりたいとする建設省のあいだで、長年にわたって“つばぜりあい”がおこなわれてきたが、結局、工事は行われることになってしまった。わたしの友人の岩田修二は『山とつきあう』のなかで、床固め工事に反対を表明し、ケショウヤナギなどの森林にとっては土木工事は害をなすばかりだとして、洪水に対してはホテルなどの嵩上げで対処すべきだと主張しているが、まったく同感である。」(p.167)
 二つ目は、日本において自然史についてのカリキュラムがまったく抜け落ちているとの指摘である。私事で恐縮だが、私は小学校4年生から中学校1年生までアメリカの現地校で教育を受けたので、いわゆる算数などの授業はとてもレベルが低い内容のものを教わっていたが、自然史というかエコロジーの授業は小学校高学年で受けていた。そういうこともあって、著書の考えがしっくりと入ってくるというのはあるかもしれない。
 二つの点は、今後、日本が改善しなくてはならない大きな政策的課題であろう。


山の自然学 (岩波新書)

山の自然学 (岩波新書)

  • 作者: 小泉 武栄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1998/01/20
  • メディア: 新書



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京都市の人口減少解決策に異議 [都市デザイン]

1月17日の日本経済新聞に拙文が掲載されました。京都市の都市政策に関して疑義を呈した内容なのですが、ちょっと編集サイドで手が入り、それはそれで読者を想定すると有り難い修正なのですが、私の本音も皆様に伝えられたらと思いますので、オリジナルの原稿を下記、掲載します。

京都市が景観政策見直しを検討している。その理由は、京都に住んで働く人が減少することへの危機感であるそうだ。京都に住む人が減少している理由は、京都市によれば住宅価格が高騰しているからだという。人口が増加して住宅価格が高騰しているなら分かるが、人口が減少しているのにそれが高騰しているのは随分と奇妙な話である。しかし、京都市はそれは住宅供給が不足しているからだと判断し、住宅供給の弊害となっている建築物の高さ規制を緩和させようと考えている。
果たして、住宅供給を増やせば、人口減少は解消されるのであろうか。そもそも、京都市の住宅価格の高騰をもたらしているのは、最近の京都の凄まじい観光需要の増加を起因とした民泊需要の増加であると筆者は分析している。実際、観光客に人気の高い東山地区などの空き家の取引状況をみると、そのうちの大半が外国人による投資か、それを仲介する不動産業者であったりする。それらは外国人がそこで住むために投資しているのではなく、民泊として活用するために購入しているのである。したがって、住宅価格の高騰を抑えたいのであれば、それを押し上げている民泊を規制すべきである。住宅価格の高騰を緩和するために住宅供給を増やして効果があるのは、実際の住宅需要が不足している場合であって、不足しているのは住宅という名を隠れ蓑にした民泊という宿泊施設の場合は、規制緩和をしても、住宅需要は民泊需要にすべて喰われてしまうであろう。
 百歩譲って、宿泊施設を増やすということで都市計画規制を緩和するということで議論をするならまだ分かるが、人口減少を解消するためにそれを緩和することは、インフルエンザに外科手術を施すようなもので、効果がないどころかマイナスの影響を及ぼすであろう。そのような規制緩和は住宅ではなく、民泊を増やすことに繋がり、それはさらなる観光客を増やすことになる。現時点でもバスなどの公共交通が、増加した観光需要を捌ききれずパンクし、四条などの中心部では歩道から人が溢れるような状況下であるのに、さらに観光客を受け入れることは、京都市に大きな弊害をもたらすであろう。
そして、何よりそのような高さ規制や建築政策の見直しは、世界でも希有な「先年の都」という歴史を有する古都の根源的なアイデンティティを破壊する。いや、そのアイデンティティを破壊すれば確かに観光客も来なくなるかもしれないが、それによって京都という都市の魅力が失われ、より人口の減少を促進させるのではないだろうか。京都はそのユニークな歴史から、日本人だけでなく人類の宝となっている。それは、世界的にはプラハやフィレンツェ、ベネチアなどのような都市であり、そのアイデンティティをしっかりと次代に継承させていくのは日本人の人類への責務である。日本全体が人口減少というトレンドにある中、人口のいたずらな奪い合いへ参戦することは、長期にわたる禍根を京都に残すことになるだろう。千年とは言わないが、百年ぐらいの長期の物差しで京都のアイデンティティを守るという意識をもって都市政策を考えてもらうことを切に望みたい。

