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京浜急行が駅名を変更することを検討している話を聞き、都市のアイデンティテイを考える [都市デザイン]

東京の品川から横浜を抜けて横須賀、浦賀とを結ぶ京浜急行電鉄が創立120年を機に、46駅の駅名変更を検討しているそうだ。この駅名の候補としては先月の10月に小中学生を対象として新駅名案を募集したそうだが、まったくもって何を意図しているのだろうか。
 まず、これは京浜急行にとっても地域にとっても利することがまったくない、大愚行である。地域の名前は、地域にとってのアイデンティティであり、名前にはその地域の風土、歴史といった物語が凝縮されている。それを変えるというのは、その地域の重要なアイデンティティを放棄することであり、安易に変えるべきではないし、それを小中学生に丸投げするなどというのは、京浜急行がいかに地域住民や地域のことを理解していないか、配慮していないかを露呈している。百歩譲って、地域住民が駅名を変更して欲しい、という要望があって、それを踏まえたうえで小中学生だけでなく、地域住民全員を対象に新駅名を募集するのであればまだしも、なぜ小中学生なのか。東京新聞の2018年11月2日の記事では、京急広報部は「次世代を担うお子様に広く声を伺う企画」と言っているが、子供達は大人になったら京急沿線を出ていく可能性は高い。むしろ、この沿線を終の棲家としている人達に聴いた方がいいと思う。そして、小中学生はその沿線の地域のことをろくに知っていない。私は大学生を対象に、彼らが日々過ごすキャンパスに対してのアンケート調査をしているが、「銀杏が臭いので並木道はなくして欲しい」とか一番、キャンパスで守りたいところは「喫煙所」など、ほとんどキャンパス・デザインに通じる意見を伺うことはできない。あと、よく街の人は若者のアイデアに期待というが、日々、若者と接してる身からすると、若者よりオヤジの方がよっぽどアイデアが出てくる。小中学生は無邪気ではあるが、無邪気であるがゆえに、その町のことを駅名などを通じて勉強する機会をむしろ提供してあげるべきであろう。駅名を決めるなどもっての外である。少なくとも、地名は小中学生のコンテストで決められるようなものではない。そして、これから沿線の住民も高齢化していき、そうでなくても物忘れが激しくなり、それまでの記憶で生活環境を理解しようとしている中、鉄道会社の勝手な思い込みで駅名を変えるというのは、あまりにも高齢の沿線住民に配慮がなさすぎであろう。
今回、駅名変更の対象となっている駅には、雑色、青森横丁、大森海岸、梅屋敷、糀谷、子安、仲木戸、日出町、黄金町、六浦、追浜など、もうその名称に言霊が溢れているような駅名も多い。このような言霊がある地名というのは、それだけでアイデンティティをぷんぷんと放ち始めて、その地域に対するイマジネーションがぶわっと広がっていく。そして、そのようなアイデンティティが発現できてこそ、そこの地域はブランド的価値を発信できるのである。そんな基本的なことも京浜急行は理解していないのだろうな。くるりの「赤い電車」の歌が泣く。
このような名前を変更することは、植民地を支配した側が、地域の力を弱体化させるために使う常套手段である。なぜ、沿線住民が高齢化し、今いる人達を大切にしなくてはいけない生活サービス提供者がこのような愚行に走るのであろうか。
 京浜急行にとっても、今回の試みはほとんどメリットがない。まず、おそらくろくな名前が出てこないだろうが、小中学生に期待を持たせて応募させたからには、これはもう実践させなくてはならない。駅名変更をするには、相当のお金がかかる。看板代だけでも相当のものだ。もしかして、社長の息子が看板屋の社長でもしているのだろうか。まあ、これで得するのは看板屋とか印刷屋だけであろう。通常、駅名変更は、地元や地元の学校などがスポンサーになって初めていやいややるようなことだが、今回はどうも地元への根回しもなく、勇み足で京浜急行が始めたようなので、地元からの不平不満は京浜急行に向けられるであろう。
前述したが、高齢者は生活空間の空間記憶の重要な拠り所である駅名を失ってしまうので、鉄道での利用が以前に比べて不便になり、他の交通手段を利用したり、また場合によっては高齢者引きこもりになるかもしれない。いや、認知症の患者にとっては、駅は重要な空間記憶の碇のようなものなので、これは人々が思ったよりも深刻な状況をもたらすのではないかと考えている。結果、京浜急行の高齢者の利用率は下がるであろう。
鉄道会社のような公益性の高い企業、特に地域が存在することで始めて成立する企業は、地域のアイデンティティとかをもっと配慮しなくてはならない義務がある。京浜急行が走っているから、その駅があるから、その周辺に居を構えた人も多い。これから、高齢者が増えていくのに、認知症の問題とかもあまり理解できず、その地域のアイデンティティの重要性が分からない小中学生に名前を委ねるというのは、家族で寿司屋に行った時に家族の注文を小中学生の子供の意見に従うような愚行である。これは、例えば、新馬場で私が好きな小料理屋「牧野」の素晴らしさや、黄金町の三大ちょんの間の混濁したような歴史がその地域のアイデンティティ形成に寄与していることの詩情などは、到底小中学生では理解できないと思われるからだ。いや、理解できる小中学生はいるかもしれないが、いたらいたでそれはそれで嫌である。
 私は縮小都市の研究をしているが、都市が縮小する時、優先的に守るべきものはその都市のアイデンティティであり、例えば旧東ドイツの縮小都市においても、その点を何しろ死守するような政策を採用しているし、それに成功したところはどうにか人口減少が収まったりしている(コットブスやライプツィヒなど)。人口が減少するのと同時に、アイデンティティが希薄化していくと、人口の減少は加速化していくだけだからだ。京浜急行の沿線は人口が減少してはいないのかもしれないが(横須賀市は相当、減少しているが沿線から離れた谷戸地区である)、その地域ブランドは落ちていくであろう。田園都市線のようにマーケティングで地域ブランドをつくれると思っているのかもしれないが、田園都市線は畑と牧場と森といった都市ではないところを新たに開発していったので、無から有をつくりあげるという過程をとった。京浜急行電鉄は、もしかしたら自らの沿線は工場地帯だったりしたので、昔のそういうイメージを払拭もしたいと考えているのかもしれないが、120年の歴史はそのようなマイナスなイメージをも包含させて、今日の都市へと地域アイデンティティを繋げているのだ。だから、田園都市線沿線よりも京浜急行の沿線の方が都市のエレメンツがずっと豊穣ではないか。能見台とかのように豊穣でないところはあるかもしれないが、くるりは京浜急行では歌がつくれても田園都市線では難しいと思う。それは田園都市線にはマーケティングはあっても詩情は本当にないから。あるのは、玉電が走っていた二子多摩と渋谷の間くらいでしょう。
 せっかく、そのような沿線風土を有しているにもかかわらず、自らそれを壊そうとするのは愚の骨頂であり、こういうことを続けていくと、日本の地域性がどんどんと失われていくと思われる。ただ、どちらかというとこういう愚行をするのは地方都市で、多くの場合、それで自らの首を絞めているのだが、東京にもそういう馬鹿がいたかと思うと、地方都市の人はちょっと嬉しいかもしれない。いや、結局、どちらにしても日本がダメになっていくだけですが。
 納得できないようであれば、これから皆が京浜急行を西東京湾鉄道に変えてしまうと言われたらどう思うだろうか。じゃなければ横須賀急行でもいい。横浜と横須賀をとって、横横電鉄でもいい。おそらく、京浜急行の人達は嫌がると思うのである。名前を頻繁に変える人がいたりするが、私はそういう人はどこか後ろめたいものがあるのではと勘ぐっている。自分の過去を消去したくなるような。少なくとも、私は自分の名前を変更するうえで、子供達に決めさせたりしないな。そもそも、自分の人生はつまらなくくだらないものだと自覚しているし、自分の名前も本当、ださいと思っているが、それでも変えるつもりはない。それは、私の人生を私の名前は良くも悪くも包含していて、私のアイデンティティの一部であるからだ。つまらなく、くだらない人生ではあるが、名前を変えたら、それがバラ色に輝くようなものでも決してない。

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国際日本文化研究センターを訪れ、内井昭蔵氏の図書館設計の理念を少し知ることができた [都市デザイン]

京都の洛西ニュータウンのそばにある国際日本文化研究センターを訪れる。同センターは、「日本文化を国際的な視野にたって学術的、総合的に研究するとともに、世界の日本研究者に研究情報の提供などの研究協力を行うことを設立趣旨としている」。この施設は、当時のセンター長であった梅原猛がその設計者として内井昭蔵に白羽の矢をたて、一般的には内井氏を代表する作品として捉えられている。
 内井氏の著書『装飾の復権 - 空間に人間性を』(彰国社 2003年)には、随分とこの国際日本文化研究センターに関してページが割かれている。また、『続・健康な建築』にも多くが語られている。ということで、是非とも視察したいと考え、見学申請書を提出し、写真撮影とともに資料の入手などもさせていただいた。
 同センターは研究棟、国際交流棟、講堂、図書館・図書資料館、日文研ハウス(宿泊棟)、情報・管理棟、福利施設棟とから構成されている。
 どれも、細部にまで繊細な神経で拘っており、そのヒューマン・スケールで優しい建物群は、そこにいると安堵感を覚え、初めて訪れた場所であるにも関わらず、居心地のよさを感じる。しかし、これは内井氏の建築の中で15年間仕事をさせていただいた私が感じるノスタルジック的な心地よさかもしれないので、ちょっと主観が入っているかもしれない。
 このセンターの中心に位置するのが図書館である。図書館は、大英博物館のようなものをつくって欲しいという要望が内井氏の方にあったようだが、出来たものは一目でアスプルンドのストックホルム市立図書館を意識していたことが分かる。中央のカウンターの設計、そして何より外観のロタンダの意匠がそっくりである。パロディなのではないかと思うぐらいなのだが、同センターの人の一部は、いやそんなことはない、と否定する人もいるようだ。ちなみに、このセンターがつくられた時に若い研究者であった井上先生にちょっとお話をさせていただく機会があったのだが、彼が内井先生に「アスプルンドですよね?」と尋ねたら、ニコッと笑って返したそうだ。
 さて、内井氏は大学の設計において非常に重要視するのが、図書館であり、それは、このセンターの設計にもみてとれる。内井氏は、図書館に関してはヴァージニア大学を参考にしていると幾つかの著書で書かれている。この図書館は拡張性のシステムがしっかりと計画に入っており、内井氏が設計された後も蔵書が増えるに従い、第一次増設、第二次増設と行われている。現在75万冊の蔵書があるそうだが、まだまだ収容する余地はあるそうだ。ちなみに、第一次増設時は内井設計事務所が担当したが、第二次増設は内井事務所とは関係ない設計事務所が担当した。
 内井昭蔵氏の建築の真骨頂は、その細部への拘り、その空間への利用者への温かい眼差し、そして細かい配慮であると私は思っているのだが、増設部分は、時期がずれるにつれ、その個性は薄らいでしまっているような印象を受けた。しかし、これは予算の問題もあったかもしれない。同センターが設計された時は、バブル経済の最中、しかも当時の中曽根首相の肝煎りのプロジェクトであり、センター長も当時は梅原猛である。そして、内井昭蔵氏に梅原猛は入れ込んだ。そのような中、梅原猛も内井氏を選んだことで批判を後にされたくなかったのであろう。内井氏は相当、思い切って、自分の建築理念をこの場所で具体化させることができたのではないか、と考えられる。とはいえ、このセンターの井上先生の話によると、「もうちょっとしたいことがあった」と彼に漏らしたことがあったそうである。何が言いたいかというと、内井氏が設計した図書館はすこぶる素晴らしいが、増設するに従い、その素晴らしいエッセンスが希薄化しているということだ。
 図書館に話を戻すと、システムの中心において、その後、しっかりと周辺に拡張できるという設計コンセプトを内井氏はヴァージニア大学でヒントを得た。これは、同じ内井昭蔵氏が設計した明治学院大学の白金キャンパスの本館でも同様に考えられた、と明治学院大学に内井事務所が提示した資料にも明記されている。それで、同大学の管財部もヴァージニア大学にまで視察に行っている筈だ。私はまだヴァージニア大学を訪れたことがないので、その点ははっきりと分からず、そのために明治学院大学の図書館においてどのような拡張性が意識されていたかが理解できていなかった。
 少し、話が横道に逸れるが、私は現在、内井昭蔵氏がどのように明治学院大学の設計プランを考えられ、それを具体化していったのかといったことを調査研究している。その背景は、ここでは述べないが、そのような調査研究を始めたきっかけは、ある私の元同僚の先生との会話であった。
 この同僚の先生は、白金キャンパスの本館の設計を批判していた。「こんな大学の設計はなっていない」と主張をしていたのである。私は、正直、内井昭蔵氏の設計した建物で日々、過ごしていてむしろ本当、幸せだなと思っていたので(この気持ちは、今の龍谷大学深草キャンパスで過ごしているとより強く、感じる)、彼のこの主張に関心を抱いた。そこで、私は「先生、この本館の建物のどこが気に入らないのですか」と尋ねると、彼は「一番の問題は図書館である。この図書館には拡張性がない」と言う。私は、「それでは先生はどのような大学の図書館がいいと思われるのですか」と再び問うと「ヴァージニア大学だ。あそこは素晴らしい」と答えられたので、まあ、心底、愕然とした。なぜなら、内井昭蔵氏がまさに明治学院大学の図書館のモデルとしたのがヴァージニア大学であるからで、この先生は本当に大学の先生なのか、こんな先生に教わる学生達は悲惨だな、と呆れ果てたのだが、ただ当時、私は確かにこの図書館には拡張性はないかな、と思ったのと、この大学の図書館のモデルがヴァージニア大学ですよ、と言うのも面倒臭かったので、それ以上、会話を続けなかった。
 ただ、この経験は私に二つのことを教えてくれた。一つは、建築に関して無関心な人はほとんど建築の良し悪しが分からないな、ということ。もう一つは、そのような分からない人に対して、やはり、しっかりと建築家の思想などをまとめて発信する必要があるな、ということである。私が建築の専門家でもないのに、内井昭蔵氏の明治学院大学のキャンパス計画の研究を始めたきっかけは、この会話だけではないが、その結果、私が自分に課した研究テーマの一つとして、明治学院大学の図書館の拡張性を内井氏がどのように考えていたのか、を入れることにした。
 そして、それを解明する大きなヒントが、このしっかりと拡張性のシステムを確保し、実際、拡張をした国際日本文化研究センターを訪れて得られた。それは、明治学院大学の図書館に隣接した教室、もしくは研究室を図書スペースと拡張するということである。まだ、明学の図書館には蔵書スペースが余っているので問題がないが、もし埋まったら、その隣接している回廊スペースを図書の蔵書スペースにすればいいのである。もちろん、そうすると教室が減るかもしれないが、それらの教室や研究室をむしろ建て増しすれば問題は解消する。特に、研究室に関しては、現在のヘボン館を改築した時に高さを増して収容することができる。
 そこらへんをどの程度、本人が意識をしていたかは分かりにくいが、拡張性が硬直化してできないような設計ではまったくないと思う。
 まったく建築的な理解がなく、それなのに堂々とお門違いでフェイク・ニュース的な発言を主張できるトランプ並みの厚顔無恥な同僚が一緒であったことは、私にとっては不幸であったが、その彼のお陰でいろいろと内井昭蔵氏の素晴らしい建築を見るきっかけをつくってくれたことを考えると、それはそれで悪くなかったかな、と思ったりもした、国際日本文化研究センターの訪問であった。

