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イタリアから学ぶこと [原発問題]

 イタリアを4日間ほどぶらぶらした。ベネツィア、シエナ、ボローニャと移動して、イタリアの強さを思い知らされたような気がする。イタリアでは、日本のように都市が効率よく機能していない。列車の指定席の券を買うのに30分以上もかかる。列車は時間通りには走らない。小売店でも水を買うのにも時間がかかる。日本のコンビニに慣れているものとしては大変じれったい。レストランでもチェックを頼んでから10分くらい待たされる。都市生活を送るうえでは、相当、ストレスをため込むことになる(これは、ドイツでも同様だ)。
 さて、しかし、イタリアと日本でどちらが生き残るか、と問われたら、圧倒的にイタリアじゃないか、と思うのである。イタリアは相当、適当である印象を受ける。日本人のように頑張らない。イタリアじゃあ、ブラック企業は成り立たない。皆、すぐ辞めてしまうからである。仕事とかで一生懸命、頑張る日本人からすると、イソップの「蟻とキリギリス」じゃあないけど、キリギリスのような国のように映ると思う。
 それでは、なぜ「蟻」の日本ではなく、「キリギリス」のイタリアが生き残ると私が思うのであろうか。それは、イタリアは「これをやったら不味いよ」という一線を越えない範疇で社会を回しているからである。たとえは悪いかもしれないが、マリワナはやってもLSDには手を出さない、みたいな感じか。私が何を言おうとしているかというと、現代経済の最強の麻薬である原子力発電所と戦争のことである。特に原発だ。
 現在の日本は、あまりにも経済成長という価値に重きを置きすぎている。既に社会は成熟し、資本主義もほとんど需要を創り出す余地がないほど発展し、それでいて依然として中国と同じような経済的価値を追求している。その結果、ブラック企業やらが跋扈したり、過労死が発生したりするような状況になってしまっているのである。そのように経済成長に雁字搦めになってしまっているから、原発というモンキー・ビジネスのようなぼろい商売から手を洗えなくなってしまっているのである。
 しかし、原発はその国土を完全に汚染する。チェルノブイリと福島の事故が我々に教えたのは、原発の事故は推進派が主張するように1万年に1回起きるか起きないか、じゃなくて25年に1度ぐらいの頻度で起きるということである。飛行機の墜落事故のようなものだ。そんな危ないものを、目の前のボーナスが減ったからといって再稼働させるなんて、悪魔に魂を売ったも同然の行為だ。それにしても、悪魔に魂を売るにしては、随分とせこい話だ。まあ、これは、悪魔はその魂を売った人だけじゃなくて、その地方全員、下手をしたら国民全員、さらに下手をしたら人類、いやいや地球の生きとし生けるものすべてに罰をもたらすから、そういう意味では魂を売ったもの勝ちなのかもしれない。
 なぜ、私の母国である日本が、このようなことを平気でやれるのかが分からない。自分の国の将来を担保に入れることなど、誰にも許されることではないと思う。これは根本的な人間だけでなくて、生物の原理なのじゃないだろうか。翻ると、イタリア人はどうもそういうことが分かっている。シエナのパーリオの伝統行事を、今でも喜んでやっている人々をみたりすると、そういうことなのかな、と思う。
 イタリアの美しい街並みは素場らしいと思う。ただし、ドイツも街並みは相当、美しい。しかし、これらの美しい街並みは第二次世界大戦で相当、破壊された。ドレスデンなどは勝負が決した後に爆撃された。ボローニャの美しい歴史的街並みをみると、イタリアはすぐに負けを認めて、結果的によかったな、と思うのである。日本の街並みも相当、美しい。しかし、日本は、イタリアはもちろんのこと、ドイツよりも頑張ってしまった。敗戦を受け入れるタイミングを遅らせた。その結果、美しかった都市は恐ろしく破壊されてしまった。今、東京で我々がちょっといいな、と思う街並みというか空間構造を維持しているところ、例えば神楽坂や下北沢、白金台は、すべて爆撃を受けなかったところである。
 イタリア人は日本人のように頑張らないで社会を回している。したがって、日本人の方が生産性も高いし、ストレスが少なく、都市生活を行うことができるであろう(ラッシュ時の満員電車などの問題があるが)。しかし、その結果、日本人の方がイタリア人より幸せであるようには、とても思えない。そして、将来がまったく見えない日本に比べて、ルネッサンスの時代の伝統行事を現在に引き継いでいるイタリア人の方が、よっぽど将来が見えていると思う。それは、進歩をしないで現状を維持させていくという生き方である。
 経済活動にあくせくしている日本人やアメリカ人が、なぜイタリアに惹かれるのか。それは、彼らの生き方が失わせてしまったものを、イタリアに見出すからではないだろうか。そして、イタリアのような生き方や価値観が、原発を設置しないことは、至極当然なんだろうな、という風に考える。これは、経済大国であるドイツでもいえることで、ドイツは経済大国ではあるが、金儲けだけで原発を再稼働するほどエコノミック・アニマルにはならない。日本より、より大局的な世界観を有している。
 私は以前、『サステイナブルな未来をデザインする知恵』という本を上梓した。そこで取材したドイツ人やベルギー人は、日本こそ人類がサステイナブルに生きる知恵を有していると思う、と言っていた。私は、自分が日本人であることを誇りに思った。しかし、原発事故で、そのように思われていることは、ただの過大評価、というか、そのように思われる資格もないことを思い知らされた。自分が、日本人よりイタリア人の方が羨ましい、などと50歳を越えて思うとは、ちょっと信じられない。日本人であることが誇りではなく、恥ずかしい時代になってしまっている。


サステイナブルな未来をデザインする知恵

サステイナブルな未来をデザインする知恵

  • 作者: 服部 圭郎
  • 出版社/メーカー: 鹿島出版会
  • 発売日: 2006/04/14
  • メディア: 単行本



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