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正月におせち料理をつくり、食べる意義 [グローバルな問題]

明けましておめでとうございます。最近、掲載頻度が少なくなっていますが、今年もこのブログを宜しくお願い致します。

さて、極めて私事ではありますがおせち料理を最近、つくっています。これは、日本人とは何だろうとこの数年、考えているからでもあります。日本人ってどうやって定義できるのでしょうか。日本は島国なので、移民がなかなか来にくい国です。ということもあり、なんか日本で生まれ育って、親もそのように暮らしてきて、さらに親の親もそのようであったりすると、もう日本人だと勝手に思ってしまうかもしれませんが、本当にそれで日本人といえるのでしょうか?例えば、そのような考えをアメリカ合衆国に適用すると、そのような人達はアメリカ・インディアンだけに絞られてしまい、トランプ大統領のように母親が20歳頃スコットランドから渡米してきて、さらに父親方も祖父の代にドイツから渡米してきたような人なんて、まったくアメリカ人と言えなくなってしまいますよね。
 おそらく世界的には、日本人は日本語をしっかりと駆使できて、日本文化をしっかりと理解して、それらを次世代に継承するだけの教養・技能・情熱を有している人なのではないかなと思うのです。そのように考えると、ドナルド・キーンなどは私なんかよりも遙かに日本人である訳です。これは、例えばどこかの国が日本人なんて絶滅してもいいんだと主張した時(いや、このような話は真面目に第二次世界大戦中はされていたと思います。そうでなければ原爆は落とされない)、いやいやいや、日本人は人類において日本語を含む貴重な文化を継承していくという重要な役割を担っているので、絶滅させない方が日本人以外にとってもいいでしょう、と主張するのが、一番、絶滅させない理由として適当であると私は思ったりするからです。ここで人道的などという言葉を放っても、ほとんど効果がないことは人類の歴史が証明しています。
 さて、前口上が長くなってしまいましたが、そのような日本にしかない貴重な人類の文化資源として、私はおせち料理というものがあるのではないかと思っています。朝日新聞の元記者であった本田勝一も世界で一番美味しい料理は日本料理と言っていますが、私も50ヶ国以上訪れた経験から本当にそう思います。そして、その和食のエッセンスはおせち料理に詰められていると思います。ということで、おせち料理の調理に精進することで、日本料理の哲学のようなものにもちょっと触れられるかなと思うのと同時に、殺されそうになった時、ちょっと美味しい料理を振る舞って命乞いができるかもしれないと思ったりもする訳です。
 ということで今年もおせち料理をつくりました。ポイントとなるのは食材をどこで買うかということですが、野菜系はすべて尾山台にある八百屋ジャズで仕入れました。値段は高いですが、モノはいいです。この値段の高さには、しっかりとした商品を提供してくれる信頼の値段も含まれているかと思います。ローストビーフのお肉は都立大学の原田畜産で入手しました。原田畜産はとても人気なのですが、家内が大晦日の日に開店前に並んでくれたので無事、手に入れることができました。ちなみに予約をすればいいじゃないか?と思われるかもしれませんが、八百屋ジャズでは大根の予約ができますが、原田畜産は相当の量でないと予約は受け付けてくれません。個人消費の量ではとても予約できないのです。
さて、問題となるのは魚介類です。というのは、これまでは築地市場で入手していたのですが、築地市場が移転した後、場外はただの小売店の場となっている筈です。豊洲市場のサイトをチェックすると、どうも場内でも購入できるようだということが判明したので、とりあえず豊洲市場に向かいました。何しろ、必要なのは有頭海老、そして数の子、蛸、鰹節です。また出来れば真鯛。初めて行った豊洲市場はとても清潔で、しっかりと来場者も管理していて、とてもよく計画されているなと思いました。正直、築地市場よりも遙かにましになっています。部外者がいろいろと反対していましたが、当事者からするとなんで反対するんだ、という気分だったでしょう。
 場内に入るのはわざと入りにくくされているようでしたが、いそいそと入っていき、海老専門店に行きましたが既に12時を回っていたこともあり閉まっていました。他の店もあまりいい海老が置いていない、というか売り切れている。ということで、豊洲市場にあるショッピング・コート的な場所で鰹節や数の子、昆布巻き、蒲鉾、伊達巻、田作などを買いました。ちなみに、結果論ですが、ここで買ったものは鰹節こそ相当よかったですし、蒲鉾、伊達巻、田作は文句を言うようなものではなかったですが数の子、昆布巻きは今一つでした。ちょっと安かったですが、安物買いの銭失いという言葉を痛感させられました。
 肝心の海老が入手できなかったので、豊洲のお店の人に相談すると、築地の場外に行くのであればアメ横の吉池でしょう、といわれたので初めてですがそそくさと吉池に向かいました。吉池の混み具合は、まさにラッシュアワーの田園都市線という感じでしたが、どうにか海老、鯛、蛸を入手することができました。ただ、これも結果論ですが、鯛、蛸はよかったのですが海老は残り物を購入したせいもあるけど、頭が調理途中でもげたりして散々でした。
 さて、そんな感じで仕入れた食材でつくったおせち料理は次のようなものになりました。