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ドイツのクラインガルテン事情 [都市デザイン]

 ライプツィヒに来ている。都市周辺には本当、クラインガルテンが多い。ライプツィヒはクラインガルテン発祥の都市である。ということで、簡単に調べてみた。
 クラインガルテンは組合によって管理されている。年会費は25ユーロ前後。ただし、光熱費等が年間300ユーロぐらいかかるので、都市にもよるが大体、日本円で年間5万円弱ぐらいだろうか。面積的には100㎡〜300㎡だそうだ。借りられる期間は25年ぐらい。結構、人気があるそうでウェイティング・リストもあるそうだ。ただ、ドイツも高齢化が進んでいるので、クラインガルテンの管理ができなくなってきている人も増えているようなので、比較的、借りやすくなっているそうだ。また、基本、有機農業をしなくてはならず、化学肥料の利用は駄目で、水もほとんどを雨水で賄っている。さらに、コンポストもしなくてはならない。しかし、これはクラインガルテンの組合の考え方にもよる。通常、泊まってはいけないがそれほど厳しくチェックはされていない。ライプツィヒでは3万ほどあり、これは人口比でいうと6%程度。この割合は他の都市より高いそうだ。

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(クラインガルテン:ただし、ライプツィヒのものではなくケムニッツのもの)
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オランダの道路は狭い・・・コンパクト・シティに広幅員の道路はあり得ない [都市デザイン]

オランダの住宅街を自動車で移動していたのだが、道幅が相当狭いので驚いた。そして、中央分離線も引かれていないので、なんか不安になってスピードを出すことも難しい。高速道路はしっかりと広幅員であるが、高速道路を下りると、バスやトラックが通るような幹線道路でも狭いのである。自転車道や歩道は別に平行して整備されているので、広げようとすればできるだろうが、そうしていない。
 そして、その結果、ヒューマンな空間がつくられている。オランダの都市はコンパクト・シティのプロトタイプとして、コンパクト・シティを具体化しようとする日本の自治体も注目していると思われるが、この道路幅員の狭さはコンパクト・シティの重要な要件であろう。広幅員の道路を整備して、コンパクト・シティをつくるのはあり得ないと思う。コンパクト・シティであれば道路もコンパクトでなくては・・・。こんなことは、ちょっと考えれば当然かと思うが、日本の都市は広幅員の道路をコンパクト・シティを掲げていてもつくってしまうからな。その矛盾をオランダの住宅街の道路幅の狭さを観察し、再認識する。

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アムステルダムにある女性問題の唯一の国立研究所であるATRIAを訪れる [都市デザイン]

アムステルダムにある女性問題の唯一の国立研究所であるATRIAを訪れる。ここは英語で訳すとInstitute on Gender Equality and Women’s History。女性問題の研究、そして政策提言をしている機関である。図書館もあり、蔵書数も非常に多く、10万点以上の文献を有しているそうだ。そして、ここでは情報提供以外に現在の女性地位の評価などの研究もしている。ここにくれば政策決定者や女性問題に取り組んでいる人達は、女性問題に関する統計情報を入手することができる。女性のイメージ、暴力、仕事などを大きなテーマとして扱っている。アトリアが目標としているのは、男女間の平等を実現することである。
 ATRIAの説明によると、日本の女性就労率は66%、それに比してオランダは74%。そして、男女の給料格差であるがオランダは16%、日本は26%である。ちなみに16%というのはOECDの平均の数字とほぼ同じということである。これが少ない国はベルギーとかルクセンブルクである。ベネルクス3国の中ではオランダは後塵を拝している。
 オランダの女性労働市場進出の特徴としては、女性は多くがパートタイムであり、そのうちの半数が自立で生活できない。加えて、企業やトップの管理職の割合をみると女性の進出具合は今一つである。ATRIAの見解だと、女性が家事などをするので、パートタイムで甘んじなくてはならない状況にあると考えている。男性と女性の権利は平等ということは認められているが、労働市場だと家事を女性が押しつけられるので、なかなか女性の労働進出が厳しい状況にある。
 家事とお金を稼ぐこと、そして学ぶという3つをうまくバランス取って回していく、ということを女性だけでなくて男性もしなくてはならない、とATRIAは主張している。ジェンダー間のバランスが不均衡であることを是正しようとしているのだ。特にジェンダーのステレオタイプを壊すことに取り組んでいるそうだ。福祉関係の医療などだと、汚い、きつい仕事であって女性がやるべきだと考えられたりしているが、そういうことを是正しようとしている。
 2015年に男女格差の雇用状態を調べたのだが、現在は30.7%が平等ではない。傾向としては、男女格差は減っているが、まだ道のりは長い。これはヨーロッパの他国に比べても劣っている数字だそうだ。
 15歳〜64歳までの女性の就労率は1980年代前半は35%であったが2018年では71.3%にまでほぼ倍増した。このような就労率の増加はオランダはパートタイムの仕事で働く人が多いからだ。しかし、ヨーロッパの中でもこの女性のパートタイムの割合がこんなに高いのはオランダだけである。
 ワークライフバランスに関してであるが男性は仕事と家庭の割合は6対4,女性は4対6となっている。
 そのような状況下で、どのような解決をATRIAは提言しているのか。
まず、ステレオタイプの瓦解を促進すること。そのため、女性らしくないロールモデルを広報すること。また妊婦への偏見を是正すること。加えて、父親も子供ができた時は有給で2週間休めたが、来年度から5週間に延長できるようにしている。とはいえ、この日数はスカンジナビアの国に比べると少ないので、さらに延長しなくてはならないと考えている。
 全般的に男女格差が少ない国は、アイスランド、スウェーデン、ルワンダだそうだ。これら三国はすべて訪れたことがあるが、印象論ではあるが、結構、納得できる。

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ウォリアーズ対ロケッツの第七試合を観ようとDAZNに登録したら、観れなかった [都市デザイン]

今日はゴールデンステート・ウォリアーズとヒューストン・ロケッツの西コンフェレンスの第七戦だ。負けたらそこでシーズンは終わる。いや、第六戦も2勝3敗で負ければおしまいだったが、ホームで負けることはあまり考えられない。案の定、前半こそ10点差で追っていたが、第3クォーターを33対16というダブルスコアで逆転すると、第4クォーターは31対9。圧倒的な勝利で最終戦を迎えることになった。さて、しかし、第七戦は敵地ヒューストンでの試合である。これまで第一試合には勝てたが、第二試合、第五試合と負けている。これは、流石に不味い。もし負けたとしても、ファンとしてはしっかりと見届けなくてはならないと思い、DAZNで視聴しようとした。去年もDAZNに加入して、プレイオフの試合を数試合、観たことがあるからだ。

新幹線に乗っているが、ネットには繋がっている。試合はもう第三クォーターが開始したところだ。急いでDAZNに加入する手続きを取る。一ヶ月で1890円だが、私にとっては、今、この一試合でも1890円の価値はあるし、また、NBAの決勝を観るのも悪くはないだろう。ということで購入する。さて、急いで、バスケットボールのページに行くと、なんとNBAの試合のテンプレートがない。Golden State Warriorsで検索すると、そのチームの試合はないとのこと!なんてこった。まさに金をドブに捨てたようなものだ。とはいえ、試合は進んでいる。NBA.COMでは以前、会員になっていてウォリアーズの試合を観れたりしたのだが、翌年、勝手にグレードをアップ(料金も高くなる)した契約を結ばれて怒って止めたという経緯があるので、入会したくなかったので一試合だけ観ようと思ったら、どうも楽天が入り込んでいて、一試合だけの購入が出来ない、もしくは極めて分かりにくくなっている。ということで、せめてポッドキャストでも思ったら、うまく見つけることができなかった。ここで堪忍して、NBA.COMのテキストの実況中継をチェックすることにした。これは、まったくスリリングではないが、同時体験をすることはできる。この試合も第二クォーターまで54対43とリードされていたが、第三クォーターで33対15でダブルスコアの逆転をすると、そのまま押し切って101対92で勝利した。

ということでウォリアーズは4年間連続で決勝に臨む。1990年代の感動的な弱さからは信じられないような強豪ぶりである。いやあ、長生きすると何が起きるか分からない。とはいえ、今日の試合は決勝を含んでも、今シーズン一番、観るべき試合であった。それがみえなかったのは悔しいなあ。

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生まれて初めて竹の塚を訪れる [都市デザイン]

生まれて初めて竹の塚を訪れる。私事であるが、三ヶ月に一度、埼玉県の越谷市にある獨協医科大学の付属病院に通っている。ということで、竹の塚はそのたびに通っていた。とはいえ、それほど関心を持っていなかったのだが、4日前、知り合いの広告代理店の人達と下北沢に飲みに行った時に、竹の塚は治安が悪くて有名なのだ、という話を聞かされ、「えっ!そうなの」と驚いたので、早速、今日、獨協医科大学での定期検診の後、竹の塚で途中下車をしたのである。

竹の塚という名前は前から知っていた。というのも、中学時代、私は東横線の学芸大学に住んでいて、その頃、日比谷線が東横線と東武伊勢崎線の直通乗り入れをしており、東横線側は日吉まで、東武伊勢崎線は竹の塚にまで乗り入れをしていたので、私が乗る日比谷線は北千住か竹の塚行きであったからである。さらに、高校時代の同級生が竹の塚出身であったことも、その名前を記憶させるきっかけとなった。確か、竹の塚中学出身であったと思う。彼の家に遊びに行ったことはなかったが、団地に住んでいると言っていた気がする。あと、大学時代の友人が柏の方に住んでおり、よく車で送っていたことがあったのだが、竹の塚の有名な開かずの踏切を何回か横断した記憶がある。その後、この開かずの踏切では人身事故などもあったりして、ニュースでも取り上げられたのは覚えている。