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まず、、写真中央の鯛の塩焼き。これは、なんと内臓処理をお願いし忘れたので、自分で初めて捌きました。そのため、ちょっと見た目は悪かったですが、吉池で購入した金額が確か700円前後。近くのスーパーで調理済みの鯛が3000円ぐらいで売っていたので、見た目の悪さはどうってことない気分になります。そして、時計回りに左から行くと、左は栗きんとんです。そして、次の重は黒豆、数の子、膾+干し柿、菊花蕪、田作(カシューナッツ和え)、蛸と大根の煮物、その隣の重は蒲鉾(市販品)、海老の日本酒煮、ローストビーフ、昆布巻き、伊達巻、そして一番、右側は筑前煮です。
 ほとんどのレシピがクックパッドで検索したもので、本当、クックパッドのおかげでどれだけの家庭料理が向上されたか分かりません。そして、その家庭料理にはおせち料理も含まれる訳です。ということで、私の家に代々伝わるおせち料理という訳ではないですが、クックパッドのおかげで、日本人らしい正月を迎えることができるようになっています。前文に戻りますが、日本人の定義って難しいですが、宇宙人的にみると「日本語をしゃべっている」、「裸になってよくお湯に浸かる」、「家に入る時、靴を脱ぐ」と同じぐらい、「正月におせち料理を食べる」というのもその条件になるような気がします。そういう意味で、正月におせち料理を食べて、自分が日本人であると自覚すること、さらには、その極めて日本的な料理を次代に継承できるようにしておくことは、結構、重要なことかなと思ったりします。
 最近、記事を書く頻度が開いてしまって申し訳ないですが、本年も何とぞ、よろしくお願い申し上げます。

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BONNIE PINKのライブを初めて観る [ロック音楽]