とはいえ、これくらいの記憶である。今回も、てっきり西新井より北千住側だろうと思っていたら、草加側であったので驚いたぐらいである。竹の塚の駅は工事中であった。これは、どうも踏切事故に対応しての高架化、ホーム大工事の一環のようである。とりあえず東口に降りると、目の前には大きなバスターミナルがあった。まるでJRの駅のようである。そして、目の前には大きな団地が聳え立っている。しかし、高層ビルはこの団地だけであり、新越谷や北千住の駅前にあるような高層の商業ビルは一切無い。とてもフラットな感じの駅前である。おそらく、ここに駅が出来た時は、この一帯は田んぼであったのだろう。

そして、多摩ニュータウンや田園都市線沿線のような郊外の臭いはしない。おそらく、昔から人々がここで農業などに営んできたからではないか。山や谷を無理矢理、開発した暴力性のような匂いは、お昼に訪れたからかもしれないが、私はあまり感じなかった。とはいえ、自然的な感じもせず、工業地区のような人工的な印象は受ける。練馬や板橋に感じる武蔵野らしさはまったく感じられない。むしろ、葛飾や江戸川といった千葉、利根川的な風土を感じる。

気づいたのは物価の安さであり、ランチ定食が500円で提供されている。大学の生協より安いのではないだろうか。さらに驚いたのは不動産の価格で、3LDKの70㎡ぐらいの集合住宅が1800万円ぐらいで買うことができる。23区内でこの安さは驚愕である。東京は不動産が高いと言われたりしているが、なんてことはない、東に行けば相当、安い。逆にいえば、ここで1800万円の値段で買わずに他で買いたがる消費者心理とは一体、どのようなものなのだろうか。駅の周辺だけをぐるぐる回っただけであったが、珈琲焙煎屋はあるし、比較的美味しい個店系のラーメン屋もあるし(ここで、昼食をした)、多くのチェーン店もあるし、スーパーは西友である。銀行も三菱東京UFJ銀行がある。すなわち、生活利便性という点だけでは、むしろ田園都市線沿線の駅に比べても何ら遜色はないように思えるのだ。やはり、治安が悪いということが、この物価の安さと関係があるのだろうか。とはいえ、定年退職後、お金に不安であれば、退職金でここらへんの安マンションに入ったら生き延びることはおそらくできるだろう。同じ23区ではあっても、目黒区に住んでいると不安になるが、竹の塚に行けば生き延びられるような気がする。

竹の塚は「足立区のマニラ」と呼ばれているらしい。実際、急行も停車しない私鉄駅であるにも関わらず、多くのフィリピン・パブが集積していた。ホスト・クラブもあった(これはフィリピン男性ではなく、日本男性が働いているような印象を与えたが、実態はどうかは不明だ)。とはいえ、乱立するこれらの水商売系のお店の看板はちょっと不快感を覚えさせはするが、治安が悪いといった印象までは与えない。まあ昼に訪れたからかもしれない。

とはいえ、私が勝手にイメージをしていた竹の塚と、実際、体験した竹の塚とは大きな乖離があった。もう少し、東武板橋のような町並みをイメージしていたので、その団地的景観、バスターミナルの大きさ、土地利用密度の低さ、フィリピン・パブなどが集積している乾きなどは、想像外であった。そして、何より、不動産をはじめとした物価の安さは感動的ですらあった。北千住も最近、注目されているし、そのうち、この値段の安さから考えると竹の塚の人気も上がるのではないかとさえ思った。その時、ジェントリフィケーションが起きて、フィリピン人が追い出されないといいのと、そうなると私が貧乏老人になった時に竹の塚にレヒュジーできなくなると困るな、と思ったりもした。まあ、そんな心配はいらないか。東京オリンピックが終わり、消費税が10%になったら、人口減少トレンドにある日本は、東京を含めて不動産大不況になることは間違いないと思われるからだ。

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(駅を降りて東口に出ると目の前に巨大な団地のような建物が屹立している)

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(やたら立派なバスターミナル)

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(駅周辺の商店街)

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(巨大な団地のような建物の裏には広大な駐車場が広がる)

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(駅の北口の踏切)

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(感動的に安い不動産)

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(これが悪名高い開かずの踏切。上下線で踏み切りのシステムが分かれているのは、なかなか鋭いアイデアだと思った)

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(フィリピンパブ多し。またホスト・クラブもあった。そういうニーズがある街なのかとも思うが、フィリピン・ホステスもこの不動産の安さだと住みやすいかと思う。)

タグ:竹の塚
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東横線の渋谷駅があまりにも不便になったので、初めてバスで帰ってしまった [都市デザイン]

東横線沿線に住んでいる。しかし、渋谷には最近、めっきり行かなくなった。これは、東横線の渋谷駅が地下化して地上に出るのが億劫になったからだ。それまでは山手線に乗り換えるのも渋谷駅を利用していたが、最近では恵比寿駅を利用することが多くなった。これは、渋谷駅の乗り換え抵抗が私にとっては160円以上あるという証明になっている(恵比寿駅で乗り換えるとメトロ分、160円余計にかかる)。というか、そもそも山手線を使わずに副都心線をなるべく利用するようになっている。どちらにしろ渋谷駅には行かない。特に飲みに行ったり、食事をしに行ったりはしなくなった。
 さて、しかし、それでもたまに渋谷駅に行かなくてはいけない時がある。その理由は大きく3つある。一つ目はギターの弦とかピック類を買いに行くときである。渋谷はギター屋が集積している。他には都内だとお茶の水にも集積しているが、流石に渋谷駅が地下化して不便だとはいってもわざわざお茶の水に行くよりは便利である。ということで、そのようなニーズがある時には渋谷駅に行く。同じようにギターの修理に行く時も渋谷駅に行く。私は、ギターの修理は渋谷のESPと決めているので、そこに持って行く。二つ目はアップルストアに行くときである。銀座の方がサービスはいいが、流石に渋谷と銀座だと渋谷の方が近い。そして三つ目であるが、CDを買いたい時には渋谷のタワーレコードに行く。タワーレコードのメンバーズ・カードの効果が結構あるのかもしれない。
 また、時折、コンサートでオーチャード・ホールやらNHKホールとかにも行ったりするが、まあそれぐらいである。特別な「買回品」を購入するような時にしか渋谷には行かなくなっている。東横線沿線に住んでいても、渋谷駅は地下化によって随分と遠くなった。これは私が年を取ったこととも多少、関係があるかもしれない。
 今日、また渋谷に訪れた。ギター関連の小物を購入しなくてはならなかったからである。そして、帰路につこうとした時、東横線の渋谷駅まで行くのがとても面倒な気分になったので、生まれて初めて渋谷駅から田園調布駅のバスに乗ることにした。時間はおそろしくかかるが、なんか東横線に乗るのがとても億劫になったからである。
 東急は渋谷駅を地下化することで、高層ビルが建設されるようになってほくそ笑んでいるのかもしれないが、渋谷駅に行く気持ちを沿線住民からこれだけ削いでいるということに気づいた方がいいかもしれない。まあ、結局、バスに乗っても、それは東急バスなので東急は私のこのような不平も痛くもかゆくもないだろうが。まさに蛙の面に小便をしているような虚しさを覚えなくもないが、とりあえず不平をここに書いておく。

タグ:渋谷駅
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ランディ・ヘスターとエコロジカル・デモクラシー [都市デザイン]

ランディ・ヘスターが著した都市デザインの大著『エコロジカル・デモクラシー』の出版記念イベントに参加した。ランディ・ヘスターはバークレイ時代の先生であるのと、私はランディ・ギャングといわれる強烈な女子学生グループになぜか白一点で入っており、セミナーに参加し、彼が行く学会に同行してたりしていた。ということで、あまりにも近いので、彼はいい先生ではあるが、現状の日本での高評価には正直、違和感を覚えている。親戚のおじさんが大スターになってしまったような感覚である。
 さて、しかし、この『エコロジカル・デモクラシー』は凄い本である。私も流石に多少、公式の場で、「元学生の分際でこのようなことを述べるのは不遜ではあるが、この本はジェイン・ジェイコブスの『The Death and Life of Great American Cities』やケビン・リンチの『The Good City Form』と同じレベルにあると思います。ジェイコブスやリンチは伝説的な人でありますが、まさか、こんなに近くの人がそのような伝説的な仕事をされたのは光栄です」と伝えた。ヘスター先生は近かったこともあり、その必ずしも立派ではないようなところも知っている。都市デザインのアプローチでも問題がない訳ではない。しかし、そういうことを踏まえても『エコロジカル・デモクラシー』を書き上げたという偉業の前では、そんなことは些少である。
 また、この本はエコロジカル・デモクラシー・デザインという手法の運用指南という位置づけも有している。そして、エコロジカル・デモクラシーというアプローチこそが、トランプ大統領によって生じている民主主義の危機、環境破壊の惨事を回避できる極めて有効なものとなるであろう。これに関しては、雑誌『ビオシティ』にちょっと書いているので、関心のある方は読んでもらえればと思っている。

http://bookend.co.jp/biocity-ビオシティno-74-エコロジカル・デモクラシーのデ/

出版イベントでのランディ・ヘスターはスピーチで次のように語っていた。
「エコロジカル・デモクラシーは10年後には、ヴァーチャルなコーポレイト・デモクラシーを凌駕するであろう」。
 ちょっと楽観的であるかもしれないが、しっかりとエコロジカル・デモクラシー的なアプローチ、すなわちエコロジーを意識した民主主義的アプローチでのコミュニティ・デザイン、都市計画、国土計画を継続し続ければ、長期的には大きく社会を変革することも可能ではないかと思わせられた。

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ベルリンでアンペル・マンのグッズを購入し、都市のシンボルとしての商品についてちょっと考えてみた [都市デザイン]

ライプツィヒからベルリンに日帰りで行く。テンペルホーフ空港の跡地を訪れ、プリンツィシンネン庭園を行き、KaDeWeへ寄って戻ってきた。さて、KaDeWeにせっかく寄ったのでお土産でも買おうと考えた。ベルリンには、有名な熊の置物があり、私は3体ほど買っている、ベルリンという名前は熊に由来していることや、ちょっとこの熊が可愛かったりするので、私は、これをなかなか優れたベルリン土産として気に入っているのである。しかし、ちょっと大きい。というので、代わりにアンペル・マン・グッズを購入した。
 アンペル・マンとは旧東ドイツの歩行者用の信号機に使われたキャラクターで、そのキャラクターを商品化したグッズは、広く旧東ドイツの都市で売られていて、日本でも白金高輪でそれを専門に売っているお店もあったりする。旧東ドイツの数少ない旧西ドイツより優れたものとも言われている、なかなかチャーミングなキャラクターで私も結構、好きである。
 さて、アンペル・マンは旧東ドイツ中にあるし、現在ではシュツットガルトやリューベックでも用いられている。なんで、ベルリン土産なのかというと、最初に設置されたのが旧東ベルリンであるからだそうだ。ということで、アンペル・マンはベルリンにふさわしい土産になるかもしれないが、よく考えればKaDeWeは旧西ベルリンに位置しており、そういう意味では旧東ドイツの中で唯一といっていいほど、アンペル・マンと関係がないような場所である。まあ、旧西ベルリンも広義で捉えればベルリンなので、そういうのはただの難癖ということになるかもしれない。少なくとも、そこにはベルリンのストーリーが含まれているからである。また、アンペル・マンのグッズを販売している会社もベルリンに拠点を置いている。
 さて、しかし、そういうことを考えていて気づいたのは、アンペル・マンというのは旧東ドイツが共有するゆるキャラのようなものだな、ということである。それほどゆるくはないが、それでもある程度のゆるいところもあり(青信号の男の子にちょっと得意げに上を向いているところや、赤信号の女の子の妙に潔癖な感じのするところ)、そこがドイツ人を始めとした人々の心をくすぐっているような気がする。
 ゆるキャラというと、日本人の専売特許のように捉えられているし、それ故に日本人は奇妙な民族だといった、見方も為されていたりするが、なんてことはない、ベルリンにもしっかりとゆるキャラのような地域と関係性の高いキャラクターが存在して、また多くの人に愛され、関連グッズも販売されているという訳だ。
 いや、逆にいうと、アンペル・マンのような、その都市のストーリーを包含するようなキャラクターがあればいいが、なければゆるキャラでもいいからつくっちまえ、というのはあるかもしれない。
 また、その都市を象徴するようなシンボル的なキャラクターは何かと考えた時、サンフランシスコはケーブル・カーや金門橋、ニューヨークは自由の女神、フランスはエッフェル塔か凱旋門、ロンドンはロンドン・タワーやギュルクといった建築、バルセロナはガウディのギュエル公園にあるとかげ、京都であれば舞妓はん、大阪であればたこ焼き、などがすぐに浮かぶ。
 逆にいえば、このようなシンボル的なキャラクターがすぐに浮かばない都市、というのは都市マーケティングの時代においては、相当、マイナスであり、それを改善することが望ましい。しかし、名古屋市や豊島区のように、都市イメージが悪いからといって、自らのアイデンティティと関係ないお洒落な公園を整備したり、とりあえずニュース性のあるようなことのために税金を浪費したりするのはまったく効果がないどころか、さらに状況を悪化させていくことは理解しておいた方がいいであろう。
 貴重な資源を活かすことが必要であるが、それはつくろうと思ってつくるのではなく、それまでの都市政策の歴史・蓄積の中から滲み出てくるようなものであるべきだ。名古屋市がダサイのは、そのような都市文化を理解しないで、とりあえず効率性・経済性だけを追求してきたからではないだろうか。最近では、B級グルメで勝負しようとしているが、それは200万を越える人口を擁しながら、A級グルメを育てることが出来なかったという文化醸成力の無さの裏返しではないだろうか。タモリに揶揄されたからといっていちいち、センシティブな中学男子のように反応するのではなく、もっと長期的な視点でその都市をつくっていこうという姿勢を継続することで、都市のブランドは築かれると思うのである。そのような姿勢は、ヨーロッパではミュンスター、ハンブルク、リューベック、バルセロナ、ボローニャなどで見られるが、日本でも弘前市、金沢市などは参考に値する。
 そして、そういう姿勢を継続させることで初めて、都市のブランドは醸成されていくのであろう。ということを、アンペル・マンをベルリン土産で買いつつ、考えたりした。

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都市研究におけるケース・スタディの基礎(4) [都市デザイン]

さて、都市研究におけるケース・スタディの留意点の4つ目は、ヒアリングをあまり信用するな、ということである。ヒアリングは都市研究において極めて重要である。特に文献資料などがない都市政策を検証するうえで、担当者へのヒアリングは実情を理解するうえで不可欠といってもいいだろう。
 ただ、ヒアリング者がすべての事実を知っている訳ではない。たまには間違ったことを言っているかもしれない、と失礼のない範囲で疑いの目を持っておくことは重要だ。これは、しかしなかなか難しい。というのも、ヒアリングに対応してくれている人の方が、ヒアリングをしている研究者より、そのことについて遙かに詳しいから、どうしてもそれが事実であると思ってしまうし、その真偽を検証することも難しいからである。それを防ぐためには、数多くのヒアリングをこなすことである。
 私自身、ヒアリングをもとに原稿を書いて、まさに出稿する直前に、他の文献資料と私の書いていた内容が矛盾していることに気づいたことがある。その事実誤認を確認する時間もなかったので、私はその矛盾する文章を削除することで対応したが、その文献資料を読んだ時は冷や汗をかいたものである。ヒアリングで情報を収集することは重要であるが、その裏付けをすることが必要である。これがなかなか為されていない場合が、自分のことをちょっと棚上げして、多いような印象を受ける。
 そして、ヒアリングほどではないが、文献が必ずしも正しい事実を伝えていないことも留意することが必要である。都市デザインの「都市伝説」として、デンマーク人のヤン・ゲールがストロイエを設計したというものがある。これは日本の文献でもアメリカの文献でもそのように書かれているのだが、これは事実ではない。ヤン・ゲールとは取材をしたことがあるが、彼はこのことを強く否定していた。そもそも、ヤン・ゲールがストロイエを設計したとしたら、20代の時になる。それを考えても、これは事実ではないと分かるのだが、なぜか、そのように紹介されてきたし、私もヤン・ゲールに会うまではそうなのかな、と思っていた。したがって、自分が文章化する時には、それについては真実かどうかを謙虚に検証することが必要であろう。
 これは私も含めて、ケース・スタディをするうえでは留意しなくてはいけない点であると思われる。

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都市研究におけるケース・スタディの基礎(3) [都市デザイン]

 都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点をこれまで2つ述べていた。一つ目は、比較する対象の特徴をしっかりと捉える、出来れば科学実験のように、比較する指標以外の条件をなるべく同一のものすることである。二つ目は、ケース・スタディをするうえで用いられている言葉の定義を誤解しないでしっかりと理解するということであった。
 そして、このブログで述べたい3点目は、拙速に結論を導かないということである。ケース・スタディの対象を研究するということは、自分が無知であったことを知るということでもある。それは、学習する過程でもあるのだ。したがって、それまでの自分の知識・経験等でその対象をしっかりと理解することは、実は不可能に近かったりするのだが、安易に結論を導いてしまいたがる人が多い。それは、あくまで結論ではなく、むしろ研究の端緒にあたる仮説設定に過ぎないのだが、この仮説を検証しないで、印象論だけで結論的な判断を下してしまう人が本当に多いのだ。ケース・スタディというのは仮説設定→検証→大抵、ここで仮説が間違っているので再び仮説設定→検証→・・・という作業が続いて、だんだんと真実が見えてくるのだが、それは大変であるので、自分の大雑把でいい加減な知識を動員して、自分の眼鏡でみえるストーリーをつくってしまう。例えば、ドイツは市民参加が絶対的にやられている、とかドイツは計画なくて開発なし、などと言われているが、実際、ケース・スタディをするとそうではない場合もあったりする。連邦制をとっているドイツは、日本のように都市計画法が国の法律ではないので、様々な状況があるのだが、自分の知っている事例(大抵の場合、極めて優れている事例)をもとに、ドイツの都市計画のあり方を一般化して理解してしまい、例外的な事例を受け入れないのだ。
 事例研究に意味はあるが、それは知らないことを知るためにむしろされるべきであり、安易な一般化された結論を導くためにすることは慎むべきであり、それは長期的な取り組みを研究者に要求する方法論であると思われる。
 私もクリチバの成功の最大要因がレルネルさんであった、ことはクリチバを初めて訪れた1997年から数えて、20年以上経って、確信を持って言えるようになったが、『人間都市クリチバ』の本を出した2004年時では、まだそれは仮説の範疇をでていなかった。今は確信を持っている。

タグ:事例研究
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都市研究におけるケース・スタディの基礎(2) [都市デザイン]

 前回に続いて、今回も都市研究におけるケース・スタディをするうえでの留意点を述べたいと思う。それは、しっかりと言葉の定義を理解していることである。日本人がドイツに来て、その言葉の意味をしっかりと理解していない故に誤解するものとして「難民」(refugee)が挙げられる。多くの日本人が学識者を含めて「難民」と「移民」の違いが分からず、ごっちゃにしている場合が多い。そして、いわゆる「移民」問題というものを「難民」問題として捉えてしまい、結論として「難民」を受け入れるのは政治的には間違っているといった誤解が誤解を生むような結論を導いてしまう。そして、ドイツ国内にて「難民」と出会ったりすると、ドイツ人に気を遣ってか、あからさまに嫌な顔というか困った顔をしたりする日本人も驚くことにいるのだ。そして、それが日本の一流企業の社員であったりするから、二度驚く。
 「難民」と「移民」は定義からしてまったく違う。国連の説明を引用しよう。
「難民とは、迫害のおそれ、紛争、暴力の蔓延など、公共の秩序を著しく混乱させることによって、国際的な保護の必要生を生じさせる状況を理由に、出身国を逃れた人々を指します」。
 なんか、国連とは思えない分かりにくい日本語であるが、すなわち、民族紛争や戦争、自国の政治が暴走したことによって、生きていくことが難しくなり、生き延びるために(死から免れるために)自分の国を捨てざるを得ないような人々のことである。
 そして、現在の国際法では、弾圧や迫害を受けて難民かした者に対する救済・支援が義務づけられている。
 つまり、難民を救済・支援するのは国際法的には国の義務であり、それらを排除するのはその国が有する権利ではない。したがって、ドイツが多くの難民を受け入れているのは、国際法を律儀に遵守しているからに過ぎない。というか、島国であったり日本語という難解な言語を有しているために暮らしにくいということで、難民があまり来たがらないということで、難民の受け入れに極めて消極的であるという日本の方が国際的には恥ずかしい。ということを、あまりにも日本人は理解しなさすぎではないだろうか。
 ちなみに、移民に関しては国連は定義はしていないが、次のように解説している(http://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/22174/)。
「移住の理由や法的地位に関係なく、定住国を変更した人々を国際移民とみなす。」
 ううむ、この解説も分かりにくい。まあ、特に必然的な理由がなく、自分が生活していた国を他の国に移って変える人である。したがって、その人を受け入れるかどうかは国の判断に因るであろう。国際法的に移民を保護する必要性もない。
 したがって、移民に関しての政治的問題を議論することは極めて健全であると思われるが、難民に関しての受け入れはそもそも議論する以前の問題である。
 このような誤解が生じるのは、その言葉の定義をしっかりと理解していないことに起因しており、それは事例研究をするうえで常に留意しなくてはいけない点である。

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ケムニッツを16年ぶりぐらいに訪れる [都市デザイン]

 ケムニッツという都市がドイツのザクセン州にある。ザクセン州の中では、ドレスデン、ライプツィヒに次ぐ第三の都市である。人口は約25万人。東西ドイツが再統一される直前の1988年時点の人口はベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンに次ぐ人口31万7千人。4番目に大きな都市であった。ということで、それなりの存在感を有してもいいと思うのだが、どうもドイツの国土政策的には鬼っ子のような扱いを受けている印象を受けていた。
 というのもケムニッツは高速鉄道のネットワークから完全に外されているからだ。2002年にケムニッツを訪れた時、ケムニッツはICでドレスデン、ニュンベルグと結ばれていた。ケルンと結ばれるICも走っていた。しかし2006年以降、ケムニッツは、ICEはもちろんのことICも走っていない。
 このように国土政策的には看過されている印象を受けるケムニッツであるが、人口減少は改善している。1988年から24%ほど人口が減少したが、そのトレンドは反転しつつあり、2016年に比べて2017年は500人弱だが人口は増加している。それでも、ケムニッツはどうも印象が薄くて、今一つのイメージを拭えていなかった。2002年に訪れた時も、色でいえば灰色。社会主義時代のこう陰鬱な雰囲気が都市を覆っている感じであり、街の中心も存在感溢れる市役所と都心部にある公園を除けば、記憶に残るようなものもなかった。日本でいえば水戸市のようなイメージである。
 さて、しかし、ドイツ人の知り合いが誕生日なので、パーティに顔を出して、ケムニッツの話をしたら、ケムニッツは素晴らしいと言う人が多数であった。知り合いは、ケムニッツに仕事があったら、エアフルトの仕事を捨ててケムニッツに引っ越すとまで言う。え!。エアフルトは相当、魅力溢れる都市だ。日本でいえば松江のようなイメージである。歴史的建築物もあり、旧市街地も賑やかで色彩豊かである。少なくとも、灰色といった都市のイメージはまったくない。その知り合いだけでなく、シュヴェリーン出身の2人もケムニッツはいいという。いや、悪いけどシュヴェリーンの方が人口は少なくても、はるかにケムニッツよりいいと思うけど。お城はゴージャスだし、湖はあるし、少なくとも都市のイメージが灰色ということはない。何を言っているんだ、とも思ったが、これは私がケムニッツを誤解しているからかもしれない、と思い、その翌々日にケムニッツに日帰りで訪れた。
 ケムニッツは現在、まともな鉄道との接続はライプツィヒとドレスデンとのRE(いわゆる特別料金がいらない快速列車)のみである。しかも、一時間に一本のみである。エアフルトはドイツ国土を東西に結ぶ線と南北に結ぶ線の結節点にある。シュヴェリーンもベルリン、ハンブルクとICEで結ばれている。ドイツ人はこのような高速鉄道のネットワークが都市の魅力というか、都市のアセットとして評価しないのであろうか。それとも、そのようなハンディがあっても跳ね返すだけの魅力がケムニッツにはあるのだろうか。
 ケムニッツの中央駅は、いわゆるターミナル型であった。駅舎のデザインは極めて今一つであり、ちょっと憂鬱になる。駅を降りても状況は似たようなものであり、活力のある都市の駅前という感じではない。トラムに乗って、中心市街地に行く。中心市街地は、結構大きなデパートがあったり、中心部は自動車が入れない歩行者空間(ペデストリアン・プレシンクト)になっていたり、そういう意味では悪くはない。市役所は本当に立派な建物であり、その貫禄はなかなかのものだ。とはいえ、エアフルトの中心市街地と比べれば、はるかにエアフルトの方が個性的で、色鮮やかで楽しい。私のエアフルトで働くドイツ人の知り合いは、エアフルトはイタリアのマフィアに支配された二流都市のように批判していたが、ケムニッツも社会主義時代は、社会主義マフィアに支配されていて、なんとカール・マルクス・シュタットと命名されていた。どっちが悪いかは一概には比較できないのでは、と思ったりした。そして、今でもカール・マルクスの巨大な銅像が街には置かれている。
 中心市街地だけでは分からないものもあるだろう、と郊外に出かけた。フットホルツという郊外ニュータウンである。人口が6万人も減っただけあって、この郊外ニュータウン(プラッテンバウ団地)においても建物倒壊の痕跡がみられた。しかし、老人用の介護サービス付きの住宅が新設もされていた。人口が増加し始めていること、高齢化が進んでいること、などから、そのような住宅の需要が増えているのかもしれない。
 フットホルツは高台に立地しており、そこから展望する南ザクセンの丘陵地のランドスケープはなかなか綺麗ではあったが、大きな川もなく、自然の変化もそれほどないこの都市のどこに魅力があるのかは、再訪しても分からなかった。帰りに中心市街地にあるレストランで食事をしたが、今回のドイツ旅行でも最も今一つの味であり、サービスはドイツという基準で照らしても相当、酷いレベルであった。
 ということで、イメージを改めようと思って訪れたケムニッツであったが、全然、イメージは改善しなかった。多少、その理解は増したかも知れないが、その人口規模に相当する魅力のようなものは感じられなかった。とはいえ、縮小政策を研究する私にとっては、ちょっと研究対象としては魅力がある都市であることは確かである。惨めなほど魅力が増すので。