BONNIE PINKが三年ぶりにライブをする。今後、いつライブをするかも不明だ。ということで、これはどうしても観なくてはならないと判断する。さて、会場は東京と大阪のビルボードである。当然、東京のライブ・チケットを購入しようと、オンライン予約の日をカレンダーにメモっておく。その日が来たので、さっそく購入しようとしたら売り切れていた。発売開始時間が10時で、私がネットにアクセスしたのが11時ぐらいだったので、あっという間の完売である。BONNIE PINKの凄まじい人気を知るのと同時に、大阪の公演をチェックしたら席がある。ううむ、大阪までわざわざ行くのは癪ではあるが、もう観れないかも、という焦りも手伝い、チケットを2枚購入する。
 さて、東京と大阪ではチケットの値段も違う。大阪の方が高いのである。というのは、大阪の公演日は12月24日であり、クリスマス・イブ・ディナーというものがもれなく、というか強制的についてくるのだ。こんないらんサービス、と思いつつ、まあ、それだから席が売れなかったということもあるだろう。
 加えて12月24日という公演日は最悪であった。というのは、そもそも一枚買えばいいところを、クリスマス・イブにビルボード、ディナー付きというのは、流石に中年男性一人で観るのは寂しいというか、浮きまくるであろうという判断があり、奥さんに付き合ってもらおうと考えて購入したのだが、なんと「そんなわざわざ大阪まで行くと疲れる」と言われて断られる。これはピンチだ。京都に住む知り合いの50代の独身男性を誘うが、断られる。そりゃ、何が悲しくてクリスマス・イブに中年男性と付き合ってBONNIE PINKを観なくてはならないんだ。よほどのファンでなければ断る気持ちはよく分かる。ということで、もうこれは愛人に捨てられた中年男性が一人寂しくクリスマス・コンサートを観るというような状況で鑑賞するしかないな、と思っていたらなんと高校二年生の次女が付き合ってくれるという。いやあ、それはそれで心配だが、まさに地獄の仏のような娘だ。ということでBONNIE PINK@大阪ビルボード@クリスマス・イブ。
 クリスマス・イブ・ディナーはシャンパンとプレートがついてくる。プレートはコロッケとキッシュと野菜スティックとローストビーフ。とりあえず、高額料金を取るためのアリバイのような料理だが、そんなことはどうでもいい。定時から5分ぐらい遅れてBONNIE PINKが出てきた。赤い髪でカラーコンタクトをしているイメージを持っている私は、初めてみるBONNIE PINKにちょっと驚いた。なんか京都で商売をやっている元気でちょっと綺麗な若女将といった風情だったからである。おしゃべりだが、それほど言うことは気が利いていなくてカリスマ性はまったくない。これが椎名林檎に先を越されたと言わしめた天才ミュージシャンか。
 さて、最初の曲はGimme a Beat。その次はクリスマス・イブということで、ポール・マッカートニーの「Wonderful Christmas Time」、ディーン・マーティンで有名な「Let it Snow」を歌った。そこで、またBONNIE PINKの曲に戻って「Try me Out」、「スキKiller」。そこで、またクリスマス・ソングに戻ってジャクソン・ファイブの「I Saw Mommy Kissing Santa Claus」。その後は、「Is this Love?」、ファンクラブ限定のCDに収録された「Heartbeat」、「Lullaby」。ここで、大ヒット曲である「Perfect Sky」を演奏し、「Rope Dancer」、「Evil and Flowers」、「Chain」。ここで終わって、アンコールはBONNIE PINKのクリスマス・ソングでもある「Orange」。
 コンサートの途中で本人自身が、皆が期待するような曲は演奏しない、と言っていたが確かにちょっとレアな選曲であったのかもしれない。とはいえ、私は初BONNIE PINKということもあり相当、楽しめた。新横浜と大阪を往復する交通費を考えても十分、私の期待に応じてくれたコンサートである。とはいえ、できれば東京のビルボードで観たかった。

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ブラック・クランズマン [映画批評]

スパイク・リー監督の最新作品は、ブラック・パンサーなどが台頭した1970年代頃を舞台としているが、現在のアメリカの政治状況を鋭く批判しており、極めて政治的な内容を含んでいるが警察ものとしてのスリリングな展開といい、映画としてのエンタテインメントの要素もしっかりと押さえている相当の傑作であるかと思われる。というか、ハリウッド映画としては最近、稀にみる秀でた作品ではないだろうか。50年くらい前のコロラド州コロラド・スプリングスを舞台としていても、その映画が描こうとしているのは現代のトランプ大統領を選ぶアメリカ人の人種差別意識の醜悪さであるし、また、思うようになかなか問題が解決できなくても、それでも前進するアメリカという社会の推進力でもあるかと思う。ぎりぎりの点数で単位を取得するダメ学生のような国だが、まあ、それでも及第点は取れているかな、ということと、そのような社会状況をこのように映画作品として描ける感性と才能と、それをバックアップする投資家がいるという点で、どうにかアメリカのメンツがぎりぎりで確保できているとでもいうべきであろうか。アメリカという国がなぜ、トランプ大統領を当選させたのかを理解するためには必見の映画であるだろう。ハリウッド映画としては、久しぶりに心から楽しめた。

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