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(旅情がほとんど感じられない中央駅)

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(旧市街地はなかなか魅力がある。ちょうど市場が開かれていた)

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(市役所の建物は立派で存在感溢れる)

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(トラムが縦横に走っている。後ろは再開発でつくられたビル)

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(郊外のニュータウン、フットホルツ)

タグ:ケムニッツ
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都市研究におけるケース・スタディ(事例研究)の基礎(1) [都市デザイン]

 都市研究において事例研究という手法を利用することは、結構、簡単そうだが留意点も多くある。事例研究をするうえで重要な点は、その事例を自分のよく知っている都市(事例)と比較することで、それを相対化させて、その優れた点、劣った点を客観的に評価することである。そのために有効なのは統計的な数字だったりするが、そのざっとした特徴を掴むうえでは都市観察をすることが重要である。それによって、その都市の特徴を捉えて、研究のための仮説を設定することができたりするからである。
 しかし、観察をするうえで重要な点は、その比較する都市が基本、共通の条件を有していることである。林檎とオレンジを比較しても、それは仮説の設定が間違ったり、誤った結論を導いたりしかねない。
 例えば、オランダのデルフトからベルギーのブリュッセルに鉄道で移動したのだが、一緒に行った大学の先生が「ベルギーは外国人が多いなあ、やはりオランダとは移民政策が違うのだろうな」と述べたのだが、彼のこの仮説(という感想)は正しいのであろうか。
 これは、デルフトとブリュッセルという二つの都市が、オランダとベルギーという国が違うことより、より大きな違いがあることを看過していることによって生じる誤謬である。その違いとは都市規模である。デルフトという人口10万人の都市とブリュッセルという一国の首都である人口117万人の都市を比較観察することで導かれるのは、国の違いというよりかは、都市規模の違いである。つまり、大都市は小都市より移民が多いという結論である。すなわち、オランダとベルギーとの移民政策を都市観察によって知ろうとするのであれば、ブリュッセルと比較すべきオランダの都市はアムステルダムであるべきであり、デルフトと比較すべき都市はデルフトと同様の大学都市であるルーヴェン(人口9万人ちょっと)であるべきだ。
 このように、事例研究をするうえで重要なのは、林檎とオレンジを比較することでの誤謬を避けることであり、そのためにも比較対象の特徴を予めある程度、知っておくことである。都市研究をするうえでは、人口、人口密度といった指標をある程度知っておくことは不可欠であり、そのようなデータ無しに都市をいたずらに比較しても、間違った結論を導く可能性があるので要注意である。

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州崎パラダイス赤信号 [都市デザイン]

1958年の作品だが、当時の東京のアーバン・スケープが描かれていてとても興味深い。勝ち鬨橋や都電が走る当時の東京の都市景観は、なかなか観ていて楽しい。州崎は、現在の東京都江東区東陽一丁目である。1958年というと、ちょうど売春防止法が成立する年で、それまで州崎は吉原を並ぶ東京を代表する赤線地帯であった。さて、その州崎を舞台とした、一夫婦をとりまく人情劇。三橋達也の駄目男ぶりがいい味を出している。そして、新珠三千代の気風がいいようで、情にほだされてしまう女性もなかなかよい。なんか、頭で考えていても結局、人は心で動いてしまうという、そのもどかしさが、しかし人間らしくて悪くない。なかなか楽しめる映画であった。





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カルガリーはスティーフン・アヴェニューの都市デザインによって、その中心性をしっかりと確保することに成功する [都市デザイン]

カルガリーのダウンタウンにあるスティーフン・アヴェニューは、まさにカルガリーの中心であり、銀座通り的位置づけの道路である。それは、19世紀の終わり頃から、常にカルガリーの都心部でも最も賑わいのある場所であった。そして、さらにその中心性を高めるために、そこを歩行者専用道路にするプロジェクトが考案され、1968年に設計者が選定され、その工事は1970年に完成した。
 その設計は、アルバータ州生まれの建築家では最初のマッシー・メダル(カナダ王立建築家協会授与)を1967年に受賞した地元出身のゴードン・アトキンスが担当することになった。当時、アトキンスは31歳という若さであった。
 アトキンスは、スティーフン・アヴェニューのセンター・ストリートから2ストリート・サウスウエストの2ブロック間を歩行者専用空間とすることであった。彼の野心的な計画では、地上レベルでの暖房、噴水、時計塔、幼児の遊びようの囲い(プレイペン)、装飾を施した休憩所、そして意匠を凝らした電灯の設置などが提案された。しかし、この計画は予算不足という理由で多くが実現されなかったが、歩行者専用空間自体は1970年につくられた。1973年には、歩行者空間はセンター・ストリートから1ストリート・サウスイーストまで延長され、1978年にはさらに2ストリート・サウスウエストから3ストリート・サウスウエストまで延長された。そして、1987年のオリンピック・プラザの完成と合わせて、1ストリート・サウスイーストから2ストリート・サウスイーストまでもが歩行者空間として整備された。その結果、オリンピック・プラザのある2ストリート・サウスイーストから3ストリート・サウスウエストまでの5ブロックが歩行者専用空間として整備されたのである。
 ただし、1990年には歩行者専用空間化した道路は欧州の都市の似たような試みやブラジルのクリチバ、さらには同じ北米大陸のバーリントンやボルダーのような成功をみることはなかった。これは、人口密度の低さということや、都心での夜間活動の少なさ、さらには厳しい寒さ、などが要因であったのに加え、アトキンスが描いたデザイン要素のほとんどが予算不足という理由で具体化されなかったからだ(実現されたのは噴水と時計塔のみ)。確かに、現在のスティーフン・アヴェニューでも、例えば人口は遙かにカルガリーより少ないボルダーのパール・ストリートやバーリントンのチャーチストリートの方が、まだ沿道での土地利用が平面的には高密度化されている印象を受ける。どこか、スティーフン・アヴェニューの方が空間は大味なのである。私はしっかりと調べてはいないのであまり無責任なことは書けないが、同じように集客に失敗したペデストリアン・モールのフレスノのフルトン・モールや、カラマズーのカラマズー・モールも似たような状況であったのではないか、と思われる。すなわち、沿道の商業空間が人を惹きつけるだけ魅力あるものとして設計できなかったということである。
 話をスティーフン・アヴェニューに戻すと、このように想定したほど集客が図れなかったこと、冬季には早く暗くなるため、沿道のレストランでは店の前まで車でアクセスすることが集客には重要であったこともあり、歩行者専用空間というコンセプトを1990年に変更することになった。ただし、カラマズーやフレスノとは異なり、その空間を自動車が通行できるようにするのではなく(カラマズーは一部の区画のみ自動車の通行を許可した)、その通行を夜だけに限定し、昼はこれまでと同様に歩行者専用道路空間として維持したのである。そして、それに合わせて空間も再設計される。
 具体的にはアトキンスのデザインで設置されたコンクリート製のプランターや椅子といったストリート・ファーニチャーや作り付けの照明器具などが撤去された。そして、それに代わるストリート・ファーニチャーが設置され、また昼間に自動車が走行できないための装置などが付け加えられた。
 自動車が交通手段の主役である都市において、歩行者専用空間を整備することだけで、都心に人を呼び戻すことは難しい。それにはその空間づくりや沿道だけでなく周辺の土地利用なども配慮することが求められるからだ。しかし、例え自動車が主役であるような都市でも、昼間は歩行者空間としてそれなりに上手く使われる。問題となるのは、日が暮れて治安への不安が高まる夕方から夜の時間帯である。その時間帯で人々を歩かせるためには、よほどの都市活動が行われていることが必要だが、カルガリーのような100万都市であっても、それを24時間確保させることは難しい。それなら、それで夜だけ自動車を通せばいいと考えたカルガリー市民の柔軟性は合理的であると同時に、なかなか賢い。なぜ、フレスノがこのような柔軟な発想に至らなかったのかはちょっと調べる価値があると思う(そのうち是非とも調べてみたい)。
 スティーフン・アヴェニューのリデザインは、カルガリー市とカルガリー・ダウンタウン協会(旧ダウンタウン・ビジネス協会)との共同事業として遂行された。市と協会は建設費と維持費を折半している。カルガリー・ダウンタウン協会は、イベントを企画し、その空間の利用許可を発行し、また管理維持を担当している。幟の設置やサイン計画、ストリート・ファーニチャーの新設・改修なども同協会が行っている。これらの二つの組織に加えて、スティーフン・アヴェニューの歴史的重要性を主張し、人々への同アベニューへの関心を高めることに貢献したカルガリー建築資源保全協会(Society for the Preservation of the Architectural Resources of Calgary (SPARC))やスティーフン・アヴェニュー・モール同盟が、現在の同アベニューを実現することに貢献したとカルガリー市の職員アラスター・ポロック氏は私の取材に回答した。
 さらに、スティーフン・アヴェニュー歴史地区プログラムが1991年に制定され、官民協働で沿道の歴史的建築物を保全し改修していった。その成果として、同アベニューは2002年に国家歴史地区として指定された。
 このようにスティーフン・アヴェニューは空間的にもカルガリーの中心として設計、位置づけられると同時に、カルガリーという都市の歴史的アイデンティティの有する場所としてもお墨付きを得るわけであるが、空間的デザインが先行したという点がちょっと興味深い。
 アメリカ人のランドスケープ・アーキテクトであるランディ・ヘスターは、21世紀の都市デザインの大書(となる可能性が高い)である『エコロジカル・デモクラシー』において、都市やコミュニティにおける中心性をしっかりとつくることの重要性を強調しているが、カルガリーはまさにこのスティーフン・アヴェニューをその中心として位置づけることに空間という横軸と歴史という縦軸とにおいて成功した。
 中心市街地が空洞化して、そのアイデンティティが溶解している日本の中心都市にとっても極めて示唆が多い事例であるのと同時に、歩行者専用空間が失敗したフレスノなどの事例を得意に取り上げ、その有効性に疑問を投げかけている日本の都市デザイナーに再考を促すいい事例でもある。

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(スティーフン・アヴェニュー。中心から西を望む)

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(沿道の砂岩からつくられた歴史建築物は修築されている)

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(夜に人通りがなくなるからといって、昼に歩行者専用空間として機能していない訳では決してない)

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(昼の時間帯に自動車を通さないのは、このような踏切のようなものを設置するだけで対処できる)

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(アトキンスの計画案を工事している時の写真。カルガリー市役所提供。Courtesy of City of Calgary)

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(アトキンスの計画案の工事が完成したところ。ただ、アトキンスの案の多くは予算不足を理由に具体化されなかった。カルガリー市役所提供。Courtesy of City of Calgary)
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高島平に生まれて初めて訪れ、その歩行者動線の悪さに愕然とする [都市デザイン]

 高島平にこれまで行ったことがないので、突如、思い立って行くことにした。正確には初めてではない。大学時代に四ツ谷のライブハウスで演奏した時、タイバンの人達と飲んで、そのまま彼らが住んでいた高島平の家に泊まらせてもらったことがある。しかし、それは終電がなくなってタクシーに乗って行き、朝になったら電車に乗って帰っただけなので、実質的に行ったことにはならない。
 高島平は板橋区にある。私は豊島区で生まれ育ち、文京区の高校に通った。高島平に住んでいた同級生もいたので、行ったことがないのは不思議といえば不思議だが、まあ、行かなかったのである。縁がなかったということであろう。
 都営三田線で高島平駅まで行って降りる。高島平駅はなんと島型のホームが二つあり、4番線まであった。各駅停車しか走っていないのに全くの無駄ではないか。いや、これをつくった時には何か他の考えがあったのかもしれない。ここから支線を出すような・・・。
 さて、駅から降りて周辺をぶらぶら歩く。駅の周辺の区画割は横に長い長方形。歩道がない道路なのだが、道路の幅が結構あるので、どこを歩いていいかがよく分からない。これって、歩行環境としては相当、悪いような気がするのだ。いや、私の家の周辺もそうなのだが、住宅地だとそれほど抵抗感は覚えないのだが、商店街だと景観的にもアメニティ的にも劣悪であると思うのだ。錦糸町の北側を行ったところでも感じたことだ。これが、下北沢や下高井戸、学芸大学のように圧倒的に歩行者が多くて、自動車が入ってくる余地がないような状況だと商店街でも問題はない。しかし、歩行者が少なくて、歩道もなくて、そして自動車が結構のスピードで走れる(幅があるので)ような状況なのは、なんかおちおち歩けない不安を覚えさせられて、本当、嫌悪感を覚える。こういうのを設計した人は、こういうのがOKなのかな、と改めて不思議に思う。

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(こういう自動車移動が前提の空間を、歩行者が歩くのって、そもそもの道路設計の仕方に問題があるような気がしてしょうがない。基本、歩行者と自動車のシェアスペースなのだから、そのように設計すべきであると思うのだが、あまりにも歩行者がないがしろにされている)

 駅から、ちょっと北に行くと新河岸川とぶつかる。新河岸川の堤防の歩道に上がる場所がない。いや、あるのだが、その間隔がすこぶる長いのだ。高齢者だったらたまらないな、と思いつつ、そこまで行って堤防の歩道に上がると、今度は新河岸川を渡る橋がない。いや、あるのだが、これまた間隔が長いのだ。

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(堤防の歩道に上がることができない。これってフラストレーションがたまると思うのだが)

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(新河岸川から秩父方面を望む)

 そして、高島平といえば団地群ということで南に向かう。面白いことに(いや、実際は面白くはないのだが)、高架となった三田線を南北に歩行者が通れる場所がない。高架下がタクシーの駐車場やレンタカーの事務所などに使われてしまっているからだ。どこで通り抜けるかも分からなかったので、タクシーの事務所の横を通るが、これはおそらく違法であろう。とはいえ、私鉄ならまだしも、なぜ都営の地下鉄の高架下の土地を貸さなくてはいけないのだろうか。都営地下鉄の経営状況が悪いのは分かるが、街の利便性をよくするために税金を使っているのに、これでは悪くしているだけだ。

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(地下鉄三田線の高架化をくぐり抜けるところがない!このように街の空間に壁のようなものをあまりにも設けすぎているのではないか。かのケビン・リンチは優れた都市の条件の一つとしてアクセシビリティを挙げたが、この街をつくった人はアクセシビリティということをほとんど考えていなかったのではとさえ思わせる)

 高架下を抜けると、今度は高島通りという片側二車線の大通りだ。そして、ここもやはり道を渡ることができない。しかも、中央分離帯にガードレールのような柵が設置されているので、物理的にも渡ることができない。仕方がないので、西高島平の駅まで行き、そこに設置されている歩道橋を渡って団地群に行った。

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(高架を違法にくぐり抜けると、今度は高島通りのガードレールに行く手を阻まれた。まるで障害ゲームをしているような気分になる)

初めてみた団地群は、ドイツのライプツィヒの郊外ニュータウンであるグリュナウのプラッテンバウ団地を思い出すほど巨大であり、ちょっと感動した。プラッテンバウ団地とは、旧東ドイツの社会主義時代に多くの都市でつくられたパネル工法の団地なのだが、そのスケールの大きさはヒューマン・スケールを逸脱しており、さすが社会主義は効率重視だと驚いたりしていたのだが、なんてことはない、東京にもそういうものがあったのだ。この旧東ドイツの団地を彷彿させるような巨大建物の横には、5階建てのよりヒューマン・スケールな団地群が幾つも建っていた。こちらは、そんなに悪い感じはせず、計画的な配慮が伺える。

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(社会主義国家のパネル工法の団地を彷彿させる巨大団地)

 ただ、この団地内も歩道と車道との間にガードレールが連続して設置されており、交通量がほとんどないにも関わらず、渡れない。この歩行を強制的に管理しようとする計画的意図は何なのだろうか。動物的な移動の本能に反する行動をさせようとして、何を達成しようとしているのだろうか。

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(なんと、団地内にも無駄なガードレール)

 この団地内だけでなく、高島平全般に言えることは、極めて歩き勝手が悪い街であるということだ。1972年に高島平の団地はオープンしたこともあり、その高齢化率は49%と高い。これからも高くなっていくであろう。しかし、こんなに歩きにくい環境では、高齢者からすれば大変であろう。というのは、高齢者は基本、歩いて移動することが重要になる。自動車での移動は安全面での問題が増すし、面倒だ。自転車も若い時ほどは乗りたくはなくなる。そうすると、歩くのが極めて重要になる。歩き+公共交通だ。しかし、歩くのも若い時よりずっとしんどくはなるので、なるべく最短距離で、しかも階段などは極力使いたくない。
 高島平の団地内には商業施設や郵便局もあるので、そこで買物をすればいいという話もある。ただ、その内側からちょっと外に出ようとすると、その歩行者動線は極めて限定されている。この街を高齢者に優しい、という人もいたりするが、私はまったくそのような印象を受けなかった。歩行者動線に対しての配慮が不足している街であるという印象を強く抱いた高島平の視察であった。

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望ましい下北沢像は「チェーン店ではなくて個店がある街」のようだが、これらの個店は絶滅危惧種であるので保全活動が必要だ [都市デザイン]

 下北沢編集部という、住民主体のまちづくりのグループが「100人100色」という下北沢で働く人、住む人に対してアンケート調査を実施しているのだが、その中間報告を聞いた。そこで、望ましい下北沢像として「チェーン店ではなくて個店がある街」と回答した人が最も多かった。
 改めて、下北沢の魅力は「個店」であるということが裏付けられた。なんせ下北沢駅周辺で1200店ほども店が密集しているのだ。その多様性が下北沢の魅力であることは間違いないであろう。私も最近ではほとんど1人で飲むのは下北沢であるが、それは下北沢のお店群がユニークで「特別」だからだ。
 さて、しかし、このようなご時世で、下北沢で個店を維持するのはほとんど不可能に近いほど難しくなっている。それは家賃が高いからだ。私が行く個店も、ほとんど経営難である。下北沢はおよそ3年間で店舗が3割置き換わるといわれるほど、ビジネス環境は悪い。さらに、現在、下北沢は道路整備が進行中であり、この道路は貴重な個店を立ち退きさせるだけでなく、道路ができることで沿道の建物の容積率を向上させることになる。その結果、家賃はまた上がる。というか、ここで家賃が上がるのは、チェーン店が高くなっても、支払ってしまうからだ。個店が支払うことは難しい。しかし、チェーン店が高い値段を払うのは、「下北沢」というブランドに惹かれているからだが、このブランドをつくりあげているのは、これらチェーン店が追い出している個店なのである。つまり、蛸が自分の足を食べているような状況が生じているのが下北沢なのである。
 もし、本当に個店に価値を見出しているなら、間違ってもチェーン店では買い物をしないぐらいの覚悟を持たないと、下北沢の個店は早晩、消えて行くであろう。もちろん、王将のようにチェーン店であっても下北沢のシンボル的なところもあるので、チェーン店は皆、駄目といっているわけではないが、特に居酒屋チェーンに入るぐらいなら、わざわざ下北沢で飲む必要もないと思われる。そういう消費による支持活動をしないと、下北沢の個店は絶滅危惧種のように消えていっていくものが多いことを自覚することが必要である。ニーズがあっても提供できない、少なくとも今の下北沢の料金では提供できなくなることは、「個店があって欲しい」と回答した人には理解してもらいたいと思う。

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都市資源が既に不足している渋谷で開発をするのは賢明ではないだろう [都市デザイン]

宮本憲一は『都市政策の思想と現実』において、「資本の都市問題」に関して述べている。そこでは、それは「生産の社会化がすすみ社会的一般生産手段の需要が大きくなったにもかかわらず、公共経済が対応できず、あるいは資本の過集積のために都市の資源が不足する問題」であると述べている。そして、それは「都市問題」というよりかは「都市経済の問題」であると言及している。そして、都市経済と都市問題を混同させてしまうと、都市政策も混乱したり不完全になったりすると指摘する(p.37-38)。
 さすがに都市の置かれた状況を鋭く突いている。東京が抱えている問題は、資本の過集積である。既に飽和しており、また経済が成熟化し、国としても人口というマーケットが減少しているにも関わらず、さらに投資が進んでいる。先日、渋谷に降りて、その発展途上国のようなビル開発の進み具合に愕然とした。なぜなら、このようなビルを開発するだけの公共経済が不足していることが明らかであるからだ。上下水などのインフラも不足しているだろうが、目に見えて分かりやすいのは交通であろう。これだけのビルが建設されることで、発生集中する交通需要は相当のものがあるだろう。それであるにも関わらず、新しくつくられた東横線の渋谷駅のホームの処理能力は現時点でも既に危機的な状況にあるほど飽和している。私は次女が渋谷の高校に通っているので、東横線の渋谷駅のホームの狭さと処理能力の不足が本当に心配なのだ。これ以上、交通需要を増やしたら、朝のラッシュアワー時にちょっとダイヤが乱れただけで、ホームに立っていられずに落ちる人が出るだろう。
 ビルを建設している人は、そんなことは知ったことがないのだろうが、渋谷駅の資本不足は既に多くの不利益をもたらしている。私は、池袋以北に行く時はそれまでは渋谷駅で乗り換えていたが、現在は160円余計に払って恵比寿駅で乗り換えるようにしている。それは前述したように渋谷駅を利用することの不安と、ホームでのエレベーター待ちの時間や新駅が出来たことで乗り換え時間が増えたので、160円払っても恵比寿駅で乗り換えた方が、効用が相対的に高いと考えているからだ。
 そのような不便な場所に、渋谷というブランドだけで開発をして、さらに渋谷の資源不足を顕在化させてどうするのであろうか。そのような開発をしている人は一度、この宮本憲一氏の著書でも読んで再考するといいと思う。


都市政策の思想と現実 (立命館大学叢書政策科学 (1))

都市政策の思想と現実 (立命館大学叢書政策科学 (1))

  • 作者: 宮本 憲一
  • 出版社/メーカー: 有斐閣
  • 発売日: 2011/05
  • メディア: 単行本



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世界は人を中心とした都市空間をつくっているのに、なぜ日本は逆行するのだろうか [都市デザイン]

 ウォーク21という学会に参加している。7月に宇都宮共和大学に呼ばれて講演をした。そのとき、元宇都宮大学の古池教授と知り合い、都市交通、都市デザインの話をいろいろとさせていただく。その話の中で、ウォーク21という学会があり、結構、面白いですよ、と言われたので、今年度は研究費も全然ないのだが自腹覚悟でカナダのカルガリーまで訪れた。なぜ、訪れたのか。それは、このテーマは今後、重要な位置づけを社会的に持つかもしれないし、私は大学院の頃から、人間中心の空間づくりに強い関心を抱いていたので、今後、この学会に発表をしようかとも思ったからである。
 それにしても、「歩く」空間づくりのために国際学会が設置されるというのは、それだけ「歩く」環境が貧相であり、それをしっかりと確保するためには努力が必要な状況になっていることを示唆している。この学会は今年で10周年らしいので、徐々に拡大しているような印象を受ける。
 ちょっと前、堺屋太一が「歩ける都市づくり」ということを提唱しており、そもそも「歩ける都市」を歩けなくしたのは、国土交通省を始めとした役所であろうに、元役人が何を言っているのだ、と思っていたりしたのだが、確かにこの「歩ける」環境を復活させることは日本の都市においても重要な課題になっているのかな、とウォーク21の講演を聴きながら思ったりもした。
 カナダの都市や田舎町のビフォア・アフターを比較すると、随分と歩行環境がよくなっている。ポイントは「人」を中心に、「人」の利便性や快適性を「自動車」に優先させることである。これは、カナダだけではなく、ヨーロッパでは顕著に、アメリカでもニューヨークやシアトルを先導に徐々に見られている現象であるが、日本は真逆なことをしている。
 ようやく、どうにか姫路でトランジット・モールが日本においてもつくられたが、ヴァンクーバーやデンバー、シアトル、ポートランドのものに比べればまだまだ今ひとつである。しかし、その今ひとつのものを整備するのに、奇跡的な幸運と専門家の優れたセンス、住民の強い意志が必要であった。そして、下北沢のような世界的にも注目を浴びるアーバンな都市空間を壊す広幅員の道路が強引につくられてしまうのが日本なのである。
 世界のトレンドにまさに日本は逆行しているな、というのをこのウォーク21という会議で改めて知る。そして、このように世界の流れに逆行している果てには、国の衰亡が待っているのではないか、と最近は強く考えるようになっている。人類の進化に逆行している、ある意味で北朝鮮的な膠着状態にあるのが、日本という国なのではないか、と思いつつあるのだ。
 「歩く」ことから随分と話題が飛躍してしまったが、この衰亡する日本というのも、私のちょっとしたテーマにしたいとも思っている。

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ヴァンクーバーのロブソン・スクエア [都市デザイン]

 ヴァンクーバーに13年ぶりぐらいに訪れる。とはいえ、以前来た時はウィスラーに行く途中にちょっと寄っただけなので、街中を歩いたのは20年ぶりである。そのときには環境庁の仕事で来たので、市役所への取材もしたりして、ロブソン・スクエアやエヴァーグリーン・ビルディングなど環境に配慮したプロジェクトを視察した。それから20年間、ロブソン・スクエアは多少、疲れた感が裁判所の建物などでは見られない訳ではないが、相変わらず、ヴァンクーバーの都心の象徴として、素晴らしい公共性と存在感を放っている。というか、都市の中心が裁判所と美術館とアイススケート・リンクと大学って、それだけでその都市に好感を持ってしまうのではないだろうか。ちなみに、市役所は川向こうで都心から離れたところにある。
 そして、ロブソン・スクエアを何より素晴らしくしているのは、目抜き通りであるロブソン・ストリートのスクエアを横断する一画だけ、歩行者専用空間にしていることである。しかも、道路の幅員などはそのままにしてあり、単に舗装と衝立だけで、そこは自動車が通れず、人間の空間であると表現しているのである。その極めて簡単な対処が、逆に、ロブソン・スクエアの広場性、ヒューマン性を示していると思われる。素晴らしい。

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(ロブソン通りはこの一画だけ自動車が遮断されている)

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(ロブソン通り)

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(自動車を通行止めにしているのは、こんな簡素な柵)

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(美術館がロブソン・スクエアの一画を占めている)




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エアフルト、レーゲンスブルク、ハレが第二次世界大戦で被爆をほとんど受けなかったドイツの地方拠点クラスの都市である [都市デザイン]

 エアフルトに学生を連れて来ている。エアフルト大学の学生達にガイドをしてもらい、クレーマー橋や大聖堂、旧市街地、プラッテンバウ団地などを訪れた。エアフルトは第二次世界大戦の爆撃がほとんどされない都市であるため、旧市街地が比較的よく保全されている。エアフルトは第二次世界大戦前までは、工業が発展しておらず、ナチスの拠点もなかったことが幸いしたようだ。デッサウとは対照的である。これは、人口が15万人程度ある地方拠点都市としては、相当珍しいことだそうだ。
 他にエアフルトのように戦災の爆撃を免れた地方拠点都市は、レーゲンスブルクとハレであるそうだ。レーゲンスブルクは旧市街地区が世界遺産に指定されている。ハレは皮肉なことに社会主義時代に、これら歴史地区が人為的に壊された。実はエアフルトも80年代に旧市街地を縦断するような大通りが計画され、周辺には近代的な団地がつくられる筈だったのだが、東西ドイツが統一されたので計画は反故になったのだ。この計画が遂行されたら、エアフルトもハレと同様の道を辿っていたであろう。そういう意味では第二次世界大戦と社会主義という二つの難事をくぐり抜けたエアフルトは、本当にラッキーであったと思う。このような話を聞くと、都市運命論のような考えがちょっと頭をよぎる。

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(クレーマー橋)

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(大聖堂そばにある丘からのエアフルトの展望)

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コンパクト・シティがなかなか具体化しないのは、その効用が薄いからではないか [都市デザイン]

 建築学会で北海道の縮小地域(空知地方)では、なかなかコンパクト化が図られていないという調査発表を聞いた。興味深い調査である。なぜ、行われていないのか。それは、北海道の空知地方はコンパクト化をさせるメリットがおそらくないからである。コンパクト・シティというのは、ヨーロッパでは「ヨーロッパ型都市」と言われる。都市計画的には、ちょっとした理想な都市構造である。私も個人的にこのような都市構造を形成することを計画的に促すようなことを考えるとわくわくする。ただ、おそらく空知地方においては、コンパクト・シティを検討させることは難しいと思われるのである。
 というのは、ヨーロッパにおいてもそうだが、コンパクト・シティは旧市街地という城壁内のコミュニティが核となっている。そして、それをコンパクト化させるためにトラムが公共交通の中心となって機能している(もちろん例外もあり、例えばミュンスターは自転車を中心に、アーヘンのようにバスを中心としている。ただし、これらの都市、特にアーヘンはコンパクト化においては必ずしもトラムの都市に比べてそれほどしっかりとしていないと思われる)。それは、モータリゼーションが空知地方のように徹底した場所においては、コンパクト化は不可逆反応のように理不尽であると思われるのだ。
 つまり、モータリゼーションが進展する以前に都市政策として指向するならそれなりにコンパクト化を促すことができるかもしれないが、既にモータリゼーションでだらしなくスプロール化が展開した後では、コンパクト化する意味が住民ベースではない。それは、コンパクト化するべく集積が、空知地方のように縮小している地域では不在だからである。
 旧東ドイツのように、ほとんどの人が賃貸住宅に住み、多くの住宅を寡占化された住宅会社が所有している場合は、撤去+集積、というアプローチは可能である。したがって、日本においても元住都公団が開発したようなニュータウンにおいてはコンパクト化をすることが可能かもしれない。しかし、地域においては手法としても極めて難しいだけでなく、そもそも、その必然性を住民や行政が感じているのか。今日、聞いた研究発表では、そのようなものは不在であるということが透かし彫りのように浮かんでくるような印象を受けた。これは、私の将来の研究テーマの候補の一つになり得るでしょう。


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海士町はなぜIターンが多いのか、その理由をちょっと理解したような気がする [都市デザイン]

 島根県浜田市で開催された地域活性学会に参加したのだが、そこで島根県海士町の大江課長の話を聞いた。海士町はIターンが多い町として知られている。人口は約2400人であるが、Iターンの移住者はそのうちの1割にも及び、それらの人の多くが20代〜40代である。
 なぜ、このような状況をつくりだすことに成功したのであろうか。それは、まず町経営のコンセプトとして「ないものはない」ということを掲げたことであろう。これは、外発的な発展を期待するのではなく、内発的な発展をするしかない、という覚悟を示すうえで非常に効いたコンセプト、モットーであったと思われる。
 そして、さらに行政経営のサステイナビリティを高めるために、町長が自らの給与を5割カットするという英断に出た。この流れを受けて、町役場の職員も3割給与をカットする。このような行政による本気の取り組みが、現在の海士町の魅力を創造するのに繋がったのであろう。
 私は、サラリーマンは街づくりは出来ない、ということを主張しているもので、このサラリーマンには役人も含まれていたのだが、それはあくまでも精神性の問題であって、公務員でも海士町のような覚悟と責任感を持っていれば、町を再生し、元気にすることが可能であることを海士町は私に知らしめてくれた。大変、興味深い事例である。

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オスロの都市計画的訪問記4(バーコード・プロジェクト) [都市デザイン]

バーコード・プロジェクトはオスロ中央駅とオペラハウスの中間にある再開発地区ビョルヴィカのミックスド・ユースのプロジェクトである。2003年から工事は開始され2016年に完成した。その規模は14.5ヘクタールでオフィス、公共空間に住宅、さらに1階には店舗が入っている。このバーコード・プロジェクトは、大変、斬新な都市計画手法を用いている。この手法は、この地区の開発に関する国際コンペで勝ったオランダのa-labとMVRDV、そして地元オスロのDark Architectsの提案によるものである。

計画案は、都市そして建築の多様性を表現することで、なおかつ歩行者にも優しい空間を提供することであった。そのために、建物がそれぞれ個性を有し、建設材料や高さ、幅なども異なり、その建物の空間には「バーコード」とよばれる隙間の空間を設置できるようにした。

この地区の計画においては、それまでとは違うアプローチとして、建物自体ではなく、建物の間の空間に注目をした。それは少なくても12メートルを確保しなくてはならないようにした。さらに、敷地面積の50%を緑地として提供させることにしたのである。そのために、建物の巨大なるファサードではなく、駅と湾との間を結ぶ回廊状の隙間ができるようにしたのである。ただし、これは極めて事態を複雑にするので、この建物のうちの一つを設計した設計事務所のスノヘッタのベテラン建築家によると、二度とこの方法は採用されなのではないかとのことだった。

ここらへんのルールは結構、複雑らしく、このようなブログを書いているにもかかわらず、しっかりと理解ができていないのだが、その結果、バーコードには11の高さや床面積、建材が異なる建物が立地している。設計者はすべて異なっている。オフィスは13.5万㎡で、住宅は3.6万㎡。駐車場はすべて地下に設置されている。

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(中央駅から見たバーコード・プロジェクトの建築群)
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オスロの都市計画的訪問記3(オペラハウス) [都市デザイン]

 経済が絶好調のノルウェー。しかし、このノルウェーにはオペラハウスがなかった。そもそもオペラハウスをつくる必要があるのか、という話から、つくるにしてもどこにつくればいいのか、といった議論は100年近くもされていたそうである。そのような中、1999年につくることを決定し、敷地も決定し、コンペが開催され、それで優勝したのが地元ノルウェーの設計集団スノヘッタであった。その後、2003年から工事は開始され、2007年に完成した。
 オスロ・オペラハウスがつくられることになったのは、オスロの中心地から東にあたる再開発地区ビョルヴィカのオスロ・フィヨルド湾沿いであった。今(2017年)でこそ、周辺は開発が進んでいるが、2007年にはオペラハウスの北を高速道路が走っているような状況であった。今では、この高速道路は地下化され、その上部空間にはトラムが走り、オフィスビルの開発(バーコード・プロジェクト)や、国立図書館、ムンク美術館などが建設中である。
 オスロ・オペラハウスはノルウェー国立オペラ・バレエ段の本拠地であり、建物面積は38500㎡で、大劇場には1364席、2つの小劇場は200〜400席を設けることができる。
 今回のオスロ訪問では、スノヘッタのベテラン女性建築家と取材をすることができた。彼女の説明によれば、オペラで留意したことは次の3点。
① 海(水)へのアクセス
② ランドマーク(アイコンとしての建築)。
③ プラザの提供。場所との個人的な繋がりをつくろうとしている。パブリック・プレースを提供することが重要。オペラ座をつくることで、空間を奪うのではなく、むしろ空間を提供する。それを所有するのは、オペラ座に観劇する人だけでなく、市民すべてである。
 また、オペラハウスは再開発地区ビョルヴィカにおいて、まさに嚆矢としての役割を果たすことが期待された。ここはフィヨルドと都心部との間を走る高速道路で完全に遮断されていた。そのため、オスロ市民にとっても、ここはアクセスができない忘れた場所となってしまったのである。そこに、オスロ市でも有数の集客の仕掛けをこのオペラハウスをつくることで展開させ、それと同時に高速道路を地下化し、周辺に文化施設の集積を図るようにしている。まだ、建設途上ではあるが、これからのオスロ市の発展を牽引するような地区がここには形成されつつある。

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(西側からみたオペラハウス)

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(屋上へと連なる緩やかな「絨毯」)

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(屋上からの展望)

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(夜には大ガラス面から漏れる光が夜景を演出する)

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(これまで遮断されていたウォーターフロントへのアクセスをも、オペラハウスは提供することに成功した。多くの人が水辺で憩っている)

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オスロの都市計画的訪問記2(ヴァルカン地区) [都市デザイン]

 オスロの北部にあるヴァルカン地区は19世紀頃にアーキャスエルヴァ川の西側に開発された工業地区であった。その後、1960年頃に工場は郊外部に移転し、この地区は塀で被われ、市民はここに入ることができないようになってしまった。跡地は雑草が生い茂り、オスロ市内でも最もイメージの悪い地区の一つとなってしまった。
 しかし、この地区は2004年にAspelin Ramm、Anthon B Nilsen Property Developersというデベロッパー会社によって、ほぼ100%民間主体でミックスドユース地区へと再開発された。そして現在では、オスロ唯一の屋内食料市場、ミシュランで一つ星のレストラン、お洒落な総菜屋などがあり、さらにはダンス・パフォーマンスが上演される舞台があるなど、オスロの人達の人気スポットへと変貌している。
開発するうえでの空間コンセプトとしては、この土地はアーキャスエルヴァ川と同川に並行して走るMaridalsveien道路とに挟まれた斜面上にあるのだが、それまで分断されていたこの川と道路を繋ぐ空間を整備することを重視した。そのためには、この土地にあった工場の建物の一部を壊さなくてはならなくなり、それに対しては地元住民が歴史建築物の保全という観点から反対したのだが、敢えて押し切った。これに関しては、取材をしたランドマーク氏によると、開発が成功するうえでは譲れない点であったからだそうだ。
 この地区にはホテルが二つあるのだが、一つは普通のホテルではない。それは、そこで働いている人が研修生であるという点である。しかも普通の研修生ではなく、それまで社会的に問題があり、通常の仕事とかが得にくい人が研修生をしている。これは、単に研修するだけでなく、社会に復帰するためのリハビリをも兼ねているそうだ。そして、このホテルの経営を支援するために、この地区に入っている企業はノルウェーでは一般的な社食を基本的には設置せずに、このホテルのレストランで食べてもらうことも推奨しているそうだ。このような試みからも、民間企業でありながら社会福祉的な視点もしっかりともった再開発ではないかと思う。
 そして環境にも意識していて、コジェネレーション・システムを導入している。これを効率的に使えるようにするためにもミックスドユースとある程度の密度の集積などを計画時点から意識をしていたそうだ。現在、ホテルで使われる75%の熱量が再利用されているそうだ。
 ミックスドユースでいろいろな用途が入っているヴァルカンであるが、その目玉施設は屋内食料市場であることは間違いない。これは、オスロというかノルウェーでは最初の屋内食料市場である。なぜ、屋内食料市場にしたかというと、開発を検討するうえで、工場の建物をみてインスピレーションを受けたためで、特に、市場調査とかをした訳ではないそうだ。ただ、スウェーデンとかにはある屋内食料市場がノルウェー、特にオスロにないのはちょっと違和感を覚えていたということはあったそうである。
 この屋内食料市場をつくるということに関しては、計画時点から相当、マスコミを中心に批判されたりしたが、結果的には大正解で、この屋内食料市場ができたことで、料理教室もでき、料理イベントも開催できるようになり、さらには、総菜屋も出店し、また、ミシュランで一つ星を取るようなレストランもここに立地することになった。屋内食料市場が核となって、ここはオスロ市のガストロミーの中心のようになってきたのである。まさに集積が集積を呼ぶという効果がここではみられた。
 ここの不動産管理をしているランドマーク氏さんに取材をしたのだが、テナント管理をしているうえで一つの物差しとしているのが、アンチ・スーパーマーケット、アンチ流通大企業であるということだそうだ。確かに、ここにはチェーン店のようなものは入っていない。それが、ガストロミーの集積地としてのステータスを高めているのであろう。
 興味深いのは、ここが民間100%の開発という点である。この空間は時間を問わず、誰でも入ってくることができるが、ここは厳密な意味ではパブリック・スペースではない。しかし、アーバンな雰囲気をつくることが不動産事業として成功するという点では不可欠との観点から、このようなアクセスが自由な空間を整備したということだそうだ。ランドマーク氏は戦略的に考えると、都市はタウンスクエアが一番、重要であるという。そして、そういう観点からは、この再開発においては屋内市場が一番、重要であると認識していたそうである。
 見事な都市再開発事業であると思われる。

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(ヴァルカン地区の案内図)

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(屋内食料市場)

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(川と道路とを結んだ計画上、極めて重要なアクセス)

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(住宅棟の上からの展望)

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(屋内食料市場の内部)

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(南北の街路。左上は駐車場やオフィス、レストラン棟が入っている建物)

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(アーキャスエルヴァ川の対岸からヴァルカン地区を望む)
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オスロ都市計画的な訪問記1 [都市デザイン]

 オスロに5泊した。主に最近、完成した3つの都心部そばの再開発地区を訪れた。現地の関係者にも取材をすることができたので、その近況を幾つかに分けて、簡単に報告したい。
 その前にオスロの概要。オスロは人口が約66万人。大都市圏だと112万を越えるノルウェー最大の都市であり、首都でもある。面積は454キロ㎡と東京都23区の4分の3程度である。人口密度だと大雑把に23区の2割程度か。オスロの首都としての歴史は古く1300年前後であったが、デンマークの実質植民地のような状況にあった時は、クリスチャニアと呼ばれていた。オスロに復帰するのは1925年以降である。また、ノルウェー最大の都市は1850年まではハンザ都市である港湾都市のベルゲンであった。そういう歴史をたどってきたので、同じスカンジナビア諸国でもコペンハーゲンや、ストックホルムのような豪壮さには欠けている。19世紀のスウェーデン支配下の時に王宮などを建てるが、どちらかというと支店的な位置づけであった。ということで歴史的建築物なども有り難みが少ない。
 したがって、都市の課題としては、そのようなアイデンティティの弱さをどう補っていくということがあるだろう。そういった視点から、1)ヴァルカン、2)オペラハウス、3)バーコードに関しての報告をしてみたい。あと、今、オスロの再開発といったらレンゾ・ピアノの設計で2012年に開業したアストルップ・ファーンリ現代美術館があるチューブホルメン地区が外せないのだが、訪問予定日の前日に捻挫をしてしまい、しっかりと視察ができていないのでそれは割愛させてもらう。また、再訪する機会があれば、ここらへんはフォローしたいと思っている。

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(オスロのウォーターフロントからの光景)
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アイスランドの妖精マップのある街を訪れる [都市デザイン]

 16年目、ウェールズのC.A.Tという施設を訪れたことがある。ここのランドスケープ・アーキテクトのピーター・ハーパー氏に取材をすることと視察することが目的で、その内容は『環境自治体』という雑誌の2002年1月号に発表した。C.A.Tは今回の旅行でも久しぶりに訪れたが、16年前に訪れた時はC.A.Tのそばの町のマッキンレーにあったB&Bにて宿泊した。そのとき、私と同じようにC.A.Tに惹かれて訪問したアイスランド人と知り合った。そこで私は、彼と一緒に夕食をしたのだが、そのとき、「聖なるランドスケープ」(Sacred Landscape)の話で盛り上がった。その話の中で、彼は彼の「聖なるランドスケープ」を教えてくれた。それは、ハフナルフィヨルズゥルにある彼の祖母の家のそばの公園であった。彼は幼少の頃、祖母の家に遊びに行くと、その公園で遊んでいたのだが26歳ぐらいの時、そこで妖精(小人のようなもの。ノーム(gnome))を見た話をしてくれた。彼は、その話をすると、自分が変人であると思われるかもしれないと危惧していたようで、おそるおそる私に言ったのだが、私はあなたの話は信用する、としっかりと目を見て伝えた。それは99%、本心であった。私が信用してくれたことが嬉しかったらしく、彼はアイスランドの人達は妖精やスピリッツなどを信じているということをいろいろと話をしてくれたのだが、特に私の興味を惹いたのは、ハフナルフィヨルズゥルには妖精マップがあることであった。その妖精マップは、いろいろとスピリッツを見られるシャーマンのような老婆が描いたものであるらしく、私は大変、それに興味を抱いて、それを送ってくれるようにお願いをした。彼は快諾してくれた。私は、まあいきなり出会った、見ず知らずの日本人に送ってくれるのは流石に面倒臭いであろうとそれほど期待せずにしていたら、実際に送ってくれたので大変感動した。この地図は今でも私の宝物であり、このエピソードは『若者のための街づくり』(岩波ジュニア新書)にも紹介している。
 今回、生まれて初めてアイスランドを訪れたのだが、それは、この話に導かれたというのが大きかった。そこで彼にアイスランドに行くので是非とも再会したいので、よければメイルに連絡をしてくれ、と手紙を送ったのだが、結局、アイスランドに着いても彼からはメイルが来なかった。いよいよ、アイスランドも翌日が最終日となった日になんと、彼からメイルが届いた。そのメイルには、引っ越していたので手紙を届くのが遅れたが、翌日は空いているので会おう、と記してあった。そこで、本日(8月21日)に私は彼とホテルのロビーで待ち合わせをした。
 彼は待ち合わせ時間の20分ぐらい前からロビーで待っていて、彼は日本人の私にすぐ気づいてくれた。私はちょっと記憶が曖昧になっていた。それから、カフェに行って近況を報告し合った。私はC.A.Tに行った翌年に大学教員になったのだが、彼もその当時は船乗りの技術者であったが、その後、大学の先生になっていた。その話を聞いて、日本とアイスランドと場所は遠く、離れていても彼とは何か「赤い糸」的なものを感じる。私は彼が送ってくれた地図を持参していたのだが、その地図を見せると、いろいろと解説をし始めてくれた。その地図を描いた老婆は既に他界してしまったそうだが、広く、地図で描かれている世界は地元住民に共有されているそうだ。この地図には様々な線が交錯しているのだが、それは地球の磁力線であるそうで、その線の結節点は特別な聖地となるそうで、そこには光の精のようなものが存在しているそうだ。彼はおそろしく青い目をしていて、その中心にある黒い瞳孔で見つめられつつ、妖精やスピリチュアルな話をされると、ちょっと異界へと引き込まれそうな気分になる。
 彼は、私が何も言っていなくても、私が何をしたいのかが分かってくれたそうで、彼が妖精を目撃してくれた公園へと連れて行ってくれると言ってくれた。カフェから駐車場に行く際、レイキャビクの週末限定のフリーマーケットに寄り、そこで本を売っていた彼の奥さんを紹介してくれた。彼女もシャーマンのように、精や死者などが見られるそうである。日本だと霊感が強いということになるのだろうか。
 さて、レイキャビクからハフナルフィヨルズゥルまでは車で15分ぐらいかかった。レイキャビクの郊外部を道路は通っているのだが、随分と、エッジシティ的な郊外開発が進んでいる。イケアやコストコなどもある。ちなみに、コストコが出来たことで、地元商店の30%ぐらいが閉店したそうだ。この数字はにわかには信じられないが、もし事実だとしたら、大変なことだ。商店街は社会やコミュニティにとって必要なのか。もし必要であると思うのであれば、このような大型商業施設の立地規制ということは真剣に考えなくてはいけないと思う。
 そういう話をしながら連れて行ってくれた彼の「聖なるランドスケープ」である公園は、ハフナルフィヨルズゥルの住宅地の中にあった。この住宅地に囲まれた公園というのは、なんとも意外ではあったが、一歩、その公園に入ると、それは霊感がゼロの私でも、そこが特別なところであることは分かった。その空間は周辺に比べると窪みになっていて、その窪みの中はまさに異界というか別世界のような空気を纏っていた。センス・オブ・プレイス、ゲニウス・ロキ、地霊という言葉が頭をよぎる。ハフナルフィヨルズゥルは火山の爆発から飛んできた溶岩があちこちにあるのだが、この公園もそれらの溶岩や樹木によって、空間が分断されており、実際の広さに比べて遙かにその空間を広く感じることができる。そして、分断された空間に人が日光浴をしていたりするのだが、そこに人がいることは視界が遮られているので、すぐには分からない。人でさえそうなのだから、そこに妖精がいても分からないであろう。
 身体が震えるような感動を覚えて、写真を撮っていたりすると、何もないような場所で、酷く足首をひねり、しばらく動けないような捻挫をしてしまった。どうも私の存在は妖精には不愉快だったようだ。そのことを同行した彼に言うと、「そんなことはない」と言ってくれたが、本心はどうだったのであろうか。妖精達にとって招かれざる客であったことを自覚させられたことは、正直、傷ついた。その後は、光の精がいると妖精地図に描かれた丘に行き、また、その地霊を感じて感動するも、足の疼きが酷いのでホテルに戻ってもらい、そこでお礼を述べて、彼とは別れた。
 妖精が見られた彼と、妖精に拒絶された私。あの場所に再び訪れたい気持ちもするが、次の仕打ちは捻挫どころでもないような気がして、びびっている私もいる。あの場所に受け入れられるような人間になりたいと思うと同時に、どこで道を間違えたのかと悲しく感じてもいる。
 とはいえ、それを含めて、今回、アイスランドに来て、あの公園を体験できたことは素晴らしいことであった。16年前のあの日を覚えていてくれ、私を特別な場所に連れて行ってくれたグンナーさんには感謝の気持ちしかない。

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